幻想世界譚 06

〈7〉

 夕食を食べて風呂に入り、部屋に戻った司はベッドにひっくり返った。
 皐はあの後も終始ご機嫌で、今日の夕食も作ってくれた。味も申し分なく、幸福な夕食だったのは間違いない。皐が終始にこにこと、司の食べる様を見つめていたのが唯一の難点だったろうか。
 その皐も、今は風呂に入っている。そんな生活が二日目であるにも関わらず、妙に司に安らぎをもたらすのが、不思議と言えば不思議であった。
「……逆かな」
 呟いて、司は寝返りを打った。これが二日目であるからこそ、こうも安らぎを感じるのかもしれない、と司は思う。この生活に慣れてしまえば、この安堵感は日常の中に埋没し、当たり前の事としてしか受容できなくなるのだろう。
 今、手の中にある幸福を、幸福として感じられるのはとても幸せな事だ。人間の感性というものはしばしば欠陥を持っているもので、幸福が掌からこぼれ落ちて初めて、その幸福が感じられる事など珍しくもない。
 しかし、と司は考える。皐と一緒に過ごすこの時を大事にしたいと思う心、それは事実だ。だが同時に、それが日常になってほしいと願う心も同時にある。
 皐が側にいる事が日常となってなお、彼女と過ごす時を大事にできるかどうかは分からない。だが大事にしたいと思う。
 ……昨日出会ったばかりの少女に、ここまで心酔してしまうとは、司にとっても意外であった。だが同時に事実でもある。こうして独りでいても、考えるのは彼女と過ごす時間の事だ。それこそ彼女に傾倒してしまっている、という証であろう。
「おかしな話だな」
 声に出して、呟いてみる。なにがおかしいのか、判然としないままに。そしてもう一度寝返りを打って、気がついた。
 彼女との関係は、元々もっとシリアスなものであった。そのはずだ。それがいつの間にか、自分は彼女にこんな感情を抱いている。抱いてしまっている、と言い換えてもいいかもしれない。
 何故だろう。
 彼女が女の子だからか。美人だから?それも一因かもしれない。だがそれは細事だと司は思う。容色ではない、もっと深い所。それを知る事ができた故に、彼女にこれほど惹かれるのだろう。
 たった一人で、この世界に舞い降りてきた戦乙女。過剰に形容するならば、彼女はそういう存在だった。司にとって。
 そしてその戦いに、自分が必要だと言ってくれた彼女。その瞳。深い深い色のそれに引き込まれる様に、自分は彼女に惹かれたのだと思う。
 真っ直ぐな視線で、この戦いを教えてくれた彼女。それは間違いなく戦いに赴く者のそれだった。
 だが同時に、彼女にも存在した。自分と同じ年頃の少女の感性が。
 そのギャップ。その矛盾を抱えてなお戦おうとする彼女は、司にとって美しかった。誰よりも。
 それ故、承知したのだろう。自分もこの戦いに参加する事を。
 彼女を愛したが故に。
 しかしそれを後悔したりはしない、と司は誓う。自分自身に。
 そして、負けない。誰にも、何にも。負けてなどやらない。ましてやクラッカーなんかになど。
 絶対に勝つ。自分と、彼女の為に。
 天井を睨み付けて誓う司の耳に、控えめなノックの音が聞こえた。続いてノックの音に相応しい声が届く。
「司くん、起きてる?もう寝ちゃった?」
 司は半身を起こしてその声に答えた。
「いや、起きてるよ」
「よかった」
 ドアを開いて、パジャマ姿の皐が顔を見せた。
「どうしたの、こんな夜更けに?」
「ホットミルクでもどうかな、って思って」
 そう言って皐は、両手のマグカップを司に掲げてみせた。司は頷く。
「いいね、頂くよ」
 司はベッドに腰掛けたまま、皐から湯気の立つマグカップを受け取った。皐もその隣に座って、何となしに二人で、無言のままに温かいミルクをすする。
 しばしの間、二人を沈黙が包んでいたが、それを破ったのは皐の方だった。
「あのね、明日の事なんだけど」
「……うん」
「ごめんね、私すっかり浮かれちゃってて。何にも考えて無くて」
「それは僕だって同じさ。今までずっと別の事を考えてた」
「別の事?」
 訝しがる皐に、司は頷いてみせた。
