[ 塵を踏むもの01雑感 ]

2012年1月27日追記:
東京創元社から2011年12月22日に出版された、大瀧啓裕氏訳の「アヴェロワーニュ妖魅浪漫譚」に、"The Treader of the Dust"の翻訳「塵埃を踏み歩くもの」が収録されています。こちらは言うまでもなくプロフェッショナルの手による全訳ですし、他にも「アフォーゴモンの鎖」「イルゥルニュ城の巨像」等、スミスの素晴らしい作品の数々を読む事が出来ます。
ちなみに、大瀧氏の訳では"Quachil Uttaus"は「クアキル・ウッタウス」という読みになっています。

要約者前書き


塵を踏むもの(要約)

"The Treader of the Dust"

クラーク・アシュトン・スミス

……いにしえの魔術師達は彼のものを知っており、クァチル・ウタウスという名で呼んでいた。彼のものの顕現する事はまれである。何故なら彼のものが棲むのは最果ての領域、時空間を外れた昏き辺獄だからである。思考の内を除いては言葉にされなくとも、彼のものを呼び寄せる文言は恐ろしい。何故ならクァチル・ウタウスこそは窮極の腐敗であるが故に。彼のものの到来の一瞬は、膨大な時間の経過に似ている。肉も石も彼のものの歩みに耐え得る事はなく、万物は彼のものの下で崩壊し塵と化すのである。これ故、彼のものは「塵を踏むもの」とも呼ばれていた。

――カルナマゴスの誓約

 隠秘学の研究家であるジョン・セバスチャンが自分の隠棲していた屋敷へと帰還したのは、得体の知れない恐怖に駆られて慌ただしくそこを出立してから三日後の事だった。自分を屋敷から逃亡させる事になった不気味な諸現象の真なる原因は、完全に解明される事は永遠にないだろうが、単に精神過敏のせいで本来自然のものである現象を錯覚してしまった事にあるのだと、今の彼は自分を納得させようとしていた。

新しく購入したばかりの筆記帳が突然黄変し、その用紙の端がボロボロになったのは、実は紙が不良品だったからに違いない。そしてそこに記入されていた項目がほとんど一夜にして、まるで年月を経た書き込みのように奇妙に退色していたのも、明らかにインクに含まれていた安物で欠陥のある薬品のせいだった。数点の家具や屋敷の一部において明らかになった、すり切れたりもろくなったり虫食いになったりといった老朽化は、昏くしかし興味深い研究に黙々とふけっている間、彼の気づかぬうちに進行していた密かな崩壊が、突然露わになったに過ぎない。彼の早期老化を誘発したのも同様に、監禁と苦役に耐え不屈の年月を過ごした研究生活である。そのため、逃亡したあの日の朝、鏡の方を振り返った際に、あたかもその中に萎びたミイラが出現したかのように見えて驚き衝撃を受けたのだ。彼の従者のティマーズについては――なるほど、彼の記憶にあるティマーズは既に年老いていた。最近のティマーズがあまりにも極端に老衰し、死を介する事なく今すぐにも墓所における腐敗を起こしそうに見えたのは、だだ自分の病んだ神経過敏によって誇張されていただけなのだ。

 帰途においてセバスチャンは、逃亡の直前まで研究中だった書物「カルナマゴスの誓約」の事を考えていた。その中には人知の及ばぬ狂気じみた伝承、忘れ去られし魔道の体系が記されており、はるかな太古に妖術師達が呼び起こした恐怖を、彼は異様な驚愕と共に研究していたのだった。自分の陥った不安と恐怖を、この書物と関係なく説明する事は出来ない……そのような確信を抱きつつ、彼は日没近くに屋敷へと帰り着いた。

 ところが、セバスチャンが駆け上がろうとした玄関の階段には何故か見知らぬ摩耗の痕跡があり、彼が近づくにつれて、屋敷自体も基礎部分が沈下し斜めに傾いているように見えた。彼は、黄昏がそれらのような幻影を見せているのだと自らに言い聞かせた。そして近ごろ特に暗闇を嫌うようになった彼のために日没が近づくといつも屋敷の灯りを点けていたティマーズが、今日はそのつとめを果たしていないという事にいらだちつつ、広間へと入っていった。

