第2話 おでかけ(1)

「あ〜……」
「う〜……」
 リビングに顔を出した途端、僕は何とも景気の悪いうめき声の合唱に出迎えられた。
「おはよう、相川さんにみなとちゃん……調子悪そうだね」
 健司の不吉な予言通り、見事に二人揃って宿酔というわけだ。自業自得、と言えなくもないが――少しくらいは同情に値するだろう、と僕は思う。
「つかさくん……おはよう……」
 みなとちゃんは弱々しく顔を上げて挨拶を返してくれたが、
「つ、月村く――あいたぁ……」
 相川さんは大声をあげた挙げ句、自分の声で頭痛を誘発してしまう体たらくだった。
「無理しなくていいよ、ふたりとも。消化にいい物食べて、もう少し寝てなね。ちょっと待ってて」
 苦笑を押し隠しながら二人に忠告しておいて、僕は台所に行く事にした。

 予想通りというか、台所には既にノエルが戻ってきていた。しかしいくらノエルといえど、今日は全ていつも通りの用意、と言う訳にいかない。恐らく誰かの手なりが必要になるだろう。といっても、プロ意識の強いノエルの事だ。全てを手伝わせてくれる訳ではないだろうが、少なくとも宿酔の人たちの分くらいは僕が用意するつもりだった。
 ――だったのだが。
「……司さま」
 呼びかけてくるノエルの声が、平常のトーンより僅かに低い。僕はいささかなりと涼しい気分を味わいながらも聞き返した。
「……なに、かな?」
「あまり、イレインを甘やかさないでください」
 手厳しいお答えが返ってきた。
 ……聞きようによっては、手厳しいどころかヒステリックに聞こえるかもしれないが、実のところ、甘い、というのは僕も自覚している所ではあるのだ。
 例えば、彼女を風芽丘に入学させて社会勉強させよう、というのは、僕が必要だと思ったからこその処置であり、それは周囲に認知なり許可なりされた事であるから、僕の私情によるものではない……かというと、僕自身今ひとつ自信がない。
 ひょっとすると、目を離すと心配だからという理由で、常に近くに居させたい、と思っているのかも知れないし、あるいはもっと非道く、ペットを連れ回すのと同心境であるかもしれないのだ。そうではない、と自分で自分を信用したいところではあるのだが……
 それでなくとも、どうも僕はイレインに対しては、やや甘やかしてしまう傾向がある気がする。度を過ぎてしまうと、イレインの為にならないだけでなく、周囲の人たちの気分を害する事にもなりかねない。だからなるべく気をつけることにはしているのだが……どうも時折、ラインを踏み外してしまうようだった。
「……ごめん、なるべく気をつけます」
 殊勝に反省の弁を述べる僕であったが、
「それに類するお答えは三七回目です。本当に、気をつけて頂けていますか?」
 というノエルのお言葉に恥じ入った。そんな僕の醜態を見て、ノエルは小さくため息をついた。
「今回の場合、司さまの責ではありませんが、それでも、宿酔になるほど飲酒した、という事に対する報いは、甘受すべきです。ある程度の労りは必要かと存じますが、しかし叱責のひとつもない、というのはどうかと思います」
 確かにその通りだった。
 知らなかったとはいえ、自動人形も酔う、という事が分かった以上、お酒の呑み過ぎは怖い、と言う事はいくら強調しても過ぎる事はないだろう。特に、女の子は。頭ごなしに怒鳴りつけるのみ、というのもどうかと思うが、しかしお酒の怖さに対して一言も言及しないのは、確かに良い事とは言えなかった。
「……そうだね。お酒が抜けきらない内に、一言釘を刺しておく事にするよ」、
「よろしくお願い致します」
 そう言ってくれたノエルに、僕は頭を下げた。
「ごめんねノエル。憎まれ役、押しつけちゃって」
 正直な気持ちだった。しかし唐突であったのも違いなく、ノエルは少し驚いたように僕を見やったが、しかし微笑を浮かべて、
「お気になさらないでください」
 と、言ってくれた。
 その後、僕はノエルに朝食のメニューを尋ねながら、みなとちゃんと相川さん用のメニューを構築しながら、ノエルのお手伝いに励んだ。

