第2章§でっかい海へちいさな旅立ち

6.船出の前に

「さあて、そうと決まったら、すぐに出発しようぜ!」
意気込むガンバに、ベアー達は落ち着いた顔をしていた。
「何だよ、どうしたんだよ?」
怪訝そうなガンバに、リッキーが
「出発するってもよ、泳いで行く気か?」
「……?」
「鈍いなあ…要は、船がないってことだよ!」
「えっ?」
「例の場所に向かうのに最も都合の良い船は、5日後の夕方にならないと出港しないんだよ。それまで、ここに足止めさ」
リッキーが、ちょっと肩をすくめて言った。
「じ…じゃあ、別の船は!?」
「おまえも、諦めが悪いな…ねえことはねえがよ、遠回りだしちょっと危険なルートを通る船だからな」
ベアーの言葉にガンバは
「何だい、海は冒険の場じゃなかったのかよ?」
不満交じりに皮肉を決め込んだ。しかし、ベアーは
「確かに、ガンバの言う通りだ。だがな、冒険ってのはただ闇雲に立ち向かって行きゃいい、ってもんじゃねぇんだ。海の上はな…まあ、おまえにここで
 いちいち説明しても分からねぇだろうが、何が起こるか予想がつかねえ。カンと経験で何とかなる、ってもんでもねぇんだ」
ジッと目を見ながら、一語一語説明するように言われて、ガンバは黙って聞いていた。
「俺たちは、これから山猫の大群を相手に闘おうってんだ。ただ、大海原を当てもなく進んで行こうってんじゃねえ。そうだろう?だから、ここは海での危険は
 なるべく避けておきたいんだよ」
「…わ、分かったよ」
ガンバには、ベアーの言う『海での危険』の意味が、十分に理解できてはいなかったが、今ここでベアーと言い争うのを止めにした。
“これ以上に口出すと、ぶん殴られそうだもんな…”

そうは言っても、港の片隅で足止めされるのは、いろいろな意味で退屈なことだった。
顔見知りはいない、勝手が分からない、することもない…寝てばかりいたボーボですら、一日半で音を上げた。
「退屈だね…」
「それを言うなよ。まだ、3日はここにいなきゃならないんだぜ」
ガンバは、壁に背をもたれて座っていた。斜め下を見て、呟くような返事にはいつもの威勢は感じられなかった。
「……」
ボーボは、そんなガンバにますますシュンとなり、ガンバも似合わないため息をしきりにつく。
「…どこいくの?」
ゆっくり立ち上がったガンバに、ボーボが心細い声で聞く。
「別に…ちょっとその辺、ぶらついてくるだけさ。ボーボは?」
「おいらは…いいよ」
日も当たらない場所だが、ネコや人間に見つかりにくい場所と聞いていたので、ボーボは無理に動きたがらなかった。
「…分かった」
ガンバには、ボーボの返事が想像できていたから、そのままプイと出て行った。
「……」
勝手の違う町の雰囲気、会う顔会う顔みんな『誰だ、おまえ?』と言っている。ガンバは、腹の中で呟いていた。
“今ごろ、俺のことがリーダー格に、伝わってるだろうな…”
町ネズミも、ヨソ者には敏感だ。見知らぬ顔がうろついていると、情報は素早くアカハナ達リーダーに伝達される。
リーダーは、そいつが敵対するのか好意的なのか判断し、時に仲間を集めて排除する。あるいは誰かに、面倒を見させる。
でも、誰も出てこないので、ガンバは適当に港町をうろついて帰るつもりでいた。
「……!」
とうとう…と言うか、ガンバの前に立ちはだかる影が現われた。
“…港ネズミ、みてぇだな?”
ガンバは後ろに気配を感じたものの、当然と感じていたので、斜め後ろをチラリと見ただけだった。
「何か、俺に用かい?」


「おい、どうしたんだ!?」
シャドーに肩を貸してもらっていたガンバは、怪我をして血を流していた。
「どうやら、チンピラ連中にやられたらしい。とにかく、手当てを」
シャドーの言葉に、ベアーとリッキーが手際良く傷の手当てをした。
「ガンバ…大丈夫?」
心配そうなボーボに、ガンバは笑って見せた。しかし、その笑顔も傷の痛みで歪むのを見て、ボーボの顔は晴れなかった。
「まあ、慌てるほどの怪我でなくて良かったぜ」
「……」
ガンバは、リッキーにちょっと笑って見せた。
「ところで…」
ベアーは、ガンバの両手を軽く持ち上げ、何箇所か触ってみた。
「…約束は、守ったぜ?」
ガンバは、小さな声で言った。ベアーは、口元にニヤッと笑いを浮かべると
「バッカ野郎…」
そう言うと、ふと立って表へ出て行った。
「そういうことかい…」
リッキーもニヤリと笑って、シャドーを見た。
「ああ…ここでガンバがイザコザを起こしたんでは、俺らにとってもシャレにならないからな」
ガンバは、ベアーに言われていた。
『船出までの間、あまり表をウロウロしない方がいいぜ。この辺の連中と、ケンカ騒ぎを起こしたら、厄介なことになる。おまえのことだ、ケンカを売られて
 黙っている奴とも思えねぇ。まして、おまえからケンカを売るような真似をされちゃ…いいか、絶対に港ネズミとも船乗りネズミとも、ケンカをするなよ』
ガンバは、黙ってうなずいた。
「しかし、おめぇも根性あるって言うか、馬鹿正直って言うか…あそこまでボコボコにされてんのに、抵抗しないなんてよ」
シャドーの言葉に、ガンバは怒りもせず
「…あんな奴ら、殴る価値もねぇ」
「だな!」
リッキーが、思わず大きな声をあげた。ガンバは、ちょっと笑って見せて、シャドーもつられるように笑った。


