眼-eye- 03

〈5〉

 犯人を警察に引き渡し、味のよく分からない昼食を済ませ、おれと真由は昼も遅い時間になって、ようやく事務所に帰ってきた。
 聞く事が、またひとつ、増えてしまった。
「真由、さっきの事だが」
「はい」
「おれは、なぜあんなに速く走れるんだ?」
「……分かりません」
 二度目の、回答不能だった。
「やっぱり、分からないか……」
 何となく予感はしていたが、やはり多少の落胆はある。おれの慨嘆を聞いて、真由は申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません、お役に立てないで……」
 おれは頭を振った。
「真由が謝る事じゃない。おれが分からないって事がそもそも問題なんだ。真由の責任じゃ、ない。だから謝る必要もないさ」
 だがこれで振り出しに戻った事も確かだ。どうするか。その時、WISを通じてホルスの声が聞こえてきた。
〈七輝。その時の様子を、教えて貰えませんか?〉
「その時って、ひったくりを追いかけた時の事か?」
〈そうです〉
「何か分かるのか?」
〈分かるかもしれません。気になるデータがありますので〉
「分かった、話してみよう」
 こうなったら藁にもすがる気分だ。おれはホルスに、今日の昼あった事を話した。その時の、おれの身体感覚も。ホルスはおれの話を聞き終えると、しばしの間沈黙した。その沈黙にこちらが耐えきれなくなる前に、ホルスは話し始めた。
〈七輝。真由でも構いません。『サイファ』という言葉に聞き覚えはありませんか?〉
「いや、ないな」
 おれは答えた。真由も同様だった。しかしホルスの声に、落胆の色はなかった。
〈実は、私も初めて聴く単語です。ですがこの単語が、恐らく七輝の身体の謎を解くキーになると思われます〉
「どういう事だ?」
〈市民登録のデータバンクにアクセスした所、七輝のファイルにはシークレット情報が存在しました。かなり上級の者でないと閲覧できないものです。そこに、記されていました。七輝が『サイファ』である、と〉
「サイファ。おれが、か」
 おれの当惑を余所に、ホルスは話を続けた。
〈また、サイファであるものをピックアップしてみた所、ある点において百パーセントという数字が見られました。七輝、あなたのWIS登録メンバーです。あなたのWISに登録されている者は、全てサイファである、そうデータは示しています〉
「またしても、おれ、か……」
 どうやらおれとサイファという単語とは、切っても切れない関係にあるらしい。また、おれのWISに登録されている者は、賞金稼ぎであり、同時にサイファであるという。その者たちは知っているのだろうか。己が、サイファだと、そう呼ばれている事を。知らないなら、おれと同じだ。話は振り出しに戻る。だが、知っていたとしたら?聞いてみるのも良いかもしれない。だが、信頼できるか?それが問題だ。結局、問題は最初に戻ってしまうのか。
 ふと思い出して、おれはホルスに訊ねてみた。
「ホルス、『サーヴァント』という単語に、心当たりはないか?」
〈単語の語意はともかくとして、現在その単語が、共用語或いは隠語として使われている、という事はありません〉
「やはりそうか……」
 謎がひとつ増えた?いや、そんな事はない。これもまた、結びつくのだ。おれの知り合いが、一般に使はわれていない単語を知っているかもしれない、という事に。サーヴァントとは何か。サイファとは何か。それを知らなければ、おれという存在を知る事は出来そうになかった。信じて、頼むしかない。おれの知り合いとやらを。
「真由。WISは、こちらからかける場合はどうやるんだ?」
 おれの意を察したのだろうか。真由はきびきびと応じた。
「受ける場合と大して変わりません。WISを意識して、かける相手のリストを呼び出すか、或いはWISナンバーを音声で入力すれば、かける事ができます」
「分かった。やってみる」
