異形狩り師 02

 司と皐も学校に通っている。私立のエスカレーター式の学校だ。私立星詳学園。校風はリベラルで、居心地の良い学校だ。幼稚舎から大学部まであり、付属として神学校がある。一輝も、ここの出身である。何しろ、家から近い上、神学校がある。ここまで司たちにとって都合のいい学校はないだろう。それが、星詳学園を選んだ理由である。リベラルで、居心地がいいというのは、まあおまけだ。それでも、そうでないよりはずっとましである。 制服は、中等部は男女ともブレザーの上下。デザインは、去年リニューアルされた物を、二人とも着ている。古い制服を着ている者は、よほどの物好き以外、いない。新しい制服の方がデザインが洗練されているし、動きやすいのだ。たちまち人気になって、古い制服は廃れてしまった。皐などは、

「買い換えるの、勿体ないかな?」

 と言って悩んでいたが、司の

「どうせ長く着るんですから、好きな方を選んだらいいですよ」

 と言う助言で、新しい方の制服を選んだ。 そう言う司は、新入生だから自動的に新しい制服を選ばされた。別に司としては、どちらでも良かったのだが。

 司は服に頓着しない。顔が童顔で女顔なので、何を着ても似合う。だから服に関する関心がどうしても薄くなるのだ。皐などからは羨ましがられるが、司としては服などより顔つきがもう少し男っぽくなって欲しい。こんな、なよっとした顔つきのまま成長してしまったら、異形にまで馬鹿にされそうな気がする。実際にそこまで知能の高い異形には、そうそうお目にかかれはしないのだが。

 学校までは徒歩で二十分弱。自転車を使えばもっと早いが、斎乃家は一応神式の構えを取っているので、母屋から通学路まで、高い石段がある。無論自転車などは石段の下に置いてあるのだが、わざわざ自転車を使うまでの距離でもないし、この五月の新緑を眺めながら登校というのもおつなものである。

 学校に近づくほどに人の数が増えていく。当然であるがそれは星詳学園に通う生徒の群れである。駅からは遠いが、バスが通っているので問題はさほど無い。つわものは、そこから自転車で通学しているという。

「もうすぐ六月だねぇ」

 そんな中、司と皐は並んで登校していた。「そうですね。梅雨の季節になりますか」

 皐の言葉に、司が返す。皐はむー、と唸った。皐は雨が嫌いなのである。美少女と雨。相性が良さそうな物だが、こればかりは当人の嗜好である。

「今年も空梅雨だといいんだけどなあ」

 司は苦笑した。

「物騒な事を言わないでください。夏に水不足になりますよ。梅雨の時期にしっかり振っておいてもらわないと」

「だって、お洗濯物は乾かないし、カビの生えるのは早くなるし。あんまりいい事無いんだもの」

「おかるさんがしっかりやってくれているでしょう?」

「それはそうだけど……なんだか申し訳ないじゃない?」

「まあそれはそうですが……」

 そんなやりとりをしながら校門をくぐる。周囲からは感嘆の視線が複数浴びせかけられるが、そんなものにいちいち反応していられない。しかし実際、絵になる構図なのだ。司と皐が二人並んでいる、と言う構図は。うっとりと眺めている女子すらいるほどだ。そして嫉視の視線も混じる。これは男子・女子ほぼ同数だ。これに対しては、司はやや警戒心を抱いている。この嫉視が陰気に成長して、異形が現れないか心配なのである。学校のど真ん中に異形が現れたら……と思うと、ぞっとしない気分だ。無論、その時は斬る。だが普通の生徒のトラウマになってしまわないか、という心配はある。どんな事にもそうだが、万全の策という物はない物だ。理想論という物はあるにしても。

 中等部の校舎に入る。

 賛嘆と嫉視の視線は濃度を増して司と皐をちくちくと刺す。毎日の事だが、司にとってはやや不愉快ではある。嫉視を受けるに十分な事をしているという自覚はあるが、だからといって譲ってやる気にはならない。

 皐は、司にとって大事な人だ。仕事上のパートナーと言うだけではない。一人の女性として、大切な存在なのだ。皐も、それに応えてくれた。今二人は仕事上のパートナー以前に、男と女として繋がっているのだ。

 それが公然の物となっているから、直接司や皐に向かって手を出してこようと言う者はいない。ただ胸の中に想いを秘めて、賛嘆なり嫉妬なりで自分を誤魔化している。そんな中を通過するのは、決して愉快な事ではなかった。

 階段を上がる。二階が二年生の教室だ。司と皐は、ここで別れる事になる。

「それじゃ司くん、またお昼ね」

「はい」

 そうして皐は自分の教室に入っていった。それを確認して、司は階段をさらに登った。一年生の教室は三階だ。司の教室は二組。

 扉を開けながら「おはよう」と挨拶をするのはこの学校の伝統だ。司も伝統を守って、「おはよう」と挨拶をした。教室のあちこちから「おはよう」と応えが返ってくる。それだけの人望を、司は既に得ていた。主に、異形狩りの実績によってである。

