奇想流離譚 06

〈6〉

 ロボット・タクシーを降りて、北斗破軍の屋敷を見上げる。
 確かに、広壮な建物だ。人が住むにしても、司令部として使うにしても、丁度良さそうな建物だった。屋根には豪勢なアンテナが立っている。そこから立体TVの放送も出来そうだ。実際に、どういう目的であのアンテナがあるのかは不明だが。
 外見の観察はそれくらいにして、私はインターホンを鳴らす。古風な呼び鈴のように細工されたそれは、すぐに応答した。執事然とした男が、画面に現れる。
 私は相手が何か言い出す前に、こう告げた。
「私は千堂真由。この屋敷の主、北斗破軍に用があって来た。取り次ぎを願う」
 高飛車な言いようだが、これくらいで丁度良いだろう。執事然とした人影は、一礼してインターホンのカメラの前から姿を消した。
 私が二分くらい待っただろうか、何も映さない立体映像機の前で待っていると、先程の男がまた映像に現れた。
「ようこそいらっしゃいました、千堂真由様。歓迎の用意が出来ております。正門から、真っ直ぐお入り下さい」
 『歓迎の用意』とは、要するに待ち伏せだろう。そのくらいの予測は付く。
 馬鹿正直に正門から入って、私は真っ直ぐ歩いた。そしてそのまま進めば、正面玄関の扉に辿り着く。さて、どんな光景が広がっているかな?
 私は戦いの予感にわくわくしながら、正面玄関を開けた。

◆◇◆

 いくつかの予想は全て外れて、玄関ロビーは無人だった。案内もない。
 これは一体、どういう意図があっての事だろうか。
 玄関ロビーには大階段があって、そこから直接二階へ上がることが可能になっている。私はその階段へ登って階下を睥睨(へいげい)してやろうかと思い、階段へ一歩踏み込んだ。途端。
 私は大きくバックステップした。同時にビームの驟雨(しゅうう)。どこから撃ってきたのかと思えば、天井近く、人影が、いた。
「他人の家を勝手に荒らし回るのは、良い趣味とは言えないな、千堂真由」
 耳障りな男声だった。私は声の主に、言い返した。
「荒らそうとしたんじゃない。うろつき回ってただけよ。それより北斗破軍の屋敷では、客人を天井から撃ち殺すのが、礼儀なのかしら?私は一応、客人として礼遇されているんだけれど?」
 耳障りな男声が、嘲りの言葉を吐いた。
「そう。客人として。おれに撃ち倒される、哀れなピエロとしてね!」
「構って欲しかったら名乗りを上げる事ね。あの程度のビームでは、私のエーテルコートは破れない」
 冷徹な声をあげながら、私は何かしらの違和感を覚えていた。これは……この感覚は!
「それに、もう一人いるでしょう。その方にも是非、挨拶して貰いたいものだわ」
 私が捉えた感覚。それは物質の不確定な状態が存在する事を示すシグナルだった。
 そんな存在状態、自然発生することは、まずあり得ない。あるとしたら必ず、サイファが関わっているに違いないのだ。天井の男からはサイファの力をそんなに強く感じなかったから、もう一人のサイファがいるのは、ほぼ間違いなかった。
 今の私は、サイファの力を強く感じ取る事が出来るようになっている。これも、サイ・ブラスターの効果だろうか。それとも、私のサイファの力が強まっていると言う事だろうか。少なくとも、例の『サイファ喰い』の衝動は強く感じている。まとめて、喰らってやる。そういう一種乱暴な衝動が、私の体内を駆けめぐっている。
 さて、二対一。上手く喰らう事は、出来るかな?
 不確定要素が収束していくのが分かる。それは、空中に留まっている男の隣で実体化した。体格のいい、男だ。そいつの腕の太さは、私の腰くらいありそうだった。尋常の体格じゃない。筋肉増強剤を使っているか、その体格自体が、サイファとしての能力なのだろう。人間離れした、肉体。決して珍しくはない。こうして目に見える形になって現れる事は少ないが、尋常でない跳躍力や、人間離れした筋力など、肉体面でサイファの力が体現する事も決して少なくはない。
 さて、こうして二人揃った訳だが、私の顔を凝視しているだけで、一向に名乗ろうとしない。私は焦れてきた。
「二人揃って私の顔に見とれていても、何も出ないわよ。それより早く、自己紹介して頂戴。折角二人、出揃ったんだから。こんな機会、そうそう無いんでしょ?」
 正直に言うと、彼らが何を狙っていたのかは分からない。だが、一撃必殺を狙っていたはずだ。だから、名乗る必要もない訳で、名乗りを上げさせられるという事は、それだけで彼らにとって屈辱になるはずだった。
「……我が名は『セイバー』だ」
 耳障りだった声が落ち着いたテナーに変わり、天井からビームを叩き込んできた男はそう名乗った。
「……『グラント』」
 こちらは低いバスで、名前だけを名乗った。
 私は高飛車に宣言した。
「セイバーにグラントね。いつまで持つか分からないけれど、あなた達の芸、たっぷりと見させて貰うわ。そうして、二人とも、喰らってあげる」
 私の最後の言葉で、セイバーとグラントは眉をひそめた。意味が分からなかった訳がないだろう。恐れか、挑戦に対する対抗心か。
 さあ、戦いの、始まりだ!

◆◇◆

 私はサイ・ブラスターを引き抜くと、二人の顔色が変わった。グラントは再び不確定状態へと姿を変じ、セイバーはその周囲にエネルギーの剣を五、六、七本準備した。私は故意に、嘲りの声をあげる。
「その程度のエネルギーで、私のエーテルコートを抜けられるかしら?」
 挑発を受けても、セイバーは無言だった。何かを待っている、そんな風に感じる。だが何を?何を待つというのか?
 ――グラントか!
 確かに彼のサイファは未知数だ。彼のサポートを待っていると考えても、不思議ではない。だが何だ?どんな技を、隠している?
 不意に殺気!私は大きく身を捻って、謎の殺気から逃れた。
 これか。これが、グラントのサイファの力か。正直何かは分からない。正体不明の、殺気だ。私は身を震わせる。怖いのではない。その、反対だ。正体不明の、殺気。ぞくぞくするではないか。これを破れば、自ずと彼らのコンビネーションも崩壊するだろう。
 さて、どんな手品を隠している?どんな技だ?
 そう考えてわくわくしている私の眼前に、不意にエネルギーの剣が現れた。エネルギーを物理的な空間移動ではなく、瞬間移動で、私の眼前に現存させたのだろう。
 だが、この程度!
 私は左手を打ち振るって、エネルギーの剣を打ち砕こうとした。しかしそれは、叶わなかった。エネルギーの剣は、私の左手のエーテルコートに突き刺さって、そのまま左手の振われるまま、振り回された。
 エネルギーだから打ち砕けないと言う訳か。ならば、喰らうまで!
 私は左腕に『サイファ喰い』の力を込めた。するとエネルギーの剣は、実効力を失って消え去った。呆気ない。この程度の物なのか?
 再び背後に殺気を感じる。私は身を捻ってかわしざま、サイ・ブラスターを構える。この辺か?射撃。無反応。どうやら外したようだ。見えない相手を狙うというのは難しい。ましてやそれが、あるのか無いのか分からない状態という相手なら尚更だ。
 もっと確実に、ヒットさせる方法があったはずなのだが、この肝心な時に、思い出す事ができない。
 思い出せないなら、創り出せ。この戦いの間に。不確定因子状態の相手に、攻撃する手段を。それは言うほど簡単な物ではない事は承知している。だがやらねば、やられるのはこちらだ。私だって消耗するのだ。いずれ、やられる時は来る。その前に、やらねばならない。作り出さねばならない。不確定因子状態の相手に、攻撃する手段を。
 どうやら不謹慎にわくわくしている暇は無くなったようだ。これからは、シリアスな、戦いだ。勿論向こうは、最初からそのつもりだろう。だが私の本気に、どこまでついてこれるか、その前に私が倒れるか。
 改めて、勝負といこうではないか!
 側面から殺気が迫る。それをバックステップして避ける。同時にエネルギーの剣が一瞬前まで私がいた場所を切り裂いた。どうやら、同時攻撃は苦手らしい。セイバーは、グラントの何かを待っているように感じる。グラントは何か、特殊なサイファを持っているのだろうか。しかし、グラントは既に不確定因子状態だ。この状態で使えるサイファというのは、どういった物があるだろう。サイファの力という物は、いつでもどんな時でも自由に振う事ができる訳ではない。状態によっては、振う事の出来ない力もある。逆にある状態でないと振るえない力というのもある。グラントのそれは、不確定因子状態でないと振るえない物なのだろうか。そんなサイファの力が、存在するのか?
 勿論、私の知らないサイファの力、と言う可能性は大いにある。私自身、自分の力を完全に把握してはいないのだ。私が、どんな力を使えるか、把握していない。だから空中浮揚も試した事はなかったし、念動力も試した事はなかったのだ。第一、どうすればいいのかさっぱり分からない。集中すればいいのか、想像すればいいのか、それすらも分からない。そんな使えるかどうかも怪しい力に、頼る訳には行かない。
 頼るべきは、この身体。それとサイ・ブラスターに『サイファ喰い』の力。
 思ったよりカードは少ないが、それでもここまでやって来れた。これからも、やれるはずだ。いや、やってみせる!

 ……私はホールの中央に陣取っている。セイバーはその真上に位置しているが、今アイツをどうこうするより、不確定因子状態であるグラントをどうにかする方が先だ。そんな状態の敵を放置するなど、危険で仕方がない。
 グラントはどういうつもりなのだろう。そして、セイバーとの連携はどういったものなのだろう。それを考えるだけでも、無駄ではない。それでグラントの、サイファの力を予想出来る。今の所、グラントの殺気を感じた次の瞬間に、セイバーの攻撃が追撃でやって来ている。どうやらセイバーはとどめ役で、グラントは足止め役らしい。となると、それに相応しいサイファの力を持っているはずだ。どんな力だ?
 殺気を発するという事は、グラントが物理的実効力を持った何かをしようとしているはずで、遠隔操作のサイファの類ではないはずだ。第一それでは、いちいち不確定因子状態になる必要がない。私の目に見えないようにして、何かを行おうとしているはずだ。
 そうやって考えている間にも、グラントとセイバーの攻撃はやって来ている。しかし、グラントの殺気からセイバーの剣という順番は、一度たりとて狂う事はない。余程この手に、自信があると見える。それとも、この手以外に、連携の手段を持っていないのか?考えてみれば、ありそうな話だ。
 私の勝機はこの連携を崩す事、その初手としてグラントのこの不確定因子状態を何とかするか、グラントの殺気を感じるサイファの力を何とかする事だ。
 いや、発想を転換してみよう。セイバーを先に倒した場合の事を考えてみる。少なくともエネルギーの剣はやってくる事はなくなる。私としても、目障りな剣を排除する事が出来るのだ。これは、ちょっとした利点に思える。
 しかし、相手がそれを考慮に入れていないだろうか。むしろ姿をさらしているセイバーは囮で、グラントこそ本命、と言う可能性もある。私がセイバーを攻撃しようとすれば、サイ・ブラスターを使うしかないが、相手はそれをこそ待っている、と言う可能性だってありうるのだ。
 だが、こうやって考えてばかりいても、何も変わらないのは事実だ。行動しなければ、何も変わらない。防御にばかり回っていたら、消耗するだけだ。ここは一つ、単純にセイバーを狙ってみよう。
 セイバーの剣をかわした一瞬の間隙を狙って、私はサイ・ブラスターを構えた。
「くたばれ」
 そう念じて、撃つ。人一人を殺すに足る、強烈なエネルギーが、セイバーを襲った。
 セイバーは一瞬、驚愕の表情を見せた。そして、瞬間転移でエネルギーの波濤から身をかわす。そうか。奴は瞬間転移のサイファでもあった。単純に撃つだけでは、埒が開きそうもない。瞬間転移で飛び出してくる、その瞬間を狙わなければ。
 問題はそれを、グラントが許してくれるかどうかだ。しかし可能性はあると思う。先程のセイバーの、驚愕の顔。そして代わり映えのしない連係攻撃。その連係を崩してやるだけでも、優位に立つ事にはならないだろうか。
 不確定因子状態の相手を放置する危険はある。だが、このまま不確定因子状態を突き崩す方法を思いつくまで、この輪舞を続けている訳にもいくまい。
 しかし、思い出した。セトは、『サイ・ブラスターには不確定要素に干渉する事が出来る』と言っていた。サイ・ブラスターか。この戦闘の、鍵を握っているのは。しかし干渉すると言っても、どうやればいいのか分からないのは同様だ。それもセトに聞いておけば良かったと後悔するがもう遅い。
 思考があっちこっちに逸れて、上手くまとまらない。少し、整理する必要を感じた。
 まず、このセイバーとグラントというサイファのペアは、グラントが何かしらの鍵を握っている、と言う事。そしてこいつは、不確定因子状態シフトできる事が出来る、という事。こいつらは一パターンの攻撃法しか持っていないだろう、と言う事。その為にも不確定因子状態を突き崩す手だてが必要だと言う事。そしてサイ・ブラスターが、その鍵を握っている、と言う事。
 セイバーはこの際、一度置いておく。グラントさえ倒せば、エネルギーの剣を振うだけのサイファに堕するからだ。
 さて、サイ・ブラスターだ。
 『不確定要素』への干渉とは、どの程度のレヴェルの事を指していたのだろうか。
 ただ、存在を確定状態或いは否定状態にするだけだろうか。それとも直接、不確定因子状態の敵に攻撃する事が可能なのだろうか。後者ならば、かなり強力だ。
 しかし問題は、その照準の付け方だ。私が感じられない存在に照準を合わせるのは、かなり難しい。当てるには運が必要だろう、とそこまで考えて、私は脳裏に雷が落ちたかのような精神的衝撃に襲われた。
 照準など付ける必要はないのだ。ただ、私のサイファの力で、不確定因子状態のグラントを捉える必要がある。それさえ捉えれば、狙いはついたも同然だ。その後は『サイファ喰い』の能力を、サイ・ブラスターから放射すればいい。そうすればグラントは、体格がいいだけの人間になる。その肉体能力だけでも脅威かもしれないが、現状に比べればその程度の脅威など問題ではない。それこそサイ・ブラスターの一撃で片が付く。
 計算は成った。後は実践あるのみ。

