流浪世界譚 02

 〈2〉転校生

〈1〉

 そうして、戻ってくるのは六月一日の朝。

 司は額に手をやる。勿論、穴など、開いていない。それを確かめて、司は半身を起こした。清潔な、しかし誰もいない家。両親は恐らく外国だろう。日本だとしても、どこか遠く。要するに、この家には、司独りで住んでいるような物だった。独りでは、もてあますほど、広い。

 洗面台の鏡に、自分を映す。そうしてようやく、司は自分が生き返った事を実感した。

 生き返ったのか、死んでいなかったのか。そんな事は、しかし細事だ。問題は今が六月一日で、それが何度も繰り返されているという事だ。

 何度も繰り返されている。それは司が何度も死んだ事を意味する。司は何度死んだだろうかと、数え初めて止めた。無駄だ。そんな物数えても、意味がない。問題は、それだけ死んでも、何も掴めていないという事だ。この《異常》の原因は何なのか。どうすれば解決できるのか。どちらも、何も掴めてはいない。探ろうとすれば、先程死んだ時のように、妨害者が現れる。殺される。

 殺される事には慣れた司だったが、しかし何のヒントも無しにただ殺されるというその手口には、怒りを感じていた。自分など、何でもない存在なのだという事を見せつけられるようで、悔しい。

 自分は、一体、何者なんだろう。一再ならず、考えた事だ。何者であって、何ができるのか。少なくとも、この世界の《異常》を正す正義の戦士ではないようだ。であれば、こうも簡単に、殺されはしないだろう。ま、こうしてしぶとく生き返るのは、司がこの世界で何かしらやる事があるからだろう。司はそう思う事にしていた。そう思わねば、やっていられなかった。

 自分という物を考えていて、顔を洗うのを忘れていた。洗面所へ引き返しながら、司は、生き返った斎乃司という存在は、本当に斎乃司なんだろうかと疑った。
 洗面台の鏡には、見慣れた自分の顔がある。柔和で、女顔。その所為で、女子には可愛い物扱いされる。正直、あまり、嬉しくない。あれは、モテているのとは違うのだ。例えてみれば、愛玩動物。それと同じだ。

 見慣れた顔。記憶と同じ顔。しかしそれに、どんな価値があるというのだろうか。

 人一人が、データを書き換えるように、消えたり、現れたりする。その様を、司はずっと見続けてきた。恐ろしいのは、それに気付いているのが司だけだという事実だ。境遇を分かち合える者がいればいい。だが司は独りだった。絶対の孤独。よく狂いはしなかったものだと司は思い、いや、と思い返す。そういう死に方もあった。あれは、辛かった。自他共に狂っているという状況は、辛い。だが身体は保護され、長生きをした。それだけ、長く苦しんだという事だ。どうして安楽死させてくれなかったのだろうと、司は理不尽な怒りを覚え、その衝動で思考が逸れている事を思い出す。

 もう一度、鏡を見る。
 見慣れた顔。記憶と同じ顔。だが、どこか違ってはいないか。どこでもいい。どこか違っていれば、斎乃司は斎乃司でなくなる。だがそれを発見してどうなるのだ、と司はがっくりと、洗面台に寄りかかった。
 諦めろ。斎乃司は、斎乃司だ。この世界でたった独り、書き換えられる事のない人間。たった独りの、まともな人間。だがそれにどんな価値があるというのだろう。まともでない人間の方がよかったのかもしれない。何も知らず生きて、突然その生を奪われ、それを他者に預けて自分は消えていく。そんな生であってもよかったのではないのか。

 ――よくあるものか。

 自分の考えに、虫酸が走った。

 冗談じゃない。僕は、僕だ。斎乃司だ。他の、何者でもない。勝手に書き換えられて、たまるものか。今の司に生きている価値があるとすれば、その矜持だけだろうと、司は考えた。

 学校に行く。正直、行くかどうかに悩んだ時期もある。だが家に引き籠もっていても事態は変わらない。ならば、出ていった方がいくらかマシというものであった。例え、不愉快なモノを見せつけられるとしても。

 心臓破りの坂などと俗称される、わりと急勾配の坂道を登る。歩いていけばそれ程でもないが、遅刻間際、走って登るには辛い勾配だ。俗称も、伊達で付いた訳ではない。その坂を登りきれば、校門が見える。私立・河淋学園。初等部から大学部まである、いわゆるエスカレーター式の経営形式だ。

