流浪世界譚 03

〈4〉

「完全に遅刻だね」

 桂木皐と一緒に外に出た、彼女の第一声がそれだった。司は微苦笑した。
「どうせ学校に向かう気はなかったんだ。それに今更遅刻の一つや二つ、気にもならないよ」
「あれ、司くん遅刻常習者?」
 皐の軽口に、司は顔をしかめた。
「そうじゃない。ただ死を繰り返した、その中で何度か遅刻を繰り返した事はあるというだけの話だよ。引き籠もった事もある。収穫はなかったけれどね」
「全ての元凶は、あの学園にあるという事だね。分かり切っていた事だけれど」
「どうして分かるんだ?別にアジトがあるかもしれない」
「あの学園がこの《異常》の中心にあるからだよ。クラッカーは必ず、あそこにいる」
「そんな分かりやすい場所に、隠れているかな?」
「そこにいなければならない。あそこでなければ、この閉ざされた世界において、十分に力を発揮できない」
「閉ざされた世界、か……」
 司は空を仰ぎ見た。青い。
「今からそれを見に行く訳だ。その、世界の境目とやらを」
 桂木皐は頷いた。

「それじゃ私の後に続いて。最初はビックリすると思うけど、君にもできる事だから」
 何が、と司が問う間もなく、桂木皐は一跳躍で塀の上に着地した。更にもう一跳躍で屋根の上へ。唖然として見守る司を、桂木皐は手招きした。
「君にもできるよ。早くおいで!」
 そう言われても司には今ひとつ自覚のような物はなかった。身体機能が上昇したという感覚が、無い。いつもの、自分の身体だった。
「大丈夫。私を信じて、跳んで」
 屋根の上から、桂木皐の声が降ってくる。司は奥歯をぐっと噛みしめると、思い切って、跳んだ。全力で。
 跳びすぎた。
 司の一跳躍は皐の乗る屋根を飛び越え、さらに二つ、屋根を見下ろして、ようやく着地した。裏路地だ。
 見られなくて幸いというべきだろうか。しかし信じられない思いで、司は今の一跳躍を思い出していた。

 まるで夢空間の中での飛翔だった。全能感に満ちた跳躍。それには及ばないものの、今の跳躍も相当だった。並の人間に、あんな真似はできない。自分も今、並の人間ではないのだという事を、自覚せねばならないようだった。

 塀の上に飛び乗る。一挙動で、それは可能だった。常人ならよじ登らねばならない所だ。続いて屋根の上へ跳躍する。これも簡単だった。まるで桂木皐がやって見せたように。

 司が屋根の上に上がると、桂木皐がこちらへやってきた。
「うん、初めてにしては上出来上出来」
「……それ、誉めてくれてるのかな?」
「ま、一応ね。それにしても、思ったよりキャパシティあるんだね、君の身体」
「何の話だい?」
「私の思ってた以上に君の身体は運動許容量が大きいって事。今の状態でこれだからね。リミッター振り切ったらどれくらいになるんだろうね」
「さてね。興味ないな」
「淡泊だなあ。君の身体の事なんだよ」
「僕の興味は今、世界の境界とやらに注がれているんだ。他の事に気を回す余裕はない」
「そうだね。そっちの方が優先かな」
 言って桂木皐は学園と正反対の方向を向いて指さした。
「ここからでも分かるかな。空間が歪んでいるのが私には分かるんだけれど」

 桂木皐の言葉に、司もその方向を注視してみた。何もない、ように見える。しかし一瞬、レンズを通して風景を見たような、そんな感覚に囚われた。錯覚か?
「……何か一瞬、ものが歪んで見えた気がする。君の言葉を受けた、錯覚かもしれないけれど」
「そっか。それならもっと近づいてみれば分かるよ」
 桂木皐はそう言うと、指さした方向に向かって跳躍した。屋根を一つ越え二つ越え、どんどん先に進んでいく。司も慌てて後を追った。そしてそうしながら、今の彼女の行動について考えた。