 WISを意識するのは簡単だ。すぐにWISから応答がある。通話、と念じると、〈登録者リストを表示しますか?〉と出た。イエス。すると半透明のリストが視界の半ばを埋めるように表示される。おれはその中から、朝、連絡してきた奴の名前を探す。兵頭誠。しかしリストから探す必要は無かったようだ。その名前を意識した途端、リストはクリアされ、兵頭誠、の文字が視界の端で明滅する。同時に〈通話しますか?〉の問いかけ。またしてもイエス。それで終わりだった。〈通話可能〉の文字が明滅すると、おれは兵頭に話しかけた。
「兵頭。聞こえるか?」
 応答が、あった。当然だといえばその通りだが。
「ああ、聞こえてる。どうした、お前の方からかけてくるなんて珍しいじゃないか」
「ヤボ用があってな。聞きたい事がある」
「なんだ?」
「サイファとは、何だ?」
 おれがその言葉を吐いた途端、兵頭は黙り込んでしまった。やはり、この男も知らないのか?自分がサイファと呼ばれている事を。しかしその点では杞憂だった。兵頭は分からないから黙り込んだのではなかったのだ。WISから聞こえてくる押し殺した笑い声。それはやがて大きくなり、爆笑へと変化した。笑いたければ笑うがいいさ。おれは妙に平静な気分で、兵頭の爆笑が収まるのを待った。
 さして、長い時間を待つ必要はなかった。兵頭は笑いを収めると、あらためて訊ねてきた。
「北斗。お前、本気で訊いてるのか?」
「ああ。悪いが、本気だ」
「フム。お前がそんな哲学的な奴だったとはな。サイファとは何か。難しい問題だ」
 茶化すような口調で、兵頭は応じた。
「サイファとは何か。それは人間とは何か、という問いかけに似ている。つまり……」
 おれは兵頭の講釈を遮った。
「兵頭。おれはそんな答えを聞きたいんじゃない。サイファとは一体何を指し示す単語なのか、それが知りたいんだ」
 またしても兵頭は笑った。そして笑いながら答えた。
「正気の問いかけとは思えないな。サイファとは俺達、プレイヤーの事じゃないか」
「プレイヤー、だと?」
「そうだ。このゲームの、プレイヤー。超常的な能力を持ち、悪と戦う正義の戦士!それが俺達、サイファだ」
「正義の戦士、ねぇ……」
 半分かたも、信じられる内容ではなかった。だが、信じられる、信じてもいい箇所もあった。超常的な能力。それはまさに、今おれが知りたいもの、そのものではないか。
「つまり、サイファとは、超能力者の事なのか?」
「ああ、そうとも言える。プレイヤーはサイファとなって、この仮想空間で悪党達と戦うんだ。特別な存在であるのは当然だろう?」
「仮想空間。この、世界が?」
 聞き捨てならない言葉だった。おれや真由や、ホルスがいるこの世界が、仮想空間だって?馬鹿げているとしか思えないが、しかしそれで、ある程度は説明が出来てしまうのだ。おれのWISに、サイファばかりが登録されていた、という事実が。おれがもし、仮想空間におけるプレイヤーだったとしたら、同じプレイヤー同士であるサイファと密接な関係を結んでいたとしても、おかしくはないのだ。
 だが、信じられない。あまりにも、リアルすぎるのだ。今、おれが立っている、この世界は。架空の世界を、これほどリアルに作り上げる、そんな必要があるのだろうか。コストがかかりすぎる。そんなゲームが、娯楽が、娯楽として成り立つのだろうか。少なくとも、おれが今こうしている世界では、考えにくい事だった。
「兵頭。お前がここを仮想空間だと言うのなら、現実世界もある訳だな。そこは、裕福な世界なのか?」
「お前の世界でもあるだろうが。まあ、決して裕福な世界なんかじゃないさ。だからこそ必要だったんだろうぜ。こういった、都合の良い架空世界がな」
「都合の良い、世界だと?」
「そうさ。悪党ならどんな奴でも捕まえられる。殺しても構いやしない。そんな世界が本当に実在するとでも思っているのか?そんな訳ないだろう。現実はもっと、したたかだ。あるいはもっと、つまらないとも言えるな。悪党だと分かっていても捕まらない奴なんて、ごろごろしてる。むしろそんな奴が集まって、正義とやらを唱えてるんだ」
「まともな社会じゃないな」
「ああ、まともじゃない。だからこそこんなゲームがあるんだろうぜ」
「何の意味がある」
