流浪世界譚 04

〈3〉契約

〈1〉

 司が扉を開けて最初に目に入った光景は、テーブルの上に乗った大量の玉子サンドだった。テーブルの向こう側で、桂木皐が平然と玉子サンドをぱくついている。傍らには紅茶のポットも置いてある。完全に昼食ムードで、司は面食らった。
「な……何してるんだい?」
 つい、間抜けな質問が口をついで出た。桂木皐は慌てず騒がず、紅茶を一口すすると口を開いた。
「お昼ご飯。もう良い時間でしょ?腹が減っては何とやらってね」

 確かに、時計を見ると十二時を回っていた。思っていたより時間がかかっていたらしい。しかしこんな状況で平然と昼食を摂れる桂木皐は、やはり感性が少しおかしいと司は思う。まあ、戦術戦闘知性体なのだから、少し変わっていたとしても仕方ないのかも知れないが。
 尤もそんな事をしたり顔で考えている司自身、のんきにそんな事を考えているのだから同類だろう。
 同類項が、未だドアの所で立っている仲間に向かって声をかけた。

「立ってないで、こっち来て食べなよ。こんなの一人じゃ食べきれないよ」
 最初から二人分のつもりで用意してあったのだろう。桂木皐がそんな事を言いながら手招きしたので、司は饗応に応じる事にした。
 桂木皐の正面に座り込んで玉子サンドを手に取る。そして半分くらいを一気に口の中に押し込んだ。もぐもぐと咀嚼して、呑み込む。
「美味いな、この玉子サンド」
 正直な賛辞を送った。恐らくは制作者の、桂木皐に向かって。
 桂木皐は顔を綻ばせて賛辞を受けた。
「ありがと。『力』で出した物でも、技量は私の物が反映されるからね、こういう物は」
「そうでない物もある?」
「うん。初めて創る物でも、正確に、精密に創れる物はあるよ。例えば、武器とかね」
「成程ね。正確に創れなければ意味のない物だな」
「ただしその分、時間がかかるかも知れない。集中しないといけなくなるからね」
「フム。桂木さんの『力』も、一長一短何だな」
「ねえ、提案があるんだけど」
 唐突に、桂木皐が話を変えた。

「いつまでも『桂木さん』だなんて堅苦しい呼び方、やめようよ。皐、でいいからさ」
「皐……ちゃん?」
「GOOD。これからはそう呼んでね。でないと返事しないんだから」
 司は苦笑した。しかしこれで、彼女との関係がまた少し変化した訳だ。良好な方向に。それはこれからの戦いにとって不利にはならないだろう。司はそう信じた。
 そして皐の方も、このややもすると堅苦しい印象を持つ司に、名前で自分を呼ばせる事に成功した。これは大きな進歩だよね、と皐は張り切った。

 ……双方共に相手に興味があるのに、歩み寄る速度は牛歩の歩み、というのは珍しくもないが、これは司と皐の個人的事情に留まる物ではない。その事を、お互い、承知している。対クラッカー戦のパートナーとして、より強く結びつく必要があるのだ。その事に、皐だけでなく司も、薄々感づいてきている。クラッカーと戦うには、自分の力も必要だと。自分に何ができるか分からない。だがそれでも、できる限りの事はしようと思う。だが、それとこれとは話が別というか、やはり気恥ずかしさが先に立つ。この少年期の感傷は戦いにとっては邪魔にしかならないのではないか。司も、そして皐も、それを恐れている。自分を、殺さなければ戦えないのではないか。そう、例えば、皐の戦術戦闘知性体部分の様に。しかしそれなら、皐は完全な戦術戦闘マシーンとして生を受けていたはずだ。そうではなかった、その理由は何なのか。

 分からない。自分たちは何を期待されているのか。自分という感性を持った意識存在に、何を期待されているのか。皐が意識を持っているという事は、それが対クラッカー戦に有効或いは必須であるからであるはずだ。それが一体、何なのか。ただ単純に、一緒に戦いましょうというだけではないはずなのだが。二人してそんな事を考えながら黙々と食べていたので、食卓は黙々として明るくなかった。日は部屋に明るく差し込んでいたので、その対比が尚更だった。
 しかし、いつまでも黙って自分の思考を追っている訳にも行かない。皿の上の玉子サンドが無くなったのをきっかけに、お互い座り直す。ついでに紅茶も淹れなおして、二人で話し合う体勢を作った。