 今彼女は、司に声をかけることなく先へと進んだ。無防備に。その理由は彼女の能力が司より優越しているからという訳ではなさそうだった。だったら何なのか。司を信頼しているとでも?
 馬鹿な、と切り捨てる事は、司にはできなかった。実際、今ちょっと急いで桂木皐に追いつき、その背を押すくらいの事は可能だろう。その程度でどうにかなるとは思わない。だが、その背にナイフを突立てたら?それ程に無防備な背中だった。

 信頼か。そういえば、彼女の司に対する敵意というものは、巻き戻った六月一日以来、見られなかった。それどころか、こうして司に世界の姿を見せようと奮闘している。けなげと言って差し支えないだろう。何が彼女をそうさせているのかは分からない。だが悪くない関係だと、司は思い始めている。心の重りが、何処かの方向に向いて傾くのを司は感じた。それは少なくとも、悪い気分ではなかった。

 近づくにつれ、司にもはっきりと前方の空間の歪みが見て取れるようになってきた。凹レンズで見たらこんな風景に見えるだろうか。そんな光景が前方の一地点から上下左右に広がって、一つの壁を形作っていた。壁の高さは知れない。少なくとも飛び越えられる高さではない。それだけ分かれば十分だろうと、司は達観して考えた。
 桂木皐の足は止まらない。まるで空間の壁を目指しているかのようで、それは実際にそうだった事は、彼女が空間の歪みの手前で足をようやく止めた事で分かった。すぐに司も追いつく。

 そうして見上げた『世界の端』は、どうと言う事もない空間の歪み、ただそれだけに司には見える。しかしその程度のものではないであろう事は予想済みだ。司は緊張して、桂木皐の言葉を待った。
「分かるよね。これが本来の仮想世界からこの世界を閉ざしている障壁。この壁の向こうへは、私と君は行く事はできない。でも他の人達なら可能なんだ」
「どうして」
「例の《異常》、覚えてるよね。この障壁を越えると自動的にその物体は書き換えられる。例えどんな物であっても」

 見て。そう言って桂木皐は路傍の石を拾った。そうして障壁に向かって、投げる。すると石は障壁にぶつかって跳ね返る事もなく放物線を描いて向こう側へ飛んでいき――唐突にその姿が鳩に変わった。落下しかけた勢いを利用して再上昇していく。それを見上げながら、桂木皐は指笛を吹いた。それにつられて鳩がこちらへ向かって飛んでくる。その途中、またしても障壁にぶつかってその姿を黒猫に変じ、桂木皐の腕の中に収まった。
 ごろごろと桂木皐に甘える黒猫を見ながら、司は絶句していた。別の物に姿を変えると言っても、まさか、これほどに露骨なものだとは思っていなかった。驚愕の風で固まった司に向かって、黒猫をあやしながら桂木皐は口を開いた。

「これがこの障壁の力。クラッカーの力でもある。むしろこれこそが、クラッカーの力の真骨頂かな。これを創って、その中に閉じこもる事こそ、クラッカーの目的だったんだから」
「何の為に?」
「この閉ざされた世界の中で、神のごとく振る舞う為。クラッカーの力では、この世界全体を支配する事は不可能だから。私にもできない。だから閉ざした。この障壁を創り出して。でもその気になれば、この障壁の外にも力を振う事もできる。この世界の、ガン細胞みたいな物だよ。クラッカーという存在は」 司は試しに、障壁に触れてみた。滑らかな、ガラス質のような手触り。冷たい。そこに、暖かみはない。まるで、牢獄のように。自分は囚われているんだという事が、この障壁一つとってみても、それが分かる。いや、桂木皐に教えられたと言うべきか。教えられただけなら反発もできる。だが、こうして実際に見せつけられると、反論の余地もなくなってくる。しかし。
「確かにこの世界はおかしな障壁に包まれている。僕にもそれは分かった。だがだからといって、この世界が仮想世界であるという証拠にはならない」
 桂木皐はその言葉を微笑で受けた。
「こだわるんだね。ま、当然かな。でも司くん。この世界が仮に仮想空間でなかったとしても、今の脅威は変わらないんだよ。だったら仮想空間かどうかなんて、些細な問題だと思わないかな」
「今この脅威に際しては、確かに些細な問題だろうな」
 司は認めた。
「要するに、僕は僕自身のルーツがおかしくなる、その事を恐れたんだ。今も、恐れている。絶対であるはずの世界が、こんなめちゃくちゃになってしまって、しかも実は仮想世界だという。いきなり信じろと言ったって、無理な話だよ」
「全てを信じる必要はないんじゃないかな」
 桂木皐はそう応じた。