 私は慎重にサイ・ブラスターのグリップを握り直す。そして慎重に、慎重にグラントの殺気、その元になっている不確定因子を探す。サイファの力を放射して。
 それは丁度背後にあった。グラントの殺気が膨れあがる。
 私は、「喰らえ」と呟きつつ、サイ・ブラスターのトリガーを引いた。冷気のような物がサイ・ブラスターから放射される。サイファという存在の『熱』を奪う、冷気を感覚化した物だろうか。
 命中した。そのはずだ。何故なら、驚愕の表情で顔面を満たしたグラントの姿がこの目で見る事ができたからだ。同時に、私のサイファの力が膨れあがった感覚。
 喰らったのだろう。グラントのサイファの力を。精神的な実感は薄かったが。
 しかし効果は絶大だった。
「何……だ、と……?」
 グラントの呆然とした声。自分のサイファの力が破られた事で、またその力を失った事で、忘我状態なのだろう。そんな彼に、私は声をかけた。
「降伏なさい。そうすれば、命までは取らないから」
「降伏……?」
 まるで初めて聞いた言葉のように、グラントの反応は鈍かった。そんなグラントを叱咤するように、セイバーの声が響いた。
「何をしているグラント!お前の力なら、千堂真由を捕えられる!俺が、決めてやる!だから立て!」
 その声を聞いた、グラントの反応は凄まじかった。猛々しいウォークライを放つと、私に向かって突進してきたのだ。しかしこの気迫、覚えがある。まるで先程まで、受けていた殺気そのものではないか?
 私はグラントの突進を捌きながら、失笑の衝動に駆られた。足止めのサイファ?そんな物は、最初から存在しなかったのだ。グラントの肉体。それが、私を捕える罠そのものだったのだ。
 グラントの腕が迫る。私はダッキングでそれをかわす。素早く蹴りが飛んでくるのを柔らかく受け止め、受け止めた足を抱え込んで投げ飛ばす。私は体格は細いが、サイファの力でこれくらいの力は出せる。それが分かっていても、グラントには己の肉体を信じて私を捕える以外に道はないようだった。
 私は徹底的にこいつらを打ちのめす事に決めた。どん底まで叩き込んで、勝つ。
 グラントが立ち上がった。投げ飛ばされたダメージなど無いかのような動き。確かに、タフだ。だが、それだけだ。私を捕える事など出来ない。本来なら。
 グラントの腕が私を捕えた。グラントは驚きの顔を見せながらも、素早く私の両腕を極める。これで、私の動きは封じられた。ように見えるだろう。しかし、それはどうかな?
「良くやった、グラント!」
 セイバーが叫ぶ。同時に創り出したのは、一振りの剣。それを振りかぶって、セイバーが突撃してくる。私の心臓を狙って。私は身動きが出来ない。そのはずだった。しかし。
 私は集中する。そしてイメージする。私がこの場、全てに広がるイメージ。そこにあるのか、無いのか、分からない。しかしそれは、そこにある。そんなイメージ。
 イメージが弾けた。私の肉体も。そして私の身体があった場所には、何もなくなった。
「「何だと!」」
 セイバーとグラントが、同時に叫ぶ。だが、セイバーの勢いは止まらない。グラントの胸に、そしてそこに埋まっている心臓に、セイバーの剣が、突き刺さった。
 私はその光景を間近で見ていた。同時に、この場全てを見ていた。
 このホールで起こる全ての事象を観察出来る、そんな状態。
 今の『私』は、不確定因子状態だった。このホールのどこにでもいて、どこにもいない状態。グラントが行っていたよりも、一段上の状態だ。グラントは、あくまで自分を構成する状態から、自己を広げる事は出来なかったようだったから。つまり不確定因子状態でも、グラントはグラントの形をとっていたのだ。今の私はそうではない。例えるなら、空気と同じだ。このホール、全体に広がっている。このホールの、どこにでも居るとも言えるし、どこにもいないとも言える状態。そんな状態で、私は連携を完全に崩された二人に語りかけた。
「私が間抜けにも、ただの人間に捕まるとでも思ったの?そこに策があると見抜けなかった、お前達の負けよ。最早降伏の道も断たれた。二人揃って、あの世に送ってあげる」
 そして私は、サイ・ブラスターをイメージする。それも不確定因子状態で、そこにあった。私はまず一射する。セイバーのサイファを喰らうためだ。それは相棒を刺してしまって忘我状態のセイバーに突き刺さり、セイバーをも、ただの人間と変えてしまった。サイファの力で支えられていた剣は、脆くも崩れ去り、グラントの血が噴き出す。そしてもう一射。
「二人まとめて、あの世に逝きなさい」
 呟いて、私はトリガーを引くイメージを送った。二人まとめて貫いても余りある膨大なエネルギーが、サイファだったペアをまとめて串刺しにした。
 どう、と倒れる二人を睥睨しながら、私はしばし、この不確定因子状態を楽しんだ。
 どこにでもあって、どこにもない状態というのは面白いものだ。無限に、私が広がったような気分になる。
 無限に、広がるような状態か。これを、何の制限もない空間で行ったらどうなるだろうか。無限に私が広がっていくだろうか。いや。段々に私を構成するものが薄まって、私と他を隔てるものが無くなり、私という個は消滅するだろう。
 それでもこの状態は気分が良かった。普段交わる事のない、空気のような物質とも接する事が出来る。ここにもうひとり、私と同じ状態のサイファがいたら、それと絡み合い、解け合うような状態が味わえるだろう。
 勿論、本当に解け合う訳じゃない。そんな事になったら、自己とそのサイファとの区別が付かなくなり、私とそのサイファは消滅するだろう。

 ――ナナキちゃん。また……――

 ……何だろう、今のイメージは?
 セピア色の、イメージだった。セピア色は、過去のイメージだ。私の過去。それは失われた記憶の中にしかないと思っていた。しかし、ごく微量ながら、私の中にも残っていたのだろうか。ひょっとしたら、封印された過去のイメージだったのかも知れない。私の過去は、決して幸せな物ではなかったから。
 十六歳まで、私は研究所で暮らした。モルモット、研究素体としてだ。
 親に捨てられた私には、人権も何も、身を守るものは何一つ無かった。ただサイファの力だけが、唯一私の存在を保証していた。
 そんな中にも楽しみはあったはずなのだ。先程のセピア色の記憶は、それを証明しているのではないだろうか。
 ナナキちゃん、か。男の子だろう。また、というのはまた遊ぼう、と言う事だろうか。そんな遊び友達の記憶は、奪われた記憶と共に失われてしまっているのだが。しかし研究所の記憶が残っているのは不思議だ。そんな記憶も、一緒に持って行ってくれたら良かったのに。私は理不尽な感情に駆られた。

 さて、いつまでも遊んではいられない。遊びは、いつかは終わる物だ。私は不確定因子状態を解き、全因子確定状態へシフトした。場所は、セイバーとグラントの死体の、すぐ側だ。ここにいれば、迎えが来るだろう。そう計算していた私に、語りかけてくる声があった。
「お見事です。千堂真由様」
 インターホンで見た、執事だった。私は彼に向かって言い返した。
「随分乱暴な饗応ね。この屋敷では、これが標準なのかしら?」
 執事はゆるゆると首を左右に振った。
「千堂様は特別です。何せ、我らが主人を殺しにやってこられた方ですからな。この程度のサイファに勝てないようでは、俺には勝てない。我が主人はそう仰っておりました」
「最初から、交渉する事は考えていなかった訳ね」
「千堂様は、交渉する事をお考えで?」
「……いいえ」
 悔しいが、その執事の言う通りだった。私は、北斗破軍との交渉など、考えてはいなかった。会えば必ず、戦闘になるだろう。しかし会話も無しにいきなり戦闘になる、とも何故か、考えてはいなかった。何も、語り合う事など無いはずなのに。
 いや、語り合う事は、ある。
 何故『世界』を巻き添えにしてまで、死にたいのか。これは是非聞きたい。どうせ語り合った所で、北斗破軍が自らの考えを翻すとは思えなかったし、思わない。ただ、私が、知りたいのだ。一人のサイファが、どうしてそこまで死にたいのか。それが、知りたい。
 確かに不死は一種の病気だ。だがどんな事にだって、楽しみはあるだろう。不死にだって、楽しみはあるはずなのだ。あるいは、楽しみだと思えるような事が。それを捨てて、北斗破軍は死にたいのだという。何故だろう。これは戦いにはなんの関係もない、私の、好奇心だ。北斗破軍には迷惑な事かも知れない。だが、知りたいのだ。この戦いに、意味を持たせるためにも。そんな事にはなんの意味もない、と夢世界の主は言っていた。しかし、性分はなかなか変えられないものだ。私は、戦いの意味を、求めている。それを、北斗破軍の死への欲求で、叶えようとしているのか。恐らくは、そうだろう。
 尤も、聞きたい事は他にもある。何故、私の記憶を奪ったのか。そんな真似をしなければ、ストレートに再戦出来たというのに。それをしたくなかったから、つまり時間を稼ぎたかったから、私の記憶を奪った、と言う可能性は考えられる。すると何故、そんな時間稼ぎが必要だったのか、と言う疑問が浮上してくる。堂々巡りだ。
 更に、他にも疑問がある。何故、私を生かしておいたか、だ。自分を殺せる、唯一の存在だからかも知れない。だとしたら何故、北斗破軍は戦うのだろう。何のために、北斗破軍は戦うのだろう。戦いが、好きだからか。戦いで負けた相手にしか、殺されたくないからか。だとしたら北斗破軍は、相当の戦闘好きだ。好戦的かどうかは、分からないが。だが私を襲ってきた手口といい、今の戦いといい、血を好むのは確かなようだ。残忍かどうかは、分からない。だが戦いに血を求めているのは、確かなようだ。血の流れるような戦いが、北斗破軍のお好みらしい。尤もサイ・ブラスターの傷は、基本的にブラスターの物と変わらないから、焼けこげた跡が残るのみ、なのだが。それでも、そういう傷が付く戦いが好みだと言う事だろう。私の、偏見かも知れないが。
 戦いは、ボードゲームと同じだ。最後に盤面がどうなっているかなど、誰にも分からない。北斗破軍も、それは承知だろう。盤面を読み、自分の有利に戦況を進め、勝つ。これが戦いだ。昨日は夢世界で、それができずに、負けた。しかし今日は現実世界だ。私の得意なフィールドだ。今度こそ、勝つ。
 ひょっとしたら――と私は思考を進める――北斗破軍は、夢世界での私の醜態を見て、このフィールドでは味のある戦いが出来ない、と判断したのかも知れない。だから記憶という人質を取った上で、私を覚醒させたのだ、という推論は成り立つ。あくまで、可能性の話だが。
 どれが本当だろう。恐らくどれも、間違いだろう。真相は北斗破軍しか知らない。そして彼が、それを語るかどうかは分からない。恐らく語る事はないのではないかと、私には思える。今際の際で、語られる事はあるかも知れないが、少なくともこの戦いに、その事柄を介入させる事は、有り得ないような気がする。秘密主義と言ってしまえばそれまでだが、真相を知っているか否かで戦い方も、相手に対する印象も変わってくる。恐らく北斗破軍は、今の私の持っている北斗破軍像を崩すような真似はしないだろう。といっても、私自身、そんなものは殆ど持ち合わせてはいないのだが。
 少なくとも、私から聞きたい事は、ある。北斗破軍はどうだろう。私に、聞きたい事はないのだろうか。例えば、戦う理由、とか。
 戦う理由、か。突き詰めていけば、確かにつまらない物になる。こいつが嫌いだから、戦う。それだけの事だ。だが、それに意味を持たせる事、何故この戦いがあったのか、何故戦わねばならなかったのかを記憶しておく事は、決して後の人生にとってマイナスにはならないはずだ。
 意味などない戦い。いや、戦いに意味などない、か。意味のない戦いなど存在しない。しかし戦いそのものに意味など無い。夢世界の主は、そう言いたかったのだろうか。戦い全てには、何らかの意味がある。少なくとも、そこに人は、意味を見つけようとする。しかしやはり、戦いそのものには意味など無いのだ。あるとすれば、戦う者に、勝者敗者関係なく、残される何か。それが知りたくて、それが得たくて、私は戦いそのものに意味を求める。それが、愚かしい事と知っていても。それは、私が愚かだからだろうか。恐らくは、違う。それは私が愚かだからではなく、私、千堂真由だからなのだ。戦いの意味を求める事は、私自身の一部なのだ。それが愚かしい、と決めつける事は簡単だろう。だが、私にはそれ以外の生き方など出来ない。ずっと、こうやって生きてきたから。
 ――ずっと、こうやって生きたかったから。