 手探りで電灯のスイッチを見つける間、夕焼けのかすかな光を拒んで広間を包み込んでいる奇妙な闇にセバスチャンは動揺していた。

彼は何も見る事が出来なかった。あたかも死せる時間から成る闇夜が広間を満たしているかのようだった。手探りしつつ立っている間、彼の鼻孔は、長い年月を経た塵が放つような乾いた辛辣な臭い、長い間に粉状に腐食して混ざり合い判別不可能になっている棺と死体のような臭いに激しく責め立てられていた。

 ついにスイッチを見つけたセバスチャンは電灯を点けたが、その光は何故か薄暗く、回路が故障しているかのように時折ちらついた。広間を見渡した彼は、見たところ家自体は自分が逃亡した時と何も変わっていない事を確認した。腐って穴だらけになり踏み抜きかねないオーク材の羽目板や、モスグリーンのぼろ布と化したじゅうたんを目にする事を、無意識のうちに恐れていたのだ。しかし、いつもは彼が帰宅するとすぐに現れるティマーズは、何故かいっこうに姿を現さなかった。セバスチャンは彼の寝室を調べてみたが、その姿は見あたらない。ティマーズはおそらく用事で近隣の村に出かけているのだろうと彼は考え、屋敷をさらに調査するために自分の書斎へと向かった。

 書斎は一見、セバスチャンが慌ただしく出発した時と何も変わっていないかのようだった。原稿や書物が高く積み上げられた書き物机も、悪魔主義や召霊術、妖術、正統から外れた科学に関する奇怪で恐ろしい専門書がたくさん収められた本棚も、そのままの状態である。

重い大冊を読むために使用する古びた書見台の上には、そのシャグリーン革の表紙に人骨の留め金のついた「カルナマゴスの誓約」が、気味の悪いほのめかしで彼を訳も分からぬまま恐怖させた、まさにそのページを開いて乗っていた。

 しかし机と書見台との間に立った時、それらの全てが不可解なほど塵にまみれている事に、セバスチャンは初めて気づいた。

死せる原子の砕片のような灰色の細かい塵が、いたるところに積もっていた。それは彼の原稿を分厚い膜で覆い、椅子やランプの傘や書物の上に厚く積み重なっている。東洋もののじゅうたんのケシ色に似た深紅色と黄色は、積もった塵によって薄暗い色になっていた。

 つい三日前に掃除され、彼の留守中もティマーズによって丹念にほこりを払われていたはずの部屋が、まるで数年の間うち捨てられていたかのような状態になっているという謎めいた事実は、セバスチャンに寒気を催させていた。部屋の中の塵が舞い上がるとともに、広間で嗅いだのと同じ臭い、長い年月の間に朽ちた物質の放つ乾いた臭いが彼の鼻孔を満たした。同時に彼は、冷たく強いすきま風がどこからともなく部屋の中に入ってきている事に気づいた。だが窓はいずれも閉められた上によろい戸まで降ろされているし、書斎の扉も閉まっている。

すきま風は亡霊の溜息のように軽やかなものだったが、それが吹き抜けた場所はどこでも、重さのない細片が空中に舞い上がり、空気を満たし、最大限の緩慢さで再び沈下していった。セバスチャンは不気味な警告を感じていた。それはあたかも地図にない次元から、あるいは廃墟の隠れた割れ目を通り抜けて、彼に向けて吹きつけられている風のようだった。それと同時に、彼は長い間激しいせきの発作に襲われた。

 結局、すきま風の出所はセバスチャンにはわからなかった。

しかし、落ち着きなく動き回っていた時、彼の眼は机の陰に隠れていた低くて横長い灰色の塵の山をとらえた。それは、彼が書きものをする時にいつも座っている椅子の横にあった。その堆積物のそばには、ティマーズが日々の掃除の際に使っている羽ぼうきが落ちていた。

 強烈な悪寒に全身を蝕まれて動く事も出来ず、セバスチャンは説明し難い塵の山を見下ろしながら数分の間その場に立ちつくしていた。

その塵の山の中央に、輪郭のあいまいなくぼみがついているのを彼は見た。塵を巻き上げ部屋中にばらまいてしまったすきま風によって半ば消えかかっているものの、それは以前は小さな足跡であったかのようだった。