 紅茶を一口啜って、司が口火を切った。
「ねえ、僕たちはどうやってクラッカーを追えばいいんだろう?」
 皐も紅茶を一口啜り、眉をひそめた。
「追いかける、追いつめる……どれも今ひとつしっくりこないなあ。私達は、クラッカーが何処にいるか知っているんだから」
「学園か……一口に学園、と言ってもかなり広いよ」
 司は学園の見取り図を取り出した。
「高等部だけに絞っても、ほぼ一校入っているんだからね」
「クラッカーが生徒でないのなら、何処にいるかは分かってる。司くんともう一つ、イレギュラー反応を示した所」
 そう言って皐が指さした先は、理事長室だった。

「理事長が……クラッカー?」
「まだそう決まった訳じゃないけどね。少なくとも、クラッカーらしきイレギュラーがここにいる」
「それが、皐ちゃんには分かる訳だ」
「うん」
「それも、戦術戦闘知性体としての能力?」
「そうだよ。ま、クラッカーを見分けるには直接対峙する必要がある、程度の精度だけどね」
「僕には問答無用だったけど?」
「あの時は……クラッカー=イレギュラーだと思っていたから。まさか世界が産み出したイレギュラーが存在してるなんて思わなかったもの」
 言い訳じみた物言いで、皐は紅茶を啜った。司としても別に根に持っている訳ではないので、追求する事はしなかった。

「イレギュラー、か」
 それも片方は世界を滅茶苦茶にしようとし、もう片方はそんな世界から産み出された存在。
 そう。司はクラッカーが創った世界から産み出されたと言って良い。それとも、クラッカーに浸食されて悲鳴を上げた世界からか。どちらにせよ、クラッカーの存在と司=イレギュラーの存在は切っても切れない関係にある。それが何を意味するのか。今は関係ないにしても、いずれそれが重要になる時が来るかもしれない。司は心の隅に、その事柄をそっと忍ばせた。

 先程の呟きはなかったかのように、司は皐に向かって訊ねた。
「僕とクラッカー以外に、イレギュラーはいないのかい?」
「いないよ」
 簡潔な、それが返事だった。
「絶対にいない。それは間違いない。だから私達は、クラッカーの事だけ考えればいいって事」
「それじゃターゲットは絞れた訳だ。次に、どうやって理事長に近づく?」
 皐は凄味のある笑みを浮かべた。
「河淋学園って、設備整っているよね」
「うん」
「一部はカードキーでロックされてるらしいよ」
「……成程、それを皐ちゃんの『力』で複製なり解除なりする訳か」
「そういう事。問題は、理由付けだけれど……」
「一介の生徒が理事長先生に会う理由か……咄嗟には思いつかないな」
「そっか。それならそっちは後でどうとでもするとして……司くん、聞いて」
 居住いを正した皐に合わせて、司も居住いを正す。そうして皐が口を開いた。

「私達は今、仮の契約で結ばれている。だけどこんなんじゃ、クラッカーには絶対に勝てない。だからこのまま二人でクラッカーと戦うなら、私と再度、契約して欲しい」
「本契約という事?」
「そう。これで君と私は、時に本当に一心同体となる。マクロ的にというだけではなく、ミクロ的にも。例えば、私が君の鎧になるとか、ね」
「……あまり気持ちのいい話じゃないな」
「そうだね。私も切羽詰まらない限りやらないと思う。私達は二人で一人というのには違いないのだけれど、それとこれとは違うと思うから。斎乃司と桂木皐であることに意味がある、そんな風に感じる。勘だけれどね」
「二人で一人、だけど個々は別でなければ意味がない、か。うん、僕もそう感じるよ」
「異議なし、だね。それじゃ私の手を繋いで、私の眼を見て」
 司はそれに従った。皐の華奢な手を取り、皐と真っ向から向かい合う。座ったまま、テーブル越しだったから、端から見れば滑稽だったかも知れない。だが二人とも真剣だった。だから誰も笑わなかった。

 司は不意に、瞳から何かが入り込む感覚を覚えて手を離そうとした。その手を強く握りしめて、皐が真剣な声で言った。
「身体に不愉快な事があるかも知れないけれど、我慢して。私と繋がる、手順のようなものだから」
「分かった、我慢するよ」
「そんなに苦しい事はないと思うけど、万一危険そうなら私に言って。別の方法を考えるから」
 そう言っている先から、頭の中がちりちり言っているような感覚を司は覚える。だが我慢できないほどではない。司は声に出すのを控えた。