「おめぇ、ガンバとか言ったな?」
腰に両手を当てたまま、冷めた目で見る相手に、ガンバは努めて冷静に
「…ああ」
「町ネズミだって、言うじゃねぇか?」
相手の口調は、ますます挑発の色を濃くしてきた。ガンバは『それがどうした!?』と怒鳴りつけたいのを、堪えていた。
「…あ、ああ」
「おいおい、ものを聞かれてああ、はねぇんじゃないか?」
突然、後ろにいたネズミが、ガンバの頭を指で押した。思わず、ガンバが振り向くと
「何だ?何か、文句でもあるのか?」
相手は、ベアーほどではないががっちりした体格だ。
「…ないよ」
ガンバは、視線を逸らしながら答えた。
「何だぁ?こういう時こそ、お返事は『ああ』じゃねぇのかよっ!」
相手は、グイッとガンバの胸ぐらをつかんだ。いつものガンバなら、戦闘開始だが…
「…放せよ」
相手は、怒りの表情でガンバを突き飛ばすように手を放した。
「ヘッ、腑抜けたシッポの野郎だ!よくもまあ、山猫と闘おうなんて言えたな!」
「止せよ、所詮は町ネズミだ。山猫どころか、俺らにも歯が立たねぇさ」
「ほら、どうしたい?勇者様気取りが!」
背中を蹴られて、ガンバは前のめりに倒れた。それでも、挑発に乗らなかった。
「チッ、気に入らねぇ面だ!」
とうとう、片方がガンバを殴ったのを合図に、ふたりはガンバに襲い掛かると、たちまちガンバを袋叩きに…
「それにしても、あの野郎…抵抗しなかったなぁ」
「歯ごたえのねぇ奴だったぜ」
勝ち誇ったふたりが、別の場所でガンバを嘲笑っていると…
「その話、ゆっくりと聞かせてもらおうじゃないか?」
怒気のこもった低い声に、ふたりがビクッとして振り向くと…
「お…おまえは…」
ベアーが腕組した格好で、こちらを見ていた。
「どうした?こういう時の返事は『ああ』じゃなかったのかい?」
ベアーの低い声に、相手は引きつった表情を見せた。


しばらくして、ベアーはふらりと帰ってきた。
「ガンバは、どうだい?」
「おとなしくしているよ。動くと、痛いらしい」
シャドーが笑って答えた。
「…そうか」
ベアーは、包帯でがんじがらめにされていたガンバの傍らに腰を下ろした。そして、ガンバの手のひらにそっと何かを載せた。
「……?」
ガンバは、ちょっと怪訝そうな顔をした。それが何か、分からなかったからだ。
「おまえの身体を、傷モンにしたのはこの歯だろう?」
ガンバの傷で、一番ひどかったのは左の二の腕にあった傷だった。
「こりゃ、前歯を突き立てたな…」
実際、勢い余って…と言うのもあるが、例の体格の良い方が、ガンバの腕に噛み付いてできた傷だった。
「その歯を、へし折ってやったぜ…」
確かに、よく見るとそれは血の付いたネズミの前歯だった。それも、根元から抜けたと言うより、力任せに折られた感じだ。
「……」
ガンバは、それを見て笑った。同時に、目から涙が出てきた。
「…何か、悪いな」
「いいってことよ。おまえの手を見りゃ、殴っていないことは分かった。俺との約束とは言え、何もあそこまで無抵抗になるこたぁないのによ…
 でも、おまえの口惜しさは良く分かる。だから、おまえの代わりに奴らを叩きのめしてやったのよ。なあに、このくらいは当然の報いさ。
 これでしばらくは、奴も格好がつかねえだろうがよ、そのうち歯は伸びてくるさ」
ベアーは、愉快そうに笑って見せた。
「まあ、その傷を治すのが先決だ。ちょっと、かかりそうだがな」
「でも…船が…?」
「バカ言え。その身体で…海に出る前に、船からおっこちまうよ」
「…すまねぇ」
ベアーは、笑ってうなずいて見せるとその場を去った。入れ替わりに、ボーボがやって来たが、ガンバを一目見るなり
「どうしたの?ベアーに泣かされたの?」

ガンバの傷が癒えたのは、それから4〜5日してからだった。
「すまないなあ…俺のせいで、こんなことに…」
「何、こんなことはよくあることさ」
「そうそう、気にするなって」
「ところで…出発は?」
「今日の夕方だ。丁度良い方角に向かう船ではないが、貨物船だから紛れ込みやすい。いよいよだぜ、ガンバ」
シャドーの言葉に、ガンバは思わず興奮した。
「ようし、シッポを立てて、冒険に出発だ!」

トップへ

7.船出してみたものの

「ネズミだっ!この野郎!」
たださえでかい声が、狭い空間の壁に反響して、鼓膜を破られたかと思う衝撃になって襲ってきた。
たちまち、頭の中にグワングワンと衝撃が駆け回り、目の前がクラクラして何が何だか分からなくなっていた。
「……!?」
ハッと気付くと、目の前の影は何かを振り上げて、こちらに狙いを定めていた。もし怒鳴り声と同時に『それ』が襲ってきたら、ガンバは大怪我をしていただろう。
あるいは、命がなかったかも知れない。間一髪、かわしたところにデッキブラシが勢い良く叩き付けられたのだ。
「ワッ、ワッ…」
慌ててガンバは、その場から駆け出した。足がもつれて思うように走れないが、何とか隙間を見つけて潜り込んだ。
「……!」
しつこいことに、相手は隙間から覗いて、デッキブラシの柄を突っ込んできたのだ。
「な…な…」
ガンバは、後ろを確認することなく後ずさりした。やがて、目いっぱい柄を突っ込んでも手応えを感じなくなると、相手は諦めた。
「…いっちまった、か」
ガンバが、ちょっと安堵して周囲を窺おうとした時…
「……!」
いきなり、後ろから肩に何かが触れた!
「だから言っただろう?船の人間は、気が荒いって」
ガンバが、そっと振り返ると
「し…シャ…ドー?」
「情けない声出しやがって。俺らに付いて来いって言ったのに、独りフラフラとどっかへ行っちまうからだ。自業自得だぜ?」
「…ごめん」
「もうみんな、船底に行ったぜ。今度は、ちゃんと付いて来いよ?」
「あ、ああ…」
しかしこれは、ガンバが初めての船で受けた『洗礼』の、ほんの一つだった。

「ったく、心配かけやがって!船に慣れていねぇのに、独りで行動するからだ!」
頭の上から落ちてくるベアーの怒鳴り声は、さっきの人間のそれとはまた違った迫力でガンバに襲いかかってきた。
「まあまあ、そのくらいにしといてやれよ」
リッキーが取り成してベアーは黙ったが、下手したら本気で殴り飛ばしかねないような勢いに、ガンバはちょっと面喰らっていた。
「船乗りなんて、船の中じゃあんなもんさ」
ジャックが、他人事のように言う。
「おいおい、あいつにケンカを売る気か?」
それを聞いて、シャドーがからかい半分に声をかける
「ご冗談を…敵に回したら、山猫より怖ええや」
「でもよ、一度殴り合いでもやって見なきゃ、本当の奴は分かるまい?」
リッキーからもからかわれて、ジャックはちょっと肩をすくめて見せた。
「おお怖わ。これ以上、何か喋ると墓穴を掘りそうだ…」
ジャックが貨物の影に消えたのを合図に、船がガタガタ振動し始めた。
「…な、な…?」
地震とは違う細かい揺れと、異様に大きな音に、ガンバとボーボは不安げな顔をした。
「船が、エンジンをかけたのさ」
リッキーの声も聞き取りにくいほど、周囲の音がうるさい。
「船ん中って、このままかよ!」
ガンバの問いにリッキーは
「もう少しすりゃ、静かになるよ!」
わざと、耳元で大声を張り上げた。ガンバが、思わずムッとした顔をするがリッキーはニヤニヤ笑っていた。
そのうち、リッキーの言葉どおり振動と音が収まった。すると、ガンバは今度は何か足元が不安定な気がしてきた。
「どうやら、港を出たようだな」
シャドーの言葉で、ガンバは初めて『出発した』ことを実感した。
「おい!どこへ行くんだよ!」
駆け出そうとしたガンバの腕を、リッキーがむんずとつかむ。
「う…海の様子を、見に行くんだ!」
リッキー達は、呆れた顔をした。
「バカ、今度はベアーに殴り飛ばされるぞ。それに、もう夜だ。表に出たって、真っ暗で何も見えねえよ。諦めろ」
しばらくして、彼らを睡魔が襲ってきた。夜になったという感覚もないまま、ガンバは仲間と共に横になった。

