【 帽子 】−(後編)

唯は朝食の後片付けを済ませ、一息ついた頃にあの赤い野球帽を持って理矢がいる部屋に向かう
最近、理矢は体調が良くなってはいるが、今日も家で療養していた。
「お母さん、起きてる?」
「ええ、起きていますよ。」
理矢がいる部屋は襖が閉められていたので、唯は襖越しに理矢に声をかける。
すると理矢から返事があったので唯は襖を開けて中に入った。
部屋の中では理矢が蒲団から身体半分起きあがって唯を出迎える。
「どうしたの、唯?」
「ちょっとお母さんに聞きたい事があるんだけどいいかな?」
「ええ、いいわよ。」
「この帽子、私の部屋の押し入れから出てきたんだけど、お母さん何か知ってる?」
と言って唯は理矢に手にしていた帽子を差し出す。
理矢は帽子を眺めながらしばらく考えこむ…
「これ…あの時の一応公園で貰った帽子ね。」
とにこやかな表情で唯に応えた。
「お母さん。あの時の事、覚えているの?」
「ええ…少しだけど、覚えているわ。」
と言って襖の所に立っていた唯に中に入って座るように手招きする。
唯は襖を閉めて、理矢の元に座った。
「この帽子ってあなたが4つか5つの時に男の子から貰った物でしょ?」
「う〜ん、それが良く覚えていないの…」
唯は困った表情をして答える。

「これはね、あなたが一応公園で一緒に遊んだ男の子と別れる時に貰った物なの。たった1人で公園まで
行ったって連絡受けたからビックリして迎えに行ったら花束を持って、その帽子をかぶっていたのよ。
確か…私が『その帽子どうしたの?』って聞いたら『お兄ちゃんにもらった』って言ってたわ。」
理矢はやや俯き加減にしながら1つ1つをぽつりぽつりと思い出しながら話していく。
「一応公園って昔住んでいた所からだと、だいぶ離れているんじゃ…」
唯は戸惑いながら理矢を見る。
「そうよ、一平が生まれた年はみんなで桜を見に行ったけど、その次の年は私の病気が重くなって、みんなで
行けなかったのよ。そうしたらね…唯。あなたが泣き出してしまって『お花を取ってくる』って言って家を飛び出した
のよ。お父さんが慌てて追い掛けたけど見失ってしまって仕方なく帰りを待っていたんだけど、4時間くらい待っても
帰って来ないから、心配で…もしかしたらと思って交番に相談したの。そうしたら一応公園に女の子が1人でいたって
連絡を受けて…まさか本当に1人で行くとは思わなかったんで慌てて私が迎えに行ったっていう訳。」
理矢は微笑み、その時の事を思い出しながら唯に語った。
「ごめんなさい…お母さん。心配かけてしまって」
子供の時の事とはいえ、唯は恥ずかしくて顔を真っ赤にし俯き加減になりながら、理矢に謝った。
「いいのよ。あの時はさすがに心配したけど、私の為にしてくれた事ですもの。今となっては良い思い出ですよ。」
理矢はにこやかに穂笑みながら唯に言った。
「それで…その時にいた男の子ってどんな子だったかって覚えてる?」
唯ちゃんはじっと理矢を見つめながら肝心の所について尋ねてみる。
「ごめんなさい…ずっと昔の事だったからその子の顔までは…覚えていないわ。」
理矢は少し首を傾け考えた後に、申し訳なさそうに答えた。
「じゃあ、その子の他に誰かいなかった?」
「確か…その子のお母さんのような人が一緒にいたと思ったけど…ごめんなさい、ちょっと良く思い出せないみたい。」
「ううん、別に良いよ。13年前の話だもん。覚えていなくても仕方がないって。」
唯は溜息を付いて苦笑する。
「ねぇ、唯。どうして急にそんな事、聞いてくるの?」
理矢が不思議そうな顔をして尋ねた。
「き、昨日、部屋の片付けをしていたらこの帽子が出てきたんだけど、帽子の事思い出せなくて…それで聞いてみたの。」
唯は夢の内容の事は隠し、取り成す様にして答える。
「フフフ…今、少し思い出した事だけど、帰り際にあなたがその帽子をあげた子と結婚の約束したのよ。」
「けっ、結婚〜!!」
微笑みながら語り掛ける利矢に対し、唯は驚きのあまり大きな声で叫んでしまう。
「そう…一緒に帰る前に確か…突然、男の子の頬にキスをするから、驚いて何でそんな事をするのって聞いたら
いきなり、あなたが『大きくなったら、あのお兄ちゃんのお嫁さんになるから』ってにこやかに答えるんですもの。
まさか、あなたがあんな事を言うなんてね。フフフ…」
理矢はそう言って含み笑いをする。
一方の唯は恥ずかしくて耳まで真っ赤にして何も言えないまま俯いてしまう。
自分の記憶にも無く夢の中にも出てこなかった事なので、より一層自分のした事が恥ずかしくて仕方が無かった。
「もう…お母さんたら、何もそんな事まで言わなくたって良いじゃない。」
唯はそう言って拗ねたふりをする。
「フフフ…私が覚えているのはこの位かな、」
「うん、お母さんありがとうね。」
唯は理矢に礼を言って帽子を持って立ち上がった。
「唯。」
理矢は後ろを振り向き襖を開けて出ようとする唯の方を向いて声をかけた。
「何?お母さん。」
唯は後ろにいる理矢を見る。
「その男の子の事、何か思いだした?」
「ううん…別に…」
「そう…いったいその男の子。今、どこで何をしてるんでしょうね…」
理矢は遠くを見るような眼差しでそっと呟いた後、微笑んだ。
「さぁ…何もまだ思い出せないからちょっと…」
唯は困惑した表情でそう呟いてから部屋を出て襖を閉めるが、心の中では別の事を考えていた。
(もしかして…私…零さんにあんな事言っちゃったの…??)