〈7〉

「こちらでございます」
 執事に連れられて歩いてきた先は、重厚な両開きのドアの前だった。いかにも、と言う雰囲気に、私は短く苦笑した。
 間違いなく、この先に、サイファがいる。それが、北斗破軍でなくて誰であろう。
 私は、両開きのドアを、押し開けた。
「よく、ここまで辿り着いた」
 定型通りの台詞で、玉座と言ってよいだろう、豪奢な椅子に座った男は私を出迎えた。
 男は、こういっては癪だが、美丈夫だった。その顔も、私のタイプだ。悔しい事に。
 だが、戦いに顔は関係ない。相手が何であろうと、必要があれば叩き潰すのみ。
「いい感じに、テンションが上がっているようだな」
 北斗破軍がニヤリ、と不敵な笑みを見せた。こいつは、自分が負けたときのことを考えているのか?いや、考えていないはずがない。何せコイツと来たら、負ける事を望んでいるのだから。
 なのにこの余裕はなんだ?まるで、自分が倒される事など有り得ない、と言うかのような自信を感じさせる態度。彼の望みとは矛盾する態度。分からない。北斗破軍は、本当に死を望んでいるのか? 
「どうした?訝しげだな。おれが死を望んでいないとでも思っているのか?お前の声を、聞かせてくれよ。夢世界では、言葉は届いても、声は聞こえないんだ」
 そういえば、夢世界の主との会話は、私は普通に話していたが、答えは脳裏に響いていた。サイファ同士の会話も、あのようなものだとしたら、言葉は分かっても声は聞こえないだろう。
 私は、自分の疑問を率直に尋ねてみる事にした。
「お前は、本当に自分の死を望んでいるのか?望んでいるのだとしたら、何故だ?」
 北斗破軍は不敵な笑みを崩さずに、頓狂な事を言った。
「いい声だ。少しハスキーがかった声。男だけでなく、女にも人気があるだろう?」
「そんな事、今は関係ないでしょう!」
 わたしはそう、切り返した。全く、この男は何を考えているのか。全く読めない。私に自分の考えを読ませない事が目的だとしたら、それは見事に成功している。今の所。
 不意に、北斗破軍は私の心理をズバリと突いた。
「おれの考えている事が読めなくてイライラしているのか?その気持ちは分かるが、もう少しおれの酔狂に付き合ってくれ」
「酔狂?どんな?」
「これからおれを殺す女を、品定めする事さ。これは大いに酔狂だと思うがね」
「……確かに、酔狂ね。自分の手に入れる事の出来ない女を品定めするなんて、どうかしている」
「勝っても負けても、おれの手には入らない女だ。そんな女でも、美的観賞の対象には、なる」
「なら、戦うのを少しだけ待ってあげましょうか?」
 もちろん冗談だ。と言うより狂言だ。だが北斗破軍は、嬉しそうに頷いた。
「そうして貰えると、有り難いな。戦う君の姿も美しかろうが、その時はおれも真剣にならないとならんのでね」
「……本気だと思ったの?冗句よ。私は今からでも、お前をぶちのめしたい気分だ」
「そうして、自分の記憶を取り戻す、か?」
「ええ」
「なら、今からお前の記憶を返す、と言ったらお前はどうする?」
「え?それは……いえ、それでも、お前を殺さねばならない理由が残っている。お前と戦う事には、変わりはない」
 私の答えを聞いて、北斗破軍は嬉しそうに微笑した。そして懐から、大小二個の宝石を取り出した。
「これが、君の記憶を結晶化した物だ。君と同じで、美しい」
「お世辞は結構よ。それよりそれが、私の記憶なのね?二つあるのは何故?」
「小さい方の宝石は、君自身の中で封印されていた記憶だ。君自身、今まで自覚していなかったろうがね」
「封印された、記憶……」
 私の中にそんな物があるなんて、今の今まで知らなかった。いつ頃の記憶なのだろう。そしてそれは、どんな記憶なのだろう。
 北斗破軍は私に無造作に近づくと、二個の宝石を差し出してきた。
「これからこれを君に返すが、条件がある」
「何?」
「大きな方は、今すぐ飲んでくれ。小さい方は、おれを倒してから、飲んでくれ。それが条件だ」
「分かったわ」
 そうして、宝石を受け取る。小さい方をポケットに入れて、大きい方を飲み込む。
 宝石を飲む、というのは結構な重労働だ。しかも水も無し、と来ている。
「ん……くっ……んんっ……」
 私は苦悶の表情を浮かべていたのだろう。それを見て、北斗破軍はまた例の笑みを浮かべて、余計な事をのたもうた。
「苦悶の表情も素敵だな。君を抱く男は、その表情を見る事ができる訳だ」
「バッ……んくっ……!」
 北斗破軍に余計な事を言われ、怒りの衝動で宝石を飲み込む事に成功した。さて、これから何が起こるのだろう。