 一方皐の方も、苦労を強いられていた。その苦労は司の比ではない。何せ斎乃司という存在を壊さぬよう、さらに桂木皐という存在でコーティングしていくという、言ってみれば精密溶接に似た作業を行っているからだ。司の存在そのものに入り込み、それを一つ一つ理解しながらそれらを桂木皐という情報でコーティングしていく。言ってみれば斎乃司は桂木皐との二重の存在情報を備えた存在になる訳だ。同時に、理解した斎乃司という情報を桂木皐というものの中に取り込み、それを包み込む。これで、司と同じように皐も、斎乃司と桂木皐の二人分の存在情報を持つ事になる。

 それだけの作業を、皐は沈黙のうちにやり遂げた。その事を、司は知る由もない。知りようもない。だが自分の知らない間に皐が何か膨大な処理を行っていたであろう事は朧気ながら理解できた。しかし自分になにができるだろう。自分に何が返せるだろう。そう考えている司の先を読んだように、皐が声を発した。
「司くん、紅茶をもう一杯淹れてくれないかな」
 一瞬虚を突かれたが、司は慌てて頷いた。
「分かった。すぐに準備する」
 注意深く茶葉にお湯を注ぐ。十分に蒸らした所で茶葉をこす。その一連の作業を終えた後に、カップ二つに分けて等分に注いでいく。最後の一滴、ゴールデンドロップは皐のカップに注ぐ。これが、司なりのねぎらいだった。それを理解したのだろうか。皐の頬が綻んだ。
「ありがとう、司くん」
「どういたしまして。理解して貰えるとは思ってなかったけれど」
「私も紅茶党だからね。それくらいは知ってます。それより……」
 口調を変えて、桂木皐は言った。

「これで契約は完了だよ。君は私であり、私は君である。それでありながら私達は別個の存在である、そんな状態に私達はいる。自然状態ではこんな事は絶対に起こり得ない」
「だからこその『契約』か……」
「そう。自然現象すら覆すほどの力を、私達は必要としている。自然状態のままでは、絶対に勝てないからね。恐らく、個々に分断されて撃破される」
「戦術戦闘知性体の、君でも?」
「うん。私独力では勝てない。今ではそう感じる。クラッカーが何をしたかは分からない。だけど独りでは、絶対に勝てないとそう思える。だから司くんと契約したんだよ」
「イレギュラーである、僕と」
「そう」
「……もし仮に、僕がイレギュラーじゃなかったら、やっぱり皐ちゃんは契約していたかな?」
「それは相手次第だよ。契約しても良いと思える相手なら契約するし、駄目だと思ったら別の手を考える」
「そっか……」
 皐は訝しげに、司の顔を見なおした。
「どうしたの司くん?なんか変だよ」
 司は頭を振った。
「ああ。僕も分かってる。馬鹿な質問をした。何でだろうな。なんだか、妙な気分になったんだ。先に言っておくけど、契約の副作用なんかじゃないから」
 よく分からない感情を、司自身、もてあましている。例えば、皐の隣に立っている自分を想像する。その自分が、他の誰かだったらと考えると、司は何とも言えない気分に駆られるのだ。何故だろう。

 後から考えてみれば、司はこの時既に恋していたのだ。この、戦術戦闘知性体である少女に。自覚するには、まだなにか足りない。だがそれは、確実に司の胸の中で育っていた。
「変なの」
 皐の呟きに、ああ、その通りだ。と心中で答える司だった。

〈2〉

 契約に、随分と時間をとられていたらしい。気付くと窓の外は夕闇が支配していた。電気を付ける。そして司は、皐に訊ねた。
「送っていくよ。家は?」
 皐はあっさりと答えた。
「ここだよ」
 司の脳裏にその単語が浸透するまで、およそ五秒かかった。皐にとって予想済みのリアクションが、丁度そのタイミングで行われたからだ。
「ここって、僕の家かい!?」
「そうだよ。私、この世界に家なんて持ってないもの」
「それじゃ、昨日はどうしたのさ?」
「野宿した」
「…………」
 司の絶句に、期待を込めた視線を乗せて、皐は司に詰め寄った。
「ねえ、ここに泊めてくれないと、私今日も野宿なの。お願い、泊めて。ね?」
 詰め寄られた方の司は、皐の視線に抗いがたいものを感じていた。それに何より、六月とはいえ夜は冷える。幾ら戦術戦闘知性体と言えど、そんな無理をさせるのは気が引けた。
 結果――司は折れた。
「……僕の部屋の隣、客用寝室になってて誰も使ってない。自由にして良いよ」
「やったー!」
 司の言葉に、冗談抜きで喜んだ皐は、早速隣の部屋を覗きに行った。その様子は気まぐれな猫のようで、司は苦笑した。
「別に珍しいものはないでしょ?誰も使わない部屋だから、スタンダードにしてある」
 言いながら司も皐に続いて隣室に入る。隣室の明かりを付けると、清潔だが無個性な部屋があらわになった。