「……?」
しばらくして、ガンバは妙な気配を感じた。起き上がり薄暗い中で目をこらすと、片隅でうずくまる影がうなっている。
「…ボー、ボ?」
近づいてみると、ボーボが苦しげな顔をしている。
「ボーボ!お、おまえ…どうした!?」
思わず大声をあげたガンバに
「き…気持ち…悪い。目の前が…クラクラする…」
弱々しい声で、ボーボが答えた。
「気持ち悪いって…変なモン食べたわけでも、なさそうだし…」
これまでも、変なものを口にしてお腹が痛い、気持ち悪いと転げ回ったことはあったが、今回は様子が違う。
「ン…とうとう始まったか?」
後ろから、半分眠そうなベアーの声がした。
「あ…ベアー、何が始まったって言うんだよ?」
ガンバのやや性急な声に対し、ベアーは落ち着いた声で
「船酔いだよ。素人同然の奴が、船に慣れるための儀式さ」
「ぎしき…?」
ガンバは、ちょっと納得行かないと顔で、ベアーとボーボを見た。
「ところで、ガンバは何ともねぇのか?」
ベアーの質問に
「何だよ、俺もボーボ見たいになる、ってのかよ?冗談言うない!」
ガンバは威勢の良いところを見せた。しかし、ベアーは腰に両手を当てたままの格好で、ニヤニヤ笑っている。
「まあ、その威勢がいつまで持つか…だな」
「ちぇっ、バカにしやがって!見ろよ!」
ガンバはその場で飛び跳ねたり、でんぐり返しをして見せた。
「分かった、分かった。そのくらいにして、早く寝ろよ!夜中でも、人間に見つかると厄介だぞ!」
ベアーにどやされて、ガンバはおとなしく横になった。この後、自分を襲ってくる事態など、全く考えずに。


『ハァ、ハァ…』
真っ暗な町を、ガンバはひたすら走っていた。何かから逃げるように…
『……』
物陰から様子を窺うガンバの前に、ヌッと現われた影が!
『うわっ!』
慌てて、その影に背を向けて逃げるガンバ…だが、背後から迫る影は音もなく接近して、ガンバにまとわりついた。
『や…やめ…やめろ…』
怯えたような声で抵抗するガンバを、影はしっかり押さえ込んだ。
『あ…わわ…』
目の前には、別の影が迫っている。影は、音もなくガンバに近づくと、手を伸ばすかのように接近してくる。
『ウッ…』
影はその一部を、ガンバの腹にスーッと入れ込んだ。
『わあっ、く、苦しい…や、やめて…く、くれ…』
たちまちガンバは、苦しさに身体をバタバタさせるが、影からは逃げられない。


「や、やめろ…めて、くれぇ…」
「とうとう、始まったようだな」
「意外と持った方じゃないか?」
「まあ、何にせよ2、3日は…」
「そういうこと。我慢、我慢だ」
うずくまってジタバタするガンバを、ベアー達はただ見ているだけだった。
「くそぅ…た、助け…ウプッ…た、たのむ…」
「そうは言ってもなあ、こればかりは」
「この『儀式』に、手助けは禁物だ」
「これを乗り越えられなきゃ、冒険なんてできないぜ」
無責任な声に、いつものガンバならかみつくところだが…
「く…くる…うう…」
バタバタと身体を動かすだけで、いつもの威勢はどこへやら。
「こればかりは、誰も助けてくれねえし、助けることもできねぇからなあ…」
「ところで、ボーボはどうしている?」
「ン…あの通りさ」
シャドーが指で示したところには、グッタリとしたボーボがいた。

グッタリと、力なく倒れ伏していたガンバだが…突然、ヒクッと身体が動くと
「ワーッ、苦しい!気持ち悪い!助けてくれーっ!」
声をあげてジタバタ動き回る。やがて、疲れると再びグッタリとして…
「やれやれ、いい加減ジッとしていねぇのかね…」
シャドーが呆れた顔で言った。
「普通は、あんな感じで動くこともできないもんだが?」
ベアーが、ボーボの方をチラッと見て言った。
「そう言うベアーは、どうだったんだい?」
ジャックが聞くと、ベアーはニヤッと笑った。
「俺か?俺が、初めて外海に出たのは『海竜丸』だったんだ…」
何しろ、船乗りの中でも気が荒くて、すぐ手が出て…って連中ばかりだ。下っ端に容赦なんてするわけがねぇ。
俺も、海には慣れていたつもりだったが、ちょっと時化た途端にもうダメさ。で、こっちが蒼い顔で踏ん張ってるてぇのに…
『何だ、そのザマはっ!そんなヤワなシッポのくせに、船乗りになりたいなんて言うんじゃないっ!気を付けっ!』
あの船で『気を付けっ』と言われたら、どんな状況下でも直立不動の姿勢を取れと言うことだ。まあ、それと往復ビンタがワンセットだから、俺は身構えたんだ。
ところがよ、相手はビンタの代わりに、右の拳を腹に…ご丁寧に、胃袋の辺りに一発、ズドッと突き刺しやがって…
「もう…気持ち悪いは、痛いは、苦しいはで。さすがにあん時は、この俺も白目むいてその場に崩れ落ちたよ」
苦笑するベアーに、話を聞いていたジャック達もまるで自分が一発やられたかのような顔で、苦笑して見せた。
「この船が、海竜丸でなくて良かったな?」
「全くだ。ガンバの奴、ビンタビンタで顔を風船のようにされるぜ」
彼らが、ガンバの方を見るとグッタリしたままだが…
「どうやら、峠は越えたようだな」
「ああ、明日には回復するさ」
「いつまでもグズグズしていたら、腹に一発…?」
「それには、問題があるな…」
「何が?」
「胃袋を狙い打つには、的が小せえ」
「ったく、バカなことを!」


