戦国ロマンの旅 長篠・設楽原

愛知県新城市・鳳来町

戦国最強の武田騎馬軍団徳川・織田の鉄砲隊により壊滅した古戦場。天正
3年(1575)のことであり、日本に鉄砲時代を位置づけた有名な合戦だ。3段
構えの足軽鉄砲隊が並ぶ、教科書でお馴染みの合戦屏風も浮かんでくる。
 信玄亡き後、二代目の武田勝頼は京都への足がかりである三河国(愛知県)
への進撃を始めた。3年前に、浜松の三方ケ原で武田信玄に大敗している徳川・
織田の連合軍は、織田信長自慢の数千挺の火縄銃を装備して武田の騎馬軍団
を迎え撃った。

秋の連休、夏のように暑い日に長篠へドライブした。東名高速の浜松で下り、国道
257号を山間部へ向かって1時間もドライブすると歴史の舞台である長篠に到着。
長篠・設楽原の古戦場は、長篠城跡が愛知県鳳来町、設楽原の決戦場が新城市
に位置する。戦場は広域だが、鉄砲隊が並んでいた決戦場は山間のあまりにも
狭いエリアであるためびっくりした。最強の騎馬軍団といえども不利な地形で、馬場
信春、山県昌景、内藤昌豊などの武田家重臣が決戦に反対した理由も深く頷ける。
二代目勝頼と若手側近に対し信玄時代からのベテラン重臣と確執があったのかも
しれない。新田次郎「武田勝頼」を読み返してみよう・・・・。

設楽原の決戦場

鉄砲隊がずらりと並んだ馬防柵が復元されている。狭いエリアで武田
の騎馬軍団は前に進めず、3千挺ともいわれる火縄銃に狙い撃ちされ
た。黒澤映画のシーンにも描かれた悲惨な場面が想いだされた。

8年ぐらい前に、岐阜県の関が原を
訪れた時にも、古戦場の彼岸花が
とても綺麗だった。
 騎馬軍団が壊滅した辺りの田圃
では農家の人たちが忙しそうに稲刈
りをしていた。

長篠の合戦には、織田信長、羽柴秀吉、
徳川家康をはじめ、蒲生氏郷、佐久間
信盛、前田利家・・・・と戦国のスターが
参加している。戦国フアンにはたまらない
史跡だ。

設楽原で武田家のために討ち死にし
馬場信春、山県昌景らの重臣のこ
とを思うと、新田次郎の小説や大河
ドラマでお馴染みだけに、切ない気分
になった・・・・。土屋昌次も馬防柵の直
前で戦死し、弟昌恒は長篠で生きながら
えた後に天目山で武田勝頼と運命を供に
する。土屋兄弟の忠節は徳川家康も感服
し、子孫は徳川幕府の中枢に取り立てら
れる。土浦藩土屋家9万5千石の異例の
家柄として明治まで続く。
 他に真田家(松代藩10万石)、彦根の
井伊家家臣、八王子千人同心、旗本・・・
と武田家の部門は脈々と続いた。

武田軍が陣を敷いた信玄台には、内容充実の立派な歴史
資料館がある。じっくり見学すれば戦国の歴史ロマンに浸る
ことができる。火縄銃のコレクションの多さにもびっくりした。

長篠城跡

長篠の合戦で忘れられないエピソードが
鳥居強右衛門(すねえもん)の磔だ。
「援軍はもうすぐ来るぞ、頑張ってくれ!」
と言って磔になった強右衛門は、戦国の
剛勇武者の代表。
 長篠・設楽原はドラマの宝庫であり、散策
していても充分に楽しめる。


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歴史・物語の舞台を歩く
豊橋市レトロ歩き

城跡の史跡保存館

長篠城を守りぬいた奥田信昌は軍功
により徳川家康の娘を夫人とした。
奥平家は後に豊前(大分県)中津藩
10万石で明治を迎え、幕末には中津
藩から福沢諭吉が出ている。

真田の城下町松代