◆◇◆

 イレインと僕との関係は、外面はともあれ、主従などではないし、かといって恋人などといった類の甘い関係でもない。
 以前のようにリミッターをかけて、彼女の反発を買うなど下策の極みと言うべきだが、しかし甘やかしすぎて増長させてもいけない。まるで手のかかる子供を育てているような気分だが、彼女との関係はそれに似て、しかしもっとシリアスなものだ。
 尤も、困難で真剣なものだ、という意味においては、普通の人間関係であっても大差ないだろう。困難の質が違う、というだけの話であるのかもしれない。
 質が違うというのは、イレインが人間ではない、つまり僕たちと同質の存在ではない、という所から端を発する。
 イレインは、自動人形達は、機械だ。しかし、道具ではない。
 言うなれば、彼女達は機械生命体とでも言うべき、独立した種族存在だ。なぜなら、彼女たちには意識がある。
 その意識は、人間とは違う。人間と、僕たちと、相似ではあるが、しかし決して、同相のものではない。当然だ。イレインは、彼女たちは、人間ではない。人間ではないのだから、人間とは異なる意識、自分の外界を認識する感覚――能力、ではない――が備わっていて当然だ。そもそも、彼女たちと人間とでは、自覚可能な情報の帯域――光や音、その他諸々の波長の事だ――が異なる。人間と異なる風に世界を感じていて当然だろう。例えば、昆虫と人間とでは可視波長域、つまり『目』に見える光の波長が異なる。つまり昆虫と人間とでは同じものを見ても、それが互いに『同じもの』が見えている訳ではない、という事だ。
 だが、それは人間同士でも同じ事が言える。同じものを見ていても、他者が自分と同じ事を感じているとは限らない、という意味では、先にあげた例と大差ない。人間同士だから、同じような事を考えている、だから安心できるというのは群的発想で、一種の共同幻想、妄想でしかない。
 無論、そういう前提がなければ社会を築くことなどできないだろうが、そんな共通幻想を過信してしまうと、現実から足を踏み外すことになる。あくまで、そういう幻想は補助的なもの、つまりその当人を安心させるためだけに存在する柱のようなものであって、それは現実に対して何ら実行力を持ちえない。実際に現実を処理するのには全く役には立たない、と言い直してもいい。
 他者を自己と同一視しないこと、それが『他者と関わる』という事の第一歩だろう。他人は自分と同じ事を感じたり、考えたりするわけではない、という事をいつも認識しておく事だ。当たり前のこと、と思うかもしれないが、案外それが難しくて、ほとんど誰も実行できないでいる、それが現実なのだ。
 例えば、恋人同士であるからと言って同じ事を楽しいと感じたり、いつも相手の事を理解できているとは限らない。それは誰しも頭では理解できているはずだが、そんな齟齬を埋め合わせたり修復するために努力しようとする人間はほとんどいない。「彼・彼女とは合わない」と決め付けて別れてしまう、というレヴェルの話だ。無論、根本的にそりが合わない、という事はあるだろうが、それは相手がそういう人間である、と最初に観察もせずほいほいと恋愛ゲームに興じる方が悪い。あげくにそら涙など流されたところで同情する気になどなれる訳がない。恋に興じるところから破局まで、最初から最後までが、全てゲームなのだ。馬鹿げたお遊びだ、と僕は思う。
 要するに、人間の他者と、機械の他者と、相手がどうあれ、相手を理解しようと努めなければ『関係』など結べるわけがない、とそういう事だ。
 相手が世界をどう認識していて、どう表現しようとしているのか、それを感じ取って、なおかつ、相手に自分を理解してもらおうと努める事、それが肝要で、言いかえれば、それが出来るのであれば、相手がどんなものであれ関係ない、という事でもある。有機であろうが無機であろうが、あるいはガス状であろうが目に見えない物であろうが、『他者』であるという事に変わりはない。自分と違うから、という理由で相手を忌避するのはナンセンスだ。自己以外、全てのものが、『自分とは違う』のだから。
 イレインについても同じ事が言える。
 危険だからという理由で彼女を忌避していれば、彼女は永久に危険な存在である続けるだろう。こちらから歩み寄らねば、新しい関係など築けない。彼女を知ると同時に、彼女にこちらを知ってもらう事だ。そこから、新しい関係が始まる。
 尤も、良好な関係を結べるか、あるいは彼女が昔と同様、もしくはそれ以上の脅威となるかは、まだ誰にも分からない。僕にも分からないし、イレインにも分からないだろう。それはどんな事でも同じ事だが、イレインと僕との関係がシリアスなものである、というのは、関係が破局すると同時に、それは物理的な実行力を持つ脅威になる、という事だ。有り体に言えば、彼女は危険な敵になる、という事で、できればそんな未来は御免被りたい。だが、ただ彼女の機嫌を損ねないように、というだけの付き合いでは意味がない。
 ある意味危険極まりないが、僕自身が望んだ事だ。そしてイレインも、そんな現状を受け入れているようだ。嫌々なのか、彼女なりに順応しようとしているのか、それはまだ、分からないが。