翌日の昼過ぎ、ガンバは覚束ない足でベアー達のもとにやってきた。
「…どうやら、収まったようだな?」
ベアーが、ニヤッと笑って言った。
「ちぇっ、冷てぇことばっか、言いやがって…」
「憎まれ口を叩けるようなら、大丈夫だ」
シャドーも、笑いながらガンバに声をかける。
「てやんでぇ、このくらい…」
「大したこと『ある』って、感じだな?」
すかさず、ジャックがからかう。
「……」
言葉が見つからないガンバは、ムッとした顔をするしかなかった。
「おい、ガンバ。ちょっとこっちまで歩いて来い」
シャドーが、ガンバを呼んだ。ガンバは、ちょっと怪訝そうな顔をしたが、言われるがままに歩き出した。
「どうやら、大丈夫そうだな」
シャドーは、独りうなずくと
「ガンバ、俺に付いて来な」
「ど…どこへ、行くんだよ?」
「甲板だよ」
「かん…ぱん?」
「要は、表に出ようってのさ。気分転換にもなるぜ」
ガンバは、訳も分からずにシャドーの後を付いて行った。やがて、彼らは船底の貨物室から甲板に出た。
「ひゃーっ、眩しい!」
何日かぶりの陽の光が、ガンバには新鮮に感じられた。
「眼が慣れたら、ゆっくりと顔を上げてみな」
シャドーに言われて、ガンバはゆっくり顔を上げてみた。すると、そこには…

トップへ

8.これが海なんだ!

「あ…あ…」
ガンバは、無意識のうちに右手を挙げた。そして、何かを指さそうとしたが…
「こ、これ…」
「ああ、これが『本物の海』さ」
目の前には、蒼い海が…はるか向こうまで、広がっていた。
「すげぇ…」
ガンバは、柱を伝ってより高い場所に出た。
「……!」
そこから、見渡す限り…いや、どんなに見渡しても、辺りには蒼い海が広がっていた。そこには、白い波が踊っていた。
「これが…海なのか」
「感心するのはいいけどよ、また人間に見つかると面倒だぞ!」
シャドーが下から声をかけたが、ガンバは動かない。
「ったく…しょうがねぇなあ…!」
駆け上がってきたシャドーは、人間の気配を感じていた。
シャドーは、ぼんやりそこに立っていたガンバの頭を、押し付けるようにして、自分も身体を低くした。
「なっ…!?」
「静かにしろ!」
すると、彼らのすぐ横をヘルメットが横切って行った。
「ここじゃ、逃げ場もないだろう?」
ガンバは、ちょっと複雑な顔でうなずいた。
「まあ、ともかくこれが、俺の言った海だ」
「でも、あの汚いのも海、なんだろう?」
ガンバが、ニヤッと笑って言った。
「まあな。そして、海はこれだけじゃないぜ。まだまだ、ガンバの知らねぇ『海』が、あるんだぜ?」
ガンバは、ちょっと不思議そうな顔でシャドーを見た。
「それって…?」
「そのうちに分かるさ。さ、帰るぜ」
「もう…?」
「ベアーに殴り飛ばされても、知らねぇぜ?」

「それでノコノコ戻ってきたのか?だらしないぜ。俺に奥歯をへし折られても、海を身体で感じていたい!くらいの意地を見せてみろ!」
話を聞いたベアーが磊落に笑うのを見て、ガンバはちょっと拍子抜けだった。
「で、でも…こないだ」
口ごもるガンバに、ベアーは笑って見せた。
「人間の怖さと、船酔いと、海の蒼さを知ったおまえは、もう町ネズミって扱いじゃあねえな。立派に、船乗りの仲間入りさ」
ベアーの笑顔に、ガンバも笑顔で返した。
「ま、そうは言っても、まだまだ船乗り見習いってとこだからな。これから、いろいろおまえに叩き込むことが、たくさん出てくるぞ。覚悟を決めておけよ!」
ベアーの言葉に、ガンバも笑って
「そのくらい、分かってるさ。だけどさ、その拳を腹に叩き込むのは、やめてくれよ。俺の胃袋、潰されちまうよ」
ベアーは、思わずシャドーをわざとらしく睨んだ。
「俺は、男のおしゃべりほど、下衆なものはねぇって、思うんだがな…?」
「おお怖わ。口は災いのもととは、良く言ったもんだ」
ベアーが、本気でないことを読み取ったシャドーは、肩をすくめて見せた。それを見ていたジャックが、呆れたように笑ったのを合図に、彼らは腹を抱えて笑った。
「ど…どうしたの?みんな…」
そこへ、割り込むようにボーボの声がした。
「……」
彼らが振り向くと、ボーボがこちらに歩いてくる。まだ足取りが覚束ないが、船酔いは回復している様子だった。
「ボーボ!」
ガンバは、思わず嬉しそうな声でボーボのところへ駆け寄った。
「ボーボ、もう大丈夫なのか?」
「う、うん…もう、天井が回らなくなったよ…」
「そうか、それは良かった」
ベアーが笑って答えると、シャドーが
「おいガンバ、ボーボを『船乗り』にしてやんな」
ガンバは、うなずくと
「ボーボ!ついて来いよ。おまえに、見せたいものがあるんだ」
ちょっと戸惑うボーボをよそに、脱兎の如く駆け出した。


「なあ、これが海なんだぜ…」
「…うん」
大海原を前に、眼を輝かせるガンバの傍らで、ボーボの返事はいま一つ冴えない。
「いやあ、海に出て良かったなあ」
「そうだね」
しかしボーボは、その後の
『でもさあ、見えるとこ全部、海ばかりだよね』
と言うセリフを、飲み込んでいた。
“おいら、飽きちゃった…”
初めて海を見た時は、ボーボもその光景に感激した。しかし、あれから3日。
ガンバは何かと言うと甲板に出て、蒼い海に歓声をあげる。船と言う限られた空間で、人間の危険性を避けながらでは、自然と彼らの行動範囲もやることも
限られてくるから、仕方ないとも言えるのだが。
“だからって、変わり映えしない海を、見てたって…”
「な…何だ!?ありゃあ…」
ガンバが、突然ある方向を指さした。
「うわぁ…鳥、みたいだね?」
思わず、ボーボも引き付けられた。ふたりがその様子を凝視していると、いつの間にかシャドーが傍らに来ていた。
「あれは、ウミネコの群れだな」
「ウミネコ?猫…?鳥、だろう?あれ」
ガンバが、怪訝そうな顔をすると
「よーく聞いてみな…あの鳴き声が、猫の声に似てると思わねえか?」
潮風に乗って聞こえてくる声は、言われてみれば…
「なるほど…ね」
「あの辺りに、魚がいるんだ。大量にな。それを、狙ってるんだよ」
「そうか、猫だけに魚が好物なんだ」
ガンバの言葉に、シャドーはちょっと呆れた顔をした。
「猫に、羽はねぇだろうが…?」
そんなことはお構いなく、ガンバはウミネコの群れを見ている。
「ヘッ…」
シャドーは、ちょっと肩をすくめるとその場を離れた。ボーボも、いい潮時とばかりにシャドーについて行った。

