幻想世界譚 05

〈3〉

 翌日。
 自室で目を覚まし、顔を洗うために一階へ下りた司は、味噌汁の匂いに気付いた。そのまま台所へ顔を出す。
「おはよう皐ちゃん。本当に朝ご飯、用意してくれてるんだね」
 皐はフライパンを持ったまま振り返って答えた。
「約束だからね。ちゃんとお弁当も用意してあるよ」
「弁当もあるんだ……」
 司にとってはその点は、未だに少し気恥ずかしい。だが開き直ると強いのか、皐は平然としたものだった。意地の悪い笑みを浮かべて問いかけてくる。
「何だったら、ふりかけでハートマークとか作ってあげようか?」
「いらないよ……」
 快活な笑い声を上げると、皐は司を促した。
「早く顔を洗って着替えてきて。もうすぐご飯の支度終わっちゃうから」
「わかった」
 返答を返して、司は洗面所へ急ぐ。朝やるべき事を済ませて司がリビングに到着すると、既に食卓の上には朝食が用意されていた。
「おお、まともな朝食だ」
 思わず感動の声をあげる司に、皐が苦笑した。
「大げさだね。お味噌汁にアジの開きと目玉焼きの朝食くらいで」
「いや、自分独りじゃ和食の朝食なんて作らないからね。味噌汁なんてインスタント以外じゃ久しぶりだ」
「またいいかげんな食生活だね。ま、今日からはその辺も管理してあげる」
「管理ね……」
 苦笑する思いで司はその言葉を聞いた。食卓について手を合わせる。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
 会話のある朝食が、やけに嬉しい。すぐに食べ終わると、食器を洗い桶に漬けておいて、食後のお茶。まだ時間には余裕がある。司は皐に話しかけた。
「学校に行く前に支度とかある?」
「私はちょっと身支度があるけど、司くんはないの?」
「僕はこれといって思いつかないけど……」
 どうも誤解があるらしい。司は言葉を選んで聞きなおした。
「学校は恐らく敵の本拠なんだろう?そういう所に乗り込むのに、特別な準備とか必要ないのかなって」
「必要ないよ」
 簡潔な、それが皐の返答だった。
「必要なら、昨日の時点で持ってるよ。司くんは、昨日私が何か変わった物を持ってた記憶ある?」
「……ない」
「そういう事。あえて言うなら、私自身が武器でもあるから、無理に武器を調達する必要なんてない、って所かな」
「君は戦術戦闘知性体、か……」
「そう。そもそも『アイツ』以外を殺す必要はどこにもないし、『アイツ』を殺すには私自身である必要がある。私自身が用意した、この世界で唯一の武器がね」
 見て、と言って、皐が手を差し出す。その手には、彼女の繊細な手に相応しくない、無骨な大型自動拳銃の姿があった。
「君の目にはどう見えているか分からないけれど、これが『アイツ』を殺せる唯一の武器だよ」
「どう見えているかって……」おかしな事を言う、と司は思った。「拳銃にしか見えないけど」
「そっか。なら思った以上に私達の結びつきは強固なものなんだね」
 不可解な事を呟くと、皐は改めて話し始めた。
「そう。これは拳銃だよ。だけど、私自身でもある。私の一部というか、私の存在の延長線上にこの拳銃の存在がある、と言うべきかな。ま、拳銃であって私自身である。この拳銃はそういう存在なんだよ」
 皐が軽く拳銃を振ると、それは元から無かったかのようにかき消えた。
「まあ、当分の間、これは必要ないと思う。必要な時は、ちゃんと私が守ってあげるしね。問題はその前、君と私を引き離しにかかってくる場面だよ」
 皐は司の瞳を凝と見つめた。
「私が助けてあげられる所は助けるよ。だけど、君独りにならざるを得ない場面では、君自身に頑張ってもらわないといけない。その覚悟だけは、しておいて欲しいの」
「それはなんとかする。正直どうやって君と引き離そうとしてくるか、見当もつかないけど……」
 皐はその答えを聞いて微笑んだ。
「ありがとう。でも、この二、三日は何もないと思う。その間に、できるだけ探りを入れなきゃいけない」
「まずはそれを手伝ったらいいのかな」
「……うん。お願いばっかりでごめんね」
