幻想世界譚 08

〈3〉

 皐の戦術の、効果は覿面だった。
 その日の放HR後、司と皐は担任に声をかけられて、二人して教壇の所で話を聞いた。
「どうも、おかしな話の風向きになっててなあ」
 それが担任の第一声だった。
「先生方は特に気にしちゃいなかったんだが、教頭の奴が五月蠅くてな。上の方に話を持っていっちまったらしい」
「上?」
 皐が問い返すと、担任は首肯した。
「ああ。どうやら校長飛び越えて、理事長の方まで話が行ったらしい。二人とも、お呼びだそうだ」
「どなたがですか?」
 皐が重ねて問い返す。担任教師は首を左右しながら答えた。
「理事長先生だ。二人とも、大学棟の理事長室までお呼び出しらしい」
 全く、どうかしてる。それが担任の感想だった。
「別に構わんと思うんだがなあ。今時同棲の一つや二つ、そんなに目くじらたてることでも無かろうに」
「そうですね」
 適当に相槌をうちながら、司は考えた。
 思った以上に動きは早かった。これも皐の戦術が正しく作用した結果だろう。しかし話が早すぎる気もする。まさかいきなり理事長とは。黒幕が自らお出ましになったと考えるべきだろうか。
 司は皐の方を見やると、彼女と目が合った。
 その目が言っていた。行ってみれば分かる、と。
 確かにそれしかない、と司も覚悟を決める。
「悪いがちょっくら行ってきてくれ。話が悪い方向に行くようなら、適当に誤魔化して構わんぞ。俺からも口添えしてやるから」
「ありがとうございます」
 担任の言葉はありがたかったので、素直に礼を言っておいた。
 無論、内心の声など聞かせる必要もないことである。
 教室を出てしばらくは、二人とも無言だった。話す事が無かった訳ではない。無関係の者に、話を聞かれる事を警戒した結果だ。
 大学棟の広い前庭に出て初めて、皐が口を開いた。
「司くん。クラッカーだと思う?」
 誰が、と聞き返す必要も無かった。無論、理事長の事だろう。司は左右を軽く見回す。私服の大学生が、高等部の制服を着た二人を珍しそうに見ているが、話を聞かれている風ではない。それを確認して、司は答えた。
「どうだろう。話が早すぎる気もする。だけど、この学園でこれ以上の地位は見当もつかない。とすると、相手がクラッカーである可能性はあると思う」
 それが、司が考えた末の結論だった。
 どんな事にも可能性はある。無論の事、理事長がクラッカーでない可能性は十分にある。だが、この河淋学園においてこれ以上の地位が望めない以上、最上位にいる理事長を疑ってかかるのは当然だろう。まさかPTAだとか教育委員などがクラッカーだとは思えない。実質的な権力を持っているという点においては、理事長こそが最有力候補であると考えたのだ。
 行ってみれば分かる。
 確かにその通りだが、その事実とは別に、やはり心の準備は必要だった。相手がクラッカーであるかどうか考える事は、心の準備運動としては申し分ない。
 皐も同じ気持ちなのだろう。でなければ、わざわざ問いかけてきたりなどしない筈だ。司の推測を裏付ける様に、皐は言葉を返してきた。
「そうだね。最上位っていうのが、いかにもクラッカーらしいと思う。だけど前哨戦無しで、いきなり決着をつけるつもりなのか、それは分からないけれど」
「何か罠があるかもしれない、か……」
「考え過ぎかもしれないけどね。用心するに越した事はないと思う。要は相手にたぶらかされない事だよ」
「基本戦術は変わらない訳だね」
「うん」
 大学棟の校舎内に入る。
 既に遅い時間の為か、生徒達の姿は意外と少ない。奇異の視線は向けられる事はあるが、特に声をかけられる事もなく、司達は目的の部屋の前へ辿り着く。
「随分とすんなりたどり着けたね」
 司は皐に問いかける。皐は頷いた。
「好都合には違いないけど、気に入らないなあ。作為的なものを感じる」
「クラッカーの干渉権は取り上げたんだよね。なのにどうやって作為を凝らしたんだろう」
「能力が使えなくなっても口があるよ。今の所、権力はアイツが握ったままなんだから」
「なるほどね」
 司は目の前の扉を見つめる。先入観の所為か、その無機物にすら、あまりいい印象を受けなかった。
「随分と立派な扉だな」
 ひとりごちて、皐を見やる。皐は頷く。
 司は意を決して、扉をノックした。