 司は校門をくぐって、高等部の敷地に入る。四つ並んだ感じの建物が見えてくる。高等部の校舎だ。そのうち、一番東端の建物が、一年生校舎と俗称され、当然ながら一年生の教室はそこに入っている。司のクラスは一年二組。最上階だ。

 途中で購買に寄り、パンを買う。朝飯の代わりだ。階段を登りながらパンをたいらげ、そうして教室のドアを開け、踏み込みながら「おはよう」と声をかける。この学校での、毎朝の慣習だ。女顔の司は男子だけでなく女子からも、「おはよう、斎乃君」と声がかけられる。

 そうして司は鞄を机に置き、彼だけの、習慣を実行した。

 その習慣とは、机の数を数える事だ。机の数が変わっていれば、入れ替わり現象が起こったという事。数に変化がなければ、今日は《異常》は起こらなかったという事。数が同じで人間だけが入れ替わるという現象は今の所起きていなかったから、これで大体の精神安定が保たれるという訳だった。

 そして、今日は。

 机が一つ、増えていた。六月一日は机の数が三十だった筈なのに、ひとつ、増えている。だがまてよ、と司はその机の違和感に気がついた。

 使われた形跡が、ない。ただそこにあるという机と椅子はただただ無個性で、使っていた者の個性とかそういった物を受け継いではいなかった。つまるところ、《異常》で起きた、入れ替わりとは違うようだ。しかしだとしたら何だというのか。困惑する司に、男子生徒が一人、側に寄って来て囁いた。

「聞いたか斎乃。明日、転校生が来るらしいぜ。この机は、その為に準備してあるんだってよ」
「転校生?」
 危うく司は大声を上げる所だった。転校生だって?こいつは新機軸という奴だ。

 いままで一度だって、クラスの人数を増減するのにそんなイベントは存在しなかった。予告なくそれは起こり、その結果だけを司は押しつけられてきたのだ。それに比べれば、転校生というイベントはクラスに一人、人が増えるという事が司にも事前に分かる。分かる事ができる。それは司が思った以上に、司を安心させた。

 だが、と司は思う。なぜ、いまになって転校生なんだ?
 転校生が何者かは知らない。だが、これまで何度も殺されて六月一日をやりなおしてきたが、こんな事は初めてだった。考え過ぎかも知れない。しかしひょっとしたら、これは司が待ち望んでいた変化なのではないだろうか。どんな変化がもたらされるかは司にも分からない。だが、この狂った状況をどうにかできるなら、なんだっていい。なんだって来てみるがいい。そう司は思いながら、未だ無個性な机と椅子を見つめていた。

 そうして結局放課後まで、司の頭からは転校生の事が離れなかった。人がいなくなった教室で、ぼんやりと明日転校生が座るはずの椅子と机を見やる。
「……帰るか」
 誰とも無しに呟いて、教室を後にする。教室を出る際、一度だけ、例の席を確認した。それらは、司の目の前で消えたりはしなかった。それを確認したかった訳ではないが、それで安堵した自分がいたのは、確かだった。

 上履きを履き替え終えた時、校門の所で、人影を見つけた。その人影が司の意識に上ったのは、制服が違うからだ。河淋学園の女子の制服は、去年デザインが替わったばかりで、そのデザインが生徒には好評だった。そんな新しいデザインの制服の中で、その少女の来ている制服はありふれた野暮ったいブレザーで、あまりにも違和感があった。だが司は、その違和感を心地よく思った。その少女が美しかったからかも知れない。その少女が周りと違う制服を着ている事で、より際だって見える、そんな気がしたのだ。少女の周りだけ、違う空気が流れているかのような、清涼感。

 実際、少女は美しかった。整った長い髪、切れ長の瞳、整った鼻梁など、理想のパーツを理想通りの位置に並べたような風があった。プロポーションも理想的。そんな少女がこんな所で何をしているのだろうか。興味はあったが、しかし声をかけるのは躊躇われた。司は男で、彼女は女の子。ナンパにでも思われたら厄介だ。