子供の時の約束とは言え、もしかしたら公園で約束した相手が零であるかもしれない…。
唯は困惑と恥ずかしい気持ちが入り混じった面立ちで自分の部屋に戻っていった。
部屋に座った唯ちゃんは椅子に座り、あごを手の上に乗せぼんやりと帽子を眺めていると
脳裏に夢の中で出てきた子供の零の顔が浮かび上がる。
(零さん…そうだ零さんなら、もしかしたら帽子の事覚えているかもしれない。)
唯はそう考えると零にあって確かめようと思い、すぐに出かける準備をし帽子をバッグの中に入れて
部屋を出る。
玄関に向かう途中、煙草をふかしながらデッサンをしていた板造から呼び止められる。
「おい、唯。どこか出かけるのか?」
「うん、ちょっと出かけてきます…って、お父さん!また煙草の火を消さないまま次のを吸って。」
「おおっと…これはすまん。ついクセでな…」
唯は板造が灰皿に置いてある煙草からうっすらと立つ煙が見て、強い口調で注意する。
それを聞いた板造は灰皿に眼をやり、慌てて煙草の先端を灰皿の上で潰して火を消す。
「もう!本当に気を付けてよね。そういうのが火事の原因になりやすいんだから…じゃあ、行って来ます。」
唯は少しムッとした表情で注意した後、そのまま玄関へ行き靴を履いて(行って来ます)と言い、外に
出て行った。

しばらく歩いて唯は『おもちゃの一堂』の前まで辿り着いた。
もう10時を過ぎているのでお店は開いていた。唯は中をちょっと覗いて見ると、零の父、啄石がゴソゴソと
店の商品を整理していた。
「おはようございます。おじさん。」
「ん…おっ、唯ちゃんじゃないか。おはよう。」
唯は笑顔で自分を背に向けて戸棚に玩具を陳列している啄石に声をかけると後ろを振り向いて啄石も挨拶を返す。
「あの〜。零さん、いらっしゃいます?」
「う〜ん。それが零のヤツ、さっき出かけてしまったんだ。(昼メシはいらない)って言って出たから、すぐには
帰って来ないんじゃないかな。」
「そうですか…」
唯は零が不在だという事を知って肩を落とす。予め電話して、いるかどうか確認すれば良かったと今頃になって
少し後悔した。帽子の事で頭が一杯になり電話の事まで気が回らなかった。
「う〜ん、すまないね。何か約束でもしてたのかい。」
「いや、別にそんなのじゃないです…私が勝手に来ただけですから」
やや俯いて唯は答えると啄石は後ろを振り向いて再び、足元のダンボールから玩具を取り出して陳列し始める。
「あの…おじさん。」
「うん?どうしたんだい、唯ちゃん。」
唯が小さく呼びかけると啄石は再び唯の方へ顔を向ける。
「あの…零さんって…帽子とか持っていましたか?」
唯は緊張した面持ちで帽子の事について啄石に尋ねてみた。
「帽子?」
「ええ…前に持っていませんでしたか?野球帽とか…」
唯の問に対し、啄石は玩具の陳列を中断し腕を組んで考え込む。
「ああ…そういえば前に一度だけ直利のヤツが零へのプレゼントだって、あげた事があったけかな…」
「零さんのお母さんがですか…」
「そう。もう13年くらい前か…ワシは一度しか見てないからあまり覚えていないんだが、確か赤い野球帽だったかな
零のヤツ、母さんに買って貰った物だから大喜びして、その日は家の中でも被っていたんだよ…」
やや上を見るようにして13年前の事を思い出しながら語っていく。
「おじさんはその時の事よくご存知なんですか?」
「ああ…よく覚えているとも。あいつが次の日、帽子を被って遊びに行ったのに帰ってくるとその帽子が
無いから聞いてみたら、無くしたって言ったんだ。それでワシは怒ったんだが、直利が間に入って来て
帽子は一応公園で知り合った女の子にあげたからって、懸命に取成そうとするからワシは何も言えなくなってね…。
今、思うとあの帽子が零にとって直利からの最後のプレゼントだったのにな…」
そう言って啄石は遠くを見つめるように顔を少し上げた。
「最後のプレゼントって…?」
唯は啄石の最後の言葉が引っかかり、気になっていた。
「直利はその次の日に事後で病院に入院してたんだ、怪我自体は大した事はなかったんだけどすでに脳腫瘍で
