幻想世界譚 09

〈5〉決着

〈1〉

 黄昏時の室内には、今も三人しかいなかった。司と皐、そして理事長。刻々と沈みゆく夕日を受けて、世界から隔絶された室内は、奇妙に非現実めいて感じられた。尤も、実際に非現実的なやりとりをしているのだが。
 しかし、真剣だ。少なくとも、司と皐にとっては。眼前の、この男はどうだろう。この男も、命がかかっている、はずだ。しかし男からは、怒りは感じられても身の危険を感じておののいている様な印象は受けない。この期に及んで事態の認識が甘いのか、それとも身の危険を感じていないのか。どちらにしても、油断はできない。
 三人とも、既に立ち上がってはいたが、しかし距離を離すでもなく、近づくでもなく、互いに腕を伸ばせば届きそうな距離にいる。誰も、動かない。動けない。下手に動けば、それが身の危険に直結するかもしれない。その危惧が、司と皐を縛っていた。しかし、このままでは埒があかないのも確かだ。
 身体を動かせないなら、口を動かしてやれ。司は意を決して、口を開いた。
「何か言い残したい事はないか、クラッカー?」
 ぴくり、と眼前の男、理事長=クラッカーの眉が動いた。
「戦術戦闘知性体の威を借りて、ずいぶんといい気なものだな、斎乃司」
 司は挑発に乗らなかった。鋭く切り返す。
「認めるんだな。自分がクラッカーだと」
 尤も、ここで仮に認めずとも、理事長の先の発言が、彼がクラッカーである事を雄弁に物語っている。戦術戦闘知性体という単語を知っているという事自体が、彼の正体を司達に教えるようなものだった。
「どうせ知らないだろうから、教えてやる」
 押しつけがましい口調で、クラッカーは舌を動かした。
「そこの女、戦術戦闘知性体はな、自分が目標だと信じた者を、問答無用で攻撃する。それが本当に正しいか否か、関係なくだ。間違っていたとしても、悔いる事など無い。そんな奴らなんだよ、戦術戦闘知性体という存在はな」
 皐が、司を振り向いた。それを横目で見やって、司は答えた。
「それがどうした」
 その答えは、残る二人の意表を突いた。クラッカーはあからさまに動揺し、皐は一応、表面上は反応を見せず、二人は司の言葉の続きを待った。
「僕はお前の言葉など信じない。それが例え事実だとしても、だ。僕はお前を信じない。お前自身が、僕に信用されないように行動してきたんだ。第一お前が、戦術戦闘知性体を非難する事などできやしない。お前がやってきた事を、自分で考えてみるんだな。尤も、それができるのなら、最初からこんな事をしたりはしなかっただろうが」
 流暢にクラッカーを弾劾する司はしかし、必ずしも自分の心のまま、言葉を口にしている訳ではなかった。
 反省する、振り返るという行為も、重要な事だと司は考える。それがどういう行為であったとしても、だ。済んだ事は仕方がない、と言ってしまえば全ては惰性のまま流れ、いつか緩慢に滅びていくに違いないのだ。
 しかし同時に、こうしたらどうなるか、それを想像するという行為、それも同じくらいに重要な事だと司は考える。自分の行為によって周囲にどういう影響を与えるか、それを考える事によって、自分と周囲との距離を測る事ができる。相手を思いやる事もできる。
 想像力。それは人間がコミュニケーションを取るにあたって、非常に重要な役割を果たしているのではないだろうか。この行為で、相手がどう思うか、或いはどれほど傷つくか、それを我が身に返って考えてみる事。それが、人間が人間たりえる事の条件であろう。
 この男には、クラッカーには、それが無い。想像力の欠如。これもサイコパスの特徴のひとつである。
「お前は……お前には、正義というものがないのか?それでよく、俺のやる事が非難できるものだな!」
「だんだん化けの皮が剥がれてきたな。そうだ、それでいい。下手に紳士面されているとこちらもやり難い。それで僕の正義だが、答えは簡単だ。お前を何としてもぶっ殺す事、それが僕の今の正義だ。何か文句あるか?」