「ずっと君の事を考えてた。昨日会ってから、今までの事を」
「私の事を?どんな事?」
 質問は単純だったが、答えは単純になり得ない。司は頬を掻いて照れ隠しすると、白状した。
「いつから、君に惹かれていたのか。その事を、ずっと」
「そっか。嬉しいな」
 皐は優しく微笑むと、両手で包んだマグカップに視線を落した。
「私もね、さっきまでずっと、明日の朝ご飯何にしようか、お弁当はどうしようか、とか、そんな事ばっかり。何にしたら、司くんが喜んでくれるかなって」
 司は皐の横顔を盗み見た。頬が赤い。それを見てまた、照れくさくなってくる。そんな微笑ましい気分も、皐の一言で溶け去った。
「でもね、ホントはもっと、シリアスでなきゃいけないんだよね、私達。なのになんでかな。自分自身を日常の中に埋没させてしまいたくなってくる。私は、戦うためにここにいるはずなのに」
「日常を求める心、それ自体が悪い事だとは思わないよ」
 司は答えた。
「確かに今の状況はシリアスだ。毎日、どこかで誰かがデータを書き換えるように入れ替わっている。そんな日常は異常だ。だからそれを解決できる以上、僕たちは戦わなくてはいけないだろう。だけど……」
 司は全身の勇気を振り絞って、皐の肩を抱いた。
「日常を求める心。それを忘れたらいけないと思う。それこそが、僕たちが取り戻すべき物なんだから。それを忘れないためにも、当たり前の日常を演じる事も、決して悪くはないんじゃないかな」
「司くんは凄いね。そんな事まで考えてたんだ」
 皐は司に肩を抱かれたまま、穏やかに感嘆した。司はかぶりを振る。
「どうかな。正直今のは、僕の願望でもある。そうあってほしいなという、ね。でもひょっとしたらそんな悠長な事、許されないのかもしれないけど。だけど少なくとも、君には有効だと思う」
「私に?」
「うん。君は戦うだけの存在じゃない。僕は君に、それをもっと自覚して欲しい。君は僕が好きだと言ってくれた。君は人を愛する事ができるんだ。それはとても凄い事だと、僕は思う」
「私も、そう思うよ」
 皐は頷いた。俯いたまま。
「愛するとは、相手を自分と同等だと認める事。そして相手を他者だと認める事。矛盾しているようで、しかしこの二点がなければ、人を愛する事なんてできない。他者を単なる自己の一部としてしか見ない恋愛は、決して上手くいく事はない。だけど司くん。私は君を他者だと認めつつ、自分と同等の存在だと認めた。自分でも驚いてる。私にこんな高度な精神世界を築く事ができるなんて、思ってもみなかった」
 思ってもみなかった、か。何故だろう。司は考える。それは簡単だった。彼女は戦いのために生まれた存在だった。それ故にだろう、と。
 司は再び口を開いた。
「言うなれば君はずっと、クラッカーに照準を合わせたままの銃みたいなものだったんだ。その照準の外を見る事がなかった。だから自分には出来ないと、思いこんでいたんだ。だけど違った」
 司は軽く、皐を抱き寄せる。
「照準の外を見てみれば、君は多感な少女に過ぎなかった。だからこそ、君には与えられていなかったんだ、多分」
「……何を?」
「自己保全システム。君が本当は持っていなければいけなかった物」
「……あ」
 今まで忘れていたのだろう。皐は複雑な表情を浮かべていた。
「だから君はクラッカーから照準を外さざるを得なかった。自己を保証してくれる存在を探すために。しかもそれを、自分と同等の存在に求めなくてはいけなくなった」
「その通りだけど……ひょっとして、それは計算されてた事なのかな?」
「それは分からない。多分永久に分からないだろう。何せ僕たちには確かめる術がない。だけど結果的には、それでよかったのだと僕は思う。少なくとも、僕にとってはね」
 皐はくすっと微笑んだ。
「私にとっても、だよ。おかげで、君と出会えたんだから。もし君が自己保全システムなのだとしたら、きっと今までで一番優秀なシステムだよ。何せ、戦術戦闘知性体に愛という概念を教えたんだから」
「戦術戦闘知性体に、愛は必要ない概念なのかな。必要なら最初から持っていると思うんだけど」