 司の躊躇いなど、少女は意に介した風もなく人の流れを見つめていたが、その視線が、司に流れて、止まった。司も少女を見る。

 視線が合った。

 見間違いかと思った。司はその少女に、見覚えなどなかったからだ。だが、確かに、少女は微笑んでいた。それどころか、司の元へと歩いてきたのだ。当惑する司に、少女は声をかけた。

「君。クラスは?」
「一年……二組」
 少女は重ねて問うてきた
「名前は?」
「斎乃、司」
「そう。それじゃ、明日、学校でね。斎乃司くん」
 言い置いて、少女は身を翻した。

「ちょっと!」
 司は何が何だか分からないながらも、衝動に駆られて少女の背を追った。そうして曲がり角をひとつ折れた所で。

 見失った。

 呆然と立ちつくしながら、司は先程の少女の微笑みを思い出していた。

〈2〉

「初めまして。桂木皐(かつらぎ さつき)です。皆さん、よろしくお願いします」

 そう挨拶した転校生は、確かに昨日の少女だった。

 もう既に河淋学園の制服を着ていて、司は少しがっかりした。昨日の野暮ったい制服の方が、彼女の不可思議さが際だって見えるのに。河淋学園の制服を着た事で、なんだか彼女が汚れてしまった様に感じて、司は少し興ざめしていた。彼女の、自分にとっての特別が、大きな組織という中に取り込まれて消えてしまったような虚しさを感じる。司は頭を軽く振ってその身勝手な幻想を追い払った。

 それよりも、と司は昨日の事を思い出す事にした。正確には、昨日の、彼女の微笑みを。
 司には、彼女に含む所は何一つ無かった。それは今も変わらない。にも関わらず、彼女の向けてきた微笑みは真物だった。例えるなら、ずっと探していたものを見つけた時のような笑み。しかし司には、その笑みに隠された意味は分からなかった。幼い頃に別れた幼なじみなんてものに覚えはないんだけどな。馬鹿な事を司は考えながら、転校生の方を見やった。と。

 目が合った。再び。

 桂木皐の瞳の色は深く深く、吸い込まれそうな色をしている。その瞳に引き寄せられるように、司も目を逸らす事ができない。
「見つけたよ」
 そう、彼女が呟いた気がする。しかし司以外の誰にも聞こえなかったらしい。事実、少女の隣にいたはずの担任教師も、訝しそうな顔はしなかった。
 何を見つけたというのか。司に、なにがあるというのか。そこまで考えて司は、例の《異常》に思いついた。彼女が、何か知っているというのか?だとしたらこちらこそが『見つけた』だ。そんな思いを込めて司が転校生を見つめていると、意外な方向から吉報が届いた。

「斎乃、お前桂木を案内してやれ」
 突端に周囲からブーイングの嵐。それに委細構わず司は担任に問うた。
「どうして、僕なんですか」
 担任の答えは、こうだった。
「お前、こないだ三組の吉田を振っただろう。お前なら、適任だ」

 司は言い返した。
「異性に興味がなければ、この役が適任だという事ですか?付け加えるなら、僕も異性に興味がない訳じゃないんですが」
 ただ、周囲の男も女も、影絵の人形のように思えるだけだ。誰かの意思一つで、入れ替わる。そんな存在と、付き合う?馬鹿げている。だから司は誰とも交際していなかったのだ。付け加えるなら現在の司には親しい友人もいない。影絵の友人?笑わせる。
 しかし笑わせない何かがやっとあった。やっと見つけた。。桂木皐。きっと掴んでみせる、その秘密を。何度死んでも。

 何度死んでも、というのがこちらの唯一の強みだな、と司は内心で苦笑した。後は全て、向こうが握っている。それを、探り当ててやる。こちらの、唯一の強みを使って。
「ま、構いませんよ、その程度の手間。昼休みでいいですか?」
 司は、あくまで皐の瞳を見つめながら、そう応じた。

 そうして昼休み。司は意外な事実を知った。
 桂木皐はあくまでも楽しそうに、校内を見学しているのだ。その姿に朝方見せた険はなく、まさに普通の学生のようだった。

「普通の学校だと思うけど、何か変わった物とか、あった?」
 司は試しに問いかけてみた。その問いに、明朗に皐は答えた。
「珍しいよ。私こういう学校とか、初めてだから」
 その答えは司の意表を突いた。
「学校が、初めて?」
「うん。私帰国子女って事になってるから、こういう学校とか、行った事ないの」
「なっている、か……」
 司の瞳が鋭く光った。
「という事は本当は帰国子女じゃ無い訳だ」
「その通り」
 あっさりと、転校生は答えた。
「だけどこれ以上は秘密ね。知りたければ、放課後、特別教室棟を案内してよ。時間もないし」
「ああ、いいよ」
 虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ。司はその条件を呑んだ。