「文句あるか、だと?お前は……お前という奴は……」
 それ以上は咄嗟に言葉が出てこないようで、クラッカーは歯ぎしりをして黙り込んだ。憎々しげに睨み付けてくる視線を、司は表面上は平然と受け止めたが、内心は快適とは程遠かった。怖いと言うよりも気色の悪さが先に立って、背筋を嫌な汗が一筋流れる。そう、クラッカーとは生理的な嫌悪感を抱かせる相手なのだ。サイコパスとはみんなこういう奴ばかりなのだろうかと、司は考えた。しかし彼自身の思いとは別に、司の舌は動き続けている。
「お前に正義の何たるかを教えてもらう必要はない。お前が自分の正義の元に行動しているように、僕たちも自分の正義の元に行動する。ぶつかり合うなら、強い方が勝つのみだ。それを、お前も望んでいるんだろう?決着が、着く事を」
 勿論、望んでいるだろう。ただし、自分達とは、正反対の結末を。だとしても、司達がそれを甘受する必要はなかった。ぶつかり合うなら、戦って、勝つまでだ。明言した通り。その決意は揺らぐ事はない。だがクラッカーの次の発言には、意表を突かれた。
「お前を、イレギュラーを生んだのが、この俺だとしても、それでも俺を殺せるか、斎乃司?」
「僕を生んだのが、お前だって?」
 司の反応に気をよくしたのか、クラッカーは胸を反らせた。
「そうだ。俺がこの世界に入り込んだからこそ、本来生まれる事の無かった、お前という存在がこの世界に現れたのだ。言ってみれば俺は、お前の生みの親だ」
「クラッカーらしい詭弁ね」
 それまで黙っていた皐が、遂に口を挟んだ。
「お前の言う通り、斎乃司というイレギュラーはお前がいなければ存在しえなかった。だからといって、お前がそれを恩に着せる謂われは無い。お前が、それを目的として行動した訳ではないからよ。目的と結果をすり替えないでほしいものね」
「……なるほどね」
 どちらの言葉に納得したのだろう。どちらかではなく、両方だ。二人の言葉を聞いて、司は双方の言葉が正しい事を、感覚的に理解していた。
 他者に自分の行為を伝えなくては、世界に対して実効力を持ち得ない。それはクラッカーですら逃れられない、世界の法則だ。昼間、そんな話を皐としていた。だとすれば、クラッカーの行為はイレギュラーである司に理解される事で、世界に対して実効力を持っていたのだろう。そのように、世界自体が自身を改変したのだ。その点では、確かにクラッカーは司の生みの親と言えるだろう。
 だが、クラッカーの行為はイレギュラーを生み出す事ではなく、イレギュラーはあくまでイレギュラーであって、あくまで司という存在は副産物に過ぎない。司が今の司として存在するのはクラッカーの影響であろうが、だが恩に着せられる筋合いも、ない。
「なるほど、お前には恩と借りと、両方がある訳だ」
 司の言葉を聞いて、皐が僅かに口元を緩めた。
「そういう事になるかな。それで司くん、君は恩と借りと、どっちをとる?」
「どちらも取らない。僕はやりたいように、やる」
 それが司の答えだった。皐もその答えを聞いて頷く。たった一人納得できないのはクラッカーだった。目を剥いて司に言い募ってきた。
「何故だ!お前は俺に、恩があるんだぞ!その俺を、殺す気か?お前の生みの親の、この俺を!」
 司は冷然と応じた。
「恩着せがましくて物わかりの悪い親ほど質の悪いものは、滅多に存在しないものだな。そうさ、僕はお前を殺す。皐ちゃんの手を借りて。せめて苦しまずに逝けるよう、一撃で殺してやるよ」
 自分の言葉を聞きながら、司は自分は冷血なのだろうかと考えた。答えは出なかった。これが本当の親だったら、どうだろうか。自分のルーツを失うような恐怖があるだろう。そんな気がする。クラッカーに冷然と応じられるのは、あくまで自分のルーツは、今海外にいるはずの両親にある、と信じられるからだ、と司は思う。イレギュラーとしてのルーツの源は目の前のこの男なのだろうが、しかしそんなものは生きる上で大して問題になるような種類のものではない。尤も、それがなければ皐と出会う事も、このような関係になる事もなかったのだろうが。まあ、その点だけは感謝してやってもいい、と司は思った。だからと言って、クラッカーに対して同情の念が沸き起こる、という訳でもなかったが。
