意識の一隅で、警鐘が鳴っている。
なんだか、息苦しい――と、いうより……息ができない。
さて、これは一体、どういうわけだろう?
……などと、悠長に考えている時間は、無論なかった。
「皐姉さん、早くどいて!」
そう叫んだつもりだったが、妙にくぐもって「んー!むむー!」という風にしか聞こえない。つまり何かを顔に押しつけられている、という事らしい。
「あ〜、起きたおきた〜♪」
嬉しそうな惚けた声が、遮蔽物越しに聞こえる。起きたのだから是非とも解放して頂きたいのだが……ますますもって強く押しつけてくるのはどういう訳か。
というか……死ぬ。このままでは、間違いなく。
こんな間抜けな死に様は勘弁願いたいので、僕は無理矢理上体を起こして、腹の上に乗った重量物をはね飛ばした。
「にゃあっ!」
トロい猫みたいな悲鳴を上げてひっくり返ってるのは、やはり皐姉さんだった。
ぜいぜいと酸素を補給して、僕は皐姉さんを見下ろして訊ねてみた。
「……殺す気ですかあなた」
「えぇ〜、そんなわけないよ〜」
ひっくり返ったまま、ふくれっ面をする皐姉さん。
「それでは、起きたと分かってて枕を余計に強く押しつけてきたのはなんの冗談なのか、じっくりお聞かせ願いたい所なのですが?」
憮然として問いかける僕に、皐姉さんはふくれっ面のまま答えた。
「だってぇ、司ちゃんてば急に起きようとするんだもん。落ちないようにバランスとるの大変だったんだよ〜?」
「……そこでどいてくれたら、そもそも暴れたりしないって。第一、もっと普通の起こし方があるでしょうが」
「でも〜」と皐姉さんは不服そうだった。
「わたし、雫ちゃんみたいに『ふらいんぐえるぼー』とか『くさびおとし』とか出来ないよ〜」
「…………いや、それすごく異常な起こし方だから」
「でも〜、あれだったら司ちゃん一瞬で起きるよ?」
それは起きなけりゃ死んでるからというだけである。生命の危機に身体が自動的に反応してるだけだ。何故起こされるたびに冷汗をかかねばならないのか、一度本気で誰かを問いつめたい。
「ともかく……」
ずい、と皐姉さんに詰め寄って釘を刺す。
「普通に肩を揺すってくれるなりすれば起きるから。今度からはそういう方向でお願いします――いやホントにお願いだからそうして」
と、そこで思い出した。
「で、皐姉さん何か用?」
「えっとね――」
と、皐姉さんの言葉に耳を傾けていて、とある事情を忘れていた。それは――
「あ〜!司が皐を押し倒してる〜!」
……と誤解されかねない、この体勢だった。
結局、左をなだめ右をすかして、どうにかこれ以上被害が拡大するのを防いで、ようやく本題に入ることが出来た。
「で……二人とも、何か用?イレイン私服着てるけど?」
先ほど妙な誤解を招きかねない大声をあげたイレインは、デニム地のジャケットとスラックスにシャツを着込んだラフな出で立ちだ。皐姉さんは部屋着のままだが、イレインの格好から推測するに、これから着替えるのかもしれない。
……なんとなく状況から推測できそうな気もするが、直接相手の口から聞くまでは、偽りでもいいから平穏に浸っておきたいのだ。
「えっとね〜……」
「外に出たい」
簡潔に、イレインが要求をまとめて下さった。
「外って、どこへ?」
「皐が、行きたい所あるってさ。あたしは――」
「皐姉さんを口実にサボるチャンス、という訳かい?」
半眼でそう問うてみると、イレインはさも嘆かわしい、という風に身もだえした。
「せっかく人が見聞を広めるために努力しようと言うのに、何よその了見の狭さは?」
「日頃の行いじゃないかな」
そこまで言葉のフェンシングをして、ふと気付いた。
「イレイン、もう大丈夫なの?」
問われた本人は、「何がよ?」と不思議そうに問い返してきた。