「司くんは神じゃないよね」
「勿論だ」
「なら、知らない事もある。知らなくて良い事もある。知った所で、自身には関係ない事だってある」
「それに目をつむれと?」
「受け入れてくれるのが一番嬉しいよ。私はね。だけど受け入れがたい事実だってこの世にはある。敢えて見る必要のないものだってある。下水道の存在は知ってるけど、わざわざ開けてみたりはしないでしょう?この世界が何であろうと、君は君。それはずっと変わらない事実だよ。今ここでは、それが犯されている。だからこそ重大な危機なんだよ。個々のルーツが消され、犯される。そんな異常が続けば、この世界は消されてしまうかも知れない」
「消される?リセットか」
「リセット。そう。文字通りの意味でね。恐らく私の任務が失敗すれば、この世界はクラッカーごとリセットされる事になるでしょうね。それで、クラッカーも、君も、私も、消え去る。デリート」
「……冗談じゃない。僕たちは、ここで、生きているんだ。それを、デリート?」
「世界発生装置のある上位世界では、君や私というミクロなレベルでの個なんて見えないからね。感傷も起きない。司くんだって、TVゲームのデータをリセットした事、あるでしょ?それと同じ事だよ」
「TVゲームはただのデータだ。実際に、そこに人が暮らしている訳じゃない」
「そうかな?」
 桂木皐は黒猫を抱いたまま、妖しげな笑みを浮かべた。

「こういう空想をしてみた事はない?このゲームの中には実際に人が住んでいて、自分はその中の一人を操っているんだ、と」
「……考えた事もなかったな。でも今まさに、そういう状況な訳だ。世界の危機だな」
「その鍵を、私達は握っている、という訳」
 その言葉を、司は聞きとがめた。
「私『達』?」
「そう。君も、この世界を救う重要なファクターなんだよ、斎乃司くん、イレギュラー」
「イレギュラー。そういえば朝起きた時も、その単語を聞いた覚えがあるな。それは一体、何なんだい?」
「一言で言うのは難しいね。要約すると、この架空世界の住人でありながら、擬似的な神であるクラッカーの干渉を絶対に受けない存在の事。この世界自体から祝福を受けた存在。それがイレギュラー。イレギュラーというのはあくまで私達が勝手に付けた名称だから、世界を救う勇者でも何でも、好きな名前をつけたらいいよ」
 司は苦笑した。
「イレギュラーで十分だ。それが、自分の立場を一番端的に表現している気がする」

 イレギュラー、異端者、半端者。それでこれまで、死なずに生きて来られたのだ。死ねずに、とは思わなかった。お陰でこうして、桂木皐に会う事ができた。一度殺されはしたが。しかしそれも帳消しだろう。今こうして、今の世界の有りようについて熱心に語る彼女を見ていると、そういう気分になってくる。しかし同時に、そうした彼女の好意的行動が解せない気分がせり上がってきた。何故彼女はこれほどまでに、司に対して好意的なのだろう?
 屈んで黒猫を放してやっている桂木皐に、司は呼びかけた。
「桂木さん」
「なあに?」
「どうしてそんなに、色々と僕に教えてくれるんだい?僕なんか放っておいて、さっさとそのクラッカーとやらを倒しに行ったらいいのに」
「それができないから、こうしてるんだよ。尤も最初は、できると思っていたんだけれどね。それができないと悟ったのは、君を殺した時」