「司くん家、お金持ちなんだね」
 それが皐の第一声だった。司はそれに、しかめつらしく答えた。
「まあ経済的に不自由はしてないかな。仕送りも、滞った事はないし」
「司くんのご両親、何なさってるの?」
「親父はカメラマン。お袋はジャーナリスト」
「すごいね。報道夫婦だ」
「凄いかどうかは分からないけれど、大したことをやってると思ってる」
「尊敬してる、って素直に言えばいいのに」
「言えるもんか。恥ずかしい」
「そういう言葉は、素直に口にするものだよ、司くん」
「素直に、か……」

 そういえば、自分が他人に両親を紹介する時、手放しで誉めた事があっただろうか。いいや、と司は記憶の棚をひっくり返してそう結論付けた。何故だろう。無論尊敬していない訳じゃない。両親の仕事は、意義あるものだ。それに対して照れがあるのかと思ったが、そうでもない。司の歩む道は恐らく両親とは異なっていて、遠くから彼らの仕事を評価する事はできても、それを自己のものとして相対化できないのだろう。司はそう、結論付けた。すると今度は、司が進みたい道、という問題が立ち塞がってくる。自分の進みたい道とは何だろう。司は傍らの皐に、試しに問うてみた。

「私のやりたい事?今はクラッカーを倒す事。それから先の事は、それから考えるよ」
「単純明快だな」
 司は微苦笑して、ベッドに腰を下ろした。「ならば僕も、今はクラッカーを倒す事に専念しよう。奴を倒せなければ、未来なんてやって来ないしね」

 未来か。

 今日が去れば明日がやってくる。そう考えている者は多いだろう。今この世界にいる人間だって、同じ事を考えているはずだ。しかしそれは違う。クラッカーによって歪められた、擬似的な未来だ。そんな未来ではなく、取り戻したいのだ。当たり前の、未来を。そこには皐もいるだろうか。居て欲しいと、そう思う。何だか彼女は気まぐれな猫のように、この件が解決したらふっと姿をくらましてしまうのではないか。その疑念が頭から離れない。何故そんな事を考えてしまうのか。そうなって欲しくないからだ。皐と、ずっと一緒にいたい。何だか振られる寸前の男の気分かな。司は苦笑して、益体もない考えを振り払った。全ては、クラッカーを倒した後の事だ。

「夕飯はどうする?」
 皐の現実的な問いかけで、司は我に返った。「僕が作るよ。朝のお返しに。あれほど上手には、作れないけれど」
 反射的にそう答えて、冷蔵庫の中味を確認しなければならなかった事を思い出す。
「ちょっと冷蔵庫見に行ってくるよ」
 そう言いおいて台所へ降りる。肝心の冷蔵庫の中味は、中途半端、と言わざるを得なかった。あとジャガイモがあれば、カレーライスが完成するのだが。

 司は野菜ストッカーを収納すると二階へ戻ろうと踵を返しかけた――所に皐が興味深そうにこちらを見ていた。
「どうだった?」
「どうだった、って?」
「冷蔵庫の中味。明日の朝ご飯まで持ちそう?」
 司は反論した、
「朝ご飯なんて、行きがけに購買でパンでも買っていったらいいじゃないか」
 皐はため息を吐いた。
「司くんてばそんな食生活だったんだ」
「君も二ヶ月経てば同じ事やってるさ。朝の5分がどれほど貴重か、分かる時が来る」
「……そんな事ないもん」
「どうかな」
 そんな事を言い合いながら玄関へと向かう。靴を脱いだ記憶はなかったが、きちんと玄関に揃えてあった。皐の『力』に感心しながら玄関の戸に触れて、唐突に思いついた。
「そうだ、ジャガイモ、君の力で出してくれないか?そうしたら材料費が浮くんだけど」
 皐はむくれた。
「馬鹿な事言わないで。そんな利己的な事に力は使えないよ」
「そっか、残念だな。折角我が家の食費が浮くかと思ったのに」
 さして残念そうな声でもなくそう言うと、司は玄関の戸を開けた。
「あ、ちょっと待って。私も一緒に行くよ」
 皐がそう言うのを、司は押しとどめた。
「すぐ近くだし、大した量もないから一人でいいよ」
「場所覚えとかなきゃ。これからお世話になるんだし」
「ああ、そうか。なら一緒に行こう」