 やがて身体を動かす気力が戻ってきたセバスチャンは、その羽ぼうきを拾おうとかがみ込んだ。しかし彼の指が触れたとたん、羽ぼうきは持ち手も羽の部分も粉々に崩れ去り、元の輪郭をあいまいに残した低い塵の山になってしまった。計り知れない老齢と死すべき運命を両肩の上に一度に乗せられたかのように感じ、彼は目がくらみ力が抜けて、近くの椅子に座り込もうとした。だがその椅子も、彼が触れると一瞬で軽い塵の雲と化して床へと落ちていった。

 気がつくと、いつの間にかセバスチャンは「カルナマゴスの誓約」の置いてある書見台の前の椅子にぼんやりと座っていた。何故かその椅子は崩壊する事がなかった。自分が今や極度に年老い、疲れ果て、衰弱してしまったかのように感じていた彼にとっては、もはや破滅の運命さえも重大なものではないように思われた。彼は恐怖と昏迷にとらわれたまま、かつて彼を逃亡の旅へと駆り立てた文章を眼で追っていた。

邪悪な賢者にして予言者だったカルナマゴスの記したこの書物は、今から千年ほど前に古代ギリシャ王国時代のバクトリア人の墓から回収され、夢魔との間に産み落とされた怪物の血を使って、背教者の修道僧によって当時のギリシャ語に翻訳された。この書には古代の偉大なる妖術師達の年代記、地球や外宇宙の魔神達の歴史、そして魔神達を召還し支配し退去させる事の出来る本物の呪文が書かれている。この種の伝承に関して深遠な知識を持つ研究家であったセバスチャンは、この書物は単なる中世の伝説上の存在であると長い間信じていた。それ故、古い写本や初期版本の並ぶ業者の本棚にこの書の写本を発見した時は驚くとともに喜んだのだった。この書の写本は今までにたった二冊しか存在しておらず、そしてもう一冊の方は十三世紀の初めにスペインの異端審問において破棄されてしまったと言われている。

 不吉な翼が時折横切り影を落としているかのようにちらつく照明の下で、セバスチャンは死の運命をもたらす不吉な文章を、昏き恐怖を呼び起こす事になる文章を、涙ににじむ目で再び読んでいた。

クァチル・ウタウスの到来は稀少な事であるにもかかわらず、彼が必ずしも読み上げられたルーンと描かれた魔法陣に呼応して降臨するとは限らない、という事は明確に証明されている……実際には、そのような破滅をもたらす精霊に呼びかける魔術師はほとんどいない……しかし、以下に挙げた呪文を自室で静寂のうちに読誦する者は、ほんの些細なものであっても己が心の内に死や消滅への欲求を顕然とあるいは隠然と持つ場合、憂慮すべき危険を冒さなければならなくなるという事を心せよ。何故ならその者に触れる事で、その肉体を永劫の塵と、そして魂を永久に溶解する蒸気と化すという破滅の運命を与えるために、クァチル・ウタウスがその者のもとを訪れるであろうから。クァチル・ウタウスの降臨は特定の徴候によって予知する事が出来る。召還者やおそらくはその者の周囲にさえも現れる、突然の老化という形で。その者の住処や、その者が触れた事のある所有物も、早すぎる腐敗と老朽の御印を帯びるであろう……」

 セバスチャンは、自分がその文章とそれに続く恐るべき呪文を半ば声に出してつぶやいているという事に気づいていなかった。彼の頭は今、ティマーズは村に出かけているのではないという、おぼろげながらも恐ろしい確信で占められていた。彼は屋敷をあとにする前に、ティマーズに警告を与え、「カルナマゴスの誓約」を閉じて表紙に鍵を掛けておくべきだったのだ。学があり、自分の主人の研究に好奇心を持っていたティマーズは、「カルナマゴスの誓約」を記しているギリシャ語を正しく読む事が出来たのである。窮極の腐敗の魔神であるクァチル・ウタウスを外界の虚無より招来する恐ろしい術式さえも……。