 どんなに隠そうとしても、異形が出た事は隠しきれる物ではない。そしてそれを退治した者の名も、また同様である。事件から一夜明けただけなのに、司がまた異形を狩った事は、周知の事となっていた。

「おはよう斎乃くん。また昨日も、狩ったんだって?」

 そう言って挨拶してきたのは、同じクラスの日下仁である。中肉中背の体の上に、誠実そうな顔が乗っている。しかしこの者も、司と同じ役目を負うた者なのである。この地区は〈斎乃月光流〉が管轄しているが、だからといって他の地区は放ったらかし、と言う訳ではない。その地、その地で異形を狩る者が、ちゃんといるのである。

 その地を護る者で手が足りなければ、助っ人に行く事もある。また、こちらが助っ人を呼ぶ事もある。こうして手を取り合いながら、人は異形の魔の手から、人々を護ってきた。

 しかし近年、その輪が崩れつつある。原因は、跡継ぎの不足である。〈斎乃月光流〉はすんなりと跡継ぎが決まったが、他流派では跡継ぎが決まらず、難儀している所も多いと聞く。理由はやはり、その危険さと修行の辛さだ。辛い修行に耐え、それでも異形に勝ちうる者が育つには時間と、そして素養が必要である。素養があっても修行に耐え切れなければ、それはやはり異形を狩る者としては失格なのである。そして修行を嫌がり、他家へ養子に出る者も決して少なくなかった。

 結果として跡継ぎがいなくなる、という具合である。そう言う場合、他流派で余っている人員を養子として迎え、跡継ぎとする、と言う事が行われてきたが、それもそろそろ限界に近づいてきていた。跡継ぎ問題は、緊急を要する問題なのである。

 しかし〈斎乃月光流〉は今の所、跡継ぎに困る事はない。当代がまだ若く、当分の間は代替わりの必要がないからである。そして当代は優秀である。それが、他流派の嫉視を買っていた。

 司がもし異形に敗れれば、手を打って喜ぶ流派の者は多いであろう。それは決して、自己の利益になる物ではなかったが、しかし他者の不幸を喜ばねばならぬと言うのも不幸な話ではある。

 そう言った流派を統合し、一つにまとめ上げた者がいた。それが、日下仁の父親である。

 だがこの人物は、幻力に劣り、また異形を狩る者としての修行も怠っていた為、すぐに異形に狩られる事となった。仁はその跡取りとして、多大な負担を課せられている。

 酷烈な修行、異形との休み無き戦い。日下仁が学校に出てくるのは、一月の内の三分の二ほどしかない。残りは、全て修行か異形狩りの毎日なのである。

 それでも今まで生き残っているだけ、先代よりはましであろう。この稼業、極端な所、生き残っていれば勝ち、と言う一面がある。例え異形を狩れずとも、逃げ出せばいい。生きていれば、再戦の機会はある。それが無理なら、他の者に討伐を頼めばよい。日下仁は、そうやって生き延びてきた。

 討伐の代役を頼むたびに、面汚し、と言われ罵倒されるのはきつかったが。

 しかしそれでも生きて学校に来られるのはよい事だ、と日下仁は思っている。そんな気持ちが、司には分かる。性格的に向かない異形狩りを半ば強引に押しつけられて、弱音一つ吐かない仁に、司は友情以上の物を感じていた。同じく怨念を断つ者としての連帯感と、弱音を吐かない強さへの尊敬の念、である。例え司の方が、仁よりも幻力も破邪の腕も勝っていたとしても、だ。

 そして平和な日常を愛する心。これは司よりも仁の方がより勝っているかも知れない、と司などは思う。

 何も知らない一般生徒などは、異形狩りは格好いいなどと言うが、実際の異形狩りはそんな言葉では言い表せない物がある。一種、負けねば良いという異形狩りは、格好の悪い一面だってあるのだ。地味な、毎日の修練の積み重ねだってある。それは、どんな事だって変わらない。

 異形狩りが格好いいと思っている者は、大抵が非日常を味わってみたいと思っている者だ。だがこの非日常は、シリアスだ。決して大多数の者が思っている様な、ヒロイックな物ではない。シリアスで、汚い。そこには人間の、思惑も混じる。縄張り争い、報酬に関する掛け合い、異形を狩った後の後始末。その他数え切れぬほど多数の思惑が絡み合う。それが、異形を狩る、と言う事だ。決して、現場で剣を振るう事だけが、異形狩りではない。

 そして最適な事は、異形が出たら速やかに腕のいい専門家に頼む事ではなく、異形を出現させぬ事だ。これが、難しい。

 一般人は、どうすれば異形が出るか知ってはいるが、しかしそれでも事あるごとに争い、陰気を溜める。溜まった陰気から、異形が出現する。その段になって、手遅れになって初めて後悔するのだが、それでは遅いのだ。まあ、後悔とは、先には出来ぬ物ではあるが。