「気にする事はないさ。撲自身の為でもあるんだからね」
「ありがとう。だけど無理はしないでね」
「分かってる。それじゃそろそろ行く準備をしようか」
 司の一声で、朝のお茶会はお開きになった。

〈4〉

 登校中。司は気になる事がひとつあった。
「皐ちゃん、ずっと気になってたんだけど」
「何が?」
「敵の名前。今まで聞いていなかったから。いつまでも『アイツ』じゃ分かりづらい」
 皐は少し考え込むと、司の耳元に唇を寄せて囁いた。
「名前はあるんだけどね、この世界の言葉じゃ発音できないんだ。だからこの世界でなんて名乗ってるかはっきりするまで、『クラッカー』って呼ぶ事にしようよ」
「クラッカーか。分かった、それで行こう」
「それとね、司くん」
「どうしたの?」
「あんまりおおっぴらにこの事話すの止めてね。色々と危ない事になるから」
 言われて気がついた。
 確かにあまりおおっぴらにする話ではない。事情を知らない者が聞けばおかしな話をしているとしか思われぬであろうし、万一クラッカーにでも聞かれたら、こちらの正体は一発でばれてしまうだろう。用心に越した事はなかった。
「ごめん。これから気をつける」
「まあそんなに殊勝にならなくても大丈夫だとは思うんだけどね。今だって、ゲームか何かの話程度にしか思われてないだろうし」
「ゲームか……こっちはシリアスなんだけどな」
「クラッカーにとってはゲームみたいな物だよ。存在を弄ぶ事自体がね」
「こっちは命に関わる問題であっても、か」
「アイツにとっては自分以外の存在は無いも同然なんだよ。だから尊重する事も知らない、自分が他人に生かされている事も知らない」
「自己とは他者に認知される事で初めて自己たりうる、か」
「そのためには『伝える』という努力を払う必要があるよね。アイツはそれを放棄した。と言うより、最初から考えてもいない。自分独りで世界が有る、と勘違いしているのよ」
「世界、か……」
 司は空を仰いだ。青い。今日はいい天気だ。司は傍らの皐を振り返る。
「一体何なんだろうな、世界って」
「不特定多数の意識が造り出した、共通幻想だよ」
「辛辣だな。そりゃ確かにこの世界は造り出された擬似的な物かもしれないけど……」
「そういう意味で言ったんじゃないよ。気を悪くしたならごめん。でもね、世界は共通幻想で出来ている、というのも事実の一端ではあるの」
 皐は路傍の小石を拾った。
「これが石だという意識が、これを石にしている。もしこれが鉄であるという意識が多数であれば、これは実際には石であろうと関係なく、鉄になるのよ」
「黒も多数が白だと言えば白になる、か」
「身も蓋もない言い方だけど、そういう事。死んだ者を生き返らせる事はできないけど、生きている者を『殺す』事は可能なんだよ。何も本当に殺す必要はない。大多数から疎外された存在は、存在しないも同様。そういう意味で、その存在は死んだと同じ事という訳ね」
「ぞっとしない話だな」
「そうね。だけど最悪、私達はそういう状況に陥る事もあり得るんだよ。この閉ざされた世界では、クラッカーこそが擬似的な神であるという事を忘れないでね」
 皐は不意に苦笑した。
「何だかんだ言って、私もついぽろっと口にしちゃってるね」
「ああ、そう言えばそうだね」
 司は周囲をさりげなく伺った。ちらほらと登校してくる生徒の姿が見られるが、こちらに注意を払っている風には見えない。
「今の所、大丈夫みたいだ」
「そうだね。でもこれから注意しようね、お互い」
 司は頷いた。
 坂道を昇り終えると校門が見える。校門をくぐりながら皐はぼやいた。
「結構高校生も大変だよね。毎日あの坂道登らなきゃいけないなんて」
 やけに日常的なぼやきが、司には逆に可笑しい。笑いをかみ殺しながら答えた。
「まあ運動不足にはならずに済むさ。それに帰りは下りるだけだし。尤も、帰りにあれを登るのは勘弁願いたいけどね」
「それは同感。でもどうしてこんな高台に学校作ったんだろ」
「それはもう、今は亡き創立者に聞いてみるしかないね」