その翌日…

「何だか、やけに船が揺れるなあ…」
ガンバは、船底でおとなしくしていた。
「仕方ねぇ。天気が荒れて、海が時化てんのよ」
「しけ…てんのか」
時化の意味も、実情も理解していないガンバは、ちょっとひどい風が吹いているくらいの認識だった。
「…ガンバにボーボ、ちょっと来て見な」
ベアーに言われて、ふたりは後に付いて行った。
「こっから先は、覚悟を決めておけよ」
ベアーの言葉は、あながち脅かしでなかった。甲板に出てみると、ものすごい風が吹き付けてくる。
「うわっ…こりゃ、ひでぇ!た、台風…でも、来て…?」
「単なる荒天さ。良くあることだ」
ベアーは、この強風の中でも腕組みしたまま、平気な顔で立っている。
「それより、見てみろよ」
ベアーが顎で指した方には…
「ええっ!?」
黒みがかった灰色の雲の下、鉛色の海が文字通り荒れ狂っていた。
「あ、あれ…!」
「そうだ、あれも『海』だ!」
あの、蒼く広がる海が…呆然とそれを見ていたガンバに、雨粒が当たり始めた。
「いけねぇ、雨が降って来やがった。帰るぞ!」
ベアーの号令に、ふたりは慌てて船底に戻った。
「いよいよ、降ってきたようだな?」
リッキーが、彼らの様子を見て声をかけた。
「ああ。ちょっと荒れそうだ」
「船に影響なければ、いいんだがな?」
「何、それほどのもんでも、ないだろうがな」
「だといいが?」
不安そうな顔になるガンバとボーボを後目に、ベアー達はのんきな会話を続ける。
“本当に、大丈夫なのかよ…?”
ふたりの表情が、そう言っていた。


翌朝になっても、天候に変化はなかった。
「どうだ、様子は?」
偵察から戻ったシャドーに、ベアーはのんびりした口調で聞いた。
「何、落ち付いたものさ。表は、ちょっとした嵐だが…それなりに頑丈な船なのかね、警戒しつつも慌てている様子はないぜ」
「そうか。一昔前なら、そろそろ人間どもが慌てている頃なんだがな」
鷹揚に構えるベアーとは対照的に、荷物がグラリとする度にビクッとするガンバ達…
「警戒するのは、大いに結構だがよ…そう簡単に、崩れたりしないようになってるから、そうビクビクするな」
ベアーに言われても、ふたりは落ち着かない。
「あ、あんなのが落ちてきたら…ペシャンコだよ」
ボーボが、小声でぼやく。
「まあ、ふたりには何もかも初めてだからな…」
リッキーの言葉に
「まあ、そうだな。だけど、短時間でこれだけ経験できるのも、なかなかないぜ」
ジャックが、半ばからかうような口調で続く。
「なるほど…嵐の海に放り出されるってのも、経験だな」
リッキーの、意地悪な言葉にふたりがちょっと構える。
「馬鹿言え。さすがの海竜丸でも、そこまではしなかったぞ」
ベアーが、笑いながら言った。
「でも、嵐の中の耐久訓練は、語り草じゃねぇか。嵐で、船が揺さぶられているのに、甲板で『気を付けっ』だろう?」
すると、リッキーがすかさず口を出す。
「それで、海の中に落っこちても自己責任…」
「おいおい、そりゃ昔の話さ。それに、単なるシゴキとか新入りいじめじゃあなくて、海を経験させる一環だぜ。肝心なのは、もし海に落ちたりする奴が出たら
 リーダーが命を張ってそいつを救出するってのが、暗黙のルールさ」
「で、そこまでのリスクを負ってまで、嵐の海に向かわせるリーダーが、いなくなったから、今じゃ…」
ジャックの言葉に、ベアーは
「やれ時代錯誤だの、命を粗末にするのと、言われちまうからな。あの時代を肌で感じたのも、俺らが最後かも知れねぇなあ…これも時代の流れ、ってやつか?」
やや自嘲気味に笑って見せた。

嵐は、丸2日続いた。
「…揺れが、収まったようだな」
ガンバは、表に出たくて仕方がない様子だった。
「落ち付けって。ったく、お前って奴は…」
しかし、ベアーに襟首をつかまれて、沈黙せざるを得なかった。
「……?」
そこへ、リッキーが勢いよくやって来たが、ガンバがベアーにつかまれているのを見て、ちょっと勢いを小さくした。
「そうかい…」
ベアーは、それを見て小さくうなずいた。ガンバは、取り残されてちょっと面白くない顔をしている。
「ガンバ、それにボーボ。おめぇらに言っとくことがある」
ベアーは真剣な眼で、ふたりを見た。
「この船は、もうすぐ港に着く。船から降りるのは自由だが、船出までに戻ってこない場合、捜したりはしないぞ。いいな!」
その迫力に、ふたりは黙ってうなずくしかなかった。

トップへ

9.港町は、そりゃもう大騒ぎ

船がしきりに鳴らす低い汽笛が、船底まで響いてくる。
「何か、やかましいなあ…」
ガンバが、ちょっと顔をしかめていると
「港に船が着く前は、こんなものさ」
「船同士の、挨拶代わりってやつだよ」
シャドー達は、涼しい顔をしている。
「やかましい挨拶だぜ…」
少し口をとがらせるガンバに、ベアーが
「くどいようだが…お前とボーボにとっちゃ、見知らぬ街だ。特に、ガンバは分かってるだろうが、港ネズミも船乗りネズミも、ケンカっ早くて気が荒い。
 こっから先は時間がねぇんだから、船の出港に遅れたり五体満足に帰ってこなかったら、ここに置いて行くから、そのつもりでな」
「わ…分かってる、よ」
「まあ、一番無難なのは船に残ってることだがな?」
シャドーが、からかうように言う。
「まあまあ…みんなして、かわいそうじゃねぇか。ガンバにボーボ、俺に付いてきな。港町の歩き方を、教えてやるぜ」
リッキーが助け船を出すのを、ベアーは笑って見ていた。
「但し、俺からはぐれたら…そん時は、知らねえぞ」
そう言うと、リッキーはサッサと船を降りるつもりでいる。
「あ…ちょっと、待ってよ!」
慌てるふたりに、リッキーはちょっと振り向くと
「ちゃんとついて来いよ!」
お構いなしに駆けていく。
「チェッ。行くぞ、ボーボ!」
ガンバも、足には自信がある方だったから、リッキーに付いて行こうとするが…
「大丈夫か?ボーボ…」
分かっていたが、ボーボが取り残される。
「……」
しかし、今までのボーボなら待ってくれと泣きごとを言うのに、黙って付いてこようとするのを見て、ガンバはちょっと意外な感じを覚えていた。