「ストレス解消に、さ」
「やっぱり、まともじゃないな。架空世界で遊んでストレスを解消するより、社会構造そのものを改善する方が、意義ある行為だと思うがな」
「他人事みたいに言うな。お前の世界でもあるんだぞ」
「そうは思えないんだよ、兵頭」
 おれは正直に言った。
「おれには今いるこの世界こそが、リアルに思える。お前の言う世界なんて、虚構の世界にしか、聞こえないんだ」
「おい北斗、正気か?」
「ああ、正気だ」
「俺にはそうは思えんがな。この世界こそが現実だって?馬鹿言うんじゃない。お前、接続のしすぎでどうかしちまったんじゃないか?」
「接続。この世界にか」
「ああそうだ。あんまりこっちの世界が居心地が良すぎて、入り浸る奴もたまにいるんだ。お前はそうじゃないと思ってたんだがな」
「入り浸っている訳じゃない。おれは、お前の言う世界が、本当に実感できないんだ」
「ログアウトすればいい」
「ログアウト?どうやるんだ」
「覚醒装置があるだろう。そいつを使うんだ。お前のそれが、どんな形を取ってるのかは知らないが」
「人によって、形を変えるというのか。覚醒装置とかいう奴は」
「形を変えるというよりは、個々人が自分にとって都合の良い形にして携帯している、と言うべきだろうな。携帯できる物だ。でなければ意味がないからな。何か、あるだろう。携帯している物で、変わった物が」
「特に思いつかないな」
 言いながらおれは、ホルスを呼び出す。検索、覚醒装置。回答、該当物なし。やはり、直接的な単語では、引っかからない。ならば、とおれは検索標的を変える。おれの所持品で、ホルスに理解できない物を探させる。
〈私に理解できない、とはどういう意味でしょう?〉
「お前にとって、それが存在する意味があるのか解らない物、だ。どんな物でもいい」
〈了解。ではこちらへ来て下さい、七輝。その方が、検索の精度が上がります〉
 こちら、とはホルスのある部屋の事だろう。移動する。部屋に入ると青い光が一瞬走って、消えた。
〈検索終了〉
 ホルスの声が、WIS越しではなく正面から聞こえた。
〈七輝。あなたのその腕時計は骨董品ですね。完全な機械式。今の時代では珍しい代物です。それ以外では特に高価な物を身につけていないあなたにとって、唯一それだけが特別に高価な品だと言えます。私には、あなたがそんなものを身につけている理由は説明できません。そういう意味では、理解できない物だと言えます。ですが構造自体は理解可能です。それはただの、時計です。他に変わった機能が付随されているという事もありません〉
 おれは左腕につけた腕時計を眺めやった。
「これ、そんなに高価な代物だったのか。知らなかったぜ」
 真由も何も言わなかったから、てっきりありふれた品だと思っていた。しかし実際は、そうではなかったらしい。目立った品と言えば、それくらいという事か。これが、この腕時計が、兵頭の言っていた覚醒装置なんだろうか。しかしホルスは、この時計には特別な機能は何も付随されていないと言っていた。ホルスにも理解できないレヴェルで機能が付加されているのか、帰還装置には特別な機能など必要ないのか、あるいはこの時計は、ただの時計に過ぎないのか。
 おれは再び兵頭に話しかけた。
「兵頭、お前の覚醒装置は何だ?」
 返事はすぐにあった。兵頭はしばしの間放っておかれたにも関わらず、ずっとおれの返事を待っていたらしい。ひょっとすると、案外いい奴なのかもしれない。
「俺の覚醒装置か。俺のは薬だな。内服薬」
「フム。まるで覚醒剤だな。意味はまるっきり違うが。しかし無くしたら困るんじゃないのか?そういった物だと。携帯できるってことは、無くしやすいって事に繋がると思うんだが」
「無くしたりするものか」
 自信満々で、兵頭は言い切った。
「覚醒装置は、いわばプレイヤーの分身だ。片時もプレイヤーの側を離れる事はない。だから無くす心配もないんだ」
「逆に言えば、そういう存在こそが覚醒装置だという訳か」
「そうともとれるな」