 司の言葉を受けて、皐が口を開いた。
「納得できたかしら?お前を助けようなどと考える者はこの世界にはいない、という事を。時間稼ぎをしようとしても無駄よ。大人しく、覚悟なさい」
 その手には既に、前に見た大型拳銃が握られていた。その銃口をクラッカーに向ける。銃口からクラッカーまで、殆ど距離はない。外す恐れは、ない。だが同時に、振り払うにも容易な距離である。油断はできない。時間をかけてはいけない。皐は引き金を引いた。
 瞬間。クラッカーは身をよじって銃弾をかわしていた。勝利感に満ちた顔。その手には皐のものと同じような拳銃が握られている。
「功を焦ったな、血に飢えた殺戮者め!」
 言うが早いか、引き金を引く。二発、三発。しかしどれも命中しなかった。皐は司を突き飛ばすと、自分も床に身を投げていた。その皐を追ってさらに連射。皐は二転三転して射撃をかわす。無論スカートのままだったが、構ってなどいられない。跳ね起きる。そこへ銃弾を撃ち込もうとしたクラッカーへ、司は飛びついた。組み付く。激しい揉み合いになった。
「離せ、貴様ぁ!」
「冗談!」
 揉み合いになったまま、司とクラッカーは床を転がった。司としても計算外である。これでは皐がクラッカーを撃てない。どうする。迷った一瞬を突かれた。司は突き飛ばされる。
「司くん!」
「迷うな、今だ!」
 司は叫んだが、一瞬遅かった。クラッカーが司に向けて発砲する。辛うじて避けたが、運が、悪かった。皐の銃にクラッカーの銃弾が命中し、弾き飛ばされた。乾いた音を立てて、拳銃は床を転がる。
 司は咄嗟にその拳銃めがけて飛んだ。拾い上げる。ずしりとした重量感。玩具ではない、冗談ではない、真剣な、重さ。
「動くな、桂木皐!」
 優越感に満ちた声で、クラッカーが命じた。銃口を皐と司の交互に向けながら、嘲弄の声を司に投げかける。
「そうだ。その銃はお前が持っていろ。お前が持っている限り、その銃は脅威ではない」
 司は静かに問いかけた。
「どういう事だ。拳銃くらい僕にだって扱える。引き金を引けば、弾は出るんだ」
「出ないんだよ、司くん」
 司の言葉を否定したのは、皐だった。
「前にも言ったでしょ?その銃は私自身だって。私が使わなければ、その銃は効力を発揮しない。その銃は私にしか撃てない。君が持っても、その銃はただの無機物の塊でしかないんだよ」
「その通りだ」
 嬉々として、クラッカーが皐の言葉を肯定した。
「俺達の、俺の真の力を理解できないお前には分からなかったろうが、そういう事だ。お前にとってその銃は、単なる飾り物に過ぎん。戦術戦闘知性体がいい様だな、桂木皐」
 悔しそうに唇を噛む皐。それを見やって、司はしかし静かに告げた。二人に向かって。
「だとしたら、やはりこの銃は僕にも使えるんだ。お前には理解できないだろうがな、クラッカー」
 クラッカーは嘲笑った。
「なら撃ってみるがいい。撃てたなら、俺も素直に撃たれてやる。撃てるか?撃てる訳がない!」
「撃てるんだよ」
 司はあくまで静かに告げた。引き金を引く。狙いをしっかりと付けて、クラッカーの銃に向けて。
 テレビで聞くよりも、重い発射音だった。しっかりと支えていたためか、反動はそれほど問題にはならなかった。
 撃てたのだ、司にも。皐にしか撃てないはずの、皐の銃が。そして弾丸は狙い通り、クラッカーの銃に命中した。今度は、クラッカーの手から拳銃が跳ね飛ばされる。
 呆然とした空気が流れる中、クラッカーの銃が床に落ちる音が響いた。
「……馬鹿な」
 クラッカーの自失の声。しかし自失の度から言えば皐も大して変わりはしなかった。この絶好のチャンスに、彼女が動かなかった事が、何よりもそれを物語っている。
 今度は硝煙の上がる銃口をクラッカーの心臓に向けて、司は言った。
