神奈川県の西部に位置する小田原から温泉で有名な箱根へドライブする時、
箱根湯本の登り口でいつも左手の山に眼が向く。豊臣秀吉の天下統一の総
仕上げである小田原北条氏攻めの時の石垣山一夜城跡だ。
小田原市街から箱根方面、湯河原伊豆方面へ走る途中「石垣山」「一夜城」
の看板がある。城跡まで車で登ることもできるが、麓から徒歩で登るのがいい。
みかん畑の坂道を歩き、振り返ると相模湾の青い海の絶景に感動する。そして、
眼下には緑の森に囲まれた小田原城と城下町がパノラマ状に見渡せる。秀吉は
つくづく絶好のポジションに本陣を構えたもので、しかも天守閣と石垣を持つ城郭
を造るなんて天下人らしい発想だ。
天正15年(1590)の春から夏にかけて、秀吉15万の大軍勢が滞在する小田原
は天下の中心であり歴史の大舞台だった。日本中の眼が小田原に釘付けになって
いた。
石垣山城で、秀吉は気長な兵糧攻め長期戦を決め込み、連日、小田原城を眼下に
茶会や能と遊興にふけっていた。戦場であるにもかかわらず、側室の淀君、茶人の
千利休を呼び寄せ、天下人と莫大な財力の余裕を見せ付けていた。
現在でも石垣が残る城跡公園を歩いていると、400年の時を経ても秀吉の野望を
ひしひしと感じることができる。徳川家康が関東への異動を命じられ、伊達政宗が白
装束で秀吉にひれ伏した歴史舞台だ。「利家とまつ」の前田利家も石垣山城を歩いて
いた。
大河ドラマにも登場したためか、城跡公園には人が多かった。広大な公園からは
相模湾が絶景で、冬の夜など小田原の夜景が美しく秀吉の歴史ロマンに浸りま
しょう・・・・。
神奈川県小田原市
城跡公園への坂道には、石垣山に参陣した武将のプロフィールが説明してあります。
思えば、東京が日本の首都になったのも、ここ石垣山城で秀吉が家康に江戸に移る
ことを命令したためで、鄙びた町であった江戸は徳川家康が江戸城(現在の皇居)を
造ることで100万都市へと急変貌した。
小田原攻めの舞台