 下足室で上履きに履き替えて階段を上る。最上階の二組に辿り着いて、戸を開けながら司は「おはよう」と声をかけた。続いて皐が戸をくぐり「おはよう」と声をかける。すると何故か、教室内がどよめいた。
「どうしたんだろう、みんな」
 皐に問われたが、司としても答えようがない。訝しがりながら机の数を数える。今日は変化はなかった。ほっとしている所に、クラスの男女が数人で押し掛けてきた。
「おい斎乃。こりゃどういう訳だ?」
「……何の話だい?」
 司には心当たりがない。首を傾げていると、司を取り囲んでいる一人が、ご親切に教えてくれた。
「どうして斎乃くんと桂木さんが、一緒に登校してきてるの?」
「ああ、そういう事か」
 あまりに考える事が多すぎて、また皐がいる事があまりに馴染んでいたので、つい忘れていた。彼女はつい昨日、転校してきたばかりだという事実を。
 何にせよ、説明せねば納得してもらいようもない。司は脳内で事情を四捨五入して答える事にした。
「彼女、うちの父親の知り合いの娘さんでね。それでうちに下宿する事になったんだ」
 司の答えでまたしてもどよめく周囲。そこに爆弾を放り込んだのは、皐だった。
「司くん、大事な事言ってない!」
「大事な事って、何を?」
「私達、親公認の許嫁なんだからね!」
 その一言の効果は、絶大だった。
 叫ぶ者、悲嘆にくれる者、司に問いつめてくる者、皐を取り囲んできゃあきゃあ騒ぐ者。一気に大パニックである。司は思わず天井を仰いだが、皐は嬉しそうに女子に取り囲まれていた。
「桂木さん、斎乃くんのどこが婚約のきっかけになったのでしょう?」
「うーん、やっぱり優しい所、かな」
「そうだねー、やっぱり優しい男の子がいいわよね」
「あと司くんね、家事も上手なんだよ。将来も手伝ってもらっちゃったりしちゃおうかな、なんて」
「おお、すでに名前呼び!さすが許嫁!」
「いいなあ、家事のできる旦那さま!」
 などと女子は盛り上がっているが、司はそれどころではなかった。
「斎乃!お前桂木みたいな可愛い子といつの間に!」
「いつの間にって言われても……気がついたらそういう事になってた」
「気がついたらって……お前まさかもう全部済ましちまってるんじゃないだろうな!?」
「口約束だけだよ。手は出してない」
「それはそれでどうかと思うぞ。あんな可愛い子に手ェ出さないなんて」
「……それじゃ僕は一体どうしたらいいんだろうね?」
「解消しろ、婚約」
「それは無理」
「だああっ!やっぱり納得いかねぇっ!」
「斎乃、お前は心の友だと信じてたのに!」
「……いや、信じるのは勝手だけど。僕も一応健全な男子だし」
「じゃあなぜ手を出さない!」
「いや、そんなに飢えてないし」
 などと不毛なやりとりをしている間に、始業開始のチャイムが鳴り響くのだった。

〈5〉

 昼休み。
 司と皐は連れだって、屋上で昼食を摂る事にした。
 朝の騒ぎで辟易したというのも一因であるが、最大の理由は、人が少ないという所にある。何しろ、話を聞かれる心配をせずに済む。
 可愛らしい弁当箱を膝に置いて、皐が口を開いた。
「それじゃ真面目な話と不真面目な話、どっちにしようか」
 司はうんざりした顔で答えた。
「……真面目な話だけでいいよ」
「どうして?」
「不真面目な話は、午前中たっぷりさせられた」
「お気の毒様。でも私は結構いい気分だな。もうちょっとのろけたい気分」
「僕はもう勘弁願いたい……」
 こういう事は、女の子の方が神経が太いのだろうか。司は悩んだ。その顔を見て、皐がくすくす笑う。
「ごめんごめん。でもね、私嬉しかったんだよ。みんなに私と司くんとの関係を知ってもらうのが」
「嬉しかった?どうして」
「君と私との関係をみんなに知ってもらう。それはより大きな世界に自分を、自分たちを知らしめる事。私にもそれができるんだなって思うと、嬉しかったんだ」
「そりゃできるさ。君だって普通の人間と変わりはしないんだ。戦術戦闘知性体だからって、そんな事意識しなくてもいい。君は、君だ。だから僕は――」
 僕は、なんだ?僕は何を言おうとした?