「さあ、撃てたぞクラッカー。約束通り、撃たれて貰おうか。大人しく」
「馬鹿な、そんな……有り得ない!」
 取り乱して叫ぶクラッカーに、自失から立ち直った皐が、冷たい声を投げつけた。
「理屈として有り得ないかどうかはともかくとして、現実にはお前は銃を失った。この現実を、お前自身が体験して、それでも信じられないのかしら?まだ現実を無視して、逃げ続ける?」
 皐はクラッカーの銃に歩み寄り、それを拾った。拳銃は砂の塊のように原型を失い、崩れ落ちる。
「これでお前は唯一の武器、私を殺す手段を失った。これでもなお、抵抗する気があるかしら?」
 これで大人しくなるとは司は思わなかった。皐もきっと、そうだったに違いない。そして、その通りだった。
「こんな……俺は認めない、認めんぞ!こんな馬鹿な事があるか!あってたまるか!」
 クラッカーが叫ぶと、室内に急激な変化が起こった。クラッカーに向けて吸い込まれるような空気の流れが生まれる。最初はごく緩やかに、しかしそれに気付いた次の瞬間には、まともに目を開けていられないほどの激風に変化した。
「司くん、撃って!」
 皐が叫ぶが、無理な相談だった。片膝立ちになっている状態の司ですら、ともすれば気流に流されそうになるほどの風だ。やがて気流は荒れ狂い、室内を暴れ回った。皐ですら立っていられない。と、不意に風が止んだ。クラッカーは、いない。代わりにそこにあったのは、人が一人くぐり抜けられるかどうかというくらいの、暗い穴だった。中は、見えない。
「逃げられたみたいだね。とりあえず、この場からは」
 皐が妙にあっさりとした口調で言ってのけると、立ち上がった。乱れた髪を整える。
「世界を区切っていた障壁が取り除かれてる。その障壁の名残だね、この穴は。この中に、クラッカーはいる」
 司も立ち上がって、髪を掻き上げた。
「という事は、この中に立てこもった訳か」
「なかなか秀逸な表現だね。そう。障壁の全てをここに集めて、あいつは立てこもろうとしてる。完成したら、この世界からクラッカーに干渉するのは難しくなるね。倒すなら、今のうち」
 離している間にも、穴は少しずつ径を小さくしている。急がなければなるまい。
「行くよ、司くん。私の銃を」
 言って掌を差し出してくる。司はその手に拳銃を手渡した。
「行こう、皐ちゃん。決着を付けに」
 皐は頷いて、穴をくぐり抜ける。司もそれに続いた。

〈2〉

 穴をくぐり抜けると、砂浜だった。砂丘のになっていて、向こう側には海が見える。
 司は戸惑った。まさか、クラッカーが立てこもった世界が、こんな風景を見せるとは予想の外だった。
「あの中が、こんなに開けていたとは意外だったな。てっきり、狭苦しい洞窟みたいなのを想像してたんだけど」
「そうだね。私も少し意外だった。だけど見かけ上だけの事だよ。この世界は大して広くはない。近くにクラッカーもいるはずだよ」
 気を付けて、と皐は締めくくった。司も気を引き締める。
 しかし立ち止まっていても埒があかない。二人は当てもなく歩き出した。ふと後ろを振り返ると、足跡が、ない。と、不意に足跡が現れた。
「……どういう事だ?」
 司がひとりごちると、皐が解説した。
「この世界に異分子が侵入した、とクラッカーが気付いたんだよ。足跡は、その証。ここはもうクラッカーのテリトリーだからね」
 なるほど、と司は納得した。自分たちは、そのテリトリーに土足で侵入しているという訳だ。とすると、この砂浜はクラッカーの心象風景なのだろうか。司は皐に訊ねてみた。
「そうだね、そうかもしれない。この砂浜が、アイツのルーツなのかも」
 ルーツか。司はその言葉を聞いて、あらためて砂浜を、この世界全体を見回した。
 この砂丘が、この風景が、一体クラッカーの何を示しているんだろうか。推測すらできない。そこで司は初めて、自分はクラッカーについて何も知らない事に気付いた。
「皐ちゃん。アイツは、クラッカーは向こうの世界で、何をしたんだい?確か向こうでも、犯罪者だって聞いたけど」