「愛は誰もが生まれつき持っているものじゃないよ、司くん。愛は人との関わりの中で育てていくもの。それを避けている限り、本当の愛は生まれない。私がもし純粋に戦術戦闘知性体として行動していたら、愛を知らない人間になってたと思うよ」
「……それは、悲劇だな」
「そうだね、私もそう思う。そう思えるようになった事自体が、私という戦術戦闘知性体を、単なる戦うための存在から逸脱させているんだろうね。私は最早、単なる兵器じゃない。それが、兵器としての性能を低下させたとしても」
「君は兵器なんかじゃない。独立した個性をもった存在だ。それを純粋な兵器として使う方がおかしいと思う」
「多分、私を送り込んだ上位者達も、純粋な兵器なんて望んでなかったんじゃないかな。でなければ私に個性なんて与える訳ないし。だとしたら、司くんの説にも信憑性が出てくるね」
「戦術戦闘知性体に愛を与えるために、自己保全システムを搭載しなかった、か。ロマンチックだな。しかし君の上位者というのは、一体何を考えているんだろうね。つくづく訳が分からなくなってくる」
「矛盾だらけの上位者、だね。でも、おかげで私は司くんと出会えた訳だけど」
「……自分で言っても恥ずかしい台詞だけど、他人に聞かされると、もっと恥ずかしいな」
 む、と皐はむくれる。
「自分が先に言った癖に、そういう事言うんだ」
「……ちょっと、後悔してる」
「何を後悔してるの?」
 皐は妙に食い下がってくる。司は目を白黒させながら答えた。
「もちろん、無闇に恥ずかしい事を口にした事だよ。でも、君と出会った事を後悔した事はない」
「なんだか、司くんが女たらしに見えてきたよ」
「冗談は止めてくれ。僕がそんなにモテる訳ないじゃないか」
「自覚症状ないんだ。重症だね」
「勘弁してよ……」
 司は頭を抱えた。その様子を見て、皐はため息をつくと表情を和らげた。
「しょうがないから、今日はこのくらいで勘弁してあげる。でも覚えておいてね。司くんは、私のパートナーで婚約者なんだからね。必要以上に他の子と親しくしてたら許さないんだから」
「そんなに親しい子なんていないよ」
 司の抗弁に、皐は白眼を向けた。
「どうかなあ。司くん重症だし。相手は案外……って事、あるんじゃない?」
「それは……困るな」
「ふーん、どうして困るのかな?」
 全然勘弁してくれてないじゃないか。司は心の中で呻きながら答えた。
「勿論、君がいるからに決まってるじゃないか。他の女の子の入る余地なんてない」
「ホントに?」
「本当だよ」
 他に何があると言うんだろう。司は訝しげたが、皐はぶつぶつと独りごちている。と、不意に皐はキッと顔を上げると、司に問いかけた。
「それじゃ、もし私が身を引いたらどうするの?」
 司はまじまじと皐の顔を見つめた。どうやら冗談を言っている訳ではないようだ。司は答えた。
「それは困る」
「なにが困るの?」
 しつこく食い下がってくる皐に、司は穏やかに告げた。
「君がいなくなったら困る。シリアスなパートナーとしてもだけど、僕は……君の事が、好きだから」
「…………」
 自分で問うておいて、皐の方が真っ赤になって沈黙してしまった。そんな姿もしかし、司は愛らしいと思ってしまう。そう素直に、思えるようになった。
「どうやらもう、開き直ってしまった方がいいみたいだ」
「開き直るって、何を?」
「僕が君を好きだっていう事。言い訳は色々あるかもしれないけれど、はっきりしてしまった方が余計な誤解も心配もさせずに済むと思うから」
「私は別に心配なんか……」
 皐の反論は、空しく語尾が掠れて消えてしまった。その言葉と彼女の表情を見て、司はくすくす笑った。
「司くんの意地悪」
 皐はむくれたが、司の笑いが収まらないのを見ると嘆息した。
「嘘。結構、心配した。だって私は戦術戦闘知性体であって、人間じゃないんだもの。いつそれが司くんの負担になるか、恐れてるのも確かだよ」
 司は首を左右に振った。