 そうして二人して家を出る。そうやって肩を並べて歩いていると、皐は本当に年相応の少女にしか見えない。通りすがる人影をちらほら見かけて、司は自分たちがどのように見えているのだろうかと想像しようとして、止めた。何となく、それを失った時の恐れが、司に思考停止を強いたのだ。しかし何を恐れるというのだろう。桂木皐が、司の元から消えるとでも?クラッカーも倒していないのに?そう。クラッカーを倒していない間は大丈夫だ。皐は司と共にいる。だが、倒した後は?皐は何処に行ってしまうのだろう。どうなってしまうのだろう。訊ねようかと一瞬声をかけかけて、躊躇ってしまう。しかしいつかは問わねばならぬ事でもあるのだ。だが今は問わないでおこうと司は消極的な気分でそう思った。

 スーパーまでは歩いて五分ほどの距離になる。量販店ではなく個人経営のスーパーだ。斎乃家との付き合いはもう長い。司もすっかり顔なじみになっていた。棚の整理をしていた親父さんが、司の顔を見て声をかけてきた。
「おう斎乃さんとこのボンじゃねぇか。今日は何を……」
 途中で皐に気付いたのだろう。親父は声を落して司に尋ねた。
「おいボン。そこのべっぴんさんはお前の彼女かい?」
 その言葉に、司は過剰に反応した。
「違いますよ!単なる同居人です」
 その言葉を、皐は聞き逃さなかった。
「あーそういうこと言うんだ」
 そう言うが早いか、司の腕をぎゅっと抱え込んで、こんな事をのたもうた。
「初めまして、桂木皐です。司くんの、内縁の妻やってます」
 その単語を脳裏から引っ張り出してきて理解した時、司は真っ赤になって叫んでいた。
「内縁の妻って……要するに婚約者か愛人って事じゃないか!」
「はい、よくできました」
 司の腕を抱え込んだまま、皐は司の頭を撫でた。司は腕と背中から伝わってくる柔らかな感触と皐の言動に、頭が熱くなるのを感じた。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
「悪い冗談は止めてくれ。クラッカーの前に、僕に襲われても知らないぞ」
 皐はくすくす笑いながら腕を放した。そして司の耳元でささやく。
「襲ってみる?」
 遂に司は実力行使に出た。皐の頭にがす、とチョップを打ち込んだのだ。
「痛あ〜い!」
 大げさに痛がる皐を最早無視して、司はジャガイモを買い物かごに放り込んだ。親父さんに「仲がいいねぇ」とからかわれながら。

 そのまま会計に行こうとしたら、皐が「ちょっと待って」と制止した。
「明日の朝ご飯の分、まとめて一緒に買っちゃうから」
 そうしてパンと卵、ハムにトマトなど数種類の品物を買い物かごに詰め込んだ。かごに放り込まれた品を見て、司は感慨を漏らした。
「今日の朝ご飯に比べると手軽だね」
「まあね。明日は学校行かなきゃいけないし。準備も考えたらそう凝った物作れないよ」
 皐はそう言って肩をすくめた。
「ま、いつまで続くか分からないけれどね」
 司がそう言ってからかうと、皐はむくれて
「絶対作り続けてやるんだから」
 そう言って握り拳を作っていた。

 会計でジャガイモ二個をおまけしてもらって買い物袋に入れ、二人で下げて帰る。
 道中、司は皐に文句を言っていた。
「どうしてあんな事言ったんだ。しかも人前で!あんな事言ったら僕たちの仲が誤解されるじゃないか!」
 その言葉を、皐は冷静な瞳で受け止めた。
「それじゃ、私達の仲って何?クラッカーを倒す為の同盟?戦う為の盟友?」
「……そう言って、いいんじゃないかな」
 それを自分自身が望んでいるかどうかは、ともかくとして。司はその言葉を呑み込んだ。
「……そっか」
 皐の口から出た言葉は、限りなく冷たい物だった。

〈3〉

 限りなく気まずい夕食だった。

 双方共に、一言も話すことなく、ただ黙々とスプーンを動かし続けた。結果として食事が終わるまで、発された言葉は「頂きます」と「ごちそうさま」だけだった。

 皐はそう言い終えると、さっさと席を立った。司は引き留めようとして……躊躇った。皐が何か憤慨していることが一目瞭然だったからだ。とても、『食後のお茶』という雰囲気ではなかった。

 片づけをして、司も二階に上がる。風呂は自動で沸き上がるから、頃合いを見て入ればよい。そこまで考えて、司は風呂の順番を決めねばならないことに気付いた。
 気まずいが、話しかけねばならない。司は、皐の部屋のドアをノックした。