 桂木皐は立ち上がって、スカートの裾をはたいた。
「あの瞬間、凄い範囲で、それこそ世界全体のレヴェルで時空がねじ曲がった。そして戻ってきた。六月一日に。そして君は、生き返っていた。驚いたよ。クラッカーにそんな事はできない。だとしたら自分の目の前にいるこの存在は、一体何なんだろうと一瞬真剣に悩んだくらい」
「それで、出た答えは?」
「君はクラッカーが世界をこの障壁で覆う寸前の状態を保存されている。世界の自浄作用によって。だからこそ私はこう呼んだ。イレギュラーと。そんな力が世界という全体的存在にあるとは思ってもみなかったから。クラッカーも同じでしょうね。だから何度も殺すんだ。それで済むと思って」
「世界という存在自体にも、意思はあるんだな。君の言葉を敷衍すれば」
「ん?そっちの方が興味ある?私は今は、さほど驚いてはいないんだけれど」
「どうして」
「どんな物にも意思は宿る可能性はあるよ。路傍の石にもね。我思う、故に我ありと言うじゃない。考えるだけなら、案外そこの石だって何か考えているかも知れないよ。それが私達に分からないのは、石にコミュニケーションをとる能力がないから。それでは我あり、とは言えない。認められない。世界だってそうなんだよ、きっと。我あり、と存在を表現したくて、君をイレギュラーにしたんじゃないかな。だけどこんな考え、クラッカーには理解できない」
「イレギュラーに対する知識がないから?」
 桂木皐は首を左右に振った。

「知識は関係ない。知的レヴェルも関係ない。ただ、理解しようという意思がない。他者という存在を理解しようとはしない。ただ、自分の意志だけを押しつけてくる。ただ得ようとするばかりで代価を支払おうとはしない。そういう奴なんだよ。私が追っている、クラッカーという奴は」
「それは……病気だな。自己という存在を確固たる物にするには他者という存在は絶対に必要だ。それなのにそいつは、他者はいらないと言う。無茶苦茶だ」
 しかし自分はどうなのだろうと、司は自問する。オリジナルの人生から今まで、他者が必要だと考えたことが、一度だってあっただろうか。むしろ他者を軽蔑し、遠ざけていたのは自分ではなかったか。今まで救われなかったのは、そこに原因があるのではないか。この《異常》の解決は自分にしかできないという、驕りはなかったか。

 立ちつくす司の肩を、桂木皐が叩いた。
「何を考えてるのか知らないけれど……」
 優しい声色で、桂木皐は続けた。
「君とクラッカーとの間には、決定的な差があるんだよ。他者を尊重できるか、その能力があるかどうか。この一点のみだけでも、決定的な差違になる」
 司からぴょんと一歩飛び退いて、桂木皐は言を継いだ。
「結論。君はクラッカーじゃないし、その素養もない。君とクラッカーは、道義的に同類なんかじゃない」
 司は弱々しく微笑した。
「まるで心を読まれたみたいだ」
 桂木皐も微笑したが、そこには司のような影はなかった。
「心なんか読まなくても分かるよ。君の性分を考えればね。自分独りで悩んで落ち込むんじゃないかと思って、先制かけといた」
「……お見通しなんだな」
「なんでもって訳じゃないけどね、残念ながら。だけどそれくらいは分かるよ。司くん、分かりにくいようで実は分かりやすいんだもん」
「それは、単純だって事かな」
「違うよ。単純であるべき所は複雑で、そうでない所は読みやすい、って所かな」
 司は腕を組んだ。
「よく分からないなあ」
「原理は単純。だからといって物事が全て単純とは限らない。想いという物が単純では有り得ないから。物事が複雑に見えるとしたらその所為なんだよ。さらに複数の思いが複雑に絡み合って、一つの事実という物が出来上がる。司くんの想いは今強く《異常》に向けられている。その他の事は疎かになりやすいって事」
「なるほどね」
 司の返答を聞いて、桂木皐は何故か眉根を寄せた。