〈3〉

 放課後。昼休みの続き――表向きは。
 実際はどうなるか。司には見当も付かなかった。ただ、渇望がある。知りたいという欲求がある。自分の知らない事を知っているはずの少女に、渇きを癒す事を求めていた、というのが正解に近いだろうか。

 自分の身の安全は、考えていなかった。どうせまた、六月一日に戻されるに決まっている。そうしてまた手がかりを求めて、彷徨うのだ。この世界を。
 それは司にとって地獄に近かった。いっそ死んだ方が楽なくらいだと真剣に考えた事がある。しかし死ねない。永久機関、繰り返し。それをうち破れるなら、目の前の少女がどんな存在であろうと怖くはなかった。

 司に気付くと、桂木皐はつかつかと近寄ってきた。
「本当に、一人で来るとは思わなかったわ。でも手間が省けた。ここで、殺してあげる。クラッカー」
 そう囁くと、桂木皐は司の喉元を掴んで持ち上げた。同級の、同体格の少女などと比べ物にならぬほど強い握力。このままでは、司の喉は握りつぶされるかも知れない。否、今実際にそうなりつつあるのだろう。そうなる前に、司は掴んでおかなければならない事があった。

「桂木さん……クラッカーとは……何だ?」
 身体に残されていた力の全てを使ってそれだけを呻く。すると桂木皐は艶やかに笑った。
「何をのたまうかと思えば……クラッカーとはこの世界の破壊者!許されざる犯罪者よ!しかしまさか世界発生装置へ潜り込むとはね。特定に時間がかかったわ。でもその分、随分と油断していたみたいだけれど」

 そこまでまくしたてて、ふと桂木皐は眉根を寄せた。
「あなた、クラッカーよね?だから戦術戦闘知性体である私に、堂々と近づいてきた」
 苦しげな息の中から、司は悪態を吐いた。
「知るものか。死んでみたら、分かる」
 桂木皐の驚く顔。それが司の記憶に残った、最期の記憶だった。

 ――そして、飽きもせず帰ってくるのは六月一日の朝。しかし目覚めは悪くない。掴むべき事を、掴んだからだ。
 クラッカー。彼女は自分の事をそう呼んだ。世界の、破壊者と。
「つまりは、僕こそが、原因だったわけか。因果が、逆だった訳だ。」
 ベッドに腰掛けてそう呟く司の言葉を、自室のドアが開く音が遮った。

 そうして入ってきたのは、敵であるはずの、桂木皐だった。手に、盆を持っている。その盆には朝食の準備が乗っていて、司はますます混乱した。身構える司を見据えながら開口一番、
「違うわよ」
 そう断言された。
 盆を勉強机の上に置いて、何故かエプロン姿の桂木皐が、机にもたれて解説を始めた。「君はクラッカーじゃない。ただ巻き込まれただけの、イレギュラーに過ぎない。戦力差は昨日の通りだけど、どう、信じる?」
「どちらを?」
「前者を。後者は、おまけに過ぎないから」
 ベッドに腰掛けたまま、司はため息を吐いた。
「信じるよ。結局僕は、猿芝居をやっていたという訳だ」
 桂木皐の眉根が寄った。
「猿芝居?」
 司は答えた。これまでの人生を。抵抗しては殺される、ただそれだけだった人生を。

 だが。

「無駄じゃないよ、司くん」
 桂木皐は、そう言った。
「そう。無駄じゃなかった。司くんの抵抗のお陰で、クラッカーがここにいると私にも分かったんだから」
 桂木皐は表情を温かくして言を継いだ。
「無駄なんかじゃなかったんだよ、司くん。君のお陰で、私はここに来る事ができた。世界の《異常》の、中心に」

「無駄じゃ、無かった」
 司はそう呟いてみた。無力感が消え失せ、代わりに歓喜の波が、押し寄せてきた。司はベッドに仰向けに転がり、最初は力無く、段々と大きく、笑った。努力が実った事を祝して。