「はい」
 意外な事に、野太い男の声の返事であった。
ともかく、用件を伝える事にする。
「高等部一年の斎乃司と桂木皐です。理事長先生の呼び出しに応じて参りました」
 司が声を張り上げると、内側からドアが開いた。顔を出したのは、野太い声に相応しい、体格のいい中年男だった。
「話は聞いている。入っていいぞ」
「どうも」
 形ばかりの会釈をして、中に入る。どうやらあの扉は理事長室の前室、秘書とかボディガードの控え室の扉だったらしい。向こう側に、重厚な扉がもう一つある。
「理事長先生はあちらだ」
 男が指し示した方向は、まさしくその扉であった。
「失礼の無いようにするんだぞ」
 そう言って、男は席に着いた。強面だが、ひょっとしたら親切な男なのかもしれない。何となく可笑しい気分になりながら、司達はもう一つの扉の前に立つ。深呼吸を一つ。そして司は皐に声をかける。
「……いくよ」
 皐は頷いた。それを確認して、司はノックの手を伸ばした。コンコン、と堅い音が響く。数拍おいて、中から「入りたまえ」と返事が返ってきた。渋いバリトン。
「失礼します」
 そう前置きして、二人は部屋の中に入った。
 扉の対面に重厚なデスクがあり、デスクと扉の間に、高級そうな応接セットがある。とりあえず応接セットのソファの後ろで、二人は立ち止まった。
 デスクに着いていた男が立ち上がる。先ほどのバリトンに相応しい、ダンディな中年紳士といった容貌。司と皐は、それぞれその男を注視していたが、不意に皐が囁いた。
「イレギュラーだよ、あの男」
 つまりまた一つ、相手がクラッカーである可能性が増えた訳だ。しかし司がそれについて意見を囁き返す前に、男、理事長が歩み寄ってきた。
「二人とも、立っていないで座りたまえ」
 そう二人に告げて、自分もソファに身体を落ち着かせる。他に選択の余地もないので、司と皐も理事長に習って対面のソファに座った。
「自己紹介は必要でしょうか?」
 皐が口火を切った。理事長はその口調を聞いて、僅かに眉をひそめた。
「そう喧嘩腰になる必要はない。もっと楽にしたまえ」
 いちいち偉そうな男だな。司は心の中でひとりごちた。先入観という奴だろうか。しかし理事長の言葉、ひとつひとつが癇に障るのは確かな事実だった。この男の態度、言葉、それぞれが何となく、気にいらない。だが表情に出す事は避けた。
「だが一応、君達の名前を確認しておきたい。自己紹介をお願いできるかな」
 司の内心を知る由もなく、理事長はどこか尊大な口調のまま、司達に告げた。
「分かりました」
 内心の不快感を表に出さないように気をつけながら、司は頷いた。
「高等部一年二組、斎乃司です」
 司の簡潔な自己紹介の後、皐も名乗った。
「高等部一年二組、桂木皐です。この学園には六月から在席しています」
 二人の言葉に、勿体ぶって頷くと、理事長はおもむろに口を開いた。
「という事は、君達は今月の頭から同棲しているという訳だね」
「同棲じゃありません。同居です」
 司は抗弁した。しかし一笑に伏される。
「年頃の男女が同じ屋根の下で暮らすんだ。それは世間一般的に、同棲と言うのではないかね?」
「あの家は僕の両親の家です。双方の両親の許可は取っています。他に、何か問題があるでしょうか?」
「そうだな。世間体、という奴なんだ。問題はね」
 あくまで理事長の態度は、どこか尊大だった。常識的な事を言っている様で、しかしどこか押しつけがましい。大人とはそういうものなのかもしれないが、しかし妙に尊大さが鼻につく。司の偏見かもしれないが、それを殊勝に是正する気にはなれなかった。
 この男は、気に入らない。
 最初からいい印象など持ち合わせていなかったが、司はこの理事長を徹底的に嫌いになる事に決めた。
 司の印象などお構いなしといった風で、理事長の演説は続いた。
「ご両親の許可は取ったと君は言っていたが、しかし失礼ながら、君達のご両親はあまり教育に熱心ではないようだ。そんなご両親を、こう言っては何だが、君達は利用したのではないのかね?」
 落ち着け。司の理性はまだ警告を発し続けていた。しかし油断すれば、その箍が外れそうになる。それにしても、両親を侮辱されてここまで腹が立つとは、司にとっても意外ではあった。