「一言で言って、大量殺人かな」
 皐の言葉は淡々としていた。
「最初の犠牲者は、この世界でいうと十六歳の女の子だったそうだよ。それから、老若男女、関係無しに何人も。合計すると結構な数になるらしいけど、そこまで私は聞いてないな」
 十六歳の女の子と聞いて、司は思わず皐の顔を見なおした。皐もちょうど、今年十六歳になるはずだ。それが何を意味するのか分からないが、しかし偶然なのだろうか、と司は思いを馳せた。ひょっとすると桂木皐という戦術戦闘知性体は、その女の子を模して生み出されたのではないか。司はそんな幻想に駆られた。
「どうしたの、司くん」
 どうやら一瞬以上、呆けていたらしい。司が「いや、何でもない」と言って手を振ると、皐もそれ以上突っ込んで聞いては来なかった。ただ、独り言のように言葉を紡いだ。
「この砂浜が、ひょっとしたらその女の子が殺された現場なのかもしれないね」
「……どうして、そう思うんだい?」
「この砂浜が、クラッカーの犯罪のルーツだとしたら、ありそうな事じゃないかな」
「確かに……」
 皐の言う通りだった。ありそうな事だ。だとするとここは、クラッカーの思い出の場所という訳だ。殺人の。
 そうしてこの砂浜を改めて見ると、胸くそが悪くなってくる。風景は美しいにも関わらず。否、それだからこそ、かもしれない。
 不意に皐が立ち止まった。司も遅れて立ち止まる。
「どうしたの?」
「誰か、倒れてるよ」
 皐が見ている方向を見やって、司も気付いた。倒れている人影に。やや遠い。故に背格好までは分からなかった。
「行こう」
 皐に促されて、歩み寄る。警戒しながら。倒れている人影は、女の子だった。司達と、同年代に見える。駆け寄る。皐が抱き起こすが、その腕と首は、力無く垂れ下がるだけだった。
「……死んでるね」
「うん……」
 見れば、首筋に手で締めた跡が、くっきりと残っていた。大きな手だ。大人の、恐らくは男の手だろう。
「クラッカーかな」
「多分ね。奇しくも、予想が当たったみたい。ここは、クラッカーの殺人の記憶なんだよ」
「だとすると……このままアイツの殺人の記憶を、延々と見せ続けられるんだろうか?」
 司の疑念に、しかし皐は首を左右に振った。
「それはないと思う。ここはクラッカーの世界だけど、アイツはあくまでここに逃げ込んだに過ぎない。アイツはここで、どうにかするしか無いはずだよ」
「どうにか、とは、つまり僕たちを倒す、という事か」
「私達、少なくとも私を殺す事はアイツにはできなくなった。だけど脅威でなくす事は可能かもしれない。少なくともクラッカーはそう考えてる。乗せられちゃダメだよ、司くん」
「分かってる」
 死体である女の子を、静かに横たわらせ、目を閉じさせる。そうして司と皐は少女の遺体に手を合わせると、改めて周囲を警戒した。そうしてその場から離れようとした刹那。
 死体が、動き出した。いきなり、司に飛びかかってくる。死体であった少女が信じられないほどの力で司を押し倒すと、もろともに転がって皐から距離を取る。皐が追おうとしたが、その刹那、少女が声を発した。
「動くな!」
 クラッカーの声であった。少女の遺体であったモノは、姿を変え、クラッカーになった。理事長室で会った時よりも、しかし若返っている。だがその分、威厳とかそういった物も同時に失ったような風があった。
「動くな、桂木皐、戦術戦闘知性体。動けば、こいつは殺す」
 腕で司の喉を締め上げて、クラッカーは言った。辛うじてまだ呼吸ができるくらいの強さだ。そうしておいて、司の身体を皐への楯にして、クラッカーはさらに言い募った。
「人質は通用しないか?しかし俺は一人では死なんぞ。俺を殺せば、こいつも道連れだ」
「迷惑な話だな。僕はお前と冥土の道連れになるつもりはないんだが」
 司が真情を込めて茶化すと、クラッカーは憤慨した。
「だまれ、斎乃司!お前は人質なんだ、大人しくしていろ!」
 耳元で怒鳴られて、司の鼓膜はいささかならず被害を被った。ひとたびは黙ってやる事にする。司が口を閉じると、クラッカーは演説をぶちはじめた。
