【 帽子 】−(中編)
家事を一通り終えて、お風呂にも入った唯は睡魔が訪れるまでの間、本を読む為に本棚から本を取り
椅子に座るが読み始める前に机の上に置いてあった野球帽に気付く。
唯ちゃんは改めて帽子を手にとり、つばの部分や裏側まで隅々と見るがやはり特徴らしきものはない。
また帽子についても未だに何も思い出す事はできなかった。
結局、何の進展もなかったので唯ちゃんは軽い溜息を吐き、帽子を机の上に置いて本を読み始める。
そして、2冊目の後半を読んでいた時に不意に睡魔に襲われ、軽い欠伸をする。
時計を見ると12時を過ぎていた。唯は読みかけの本を置き、布団を敷いて消灯する…
布団の中で横になると徐々に深い眠りの野に落ち、意識が遠のいていくと現実とまた違う世界が
唯の中で展開し始める…
(あれ、またあの夢の続き…?)
いつの間にか昨日の夢と同じ様に13,14年前の一応公園にまた自分がいた、公園内の桜の中で
一番大きな木を目指して小さな足で走っている自分が…。
小さな頃に戻った唯は残った力を振り絞るかのようにして小さな足で1本の桜の木を目指して走った。
そしてようやく桜の木の幹にたどり着き、息切れしながら太い木の幹に手を置いて上を見上げる。
しかし、上を向いた時に既に木の枝を緑色の若葉で包まれているのを見た唯は期待に満ちていた
表情を凍りつかせる。思わず唯は周りを見回したが同じ光景が広がっていた。
それを見た唯は思わずしゃがみ込み顔を手で隠し、身体を震わせながら一人で泣き出してしまった。
「どうしたのだ?」
唯は暫くの間、泣き伏せていると後から誰かが声をかけるので涙を拭い後を振り向いた。
そこには前日の夢と同じ青と白を主体にしたシャツを着てこげ茶色の半ズボンを履いた男の子が
立っていた。唯は顔を上げてその男の子の顔を見ようとする。
(零さん!!)
唯は思わず驚いてしまう。そこにはまだ子供の顔ではあったが、六角形をした凛々しい目や口元や
特徴的なアゴは全く変わっていない小学生時代の一堂零であった。
唯は思わず声を出そうとしたが出来ず、身体を動かそうにも動かす事ができなかった。
まるで自分が遠い所から幼い自分と小学生の零を遠くで眺めているような感じだった。
そして夢の中の小さな唯はもう1度零を見ると零は野球帽を被っていた。自分の部屋で見つけたのと同じ
あの真っ赤な野球帽を…
唯はその野球帽を見て何故、零が13年前の自分と会っているのか全く解らず複雑な気分だった。
一方、夢の中の小さな唯は自分の意志とは関係なく零に向かって訴えるように話し始める。
「グズッ…あのね…ここのお花をね、見に来たんだけどね…無くなっちゃって…」
「花って…この公園の桜?」
「うん…前にね、お父さんとお母さんと一平でここのお花を見に行ったの。とても奇麗だったから
『今度また一緒に来ようね。』ってお母さんが言ってたんだけど、お母さん病気になって
行けなくなっちゃって…」
「ふうん…」
「だから、あたしが桜の花を取ってきて…お母さんを…お母さんを元気付けてあげたくて…
グズッ…それで…」
言う毎に連れ再び、唯は俯き加減になり泣き出しそうになる。
それを見た零は小さな唯の頭の上に軽く手を乗せ、唯が涙を溜めた眼で零を見つめると零はニコッと笑い。
「じゃあ、私が奇麗なお花のある所に連れてってあげるのだ。」
「えっ、ホント?」
「うん!こっちだよ」
と言いながら、零は振り向き走っていき、唯を置き去りにされそうになる。
「あっ、ちょっと待って…」
唯は慌てて零の後を追いかけるが、小学生の零に対しまだ唯は幼稚園児である。たちまち2人の距離が
開いていく。
「ちょっ、ちょっと待ってよ〜」
唯は走りながら零に向かって叫ぶ様に言うが、走るのに夢中らしく唯の声は聞こえていない様で、
ますます2人の距離が離れていった。
そんな時、突然零の前方から突風が吹き、零は立ち止まって両手で帽子を飛ばないように
抑えようとしたが、一瞬遅く帽子が後に飛ばされてしまう。帽子はひらひらと舞いながら後ろから来る唯の元で落ちる。
零は後を振り向き、漸く小さな唯を置いてきぼりにした事に気付き慌てて引き返す。
「もう〜!お兄ちゃんたら「待って」っていったのに〜」
やっと零に追いついた唯は少し頬を膨らませ、文句を言う。
「ニャハハハ…ごめん。遂、夢中になってしまったのだ。」
零も頭を掻きながら素直に唯に謝った。
「はい、お兄ちゃん。これ。」
と言って拾った野球帽を零に差し出した。
「ありがとう。」と零は帽子を受け取って唯に礼を言った。
「ねぇ〜お花はまだなの?」
「もうすぐだよ。ほら、あそこ。」
唯は零が指差した方向を見つめると思わず目を輝かせる。
唯が見たものは満開に咲き誇っているチューリップの一群で赤や黄色など色とりどりに綺麗な花を
咲かせていた。
「わぁ〜、すごーい。」
目の前に広がるチューリップ畑を見て唯は感嘆の声をあげる。
「どう?この花持っていていけば、喜ばれるんじゃないの?」
「えっ…」
唯は驚いて零の方を向く
(ちょっと、零さん何言ってるのよ。)
2人を見届けている唯が慌てて零を止めようとしたかったが、やはり何もする事ができなかった、
夢の中の小さな唯はどうすればいいのか解らず戸惑っていた。
「零。どこに言ったと思ったら…そんな所で何やっているの?」
「あっ、母ちゃん。」
2人の後から声をかける人がいるので、2人は振り向くとそこには買い物かごを持った女性が
ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
(もしかして、あれって…零さんのお母さん!?)