「両親を侮辱するのは止めてください。確かにいい加減な両親ですが、教育方針に対しては、僕は間違っているとは思いません。それを非難する事は理事長先生、あなたの学園経営方針を非難する事ではないですか?」
 初めて、理事長の余裕に満ちた表情が崩れ、一瞬苦々しげな表情を見せた。
 続いて皐が発言した。
「司くんのご両親はこの学園の経営方針に賛同したからこそ、司くんをこの学園へ通わせたのです。そして私の両親は、司くんのご両親の話を聞いて、私をこの学園へ入学させました。その判断が間違っていたとは私は思いませんし、思いたくはないのですが?」
 二人の攻撃的な論法は、理事長の機先を制したようであった。たかが一学生にしてやられるとは、この男は思っていなかったに違いない。しかしその思惑に乗ってやる義務も必要も、司達にはなかった。
 それに、と司は思う。この男を論破して精神的に追いつめる事は、この男の化けの皮を引っぺがす唯一の手段だ。そう簡単に、負けてやる訳にはいかない。
 忘れるな。この男は、単なる理事長などではない。この世界を混乱させているクラッカーなのだ。
 決定的な証拠は、まだない。だが実のところ、司はもうそれを疑ってはいなかった。
 それに、どの道ここで論破される訳にはいかないのだ。この男がクラッカーであろうとなかろうと、それは変わらない。ならば疑ってかかっても、どの道やる事に変わりはない。
 理事長は、苦虫を数匹噛み潰した様な表情で吐き捨てた。
「それとこれとは話が別だ。君達の不純異性交遊と、私の経営方針とは何の関係もない」
 皐が鋭く反論した。
「関係あるように見せたのは、理事長先生ご自身です。関係ないと仰るのでしたら、私達の両親を侮辱した事も、取り消して下さい」
「分かった、取り消そう。悪かった」
 あくまで苦々しげに、理事長は訂正した。
 ふと司は考えた。この男の、今の内心はどうなっているのだろう。単なる口巧者なガキ、と思っているだろうか。それはないだろう、と司は思う。たかが同棲騒ぎごときで、理事長という立場の人間が一介の学生に会う訳がない。この男は、別の理由で自分達に会う必要があったのだ。別の理由、それは世界の改変に関わる事に他ならない。それ以外に、この男が自分たちに会う理由など無い!
 状況証拠に過ぎない。だが充分だと司は思う。決定的な証拠といえば、皐がこの男をサイコパスだと見抜く事だろう。だがそれは難しいのではないか、と司は思う。精神的な病理を見抜く事は、専門家でも難しいはずだ。皐とて素人ではないだろうが、難しい事に変わりはない。
 司は皐を見やる。もう充分ではないか、と目で訴える。その視線を受けて、皐は司を見た。しかし小さく首を左右に振る。まだ早い、と言いたいのだろう。司は了解する。皐の真意までは、残念ながら分からないが。
 所詮、他者を真に理解する事など無理な話なのだろう。そう思う司の心は、しかし冷めてはいなかった。むしろ、皐への信頼感が強まっている。自分にないものを、彼女は持っている。それを信じようと司は思うのだ。
 信じる事も疑う事も表裏一体で、どちらが真でどちらが偽とも言えぬ。だが司は彼女を信じると決めた。だから皐の判断を信じる。この感覚を、クラッカーは理解できるだろうか。他者に依頼する、という感覚を。
 無論、クラッカーに理解される必要など無い。だが興味として、司は考えるのだ。もしクラッカーが、自分と皐との関係を理解できたとしたら、このような事は起きなかったのではないか、と。今からでも理解できるだろうか、この男は。自分と皐との、この関係を。
 できないだろう。
 それができるのであれば、他者を、その存在を弄ぶことなどできよう筈もない。他者への共感、想像力。それらが絶対に必要なのだ。関係性というものには。
 司が物思いにふけっている間も、皐と理事長の戦いは続いていた。
「そもそも理事長先生、どうして私達ごとき一介の高校生の行状にあなたともあろう方が関わり合いになるのですか?」
「私は憂慮したのだ。君達の行状を見逃せば、我が校の校則に悪しき前例が残る、と。そんな事態は、私の良心が許さなかったのだよ」
 良心ね。司は欠片も信じなかった。見れば皐も、信じていない様子である。自分の言葉を信じて疑わないのは、どうやら言葉を発した当人だけのようであった。
「ご立派な事ですね」