「今私、警告したつもりなんだけど」
「え?」
「今の司くんは、周りが見えてないって事!例えば私の事、どう思う?」
「どうって……」
 司は困惑した。
「どういう答えを期待されているのかな?」
「私に聞いてどうするの!君が私に対して抱いてる感想!それを率直に述べてくれる事を期待します!さあどうぞ」
「僕が君に対して抱いている想い、か……」

 簡単に口にしようとして、司はふと口を閉ざした。これは簡単に口にしていい言葉じゃない。少なくとも、この場では。あまりにも、恥ずかしすぎる。代わりに司は、咄嗟に別の答えを用意した。
「君は、戦術戦闘知性体だ。そうだろう?」
 だがこの答えは、桂木皐を不機嫌にした。
「そう。そんな枠組みで私を括ってしまうのね。それじゃこれでどう?」
 そう言うと、彼女はベストのボタンに手をかけた。司が止める間もなく、躊躇なくそれを外していく。三つしかないそれをすっかり外し終えてしまうと、桂木皐はベストを脱ぎ捨ててしまった。続いてブラウスのボタンに手をかけた所で、やっと司は制止の手をかける事に成功した。
「ま、まった!一体なんのつもりだい?」
 表面上は平然として、桂木皐は答えた。
「司くんに、私が戦術戦闘知性体である以外の部分を見て貰おうと思ってね」
 声は平静に聞こえるが、その中に隠された熱を司は感じたように思う。怒りの熱だ。それは分かるのだが、何が彼女を怒らせたのか、それが分からなかった。
「とりあえず服を着て。こんな道端で服を脱ぎ捨てるなんて――」
 司の言葉を遮って、桂木皐は言い放った。
「それじゃ、道端じゃなければいいんだね」
 彼女が言い終えるが早いか、司達のいる場所は司の部屋になっていた。靴も、いつの間にか脱いでいる。瞬間転移か?それにしては気が利いている、と司は場違いな事を考えた。

「どう?ここなら文句ないでしょ?」
「ここならって……」
「ここなら司君以外の誰にも見られる心配がないって事」
 そう言い放つと、桂木皐は司の手を振り払い、ブラウスのボタンに手をかけた。一つ二つと桂木皐がボタンを外していくうち、胸を覆うブラジャーが弾けるように押し出されてきた。司はその光景から、目を逸らさなければと思うが、それを実行する事ができない。やがてブラウスのボタンを外しきった桂木皐は、スカートのファスナーを下ろして、スカートを床に落した。その一部始終を、司は硬直状態のまま見守っていた。制服姿の少年と、部屋の対角線上に立っている半裸の少女。端から見たら、どういう光景に見えただろうか。しかし当事者が二人とも、そんな事は概念の外にあった。

 意図的かどうか、豊かな胸を見せつけるように腕を組んで、桂木皐は司に向かって口を開いた。
「どう?これでも私は、戦術戦闘知性体としての価値しかないかしら?」
 その言葉で司は気付いた。彼女が肌を晒してまで言いたかった事、聞きたかった言葉を。それは司が最初に呑み込んだ言葉と、ほぼ合致した。
 司はできるだけ真顔で首を振った。
「いいや。そんな事はない」
「なら、どんな価値を見いだしてくれるかしら。この私から」
 直視しがたいがそうしない訳にも行かない。司は桂木皐を見据えると、口を開いた。
「綺麗だ。とても。同世代の少女としても、君は十分に魅力的だよ」
 伝わるだろうか、この程度の言葉で。だが、これ以上の言葉が出てこない。賛辞の言葉など、幾らでも出てきそうな物なのに。