「宿酔(ふつかよい)。朝は死にそうになってたみたいだけど」
ああ、とイレインは納得したように頷くと、胸を張った。
「あったりまえでしょ?あたしの代謝機能はそんなに低くないわよ」
「そう。それなら、一言お説教」
僕の言葉に、うげ、と女の子らしからぬうめきを上げるイレイン。
「イレイン。昨日から今日にかけて、君は酒精に弱いことが分かった」
「そ、そんな事――」
「あるんだよ。だから、これからは控えること。いいね」
不満げなイレインに、もう一度念を押す。するとイレインはしぶしぶながらも
「分かったわよ」
と答えた。
「で、これからどこか行くつもり?」
話題を元に戻す。推理と言うほどのものでもない。イレインが着替えているのだから、当然その通りだろう。
「えっとね、横浜」
「はぁ……?」
皐姉さんが当然とばかりにのたまってくれたが、ここから横浜まで一時間半はかかる。予想はできていたが、念のため聞いてみる。
「何しにいくのさ?」
「鳳家飯店の肉まん、食べたいよねぇ〜」
ね?と念を押して聞いてくる皐姉さんに、僕は断固として首を振った。
「遠い。帰ってきたら夕食まで時間ないじゃないか」
「えぇ〜?」
頬を膨らませる皐姉さんと、何故か不満そうなイレイン。……イレイン?
ああ、そうか……
「前言撤回。支度するから皐姉さんも着替えてきなよ。ただし食べ過ぎないように」
僕の注意を聞いていたのかどうか。皐姉さんは「わぁい」と幼児みたいな歓声をあげながら自室に引き返していった。
僕も自分の着替えを見繕おうとして、まだ入り口付近で立ったままのイレインに気付いた。何となく、不機嫌そうにも見える。
「どうかした?」
あえてイレインの方は見ずにクローゼットを開けてジャケットを取り出す。その背に、不機嫌そうな声が投げかけられた。
「なんで急に心変わりしたのよ?なんか、人の顔見て決めた気がするんだけど」
「気のせいだよ」
一刀両断しておいて、ジャケットを着込む。鏡を見て、ちょっと髪を整えて準備完了。
「そう?あたしには、また余計な気を回したように見えたんだけど?」
「それも気のせいだよ」
同じ台詞でかわしておいたが、ある意味彼女の言葉は正鵠を得ていた。
ま、避けられる面倒は避けるに越したことはない。それに、たまには遠出するのもイレインにはいい刺激になるのではないだろうか、と思ったまでだ。
僕はノエルにその旨伝えると、二人をともなってバス停へと向かった。
横浜・中華街。
とっとと駆け出そうとする皐姉さんを引き留めて、僕はイレインの様子をうかがった。
このような雑多な喧噪は初めてなのだろうか、イレインは毒気を抜かれたような風で、辺りを見回している。
この街では僕や皐姉さんの髪もイレインも、違和感なく周囲に溶け込んでいる。雑多な喧噪は苦手な僕だが、しかしこの雰囲気自体は嫌いではなかった。『中華街のない街は、一流の都市とは言えない』という言葉の意味が、少し分かるような気がする。
絶句している風のイレインに、僕は声をかけてみた。
「どう、イレイン?初めての中華街は」
「どうって……」
イレインは頭を左右に振った。
「人間が多いわ。うんざりするくらい。一体どこから湧いて出てくるのよこんなに?」
「まあ、人出が多いのは確かかな」
僕は認めた。
「でも、別にそこらの路地から湧いて出た訳じゃないさ。各々の住処から集まってくるんだよ、ここに」
イレインはむくれて声を荒げた。
「そんな事分かってるわよ!一体こいつらはこんな所に何しに集まってくるのかって聞いてるのよ!」
「いろいろさ」僕は答えた。
「そして、僕たちもその『いろいろ』の中の一集団に過ぎない。それじゃ皐姉さんが拗ねる前に行こうか」
「拗ねてなんかないよ〜」