 自分の発言に戸惑う司を、怪訝そうに伺う皐は、しばらく司の発言を待っていたが、諦めたように嘆息すると、おもむろに自分の弁当箱から卵焼きをひとつ摘んで、司の口元に差し出した。
「はい、司くん」
「……なに?」
「あーん」
「…………」
 しばらく拒否の構えで口を閉ざしていた司だったが、ついに諦めて皐の差し出した卵焼きを囓った。
「……美味い」
「よかった」
 嬉しそうに微笑む皐を見ていると、司も何だか幸せな気分になる。そんな自分の心境を悟って、ようやく司は理解した。
「……僕はきっと、君だから、契約したんだ。他の誰でもない、桂木皐という存在だからこそ」
「なあに、それ?」
「分からないなら、それでいいさ」
 微笑む司に、皐はむくれてみせたが、またひとつ嘆息すると、今度はミートボールを突きつけた。
「はい、あーん」
 今度は司は、躊躇せずに皐の手から食べる。皐は瞬きすると、司に問いかけた。
「どうしたの急に?嫌がらないなんて思わなかったよ」
「嫌がっていた訳じゃないさ。恥ずかしかっただけだよ」
「で、急な心境の変化はどうして?」
「秘密」
「ずるいなあ。パートナーに隠し事は厳禁なんだよ」
「隠してる訳じゃない。僕も今やっと、理解したんだ。それを上手く伝えられる自信がないだけさ」
「それならいいけど……」
 どこか納得のいかない顔で、皐は残りの弁当をつつく。そんな皐に司は問いかけた。
「それでどうする?消化に悪い話は後にしようか?」
 皐は弁当をつつく手を止めて答えた。
「ううん、食べながらでいいよ。時間もないしね」
「それじゃ遠慮無く質問させてもらうけど、君と僕を引き離そうとする、その具体的な手段を思いつくかな?」
「うーん、そうだねぇ」
 皐は宙を見つめて数瞬の間考え込んで口を開いた。
「例えば、先生の口から別居しなさい、って言わせるとか」
「なんだ、そんな事か」
 司は拍子抜けした。もっと悪辣な手段で来ると思っていたのだが。
「そんなの適当に言い逃れたらいいだけじゃないか。そんな恐れるべき事かな?」
「でも、別れなかったら退学だー、って話になったら困るでしょ?」
「そりゃまあね。でもそう来たら、どうしたらいいと思う?」
「司くんは、どうしたらいいと思う?」
 反問されて、司も宙をにらんで数瞬考え込んだ。
「言質を与えないで適当に話を終わらせるか、それとも相手の矛盾を指摘して突き崩すか、先生に味方を作っておくか、かな」
「上出来の部類だと思うよ。でも何せ相手は権力を持ってるからね。いざとなったら力づくで来るかもしれない。まあそうなったら、こっちの思うつぼだけど」
「やりたい放題か……好きじゃないな、そういうのは」
「まあ私だって、実のところは大差ないんだけどね。やろうと思えばこの学園中の人間を操れると思う。でもやらない」
「聞くまでもないと思うけど、一応聞いておこう。なぜ?」
「もちろん、そんな事をしても楽しくないからだよ。思い通りにならぬも想いのうち、ってね。思い通りにならないモノがあるから、生きている意味もあるんだと思う」
「生きている意味、か……」
 司は空になった弁当箱を置いて、腕を組んだ。皐が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「どうしたの、司くん?」
「僕たちの生きている意味とは、一体何だろう?」
「え?」
 きょとんとして見つめ返してくる皐を見つめながら、司は言を継いだ。
「君は前に言ったよね。この世界は観察されるための疑似世界だ、と。なら、僕たちの生きる意味とは、観察される事なのか?」
「そんな事はないよ!」
 語気を強めて、皐は断言した。
「観察されているという事実と、生きる意味とは何の関連もない。そもそも生きている意味なんて、自分自身で見つけるべきだよ。与えられるものじゃない。第一、観察の対象は世界そのものであって、個々人の生活を盗み見る事じゃないんだから」
「だったら、僕の生きている意味とは何だと思う?」
 皐は軽く嘆息した。
「司くん、結構ナイーブだよね。それを私に聞いてどうするの?私の答えを聞きたいのかな?」
「いや、君の答えを聞きたい訳じゃない。ごめん、聞いた僕が馬鹿だった。何故、こんな事を言ったんだろうな」
 司は首を左右に振った。さっきの質問の意図が、自分でもはっきりしない。そもそも、それを皐に聞いて、本当にどうするつもりだったのか。答えなど得られるはずもないのに。
 それとも……得られると思ったのか?尋常の人間でない彼女なら、その答えを啓示してくれるとでも?