 とりあえず司は、自分の机に鞄を置くと、仁と向き合った。そして苦笑の表情を作った。「もう噂になってるのか……」

 仁は頷いた。

「もう尾ひれがくっついてるよ。『鬼』を斬ったとか」

「そんな大物じゃないよ、昨日のは。土蜘蛛さ。それも大分、力を落とした奴。要するに雑魚だよ」

「それを雑魚と切って捨てられる斎乃くんが羨ましいよ。僕なら、多少の苦戦はしたかも知れない」

 司は仁を見た。仁本人ではない。仁から溢れ出す、幻力の強さを見たのだ。昨日見た時より、確実に強くなっている。一日でここまで成長する物なのか。司は畏れを抱いた。この、努力家の親友に。

「確実に強くなってる。君ならいずれ、僕を抜いていくかも知れないな」

 冗談ではなく、司はそう言った。

「そうだと嬉しいけれど。だけど無理だよ。僕より、司くんが伸びる方が早い」

「そうかな。僕は一日でそこまで幻力を伸ばせないけれど」

「これは、薬のお陰だよ。強仁丹。それの効果が、まだ残っているんじゃないかな」

 司は眉をひそめた。

「君の所では、薬まで使って修行しているのかい?」

 仁は、事も無げに頷いた。

「うん。結構使うよ。僕にはあまり素養がなかったからね。薬で補っているのさ」

「それは、あまり良くないな。薬で無理矢理伸ばすより、時間がかかっても、修行で伸ばした幻力の方が、いざと言う時の爆発力が違う」

「ご老人達には、その時間が無いのさ」

 仁は寂しげに肩をすくめ、司は舌打ちした。

 彼らが『ご老人』と呼ぶのは、仁の師匠であり先達である老人達の事である。

 複数いるのは、仁に技術や技を教える流派が複数あるからだ。全部で八つ。師匠である老人も八人。だから日下仁の流派は、〈日下八光流〉と言う。八つ集まって光を放つ、と言う意味だ。しかし実際はどうかな、と司は意地悪く思う。

 大事な跡継ぎである仁に過大な負担をかけ、薬まで使って無理矢理一人前にしようという〈八光流〉のやり口は、司は好きで無かった。自分が生きている内に何らかの結果が見たい、と言う渇望は分からないでもないが、やり方があまりに粗暴な気がする。

 こんなやり方を続けていたのでは、大事な跡取りである仁が、壊れてしまうのではないか。司は、それを心配している。老人達は、その心配をしていないのだろうか。仁が潰れたら、またどこかから適当な人材を拾ってくればよい、とでも思っているのだろうか。それは許されない事だ、と司は思う。

 人間を、壊れた玩具を取り替える様に扱う事は、その人たちに対する冒涜だ。そんな事は、許されない。

 一度、〈八光流〉の老人達に会って話してみる必要が、あるかも知れない。司は心密かに、そんな事を考えていた。

 昼休み。解放的な空気の中、司は屋上に出て皐の姿を探した。

「司くーん!こっちこっち!」

 大声で司を呼ぶ声。そしてぶんぶかと手を振る姿。間違いなく、斎乃皐であった。

 司はいささか赤面しながら、急いで皐の元へ駆けていった。周りからクスクスと忍び笑いの聞こえる中、司は皐の隣に座った。

 司は空手だ。弁当は、皐が二人分、持っている。

「どうせ一緒に食べるんだもんね」

 そう言って、皐は司に弁当を持たせてくれない。司としては、それもいささか気恥ずかしい。尤も、二人の仲は公然たる物であったので、今更いちいち冷やかしに来る連中もいない。みんな、生暖かい視線で二人を見守るだけだ。

 二人の関係。それは異形を狩る時のパートナーと言うだけではない。この二人、婚約者同士なのだ。まだ形式すら整っていないが、その事はほぼ全校生徒が知っていた。それ程に、学内でも有名人なのだ、この二人は。

「今日のお弁当はちょっと豪華なんだよ」

 そう言って皐は大きい方の弁当箱を司に手渡す。受け取った司は、中身のぎっしり詰まっているであろう、重たい弁当箱の蓋を開けた。

「へえ……今日は洋風ですか」

「うん、だから私もお手伝いしたんだよ」

「そりゃ凄い」

 司の手の中の弁当箱には、色とりどりのおかずが詰まっていた。皐の自信作という卵焼きも、しっかり入っている。他にはハンバーグ、たこさんソーセージなど、なかなかに手の込んだ弁当だ。これを手伝ったというのだから、朝、相当早起きしていたのだろう。恐らく、司と大差ないはずだ。

「皐さん、眠くありませんか?」

「どうして?」

「これだけのお弁当、相当早起きしたでしょう?昨日の晩も遅かったし」

「大丈夫、慣れてるから」

 そう言って皐はにっこりと笑った。花が咲いた様な笑顔。それで司も、これ以上皐の体調について、言及するのを止めた。

 こう見えて、皐は頑固だ。一度言い出したらなかなか曲げない。それは長所にもなり得るのだが、反面、短所でもある。

 この性格が異形狩りの時、致命的な事にならねば良いが、と司は常に気を揉んでいる。まあ、後衛の皐が危機に陥る時は、大抵の場合、前衛の司は死んでいるか、相当の重傷を負っているかであろうが。