「いろいろ、いっぺんに言っても仕方ないが、あまりキョロキョロするなよ。ケンカを売られた格好になっても、相手にするな。
 わざと肩をぶつけてくるバカも、いるからな。どんな奴でも、どんな内容でも、声をかけられたからって、返事をするな…」
リッキーにも釘を刺され、ビクビクしながら降りたふたりだったが、賑やかな雰囲気に少しずつ慣れると、言われるほどの無法地帯でもなかった。
「よお、リッキーじゃねえか」
さすがに、リッキーは馴染みもいると見えて、声がかかる。
「何だい、新顔かい?」
声をかけてくる相手は、必ず尋ねてくる。
「ああ。ガンバにボーボってんだ。覚えてやってくれ」
すると、相手も屈託のない笑顔で、ふたりに握手を求めてくる。
「最初は、みんなああして『顔』を作っていくんだよ」
「…そうなんだ」
「しかし、この俺も馴染みばかりとは限らねぇ。下手すると、前に一騒動起こした連中とバッタリ…なんてこともある」
「そ、そんな時は、どうするの?」
ボーボの不安げな言葉に
「その時、さ。もう一回ケンカすることもあるし、相手の様子とかその時の状況から、逃げることもある」
事もなげに言うリッキーだが、目は笑っていなかった。
「さて、このくらいにして帰るか」
「……」
ふたりは、リッキーに従った。そして、船に向かっていると…
「おやあ…どっかで、見たことのある面だな?」
チンピラ風に、囲まれてしまった。
「ほう、そうかい?」
彼らの視線は、リッキーに向いている。リッキーも、見覚えがあるようだが…
「半年前、派手にやってくれたおめぇを、忘れるわけねぇだろうが!」
「はあんとしも前?そんな昔のこと、覚えちゃいないぜ」
わざとらしい口調が、彼らを挑発しているのは、明らかだった。
「野郎!ふざけやがって…今度こそ、生きて帰さねぇ!後ろのガキも一緒に、ズタズタにしてやるぜ!」
あっという間もなく、チンピラ連中が襲いかかってきた。
「いいか、おまえは手を出すなよ!」
リッキーは、背中越しにガンバに声をかけると、襲ってきた相手に一撃を喰らわせた。
「……」
一方のガンバは、ボーボもいるし、この場はどうしたらいいのか躊躇していた。するとリッキーは、相手がひるんだ隙を見ると
「逃げるぞ!全力でついて来い!」
いきなり回れ右をすると、全力で駆け出した。一瞬、唖然としていたふたりだが…
「逃がすか!」
相手の怒鳴り声に弾かれるように、リッキーの後を追った。
「わっ…!?」
必死にリッキーの背中を追っていたふたりは、いきなり何かに飛び込んだように感じると同時に、何かにぶつかった。
「イテッ…!」
「な、な、なに…?」
目の前は真っ暗になり、慌てて手足をバタバタさせると
「静かにしろ!見つかるぞ」
暗闇の中で、リッキーの押し殺した声と共に、彼の手らしきものがガンバの顔の辺りを抑える。
「野郎、どこへ消えた!?」
「どこか、この辺りにいるはずだ。捜せ!」
チンピラ連中の声がする。すると…
「おい、こっちに走ってきた奴らがいるはずだ!どこへ行った!?」
チンピラが、誰かに聞いている。
「さあな。何も見ていないぜ」
“あ、あの声は…?”
「本当だな?もし、奴らをかくまっていたら…」
「…いたら、どうだって言うんだ。ん?」
すると、少しの間沈黙が続いた。
「まあいい、行くぞ!」
チンピラ連中が去る足音が聞こえると、目の前がパアッと明るくなった。
「サンキュー、助かったぜ」
「こうなるんじゃねぇかと、思ってたぜ」
唖然とするガンバとボーボの前に、シャドーが現われた。

「危機一髪、だったな?」
「何、リッキーはちょいちょい港町で、騒ぎを起こしているからな。こんなことが起きるんじゃないかって、予想してたわけだよ」
船に戻る途中、シャドーはガンバ達に説明する。
「そしてこの辺りにゃ、ああして追われている奴らが隠れるところが、至る所にある。ちょいと、その一つを拝借したのさ」
それは、人間が捨てた麻の袋を加工したもので、緊急避難用にカムフラージュしてあるものだった。
「それにしてもさ、よくあいつらおとなしく引き下がったな…」
ガンバの素直な言葉に
「そりゃ…シャドーが、本気で睨みを利かせたら…なあ?」
「何、言ってやがる!たまたま、相手が情けなかっただけよ」
ガンバは何か言いかけたが、それを遮るように
「さて、このまま船に戻ろう」
リッキーが、彼らを促した。

「戻ったか。大したことも、なかったようだな?」
船に残っていたベアーは、彼らの様子を一瞥すると笑って言った。
「まあ、火種はあったようだが」
シャドーの言葉に、ベアーも分かったような顔でニヤニヤしている。
「ガンバ達にゃ、いい経験だったろう?」
ちょっと複雑な顔で、うなずくガンバ。
「どうやら、この船は2日後の夕方に出るようだ。くどいようだが、出港までに戻って来ない奴は、それっきりだからな。全ては、自己責任だぞ」
ガンバは、とりあえず船底に向かった。
「……」
すると、急に疲れが出てきてグッタリとしてしまった。
「ガンバ、おいら疲れたよ…」
ボーボの声に誘われるように、ガンバはいつしかその場で寝てしまった。
「どうやら、それなりに疲れたようだな?」
「ああ。ま、これも船乗りになる経験の一つだ」
シャドーとリッキーは、彼らの傍らに座った。
「それにしても…シャドーの眼は、未だ衰えていないようだな?」
「ヘッ、相手がチンピラ連中で、良かったがな」
「何をまた。蛇さえ怯むシャドーの眼、じゃねえか」