 とでも皮肉を返してやろうかと思ったが、止めた。こいつは、それを肯定の返事と捉えかねない。押しつけがましい大人にはありがちな事だ。こいつもまた、そういう奴だという気がする。
「仮にお伺いしますが、もし司くんの家を私が出るような事になったら、私はどこに住めばいいんですか?」
 皐の言葉に、理事長は満足げに頷いた。どうやら自分の話を受け入れるつもりがある、とでも誤解したらしい。それは後で是正してやる必要があるな、と司は思った。
「学園の寮を用意しよう。男子女子とも、部屋にはいつも若干の余裕を持たせてある。君のような、飛び込みの生徒があるかもしれないからね。今回こそ、それが役に立つ時が来たと考えるべきだろう」
 皐は眉をひそめて口を開いた。
「ですが、私が伺った話によると、今年度はもうその予備分も含めて空きが無くなってしまった、という事なんですが?」
 理事長の顔が、音を立ててひきつった。
「馬鹿な!そんな筈はない!」
 叫びながら席を立つと、理事長は隣室のドアに歩み寄って荒々しく扉を開けた。隣の様子は分からないが、驚いているのではないだろうか。
 理事長は隣室の誰かと話している、いや一方的に怒鳴り散らしているらしい。その様子を肩越しに振り返りながら、司は皐に囁きかけた。
「何をしたんだい?」
 皐はくすりと笑った。
「何をしただなんて、司くん人聞きが悪いなあ。私が何かできる訳ないじゃない?」
「そうかな?理事長のあの慌てようから見て、あれは相当に予定外の事だったように思えるんだけど」
 そう言って皐を悪戯っぽい瞳で見やると、皐も同種の瞳で見つめ返してきた。
「司くんはお見通しなんだね。うん、やったよ。寮の入居者リストを書き換えて、寮の空き部屋を埋めちゃったんだ。尤も記録上の話だけで、クラッカーの様に実際にそこに人を配置するような事はしてないけれど」
 司は少し心配になった。問い返す。
「それじゃ寮を調べられたら、バレちゃうじゃないか」
 しかし、皐は余裕だった。
「ご心配なく。一部屋一部屋を見て回るなんて、そんな手間のかかる事、実際にできる訳ないじゃない。寮の管理なんて、関わっているのは一部の人間だけで、それ以外の人間は記録をみる以外に確認のしようがないんだもの。後は寮母さんのような、寮の経営に実際に関わっている人達の記憶を一時的に書き換えてしまったら、一丁上がり」
「……なるほどね」
 戦術戦闘知性体の本領発揮、という訳か。司は納得した。
 しかし、考えてみれば曖昧な事だと司は思う。ただのデータに過ぎない記録と、たった一握りの人間の記憶を書き換えてしまえば、それで全体を欺く事ができるというのは。しかし現実に、こうして今も、敵を欺く事ができてしまっている。それがまるで魔法のようで、司には信じられない気分だった。
 そんな司の気分を見透かしたように、皐が話しかけてきた。
「司くん。現実というものはこんな風に、とても曖昧で崩れやすいものなんだよ。現実というものを保証しているモノは、共通幻想としてのデータに過ぎない。後は変容しやすい記憶という曖昧なものだけが人というモノの現実を成り立たせている、と言える。だけどそんな不確かなものだからこそ、尊重し、守らなければいけないものなの」
「不確かだからこそ、尊重しなければならない、か。なんとなく、分かるよ」
 そうしなければ、不確かな現実というモノは綻びて、いつか破綻してしまう。破綻したそれもまた現実のひとつではあるのだが、しかしそうなれば、不幸になる者が大勢でることになるだろう。そんな現実は、あまり見たくはない。そして司と同じように考える人間がまだ多数であるからこそ、現実は一見茫洋として流れ続けているのではないだろうか。
 英雄、または偉人と呼ばれる人々の事を、司は考える。彼らもある意味では、現実の破壊者だった。既存の世界を破壊して生まれた鬼子。
 だが、彼らが単なる破壊者と一線を画すのは、彼ら自身が新しい現実というものを明確に示す事ができた、という事だろう。言い換えれば彼らも、構想というデータに基づいて行動したということでもある。データというモノは、恐らく人間が思っている以上に、人間が人間である事を支えている代物なのだろう。時にはそれに操られるほどに。