「僕はそんな事気にしない。第一、クラッカーさえ殺してしまえば、この世界は元通りになるんだろう?そうしたら君も普通の人間と変わらない。ちょっと変わった力を持っているかもしれないけれど、そんなのは些細な事さ」
「些細な事、か。そう言ってくれるのは、でも多分司くんだけだと思うな」
「だとしても構うもんか。ばれなければいいんだ」
 皐はくすりと笑った。
「随分と乱暴な意見だね。もしバレちゃったらどうするの?」
「その時はその時さ。君の力を使ってみんなの記憶を書き換えてしまえばいい」
「そんな事をしたら私もクラッカーと一緒になっちゃうよ。司くんも追われる事になるんだからね。あんまり考え無しにそんな事言っちゃ駄目だよ」
「なら、そうならないように自粛するしかないね」
「そうなるのかな。尤も、今それを言っても始まらないんだけれどね」
「鬼が笑うかもしれないな」
「ホントにね」
 二人して、くすくすと笑いあう。暖かな雰囲気が二人の間に流れた。
 しばらくして笑いを収めると、二人の間を流れる空気が一変する。真剣なそれに。
「それじゃ真面目な話しよっか、司くん」
「そうだね」
 そうして二人して居住いを正す。話は皐が切り出した。
「今日の話、どこまで広まったかな」
「『婚約』ね。多分一年の間には広まったんじゃないかな」
「狭いなあ。先生達の間まで広まってくれないとどうしようもないんだけどな」
「仕方ないさ。うわさ話にだって、広まる速度に限度はあるだろうし」
「やっぱり待つしかないみたいだね」
「だね。問題はそれまで冷やかされ続ける事だけど……」
「人の噂は七十五日続くんだよ。クラッカーを倒そうが倒せまいが、多分当分の間は冷やかされるのを覚悟した方がいいと思うけど?」
「やれやれ」
 司は頭を振った。皐はともかく、司としてはやはり、あまり嬉しくない話だった。
「それでも我慢するしかないか……少なくともクラッカーを殺してしまえば、少しは心理的負担も減るだろうしね」
「二ヶ月間耐えてきただけでも、司くんは十分偉いと思うよ。このツケはクラッカーに払わせてあげる。絶対に」
 意気込む皐を見て、司はふと疑問に駆られた。
「不思議なものだな。皐ちゃんよりも僕の方がクラッカーを憎んでしかるべきなのに、なんだか僕は未だに他人事のように話している。クラッカーを見逃すつもりはないけど、だからといって奴を憎むには、まだ何か足りない気がするんだ」
「それは司くんがクラッカーの実像を知らないからだよ。概念だけで個人を憎めるほど、人間は強くない。あるいは、そこまで妄執的でない、と言うべきかな」
「それでも僕はクラッカーを殺す決意をしている。負けたくないとも思う。これも先入観という概念じゃないのかな」
「司くんは実際にクラッカーの被害にあってるじゃない。確かに直接確認できた訳じゃないけど、私が奴の脅威を教えた。先入観という段階は、もう超えていると思う。だからといって、憎むまでにはまだなにか足りないんだろうね」
「憎む、か……」
 司は部屋の片隅にあるテレビに目をやった。その箱からは、愛憎悲喜こもごもの現実がブラウン管越しに見やる事ができる、はずだった。
「憎む、というのも強い力なんだろうな」
「そうだね、愛憎表裏一体とも言うし、ひょっとしたら愛する事と同じくらい、憎むという行為には力があるのかもしれない」
「憎む力、か。あまりぞっとしない話だな。だけど実際、僕たちはその力でクラッカーに対抗しようとしてるのか……」
「何かを憎めない者に、誰かを愛する事なんてできないと私は思うよ。全てを愛する事なんてできないんだから。だからといって、憎む事ができるものが全て、誰かを愛しているかと言えばそうでもないんだけど」
「クラッカーは、誰かを憎めるんだろうか?」
「クラッカーのようなサイコパスにも、憎むという行為自体はできると思うよ。だけど、決して愛するという事はできない。愛を知らない者が、どれだけ憎むという行為に真剣になれるかは疑問だね」
「愛を知る者は憎しみを知る。だが憎しみを知る者が愛を知るかと言えばそうでもない、という訳かな」