翌日、ガンバは独りで港町に行くことにした。
「ん、分かった。行ってこい」
いろいろと釘を刺されると思いきや、ベアー達はあっさり送り出した。
「何か、拍子抜けだな…」
ガンバは、彼らの態度をいぶかるよりも、好奇心に動かされていた。
「何が出てくるのか、楽しみだぜ…」
昨日は、リッキーの背中に付いて行くだけだったので、今日は気の向くまま歩いてみることにした。
『…どこでもそうだが、ヨソ者には敏感だ。見かけない顔がキョロキョロしていると、やられるために歩いているようなもんだ』
ガンバは、シャドーの言葉を胸に、なるべくキョロキョロしないように歩いた。それがかえって不自然に見えていても。
「……?」
何やら、賑やかなネズミが集まっている場所があった。
近寄ってみると、ネズミだかりの中に、お世辞にも立派とは言えないリングが設えてあった。その上では、ベアー並みの体格のネズミが闘っている。
いわゆる『草拳闘』とでも言おうか…
「へぇ…」
ガンバは、好奇心がそそられてフラフラ近づいた。すると
「おい、ニイちゃん」
いきなり後ろから、肩を叩かれた。ビクッとして振り向くと…
「おめぇ、次の試合に賭けんのか?」
胡散臭いネズミが立っていて、ヤニ臭い息と共に声をかけてきた。
「賭け…?」
「何だ、見物ならこっちじゃねえ。邪魔だから。ん…」
相手は、左手の親指を後ろに向けて指し示した。ガンバが、黙ってその場を離れようとした時、周囲がドッと沸いた。
「よっしゃ!やれ!いいぞ…よしっ!決まった!ヘヘ、オッズ3倍か…もらったぜ」
大歓声に混じって、ゴングを打ち鳴らす鈍い音が響いているところから、勝敗が決したようだが、ガンバにはその様子が見えなかった。
もっとも、賭けボクシングと知ったから、深入りすることを避けた。
『いいか、賭けごとやケンカの場に出っくわしたら、他人の顔して通り過ぎろ。もし、関わりそうになったら、全力で逃げろ』
ベアー達に、きつく言われていたことだったのだ。
「……!?」
その場を離れて再び歩いていたガンバに、建物の陰から何かが勢いよくぶつかってきた。
「おっと…悪りぃな。急いでるんでね…」
それは、自分と同じくらいの歳と思われるネズミだった。そして、ガンバが面喰らっている間に、サッサと行ってしまった。
「何だよ、あいつ…?」
ガンバは、口を尖らせてその後ろ姿を見送った。すると、足下に何か落ちている。
「何だこりゃ?」
拾い上げると、それは黒いサイコロだった。それを、掌に置いて眺めていると…
「おい、今ここに逃げてきた奴は、どこへ行った!?」
いつの間にか、目の前に数匹のネズミが立っていた。
「し、知らない…よ」
「何だと?じゃあ、これは何だ!?」
そのうちのひとりが、サイコロを持っていたガンバの右手首を、ギュッとつかんだ。
「イテッ!」
引っ張られて、前のめりになったガンバの足元に、サイコロが転げ落ちた。
「これは…!てめぇ、仲間だな?」
「し、知らない…」
「うるせぇ!」
言うが早いが、相手の拳がガンバの顎に飛んできた。
「……!」
見事にアッパー・カットを喰らって、ガンバの身体は後ろに吹っ飛んだ。
「う…ああ…」
仰向けに倒れたガンバは、しばらく虚ろな目をしていたが、やがて意識を失った。

10.イカサマ野郎に、ご用心?

「う…」
意識を回復したガンバは、やけに薄暗い感じを覚えた。
「あ、ててて…」
起き上がりかけて、ガンバは目の前がまだクラクラして、脳天に響く痛みを感じた。
「ちっくしょう…」
わけも分からないまま、有無を言わさないで、渾身の一撃を喰らわせたあの野郎に腹が立つ。そう言えば、不意打ちはあのロックのお家芸だった…
「だけどよ…」
見知らぬ相手から、いきなり喰らったのは初めてだった。
“ここは…どこだ?”
そこは薄暗くて、埃っぽい場所だった。
「くそう…」
ガンバは、少しずつ思い出していた。
“あそこで、俺にぶつかったあいつ…急いでるとか言って、去ってった。追われていたみたいだけど…?”
どうせ、ロクな奴じゃあるまい…ガンバは、こうなった元凶となった『あいつ』を思い出して、怒りを覚えていた。
「…そうだ!」
ガンバは気付いた。
「まさか、気を失っている間に?」
船が出て行っていたら、ここに取り残される羽目に陥るのだ。
“くそう…どのくらい経っているんだ?”
どこからか、陽が漏れてきているところから、昼間のようだ。
“でも、2日も3日も経っていたら!?”
ガンバは、ともかくここから脱出しようと周囲を確かめ始めた。
「……」
片隅に、ネズミサイズの板が、何かを塞いでいる部分がある。
「あそこか?」
ガンバは、その板をどけようとしたが、何かに引っ掛かっているのか、わずかしか動く様子がない。しかも、わずかな隙間から覗いてみると、その後ろには
穴とか空間が見つからない。
「くそう…」
その時だった。
「……!?」
何か、乾いた小さな音がした。ガンバは、斜め後ろを向くとその方向を凝視した。特に気配は、感じられない。
「だ…誰だ!?何かいるのか!」
思わず大声をあげたが、反応はない。
“何なんだ?”
ガンバが、向き直って歩き始めた時
『その様子なら、大丈夫だな』
低く、小さな声がした。
“そ、その声は!?”
ぶつかって逃げて行った、あいつの声だった。
「ど…どこだ!?出てこいっ!」
『バカ、大声を上げるな…奴らが来るぞ』
ガンバは、声がしたと思う方を睨んだ。
『関係のねぇ奴を、巻き添えにした責任は、取るからよ。しばらく、おとなしくしててくれねぇか…』
しばらく、と言う言葉がガンバを刺激した。
「お、おい…もう何日も過ぎたのかよっ!?」
『はあ?バカ言え。まだ陽も暮れていねえよ』
「チェッ、バカバカって言うない…」
面白くないと言った顔をしたガンバは、腕組みして憮然とした。
『とにかく、もう少ししたら、助けてやるから…おとなしくしてなって』
「あ…おい!?」
声が遠ざかっていくのが分かって、ガンバは思わず慌てたが…
“チェッ、行っちまったようだな”
その時…
「おい、確認してみろ。声がしたぞ!」
別の声が聞こえてきた。
“ま、まずい…!”
ガンバは、仰向けになるとまだ気を失っているふりをした。
どこから見られているのかは分からなかったが、さっきの声が『大丈夫だ。中には誰もいないし、奴の方はまだ気絶してるぜ』と言ったことから
覗かれたのは確かなようだった。