 最初に来たのは、熱さ、だった。全身から熱が噴き出すような感覚。血が体内を駆けめぐり、汗が噴き出してくる。
「く……うっ!」
 苦悶の表情を見せまいとして、意地で無表情を保とうとするが、不可能だった。それが余計に、北斗破軍を興がらせている。
「……のっ……!スケベっ……!」
 それだけ言うのがやっとだった。後は噴き出してくる熱に耐えるのに必死だった。だから北斗破軍の表情を見る余裕もなかったのだが、きっと例の笑みを浮かべて嬉しそうに私を観察しているのだろう。そう思うと羞恥と怒りで全身が満たされそうになる。そのエネルギーで、熱が段々と収まってきたような気がする。いや、気のせいではない。実際に、熱が引いてきている。呆けたように立ちつくす私に、北斗破軍が声をかけてきた。
「どうだ。思い出したか?」
 そう問われて、何かを思い出そうとする。すると今度やって来たのは、記憶の波濤だった。一気に記憶の波が押し寄せてきて、私という個を飲み込もうとするかのようだ。私は目を瞑り精神を集中して、自分という個を精神的に護る事に集中した。
 やがてそれにも終わりが来て、私は目を開けた。すると眼前には、北斗破軍のにやけた顔があった。
「やっぱり君は、凛と張りつめている姿が最高に似合う。その姿、ぞくぞくしたぜ」
 私は平手打ちをくれてやろうと振りかぶった。すると北斗破軍はその射程から逃げていく。頭を抱えながら。そしてまた、余計な事を言った。
「怒った顔も素敵だぜ」
「…………」
 全く、信じられない。この男は、『世界』を破壊しようとしているのだ。自分が死ぬために。そんな大それた事を考えているようには、到底見えない。全く、見事に私の持っていたイメージをぶち壊してくれた。このまま帰りたい衝動を、辛うじて押し殺す。このまま帰っても、状況は何も変わらない。いや、私が記憶を取り戻しただけ、前進している訳だが、『世界』の危機はそのままだ。この男を、殺さない限り。
 しかしそれにしても、この男の敵意のなさは何だろう。自分を殺そうとする相手に、この無邪気な反応。私をからかって、喜んでいるかのようだ。いや実際、喜んでいる。全くこの男は、何を考えているのか、私には理解不能だ。
 私はいい加減頭にきて、北斗破軍に言ってやった。
「どうするの?やるの?やらないの?やらないと言うのなら、お前のサイファの力を頂いて、帰るわよ」
「ただでやる訳にはいかんな」
 北斗破軍は初めて、真面目な顔つきになった。目にも力がこもる。私はそんな北斗破軍に向かって、さらに言い募った。
「どうやら少しはやる気になったようね。そう。私は捕食者であり、略奪者だ。喰われたくなければ、戦え」
 北斗破軍は肩をすくめた。
「殺されたくはあるが、しかし無条件という訳にはいかないな。戦って、おれを殺して見せろ。それが、君の正義を証明することになる」
 私は言い返した。
「もとより承知よ。さあ、やる気になったのなら、やりましょうか?」
 北斗破軍はニヤリ、と笑った。
「なら、先手はこちらから行かせてもらおうかな」
 次の瞬間。
 私は見事に吹き飛ばされていた。足で何とかブレーキをかけて、壁への激突は避ける。しかしガードできたのは奇跡に等しい。それほどの見事な一撃だった。掌底、静的な打撃をここまで強く打てるとは、正直言って驚いた。コイツはサイファの力だけの男かと思っていたが、訂正する。この男、格闘術も相当なものだ。気を引き締めてかからないといけない。
 格闘なのだから『サイファ喰い』も容易なのではないかと一見思えるだろう。しかし私の『サイファ喰い』は両の掌と口でしか喰らう事ができない。相手も、北斗破軍もそれは知っていることだろう。だから、簡単には掴ませては貰えないだろうし、首筋の急所への接触など不可能に近い。なら、サイ・ブラスターを使うか?それも駄目だろう。殴り合いが、撃ち合いになるだけだ。
 突っ立っているのも芸がないので、私は反撃に出ることにした。走り抜けざまの、回し蹴りを打ち込む。しかし予想通り、あっさりといなされる。私は無防備な背中を見せまいと、後ろ回し蹴りを放つ。しかしそれも、たいした効果のないまま振り抜かれた。恐らくは、見切られたのだろう。手応えが、全くなかった。しかし遠心力の乗っている今なら、小柄な私にも重心の乗った打撃が可能だ。私は右の、ショートアッパーを繰り出した。私の拳は、破軍のガードを抜けた。いける!
 私の拳は、破軍の顎をかすめたに留まった。しかしこれで破軍が脳震盪を起こしてくれれば、と期待したが、やはり、甘かった。
 破軍は頭を軽く二・三回振ると、私に向かってニヤリと笑って見せたのだ。
「それが君の全力か?そんなんじゃ、おれはKOできないぜ」
 瞬間、ぞくりとした。何か良くない予感。私は咄嗟にボディをガードした。しかしそれを割って、破軍の拳が私の腹にめり込んだ。
「か……はっ……っ」
 私は知らず、無様なうめき声を上げてしまった。身を折ってむせぶ。破軍の、たった、一撃で。
 この男、こんなに強かったのか。この隙に『サイファ喰い』を、などと考える余裕さえない。少なくとも純粋な格闘術では、破軍に勝てそうになかった。ならば……!
 私は痛みと苦しみをこらえ、意識を集中した。先ほども行った、不確定因子状態へのシフトだ。私の体を構成している因子が拘束を解かれ、拡散し、弾ける。そしてこの部屋全体に私がいて、この部屋のどこにも私がいない、と言う状態が完成した。破軍の目には、急に私が消え去ったように見えただろう。しかし破軍は動じなかった。
「格闘の次はサイファ合戦か?いいだろう。乗ってやるぜ」
 その言葉の次に、破軍が行った行動に、私は瞠目した。何故なら、私と全く、同じ状態になったからだ。つまり、不確定因子状態に、だ。
 閉鎖空間で不確定因子状態のサイファが二人いても、空間は飽和しない。何故なら、その空間に存在しているのか否か、不確定な状態だからだ。だからこんな状態も、現実としてはあり得るシチュエーションだ。だが、実際に見せつけられると動揺する。相手も、同格のサイファなのだと意識しなければ、負ける。先ほど格闘で、負けたように。
 全く、何が捕食者だ。略奪者だ?略奪とは、圧倒的な力で行うものだ。これは略奪などではない。正当な、戦いだ。相対する二人が承認し合った、戦い。しかも実力は恐らく、相手の方が上。そんな戦いは、滅多にできるものではない。いいだろう。世界がどうこうとか、そういった事は一時、脇に置く。私はこの戦いを、目一杯楽しむだけだ。
 勿論、彼我の戦力差は分かっているつもりだ。それでも、たとえ自分が劣勢であったとしても、楽しむ権利は誰にだってあるはずなのだ。だから、私はこの戦いを楽しむ。その結果として、世界が救われる事になったなら万々歳ではないか。また、世界が滅びる事になったとしても、つまり私が負けたとしても、それはそれで仕方のない事だ。世界の全権を、私が握っているわけではない。私は神ではない。神を気取るつもりも、ない。責任放棄だろうか。だとしても構うものか。どうせ、誰にも分からない事だ。そう、今こうして戦っている、この男以外には。
 世界を救う、か。考えてみれば大それた事だ。世界を滅ぼす事と、逆方向の意味で。それは、ベクトルが逆なだけでどちらも人間には大それた、とんでもない事なのではないだろうか。私はそれを今まで軽く考えていたが、ひょっとしたらそれは、とてつもなく重い事なのかもしれない。物語の中の、英雄たちがやり遂げるような事だ。この戦いも、物語の中の一節なのだろうか。そんな筈はない。私は、生きている。今のところ。北斗破軍もまた、生きている。奴が不死かどうかは、殺してみなければ分からない。奴が願っているように。できるだろうか、この私に。北斗破軍を殺す事が。それは同時に、破軍からサイファの力を奪う事だ。そうしなければ、奴は死なない。殺す事も、できない。しかし。
 サイファの力を奪った後、私は北斗破軍を殺す事ができるのだろうか。
 できる、と思う。それは奴の望みでもある。だが、不死でなくなったのならば、普通に生きていけばいいだけの話なのではないか?なぜ死なねばならない?それだけの理由が、奴にはあるのだろうか。私は、破軍に語りかけた。不確定因子の状態のままで。
「破軍。どうしておまえは死にたいんだ? 何のために死にたい?」
 破軍の声は飄々と響いた。
「不死のままでいるのが嫌だからさ」
 私はなおも問いつめた。
「なら、なぜ戦う?私の『サイファ喰い』はサイファの力を奪うだけだ。その命を、奪ったりはしない。だからなのか?だからお前は戦って負傷して、私に『サイファ喰い』をされる事を望んでいるのか?」
「概ね当たりだが、少し違うな。俺は戦う事に命を賭ける、そのことを一度やってみたかった。それが叶ったんだ。お前との戦いで。こんな楽しい事は、滅多にない」
「クレイジーだわ。命を賭けて戦う事が、楽しいだなんて」
 私は自分の事を棚に上げて、破軍を罵った。破軍は、言い訳はしなかった。
「確かにクレイジーだな。だが実際、おれは今、戦う事を楽しんでいる。互角の実力を持った、お前と戦う事を、楽しんでいる。この事実に、嘘はない」
 私はそれを口にするのを、何故か一瞬躊躇った。だが結局は、口の端に上らせた。そうしなければならないと、そう思ったから。
「お前は、もし私が『サイファ喰い』をしてなおお前が生きていたら、お前を助ける、と言ったらどうする?」
 破軍は、今度は即答しなかった。
 考えてもみなかったのだろうか。自分がサイファの力を、不死の力を失ってなお、生きるという事を。
 やがて破軍は答えを口にした。
「サイファでなくなってまで生きるのは面倒だ。ひと思いに、やってくれた方が有り難いな。それが、おれの答えだ」
 ……私はこの男と問答しながら、ひょっとしたら私は、この男と戦う必要などないのではないか、と考え始めていた。そして、その予感は当たっていた。この男、決して狂人ではない。世界を滅ぼそうと考えたのも、自分が死にたいからで、それ以外の何者でもなかった。そして……人生に目標を見失っている。サイファであったから、目の前にやってくる厄介事を片づけるだけの人生でよかったものを、サイファでなくなれば自分で考え出さねばならなくなる。それが面倒で、死にたがっているのだ。言わば人生のリセットを、私に委ねようと、そうしているのだ。サイファであろうと無かろうと関係ない。こいつは、無責任だ。こいつはいい。死んでそれでおしまい。デッドエンドだ。しかし残された者はどうなる?たとえばこいつの組織、頭がいなくなって崩壊してしまうだろう。その方が社会にとってよい組織でも、組織に組み込まれていたと言う秩序を失って、暴走する危険がある。それだけでも厄介だというのに、さらにコイツの敵討ちと称するサイファが、今後私の前に現れないとも限らない。そんな面倒は、御免被る。
 結論。こいつは、北斗破軍は、生かしておかねばならない。その方が社会のためにも、私のためにもなる。私の自分勝手だろうと構うものか。コイツには、生きていてもらわねばならない。
 私は破軍に呼びかけた。ほとんど恫喝に近かったが。
「破軍。私に『喰われ』なさい。それで、お前の苦悩の大半は解消される。後は生きろ。そして人生の目標を、掴み取れ。それもまた、戦いだ。肉体を酷使するよりも遙かに困難な、戦いだ。お前は、それから逃げようとしている。逃げるな、戦え!」
 破軍の声に、初めて苦みがこもった。
「……君は、死者を酷使しようと言うのか。おれはもう、何度も死んでいるんだぞ。それでもなお、生きろと言うのか。今のおれは最早、生ける屍だ。そんなおれに、『生きろ』とは、お笑い種だとは思わないか?」
 私はきっぱりと、首を横に振った。今の私は不確定因子状態だが、その動作は同じ不確定因子状態である破軍には、伝わったはずだ。
「何度死んでいようと関係ない。お前は今、今を生きている。現在という時間を、生きている。その事実に、偽りはない。お前は死んではいない。生きているんだ。今を。現実を見据えろ。逃げるな」
 苦い声で、破軍は応じた。
「今、生きて動いていれば、生きていると言う事になるのか?おれはそうは思わない。初めて殺された時、オリジナルのおれは消え去ったんだ。今ここにこうしているのは、オリジナルを失った、ただの残骸さ」
「オリジナル?そんな物、生には存在しない。生きている、今この時がオリジナルよ。人生は、生は、ライブに似ている。一回きりの、ジャムセッションよ。たとえ何度死んでいても、それがお前の『生』なんだ。お前は死んだり生き返ったりする事で、他の人間には真似のできないセッションを行っているんだ」
「ならば、このまま、不死のまま生きろ、と言うのか、君は?」
「そうは言わない。不死は病気よ。だから、私が治療してやる。それで、お前は病気から解放される。快癒した病人は、希望を持って生きるべきだ」
「病気が治っても絶望的な状況下で生きねばならない、という事もあるだろう」
「確かにある。だがお前はそうでは無いはずだ。組織もある。身を守る術もある。他の者から見たら、羨ましいくらいだ」
「君も、羨ましいか?」
「多少は。でも私は一匹狼が性に合っている。だから、こうして生きている。お前はそうして生きたかったのだろう?だからこんな組織ができている。今ここにある物は今まで生きてきた証で、生きるとは何かを作り上げる事だと私は思う。尤も、私に何が作り上げられるのか、それはまだ、分からないけれど」
 『作り上げる』とは何も、物質的な物に限った話ではない。誰かに何かを残せたなら、それは確かに、何かを作り上げた証になると私は思う。私にそれができるかどうか、誰に何を残すのか、それもまた、不確定な未来の話になるのだが。
 破軍が真面目な口調で問うてきた。
「しかしそれも限りある生命があって初めて、何かを残そう、という意志が生まれるのではないか?不死のままでは、何かを残そうという意志など生まれないのではないか?現におれは、そんな意志など今まで考えつきもしなかった」
 私は答えを返した。
「だから、その原因となっている不死を私が『喰らって』やる。それでお前は、限りある命の中で何かを残そうという気になれるだろう。そういう意志を持たなければ、生きている価値など無いからな」
 破軍はふっと、微笑した気がした。
「そのような一種強い意志、持てるかどうか自信がないな。だからこそ、ひと思いに殺してくれと、そう頼んでいるんだよ……戦いの中で!」
 破軍はそう叫ぶと、不確定因子状態で攻撃をしてきた。つまり、同じ不確定因子状態の私を確定状態にし、何らかの方法でとどめを刺そうと、狙っているのだ。しかし、そうはさせない。口で言って分からないのなら、打ちのめして分からせてやる。体に、刻み込んでやる!
 私は攻撃してきた因子を囲むように因子の一部を移動させた。そしてその因子を包み込むように一気に『喰ら』った。『サイファ喰い』ではないが、これで破軍の一部は確定状態から抜け出せなくなった。
 しかし、破軍は余裕の態度を崩さなかった。
「なかなかやるじゃないか。どうも君は、物理的な攻撃よりも、サイファでの攻撃に向いているようだ。頭もよく回る。攻撃を受けたその場で、攻撃に転ずるとはね。正直、恐れ入ったよ」
 私はそれに答えなかった。その余裕げな態度が気に入らなかったし、先ほどの交渉が上手くいかなくて頭にキていたのもある。それに、いつその余裕げな態度が崩れるか、楽しみでもあったのだ。無論、こちらが先にやられる、という可能性もあるのだが。
 不確定因子状態の私には『サイファ喰い』は使えない。少なくとも今は。どこが手やら足やら分からない、不確定な状態では、喰らえないのだ。
 ただし、サイ・ブラスターは別だ。いつ、どこからでも喰える。この不確定因子状態でも、だ。ならばさっさと喰らってしまえば勝負はつくのだが、どうもそんな気がしない。破軍はまだ、何かカードを隠している気がする。尤も、カードを隠しているのは私とて同様なのだが。しかし決定的に違う事がひとつ、ある。私のカードは半ば透けたような状態だが、破軍のそれは全く見えない、という事だ。
 私は記憶を探る。先程、取り戻した記憶を。破軍に改竄されているという可能性はあったが、私が今頼れる物はこれしかない。昨日の、夢世界での戦いを、思い出す。
 昨日も、夢世界という不安定なフィールドで、双方共に不確定因子状態になった。これは危険な事だ。フィールドが不安定なのに不確定な状態になるという事は、不安定なフィールドに取り込まれる可能性があった。私はそれへの対策として、エーテルコートを、私を構成する因子へ被せた。しかしそれが仇となった。エーテルコートが格好の目標となって、私は確定状態へ強制的に戻される羽目になった。破軍はそんな目印になるようなエーテルコートなど、使ってはいなかった。不死のサイファらしい、大胆な、或いは放胆なやり口だった。
 しかし今日は、私も格好の目標になるようなエーテルコートなど使ってはいない。一応は、互角の戦いだ。しかし相手が隠しているカードによっては、ジョーカーもあり得る。それが、怖い。破軍が隠しているカードなど無くて、すべてのカードをオープンしているならいい。しかし、無防備になる『サイファ喰い』の最中にジョーカーを切られたらと思うと、思い切った行動に出る気にもなれないのだ。もう少し、様子を見たい。向こうがそれを許すか、それは分からないが。
 ……と言っている先から、三本の確定化因子の槍が、私の部分に向かって伸びてきた。その先端を確定化した因子群で受け流し、そのまま槍にまつわりつくように因子を移動させる。そうしてその因子の槍を、一気に喰らった。また破軍は身体のどこか一部分を、確定化された状態で固定された事になる。視認する事は、できないが。
 ……この程度なのか?この程度の攻撃で、私がやられるはずがない。今のように、簡単に攻撃を私の攻撃に転化する事ができる。やはり破軍は、まだ何か、隠している。
 また破軍が、因子の一部を伸ばして攻撃してきた。またか、と思いつつ受け流す準備をし……私は戦慄した。
 その因子群は、死んでいたのだ。死んでいるのに、生きて動いている。矛盾する表現だが、まさしくそういう状態で、私に向かって迫ってきた。私は対応に戸惑い、攻撃をかわすにとどめた。
 これか。これが、破軍のジョーカーか。死んでいるのに生きている不確定因子とは。私の予想を、超えていた。しかし考えてみれば、その因子群は、破軍の今の現状を現しているのではないだろうか。
 北斗破軍は、生きているのに、死んでいる。この因子群は、死んでいるのに、生きている。そっくりではないか。破軍はまさしく、自分の現状を正しく理解し、その現状を有効に使うべく、こうして不確定因子状態になったのだ。半ば逃げるために、不確定因子状態になった私とは大違いだ。
 さて、死んでいる因子に、どうやって攻撃したらいいのか。どうやって、確定状態にしたらいいのか。ただ喰らうだけでは、こちらが死んでしまう。
 不確定因子状態での戦いとは足し算引き算のような物で、マイナスとマイナスを足し合わせたらプラスになるように、不確定因子と不確定因子を喰らい合わせたら確定状態になる。この場合、攻撃側は不確定のままだが、被攻撃側は確定状態で固定される。今まではそういう戦いだった。しかしこれからは違う。違う戦い方が、要求される。先程の例を出せば、プラスの私の因子に、マイナスの破軍の因子を激突させる訳だ。結果は当然、マイナスになる。つまり死の因子に、取り込まれる。こういう状況だ。要するに、死にたくなければ逃げ回るしかない。この状況を、打開できるまで。打開する方法を、私が見つけるまで。
 とりあえず今は、球になってはいけない。帯状になっていなければ、一気にやられる。逆に狩る場合は、相手が球体に近い方が方が望ましい。相手がまとまっている方が、まとめて狩りやすいからだ。
 しかし破軍は、その法則を半ば無視するような体勢をとっていた。残っている自身全体を一条の槍に見立てて、その外側、矛先の部分に死の因子を集めて、私を狙ってきた。私はこの突撃を何とか回避する。すると鮫が身を翻すように、再度食らいついてくる。その攻撃を何とか凌ぐ。凌ぎながら、私の頭はフル回転していた。
 死の因子と言えども不確定因子には違いないから、サイ・ブラスターが使えるかもしれない。セトが言っていた。サイ・ブラスターには不確定要素へ干渉する能力がある、と。私にとって今の驚異は死の因子そのものだから、不確定要素である死の因子にはサイ・ブラスターが有効なのではないだろうか。と言うより、他に手だてがない。通用すると信じて、撃つだけだ。
 そして不確定状態であるという事は、あるかもしれないと言う事だ。それを利用して、サイ・ブラスターの銃口を複数用意する。不確定因子状態でしかできない事だ。
「塵は塵に、人は人に、生は生に、死は死に、還りなさい」
 私はそう念じて、サイ・ブラスターのトリガーを一斉に引いた。破軍の今の状態を鮫に例えれば、その背に、斉射が集中した。命中している。効果の程はどうか。
 悠然と泳いでいた破軍が、不意に痙攣を起こしたようにのたうった。効いているのだ。どのような効果をもたらしたかは、分からないが。まさか余計な力を付けさせた、と言う事はあるまい。私は明らかに攻撃の意志を持って、サイ・ブラスターのトリガーを引いたのだ。死の因子が、死そのものに還るように。