 それでもお互いを気遣うのだろうな、と司は内心で苦笑して、不吉な妄想を脳裏から追い払った。

「どうしたの?変な顔しちゃって」

 気がつくと、皐が司の顔を覗き込んでいた。どうやら考えていた事が、顔にも出ていたらしい。司は微笑して、

「何でもないですよ。ちょっと、考え事をしていただけで」

 そう言って誤魔化した。

「ふーん……」

 皐は不得要領な顔をしていたが、すぐに笑顔に戻って、

「さ、食べよ」

 そう言って弁当に箸を付け始めた。司も続いて弁当に箸を付ける。皐の期待の視線が、司に注がれる。司は好物のハンバーグを半分に割って口に運んだ。

「ん、旨いっ」

 司の感想に、皐は手を打った。

「やったあ!それも私が作ったんだよ」

「へえ……良くできてますよ。美味しいです。皐さんも食べてみてください」

 司に言われて、皐もハンバーグを口に運ぶ。

「うん、上出来上出来」

 皐は上機嫌で、ご飯を口に運んだ。司も箸を進めていく。十五分程で、二人の弁当箱は空になった。その間、会話らしい物はほとんど無かったが、二人は気にしていなかった。弁当が美味しい事は分かったし、これ以上詮索する事も二人の間にはない。無理に会話を繋げずとも、通じ合っているのだ、この二人は。

 無論知らない事もある。知りたい事もある。だがそれはこれからに取っておこうと思っているのだ。だから食事時くらいは、静かに食べる。

 勿体ないと思う者もいるであろうが、これが二人のスタイルなのである。何者も、文句を言う権利はない。〈月光流〉の当主たる一輝すら、この件については何も言わないのだ。その他大勢に、口を挟む隙間など無かった。

「んー食べちゃったね。これからどうしようかな」

 皐が大きく伸びをして、そんな事を言った。「僕の方には、特に予定はありませんけど」

 司がそう返すと、皐は嬉しそうに笑った。

「それじゃお昼寝、決まり!」

 そう宣告すると、皐は司の膝の上に頭を乗せた。司が何か言う前に、既に寝息が聞こえてくる。寝付きがいいのは、皐の数ある特技の一つであった。しかしこう言う時には、司にとっては嬉しくない。

 しかし文句を言う相手は既に夢の中である。わざわざ起こすのも気が引けた。結果として、司は皐の膝枕をして昼休みを過ごす事になってしまった。

 周囲からまた、いろんな感情の交じった視線が飛んでくる。その全てを、司は無視したが、自分もこのまま眠ってしまうのもどうかな、とも思う。

 結局、このまま膝をそろえて座っている事にした。

「仲がいいね」

 そこへ現れたのは、日下仁だった。司はその言葉を、苦笑で受けた。

「仲がいいのはいいんだけれどね。こんな風に、無防備に信頼されるのは、ちょっと戸惑うかな。男として、意識されて無いんじゃないかと思ってしまう」

「少しくらいは、警戒して欲しい?」

「かもしれない」

「贅沢だなあ」

 そう言って仁は笑った。司も再び苦笑する。

「今の距離が、一番無難なのかも知れない。下手に結婚だ、夫婦だ、っていうのよりも」

「それも、贅沢な話だね。もう婚約してるんだろう?結婚するのは、既定の話じゃないのかい?」

「まあそうなんだけれど。言ってみれば、僕の本音みたいな物かな」

「いつまでも子供でいたい、みたいな物?」

「そうかもしれない」

「危うい願望だな。ネバーランドに行っても、子供達はやがて帰ってくる。この薄汚れた、現実世界に。僕たちは現実の汚い部分を見過ぎて、夢世界に希望を見いだそうとしているのかも知れないな」

 司は肩をすくめた。

「いつまでも子供のままではいられない。身体も、心もだ。いつまでも皐さんが、僕を見てくれるならいい。しかし大人になるにつれて、視野は広がり、心の有り様は変容する」

 そこまで一気に話すと、司は軽くため息を吐いた。

「要するに僕が怖いのは、皐さんを失う事なんだな」

「当然の事だと思うよ」

 仁はそう言って司を慰めた。そして続けた。

「でも、きっと皐さんも、同じ事を考えていると思うよ」

「まさか」

 司は一笑に付したが、仁はあくまで真面目だった。

「司くん。もっと自分の魅力に気付いた方がいいと思うよ。今のままじゃ、君はただの朴念仁だ」

 司は苦笑した。

「ひどい言われ様だな」

「実際、そうだからね。少しは嫌みも言いたくもなる。その他大勢としてはね」

「君も、その他大勢なんかじゃないだろう」

 仁は肩をすくめた。

「そうでもないさ。同じ異形狩り師と言っても、腕があまりに違う。容姿も成績も、十人並みだしね」

「それでも君を見ている子は、必ずいると思うけどな」

「だといいけど」

 そう応じて仁は笑った。司も控えめに微笑する。実際、司の目から見て、この友人は魅力的な人物に映る。同じ目で見ている異性がいても、少しもおかしくはない、と司は思う。 一度、皐に仁の事を聞いてみようか。司は仁と話しながら、そんな事を考えていた。