 馬鹿げている。彼女は確かに尋常の存在ではないかもしれない。でも、それでも彼女は人間としてここにいるのだ。人が一生をかけてなお辿り着くかどうか分からない答えを、易々と啓示できるはずがない。あるいはそう思いたいだけなのかもしれなかったが、司にとってはどうでもよかった。
 皐が今、ここにいる事。それが今の司にとって大事なことだった。桂木皐の存在は、司の中でそこまで大きくなっていた。
 しかしそれとは別に、生きる意味と言うものは考える価値はある、と司は思う。それがこれからの戦いの役に立つかどうかは分からない。だが勝って、生き延びるつもりなら、この命題は重要だろうと司は思った。
 ふと司は、皐は自分の生きている意味をどう考えているのか、気になった。
「私の生きている意味?まずクラッカーと戦って、勝つ事。その後は、その時考えるよ」
 それが彼女の答えだった。
「その後の事を考えるのも楽しいけどさ、その前に負けちゃったら悔しいからね。だから私は、まず奴に勝つ事を考えてる。何より、アイツには負けたくない。私には守りたいものだってあるんだから」
「へぇ、そうなんだ」
 司が何の気なしに相槌を打つと、皐は赤くなってむくれた。
「まったく鈍感なんだから。守りたいものっていうのはね、まず君の事!それからこの世界。分かった?」
「それは……嬉しいけど、順序が逆のような気がするな」
「いいんだよ。私はどうせ正義の味方なんかじゃない、ただの戦術戦闘知性体なんだからね。私をこの世界に送り込んだ上位者の意図はともかく、世界を救ってみせる!なんてお題目は私には似合わない。それが今日分かった。私は好きな人の為に戦う。それが結果として世界のためになる。それだけの事だよ。戦う理由なんて、そんなちっぽけなものなんだと私は思うな」
 それは何となく司にも理解できた。国の為とか世界の為などより、もっと身近な、例えば自分の大切な人の為に戦う、という理由の方がリアルに思える。そんなちっぽけなリアルが積み重なった結果として、国が、世界が救われるのではなかろうか。
 なら、と司は考える。今、自分が戦う理由とは何なのだろう。
 この《異常》を終わらせるため。その通りだ。だが、それだけなのか。最初はそうだった。だが、いまは違う。隣に彼女が、皐がいる。彼女を助けたい、と考えている自分がいる。それこそが、司が戦う理由なのかもしれない。
 ならば、確かに負ける訳にはいかないな。司は心密かにそう思った。

〈6〉

 放課後までの間、特に変わった動きは見られなかった。普通に授業を受け、ホームルームで担任の話を聞き、無事に放課後となった。
 あまりにもあっけなく過ぎてしまい、司としては肩すかしを食らった気分になる。
「本当に、何も起こらなかったのかな」
 ひとりごちた司の言を、皐が聞きとがめた。
「そんなすぐに反応はないよ。ある程度は待つしかない。そう言ったでしょ?」
「そうなんだけどさ。それでも何だか落ち着かない物だね」
「慣れろ、とは言わないけど、我慢してもらうしかないね、悪いけど」
「そうだね。それじゃ帰ろうか」
 皐を促して、司は鞄を持ち上げた。皐も時分の鞄を取って、すぐに司の隣へ戻ってくる。そうして肩を並べて廊下を歩いていると、何だか微笑ましい気分になってくる。相手が戦術戦闘知性体だなんて、信じられなくなりそうだった。
「こうしていると、平和そのものなんだけどね」
「ずっとこのままならね。でも実際はそうじゃない。そうでしょ、司くん?」
「そうだね、その通りだ」
 忘れかけていたシリアスな気分を取り戻す。可愛い女の子と肩を並べて帰る、なんて事に浮かれていられるのは後の事だ。今は、真剣にならなければならない。司は問いかけた。
「どうする、まっすぐ帰るのかい?」
「それでも構わないけど、どうせだから校内を軽く一周してみようよ。なにか引っかかるかもしれない」
「そうだね」