 やがて笑い疲れると、疑問が沸き上がってきた。桂木皐は、どうしてこんな所にいるのだろう。その疑問にぶち当たって、司は跳ね起きた。
「それで、君はどうしてこんな所にいるんだい?僕が巻き込まれただけの存在なら、君が目をかける必要もないだろうに」
 水を向けられた桂木皐は、微笑して司の質問を受けた。
「君が世界に逆らって足掻き続けた理由。それを聞きたいと思って」
「なんだ、そんな事か」
 拍子抜けしながらも、司は口を開いた。
「僕は、僕だ。他の何者でもない。それを勝手に書き換えられるかもしれない今の状況に、恐れをなしていた。それが、ぼくが足掻き続けた理由だ」
「恐れていた、か。隠さないんだね、怖かった事を」
「気が狂いそうな恐怖だった。だからこそ命がけでやれたんだと思う」
 命がけか。実際には死んではいないのだが。しかし確かに命がけだった。死ぬ気でやった。その結果が今ここに出ているのだろうか。そう信じたかったが。実際はどうなのだろうか。

「桂木さん。君は、何者だ?何を、どこまで知っているんだ?」
 桂木皐は、今度は即答しなかった。代わりに凝と司の瞳を見つめてきた。深い深い色の瞳で。司も見つめ返す。そうしていると段々、彼女の瞳に吸い込まれそうな気分になって、司は激しく頭を振った。
「だんまりか?それなら何故、ここにいるんだ?まさか僕の容態が心配で、なんて理由じゃないだろう」
「焦らないで」
 桂木皐は、静かに言った。
「焦らないで、落ち着いて、私の眼を見て」

 桂木皐の声は静かな威に満ちていて、司は狂熱から覚めた。もう一度、彼女のいう通り彼女の瞳を見つめる。
 深い深い色の瞳。深夜の湖面はこんな感じだろうか。黙っていると、本当に吸い込まれていきそうだ。司の意識の上に、皐の瞳の色が広がっていく。夜の湖面の色。深い深い夜の色。それに意識を奪われそうになった瞬間。
「はい、もういいわよ」
 桂木皐の声がして、はっと意識が覚めた。
「……今のは、一体?」
 司の呆然とした声に、桂木皐は答えた。
「君の心を、君の本質を、見せて貰ったの」
「僕の……本質?」
 桂木皐は頷いた。

「君が、君として独立した存在かどうか。万が一にも、クラッカーと繋がってはいないかどうか、確認したの。その他にも、ちょっと、色々と、ね」
 司は片眉を跳ね上げた。
「色々?」
「色々と言っても、プライベートな事は何一つ覗き見していないよ。誓ってもいい。色々というのは、また別の事」
「別の事というのは?」
「君が自分の意志でクラッカーに協力してないか、そういった事を『視』てたの」
「よく分からないけれど……クラッカーというのは君の敵の事なんだろう?なら、僕にとってもそいつは敵だ。何故、敵に協力しなけりゃならないんだ」
 一つ頷くと、桂木皐は口を開いた。
「そう。そういった君の行動や性癖など、そういった後々参考になりそうなものを『視』てたの」
「たったあれだけの動作で、いや見るだけで、そんなことが?」
「分かるよ。私にはね」
 髪を掻き上げて、桂木皐は告げた。

「私の正体は、戦術戦闘知性体。本来ならこの世界に存在しない生命存在形式なの。この世界において私と同じ土俵に立てるのはただ一人、クラッカーのみ。そして私は、そのクラッカーを殺しに来た」
「自分が、唯一の存在になる為に?」
「違うよ。それをやろうとしているのがクラッカー。私はそれを処罰しに来たの」
「どうして」
「勿論、やってはいけない事だから。いくら架空世界だからって、いえ、だからこそ、介入するのはルール違反なんだよ」
「ちょっと、待った」
 司は思わず待ったをかけていた。今彼女はなんて言った?
「架空世界!僕のいるこの世界は、架空世界なのか!?」
「ああ、その事ね」
 また髪を掻き上げて、桂木皐は目を逸らした。
「マズったかな。この事を話したら、司くん協力してくれるかしら」
 ひとりごちる桂木皐に、司は詰め寄った。
「そちらの都合などどうでもいい。僕たちの世界は、そしてこの僕は、創り出された物なのか!?」
 ため息をひとつついて、桂木皐は白状した。
「そう。この世界は上位世界によって創り出された疑似世界発生装置の中に存在する世界。その中に存在する全ての物は、疑似世界発生装置によって創り出されたと言えるわ」