 破軍の不確定因子のうち、死の因子がぼろぼろと剥がれ落ちていく。死の因子が、死んでいくのだ。私の作戦は、成功していた。
 破軍の声が響いた。
「やるな。まさかおれのジョーカーまで破られるとは思わなかった。サイ・ブラスターにそんな効力があるとはね」
 私は返答した。
「セトの話をちゃんと聞いていないからよ。サイ・ブラスターは不確定要素にも干渉できる。サイファの力さえあれば。私はそれを利用しただけ」
「セトか。アイツ、おれにはそんな事一言も言わなかった。おれが倒される事を、期待していたんじゃないか?」
「今はそう。そうなる事を期待している。世界が滅びれば、自分も死んでしまうのだから当然よね。ま、セトはそんな事、一言も言ってはいなかったけれど」
 むしろ自分の制作した武器が、予定通りの力を発揮できたなら死んでも悔いはない、みたいな事を言っていた記憶がある。変わった男だった。しかし目の前の、この男ほどではない。この男は、破軍は、死を望みながら、それができる唯一の相手を殺しかねないような戦いを挑んできたのだから。しかしそれも終わりだ。破軍のジョーカーを破った今、破軍にはもう残る手はない。しかし私は気を抜かなかった。まだ、ジョーカーとは呼べないまでも、キングやクイーンが残っているかもしれない。
 破軍を構成する不確定因子は、流線形を保ったままじっとしていた。まるで、喰われるのを待っているかのように。私は破軍に問いかけた。
「どうしてじっとしているの?じっとしていなくて結構よ。私には、サイ・ブラスターがある」
「それでいつでも『喰える』、か。おれのサイ・ブラスターにはそんな機能付いてはいないのにな」
「そうなの? それは、知らなかった」
「ああ。間違いない。今、試してみたからな。おれのサイ・ブラスターには不確定要素を攻撃する機能は、ない」
「……私を撃って、試してみた訳?」
「ああ。こうも簡単に戦いが終わったんじゃ、面白くないからな。しかしやはり、おれのサイ・ブラスターは廉価品だった。屑札だよ」
「廉価品?」
「ああ。おれのサイ・ブラスターはオリジナルじゃない。君の、オリジナルのサイ・ブラスターを模して造られた。だから、機能も限定されているんだろう。例えば君のサイ・ブラスターは君にしか使えないが、おれのサイ・ブラスターは誰にでも使える。ただのブラスターとしても、機能するんだよ」
「それは……私のサイ・ブラスターにはない機能ね。ただのブラスターとして機能するなんて。でも、その方が便利じゃないの? いちいち念じずに済むのだから」
「何も考えずに撃つ、なんて事があるものか。大抵は、いやどんな時でも、誰でも、射撃する時には何かしら念じて撃つものさ。君だけが特別じゃない。無意識にトリガーを引いている時でも、無意識に何かを念じているんだ。何もサイ・ブラスターだけに限った話でもない。どんな銃器でも、人は何かを思い念じながらトリガーを引くものなのさ。怒り、憎しみ、妬みや嫉み、他にもいろいろあるだろう。そんなものを込めて、人は銃器を使うんだ。ただ便利だからじゃない。そこに想いがあるから、使うんだ」
「ただの道具にも、随分と思い入れがあるのね。私はそんな、深いところまで考えた事もなかった」
「どうかな。君に教わった事だ、これは」
「……どういう事?」
「君に渡した記憶の欠片の、小さい方があっただろう」
「ええ。お前を倒したら飲めと言われた」
「それを飲めば分かる。君の中に、封印されていた記憶だ」
「…………」
 私は何も返答できなかった。ポケットの中にある、小さな欠片。その中に、私の中に封印されていた記憶があるという。破軍は、どうやってそれを解除したのだろう。いや、そんな事はどうでもいい。その小さな欠片の中に、いったいどんな記憶が、詰まっているのだろう。
 私は今すぐにでもそれを飲み込みたい衝動に駆られた。しかしそれを抑え込む。破軍は、まだサイファのままだ。最低でも、破軍のサイファの力を喰らわねば、倒したとはいえないだろう。破軍を倒した後に飲む。これは、最初に破軍と交わした、約束だ。約束は、果たさねばならない。

 私は未だ流線型のまま留まっている破軍の不確定因子に、一気に攻撃を仕掛けた。破軍の不確定要素が排除され、確定情報へシフトしていく。やがて破軍の全身が、物理的な肉体となって、その姿を現した。
 私は確定状態、つまり元の肉体へとシフトすると、破軍を押し倒した。そして破軍の喉元に、牙を突き立てた。破軍は一切、抵抗しなかった。
 猛烈な力が、私の中に流れ込んでくる。もう一人、私が作れそうな程の量だ。実際にそんな事はできないが、できそうだ、という力感が溢れてくる。それほどの量のサイファの力を、私はどん欲に吸い上げていく。一体私のサイファの力の受け皿は、どれほどの大きさなのだろう。これ程の力を吸い上げても、まだ余裕があるように感じる。サイファの力をどん欲に吸い上げる、ブラックホールか、私は。自嘲的にそんな事を、脳裏の片隅で考える。
 北斗破軍は最早、サイファではなかった。私はそんな破軍に問いかけた。
「サイファでなくなった気分はどう?」
 破軍はさっぱりした顔で答えた。
「思った以上に、いい気分だ。余計なものをそぎ落としたようだ……不死も、含めてな。こうしてみると、サイファの力というものは人間にとって付加された物なんだとよく分かる。余分な物なんだ。普通人は、それが分かっていない。だから、サイファの幻影に怯えるんだ。サイファを人間以外として扱ったり、な。本当は、人間とサイファとの違いなんて、ほとんどありはしないのに」
「そのほんのわずかな違いが、普通人を怯えさせているのよ。サイファは人間じゃない。そうくくってしまえば少しは安心できるから。だから彼らはそうしている」
 私はふっと笑った。
「可笑しいわね。ついさっきまで命のやりとりをしていたのに、こんな風に話をしているなんて」
 破軍は片目をつむった。
「おれは、美人とこういう風に腹を割って話ができて嬉しいがね」
 私は眉をひそめた。
「またそういう事を言って、私をからかう」
 私は抗議したが、破軍は受け入れなかった。
「自分が美人である事は否定しないだろ?もっと自慢していいんだぜ?実際、磨けば上流家庭の淑女でも通るくらいなんだから」
「そんな堅苦しいところ、行きたくないわ。私は鎖に繋がれない生き方をしたい。だから今の生き方をしている。その事に、誇りを持っているのよ」
「野生の美か。そういうのもまた、いいもんだ。造られた美にはない、生命力がある」
「野生の美ね。あなたも、そうなんじゃないの?誰の鎖にも繋がれない、野生の生き方をしている」
 私がそう言うと、破軍は肩をすくめた。
「野生にも色々あってね。おれは『組織』という群れに繋がれている。群れの頭であるおれも、そうなんだ。群れを離れては、生きていきにくい」
「あなた個人なら、どう? 群れの中でしか、生きられない?」
「どうかな。おれとしては、一人でも生きられる、と思っちゃいるがね。ま、実践はできないだろう。組織が少しばかり、大きくなりすぎた」
「組織を破壊するには、犠牲が大きくなりすぎる?」
「ああ。組織を離れては生きては行けない者もいる。組織から離れさせたら危険な奴も。そういう奴らを一様に縛っていた。おれの組織は」
「どんな事をやっていたの?」
「君と変わらないさ。警察の下請け、軍の下請け、どっちも公にできない奴な。それから企業からの処理の手伝いその他諸々だ」
「私は、公にしない様な仕事はやらなかったけれど」
「どうして?」
「野生動物にも誇りがあるのよ。事が終われば、絶対にメディアに流す。それがどんな不祥事でも。裏でこそこそ始末なんてやらせない。それが私の矜持」
「なるほどね。契約主が契約に背いたら?」
「私がメディアに流すわ。これまで、何度もあった事よ」
「怖いな」
 破軍は恐れ入った、と言う風に肩をすくめた。そしてまっすぐな目で、私に言った。
「おれはそこまで徹底してやれなかったな。言い換えれば、クライアントの言いなりさ。秘密裏に事を運びたい奴らには、使いやすい組織だっただろうな」
「これからも、そうしていくつもり?」
「いや、これからは少しずつ変えていくつもりだ。何せ、生き残っちまったからな。責任って奴がある」
「責任を、放棄しようとはしないのね。その姿勢には、好感が持てるわ」
 破軍は片目をつむった。
「嬉しいね、そう言ってもらえると。ま、おれはサイファでなくなったんだ。離反する奴も出るだろうし、今後の事を不安に思う奴も出るだろう。まずは、内輪を固めていかないとな。それだけでも、一仕事だ」
「そうね。でも、『世界』を破壊しようとしていた罰だと思ってやりなさい」
「嫌だね」
「何ですって?」
「おれは、おれがやりたいからやるんだ。誰かにやらされるんじゃない。何かの罰でもない。おれ自身の、意志だ」
 私は肩をすくめると、微笑した。
「そうね。私が悪かった。あなたの誇りを汚すような事を言ってしまって」
 破軍も微笑した。
「そこまでの事じゃないがね。ま、不本意ながらも生きているんだ。生きる事を、考えるさ。君にも言われた事だ」
 私はこの辺りで、話題を変える事にした。