 二人の間に沈黙が舞い降りた。

 司にとっては不安に襟首を捕まれたような気分を味わった時間だったが、桂木皐の方はどうだったのだろう。彼女の表情からは、それを読みとる事はできなかった。
 桂木皐がため息を吐き、沈黙は退場を強いられた。
「そうだね。君は、そういう風にしか表現できない人だったね」
 そう言って微笑した。半裸の肢体と合わさって、その姿は司には神々しくさえある。
 シミ一つない肌。なだらかな肩。ふくよかな胸。くびれた腰。形のいい脚。何処をとっても完璧だろうと司は思う。問題は司にそれを表現する能力がないという事だ。感性や言語能力の問題ではなく、心理的な問題で。要するに、桂木皐に限らず女性の身体を誉めるのが恥ずかしいのだが、それが桂木皐のため息の理由だとは、思いもつかない司であった。

 半裸の肩にブラウス一枚引っ掛けて、桂木皐は再度口を開いた。
「そう。それが聞きたかった。私が私である為の、私としての価値を聞きたかったの。例え、外見だけの物だとしても。外見だって、私だものね。軽視はできないよ」

 司は桂木皐の方をあまり見ないようにしながら考えた。
 要するに彼女は、戦術戦闘知性体である事に誇りを持っているという訳ではないようだ。否、誇りは持っているのだろうが、それと存在に関わる事柄は別、という事か。あれほど凄い力を持っているにも関わらず、どうして自己の存在などに拘るのだろう。そこまで考えて、司は気付いた。自分も、同じだったという事を。自己の存在に拘り、何度も死を繰り返したのはなんの為か。自己という物をカタチとして認めて貰いたかったからではないのか。そうして司はようやく、桂木皐の怒りの原因を理解した。

「桂木さん……ごめん」
 司の謝罪の言葉を、桂木皐は微笑で受けた。
「君も、僕と変わりはしなかったんだね。人間というカタチにルーツを求めている。形が変われば、それはそれでは無くなってしまうんだ。例え、人間という枠組みの中だけの事にしても。だからこそこだわった。今のカタチに」
「概ね正解、かな」
 桂木皐は鷹揚に頷いた。

「私は変わろうと思えば、人間以外のモノにも変化できる。だけどそれじゃ駄目なんだ。人間というカタチ、これがターゲット、クラッカー示す形そのものだから。だけどそれだけじゃない。私は私として、このカタチでこの世界に生まれた。だからこの身体、このカタチを愛している。戦術戦闘知性体である前に、私は私なんだよ。だから、私であるという情報の前に、私でありたいという感情を持っている。それが今、満たされたという訳」
「僕の、あんな言葉でも?」
「ええ。十分に。できればもっと、端的に誉めて欲しかったけれど……例えばさ」

 そう言葉を切ると、桂木皐は司の方へ近寄ってきた。そして狼狽える司の目の前まで来ると、司の首に両腕を回してきた。ふくよかな胸が、司の胸に当たって形を変えている。そんな状況で、桂木皐はこう問うた。
「どう司くん?今の、私に対する感情は?」
「どう、と言われても……」
 司としては赤面を堪えるのに失敗して、今、耳まで真っ赤だ。何か口にしようにも、動悸が邪魔をして口を開く事さえ叶わない。
 そんな司の醜態を目にしても、桂木皐は笑わなかった。何かを期待する目で、司をじっと見つめてくる。
 この状況で、司は情けない事を口にした。
「えっと、その……離れてくれないかな、桂木さん」
「どうして離れないといけないのかな?」
 チェシャ猫の様な笑みを浮かべて、桂木皐が再度問うてきたので、司は再び狼狽した。
「どうしてって、こんな状態を誰かに見られでもしたら……」
「誰かなんて来ないよ。ねえ、ドキドキしない?」
「……する」
「他にはどんな事、考えてる?」
「……言えない」
「あー、言えないような事考えてるんだ。司くんのエッチ!」
「そんな事はない!……と思うけど、女の子にとってはそうかも知れないな」
 くすり、と笑って桂木皐はようやく司を解放した。