 その言葉を聞いて、司は力無くベッドに座り込んだ。桂木皐は気の毒そうにその様子を見下ろしたが、司は気落ちしてベッドに座り込んだのではなかった。
「信じられないな」
「え?」
 今の司の発言こそ信じられない、といった風で、桂木皐は面食らって瞬きした。
「この世界が架空の物だなんて、信じられない。僕は僕として存在しているんだ。それを架空の、仮想の物だなんて言われても、納得できない。例え、人間でない君に告げられたとしても、だ」
「何でも簡単に書き換えられてしまう、今の現実を見てもそう言えるかしら。自分は、自分だと」
 司は頷いた。それを見て、桂木皐は微笑した。
「そう。それが本来の疑似世界のありようなの。疑似世界であっても本来の世界と変わらない。個は尊重されなければならない。それが世界のルールなの。それが、この世界では破られている」
「そんな世界に何の意味がある?疑似世界を作っても触れないんじゃ、創った意味なんて無いじゃないか」
「観察する事はできるわ。疑似世界発生装置とは、観察の為のマシンなの。初期値を入力し、後はその世界がどう推移していくかを観察する。ただそれだけの物よ、本来はね。それに干渉した者がいる。それがクラッカー。この《異常》の原因よ。この世界の破壊者」

 司は眉をひそめた。
「どうしても話をそこに持っていこうとするんだな。この世界が疑似世界である、と僕が納得するまで、君の話を全面的に肯定する訳には行かない」
「じゃあ見てみる?」
「何を?」
「この世界の端っこを。クラッカーが創った世界の終わりを」
「ああ。望む所だ」
 頷く司に、皐はその手を差し出した。
「それじゃ仮契約」
「契約?」
「そう。今この時だけでも、私は君の事守らないといけないから。例え、君が契約者になってくれなかったとしても」
「……よく分からないな」
「要するにこっちの都合って事。簡単だよ。私と手を繋ぐだけでいい」
 司は、差し出された手を見つめて訊ねた。
「それで、どうなるんだい?」
「私と君は、仮に繋がれる。嫌疑という弱い絆でだけれどね。それでも私の力は発揮できる。私と君は、ひとつになる」
「ひとつに、なる?」
「ミクロ的には何も変わらないよ。私は私、君は君。だけどマクロ的に観測した場合、君と私とは同一の存在として認識されるの」
「?よく分からないな」
「つまり、君と私とは運命共同体だって事。生きる時も死ぬ時も一緒だって事だよ。これで、クラッカーからの脅威も避けられる」
「危険なのかい?」
 司のその言葉に、桂木皐は微妙な笑みを浮かべて訊ねた。
「怖い?」
 司は即答した。
「いや、正直、よく分からない。だから怖くないな」
「よく分からない物が一番怖いんだよ、司くん」
 真面目くさって、司は答えた。

「そういった原初の恐怖とは別の物だろう。人為的な恐怖だ。それなら耐えられる」
「人為的、か。確かにそう言えるかもしれない。だけど見ていて気持ちのいい物じゃないって事だけ、覚悟しといてね」
 司は頷いた。
「それじゃ、私の手を取って」
 桂木皐のいう通り、彼女の繊細な手を握る。昨日自分の首をへし折った手だ。しかしそんな事は、最早忘却の彼方だった。
「これで、仮契約は完了したよ」
 桂木皐が、平静な声を発した。
「それじゃ着替えて、ご飯食べちゃって。もう冷めちゃってるけど」
 その言葉で思い出した。司の机の上には朝ご飯の支度が載せてあったのだった。
「そういえば用意してくれてたんだね。ありがとう」
 桂木皐は軽やかな笑顔でその言葉を受けた。
「いえいえ、どういたしまして。昨日のお詫び代わりに、ね」
 ウィンクひとつして、桂木皐は部屋から出ていった。それを確認して、司は立ち上がった。

 桂木皐の用意してくれた朝食を摂る為に。


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