「俺はこの世界にとって必要な存在なんだ!俺がいるからこそイレギュラーという新たな存在形態が生まれた。俺はこの世界にとって、新たな可能性を生むための触媒なんだ!」
「誰も頼んじゃいないわ」
 答える皐の声は冷たかった。
「クラッカーらしい詭弁ね。例えお前の言う通りだとしても、それは結果に過ぎない。お前はそれを目的として行動している訳ではない。お前はただ、自分の思い通りになる、そう信じているものが必要なだけなのよ」
 論難する皐の言葉は容赦が無く、人質にとられている司など眼中にないようにすら思える。しかしそれでいいと司は思った。クラッカーなどの言いなりになってうなだれている皐など、見たくもない。彼女は、胸を張って前をしっかり見つめている姿こそ、美しいのだ。彼女のそんな姿を見ていると、司も勇気が湧いてくる。ここで死んでも構わないと言う事ではなく、その逆だ。こんな所で、こんな奴の道連れになどなってたまるか。そう思える。そしてその為に、司は皐に向かって声をかけた。
「皐ちゃん、こいつを撃て。大丈夫だ、君ならできる。こいつを撃て」
 司の暗喩が届いただろうか。届いたはずだと司は信じる。あとは、皐を信じるだけだ。彼女の力を。
 皐は頷いた。銃を構える。ゆっくりと、クラッカーに見せつけるように。クラッカーの顔色が変わる、その様子を司は見る事ができなかったが、しかし特に残念だとは思わなかった。声だけで、十分だ。
「貴様、分かってるか?俺を殺せば、こいつも道連れなんだぞ!」
「どうせならはっきりと仰いなさい。やめろ、助けてくれ、とね。尤も、聞く耳など持たないけれど」
「貴様は人でなしだ、自分の恋人をこんなに簡単に見捨てるなんて!やめろ、やめないと――」
 皐は冷ややかに宣告した。
「耳障りだし目障りだわ。消えなさい、クラッカー。一撃だ」
 発砲。銃声。悲鳴。
 司は背後のそれを聞いて、自分は賭に勝った事を知った。
 司には傷一つ無い。楯にされていた司には。背後のクラッカーには、司の身体で隠されていたはずの心臓の部分に、小さな穴が開いていた。あの大型拳銃の弾痕にしては、随分と小さい。しかし、それで十分なのだった。
 クラッカーの腕が、司の首をすり抜ける。クラッカーは慌てて司を掴もうとして、その手はまたしてもすり抜ける。まるで、司がそこに存在しないかのように。否、その逆だった。クラッカーの姿が、少しづつ掠れていく。その足下が崩れ、すり鉢状になった地面に足を取られ、クラッカーは転倒する。すり鉢状の空間が広がり、クラッカーを飲み込んでいく。
「助けてくれ!」
 初めて、クラッカーがそう叫んだ。無益であったが。落ちていく。飲み込まれていく。掠れていく。クラッカーは自身の世界に飲まれ、消えていくのだ。自分自身が造り出した世界に。
「本望でしょうよ。自分の世界に殺されるんだから」
 ふう、とため息をひとつついて、皐が言った。司も同感だった。振り返り、すり鉢状になった背後を見下ろす。クラッカーの姿は、見えなくなっていた。
「さて、それじゃ私達も逃げ出さないとね」
 何でもない事のように、皐が言ってのけたその内容は、わりと物騒な物であったが、しかし事実であった。空間がひび割れ、この閉ざされた世界が、長く持ちそうにない事を物語っている。
「どうやって逃げ出すんだい?」
 全幅の信頼を込めて、司は訊ねる。皐は答えた。
「手を繋いで。そして目を閉じるの。後は、任せて」
「分かった」
 皐の言う通り、彼女と手を繋ぐ。手と手の指を絡めて、しっかりと。そして司は目を閉じる。浮遊感。司は目を開きそうになったが、その衝動を堪える。皐に任せると決めた。だから彼女の言う通りに任せよう。そう心の中で思う。浮遊感が浮揚感に変化した。浮き上がるような感覚。
 司達は浮上した。元の世界に。


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