 真っ赤な顔でぜいぜいと肩で息をつく司に向かって、桂木皐は茶化すように口を開いた。
「はい、ご要望通り、離れたよ。だから聞かせて。どんな気分だったか」
「えっと……恥ずかしかった」
「それは私も同じだよ。それ以外で、男の子ならではの感想を聞きたいっ」
「男ならでは……言いにくいな」
「言って」
 その言葉は、色と同時に異様な強制力を持って司を圧倒した。司は白状した。
「柔らかくて、温かくて……いい匂いがした。正直に白状すると、このまま抱きしめたいとさえ思ったよ」
 桂木皐はチェシャ猫の笑みで問うた。
「抱きしめたいだけ?」
「…………」
 司は顔をさらに赤らめただけで、答えなかった。その司の姿を見て、桂木皐は半裸のまま、クスクスと笑った。

「ま、これ以上は勘弁してあげようかな。これ以上こんな格好でいたら、司くんに押し倒されちゃうかもしれないもんね」
「無理だよ。君と僕とじゃ筋力差がありすぎる」
「そんなことないよ。今の私は、年相応の女の子程度の筋力しかないから。司くんの力なら簡単だよ」
 そう言ってブラウスのボタンを閉じようとした桂木皐を、司は試しに彼女の腕を掴んで引き寄せてみた。軽い。わっとバランスを崩した桂木皐が司を突き飛ばしたのはその一瞬後だった。二人揃って、ベッドに倒れ込む。司が覆い被さった状態で。

 状況が咄嗟に理解できずに、表情を硬化させたまま、黙り込む二人。そうしてしばしの間、沈黙が二人を覆った。

 沈黙を破ったのは、桂木皐の声だった。
「えっと……私、押し倒された?」
 おずおずと問う声に当惑と疑念が滲んでいる。司は激しく首を振った。
「違う、これは単なる事故だ!そういうんじゃない!」
 そう言いつつも、跳ね起きる事のできない司だった。もう少し、このままでいたい。欲望か、美的観賞か、それらが混然となって、司を縛っていた。
 そうして、またしばしの間、そのままの姿勢で時が止まった。自然と、お互いの瞳を覗き合う。
 複数の感情の入り交じった瞳で桂木皐を見る司と違って、桂木皐は司の瞳から、彼の内心、その表層に触れていた。

 ある程度予想していた事だが、彼の内心には欲望は殆ど見られなかった。恐らく、このまま襲われる心配はないだろう。それを確認して、桂木皐は心の隅にちくりとした痛みを感じた。何の痛みだろう。そう考える自分と、そんなもの任務とは関係ない、と突き放す自分とが両立している。前者は桂木皐という少女の感性、後者は戦術戦闘知性体としての判断だろう。桂木皐は気にはなったものの、ここは後者の判断に身を委ねる事にした。思春期の少女の感性などにいちいち付き合っていたら、いつまで経っても目的は果たせそうにない。

 心の表層を撫でる感覚から、もっと奥を覗く感覚へとシフトする。罪悪感が芽生えてくるが、戦術戦闘知性体の感性がそれを殺す。そんな自分に嫌悪感を抱きつつ、桂木皐は斎乃司の心を覗き込んだ。

 心は一瞬として留まる事のない抽象画のようなものだ。ひとつたりとて、同じ物はない。だが戦術戦闘知性体としての彼女は、そんな抽象的な物からでも、データを引き出す事ができる。必要なデータ。今は、斎乃司の心理変化だ。桂木皐は、必要なデータを集め、それを見た。

 斎乃司は、最初は自分に対して懐疑的だった。それが、自己の体験により驚愕と納得に変わる。そして、自分に対する信頼へと変化を遂げているのを確認して、桂木皐は嬉しくなった。そこで急に、戦術戦闘知性体である部分が桂木皐に告げた。
「皐、彼に抱かれなさい」