「え、日下くん?」

「ええ。皐さんの目から見て、どうかな、と思いまして」

 放課後、帰り道。

 司は昼休みの考えを実行に移していた。

 皐は人差し指を顎に当てて考え込んでいたが、人差し指を顎から離すと、にっこり微笑んだ。

「いい子だと思うよ。誰に対しても誠実だし、優しい子だし。ただちょっと押しが弱いかな。司くんと同じで」

「僕も、押しが弱いですか」

 皐は頷いた。

「たまには、女の子を押し倒すくらいの気概を見せなくちゃ。司くんと私、付き合ってるんだよ。分かってるよね?」

「まあ、それは一応……」

「ほら押しが弱くなった。こう言う時、胸を張って『そうですよ』くらい言えないとね」

「なるほど」

 生真面目に答える司に、皐は意地悪な微笑を向けた。

「それじゃ実行。ここでキスして見せて」

「な……」

 司は絶句した。

 皐は時折、このように司の予想を超えた発言や行動で、司を唖然とさせる事がある。普段の天真爛漫な彼女と、こう言う時に見せる悪戯っ気たっぷりな彼女と、どちらが彼女の本質なのだろう。司は一再ならず、考えた事だ。

 だが、結局の所、どちらも皐に違いはない。その時の彼女の気分によって変わるのだろうし、周りの環境の事だってあるだろう。TPOに併せて、と言う事もある。しかしどの道、皐は皐だ。それに違いはない。

 まあ、そんな風に達観してはいても、困る物は困る物で、今現在キスを求められている司は進退窮まっていた。

「どうしたの?私のお願い、聞けない?」

 意地悪な顔で、皐が見上げてくる。その言の内容も意地悪だ。司はつつ、と、冷や汗を流した。

 司とて皐とキスをするのが嫌だという訳ではない。むしろ喜んで、と言った所であるが、ここは通学路だ。どこで誰が見ているか分かった物ではない。そんな所でキスなんて、なんだか皐が汚れてしまいそうで、嫌なのだ。 いつまでも綺麗なままではいられない。むしろ異形を狩る司達は、最早汚れてしまっている、と言ってもいいだろう。しかしそれでも、汚れた身でも守りたい物はある。護りたい人はいる。それが自分と同じく、汚れた身の者であったとしても。

 ……と、いくら小難しい事を考えていても、目の前の窮状は変わりはしない。皐は期待いっぱいの目で司を見上げている。これは、一種の拷問では無かろうか。

(ええい、ままよ!)

 司はやけっぱちの気分で、皐を抱きしめた。そしてその唇に、自分のそれを合わせる。そうして皐を解放した。

 皐はしばしぽーっとして司を見上げていた。何やら反芻している様でもある。そんな態度を取られて、司は自分が行った行為が、どれだけ恥ずかしい物だったか思い知らされた気がして、顔が熱くなるのが止められなかった。

 しばらくして、正気を取り戻した皐がクスクス笑いながら指摘した。

「ふふっ、司くん、顔真っ赤」

「……仕方ないじゃないですか。実際、恥ずかしいんですから」

「そっかあ、恥ずかしいんだあ。私は、嬉しかったけどな」

「そうですか……」

 がっくりと、脱力してしまいたい気分が、司にはあった。穴があったら入りたいとは、この事だ。唯一、皐が喜んでくれた事が、良かった事と言えばそうなのだろうか。

「もういいです。早く帰りましょう。一刻も早く」

 恥ずかしさでこの場にとどまりたくない衝動で、司は皐を促した。それだけではなく、手をつないで引っ張った。すると皐は、

「あー、司くんから手をつないでくれたあ」

と嬉しそうにのたもうた。

「……手、離してもいいですか?」

 皐は即答した。

「だめー。このまま帰るの」

「そうですか……」

 今日、これで何回目のため息だろう。司は肺が空になるほどの深い深いため息を吐いた。 結局、皐のわがままが通って、司と皐は手をつないで残りの帰路を辿る事になった。まあ、皐が終始ご機嫌だったのが、司にとっては唯一の救いだったろうか。これでご機嫌を損ねていたら、たまらない。

 いや、司としても、皐と手をつなぐのが嫌な訳ではないのだが、いかんせん司も中学一年生の男子だ。皐とは一つ屋根の下で暮らしているとは言え、どうしても『手をつなぐ』と言う行為に意識が集中して、恥ずかしくてたまらない。意識から外せばよいだけの話ではあるのだが、そうはいかないのが思春期の少年の複雑さだ。

 こんな時、司は年相応の少年になってしまう。もっと泰然と出来れば、と思うのだが、なかなかそう上手くはいかない。ひとつには、皐が司のペースを乱す、と言う事情もある。皐の天真爛漫な所は彼女の魅力のひとつだが、それに巻き込まれると、どうも司はペースが狂ってしまうのだ。