唯は遠くから眺めるように1人の女性を見て驚く。髪の毛が肩まで届き前髪や目もとなどは零に
そっくりな顔立ちをしている。唯は零の家で2,3度その人物の顔を写真で見た事がある。
一堂零の母、一堂直利だった。
(何で零さんのお母さんが…もしかして、私って零さんのお母さんに会ったことあるの?)
唯が一応市にやってきたのは5年前、中学2年の時でそれ以前では一応市には数える程しか
来た事が無い筈であった。ましてや零の母、直利が亡くなったのは自分が5歳の時だから
直接会った事は無い筈だし覚えも無かった…。3人を眺めるようにして見ている唯はその事で
ますます混乱してしまった。
そんな唯の混乱をよそに直利は小さな零と唯の2人の所に辿り着いた。
「この子、どうしたの?あなたのお友達?」
「ううん、あっちの桜の木の所で「お花が欲しいって」言いながら1人で泣いていたから、
ここに連れてきたのだ。」
「それでここに来て何をしようとしてるの?」
「う〜んとね。花を欲しいって言っているから、ここにあるチューリップをあげようと思って連れてきたんだ。」
「あのね…零。これは公園に来る人、皆のものであって、あなたがチューリップをあげてしまったら、
チューリップを見に来た他の人が困るでしょう?」
直利は苦笑しながら零くんに諭すようにして言った。
「じゃあ、このチューリップ。取っちゃ駄目なのか?」
「駄目です。この前もお父さんに『人に迷惑かけるなって』散々怒られたでしょ。」
食い下がる零に対し、直利はそう答えると零はその事を思い出したのか黙ってしまった。
そして直利は唯の方に顔を向ける。唯はまだ2人の話が理解できていなかったらしく、
きょとんとした表情で直利を見ていた。
「ねぇ、お名前はなんて言うの?」
「ゆい…かわゆい…」
「ふーん、ゆいちゃんね。名前と同じで可愛いね。」
唯は恥ずかしいそうに自分の名前を言うと直利は微笑み、唯の小さな頭を愛しむように撫でた。
「ゆいちゃんのお家はどこにあるの?」
「え〜っとね、あっちの方。'あたかも'ってところから来たの…」
と平然とした表情で言いながら指でその方向を示し、唯は答えた。
それを聞いた直利は一瞬,驚きで声を出せなかった。与鴨市だとしたらこの一応市の隣町だが
この公園からでは近くても数キロの距離はある。
直利は驚きを隠せないまま、小さな唯に続けて質問する。
「ゆいちゃんっていくつなの?」
「5さい。」
「ここまでどうやって来たの、電車で?」
「お家からずっと歩いて。」
淡々と直利の質問に対して唯は答えていった。
直利はこんな小さな子が1人でここまで数時間かけて歩いて来たという事にますます驚いてしまった。
「それで何でお花が欲しいの?」
「あのね…桜の花を見に行こうとお母さんと約束してたの、だけど…お母さん…
病気になってここに来れなくなったの…だから、あたし…お母さんに…グズッ…桜の花を…
取ってくれば…元気になると思って…グズッ…」
途中から、母の事を思い出してしまったのか、唯は目に涙を溜めだんだん泣き出しそうになり後半の方は
言葉にならなくなってきた。
「ごめんね、変な事聞いて。」
直利は唯の事を優しい子だと思いながら、悪い事を聞いてしまった気がしたので
今にも泣き出しそうになっている唯を膝をついて唯と目線を合わせるとそっと抱きしめて
小さく囁いた。
「じゃあ、おばさんがゆいちゃんの代わりに綺麗なお花を買ってきてあげる。」
「えっ…本当?」
「うん。お花屋さんでお母さんが喜びそうなお花、買ってきてあげるね。」
それを聞いた唯のつぶらな瞳が輝き、そしてじっと見つめるので直利はニッコリと微笑む。
「じゃあ、零。ちょっとお母さん、花屋に行って来るから戻ってくるまで、ゆいちゃんと
遊んであげて。」
「うん、わかったのだ。」
「じゃあ、ゆいちゃんもそれまでちょっとここで遊んでてくれる?」
「うん!」
唯は直利に笑顔で元気に答える。