 おれにはそんな存在があるだろうか。やはり、思いつかない。目が覚めた時、おれは裸だった。例の時計も、身につけてはいない状態。そんな状態では、兵頭の言うログアウトも不可能だろう。そもそも、元の世界があるのに、架空世界で眠る必要などあるのだろうか。少なくとも今日の眠りは、眠らされているという眠りではなかった。自分から、眠ったものと感じた。休息としての眠り。そんな眠りが、架空世界でも必要なのか。だとすれば相当にリアルな架空世界だが、そんな所まで再現する必要があるとは思えない。眠りたければ、それこそ現実世界で眠ればよいのだ。おれなら、そうする。しかし兵頭なら、どうするのだろう。
「兵頭。お前、この世界で眠った事はあるか?」
「いいや。そんな事をする必要がどこにある?眠くなったら、さっさとログアウトすればいいんだ」
 予想通りというか、常識的な答えが返ってきた。おれは言うべきかどうか一瞬迷ったが、結局告げる事にした。全て。
「しかしな、兵頭。おれは今日、この世界で目覚めたんだ。お前がWISをかけてくる、少し前に」
「何の為にそんなことを?」
「休む為だとは思うが、分からん。今のおれには、記憶がないんだ」
 一瞬の沈黙の後、兵頭はおうむ返しに聞き返してきた。
「記憶がない、だと?」
「ああ、そうだ」
「おい、そいつは重大なエラーだぞ。何でもっと早く言わなかったんだ?」
「お前の言う現実世界の記憶がないのも、エラーなのか?」
「かもしれん。そっちの方が重大だろうな。何にしろ、今のままじゃ確かに戻る事なんて出来そうにないな」
「戻れないと、どうなるんだ?」
「決まってるだろう。死んじまう」
「……そいつはまた、ヘヴィだな。一体どんなゲームなんだ?お前の今遊んでるゲームってのは」
「仮想空間に、意識をダイブさせるんだ。身体感覚も、擬似的に伝わる。実際に傷ついたりする訳じゃないが。死ぬ事もある。そうしたら、そのキャラクターは永遠に使えない。また別のキャラクターを作る事になる」
「死ぬ感覚も、擬似的に味わう訳か。あまりぞっとしない話だな」
「そこら辺は、まあ適当にぼかしてある。だが確かに、あまり気持ちのいい物じゃないな。実は俺も一回死んだ事があるが、あれは結構辛かった。だがお前に迫ってる危険は、リアルな死だぞ。一回死んだら、それでアウトだ」
「大して変わらないようにも思えるがな。ひとつのキャラクターは、一回死んだらアウトなんだろう?プレイヤーも同じって事さ。一回死んだら、それで終わり。辻褄が取れていいじゃないか」
「お前、正気か?死んでもいいってのか?」
「あまり、良くはないな。だが、お前の言う死があまりリアルでないのもまた確かだ。おれにとってリアルな生命の危機とは、あくまでもこの世界での危機なんだ。お前の言う現実世界での危機じゃない」
 リアルの意味が、食い違っている。おれと、兵頭では。この世界の事象しか感じられないおれにとって、兵頭は別世界の人間に近い。いや実際、そうなのかもしれない。兵頭誠という存在自体はこの世界のものなんだろうが、それの中味は違う。おれと、別の存在だ。別次元の存在。向こうからこちらにアクセスする事はできるらしいが、こちらから向こう側を知る事はできない。一方的な関係だ。兵頭の言う通り、この世界がゲーム空間なのならば、そんな関係も頷ける。しかし、おれはここで生きている。この世界こそが、リアルだ。ゲームなんかじゃない。兵頭の言う『覚醒』ができれば、また違った世界が見えるのかもしれないが、少なくとも今のおれにとって、兵頭の世界はおれの世界ではなかった。
「兵頭。どうやらおれとお前では、見えている世界が違うようだ。しかし参考にはなった。礼を言うよ」
「おいちょっと待て。一人で納得するな。お前、このままじゃ危ないぞ。俺がセンターへ連絡してやる。そうしたら、思い出せるはずだ」
「いや、その必要はない」
 おれは首を振った。それが、WIS越しに見える訳もなかったが。
「もしおれがお前の言う通りの原因で死ぬのなら、お前が正しかったんだ。しかしおれは、おれの世界を信じる。自分が正しい、とな」
「……お前が何と言おうと、俺がセンターに連絡しといてやる。それでお前は覚醒するんだ。元の世界にな」