◆◇◆

 分からないと言えば、と僕の思考は脇道にそれながら続いている。
 昨日まで僕が関わっていた事件、あれもなかなかに奇妙な話だった。
 ……別に、助けた側の人物、正確にはその知人であるが、そういう人に拉致されそうになった、その事ではない。まあ確かに妙な話ではあるが、今はどうでもいい事ではある。彼女の大人しそうな物腰や顔立ちと、過激な行動とその結果と、それらをまとめて忘却の棚に放り上げて、自分のベッドに身体を預ける。
 表層だけを眺めると、これといってそう奇妙な事件ではなかっただろう。ニュースソースとしてはイエロージャーナリズムが喜びそうな内容ではあるが、しかし実際には規模にしても実害にしても、それほど大きなものではなかった。
 無論、被害者にとっては被害にあったという事自体が迷惑かつ不幸な事実であり、事件の大小などというのは関係ないのだが。しかしそれを考えだすと話がこじれるので、僕はもう一度思考を棚の上に放り上げて、思考の本筋に立ち返る。
 事件の規模も、そして犯行に及んだ組織も、さほど大きいものではなかったにも関わらず、しかしそれにしては、妙に資金(かね)がかかりすぎている。そう思ったのだ。何につけ必要以上に飾り立てずにいられなかった、そう考える事も可能ではあるのだが、そう考えるにしても矛盾が生じる。
 単に浪費を尽くして飾り立てたにしては、その設備は合理的なものであったし、しかしそんな能を持った人材が才能を振るえる、要はそんな人物がこのような設備を整えられる権力を持っている組織にしては、犯行そのものが粗雑にすぎた。
 その矛盾の最たるものは、ECS、妨害波発生装置の存在だ。
 通信波を妨害するという一点のみにおいて言えば、そういう装置は大して高価なものではないが、しかしそれは単一の波長に対して有効なものの話であって、複数の波長を効率よく阻害する、となると話が変わってくる。
 自分でそのような装置を作るなら安価に仕上げる事も可能なのかもしれないが、実用に耐えうるかというのは別の問題であるし、有効に使用できるかという点についてはさらに心許ない。
 つまりあそこにあった物は、購入したか提供されたか、どちらにしても、彼らが別組織から仕入れたものである可能性が高い。購入したのならいい。しかしそうでなかったら、話は面倒になる。自分の利益にならないのに、他組織に対して技術なり物資なりを提供する、というのは考えられない。エゴイストでなければ生きていけない。酸鼻な話だが、レヴェルが違えばどんな社会でも、どんな世界でも、同じ事だ。まあ尤も、そう考える僕自身に、随分とスレた事を考える、と苦笑したい気分だが。
 誰が、何のために、そのような事を行ったのか。気にはなるが、しかし突き詰めて考えるには情報が不足しすぎているし、さらにそれを集めるには、僕には能力も権限も、制限されている。要するに、何もできない、分からない、という訳だ。

 考えても仕方ない、しかし放っておくこともできない、そんな堂々巡りに陥ったまま、そのうち僕はうとうととしてしまっていた。


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