 今はまさに、そういう状態なのだ。人間がデータに操られている状態。正確にはクラッカーは人間ではない、少なくともこの世界の人間ではないが、同じ事だ。
 ひょっとするとデータとは、人間が生み出したモノではなく、最初からこの世界に満ちていて、人間が取り出した物はそのごく一部に過ぎないのではないか。ふと司は、そんな幻想に駆られた。この世界が、世界発生装置というマシンの中にある存在なのならば、ありそうな事だ。
 司はこの奇妙な空き時間の間に、それとなくこの考えを皐に伝えた。
「それは、データというモノの定義によるんじゃないかな」
 冷静な、それが皐の答えだった。
「人間も一種のデータの集積物に過ぎない。そう考える事は可能だけど、だからといって今問題になっているのは、そういう壮大な話じゃないもの。今私が操ったデータというのは、あくまで人間が生み出した物。それと世界という膨大なデータの集積物とを一概に混同するのはどうかと思うな」
「フム……」
「でも、この世界におけるデータという存在が、人間の手を放れて怪物化してきているというのは確かだよ。人間はデータを操っているつもりでも、実際にはデータがなければ何もできない。そんなモノが牙を剥いたらどういう事態になるか。そう考える司くんの畏れは、私は理解できるよ。私も、そうだから」
「戦術戦闘知性体である君が、データを自在に操れる君が、畏れを?」
「言ったでしょ?操っているつもりが操られているかもしれない。私だって、その可能性はあるんだから。私のこの行動も、また誰かによって操られているのかもしれない。そう思うとぞっとする」
「結局最後は、自分で自分を信じるしか無い訳だ」
「それと、自分を信じてくれる人を信じる事、だよ」
 理事長が戻って来る。司と皐は雑談を中断して、相手に集中した。
「いや、申し訳ない事をした」
 引きつった声の、それが理事長の第一声だった。
「今、女子寮に人を遣って、確認を取らせている。部屋の方は、問題ないはずだ」
 司は内心で舌打ちした。この男は、それ程他人の言葉が信用できないのか。それともデータに信を置いていないのか。尤も、単に自分の思い通りに事が進まなくていらだっているだけかもしれない。相手がクラッカーなら、全てが自分の思い通りにならねば気が済まない、サイコパスなら、ありそうな事だ。
 それとも、この期に及んで事態の認識が甘いのだろうか。戦術戦闘知性体の力を侮っているのか。だとしたらありがたいのだが。
 どちらにせよ、これだけでは判断のつけようがない。相手の言葉をもっと聞く必要がありそうだった。
「それで万一、女子寮が満員でしたら、私はこのまま司くん、いえ、斎乃君のお宅に滞在するという事でよろしいのでしょうか?」
 皐の言葉に、理事長は首を振った。
「いや、そういう訳にはいかない。女子寮が満員だった場合は、学園側が責任を持って、君の間借りできる部屋を用意しよう。勿論、保安面でも安心な部屋を用意するよう、約束させてもらうよ」
「お言葉ですが、安全面から言っても、斎乃君のお宅は問題ありません。それに二人ですから一人暮らしをするよりも、精神的に心強いのですが」
「その、二人というのが問題なのだよ」
 イライラと、理事長は机の端を指で叩いた。
「親御さん達が同居しているならともかく、君達のような年頃の男女が二人、一つ屋根の下に暮らすというのは、不健全だ。私は教育者の端くれとして、その様な行状を見過ごす訳にはいかない」
「不健全と仰いますが、斎乃君と私は既に数日、一つ屋根の下で過ごしていますが、理事長先生の仰るような事は起こりませんでしたが」
「たった数日ではないか。たかがそれだけの事実を持って未来を保証できるものか。君達は健全な男女だ。いつ何時間違いが起こらないとも限らん」
 今まで黙っていた、司が反論した。
「間違いなど起こしませんよ。少なくとも法的に責任を取れる様になるまでは」
「法的に責任を取る?」
「結婚する、という事です。僕と、桂木さんが」
「結婚?君は今幾つだ。十六歳だろう。あと最低二年も一つ屋根の下に暮らして、間違いが起きないと?不可能だ!」
「やってみなければ分かりませんよ、そんな事は」
 相手の正論に対して、いちゃもんを付けているだけだという事は、発言している司にも十分に自覚がある。それでも、相手に言質を与える訳にはいかなかった。絶対に、負ける訳にはいかない。