「もしそうなったら、その時はまた改めて礼を言うさ」
「全く、どうかしてるぜ。じゃあな」
 それでWISは切れた。
 兵頭はやはり親切な男らしい。こちらが頼みもしないのに心配してくれる……というのはひねくれ過ぎだろうか。ま、わりといい奴には違いない。多少、押しつけがましい所があるだけで。
 それにしても、兵頭とのWISで得られた情報は、どれもこの世界とは相容れないものだった。この世界を否定しない限り、認められないものだ。しかし俺には、真由やホルスを、この世界のものを否定するという事は難しい。兵頭の言う『現実世界』を、実感できないからだ。実感できるものを否定する事はできるが、実感できないものを肯定するというのは難しいものだ。
 死もまた同じだ。おれにとって、ゲーム空間に繋がれたまま衰弱死するという死は、リアルではない。それより、この世界で例えば銃で撃たれて死ぬとか、そういった危機の方がリアルに思える。天寿で死ぬのを恐れて交通事故で死ぬ、というのとは話が違うが、おれにとってはそれと大して変わらない事のように思える。兵頭の言う現実世界で死ぬ事を恐れていては、この世界でやられる。実際、その方が確率が高いのだ。
 結局、この世界で有用な情報と言えば、サイファという単語の意味、それだけだった。兵頭はそれをこのゲームのプレイヤーの事だと言っていたが、同時に超常的な能力を持った人間を指す、とも言っていた。つまり、サイファとは超能力者の事なのだ。この世界では。しかも、一般には知られていない。それは、真由や、ひったくりの犯人の反応を見れば分かる。おれのパーソナルデータに、裏データがあった事からも。しかしなぜ、隠さねばならないのか。それが分からない。迫害から護る、という訳でもなさそうだった。隠していた方が有利だ、という事はあるだろう。特に、おれのような仕事をしている者にとっては。しかし公的機関が、おれ達がサイファである、という事を隠す理由が、分からない。おれにとっては有利な事だが、しかしおれ達のような仕事をしている者達に便宜を図って、という訳ではあるまい。しかし、迫害を受けている、という訳でもない。何の為か分からない、という意味では、兵頭との会話からも情報を得る事ができなかったと言える。自分で調べるしか無い訳だが、その価値があるだろうか。今の所、優先順位は低い。サイファという単語の意味が分かっただけでも、ある意味では十分だと思えるからだ。それよりも、おれの対人関係、特におれの敵について知る事の方が、重要に思える。それを調べるには、やはりホルスの力を借りるしかない。他人に聞いても、大した情報は得られまい。
〈あなたの敵というと、あなたと敵対関係にある個人あるいは団体という意味でよろしいのですか?〉
「ああ。敵対関係と言っても、直接危害を加えてきそうな奴らだけでいい。商売敵、などというのは度外視だ」
〈了解。過去のあなたのキャリアから、敵対関係にある、あるいはそれに発展する可能性のある個人または団体を検索します〉
「ああ、頼む」
〈おやすい御用です。それにしても、このような使われ方はあなたのパートナーになって以来初めてですよ、七輝〉
「どういう事だ?」
〈この程度の検索なら、あなたは独力でやってしまっていた、という事です。私という人工知性体のサポート無しに、あなたはネットワークの海を自在に泳ぐ事ができた。今はどうやらそれができないようですね。記憶を失った事と、何か関連性があるのでしょう。ひょっとしたらそれも、サイファとしての力、超能力の一種だったのかもしれません〉
「有り得る話だな」
 おれのサイファとしての能力は、未だ未知数だ。というより、おれ以外誰も知らない。誰も知らなかった、そんな力を少しずつ、解明していかなければならない。恐らくは、独力で。真由やホルスの手を借りる事はできるが、頼る事はできない。おれの、問題だ。できる事なら誰にも迷惑をかけずに解決したい問題だ。そうは言っていられない状況というものに、できるだけ真由やホルスを巻き込まない事だ。真由やホルスの性格からすれば、そんな水くさい事を、と言われるだろう。だからこそ、あまり厄介な事に巻き込みたくない。彼女らの為と言うより、おれのプライドの問題なのかもしれない。自分で、解決したい。そうして、真由やホルスと新たな関係を築けたら最高だ。恐らくはその為に、おれは自身の事を、知りたいのだ。