「それで、この欠片なんだけれど……」
 私はポケットから、私の記憶の欠片だという宝石を取り出した。小さい。だが強い光を放っているそれは、強い存在感があった。よく見てみるとその光は、外界の光を反射しているのではなく、自らの内側から光っているのだった。存在感があるのも頷ける。
 しばしその光に見とれていた私は、我に返って話を続けた。
「私の中に、封印されていた記憶って言っていたわよね。それはどんな記憶だったの?」
 私が問うと、破軍はニヤリと笑った。
「怖いか?自分の知らない、知らなかった記憶と向き合うのは」
 少し考えて、私は答えた。
「そうね。恐怖は感じないけれど、何か畏怖のような物は感じる。これまで自分の中に、そんな物が存在しているなんて、想像もしなかったから」
「ま、それが普通の感性なんだろうな。平気で自分の知らない過去と向き合える奴の方が異常なんだろう」
 その破軍の言いように毒を感じて、私は言い返した。
「異常、と言う言い方はどうかと思う。強い、と言い換えた方がいいんじゃないの?」
 破軍は肩をすくめた。
「ま、そう言う表現の仕方もあるか。しかし強い事がイコール正しい事だとは限らない。サイファだってそうだろう?」
「それはそうだけれど……でも自分の過去と真っ向から向き合える人間は、私は強いと思う。いい意味での、強さを持っていると私は思う」
「君は、そう思うか」
「ええ」
「なら君も、その強さを手に入れろ。その欠片を飲み込め」
 破軍にそう促されて、私は少し躊躇した。この小さな欠片の中に、私の知らない『私』がいる。そう考えると好奇心と共に、畏怖の感情も、ない交ぜになって私を襲った。
 しかし破軍に肩を叩かれて、私は我に返る。あえて向き合う必要のない過去だ。それでも、この過去と向き合う事は必要な事だと私は感じた。
 私は掌に欠片を乗せると、それを一気に飲み込んだ。飲みにくさはなかった。むしろするりと、喉の奥に吸い込まれていく感じだった。記憶を取り戻す時の、あの暑さが蘇ってくる。そして、私の視界は暗転した。

   〈8〉

 我に返るとそこは、セピア色の空間だった。何度か経験した事のある、他者の記憶に進入した時の視覚だ。しかしこれは違うだろう。恐らくは、私自身の、記憶だ。封印されていたという、私自身の、記憶。
「ナナキちゃん」
 六歳くらいの女の子が、同年くらいの男の子と向き合って話していた。
 女の子には見覚えがある。恐らく、あれは、私だ。しかしナナキと六歳の私が呼んだ、あの少年の事は見覚えがない。当然か。この少年の存在自体、封印されていたに違いないから。
 当時の私に『ナナキちゃん』と呼ばれた少年は、何もかも分かっている、と言う風に頷いた。しかし『私』はなおも言い募った。
「ナナキちゃん。また、『あれ』やろうよ」
「うん」
 ナナキ少年は『私』の提案に頷くと、少し屈んだ。『私』の背が、ナナキ少年より低かったからだろう。ナナキ少年が屈む事で、丁度よい感じに背が並んだ。
 これからどうするのかと私は興味津々で眺めていた。するとませた事に、二人はキスをしたのだ。それも、結構深い奴。唐突な行為に驚く私を余所に、二人はサイファの力を解放した。そう。ナナキ少年もサイファだったのだ。
 当たり前だと言えば当たり前かもしれない。私は一五歳まで、サイファ研究所という施設にいた。両親の同意があっての事だ。つまり私の両親は、研究所に娘を売ったのだ。娘のサイファの力が怖くて。他にもそんな子供は沢山いた。ナナキという少年の境遇は知らないが、どうせ同じような物だろう。普通人の親から生まれたサイファは不幸だ。普通人はサイファを必要以上に恐れるから、そして自分の子供がサイファだとしたら、まるで自分が悪魔を呼び出してしまったかのように家庭が崩壊していく、と言うパターンは少なくない。唯一の解決方法は、普通人から産まれたサイファの子供を、サイファが引き取る、という事だ。何せ同じサイファだ。サイファの限界も、使いようも知っている。そういう組織や施設は、現在になってようやく整い始めている。だが私が子供の頃はこういう研究所に売られる事が、サイファの子供と合法的に別れる、ほぼ唯一の手段だった。

 私は意識を記憶の中に戻した。
 二人は解放したサイファの力を、意識だけを抜き取る事に使った。いわゆるアストラル投射だ。その状態で、二人は交わった。エーテルコートも無しに。
 非常に危険な行為だ。大人のサイファなら、絶対にやらない。ひとつ間違うと自他の境界が分からなくなって、双方の意識が崩壊してしまうからだ。
 しかし子供は無邪気な物だ。そんな危険な行為を、遊びのひとつとしてやってしまっている。無論、危険な行為に変わりはない。崖っぷちでボール遊びをしているような物だ。大人がはらはらして見守るような事を、子供は無邪気に、やってのけてしまう。丁度、そんな風だった。
 二人の行為は続いていた。交わるだけでなく、溶け合っていく。とてつもなく危険な状態だ。しかしそんな事は意に介した風もなく、二人は溶け合い、ひとつになって自他が分からなくなる寸前――パチン、と二つの意識が弾けた。混じり合っていない、素のままの状態。こんな高度なアストラル投射をみたのは、私は初めてだった。いや、これは私の記憶だから、私がやっていたのか。危うい事をやっていた物だ。しかも『私』の言葉から察するに、しょっちゅうやっていた感触がある。今までは成功していたからいいが、もし、失敗していたら、今の私はなかっただろう。
 しかし子供の『私』とナナキ少年は、そんな危惧とは無縁だった。あくまで無邪気に混じり合い、溶け合い、そして――何を語り合っていたのだろう、あの状態で。何も。何も語り合ったりはしていなかったのかもしれない。ただ混じり合い、溶け合う事を目的としていたのではないだろうか。それは大人の、性交渉に似ている。互いの体と体、心と心を混じり合わせ、溶け合わせる行為は、先程のアストラル投射に似ている。
 ひょっとしたらこの二人、好き合っていたのではないだろうか。アストラル投射は、お互いの気持ちの確認。まるで大人が、互いの気持ちを確かめ合うために、性交渉を行うように。
 記憶が不意に途切れる。そして次に現れた光景は、二人が引き離される場面だった。
 当然と言えば、当然かもしれない。二人が行っていた行為は、非常に危険な事だ。誰かが止めねば、いずれ二人は廃人になっていただろう。だから、この処置は正しいのだ。
 しかし。
 引き離されまいと必死にサイファの力を振るう二人を見ていると、感傷の入り込む余地もあったのではないかと思える。引き離すにしても、お互いに連絡が取りあう事が出来るように計らうとか、或いは行為の危険性を教えるとか。そんなステップを無しに、二人の気持ちを踏みにじるようなこの大人の行為は、私の目には理不尽に見えた。大人に見つからなければ、こんな事にならなかったのに。そんな感傷が心に浮かぶ。同時に、『ナナキちゃん』の行方が気になった。彼は今どこで、何をしているのだろう。 『ナナキちゃん』か。どういう字を書くのだろう。漢字に当ててみようとするが、適当な漢字が思い当たらない。特殊な漢字を当てるのだろう。誰が名付け親か知らないが、厄介な名を付けた物だ。フルネームは何というのだろう。
 私には一応、当時から姓があった。千堂という姓だ。誰の姓かは知らない。私の実の両親の物なのかもしれないし、研究員が勝手につけた物かもしれない。研究所という物が廃止されて独立した時、姓がないと何かと厄介だったから、当時貰っていた姓をそのまま使い続けている訳だ。しかし『ナナキちゃん』はどうだろう。そもそも姓があったかどうかも分からないし、今もその姓を使い続けているかどうかも分からない。
 ――そこまで考えて、気が付いた。
 私は、この『ナナキちゃん』に逢いたいと考えている。逢ってどうするかまでは、考えていない。とりあえず名乗って、相手が自分の事を覚えているか、確認する。覚えていればよし、覚えていなければ……どうしようか。封じられた記憶の解放、というのをやってみるか。破軍から奪ったサイファの力だ。やってできない事はないだろう。それで思い出してもらえればよし。思い出してもらえなければ……残念ながら、さよなら、だ。
 不意に破軍が、私の肩に手を置いて尋ねてきた。
「……逢いたいか?『ナナキ』に?」
 私は即答した。
「逢いたい! 逢ってどうするかなんて分からないけれど……逢いたい……」
 なんて乙女チックな感傷だろう。私にこんな感情があったなんて、今まで生きてきて、知らなかった。
 破軍はそんな私の目を見て、ひとつ頷いた。
「分かった。逢わせてやる。二・三日時間をくれ。おれがその『ナナキ』を、見つけだしてやる」
 その言葉を聞いた瞬間、私の目は、目一杯に開かれていた。
「本当!?」
「ああ。惚れた弱みだ。惚れた女の願いくらい叶えてやりたいじゃないか。それが、おれの他の男に逢いたい、という願いでもな」
 私はまたしても驚いた。
「惚れた!? 私に、あなたが!? 一体どうして」
 破軍は片目をつむった。
「惚れたはれたに理由はいらない。そうだろう?」
「それはそうかも知れないけれど、それにしたって、つい今し方まで戦っていた敵に惚れるなんて、ちょっと普通じゃないと思うわ」
 破軍は私の言葉を聞いてニヤリ、と笑った。
「尋常の神経で務まる仕事かよ、俺たちの仕事は? おれも君も、きっとどこかがキれているのさ。だから、こんな仕事が務まっている」
「尋常の神経じゃないから、恋敵になるかも知れない、いえそれ以前で終わるかもしれない男を、捜そうという気になるのかしら?」
 破軍は肩をすくめた。
「そうかもな。我ながら、酔狂な事だ。しかし男に二言はないぜ。ちゃんと、『ナナキ』を探し出してやる。見つかったら連絡するから、楽しみに待ってな」
「分かったわ」
「それと、真由」
 この男に呼び捨てにされても、特に不快には思わなかった。ごく自然に、振り返る。
「何?」
「見つけたらご褒美に、キスのひとつくらいは欲しいな」
 そう言って破軍はニヤリ、と笑った。
「考えておくわ」
 私は笑ってそう応えた。