 相談がまとまり、司と皐は渡り廊下から職員室前を通り、特別教室棟へ入る。
 人通りが減り、どこか寂しい雰囲気の中に、二人の影が伸びていた。
「クラブ活動している生徒くらいしかいない、か……」
「そうだね。正直、生徒の方はあんまり興味ないんだけどな。教員、特に管理職クラスが出て来てくれないかな」
「それなら、職員室を物色した方がマシだと思うけど」
「甘いなあ、司くん」
 皐は気取ってちっちっち、と人差し指を振った。
「こういう人気の無い所で接触してこそ、相手が罠を張りやすいんだよ。職員室なんて人目のある所じゃ、そうそう仕掛けてなんて来ない」
「物理的になにか危害を加えてくる訳じゃないだろう?合法的に僕たちを引き離したいなら、人目があろうと無かろうと、関係ない気もするけど」
「うーん、一理あるかな。でもやっぱり、偵察って意味じゃ、こういう人気のない所の方が向いてるんじゃないかな、お互いに」
「偵察か……」
 今は互いに相手の手の内を探り合っている、という訳だ。ならば、手駒の多い相手が直接間接でも手を出してくる可能性は低い。ならば、こちらから手を出してみて、相手の反応を見た方がいいのではなかろうか。
「皐ちゃん、やっぱり職員室に行こう」
 皐は驚いた風で司を振り返った。
「どうしたの急に?」
「いや、こうやってお互い睨み合っていても時間の無駄かと思ってね。藪を突いてみようと思ったんだ」
「そうね、それも一手かもしれない。そもそもの目的は挑発行動な訳だし」
「なら、こんな所を徘徊してるより、相手の目に付きやすい所の方がいいと思う。尤も、藪を突いて何が出てくるか分からない、というのはあるけれど」
「それを恐れてたらどうしようもないよ。大丈夫、とりあえず身の危険はないはずだし、もし万一にも物理的に危害を加えてきたら、それこそチャンスなんだから」
「分かった。君の言葉を信じる」
 二人は身を翻して職員室へ向かう、その刹那。背後から声をかけられた。
「おい、斎乃と桂木。こんな所で何してるんだ?」
 司達の担任教師だった。
「先生こそ、こんな所でどうしたんです?」
「俺は美術部の顧問だからな。それでちょっと顔を出しに来てたんだが……お前らは逢い引きか?」
 反射的に否定しかける司を制して、皐はすまして答えた。
「似たようなものですね。ちょっと二人で雰囲気に浸ってたんです」
 唖然として皐を振り返る司を眺めやって、担任はにやにやと笑う。
「なんだ斎乃、桂木の方が積極的じゃないか。そんなんじゃ将来尻に敷かれるぞ?」
「尻に敷かれるって……何でそういう話になるんです?」
「何だ違うのか?お前達が婚約してるって噂を聞いたんだが」
「もう先生まで知ってるんですか?」
 皐の問いに、担任は答えた。
「俺には比較的、生徒達の噂が流れてくるからな。他の先生方が知ってるかどうかまでは知らん」
「先生方の中で噂になってませんか?」
 重ねた皐の問いに、担任はにやりと笑う。
「安心しろ、まだ教師の間では話に上ってない。まあ時間の問題かもしれんが……」
 担任教師は、ぽんと司の肩を叩いた。
「大丈夫、俺はお前達の味方だ。それじゃ、あんまり遅くならんうちに帰れよ」
 言いたい事を言って、不良担任教師はひらひらと手を振りながら、職員室の方へ去っていった。その背を見やりながら司は苦笑する。
「何だかなあ、あの先生は……」
「でもいい先生じゃない」
「親しみやすい、って意味じゃその通りだね。まあそれを置いても悪い人じゃないと思う」
「そうだね。少なくともあの人はクラッカーじゃないと思う。反応もなかったし」
「イレギュラーとしての反応?」
「うん。私はクラッカーそのものを見分ける能力はないけれどね。イレギュラーを見つける事で、クラッカーである人間を絞り込む事ができるんだよ。私はそういう訓練に近いものを受けてる」
「なるほどね」