 それにしても、学生、子供とは戦うに不都合な立場だ、と司は思う。これがせめて教員同士ならば、ここまで面倒な事も起こらなかっただろうに。尤も、いちゃもんを付ける気になればどのようにでもできるであろうが、しかし『責任を取る』という発言が真実味をもって受け取られるであろう事は疑いない。子供ではそうはいかない。それを今、実感している。同じくらい、あるいはそれ以上にこちらは真剣なのに、受け取られ方がまるで違うのだ。自分の言葉が、子供の戯言程度の説得力しか有しないのは、悔しかった。
 いっそ全て、ぶちまけてやったらどうだろう。その行為に思い当たって、司は一人、身震いした。その震えは、不確定な未来に対する畏怖か、それとも武者震いか。しかしそんな身体の反射的な反応など、どうでもよかった。真剣に、今の考えを考慮してみる。
 全てを洗いざらいぶちまける。それは最終手段だ。予定では、相手の方から馬脚を現させる事になっている。しかしそれは、今の現状では難しくなってきていると言わざるを得ない。ならば、こちらから正体を見せたらどうなるだろう。相手がクラッカーならばそれでいいし、万一人違いであったなら皐の操作によってこの場を誤魔化す事も可能なのではなかろうか。しかし前者ならともかく、後者の場合は、皐は拒否するかもしれない。自分の正体を隠すためとは言えど、世界に余計な干渉をする事になる。それを皐が肯んじ得るかどうか、一種の賭になる。
 そう。この手段は博打だ。しかもあまり部の良い賭けではない。そんなものに、自分と皐の命運を賭けて良いとは思えない。消極的だろうか。しかし賭けるのは、自身と皐の人生だ。慎重になって過ぎるという事はないだろう。
 結局、司の思案は振り出しに戻る。消極的な現状維持。しかし今はそれが最善手かと思われた。じり貧だが、どうにか食い下がっていくしかない。諦めたら、負けだ。しかも、シリアスな。
 負ければ、司はいずれ遠からぬうちに狂うだろう。間違いなく。皐という切り札を失ってしまえば彼は世界に対する戦いを起こす事はできない。
 皐もまた同様だろう。彼女の方が悪い運命になる可能性は十分にあった。下手をすれば、実験動物として扱われる、という未来すら予想できる。そうでなくとも、皐とて、精神的には司と大差ないメンタリティしか持たないのだ。彼女も、いずれは狂ってしまうに違いなかった。
 自分と彼女は、運命共同体なのだ。引き離される事もできない程の。引き離されたら、終わりだ。戦いを続けられなくなる。
 しかし、相手の言っている事もまた建前上は正論そのもので、反論する事は難しい。あと一手、なにか欲しい。自分たちと相手の立場を、同等にする、一手が。
「理事長先生。あなたは、理事長なのですよね?」
 考えた末、司の口をついで出た言葉は、それだった。虚を突かれた風で、理事長は答えた。
「無論、その通りだが。それがどうかしたかね?」
「ええ。どうもおかしいな、と思いまして」
 何故教頭が、学園長をすっ飛ばして理事長に話を持っていったのか。それが第一の謎だ。
 第二の謎は、その話を聞いて、理事長自身が乗り出してきた事だ。それも熱心に。
 考えてみれば、これはおかしな事だ。何故、理事長という地位にいるものが、たかが一学生の挙措に、それほど興味を持つのか。
 司はその疑問を、そのままこの場に、ぶちまけた。
 途端。理事長の表情が数転した。酢を飲んだ様な表情から、怒り、そして苦虫を噛み潰したかのような表情に。どうにか表情を取り繕うと、理事長は口を開いた。
「先程も話したはずだ。私は君達の行状を見逃して、この学校の風紀が乱れる事を恐れたのだ。君達をわざわざここへ呼び出したのは、それだけの理由に過ぎんよ」
 ここしかない、と司は思った。理事長の動機、これこそが自分たちが攻めるべき箇所。
 やはり理事長は、自分達に含む所があるのだ。
 司も皐も、所詮は一介の学生に過ぎない。大多数の者にとっては。そうでないとすればそれは、皐が戦術戦闘知性体であるという一点のみである。それも、やはり大多数の者にとっては何の関係もない事だ。皐の正体に、彼女が戦術戦闘知性体であることに関心を持たざるを得ないとすれば、それはその者がクラッカーであるからに他ならない!