 それから三日間は、特筆すべき事はなかった。私の情緒が不安定だった事くらいか。ホルスにも注意されてしまった。
〈真由。注意力散漫ですよ。何をそんなに、気に病んでいるのですか?〉
 私は破軍とのやりとりをかいつまんでホルスに教えた。するとホルスは一瞬黙って、こんな事を言った。
「もしその『ナナキ』と言う人物が見つかったら、真由はこの仕事を廃業するつもりですか?」
 私は驚いた。そんな事、考えてもいなかったからだ。
「どうして廃業しないといけないの?私は今まで通り、生きるだけよ」
〈しかし、『ナナキ』と言う人物が、それを望まなかったらどうします?自分の妻になって、平凡な家庭を守る主婦になってくれと、頼んできたらどうします?〉
「意地悪な問いかけね。そうね。悩むかも知れない。でも、そう望まれるのは嬉しいけれど、私はこの生き方しか、恐らくはできない。試してみようとも、思わない。だから残念だけど、『ナナキちゃん』とは、それまでの関係になると思う」
〈やっと逢えた、相手でもですか?それでいいんですか?〉
「いいのよ、きっと。私には平凡な主婦なんて務まらない。私が生きる道は、血と汗と硝煙の中にあるのよ」
〈私にはそうは思われません。真由は、立派に主婦としてやっていくだけの素養を持っていると思います。あなたの住居が、それを証明しています〉
 綺麗に片付けられた住居。私の巣。だからなるべく綺麗に使おうと思ってまめに掃除しているだけだ。それが主婦の素養だというのならそうなのかも知れないが、私の関心はそこにはない。
「ホルス。巣を掃除するのは私の趣味。仕事じゃない。仕事と趣味は別。分かるわよね」
〈住居を整備するのは趣味、ですか。それも分かりますが、硝煙の香りのしない生き方というのも、大事だと私は思います。真由。自分で生き方を制限しないで。もっと視野を広げてみてください〉
「視野を広げる、か……」
 そう言われてしまえば、想像してみるしかない。私は隣――と言ってもハイクラスのアパートメントだ。毎日顔を合わせてごきげんよう、と言う訳にはいかない――のご家族を思い浮かべた。それに、自分の姿を当てはめてみる。
 毎日、旦那様を玄関口まで見送っているご婦人。その横をかすめて学校へ出かけていく子供たち。その風景の中に、自分を当てはめる。
 ……悪くはない。だが何となく、しっくりと来ないのだ。この風景画の中に、自分は異分子だと思わせる何かがある。
 恐らく、私は『護る者』でいたいのだ。例えば、お隣のご家族のように平和に暮らしている人たちを護る側の人間。そう言った生活を庇護する側の人間なのだ。ただそういう人間が、平和な家庭を持ってはいけないという理屈はない。例えば警察官も、家に帰れば立派な父親だったりする事もあるだろう。だが私は、そんな多重構造の人間関係を、恐らくは維持できない人間なのだ。人間として、欠陥を持った人間。社会という群れの一員として生きる事のできない人間。そんな人間を受け入れる社会があるからこそ、私はこんな生活ができている。だから一応、私も群れの一員なのだ。ただ、大多数の群像とは違った生き方をしているだけ。
 そう自覚していても、やはり私は一匹狼なのだ。群れの中で、群れを維持しようという営みを行わない存在。私がやっているのは群れの掃除だ。群れにはなくてはならない存在だろうが、完全に群れの一員ではない。完全に群れの一員になってしまってはならない。そうでなくては、群れの中で掃除すべき部分を見つける事ができなくなるからだ。群れを生かすという点では群れの一部なのだが、しかしその一部分は群れとは半ば独立して存在している部分なのだ。それが今の社会では、私のようなスイーパーなどといった職業に如実に現れている。今の人類社会は肥大化しすぎて、正規の掃除屋だけでは足りないのだ。だから、外注に回す。その下請け先が、私のようなスイーパーだったりする訳だ。
 スイーパー。要するに裏の社会の便利屋だ。私の表の看板は探偵事務所だが。しかし裏に回ればそういう事だ。
 私の手が汚れているから、表の社会に戻れない、とは言わない。だが、結局私は裏側の人間なのだろう。表を、どう取り繕っても。
「ホルス。シミュレートしてみて分かった。やはり、私には表の顔で生きていくのは不可能よ。私は裏の人間だ。表で何と呼ばれていようと」
〈そう言うと思いましたよ。まあ、そういう生き方もいいでしょう。当てがない訳でもないですし、歳をとればまた違った考えが生まれる事もあるでしょう〉
「そうね。いつまでも、こんな生き方はできないでしょう。いずれ身の振り方を考えねばならない時期が来る。でもその事はそのときに考えましょう」
〈そうですね。それがいいでしょう〉
 ホルスとの対話はそれで終わった。しかし、私はなおも考え続けた。ホルスと話していた『遠い未来』の事である。
 いつまでこの仕事ができるだろう? 派手なドンパチをやるには、肉体の限界という物があるに違いない。肉体が老いてくれば、そういう仕事からは一線を退くしかない。問題は肉体が老いるかだ。先日、私は不死のサイファになった。不死が不老を保証する訳ではないが、ある程度の不老効果はあるのではないだろうか。破軍に詳しい事を聞いておけばよかったと後悔したが、また後で聞けばいい事だ。そのことはまあ、脇に置く。
 大抵のサイファも、人間同様老いていく。老衰で死亡する物も、当然いる。まあ、サイファで老死できる者は幸せ者だと言うしかないだろうが。大抵は、天寿を全うできずに、死ぬ。私のような危険な仕事に身をおいている者が大半だからだ。それはつまり、サイファには危険な仕事しか回ってこない事を意味している。サイファも普通人と変わらない、安全な仕事ができる世の中にならないだろうか。難しいだろう。何も、サイファへの差別だけが問題ではない。実際にサイファが普通人に混じって仕事をするには、弊害が多すぎるのだ。普通人の思っている程サイファの力は万能ではないし、随時発動している訳ではないが、ふとした瞬間に相手の心が見えたり、嫌われている相手からの、心の中での罵詈雑言が聞こえてきたりするだろう。それは、とても辛い事だ。普通人を相手にしているサイファは、どうしているのだろう。そう言う事は、ノイズとしてキャンセルしているのだろうか。それはあり得る。そもそもサイファの力自体が、余計なノイズを拾う能力だという説もあるくらいだ。
 余計なノイズとはいい例えだ。確かに、心の声などいちいち拾っていては、他者を信頼する事などできないだろう。善良な者でもふと悪意に囚われたりする事だってあるし、その逆だってあるだろう。そんな複雑怪奇な、人の心の動きをいちいち覗こうとする奴は馬鹿だ。尋常のサイファなら、そんな事は心得ている。だが、普通人にはそんな事は分からない。分からないから、サイファに対した時は、心を裸にされた気分になるのだ。そこから普通人に理解させていかなければ、普通人とサイファとの共同社会という物は築けないだろう。今の社会は、サイファを利用しているだけだ。共同で、社会を作り上げるという風にはなっていない。尤も、利用し利用される事も社会参加の一環と見れば、サイファも社会を作り上げる一要素と言えるかも知れない。だがそれは欺瞞だろう。そう考える事は潔癖だろうか。いつの時代にだって、アウトローはいた。今の時代のそれがサイファだ、と考えれば納得がいく事なのかも知れない。しかし――いや、止めよう。堂々巡りだ。
 とりあえず今の社会は安定していて、腐敗の危険も取り除かれている。まずまずの社会と言えるのではないだろうか。今の社会は。
 護るべきはそんな大きな社会構造ではなく、個人個人の小さな幸せだ。それがあってこその社会だろう。個人という物を挽き潰して全体というひとつの個にまとめてしまうやり方は、為政者にとっては都合がよいだろうが、それでは弱者は幸せになれない。為政者だけの、自己満足だ。そんな社会はすぐに崩壊する。歴史が、証明している事だ。人間は、そんな馬鹿ばかりではない、という事だろうか。
 何はともあれ、人間社会は変転を繰り返しながら続いていて、宇宙に進出するような時代になった。その頃からだと言われている。サイファが出現し始めたのは。
 人類の新たなる種であるとも、その逆で、人類の古い器官が蘇ったのだとも言われていたが、詳細は未だに、分かっていない。つい最近まで、保護されたサイファの子供を人体実験に使うような事が半ば平然と行われていたが、それでもサイファの起源は、分からなかった。恐らく、永久に、分からないだろう。それでいいのではないかと私は思う。起源が分からなくともサイファはそこにいて、そして生きている。それで十分だ。ただ偏執的な研究者が、いずれサイファの起源を探り当てるかも知れない。だとしても、大した偉業だとは私は思わないが。サイファは普通人の隣人だ。得体の知れない、何かではない。そんな物の起源を知ったところで、それがどうした、と言う気が私はする。例え、実験に使われていた身だとしても、そんな事に、私は興味はない。私の興味は今のところ、『ナナキちゃん』と昔、私が呼んでいたサイファが、今どうしているか、だ。何をして暮らしているんだろうか。やはり、私や破軍と同じ、スイーパーか。それが一番ありそうだが、それならば破軍のネットワークにすぐに引っかかってきそうな物だが、三日経った今でも、音沙汰が無い。手こずっているのだろう。と言う事は、尋常なサイファの暮らしから、逸脱した暮らしを『ナナキちゃん』はしているのだ。どんな暮らしだろう。平和な、平凡な暮らしをしているとよいのだが。

 そんな事を考えていると、WISの着信音が鳴った。破軍からだ。噂をしていたら影が差した。まさしくそう言う状況で、驚いた私は我に返るまでWISを着信状態にするのを忘れてしまった。
〈よう。久しぶりだな。声だけだが〉
 間違いなく、破軍の声だった。私はそれに対して返答した。
「そう、三日ぶりね。そんなに手こずったのかしら?」
 すると一瞬、破軍は黙った。WISだから、表情は分からない。何が破軍の口を閉じさせたのか、分からない。私はさらに聞き込んだ。
「どうしたの、言いよどんだりして。何か言いにくい事でもあるのかしら?」
 すると破軍は、再び口を開いた。
〈いや、そういう事じゃない。見つかる事は、すぐに見つかったんだ。ただあまりに呆気なく見つかったんで、裏を取るのに時間をかけていたんだ。結構、苦労した。何せ役所のコンピュータにまで、潜り込まなけりゃいけなかったからな〉
「そう。それはご苦労様だけど、あなた、人工知性体は使っていないの?彼らがいれば、楽なのに」
〈使ってるさ。ただ、君のところのホルスより、うちの奴らは劣っていてね。タイムリミットのある中でのデータ検索は、なかなかにヘヴィだったぜ〉
「ホルスに頼めばよかったのに」
〈しまった、その手があったか。まあいい。あまり君には、間接的にでも知られたくなかったからな〉
 私は眉をひそめた。
「どういう事?」
 破軍は直接的には、答えなかった。
〈『ナナキ』に逢えば、分かるさ。今から迎えを寄越す。いつもの、事務所前でいいんだよな?〉
「……ええ」
〈それじゃ、おれは『ナナキ』の所で、待っているよ。そこで落ち合おう〉
「分かったわ」
〈それじゃ〉
 それでWISは切れた。いつものふざけた感じは皆無で、その破軍の態度が、私に嫌な予感を覚えさせた。

 迎えが来る間、私は着替えた。鍵をかけてしまえば、どうせ誰も見る事はできない空間だ。誰の目もはばかることなく、私は着替えた。
 いつものパンツルックから、膝下の白いスカートに。ブラウスに、カーディガンを羽織って、着替え終了。ちょっとした、お出かけ装備だ。化粧も直す。どうせ薄くしかしてはいないが。サイ・ブラスターはポーチに入れた。いざとなったらすぐにでも取り出せる。尤も、この服装で『いざ』と言う時は来て欲しくはないが。
 着替えその他が終わるのとほぼ同時に、インターホンが鳴った。迎えが来たのだろう。
 ドアを開けると、そこにはサーヴァントが立っていた。確かに迎えを寄越す、とは言っていたが、人間ではなくサーヴァントを迎えに寄こすとは想定外だった。破軍のセンスに疑問を抱きながら、私は一階に下りた。四人乗りのフライカが階段のすぐ前に、アイドリング状態で待っていた。私は助手席に座って、シートベルトを締める。サーヴァントが運転席に座り、ハンドルを握った。フライカのフライト機能が全開になる。急上昇。そして水平飛行に移る。巡航高度内だ。どこに向かうのだろう。私の胸は高鳴っていた。