 記憶を取り戻す、という事と、目的がずれるかもしれない、その可能性はある。だが、完全な記憶などこの世に存在したりはしない。無論思い出せるならそれに越した事はないだろうが、そうしたら真由やホルスとの関係もまた、別の物になってしまいそうな気がする。おれは恐らく、それを恐れている。ゲームなどではない、リアルな人生だと、信じたいのだ。生命の危険は常に存在する。だが、今この関係は、おれにとって心地よい物だった。〈検索終了〉
 ホルスの声が響いて、おれは物思いから醒めた。
「どうだった?」
〈今現在、あなたと敵対している、或いは敵愾心を抱いている可能性のある個人又は団体は存在しません。少なくとも、あなたはそういった個人或いはグループのブラックリストに載ってはいない。だからといって安全だというわけでもありませんが、今すぐ危険が差し迫っているという状況ではないでしょう〉
「そうか……」
 安堵感と共に、興ざめした感じも、ごく微量ながら存在した。安堵感は無論、真由やホルスを無用な危険から遠ざけられたという安心から来たものだ。しかし興ざめしたという感覚も存在した、その理由はなんだろう。おれは潜在的に、そうした危険を望んでいるのか。そうではないだろう。恐らくは、そうした危険に晒される事で、またサイファの力が覚醒するかもしれない、それを期待していたのだ。
 おれはまだ、サイファの力を自在にコントロールするという事ができない。以前はできたのだろうが、今は無理だ。自然、先程ひったくり犯を追った時のように、偶発事に頼らねばならない。おれにはどういう力があって、どういう風にしたら発動するのか、できるだけ知らねばならない。いつでも非常事に発動するとは限らないのだ。
 不意に思いついて、おれは舌打ちしたくなるのを堪えた。兵頭に聞いてみる、という手もあったのだ。サイファがサイファである事を知っているのならば、サイファ同士、お互いの力について知っている、という事は有り得る。知っているのなら、教えてくれるだろう。少なくとも、あの兵頭なら。他のサイファはどうだろうか。あまり、試してみる気にはなれなかった。兵頭と同じ反応が返ってくるかと思うと、煩わしい。サイファがみんな、兵頭の言うプレイヤーなのだとしたら、皆同じような幻想に、おれを取り込もうとするだろう。幻想なのか事実なのかは、この際関係ない。おれが幻想だと感じている、という事が肝心なのだ。
 事実と同様、世界もまた、恣意的なものだ。解釈次第でどうとでも変化する。万人平等に確かなものではないのだ。おれと兵頭のリアルが異なるように、恐らくはおれと真由の世界も、微妙に違うはずだ。おれとホルスとでは、そもそも感じられる世界が異なっているだろう。そんなおれ達が協力し合えるのは、しかし決して難しい事ではない。共感能力というものが、人間には備わっている。そして恐らく、ホルスもそれを持っているだろう。それぞれが異なる世界を持ちつつ、それが重なる部分を感じ取り、お互いを尊重し合う。関係というものは、原理自体は非常に単純なのだ。それが複雑に見えるのは、人の、知性体の想いというものが、単純ではないからだろう。全ての摩擦は、そこから生じていると言ってもいい。摩擦、争い、戦い。全ての想いが均一ならば、そんなものは生まれないだろう。その方がいいのか。おれはそうは思わない。摩擦があるからこそ、人は前へと進めるのだ。摩擦のない、そんな熱のない世界に、どんな意味があるというのか。存在している、ただそれだけの世界に。存在する事自体に意味など無い。意味は、生きているその証だ。生きている意味とは、他者との摩擦の中で、自ら生み出すものだ。生まれた原初から存在するものでも、他者から与えられるものでもない。だが決して、他者が必要ない訳ではない。自らを発見するのに、他者の視線こそが必要になる場合もある。他者とは自己そのものではないが、だからこそ自己を映す鏡たりえる。鏡に映った自己を見てどう思うか、それは個々人の勝手だろう。おれの知った事ではないし、また無闇に干渉していいものでもない。