「それだけ、とは思えません」
 司はそう切りだした。
「それだけの理由で理事長先生、あなたが僕たちに興味を持つとは思えない。この学校の校風はリベラルで、生徒の自主性が重んじられている。先生達の態度からもそれは明らかだ。だからこそ僕は、両親の薦めでこの学校に通う事になったんです。それを今更、生徒の行状に嘴を突っ込むなんて不自然だ。僕と皐ちゃんとの関係などこじつけに過ぎない。あなたは僕たちに、否、皐ちゃんに関心を持たざるを得なかった。だから呼び出したんだ、僕たちを」
 回りくどい事を考えた、結果として単刀直入になってしまったのは、これは性格なのだろうか。自分はもっと、慎重な感性を持っていると司は思っていたのだが。しかし事実として、今更後には引けない状況に、司は自らを追い込んでいた。しかしだからといって怖じ気づいたりはしていない。その事については、司は自分自身を誉めてやりたい気分だった。
 皐の方を見やる。意外と驚いた風には見えなかった。内心ではどう考えているか知れないが。しかし仮に、彼女が内心で司を罵っていたとしても、もうどうしようもない。司は内心で皐に謝りながら、先を続けた。
「何故皐ちゃんに関心を持ったか。持たざるを得なかったのか。その理由を確認する手だては、あなたと皐ちゃんしか持っていないだろう。逆に言うと、それができるのは、理事長先生、あなたが皐ちゃんと同等の存在だからだ」
「……これは驚いた」
 理事長の舌は、滑らかに動いていた。少なくとも声がひび割れているという事はなかった。内心はどうか、知れないが。
「桂木君が、私と同等の存在?馬鹿げている。何が同等なのかな?彼女と私とでは、立場が違う。持っているモノも違う。そんな我々が、どう同じだというのかね?断っておくが、同じ人間だ、などという答えは勘弁願うよ」
 司は落ち着き払って答えた。
「ええ。同じ人間だ、などとは言いませんよ。何故なら、あなたは人間ではないのですからね。勿論、皐ちゃんも」
 その場を、沈黙が支配した。あまり心地よい沈黙ではなかった。司にとっては。気恥ずかしいとか、失敗への不安ではない。ただ、相手の、理事長の反応が、どう転んでも不快な物であろう事を本能的に察知していたからかも知れない。
 実際、理事長の反応は不快だった。嘲るような低い笑い。それが段々高まって、耳障りな笑い声が空々しく部屋の中に響いて消えていった。
 ひとしきり理事長が笑う間、司は無言・無表情で相手の反応を見つめていた。皐も少なくとも無言で、笑い声を聞いていた。それがかえって相手の興を削いだのだろう。そらぞらしく理事長は笑いを収めると、せきばらいをついた。
「お気は済みましたか?」
 わざとらしく、司は問いかける。気分を害した声で、理事長は答えた。
「何故君にそのような事を言われねばならないのかね。いつの間に、君がこの場を仕切っているんだ?この場の主人は私だ。私が、君達に問うているんだ。君達はその質問を聞き、答えて以後、身を慎む。それでこの場は収まる。そうではないかね?」
「違いますよ」
 司の答えは明瞭だった。
「理事長先生も、心にもない事を言って誤魔化すのは止めたらどうです?それだけでこの場を収められたら、困るのはあなただ」
 言葉を紡ぎながら、司は自分の言葉に納得していた。
 そう。自分達は勘違いしていたのだ。引き離される事を恐れ、それ故に相手を過大評価していた。こいつは、そんな事は思いもつかなかったに違いない。こいつにとって他者とは玩具に過ぎない。そんな奴が、他者の関係性に思いを馳せて、その弱点を突こうなど思いつくはずがなかったのだ。こいつは単に、自分の玩具だと思っていたモノを取り上げられて逆上し、その憤慨を当事者にぶつけようとしていたに過ぎない!