「……何?」
 冷たい声が、部屋の中から返ってきた。司は萎えそうになる心に活を入れて、次の言葉を絞り出した。
「お風呂。もうすぐ沸くけど、どっちが先に入る?」
「……司くんが先で良いよ」
 何処までも冷たい声だった。
「そう……」
 そう答えたものの、他に言わねばならないことがある気がして、その場を離れることができない。考え込む司に、扉越しに気配を感じたのだろう。
「他に、何か用?」
 部屋の中から声がかけられた。
「用って事のものじゃないけれど、夕方の事、謝ろうと思って」
 息を呑む気配が、ドア越しに伝わってきた。
「君は戦うだけの存在じゃない。それなのに、戦うことを強制する様な事を言ってしまった。僕自身望んでもいない事を、言ってしまった。僕は君と一緒にいたい。それが、それだけが、望みだ」

 そう。クラッカーを倒せたとしても、彼女が側にいなければ意味がないのだ。その事に司はやっと気付いた。
「クラッカーなんか関係ない。僕は君が好きだ。その事にやっと気付いた。皐ちゃん。僕を好きになってくれとは言わない。だからせめて、嫌わないでくれ。それが、パートナーとしての、僕のお願いだ」
 一気にそれだけをまくし立てると、司は自室に飛び込んだ。そのままベッドにダイブする。

 言った。言ってしまった。
 これも、告白という奴になるんだろうか。経験のない司には分からない。だから、相手にどう伝わったかも、分からない。ドア越しだったから、皐がどう反応したかも分からないし、第一司の頭は爆発しそうで、物事を正常に考えることができそうにない。
「くそっ、風呂だ!」
 やけっぱちにそう叫ぶと、司は風呂の用意をして、一階へ向かった。
 頭を流し、身体を洗って湯船に浸かる。そうしてようやく冷えた頭で先程のことを考えた。

 これで良かったのだと思う。少なくとも、斎乃司個人としては。だが皐はどうだろう。少なくとも怒ってはいないと思うのだが。だが動揺させてしまったかも知れない。パートナーがそんな気持ちで自分と接していると知ったら、皐は困るんじゃないだろうか。それが心配だ。自分たちはあくまでもクラッカーを倒す為に契約した者同士なのだ。それを忘れて告白なんて、馬鹿げたことをした。後悔はしていないが。
 むしろ、告白したことですっきりしたと司は思う。これで、皐と真っ向から向き合える。少なくとも、司の方は。後は返事が貰えたら、それが承諾の返事なら、最高なのだが。

 ともあれ、一人で悶々としていても仕方ない。司は風呂から上がって、身体を拭く準備を始めた。

◆◇◆

 一方、皐の方はと言えば。
 ベッドの中で、固まっていた。

 顔面どころか耳まで真っ赤にして、ベッドの中で蹲っている。原因は無論、先程の司の『告白』の所為だ。

 好きだ。

 この一言が、皐の頭の中でリフレインしている。司のこの一言が、皐に与えた影響は、確かに甚大だった。

「良かったじゃないか。目標から一定以上の好意を得られて。これで戦力は、飛躍的に上昇する」
 戦術戦闘知性体部分が、皐に向かってそう告げた。その言葉でようやく、皐の一種朦朧状態は醒めた。皐は真っ赤な顔のまま、戦術戦闘知性対部分に向かって言い返した。
「嫌われるようなことはしてないもの。それでもこんなに早く、好きだと言って貰えるとは思ってなかったけれど」
「強がるな」
 戦術戦闘知性体部分は柔らかく受け流した。

「嫌われるようなことをしていないのではなく、意識的に避けていた。そうだろう?」
「そりゃ意識して避けるわよ。だって――」
「自分が好意を持っている相手、だからな」
 戦術戦闘知性体部分が決めつけた。しかしそれに対して、皐は言い返すことはできなかった。それが真実だから。戦術戦闘知性体部分は自分自身だということを、皐は改めて思い知った。しかしどこか自分とは違う。自分自身を常に客観視しているとでも言おうか、皐と戦術戦闘知性体部分との間には、何かしきりのような物がある。その事に、皐は気付いた。

「ねえ、あなた、名前が欲しくない?」
 戦術戦闘知性体部分は訝しげに反応した。
「名前?その様な物が何の役に立つ?」
「あなたと私、それを区別するのに役立つわ。私だけにしか役立たないかも知れない。だけどそうした方が、便利な気がするの」
「皐がそう言うなら、私は特に反対はしないが……名称は決まっているのか?」
「イシェト。古代エジプトの女神の名」
「イシェト。そう呼ばれたら、私は反応すればいいのだな?」
「うん」
「了解した。これも、新たなコミュニケートの手段という訳か」
「そうだね」