ガンバは声が遠ざかった後も、仰向けになったままでいた。
“一体、何がどうなってんだい…”
大声をあげたい気持ちをジッとこらえていると、わずかに射していた陽が弱くなって、周囲が暗くなってきた。
“夜になるようだな”
辺りがすっかり暗くなると、赤や緑の光が規則的に漏れてきた。ガンバは、それが夜の街で輝く明かりだと、確信した。
すると…
「……!?」
誰かが近づいてくる物音が、はっきり聞こえた。ガンバは、とりあえずジッと横になり周囲の様子を窺った。
「そこにいたのか」
暗闇の中から、例の声がした。ガンバは、ガバッと飛び起きた。
「おめぇ…」
「話は後だ。ひとまず、ここからずらかろうぜ」
小声で話しかける相手の雰囲気に従って、ガンバは黙って相手について行った。どこをどう歩いたのか、不安定な足下に閉口しながら、薄暗い中を歩き続けた。
「ここまで来りゃ、もう大丈夫だぜ」
連れてこられたのは、誰かの住処のようだった。
「さっきは、悪いことをしたな。つまらねぇことに、巻き込んじまって」
相手は、右手を頭の後ろに持って行きながら、ガンバに謝意を示した。
「……」
ガンバは、どこから話を切り出そうかと、相手の出方を見ていた。
「おめぇ、名前は?」
相手の態度に、ガンバはちょっとムッとした。
「俺を、散々な目に遭わせておいて…第一、自分から名乗るのが…」
すると、相手は苦笑いを浮かべた。
「俺は、生まれついての名無しでね。周りの連中は、俺のことを『黒ダイスのイカサマ野郎』なんて言うけどよ」
ガンバは、奴らしい名前だと腹の中で笑った。
「…俺は、ガンバってんだ」
相手は、この辺じゃ見ない顔だと腹の中で呟いた。
「ガンバ、か。どこの港ネズミだい?」
「いや、船乗り見習いさ。ところで、イカサマ野郎は何をしてるんだい?」
ガンバが聞くと
「野暮な質問だな…」
口元に笑いを浮かべている。
「何だよ…」
事情が分かっていないガンバは、あからさまにムッとする。
「俺は『イカサマ野郎』って呼ばれてんだぜ?」
「……」
「鈍いな、もう。こういうことさ!」
そう言うと、足下に黒いサイコロを二つ転がすと、赤い『一』の目が、二つ上を向いた。
「へへ、ピンゾロの丁。ってね」
「お、おまえ…」
やっと事情が呑み込めたガンバは、ちょっとそわそわし始めた。

『いいか、賭けごとやケンカの場に出っくわしたら、他人の顔して通り過ぎろ。もし、関わりそうになったら、全力で逃げろ』

ベアー達の言葉を、思い出したからだ。
「お、俺…」
「どうしたい?逃げるつもりなら、自由だけどよ。まあ、表は夜だし、お前をノックアウトした連中が、いないとも限らねぇぜ。船が出るまで時間があるなら
 あまりウロウロしねぇ方が、身のためじゃねぇか」
全てを見透かされたような気がして、ガンバは沈黙した。
「とは言っても、ここでジッとしてても面白くねぇだろう?ついて来るかい?」
そう言われて、ガンバは黙ってうなずいた。
「そうと決まれば…」
相手は、ガンバに古びた布で頬かむりをさせ、自分は鳥打帽を頭に被ると、出かけようとする。
「お、おい、イカサマ…」
ガンバが、思わずそう呼び止めると
「何だい?」
そう呼ばれ慣れているように、相手は足を止める。
「いや…行こうか?」


ふたりは、狭い通路を通って奥へと進んで行った。やがて、明かりが漏れてきて賑やかな声が聞こえてきた。
「ここが、賭場だぜ」
そこは暗い通路から見ると、明るい場所に思えたが、中は思ったより明るくない。
“何だ?この連中…?”
全員、ガンバのように頬かむりをしていたり、帽子を目深に被っていたり、うつむいているので、顔が見えず陰気な感じだった。
イカサマは、そんな場の雰囲気にお構いなしに、賭場の真ん中に進み出た。
「さて、こっからはあっしがやらせて、いただきます…」
すると、一匹のネズミがイカサマの前に出た。
「受けて立つぜ」
イカサマは、場の中心に座ると右手に空き缶、左手にサイコロを2つ持つと
「よござんすね…入ります!」
サッと、サイコロを空き缶に入れると、目の前に伏せた。
「さあ、張った!」
「半、だな」
「では勝負…三・四で半!」
負けたのに、イカサマは落ち着いていた。そして、何回かの勝負を行った後…
「十番勝負の最後!これで決着でい!」
「半!」
そして、出目は…
「ピンゾロの丁!」
すると、相手はいきなりサイコロをつかんだ。イカサマが、慌てて阻止しようとしたが、間に合わなかった。たちまち、イカサマは周りを取り囲まれた。
相手がサイコロを無造作に転がすと、出目はピンゾロ…
「……!」
いきなり、サイコロを床に叩き付けると、サイコロが割れた。
「そういうことか…」
サイコロは、六の面が剥がれていた。
「こりゃ、鉛か?常に六が下に来るように細工がしてありゃ、誰でもピンゾロが出せるってもんだよな…?」
追い詰められらイカサマが、逃げだそうとするのを合図に、乱闘が始まった。
それまで、顔が良く分からなかったが、ガンバが会いたくない見覚えのある顔が次々と現われた。おまけに…
「リ、リッキー!?」
「ガンバじゃねぇか?こりゃあ…逃げるか?」
ふたりは、どさくさ紛れにその場を去った。


「言ったはずだな?賭けごとの場に関わるな、と!」
腕組みして立ちはだかるベアーは、険しい顔をしていた。
「……」
いろいろな意味で、言葉のないガンバはうつむいたままだった。
「今回は、この程度で済んだが、自分からつまらないイザコザに関わってどうする!」
「ごめんなさい…」
「まあいい。俺の言葉を守らなかった以上、覚悟はできているな。気を付けっ!」
ガンバは、反射的に直立不動の姿勢を取った。
次の瞬間、ガンバの目の前に今まで見たことがないくらい、でっかい火花が飛んだ。
“くう…ありゃ、ロックのパンチより強烈だぜ…”
左の頬にはっきり手の跡が残る腫れた顔を、ガンバは潮風に当てていた。
「よお、いい面になったな?」
背中から声をかけられ、ガンバはちょっと面白からぬ顔で振り向いたが…
「リッキー…!?」
「ヘヘヘ、俺は『前科』があるからな…」
両方の頬に、手の跡がはっきり付いて腫れ上がった顔で、リッキーが立っていた。
「ヘ、ヘヘ…」
ふたりは、お互いの顔を見ておかしそうに笑った。

第2章・完
第1章へ目次へ戻る第3章へ