直利はスッと立ち上がって公園を外に向かって歩き始める。直利が公園から出て行くとその場には
また唯と零の2人だけが残された。
「じゃあ、何して遊ぶのだ?」
「じゃあねぇ、あたし鬼ごっこがいい。」
「鬼ごっこ?」
「うん、お兄ちゃんが鬼になってあたしを追いかけるの。」
はきはきと唯は答える。
「でもなぁ〜」
零は鬼の役をするのが嫌なのだろうか、俯き加減になってちょっと困惑した表情で言葉を濁すと
唯はちょっと背伸びするようにして零の野球帽をかすめ取って、零の元から足早に離れる。
「帽子持ってない方が鬼だからね。」
あっけに取られる零を尻目に唯は笑顔でそう言いながら零から逃れるように素早くチューリップが
咲き誇っている花壇の裏側に回った。
「ちょ、ちょっと待つのだ。帽子を返すのだ」
「キャハハハ…待たないよ〜だ。鬼さんこちら、手のなる方へ〜♪。」
慌てて時計回りに花壇を回って唯を追いかける零に対し、唯も帽子を被り零から逃れるように時計回りに走り始めた。
そんな時、辺りが一瞬白く包まれる。そして、すぐにまた違う光景が現れた。
また、一応公園のようだった。今度は自分…小さな唯は手に花束を持っていて中の数種類の花が
彩りを添えている。その中にあった白百合の花から香ばしい百合の香りがする。
そして、なぜかその唯は零の野球帽を被っていて、その帽子越しに優しく頭を撫でる人がいる。
母親の理矢であった。理矢は唯の頭を撫でながら微笑を絶やす事はなかったが心なしかその顔色は
あまり良くないようであった。そして、小さな唯と理矢の2人は手を振りながら
公園の外に出ようとしてた。
そして手を振った先には零と直利の2人がチューリップの花壇の所から見送るようにして
手を振っていた。
唯と理矢が公園の出口に差しかかった所で何を思ったのか、花束を理矢に渡して1人、零の元に駆け寄った。
そして、零の所に辿り着くときょとんとした表情をしている素早く零の横に回り…
「お兄ちゃん、どうもありがとう。大好き…」
と言いながら、少し背伸びをして目を瞑り零の頬に軽くキスをする。
そこで再び、辺りが白く包まれる…
意識がはっきりして来ると勢い良く唯は蒲団から跳ね起きた。
周りを見るとまだ静かで鳥の囀りだけが聞こえる。両親や一平たちもまだ眠っているようであった。
時計をみると5時を指し、空も夜明け直前で明るくなりかけていた。
夢の内容があまりにもリアルだった為かやや興奮気味になっている事を自覚していた。
汗を掻き、左手で胸の辺りを抑えてみると心臓の鼓動も高くなっている。
それにしても4,5歳の頃で覚えていてもその記憶の大半が朧気になっているだろうが、この公園での
出来事は零にあってからの5年間、一度も思い出す事がなかった。
それが今になって夢として現れるのが不思議でしかたなかった。
唯は目を瞑って反芻すると夢の中で出て来た幼い零の顔が浮かびあがる、そしてその零の頬に
キスをする小さな自分が浮かび上がり、それを思い出してしまった唯は恥ずかしさのあまり頬を
赤らめ思わず眼を開いてしまう。
唯は机の上を見るとまだそこには昨日見つけたあの赤い野球帽があった。
唯は起き上がってそれを手に取って見るとやはり夢の中にあった帽子と同じような気がした。
夢の中では小学生の零が被っていた野球帽をどうして最後に自分が被っているのかわからなかったが…
(もしかしたら、私…ずっと前に零さんと会っているのかも…。それに零さんのお母さんとも…。)
そう思うと唯は帽子についてますます気になって仕方がなくなって来た。
唯は夢の中に母親の理矢が出てきているので、もしかしたら理矢が夢の中の出来事を覚えているかも
知れないと考える。途中で情景が変わってしまい、唯にとって夢の内容で解らない所も多かったが
もし、あれが本当に過去の記憶ならあの場所にいた零と理矢はまだ覚えているかもしれない…
そう思うと唯は今日にでも理矢と零に帽子を見せて聞いてみようと決心した。
【後編】 へ続く