fellow 9



















 呼気に膨らんだ肺が戦慄いた。明らかに肋骨がイカれいている。背後から殴りつけられた後頭部に鈍痛が走った。
 コンクリートの床に這わせた背中が冷たい。爪を立てた指先は余計に痛んだ。



 夕方になって宇野から入った連絡によれば、使われていないはずの山荘に明かりが灯っているとのことだった。
 それに向かわない坂井ではない。言われるままに飛び出し、まだ冷え切らずに身を震わせていたバイクは喜んで坂
井を囃し立てた。
 宇野には待てといわれた言葉は既に記憶の彼方だ。後のフォローのことなど思い至らなかった。応援を待つ気は
元々ない。
 速やかにエンジンを回転させるバイクの上で、坂井は嫌な予感に囚われ、またそれは以前感じたことのあるものだと
素直に認めないわけにはいかなかった。





 そうして駆けつけた先は、案の定ビンゴだった。





坂井は痛みの這い上がってくる場所を僅かに体を動かすことで確認しながら、細く浅く息を吐いた。その度にじんわりと
痛みが湧き上がり、しかしどうやら手足には打撲があるものの骨まで至っていないことが知れ、ほっと肩を緩ませた。
 先走り、平静を欠いていたと認めないわけにはいかなかった。背後の気配に気づかなかったなどと、言い訳にもなら
ない。
 まったく重要な時に限ってこんなものかと舌打ちした。
 そこでふと、微かな音を聞き分け、真っ暗な室内に耳をそばだてる。暗闇のどこかから響いてくるその音は、やがて
微かなメロディーに姿を変えた。
 手足を縛られ、意識を失ったふりをした坂井を、数人の男たちは手荒く山小屋の一室に放り入れたのだが、どうやら
室内の冷え具合や窓の有無から見てもそこが地下室であると考えるのが妥当だった。
 お陰で防音に優れいていて、外の気配を察することも困難だ。そんな状況であるから、微かなりとも耳に入るのであ
れば、それは同じ室内からであると予想できる。
 坂井はどうにか目を凝らし、闇に慣れ始めた目で一心に辺りを見回した。
 全く明かりの灯されていない室内といえど、どうにか目の効き始めた網膜に、薄っすらと物の輪郭が見え始める。
 部屋は狭く、四畳半がいいところの広さにいくつか柱が垂直に立っている。隅の方には何か白っぽい布をかけたもの
がごたごたと積んであり、どうやらそのメロディーがその手前から発せられているのが見て取れた。
 途切れ途切れのメロディーがやがてラインを描き、しっかりとした鼻歌に変わった時、坂井は干上がって上手く開かな
い唇を何度か舐め、思わず安堵の溜息を吐いていた。
「・・・下村か」
 メロディーが止まる。僅かな衣擦れの音がコンクリートの壁に乱反射し、呼吸がすぐ耳元で繰り返されるような錯覚を
覚える。
「・・・奇遇だな」
 ひゅうっと風を含んだ声だった。
 状態があまり良くない。
 咄嗟に坂井は思った。
「け、怪我は」
「たいした事はない。お前は随分やられたろう」
 投げ入れられる瞬間に、光を浴びた姿を見たのだろうか。先ほどより幾分はっきりとした下村の口調に吐息を漏ら
し、しかしどう考えても無事では済んでいないだろうと坂井はごくりと唾を飲み込んだ。
「縛られてなければ、今すぐにダンスだって踊れるぜ」
 仰向けのままの体を起こし、強がりと分かっていても坂井はそう嘯いた。下村の状態は声だけでは判断できず、不安
は大きい。しかし思ったよりもしっかりとした語調に幾分か心が静まり、どうにか無様な様だけは見せずに済んだと壁に
体をもたせかけて坂井は喉の奥から引き絞ったような笑いを漏らした。その笑い声に下村はひゅうっと口笛を鳴らし
た。
「余裕だな。俺と社交ダンスでも踊るか?」
「お前に足を踏まれるのはごめんだぜ」
 聞く限りでは軽口を叩く下村の息に乱れはない。坂井の方も痛みに大分慣れ、息も整い申し分なかった。
 背中で一まとめにされた腕が痛んで思わず小さく声を上げると、下村が少し距離を詰めるのが分かった。
「両方か?」
「ああ。こいつをどうにかしないと・・・」
 足首にぐるぐると巻かれたガムテープは、力を込めたところで僅かに形を変えて伸びるだけで切れる気配はいっこう
にない。闇に目が慣れたといっても回りに何があるかまでは分からず、果たして使えるものがあるのかも分からなかっ
た。
「これを使うといい」
 思わぬ近さで下村の声を聞き、坂井は驚いて見えるはずもない目を上げた。
 目の前で白い何かが動いているのが分かる。微かに空気を伝って体温を感じ、途端に高ぶった感情が漏れないよ
う、唇をかみ締めなければならなかった。
 無事だった。間に合った。
 嗚咽はどうにか、堪えることが出来た。
 白い塊は坂井の足に触れ、すぐに足首の圧迫は消え失せ、自由になった。
「ほら、体を起こせ。腕も切る」