 戦術戦闘知性体である彼女の事だ。そういう技能を持っていたとしても、それ程驚くに値しないのかもしれない。むしろクラッカーを直接見分ける特殊な能力が無い事の方をこそ、驚くべきかもしれなかった。
「どうして君の上位者は、君に目標であるはずのクラッカーを、直接見分ける術を与えなかったんだろう」
「もちろん、そんなものがなかったからだよ。そんな都合のいいものがあったら最初から使ってるよ」
「確かに……」
「それに、イレギュラーな存在を見分ける事ができたらそれで十分。クラッカーを見分けるのはさほど難しくないから」
「直接見分ける術はないのに?」
「うん。奴の行動原理は利己中心的なもので、もう病気といってもいいくらいのレベルだからね。この世界においてイレギュラーな存在で、なおかつサイコパスだなんてクラッカー以外にはまず存在しない」
「でも可能性はゼロじゃないのか……」
「大丈夫、この限られた範囲でサイコパスなんかがごろごろ存在してたまるもんですか。何度も言うけど、サイコパスは病気よ。まともな社会生活なんて送れないほどのね。そんな存在が学園内にいたとしたら、間違いなくクラッカーだよ」
「社会生活を送るのが困難なのに、学園内に存在する……たしかに矛盾だけど、逆にどうして学園内に居なくてはいけないのかな?それが不思議だ」
「ここが閉鎖された世界の中心だからね。ここにクラッカーがいるのは多分間違いないと思う。ここにいられて、さらにまともな社会生活を強制されない立場の者。それが恐らくクラッカーだよ」
「そんな都合のいい立場の人間なんているのかな?」
「いるよ、必ず。それを探し出すの」
 皐の瞳は真摯で、迷いは見られない。その瞳は純粋に美しいと司は思う。
 彼女の深い深い色の瞳を見つめながら、司は口を開いた。
「分かった。君がそう言うのなら信じる。だけど、見つけたらどうするんだい?即、あの拳銃で撃つ?」
「それができれば話は早いんだけど……そうもいかないんだよね。それだと最悪、私はただの殺人犯になってしまう。勿論この世界では、だけど、私という存在ははもうこの世界のものだからね。そういうのはちょっと困るかな」
「なら、暗殺でもするのかい?」
「それに近いかな。誰にも気付かれない空間でクラッカーを殺す。それができるようにアイツを追いつめないといけない」
「難しいな」
「確かに難しいね。だけどそうしないと私達は殺人犯だよ」
「それも勘弁願いたいな。全く面倒な話だ」
 軽く嘆息してぼやく司に、皐は躊躇いがちに声をかけた。
「司くん、後悔してる?私と関わった事」
「……どうして?」
 司は驚いて皐を見つめ直した。
「君はこの《異常》を正すために頑張ってくれているんだろう?その手伝いが僕にできるんなら、当然手伝うさ。僕だって当事者なんだから」
 皐は顔を伏せると、軽くため息をついた。
「司くんは、いい人だね」
「……え?」
「私、君を好きになってよかったよ」
 司は照れるよりも先に不審を感じた。それと同量の不安を感じて問いかける。
「唐突だな。どうしたんだい、いきなり?」
 皐は顔を上げ、司と視線を合わせて言った。
「君は私の事を信じてくれてる。信頼されてるっていうのは嬉しい事だよ。私、こんなに信じてもらえるとは思ってなかった。そしてここまで助けてもらえるとも。だからね、余計に嬉しかったんだよ」
 そして皐は微笑む。優しく。
「だから私、頑張って君の事を守るね。そして君の信頼を裏切らないようにする。それが今の私の、君への愛だよ」
「愛、か……」
 司は照れ隠しに頭を掻いた。
「僕は君へ返せる愛を持っていない。だから君への信頼こそが、僕の愛、という事になるのかな」
「それで充分だよ」
 皐は司の腕を両手で抱きかかえる。柔らかな感触に司はおおいに狼狽えたが、皐は意に介さず、腕を放したりはしなかった。


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