むくれてる皐姉さんとイレインを連れて、僕は目的地へと足を運んだ。
「あ〜、いらっしゃ〜い」
目的地、鳳家飯店で、独特の関西弁風イントネーションで出迎えてくれたのは、燈真のお母さん、鳳蓮飛さんだった。
「こんにちわ、お邪魔します」
「こんにちわ〜」
それぞれ挨拶をして、店に入る。この時間でも、結構客の入りがいいようで、一階席は六分くらい席が埋まっている。もう少し経てば、夕食目当ての客でもっと増えるだろう。
鳳家飯店。燈真の実家の店で、最近雑誌などでも取り上げられたりして人気が出てきた店だ。僕たちは開店当時からの常連、という事になる。点心のテイクアウトもやっているので、お土産も問題ない。
軽い点心を三人前、それからテイクアウトを頼んで、僕たちは席に着いた。しばらくしてアルバイトの子が注文の品を持ってきてくれる。僕と皐姉さんは早速箸を伸ばしたが、イレインは訝しげに点心をしげしげと見つめている。
「どうかした?」
「どうかっていうか……これ、どうやって食べるのよ?」
イレインが指したのは、皐姉さんが好物の肉まんだった。
「ああ、これは素手で掴んで食べるんだよ」
自分の分を、実演して食べてみせる。しっかり練られた皮に餡の肉汁が香ばしい。すぐに一個、食べ終えてしまう。
イレインは訝しげな表情のまま、肉まんを一個手に取った。一口、かぶりつく。
「………………」
何かしら言葉を発するかと期待して見ていたのだが、イレインは無言で肉まんを一個、消化してしまった。少しつまらない。
「………………」
しかしイレインは僕の期待に反して無言のまま二つ目を手にすると、同じく無言のまま消化する。最後の三つ目も同様だった。ますますもってつまらない。
つまらないので、感想を聞いてみた。
「どう、イレイン?」
「……よく分からなかったわ」
それがイレインの返事だった。
「よく分からなかったから、司、一つ頂戴」
「……いいけど」
ちょっと様子がおかしい気がする。『よく分からないからもう一つ』というのも。
訝しげながらも、僕は自分の分から一つ、イレインにお裾分けした。
それをしげしげと見つめて、イレインはまたしても無言でかぶりつき、消化した。
「………………」
そして、何か迷っているような風で、僕の肉まんを見つめている。そこで食いに専念していた皐姉さんが、初めて声を発した。
「イレイン〜」
「……何よ」
皐姉さんは口の端に餡をひっつかせたまま言った。
「美味しいからもっと食べたいんなら、そう言わないとダメだよ〜」
「…………!」
イレインは明らかに動揺した。尤も、僕も驚いて、
「……そうなの?」
間抜けな質問を発してしまった。
「べ、別にあたしはそんなっ……!」
おお、明らかに動揺している。こんな彼女は結構珍しいので、新鮮かもしれない。
ま、それはともかく――
「イレイン、どうする?」
「ど、どうって……」
「食べたいんなら、もう少し注文するけど?」
「………………」
皐姉さんと僕とで、イレインの顔を注視する。イレインは珍しく顔を真っ赤にして黙り込んでいたが、やがて口を開いた。
「………………もうちょっとよこしなさい」
「はいはい」
彼女らしい言い分に苦笑しながらも、僕はレンさんに追加注文を頼んだのだった。
「しかし、イレインが肉まんを気に入るとは思わなかったよ」
帰りの電車の中で、僕はイレインにそう言った。皐姉さんは、はしゃぎ疲れて今は熟睡中。なので自然と、イレインと二人の会話になる。
「何よ、悪い!?」
気に入ったものを知られるのがそんなに気まずいのか、イレインはこの話題に触れると途端にふてくされてしまう。
「別にそんなに恥ずかしがることでもないと思うけど」
「うっさいわね」