「どうして困るのか。それはあなたが人間ではないからです。故に人間以外の価値観の元で考え、行動する。人間を操ろうなどという、人間の常識では考えられないモノに執着している。それができなくなったからこそ、あなたは逆上して、僕たちを捜し出した。あなたが、正当な権利だと勘違いしているモノを取り返すためにね」
 理事長は鼻を鳴らした。
「……滑稽極まる話だが、仮に君の話が正しいとして、どうして私が君達と対峙せねばならないのだ?私には手足になる秘書が何人もいる。彼らに任せず、私自身がそんな危険を冒すメリットがあるのかね?」
「あなたにしかできない事だったからだ。僕たちから、世界に対する干渉権を取り上げる、という行為はね。あなたにとって自分の命の次に大事な物だ。多少のリスクには目を瞑る気にもなったでしょう」
「馬鹿げている。世界に対する干渉?私が、そんなモノを求めている、と?斎乃君、君はSFだか何だか知らないが、妙なサブカルチャーに汚染されてしまっているようだね」
 小馬鹿にされても、司は怒る気になどなれなかった。事実、その通りだ。常識で考えたなれば。しかし。
「馬鹿げた話だとは我ながら思いますよ。しかし事実だ。世界への干渉による支配だなんて馬鹿げた事を考えた者がいる。僕たちはその干渉を排除した。そうすれば相手が必ず動くだろう事は予測できたからだ。そして動きはあった。あなたに呼び出された事ですよ、理事長先生」
「……私が君達を呼びだしたのは、生活指導の為だ。それ以外の何物でもない」
 司は冷ややかに言い返した。
「虚勢を張るのも結構ですが、あなたは玩具の無い状態で、あと幾日も我慢できますか?僕たちはその気になれば多少の距離など問題にならない。だが、あなたは違う。でなければ、半日も待たずに僕たちを呼び出したりする筈はない」
 ……二人の討論を聞きながら、皐は一人、実は驚いていた。イレギュラーと言えどただの人間に過ぎない、そんな司が、クラッカーと同等以上の舌戦を繰り広げている。舌戦であるからこそ司にも勝ち目はあるのだが、しかしこうも見事な戦いができるとは、正直皐は思っていなかった。
 しかし一方で、その驚きを喜んでいる自分も、皐は見いだしている。思った以上に面白いパートナーだと思う。自分が、好きになった人は。
 見れば、クラッカーは完全に逆上しかかっている。あれではボロを出すのも時間の問題だろう。後は決定的な一言、それだけでいい。自分からクラッカーだと認める訳もないが、しかし『あの一言』があれば、この眼前の男がクラッカーであるという状況証拠は、完成する。そして、追いつめられれば正体を見せるに違いない。その時こそ、自分の出番だ。
 皐はいつでも行動できるようリラックスしながら、その時を待った。
 一方で、司と理事長の舌戦は、徐々に熱を帯びていっていた。
 理事長の怒声が響く。
「何故私が、理事長の私が、こんな滑稽な議論で、しかも責められねばならんのだ!?」
 理事長が熱くなるほどに、司の冷徹さには磨きがかかるようであった。
「勘違いしているかも知れませんが、あなたのその理事長という肩書きも、もはや恒常的な物ではなくなっているのですよ。それどころか、この部屋もね」
 これはさすがに虚喝(はったり)だ。しかし実力に基づく虚喝だった。確かに今の皐ならば、この男の、理事長という肩書きを奪う事もできるし、この部屋自体を、どこか別の部屋に通じるものに変える事も可能だ。別にそれを教えられていた訳ではないが、司は結果として効果的な虚喝を使う事ができていた。
 事実、理事長は目に見えて狼狽していた。皐も司の善戦に対して貢献しなければならないだろう。この部屋の空間を、実際の理事長室から切り離す。これで、小さな世界が完成する。司と皐、そしてこの男の、三人だけの世界が。
 作業を完了すると、久しぶりに皐も口を開いた。
「理事長先生がどうお考えになっているかは存じませんが、世界とは単一の物ではないのです。複数の価値観が混じり合い、その共通点、妥協点が一見した所が、仮に『世界』と呼ばれているのです。世界は共通幻想によって成り立っている、と言い換えてもいい。そんな『世界』を単一の価値観によって束縛し、支配しようなど、そもそも無理があったのですよ」
 理事長は無言だったが、司は頷いた。
「自己の世界とは、他者に認識される事によって成り立つ。どんな優れた世界でも、他者と交わってコミュニケートを取らない限り、つまり相手に伝えない限り、それは単なる幻想に過ぎない。あなたは、それが分かっていない。伝えようと努力すらしていない。それは、自己と他者に対する、『世界』に対する冒涜ですよ」
「……それが、どうしたと言うのだ?」
 理事長の、理事長であった男の声は、複数の感情に揺らめいていた。怒り、焦り、不安。
「茶番はたくさんだ!私に対して偉そうに説教するなど、貴様らは何様のつもりだ!?私はお前達の上位者だ。お前達は私の言う事に素直に従っていればいいのだ!!」
「確かに、これ以上の言葉は必要なさそうね、クラッカー」
 宣言した皐のその声は、以前司が見たものと同位の威を放っていた。
「あなたの、いえ、お前のその一言が聞きたかったの。お前の望み通り、茶番劇は終わりにしてあげる。全て」
 その言葉が、終わりの始まりを告げる鐘だった。


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