 部屋が廃墟と化した原因、灰色の塵の由来を、彼は今やはっきりと理解していた。そして彼の身体が、逃亡の衝動に再び従う事を拒絶する理由も。破滅の運命を告げる徴候が、既に彼の上に現れていたのだ。だがしかし、死と破滅に対する熱望など、セバスチャンの心の中にはほんの少しもありはしなかったはずなのだが。彼はただ、この定命の世界を取り巻いている昏き秘密を、徹底的に探求する事を望んでいただけだったのに。それに、邪悪な霊や魂を永遠に破滅させてしまうもの等の実在を知っていた彼は、常に慎重であり、そのような存在を召還する事は決して試みなかったのだ。少なくとも自分自身の意志では……。

 まるで一呼吸する間に五年十年と年老いていくかのように、無気力と衰弱がますます増大していった。セバスチャンは、屋敷のどこかで木材か何かが崩れ落ちるような音を感覚の鈍った耳で聞き、部屋の照明が揺らめき消えてしまうのを老人のようにかすんだ眼で見ていた。地下墓地にも似たその夜の闇の中で、あの謎めいた冷たいすきま風が微弱ながらも再び感じられるようになり、塵が舞い上がって彼の鼻孔に入り込んだ。その時、彼は部屋の中が全くの暗闇ではない事に気づいた……。

多大な努力を要して持ち上げられた彼の眼は初めて、部屋の外壁に起伏のある不規則な裂け目ができているのを見つけた。それを通して、大宇宙の深淵を射抜いてにらみつける魔神の眼のように冷たく隔たった星が一つ、部屋の中へと光を放っていた。

その星から――あるいは、その星の向こう側の宇宙から――青ざめた鉛色に輝く死の光条が、槍のようにセバスチャンへと投げつけられていた。幅広いその光条はそれる事も揺らぐ事もなく、彼の身体をまさしく貫き通しており、想像を絶する暗黒の世界と彼との間に橋を形作っているかのように思われた。

彼はまるでゴルゴンの凝視によって石と化したかのようであった。それから廃墟の開口部を通して、何か硬直したものが光条に沿って素早く滑り降り、部屋の中の彼に向かってやって来た。それが部屋に入る時、壁は崩れ落ち、裂け目は広がったかのように見えた。

それは子どもぐらいの大きさだったが、千年を経たミイラのように萎び、しわが寄っていた。骸骨のようにやせた首の上にのっている、頭髪のない頭や目鼻のない顔には、網目状のしわが無数に走り拡がっている。その醜怪な身体は、一度も呼吸する事なく流産した胎児の萎縮した姿に似ていた。先端が骨のようなかぎ爪になっている管状の両腕がそこから、まるで恐ろしい手探りの姿勢で永久に硬直してしまったかのように突き出ている。そして、小さな死体のものに似た足先を持つ両脚は、あたかも棺に押し込められているかのように密着したままそろって伸び、微動だにせずいかなる歩みを見せる事もなかった。この恐ろしきものは、直立の姿勢で硬直したまま青灰色の死の光条の中に浮かび、セバスチャンの方へと素早く降りてきた。

今やそれは彼の間近に迫り、その頭は彼の額と同じ高さにあり、その足は彼の胸に向かい合っていた。過ぎゆく一瞬の間に彼は、恐ろしきものがその突き出された手と浮遊する硬直した足で自分に触れた事を知った。それは彼を同化吸収し、彼の存在と一体化するかのようだった。彼は自分の血管が塵でつまり、脳細胞が一つずつ崩壊していくのを感じた。彼はもはやジョン・セバスチャンではなく、星々の間を吹き抜ける計り知れぬ風に吹きやられて渦巻きながら暗黒へと墜ちていく、死せる星々と数多の世界から成る宇宙だった……

太古の魔術師達がクァチル・ウタウスと呼んだものは去り、夜と星の光が廃墟のような部屋に戻ってきた。しかし、セバスチャンの姿はどこにもなかった。ただ、書見台の横の床に、小さな片足の足跡……あるいはぴたりとそろえて押しつけられた両足の足跡に似た、輪郭のあいまいなくぼみの残る、低い塵の山があるだけだった。

[ 塵を踏むもの:01雑感 ]

△Return to Top

「塵を踏むもの」雑感へ
▲Return to Index▲