 否、ペースが狂うというのは欺瞞かも知れない。ペースが狂うのではなく、司の無意識の仮面が、剥がされているのかも知れなかった。

 齢十三にして、腕利きの異形狩り師。だから司は周囲からは、尊敬と同時に畏怖されている。司も、あえて周囲に溶け込もうとはしていない。言ってみれば司は、周囲から浮いている存在だった。日下仁の存在だけが、周囲と司とを繋ぐ、細い一本の糸だった。

 皐は心配なのだ。周囲と溶け込めず、孤高の存在と化している司が。だからこうして、司を振り回して、日常に回帰させようとしているのだった。それは非常に、重要な事だと言えた。

 異形狩りに特化した人間は確かに肉体的にも精神的にも、強い。だが一方で、人間らしさという物を欠如させていく事になる。強さと引き替えに、人間らしさを捨てていく訳だ。そんな人間は最早、異形狩り師とは呼べない。異形を狩る為の、自動人形だった。

 司をそんな人間にする訳にはいかない。だから皐は、あえて日常では天真爛漫に振る舞い、司を困惑させるのだ。それで司は、人間らしさを取り戻す。異形狩りで荒んだ心を、癒される訳だ。完全にとは行かず、学校では孤立しがちではあるが。表面的な物ではない。もっと深い所で、孤立しているのだ。それはクラスの人間と上手くやっている日下仁も同じだろう。異形狩り師と普通に暮らす人間とは、根本的な所で相容れないのだ。それは例えば、障害者と健常者との関係にも通じる物がある。

 異形狩り師は強者ではあるが、絶対的少数派でもある。異形が万一出なくなれば、無用の存在でもある。千年以上かけて伝え磨いてきた技も術も、無駄になる。ほぼあり得ない事とは言え、その時に備えておいた方がいいのかも知れない。

 だから異形狩り師達は、大抵副業を持つ。司達、〈斎乃月光流〉の場合は、神社だ。お社も、ちゃんとある。神学校で資格もちゃんと取るし、年末年始にはお参り客も来る。司達もちゃんと、応対に出る。バイトも雇わないと、到底捌けないが。そんな訳で、流派全体としても表の顔はあるのだ。司達が、普段は普通の学校に通っている様に。ついでに神社の宮司なら、急な依頼にも応対できる、と言う訳である。

 と言う訳で、今現在の『斎乃神社』の宮司は一輝である。彼以外の成人は一人は病臥しているし、もう一人は母屋の賄いである。彼しか、宮司のなり手がいないのだ。まあ平時の一輝は暇を持て余している事であるし、宮司の仕事があるくらいが丁度良いのかも知れなかった。

 長い石段を登りきって、司と皐は一輝が綺麗に掃き清めた玉砂利の社前まで辿り着いた。ここからもう少し歩いた所、社の北東側に母屋はある。社から見て鬼門の方向に当たる訳だが、異形を狩る者の住む母家である。鬼の方が近寄ってこないだろう。

 司と皐は仲良く手を繋いだまま、母屋の玄関を開けた。「ただいまー」と揃って声をかける。するとおかるさんがやってきて、目を細めた。

「お帰りなさいませ。まあまあ、仲のよろしい事で。結構な事ですよ」

 そう言ってからからと笑う。事情は全く詮索しない。おかるさんにとって、事情などどうでも良いのだ。ただこうやって、二人が仲良くやっている様に見える事、それが彼女にとっては大事な事なのである。それが司にも分かるから、あえて言い訳はしない。しかし思わず赤面してしまう。そんな司を見て、おかるさんはまた笑うのだった。

 夕暮れ時、夕食の前に、司はまた型の訓練をする。究極の所、司は剣を上手く扱えれば良いのだ。だから剣が上手く身体になじむ様に、剣を出来るだけ使い込む様にしている。皐も今は、瞑想の間で瞑想している筈である。そうやって幻力を高め、新たな技が使える様にしていく訳だ。

 司は剣を振り、一種のトランス状態になる事で、幻力を高める。この時、幻力の放出を止める事は出来ない。止めようと意識を働かせば、トランス状態はリセットされてしまうからだ。外部からの刺激によっても、トランス状態はリセットされてしまう事も多い。

 だがそう言う状況の場合は、大抵が修行を中断するのに丁度良い頃合いだったりする。今回も、そうだった。

「司さま、夕食の準備が整いましたので、居間へどうぞおいでなさいまし」

 おかるさんがタオルとスポーツドリンクを持って、縁側でそう言った。持っている物を、司に手渡す。司はスポーツドリンクを一気飲みして、噴き出る汗をタオルでぬぐった。

「ありがとう、おかるさん」

「いえいえ。それより、お急ぎ下さい。夕食が冷めてしまいますから」

「そうですね」

 そうして司は、式服を解いて居間へ向かった。

 居間へは既に、皐も来ていた。皐の瞑想は深いので、ひょっとしたらまだ来ていないのでは、と思っていたが、無用の心配だった様だ。当然、当代である一輝もいる。おかるさんが座れば、夕食の始まりだ。