 ――後から思えば、この時が一番、幸せな時間だったのだ。この、夢想の時が。

 やがてフライカが高度を落とす。私は窓から外を見た。そして、嫌な予感に襲われた。
 そこは、墓地だった。墓地の駐車場に、フライカはまっすぐ落下していく。つまり、ここが目的地、と言う訳だ。と言う事は、つまり――
 駐車場には、破軍がいた。ここから、『ナナキちゃん』の所まで、連れて行ってくれるらしい。――恐らくは、『ナナキちゃん』が、眠る場所まで。
 フライカが着陸した。ドアが開く。それで私はフライカから降りた。
 私をエスコートしてくれた破軍が、驚いたような口調で言った。
「随分とめかし込んでいるな。でもまあ、綺麗だぜ」
 誉めてくれたのは純粋に嬉しい。私は「ありがとう」とお礼を返して、改めて周囲を見回した。
 訪れている人の数は少ない。墓地なのだから、当然なのだろうが。所々で、集団ができているのは、新たに葬られる人とその遺族だろうか。しかし、こういったところに葬られるのはある意味では幸せなんだろうな、という考えに囚われた。死んでも墓も造ってもらえない者の事を思うと、そんな感傷が継いで出てくるのも当然なのかも知れなかった。
 『ナナキちゃん』も、幸せな部類に入るのだろうか。私は案内を頼みながら、破軍に尋ねてみた。
「ねえ破軍。『ナナキちゃん』の本名って、何なの?」
 破軍は私の方を見ずに答えた。
「北斗七輝。七つ輝く北斗七星、と言う訳さ。随分と、しょった名前だよな」
「あなたと同じ姓ね」
 破軍は相変わらず私の方を見ずに言った。
「北斗家は名家だからな。分家の類もある。生まれてくる子供の数も、多い。サイファが発生する確率も、高い」
「何故?」
「北斗家は近親婚を繰り返しているんだ。たまに外部の血も取り入れてはいるが、それらは全てサイファだ。サイファが生まれてこない事の方がおかしい」
「あなたも北斗家の一員なの?」
「ああ。サイファの力を失って初めて、な」
 私は眉をひそめた。
「サイファを輩出している家系なのに、サイファの力を失って初めて北斗家の家系に組み込まれるって、変じゃない?」
「連中に言わせれば、『淘汰』なんだそうだ。あえてサイファの濁った血を入れる事で、より純粋な、優れた人間が生まれると信じている。サイファの力を持たなくても、強い人間が生まれると信じているんだ」
「傲慢な迷信ね」
「まあな。それでも確かに、北斗は力を持っている。権力という、力をな」
 私は頭を左右に振った。
「物騒な力を持った宗教集団に思えるわ。結局、北斗家の人間は、何を目指しているの?新しい世代の人間かしら?」
「当たりだ」
「……正気の沙汰じゃないわ。サイファは、新しい世代の人間ではないの?」
 そこで初めて、破軍が私の顔を見た。
「北斗の人間は、サイファを、濁った血を持った人間と見ている。だから嫡子でも、実験動物に使って平気な顔をしていられるんだ」
「嫡子……七輝ちゃんも、北斗の嫡子だったのね」
「嫡子か妾腹か、そこまでは分からなかった。だが北斗の姓を仮にも名乗っていたんだ。北斗に連なる者なのは、間違いない。北斗は、北斗の人間以外に北斗を名乗らせない」
「私には、北斗家の者が邪悪な者に思えるわ。破軍は、どう思う? 真っ当なやり口だと、思えるかしら?」
「真っ当なやり口だとはおれも思わないさ。しかし、だからといって北斗の者が邪悪だというのは、どうかなと思う」
 墓地は広い。目的地はまだだろうか。そう考えながら、私は破軍と会話を続けていた。
「どういう事?」
「例えば、サイファの力を持たないながらも、福祉に従事している北斗の者もいる。そういった者も一纏めにして『北斗の者』というのはどうかな、と思ったのさ。例えば真由。おれが、邪悪に思えるか?」
 私は意地悪く答えてやった。
「そうね。昔は邪悪だった。それは、言い逃れはできないでしょう?」
「……それはまあ、そうだな」
 私はクスリ、と笑うとフォローした。
「でも今は、単なる普通人だわ。善良な部類にも、ひょっとしたら入るかも知れない」
 破軍は笑顔で、ウィンクした。
「君にそう言ってもらえると嬉しいね」
「将来に渡って善行を続けるならば、あなたも善良な北斗の仲間入りよ。どう? 魅力的だと思う?」
「どうかな。おれは君だから、協力しているんだ。それが善行か悪行か関係なく、だ。だからおれが善人になるか悪人になるかは、君次第と言える」
 私はむっとした。押しつけがましい論法が、気に入らなかったのだ。
「それじゃ何? あなたは今後、私以外には誰にも協力しない、とでも言うの?」
 破軍は素っ気なく、言った。
「その通りさ」
 その答えに、私は唖然とした。しばらくは、声も出せない状態だった。どうにか声を絞り出すと、私は破軍に詰め寄った。
「どういう事? 私以外に協力しないなんて、それじゃまるで――」
 まるで、何だろう。言葉が思い浮かばない。しかし頭が回答を導き出す前に、口が先に動いていた。
「まるで、私の奴隷か何かみたいじゃない」
 破軍は笑った。そして笑いながら言った。
「君の奴隷か。それも、悪くはないかも知れないな。少なくとも君は、俺にとってはいいご主人様だと思うぜ」
 私は頭に血が上るのを感じた。しかし頭に来たとかそう言う感じじゃなくて、むしろ恥ずかしいという感情から来た物に似ていた。
「私は、対等なパートナーだけを欲しているの。奴隷だなんて冗談じゃない」
 それだけを言った。顔が真っ赤なままで。それを見ていた破軍が一言。
「全く、君は可愛いな」
 私は頭に、さらに血が上るのを感じた。馬鹿にされている感じじゃなくて、自然にそう感じたと思わせる口調なのがまた癪に障る。私は抗議した。
「私が、可愛いなんて言われて喜ぶタイプの女に見える?」
 破軍は少しも揺るがなかった。
「そんな、タイプなんて関係ない。おれは君が可愛いと思ったからそう言ったまでさ。君がどう受け取るかまでは、保証できないね」
「私は気分を害したわ」
「そりゃ悪かった」
 少しも悪びれず、破軍は謝った。
 全く、この男といるとペースが狂う。私はもっと、ハードな女だと自分で思っていたのだが、この男と問答していると、時折、年頃の少女に戻ってしまう。そう言った問答に、慣れていないからかも知れない。これからこの男と長い付き合いになれば、そのうち自然と返事を返せるようになるのだろうか。

 ふと、唐突に破軍が足を止めた。その言葉も唐突だった。
「着いたぜ」
 どこに、と問い返す必要もなかった。
 眼前の墓石には、『北斗七輝』とはっきりと刻まれていたからだ。私は自然と手を合わせていた。破軍も、神妙な顔で手を合わせている。私は墓石に話しかけた。
「もう、十年以上も経っちゃったけど……やっと逢えたね、七輝ちゃん。でも、こんな姿なんだもの。声をかけてあげる事以外に、できる事無いよ……どうしようかしらね?」
 私はまさか目的地が墓地だとは思わなかったから、花も持ってきてはいない。本当に、どうしようかと思案しているところに、破軍が言った。
「サイファの力で、花を創り出したらいい」
 私は頷いた。
「そうか。私は、サイファだものね」
 花。何がいいだろう。清楚で、綺麗な花。
 白百合がいい。私はそう決めると、白百合のイメージを形作っていく。そうして出来た白百合のイメージを二本複写。そして紙包みでくるむ。最後にリボンでまとめて、完成。そのイメージを、現実世界へシフトさせる。立派な、白百合の花束ができあがった。私はそれを手にする。そして、七輝ちゃんの墓前へ、それをお供えした。そして、改めて、合掌。そして私は立ち上がった。
「作り物の、造花みたいで悪いんだけれど……今はこれしかないの。許してね」
「構わないさ」
 七輝ちゃんではなく、破軍がそう言った。
「君のイメージで創り出した代物だ。それに、君の想いがこもっていない訳がない。君の想いのこもった花束。君の想いで造った花束。最高の贈り物だと思うぜ」
「……そうかもね。ありがとう、破軍」
 破軍は私から目を逸らして応じた。
「礼を言われる程の事じゃないさ」
「……ひょっとして、照れているの?」
「誰がっ!」
 破軍の剣幕に、私はくすくすと笑った。
「その程度で照れているようじゃ、プレイボーイ失格よ、破軍」
「別になりたくねぇから構わねぇよ」
 ひとつ、この男に関する知識が増えた。破軍は機嫌が悪くなると柄が悪くなる。覚えておこう。何の役に立つかは、分からないが。
 破軍は、言いたい事はあるがタイミングを逸した、と言った風で、頭をがりがりと掻いていた。何だか、私の方をちらちらと見ているのは何だろうか。
「破軍、私、何かおかしな事したかしら?」
 破軍はまた、私から目を逸らして言った。
「そうやって、笑顔でいる方が綺麗だぜ、真由」
「ばか」
 何だかこうやっていると、恋人同士が親友の墓参りに来たようだ。実際には、大違いなのだが。この男はこの場所への案内人で、つい三日前には殺し合いをした仲。しかしなんだろう。もう私は、この男に心を許している感覚だ。わたしはもっと、慎重な感性を持っていると思っていたのだが。それともこの男の方に、私の態度を軟化させる何かがあるのだろうか。
 思えば私は人付き合いという物に慣れていないのだ。
 アパートメントの隣人とは上手くやっている。まさか、私がこんなハードな仕事をしている、とは思ってはいないだろう。まずそこからして、私は『仮面』を使っていたという事だ。他にも色々、私は『仮面』を被って人と接してきた。
 しかし、破軍は違う。仮面のない、素顔で私はこの男と接している。それがどういう事かは分からない。しかし恐らくは、いい事なのだろうと思う。それだけ、破軍に心を開いている、という事だ。心を開いて傷つけられる、と言う事もあるだろう。だがそれを恐れていては、何にもならない。救いも、無い。救いを求めるならば、まず自分から、心を開く事だ。信頼できる相手に。
 しかし破軍は、信頼できる相手なんだろうか。信頼できる、と思う。好意も、持ってくれているようだ。それはいい事だと思う。悪意を持たれているよりは、好意を持たれている方がいい。当たり前の事だと、皆言うだろう。しかしそんな当たり前の事を、私は今まで、自覚してこなかった、という事だ。比較的、好意を持たれやすい行動を今まで取ってきた、という事もあるだろう。だがそれは、積極的に好意を獲得しようとして行った行為ではなかった。これから先、積極的に好意を獲得しようと思える相手に巡り会えるのだろうか。そもそも、そんな考えに辿り着くような相手に巡り会うのだろうか。とりあえず、破軍はその候補としてあげておこうと思う。破軍は喜ぶだろうか。また、そっぽを向いてしまうんだろうな、と想像して、私はひとり、くすくすと笑った。
「何だ、どうしたんだ?」
「何でもないわよ」
 破軍の問いかけにそんな答えで返しておいて、私は身を翻した。
「もう、いいのか?」
 破軍が問いかけてきた。私は頷いて答えた。
「するべき事は、済んだから。もうできることは、ないから」
 そう。死者をどれだけ悼んでも、死者は蘇っては来ない。死者に対する礼をとってしまえば、後は帰る以外にやる事は残ってはいなかった。私がドライなのだろうか。しかし、十年以上という年月と、封印されていた記憶という物は、物事や思い出を、セピア色に色あせさせてしまうに十分な条件だった。全く悲しくないと言えば嘘になる。だが、生憎とここで涙を流せる程、私は情熱的な女ではなかった。私が、ドライなだけだと言ってしまえば、その通りだろうと思う。だが、情が濃ければよいと言う物でもないだろう。少なくとも、ドライな面を持っていなければ、私のような仕事はやっていけない。自己弁護のようだが、これは確かな、事実だ。

 さて、死者には礼と再会の約束を。生者には……何をお礼にしようか。お金では即物的だし、破軍に聞いたりしたらとんでもない事を要求してきそうだ。ここは一つ……
「破軍。夕食、ご馳走してあげる。今回のお礼も兼ねて、ね」
 丁度、もうすぐ夕食時だ。お礼もこれくらいが、丁度いいだろう。破軍は嬉しそうに、
「いいのか!?」
 と尋ねてきたりした。私は頷いた。
「勿論、いいわよ。私の作った料理でよければね」
「おれは大歓迎だがね。真由の作った手料理なんか、今まで誰も食べた事なんて無いだろうからな。おれが一番乗りだ」
「ばかね。そんな大げさな物じゃないわよ」
 すると破軍は、わざとらしく真面目な顔を作って言った。
「男には、大変重要な事なんだよ、これが」
「へえ……男って、変なの」
 率直に感想を言うと、破軍はがっくりと肩を落とした。
「君な……そう言う言い方はないだろうが」
「だって変なんだもの。そんな風に変に構えちゃって。愛妻料理って訳でもないのに」
「それでも、だよ。男には重要なんだ。女の料理って言うのはね」
「ふうん」
 私は生返事を返しておいた。実際、理解できない。微妙な男心って奴なのだろうか。
「それじゃ、私の家へ」
「最後に挨拶をして、な」
「うん」
 私は改めて墓石に向き合うと、手を合わせた。また会いに来るからね、と心の中で囁きかけながら。
 見えれば破軍も、神妙に手を合わせていた。見かけによらず、意外と礼節をわきまえた男なのだ。
 そして私と破軍は墓石に背を向けた。私は肩越しにバイバイと手を振る。それを見て、破軍が尋ねてきた。
「やっぱり、生きている七輝に、逢いたかったか?」
 私は前を向いたまま答えた。
「それは当然ね。逢ってどうするかなんて、考えてもいなかったけれど、それでも生きているうちに逢いたかった生きて動いている七輝ちゃんを見たかった。尤も、彼も記憶を封印されているでしょうから、私が誰だか分からない、と言う可能性はあった訳だけれど」
「それでも、逢いたかった訳だ」
「……ええ。下らない、感傷だけれど」
「いや、下らないという事はないさ。人間は感情の生き物だ。サイファだって、きっとそうだろう。君は、真っ当な感性を持ったサイファだ、という事さ」
「それ、誉めてくれているのよね」
「貶しているつもりはないぜ」
「ならお礼を言わなくちゃね。ありがとう、慰めてくれて」
「ふん……」
 そう言って破軍はそっぽを向いてしまった。こういう所は、破軍は可愛いと思う。
 駐車場が見えてきた。私が乗ってきたフライカも、律儀に止まったままだった。ま、そうでないと困るのだが。
 破軍が先に助手席に乗ったので、私は後部座席に収まった。フライカのモーターの音が高まる。浮上。七輝ちゃんの眠る場所が、少しずつ遠ざかっていく。私はその位置から、遠ざかって見えなくなるまで、ずっと目が離せなかった。

 ――これで、この事件は終わったと、私も、破軍も思っていた。
 しかし、これは全て序章に過ぎなかったのだ――


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