 和やかな空気が流れた。しかしその空気を、イシェトは一気にかき乱した。
「それで、斎乃司への反応はどうする気だ?まさか、反発することを考えてはいまい?」
 皐の頬に、再び朱がさした。勢いよく立ち上がる。
「どうした?」
 イシェトの問いに、皐は答えた。
「お風呂!」
 やれやれといった風で、イシェトは応じた。
「まあ、それもよかろう。風呂に浸かって、ゆっくり考えるがいい」
「そうするっ」
 そうして皐は風呂の用意をして部屋を出た。

 風呂場まで、司と鉢合わせになることはなかった。皐はその事に、まずはほっとした。
 髪と身体を洗って頭にタオルを巻く。そうしておいて、皐はゆっくりと湯船に浸かった。
 ――この湯船、さっき司くんも浸かったんだなあ――
 そんな考えが脳裏に沸いてくる。途端に自分の行為が恥ずかしくなってきて、皐は慌てて、その考えを脳裏から追い払った。

 意識すべきはそう。司にいつ、自分の気持ちを伝えるか、だ。風呂から上がってすぐでも良いが、やはり何となく気恥ずかしい。それに、司はもう眠っているかも知れない。だが一方で、今伝えてしまわねば時機を逸するような気もしている。結局、どっちつかずの堂々巡り。司はどうやって、この心理的障壁を乗り越えたのだろう。

 斎乃司のことを考える。
 あの烈火のような情熱は、皐にとって心地よい物だった。しかし好意を持ったのはそこではない。冷静な判断力でもない。それなら皐も所有している。結局皐は自分になくて司が持っていた物、年相応の斎乃司という少年の感性に惹かれたのだ。斎乃司の感性と、桂木皐の感性は相性が良かったと言えるだろう。何故か。そんな物は分からないし、誰にも分からないだろう。ともかく皐は、最初出会った時の司の必死な想いに興味を惹かれ、言葉を交わすうちにそれが好意に変わったのだ。「抱かれなさい」というイシェトの言葉は、極端ではあるが間違ってはいない。そういう関係に二人がなれば、間違いなく今のぎこちない関係は生じなかったであろうから。

 しかし、だからといって今のこの状態が間違いであるとは思えない。間違っているとも思わない。直接肌を合わせることだけが、恋愛の全てではないはずだから。

「恋愛、かあ……」
 皐が身じろきすると、ちゃぷ、と水音が立った。

 戦術戦闘知性体がその最高性能を引き出せるのは『愛』の力を得られた時だ、と皐も知ってはいた。しかし実際に、自分がその力を手にすることになるかもしれないとは思わなかった。

 愛の力。

 それはあくまで抽象的な名称に過ぎない。実際に運用するのは大変な作業になる。
 司と皐が絶対的な信頼関係で結ばれている事。それが条件だ。どんな言葉にも、どんな行為にも揺るがされてはならない。それがどんなに困難な事か。ヒトの心はうつろい易く、それを揺るがすのは容易だ。戦術戦闘知性体が『愛』を発揮したければ、それすらも乗り越えなければならない。

 尤も、それは通常の恋愛においても同様なのかも知れない。揺るがされてはならない。うつろってはいけない。揺るげば、うつろえば、壊れていくだけ。たった一言で壊れてしまうのであれば、それはそれだけの物に過ぎなかったのだ。自分たちの関係も、そうならないと誰が断言できる?それが、不安だ。

 だが不安なのは司も同じだろう。壊れないように、揺るがないように、二人で生きていけば済む事だと思う。楽観的すぎるだろうか。しかし真理だと皐は思う。

 原理は単純。複雑に見えるのは人の心が単純ではないからだ。誰の言葉だっただろう。もう忘れてしまった。

 司と皐の関係だけではない。クラッカーとの戦いも、そうだ。原理は、理屈は、単純だが、そこに至るまでの過程という物がある。それが話を、ややこしくしている。どういう戦術を採るか。それによって、これからの戦いのイニシアチブも変わってくるだろう。戦術だけではない、これからどういう生活を送るかによって、戦いのイニシアチブは変わってくる。そのためにもまず、司にどう返事するか、いつ返事するか。それが重要になってくるのだ。