「いただきます」

 みんなで唱和して、おかずやご飯を箸でつつく。朝は洋風だったので、夕食は和風の様だ。野菜の煮物や魚を煮たものが多い。司は、それらを端から片づけていく。

「司君、誰も取らないんだから、もっとゆっくり食べたらどうだい?」

 苦笑混じりに一輝が言うが、これはほとんど毎食言っている事なのである。司の早食いはほとんど癖になっていて、容易に矯正できそうにない。ひとつには、彼の役割が剣だから、と言う事もある。

 彼の食べ方は、飯は単なる栄養補給、と言った趣がある。一応、味わって食べてはいるのだが、他者にはそうは見えないのだ。しかし司は気にもとめない。自分のペースで、どんどん飯を平らげていく。

 結果として、一番食が遅いおかるさんとは半分ほどの差がついてしまうが、両者とも全く気にとめない。だから一輝と皐も、苦笑混じりではあるが、気にとめない事にしている。 さて、飯の後はしばらく自由時間だ。何をしていてもいい。だが司は、学校で宿題をやる組だし、これと言って趣味もない。時折、興味を惹いた本を読むくらいか。今はそんな本もないので、完全に暇を持て余している。修行でもするか、というのは司の自然な思考である。そうして木刀を持ち、服を着替えて式服をまとい、庭に出た所で一輝に呼び止められた。

「司君、ちょっといいかな」

「はい、何でしょうか」

 司にとって、一輝は単に目上の人ではない。〈斎乃月光流〉の当主であり、皐の兄だ。そのどれの立場で呼び止められたのか。司は緊張したが、一輝は至って気楽そうだった。

「どうだい、学校の方は」

 司は一輝の質問の意図を計り損ねた。無難な答えを返すより他はない。

「どうと言われましても……普通ですが。別に村八分にされている訳でもありませんし、祭り上げられている訳でもありません」

 その答えを聞いて、一輝は満足げに頷いた。

「そうか、健全で、結構な事だな。皐の方は、どうだ?仲良くやってくれているかい?」

 司はやや赤面して答えた。

「はい。仲良くしてもらっています」

 その答えに、一輝はやや眉をひそめた。

「司君。アレはまだ子供だ。司君がリードするくらいの気持ちで、接してやってくれ。それでなくとも、普通は男がリードする物だぞ、男女関係という奴は」

 司は反論した。

「男女関係という物は、人それぞれなのではないでしょうか。少なくとも、僕たちは今の関係で、満足しています」

「皐の方はどうかな」

 一輝の言葉に、司は詰まった。

「まあ当分の間はそれでもいいさ。いざという時、司君が『男』でいてくれたらね」

「……はあ」

 その『いざという時』が何を指しているのか、司には分からなかった。

「よく分からない、と言う顔だね。まあ、追々分かってくるさ。その時になれば、嫌でもね」

 邪魔したね。そう言って一輝は居間に戻って行った。司は首を捻りながらも、型の練習に入るのだった。

 自由時間の終わりは九時だ。これから〇時まで三時間、修行の時間になる。

 三時間。短い様で意外と長い。特に司の様な特訓をしている者にとっては。

 司は刺青の中からかつて倒した異形を引きずり出し、それを倒してはまた刺青の中から異形を引きずり出す、と言う修行を繰り返していた。共打ちの相手がいたならばそれが一番良いのだが、生憎相手がいない。だから、稽古の相手も異形になる。

 司の刺青の中に入っている異形は、最早元の陰気を吸われ、司の忠実な下僕と化している。それでも全力でかかってくればそれなりの稽古になるのだ。

 中には手こずった相手もいるから、そう言う相手ともう一度戦う事で、得る物も時にはある。これを三時間、繰り返すのだ。疲労もあるし、何よりも時間が気になる。後何時間か、何分か、と気にしながらでは、しかし下僕の異形に馬鹿にされる。

 だから司も時折時間を完全に忘れて、下僕の異形と切り結ぶ。そんな時は誰かに時間だと告げられて初めて、気付くくらいだ。それほどに集中力を要する修行なのである。

 だが、他の者の修行も決して司に劣る物ではない。

 皐は結界の中、神気と切り結ぶ。そうやって小刀の中に、陰気を断つ力を蓄えるのだ。十分に蓄えられた力は玉となって皐の足下に落ちる。それを蓄えておいて、予備とする。結界の外では『久遠』と名付けられた九尾の狐が、神気を結界内に送り続ける。これを三時間、続けるのだ。

 そして一輝の修行は、司と皐の修行が決して外に漏れ出ぬ様、監視し、統括する事にある。一見しただけで真似の出来る修行ではないが、それでも修行の内容は秘術の内である。決して外部に漏らす訳にはいかない。

 修行と言うよりは監視の任であるが、しかしこれも〈斎乃月光流〉にとっては大切な事だ。怠ってはならない。そしてこの修行は、日々街の陰気を監視するのにも役に立つ。そのための、三時間である。

 尤も、この三時間の内に街に陰気が溜まり始めると、それを見逃す恐れもある。そのために一輝は、街中に『式』を放っていた。街のどこかで陰気が溜まり始めれば、この『式』が一輝にそれを知らせる。これは例え修行中であっても、そうだ。