「その通り。憎むという行為は個人で可能だけど、愛するという行為は必ず他者が必要とされるんだもの。他者というものを認められない限り、憎む事はできても愛する事は出来ない。これはクラッカーの様なサイコパスに限った話じゃない。普通の人だってしばしば陥る状況だと私は思うな」
「だろうね。クラッカーの様な特殊な人間でなくても、憎む事はできても他人を愛する事ができない人間っていうのは多い。人を愛しているつもりでも、実際はそうではない人間もね」
 司の言葉に、皐はふと、心配げな表情を見せた。
「司くん。私達の『好き』は、本当の愛情なのかな。それともやっぱりお飯事(ままごと)に過ぎないと思う?」
 司は毅然として答える事ができた。
「例え今はお飯事に過ぎなかったとしても、僕たちはそれを愛に変える事ができるはずだ。愛するための努力を、忘れない限り。僕たちはクラッカーとは違う。僕たちは相手から逃げたりしない。そうだろう?」
「……そうだね」
 皐は頷いた。はっきりと、自信を持って。
「愛を忘れない限り、私達は負けない。クラッカーにも、誰にも」
「誰にも、か。僕たちは別に、世界を征服する訳じゃないんだけどな。クラッカーにさえ負けなければいいと思うけど」
「司くん、忘れてる?クラッカーに勝っても、先生達に負けたら、私達別居しなくちゃいけなくなるんだよ?」
「ああ、そういう問題か」
 司は苦笑した。確かに皐の言う通りであるが、あまりに個人的な話なので忘れていた。しかし、対クラッカー戦においても、これは負けられない戦いなのだったと思い出す。皐の前言が、それを指していたのかどうかは分からないが。
「そうだね、確かに負けられない。負けたくはないな。僕も今では、君と離れて暮らすなんてごめんだ。君と、人と共に暮らす事の安らぎを思い出してしまったから」
 真情だった。もう、元に戻る事はできそうにない。万一また独りになってしまったら、今度は慣れるまでに相当の時間を必要とするだろう。しかし、それは弱くなった、と言う事なのだろうか。
 それは違う、と司は思う。
 孤独に耐えるという属性は強さに値するが、かといって他人のぬくもりを忘れるという事はまた別の話だろう。それが煩わしい、という人間もいるだろうが、それは強さではなく、他人と関わる強さを持たない、ということではないだろうか。
 他者と関わるという事は難しい。煩わしいと思う時は司にもある。だが、人が人である以上、それは逃れられない、逃れてはいけない事だ。
 他者と関わる。それ自体が、人が生きるという一要素なのだから。
「クラッカーは、きっと他者と暮らす事の楽しみも苦しみも、知らないんだろうね」
 司の言葉に、皐は頷いた。
「だろうね。アイツは他者という存在を認めていないから。自分の思い通りになるものだけがアイツの世界。それ以外は世界に存在していないもの。そんな奴が他者と関わる事のなんたるかを知っているとは思えない。ひょっとしたら偏見かもしれない。だけど、アイツ自身がその偏見を増長してきたのは事実だよ」
「だとしたら、僕が感じているこの幸せも、クラッカーは知らない訳だ。考えようによっては哀れにも思えるな」
 皐は凝然と司を見つめた。
「司くん、ひょっとしてクラッカーに同情してるの?」
 司はかぶりを振った。
「同情というほどのものじゃない。見ず知らずの相手に対して無条件に同情するほど、僕は傲慢にはなれない。ただ思ったんだ。そいつは不幸な奴だな、と」
「やっぱり、司くんはナイーブだね。悪い意味でも、いい意味でも」
 皐は軽く嘆息した。
「私は正直、そこまでクラッカーの事を考えた事なかった。アイツは倒すべき目標、悪い奴だとしか思ってなかった。だから司くんの感想は新鮮だったな。だけどね、司くん。クラッカーに限らず、犯罪者にそんな思いを抱くのはやっぱり傲慢の一種に入ると私は思う。どんな境遇であれ、他者を踏みにじっていいという事はない。それが許されるのは、自分自身でしかないんだから」
「うん。僕もそう思うよ。だからこれは、個人的な感慨に過ぎない。それを実際の行動に反映させる事はないさ」
「……そっか」