 桂木皐は驚愕して、聞き返した。
「抱かれろって、セックスしろって事!?」
 戦術戦闘知性体部分は、平然として答えた。
「そう。それで、彼の心はお前の物になる。彼の力を借りるなら、それが一番効率がいい方法だ」
「彼の心はって……私の心の方はどうしてくれるのよ!」
「斎乃司が嫌いか?違うだろう。お前は彼とは違い、最初から彼に対して好意を持っていた。その好意をカタチにした所で何の問題があるというのだ?」
「それとこれとは話が別なのよ!確かに私は彼のような人間が好き。斎乃司くんが好き。だけど、それとこれとは話が別。抱く抱かれるなんて話が飛躍しすぎ!」
「そうかな。私にはそうは思われないが」
 戦術戦闘知性体部分が、反論した。

「どうせいずれ同じ行為を行うのだ。ならば有効に行うのが合理的だと私は判断する」
 桂木皐は真っ赤になって反論した。
「合理性や効率だけが人間の生きる全てじゃない!」
「確かに、その通りだ」
 戦術戦闘知性体部分は、意外にあっさりと矛を引いた。
「非効率的だが、お前の考えるように事を運ぶがいい、皐。だが忘れるな。私は、お前だ。私の考えや言動には、いつもお前の願望が隠されている事を忘れるな」
「…………」
「さて、必要な事は確認した。戻るぞ」
「うん」
 心を覗く行為はダイビングに似ている。潜って、浮き上がる。浮き上がった先は現実世界だ。例え、仮想世界であろうとも。

 世界とは、一体何層あるのだろう。桂木皐は、ふと空想に駆られる。パイのように幾層も幾層も積み重なって、それぞれが自分の世界を主張している。しかしそれは間違っているのだろうか。桂木皐には、そうは思われなかった。

「桂木……さん?」
 気がつくと、おずおずと斎乃司が話しかけてきていた。桂木皐はあわてて笑顔を作る。
「なあに、司くん」
「いや……随分と呆けているように見えたから。大丈夫かなって」
「大丈夫大丈夫。ちょっと驚いただけ。それより、そろそろどいてくれると嬉しいな」
「ああ、うん」
 司は慌てて跳ね起きた。桂木皐もその後に続く。結果として、距離的には大して離れる事はなかった。それを自覚して司は慌てて飛び退いたが、桂木皐はそれを見てクスクス笑うだけで、落ち着いたものだった。その姿を見ていると、おたおたしている自分の姿が馬鹿馬鹿しく思えて、司も平静さを取り戻す事ができた。
「桂木さん、服を着て。話はそれからにしよう」
「うん。それじゃ、向こう向いててね」
「部屋から出るさ。女の子が着替えるんだから」
「……別に、そこまでしなくていいのに」
「僕の精神的負担も考えてくれよ」
「そっか。それじゃ遠慮なく。終わったら声かけるね」
「うん」

 部屋の外で壁にもたれながら、司は今までの事を反芻していた。

 桂木皐と、仮契約を結んだ事。身体能力が飛躍的に上昇した事。そしてあの壁。この世界の終わりをこの目で確認した事。あれはなかなか衝撃的だったな、と司は小石が変化していく様を思いだしていた。今いるここは、クラッカーとやらが創り出した牢獄なのだ。他の人間にとってはそうではなくとも――そもそも認識できないのだから当然だ――自分にとっては、そうなのだ。自分と、桂木皐にとっては。

 しかし、この現象を認識できない人間、入れ替わってしまう普通の人間を、自分はどう扱えばいいのだろうか。人間としてか。それが当然のように思えるが、それもどこか滑稽に思える。結局、まともに人間として接する事のできる者は、この世界には桂木皐しか居ない訳だ。恋愛対象になるのも、彼女だけ。馬鹿な事を考えているな、という自覚は司にもあったが、考えを止める事もまた、不可能だった。この世界に残された、最後のひとつがいか。これで世界設定がシリアスでなければ、ロマンティックなんだがな、と司が再び馬鹿な事を考えた時、部屋の中から声がかかった。

 司は考えを打ち切り、部屋のドアを開けた。


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