 陰気はそれ自体を斬る事は出来ない。あくまで、異形の形を取らねば、斬る事は出来ないのだ。だが陰気自体を押さえ込む事は出来る。そのための札を作るのも、一輝の役目だ。

 書き上がった札に、皐が神気を注ぎ込む。それで初めて、陰気を押さえ込む札ができあがる。人知れず、この札を『式』を使役して陰気の溜まり場に貼るのも、一輝の重要な役目である。

 それでも押さえきれなくなる程陰気が膨れあがれば、それは異形が現れる前兆と見て良い。あるいは既に、異形が出現した可能性もある。そう言う時は大抵依頼が来るが、異形の出現を事前に察知できた場合は、司と皐が勝手に出向く。そんな時は報酬は受け取れない場合が多いが、〈斎乃月光流〉は報酬目当てで異形狩りをやっている訳ではないから、それでいいのだ。尤も、搾り取れる所からは徹底して搾り取っているから、あえて報酬にあくせくする必要がない、と言う事情もある。

 さて、三者三様の修行が終わると、風呂に入って寝る事になる。と言ってもみんな疲れ切っているので、文字通り風呂に入って寝るだけだ。希に、司と皐が軽く談笑するくらいか。今日も、そうだった。

「お疲れさま、司くん」

 風呂上がり、順番で先に風呂から上がっていた皐に声をかけられて、司は部屋に入る足を止めた。

「皐さんも、お疲れさまです」

 そう返されて、皐は微笑を浮かべた。月光の下、その微笑は、司には非常に美しい物に見えた。薄物しかまとっていないその格好も、妖精めいた印象を司に与えた。しかし見とれている場合ではない。司は必死に、次に繋げる話題を探した。

「皐さん、何か用ですか?」

 必死に考えて、思いついた言葉がこれである。司の益体のなさがこれでも伺えよう。だが皐は、そんな事先刻承知なので、微笑をたたえたまま応じた。

「用って程の物じゃないんだけどね。寝る前に、司くんの顔が見たくなって」

「僕の顔……ですか?」

「うん」

 司は悩んだ。自分の顔に、何かおかしな所があるのだろうか。しかしそれは杞憂だった。司の顔を両手で挟むと、皐は口を開いたが、司の危惧した様な内容ではなかった。

「司くんの顔を見てるとね、元気が出てくるの。明日も頑張ろう、って気になるの。だからしばらく、そのままでいてくれるかな?」

 つまり、皐の顔を至近にしながら、じっとしていろ、と言う事だ。司には甚だ困難な事であったが、どうにか我慢した。

 月の光が、相変わらず司と、そして皐を映し出していた。皐の顔は、造形的にも美しい。その美は、〈月光流〉の名の通り、月の光によっていや増す様な気が、司にはする。

 月の妖精。陳腐な表現だが、まさしくそんな印象を、司は受けていた。こんな時、昼間の天真爛漫な皐は身を潜め、しとやかさと強さを秘めた皐が顔を出す。どちらが本質、と言う訳でもない。どちらも、本質なのだ。

 長年、と言っても生まれてから十三年だが、それだけ付き合ってきた仲だ。それくらいは、わかる、と司は思っている。もちろん司の目が節穴だという可能性はある。だが司は、自分の目に自信があった。昼間の太陽の下、天真爛漫に振る舞う皐も、夜の月の下、しとやかに強く振る舞う皐も、分裂症などではない、彼女そのものなのだ、と。

「ん、充電完了っ」

 そう言って皐は司の顔を離した。何の充電なんだか分からないが、司としては緊張を強いられる場面から解放されて、安堵の息をついた。そんな司に、皐が声をかけた。

「大丈夫?疲れてない?」

 気丈にも司は嘘を吐いた。

「大丈夫ですよ。それより、充電って何の事ですか?」

 皐は朗らかにのたもうた。

「もう朝まで司くんの顔を見られないからね。だから、その分の、充電だよっ」

「…………」

 司としては、何と言っていいか分からない。分からないながらも、尋ねてみた。

「皐さん、自分で言ってて、恥ずかしくないですか?」

「もちろん、他の人がいたら、恥ずかしくてこんな事出来ないよ。でも二人っきりだからね。これくらいは平気だよ」

「そうですか……」

 司は例え二人っきりでも恥ずかしい。そこに言及しようかと思ったが、やめておいた。皐の顔が、幸せそうだったからだ。自分の顔を見つめるだけで、こんなに幸福そうになって貰えるなら、自分が恥ずかしいくらい、我慢すればいい。それに司としても、皐をこんなに身近に感じられて、嬉しくなかったと言えば嘘になる。月下の元、皐を独り占めできた様な気がしていたのは、錯覚ではなかった。そこは、二人の世界だった。例え庭に面した縁側でも。しかし、それも終焉だ。そろそろ寝なければ、明日に響く。

「それじゃ、名残惜しいけど……お休み、司くん」

「はい、お休みなさい、皐さん」

 皐が去っていくと、その場に残り香が香った。まるで、皐の未練を示す様に。僕もだ、と心中で呟くと、司も自分の部屋へ戻っていった。


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