 傾けた途端に肋骨が悲鳴を上げたが、今はそれどころではない。死ねば痛いも何も関係なくなるのだ。それ以上に
何かが喉元まで詰まって、暫し痛みはどうでも良くなっていた。
 どうにか白い影に向かって背中の腕を曝す。手首にヒタリと冷たい感触が当たった。
「おい、腕まで一緒に落とすなよ」
「二本あるんだ、気にするな」
「・・・大雑把な野郎だぜ」
 ふふ、と下村が吐息で笑う。言葉とは裏腹に、そっと慎重な動きで段々と拘束が解けていく。ほっとし、息を詰めて痛
みをやり過ごしながら、坂井は漸く自由になった両手を見えない目の前に翳した。
「サンキュ。これでやりやすくなったぜ」
「ダンスがか?」
「口の減らねぇ野郎だぜ」
 すぐ近くで笑う気配がする。当てずっぽうに伸ばした手の先に硬い感触があり、どうやら肩に触れたのが分かった。
「・・・無事だったか」
 手のひらに感じる体温に、知らず深い吐息が漏れた。触れたままの手を滑らせ腕を辿ると、暖かい手の甲へ至る。そ
れでどうやら右腕であることが分かった。
「手ぇ、繋ぎたいのか」
「ダンスをしたいんだよ」
 悔し紛れに言いながら、坂井は手を離したが、すぐに下村の手が追いかけてきた。
「これは、お前が持っていろ」
 冷たい感触が指先に触れる。すぐにナイフだと分かった。
「どうやって隠してたんだ」
「恥かしいこと聞くなよ」
「・・・アホか」
 何を言っているのだと呆れながらそれを受け取り、壁に手をつき立ちがる。室内の状況を把握しておきたかったから
だ。
「・・・連中、どうやら銃は持っていないようだ」
 ぼんやりと闇の中で浮かび上がる白い影を背後に、壁伝いに歩き回る。姿の見えない声は、耳元で囁かれているよ
うであり、酷く遠くから叫ばれているようにも聞こえる。そのなんともいえない不自然さに辟易とし、しかしそうではなく、も
しかして自分の耳がおかしいだけなのかと思ってしまう位に下村の声は平素の様に淡々と続いた。
「人数は俺が見ただけで6人。3人は暴力専門、後の3人は交渉役と、依頼人とのパイプ役だろう」
「常駐は」
「2人」
「エモノは」
「ナイフ。拳闘。ウエイトがかなりある」
「2人に2人とは、随分甘く見られたもんだな」
 ぐるりと一回り終え、元の位置と思われる場所に腰を降ろした。痛みは既に熱さに変わっている。放っておけばやが
て発熱し、動きが鈍くなるのは必至だった。次にあの扉が開いた時が最初で最後のチャンスと思って間違いない。
「・・・坂井」
「なんだ」
 間をおいて相手の位置を確かめるためなのか、下村が腕を掴んできた。そのまま手のひらは喉元へ移動し、そのま
ま胸元を巡ってわき腹に至った。
 坂井は僅かに息を飲んだ。
「肋骨やったな」
「たいしたことねぇよ」
「肺に刺さるぜ」
 下村の言いたいことは良く分かる。肋骨は骨折自体よりも、その切っ先が内臓を傷つけることをまず恐れなくてはなら
ない。実際肋骨の骨折は特に治療法などなく、固定する程度のことしか出来ない。
 坂井は大きく息を吐いた。
「血ぃ吐いてるわけでもない。刺さってねぇよ」
「動けば、刺さる」
 ぐっと僅かに下村の手に力が篭る。途端に坂井は呻いて蹲った。
「てめぇ・・・下村っ何しやがる」
「お前は大人しく死んだふりでもしてろ」
「ああ?」
「その方が都合がいい」
 それきり、下村は手を引いて気配を遠ざけた。元居た場所に戻ったらしい。坂井は無意識に気配を追って目を凝らし
た。
「どちらにしろあいつらはここへ来る。お前か、俺かは分からんが、始末するためにそこの扉を開くだろう。気を失った
ふりをしていろ。ガムテープはもう一度巻ける様に切ってある。いいか。タイミングを逃すな。俺が扉の向こう側にあい
つらを押し返したら、それからお前は動くんだ」
「おい、一寸待てよ。何勝手なこと――」
「来るぞ」
 言葉を遮られるのと同時に足音が扉の向こうから聞こえてきた。
 地下室であることは間違いない。階段を降りる足音は、やけに篭って聞こえた。
 足音は、2つ。後は上に誰も居ないことを祈るのみ、か。
 手早く足と手にガムテープを巻きなおし、出来るだけばれないような恰好で蹲る。殴っていれば肋骨がやられているこ
とくらいは分かっているだろう。痛みに気を失っていると思わせるのは簡単だった。
 しかしそれよりも今は、下村の状態が気にかかって仕方がない。
 呼吸にも語調にも、会話にも乱れはない。それが返って坂井の不安をよけいに煽っていた。

 左手さえも、平気な顔をして置いてきた男。

 不意に過ぎったセリフに、坂井はゾッと背筋を凍らせた。
「いい子にしてろよ」
 それでも穏やかな下村の声に、坂井は目を閉じた。






















2003/02/14










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