実際そんなに気にすることもないと思うのだが。まあ、意地っ張りのイレインだから、弱みを握られたように感じてしまっても仕方ないのかもしれない。
僕もイレインも饒舌な方ではない。会話は自然と途切れがちになる。
ふと心づいて、僕はイレインに訊ねた。
「人間は、どう?」
以前のイレインなら、はっきりと答えた。しかし、
「……分からないわよ」
今は、そう曖昧な返事になっていた。
「……確かに人間も、嫌な奴ばっかりじゃない事は分かったわよ――でも」
問いかける瞳は真剣そのものだ。
「あんたの周りの人間はいい奴よ。でも、それがむしろ特異なんじゃないの?」
「そうかもね」僕は答えた。
「世の中、いい奴もいれば嫌な奴もいる。それで当然なんだ。だからこそ……他人に優しくできる人間は、大切なんだと思うよ」
ひとにやさしく。言葉にするほど容易いことではない。だからこそ、大切なことなんだと僕は思う。しかし同時に、優しいと言うことが必ずしも良いことではない、という事もある。どんな事にも長所があり短所がある。
「幸福というものは原理は単純。しかしそれが複雑に見えるのは、ひとの想いが単純ではないからだ。全ての葛藤は、そこから生じる」
「……なによそれ」
「赤の聖典に書かれていた言葉。まあ少しだけ僕の意訳が入ってるけど」
「赤の聖書?」
「ルービィ・ルーブリック。まあ知らなくてもいいさ。それでも生きられる」
「……誤魔化してるんじゃないでしょうね?」
「説明が面倒なんだよ。興味があるなら貸すけど」
「……いい。なんか面倒くさそうな内容みたいだし」
「……そう」
会話はそこで途切れた。
『優しい』という事が時に短所になり得るのと同様に、『純粋』という事が短所になり得る事がある。イレインはまさにそれだった。
『自由』を得るために全てから逃れようとしていた過去の彼女。それはかえって彼女を自由から遠いものにした。それは何故か。
人間というものが造り出したシステムのせいだろう。
自由――安全交換システム、と某書に書かれていたものだ。
人はそれぞれ一定量の自由を持って生まれる。多い者、少ない者、それぞれだが、その自由を売って安全を買う、というシステムは、人間独自のものだ。
しかし、それは決して悪い一方のものではない。
人間は独りでは生きられない。他者がいてこその自己だ。その他者との繋がりを得る事が出来るという意味において、このシステムは有るべくして生まれた。必要ない、という人間もいるであろう、しかしこれは必要なものなのだ。
究極の自由とは、究極の危険を意味する。肉体的にも、精神的にも。人間として、あるいは人間と関わって生きるのならば、群的意識というものを忘れてはいけないのだろう。
「群れ……か……」
「何よ、それ?」
僕の独り言を、耳ざとくイレインが聞きとがめた。ついでとばかり、僕は訊ねてみる。
「イレイン。群れる事は嫌いかい?」
イレインは、今度は即答した。
「好きじゃないわ。でも、今のこの状況を、悪くないと思ってるのも確かね」
「そっか。実は僕も同感だ」
イレインは意外そうな顔をして、僕を見つめた。
「あんたは、群れる事を容認してると思ってたけど」
僕はイレインから視線を外しながら答えた。
「そうかな。でも、それだけが僕の全てじゃないから」
例えば、夜の顔とか。例えば、『仕事』の顔とか。
僕はまだ、全てを受け入れてもらう事は出来ない。自分自身が、受け入れていないからかもしれない。
イレインは、「ふうん」と気のない返事をして、口を閉ざした。
皐姉さんの寝息が、唯一の日常への扉のように、僕には思えた。
「明日は、日曜日か……」
そろそろ、鍛錬を休む訳にもいかないだろう。明日からはまた、雫姉さんと共に鍛錬を再開しよう。
そんな事を考えながら、僕は電車に揺られていた。