 考え事をしていて、長湯になってしまった。皐は風呂から出ると、パジャマに着替えて二階への階段を見上げた。

 この上に、司がいる。皐なら一跳足の場所だが、それにあまり意味はない。問題はその先にあるのだから。
 今告げてしまうか。明日に引き延ばすか。極端な所、この二つしか選択肢はないのだが、それすら選ぶ事のできない自分にいらだちすら感じる。恋とは、愛とは、何と多くの精神的肉体的エネルギーを要求するのだろう。皐は大きくため息をついた。それで皐は全ての踏ん切りをつけた。皐は階段を一歩上がる。

 今日、告白してしまおう。明日に持ち越しても、良い事なんか何もない。善は急げだ!
 階段を登りきる。そこにある扉が司の部屋へ通じるドアだ。皐は意を決して、ノックをした。

 コンコン、軽い音の後の、皐にとって長い長い数拍の後、「どうぞ」と中から声がした。司はまだ起きているのだ。好都合なのか何なのか判別できないままに、皐は声を絞り出した。

「話が……あるんだけど。いいかな?」
 返事はすぐには返ってこなかった。それだけ、司も覚悟を決めていたという事だろうか。
「うん、いいよ。入って」
 その返事が来たのは、時の天使が3拍ほど距離を稼いだ頃だった。皐は震えそうになる手を押さえて、ドアのノブを回した。

 司はベッドに座っていて、くつろいだ姿勢ではなかった。その事が何を示すか、皐には分かっていた。少なくとも、分かっているつもりだった。
 司も悩み、眠れなかったのだ。その事が、何だか皐には、嬉しい。悩んでいるのが自分独りではないのが、嬉しい。ささやかな、連帯感。

 しばしの沈黙が二人を包んだ。

 二人とも話すべき事は決まっているはずなのに、それを口にする事ができない。しかし雰囲気は重苦しい物ではなく、むしろ心地よさすら感じる。しかし永遠に黙っている訳にも行かない。司が口を、開いた。

「皐ちゃん、話って、何?」
 空々しく聞こえなかったろうか。司はそんな事を気にしていたが、無論皐にそんな余裕はなかった。
「さっきの司くんの話。返事、しとこうと思って」
 軽い言葉の中に、どれほどの緊張が込められていただろう。お互い、次の皐の言葉を、待っている。
「……嬉しかったよ」
 自然に出たのは、そんな言葉だった。

「嬉しかった。だけど困っちゃった。司くんはいつも私の予測の一歩先を行く。あんな風に告白されるなんて、思わなかった」
「迷惑、だったかな?」
 司の不安に、皐は激しく首を振った。
「迷惑なんて、そんな!ただ私が未熟なだけ。巧く事態を処理できないでいる、私の所為」
「そんな事はない。事態を処理できていないのは僕の所為だ」
「どうして?司くんは悪くない。上手く言葉を受け取れなかった、すぐに答えを出せなかった私の責任だよ」
「すぐに答えを求めていた訳じゃない。ただ、僕の気持ちの押しつけだったんだ。それをそんな真剣に考える必要なんて無いよ」
「どうして分かってくれないかなあ。私は君の事がこんなに好きだって言うのに!」
 怒鳴った後で、はっと皐が言を止めると、部屋には沈黙が降りた。

 夜、音のない部屋に、いつしかくすくすと小さく笑う声が響く。それが徐々に大きくなって、最早通常の笑い声と変わらないほどになった。笑い声を発したのは双方。道化だったのも、双方だった。
 お互いが、お互いへの想いを持っていて、それをすでに自覚している。その上で、この想いは相手にとって迷惑だと決めつけて、無益な口げんかをやらかしてしまった。気付けばお互いがお互いを想っているのだから、こんな口げんか、必要なかったのだ。

「すれ違いばっかりだね、私達」
 皐が笑いを収めて、そう言った。
「そうかな。そうかもしれない」
 司も同意した。
 すれ違い、すれ違うほどに相手を意識して、今ここに至っている。すれ違う事自体が悪いのではない。そこで相手をどう意識するかという所に問題があるのだろう。司と皐はいい方に、とてもいい方に意識し合った。それだけの事だ。

 だが一つだけ、はっきりさせておかなければならない事がある。皐は司の隣に座り込んで、司の瞳を覗き込んだ。
「ねえ司く――」
 言葉を発しようとした皐を、司が人差し指で遮った。
「僕から言わせてくれ。告白くらい、男の僕からしたい」
 古臭い意地だと笑うがいいさ。これくらいしか、司は皐に貢献できないのだから。
「皐ちゃん、好きだよ」
 そう耳元に囁いて、皐を抱きしめる。皐も抱きしめ返して、囁いた。
「うん。私も、司くんが大好きだよ」

 そうして、二人の影が一つに重なった。


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