 しかし例のサイファとプレイヤーという単語との関係は、そうではなかった。サイファであるという事は、プレイヤーであるという事だという、おれはその価値観に、勝手に取り込まれているという事になる。おれはサイファである事は認めてもいいが、しかしゲーム世界のプレイヤーだという事は認めてはいない。おれは、おれだ。安易に書き換えられるようなキャラクターなどではない。それを照明する、或いはサイファ=プレイヤーという式を覆すものが、必要だ。でなければ、おれという存在も、真由もホルスも、この世界のもの全てが、偽物という事になってしまう。
「ホルス。さっきの兵頭とのWISを聞いていたか?」
〈いいえ、その様な事はしません。ですがログの閲覧を許可してもらえば、内容の理解は可能です〉
「許可する。真由にも分かるように、ログを出力してくれ」
〈了解〉
ホルスの大スクリーン上に、先程の兵頭との会話記録が出力される。おれは真由とホルスが、内容を理解するまで待った。
〈正気の会話とは思えませんね〉
 それが、ホルスの第一声だった。
〈現実という定義をどこに置くか、それは個人の自由です。この世界が架空世界だと思いこむ事も。ですが、実際にこの世界で殺されれば死ぬ事には変わりはない。それを無視して、七輝に覚醒とやらを望む兵頭氏の発言は、正常とは思えません〉
「お前は、あくまでこの世界こそが現実だと思うんだな」
 おれの問いに、ホルスは昂然と答えた。
〈当然です。私は、私です。他の何物でもない。単なるオブジェクトではないし、単なるコンピュータでもない。私は人工知性体である事に誇りを持っています。その存在意義を脅かすものは、全て敵だと言ってもいい〉
「おいおい、随分と過激だな」
〈七輝こそ、随分と落ち着いていますね。あなたこそ、自分がゲームのキャラクターに過ぎないと指摘されたに等しいのに〉
「……そのようですね」
 ログを読み終えた真由も、会話に参加してきた。
「七輝さまは、私から見ても随分と落ち着いているように見受けられます。どうしてですか。なぜ、そうも落ち着いていられるのですか?」
「二人して詰問か。まいったな」
 冗談めかしてぼやいてはみたが、二人の、正確には一人と一体の、言いたい事も何となく分かる。だがおれとしても、ただうすらぼんやりと今の状況を受け入れようとしている訳ではない。むしろその逆で、あの兵頭の言う事をぶち壊してみたいのだが、しかし一応筋が通っているその理屈を壊すのは難しい。おれが冷静に見えているとしたら、それを悟っているからで、決して兵頭の論理を受け入れたからではない。
「二人とも、落ち着け。おれは決して、兵頭の言葉を信じた訳じゃない。おれは、おれだ。それを譲る気もない」
 明らかに、ほっとした空気が流れた。無用な緊張が解けたのは良い事だが、しかし問題が解決した訳じゃない。むしろ、問題はここからだ。
「だが、おれ達はあの兵頭の言葉を否定する材料を持ち合わせていない。これも確かな事だ。それを、探さなければならない」
「この世界が、決して架空世界ではない。それを照明するもの、ですね」
「そうだ」
〈それにはやはり、サイファという言葉の定義を、裏付ける事が必要になりそうですね〉
「結局、話はそこへ戻ってくる訳か……」
 正義の戦士などというお題目は論外としても、しかし兵頭の言葉は、サイファという言葉に対するある程度の答えにはなった。だが、逆に言えば、サイファという言葉は、兵頭以外には未だ定義をされていないという事でもある。サイファという言葉の、一面における裏付けと共に、サイファがこの世界の存在であって、決してこの世界は架空のものなどではない、という証拠が必要だった。今の、おれ達には。


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