 皐は安心したように微笑んだ。
「もし、司くんがクラッカーを助けてやろう、とか言い出したらどうしようかと思ったよ」
「それは有り得ないな。僕だってクラッカーには酷い目に遭わされているんだ。今更助けてやろうなんて気分にはなれない。だからそんな心配は無用だよ。クラッカーは僕と君の、共通の敵だ。絶対に倒す」
「そうだね。私達の平和な学園生活を取り返す為にも」
「まあ、その為にはまず、先生達をだまくらかさなきゃいけないんだけど」
 皐は肩をすくめた。
「面倒だけど、仕方ないよ。多分クラッカーは先生達より偉い立場にいるはずだし、そうすると、先生達は間接的あるいは直接的に支配されている可能性もある。少なくとも先生達は、クラッカーにとって情報収集用のアンテナの様な立場にあるのは間違いないと思う」
「生徒は、そうじゃないと?」
「うん。さすがにそこまで手は回らないんじゃないかな。生徒は弄んで楽しむだけの対象でしかないんだと思う」
「……何にしても、人のやる事じゃないな。いや、クラッカーは人じゃないのか?まあ何だって構わない、許せないのは変わりないだけど」
 皐は考え込む素振りを見せて、口を開いた。
「私やクラッカーが人間でない、というのは、ある意味ではその通りかもしれないけど、クラッカーは文字通りの人でなしだからね。私とアイツを隔てているのは、多分その点なんだと思う。他にも探せば細かい点は出てくると思うけど、それが一番大きな差違かな」
「充分な差だと思うよ。少なくとも僕にとっては、人間かどうかなんて関係ない。関係するに値するか否かが問題なんだから」
「私は関係するに値する存在なのかな?」
 皐の軽い問いに、司は頷いた。はっきりと。
「当然だ。僕は君との関係を冗談なんかで済ませるつもりはないよ。僕は相手が君だから、パートナーである事を認めたんだから」
「婚約者である事は?」
 皐は続けて悪戯っぽい問いかけをしてくる。しかし司は真面目くさって答えた。
「勿論、認めてるさ。正直、最初はどうかと思ったけど。それでも僕は、君に惹かれていたからね。次第にそれでも構わないかという気持ちになってきたんだ」
 ふと心づいて、司は皐に問いかけた。
「君の事を誰にも渡したくないと考えるように、僕はなってきた。だけどこれは、つまらない独占欲によるものなんだろうか。僕は君を愛しているつもりだけれど、それが単なる独占欲による自己満足であったら、君にとっては迷惑でしかない。君はどう思う?」
「過剰な欲は誰にとっても益にはならない。だけど、欲が過小すぎてもやっぱり迷惑になる事もあるんだよ」
 それが皐の答えだった。
「司くん。愛するという事は美しい事だけど、一方で欲というものも認めないといけない。自分にそれがあることを認めてなお、他者を愛せるか。それが愛するという行為、他者との関係性だと私は思う」
 皐はマグカップを置いて、司の顔を両手で挟みこんだ。そして凝と司の瞳を見つめる。深い深い色の瞳で。
「私にも、司くんを独占したいという思いはあるよ。そしたら君は私の事嫌いになる?」
「そんな事はない」
「私だって同じだよ。だからそんな事、心配しないで。私は司くんの事、好きだよ。この世界に存在して初めて、好きになった人」
 そう言い終わると、皐は瞳を閉じた。そしてそのかんばせが迫ってくる。その意味を正確に把握して、司の動悸が速くなる。だが逃げたりはしなかった。皐を抱きしめ、司も瞳を閉じる。
 唇が触れ合うだけの接吻。だが触れ合っている時間は、二人には長く長く、それでいて貴重に感じられた。


よろしければ感想をお願いします。

『作品タイトル』『評価(ラジオボタン)』の入力だけで
送信可能なメールフォームです。
勿論、匿名での投稿が可能になっております。
モチベーション維持の為にも、評価のみ送信で構いませんので、
ご協力頂けると有り難いです。

メールフォームへ移動する前に、お手数ですが
『作品タイトルのコピー』をお願い致します。

ここをクリックすると、メールフォームへ移動します。


←前へ 目次へ 次へ→