手の施し様がないくらい悪化していたのがその時になって判ってね、されからしばらくして亡くなって
しまったんだよ。」
寂しげな表情で少し上を見ながら啄石は呟いた。
唯は驚きのあまり、何て答えれば良いのだろうか判らず戸惑っている。
「あっ、済まないね。つまらない話を長々と君にしてしまって」
「いえ…そんな事ないです。」
「だけど、唯ちゃん。どうして急にそんな事、聞くんだい?」
啄石は視線を唯の方に戻し尋ねた。
唯は肩にかけているバッグから小さく折りたたんでいた赤い野球帽を取り出し、元の状態に戻して啄石に手渡す。
「もしかして、零さんのお母さんがプレゼントされた帽子って、この帽子ですか?」
「う〜ん、確かにあの時の帽子に似ているかもしれないな…。でも、どうして唯ちゃんがこれを?」
そう言って、啄石は帽子をじっと見つめながら深く考え込む。
「実はこの帽子、私は全然覚えていないんですが、母から聞いた話だと私が小さい時に一応公園で見ず知らずの
男の子から貰った物なんだそうです。」
「ほぉ…確かに直利が帽子をあげたと言っていたのも一応公園だったが…それと何か関係あるのかい?」
「ハイ…実は私…夢を見たんです。一応公園で小さい頃の私と零さんが会って、その零さんはこの帽子と同じ物を
被っていたんです。」
「ハハハ…そうか…それで、もしかしたら零のヤツが帽子の事を覚えているかもしれないって思って
会いに来た訳なんだね。」
にこやかに笑って話す啄石に対し、唯は頬を赤く染め照れたようにコクンと頷いた。
「それに…今の話を聞いて、もしその帽子が零さんのお母さんが買った物だとしたら、零さんにとっても
お母さんから貰った大切な物ですから、そんな大切な物、私が持っている訳にはいかないと思ってお返ししようと…」
少し俯き加減になり、消え入りそうな声で唯は言った。
「零のヤツは帽子の事覚えていないんじゃないかな、母さんが亡くなった時だってあんまり覚えていないなんて事、
前に言っていたし、それにこの帽子がもし、あの時の帽子なら君に貰って良かったと思っているんじゃないかな。
死んだ直利もきっとそう思っているんじゃないかな。」
「でも…」
「直利も喜んでいたよ。ワシは名前までは聞かなかったが…可愛いいお友達が1人増えたよかったって。
あいつは最後まで自分の事より零や霧の事まで心配していたからね。」
啄石はその時の情景を思い浮かべながら笑顔で唯ちゃんに話した。
「あの〜おじさん。」
横から男の子が啄石に声をかける。玩具を見に来たお客さんであった。
「ハハハ…いらっしゃい。どうしたのかな?」
「おじさん。あそこの棚にあるプラモ、取ってくれない?」
啄石は慌てて唯に帽子を返し、お客さんである男の子に愛想笑いをする。男の子は積み上げられている
プラモデルを指差しして言った。
「ああ、あれね。ちょっと待ってね。」
そう言って啄石は脚立を持ってくる
「申し訳ないんだが、唯ちゃん。お客さん来たし、こちらも商売があるんでこの辺で…帰ったら零に帽子の事、
聞いておくよ。」
「良いんです。こちらこそお店の邪魔してしまってすみませんでした。」
唯はそう言って頭を下げた。
「いいよ、気にせんでも。」
「あの〜、おじさん。零さんのお母さんに線香あげていっても宜しいですか?」
「ああ、良いよ。そうしてくれると直利も喜ぶと思うから。」
啄石はプラモを取ろうと手を伸ばしながら、快く唯ちゃんの申し出を承諾してくれた。
「ありがとうございます。それじゃあ、失礼します。」
唯はそう言うと啄石にお辞儀して勝手口から入って行く。

唯は何度も零の家に遊びに行っているので大体の部屋の構成は知っていた。
仏壇のある部屋までまっすぐ行って仏壇の前で正座をする。
仏壇には直利の写真が飾られていたので唯はそれをじっと見つめる。
その表情には零と同じ顔つきで凛々しさがあったが、その一方でどこか優しさや穏やかさを感じさせられた。
唯は線香に火をつけると、かすかに独特の香りを出し、うっすらと煙が昇っていって昇華する。
その中で手を合わせ静かに目を閉じて合掌する。
(お花と帽子…ありがとうございます…帽子…大切にしますから…)
まだ、帽子が零くんの物かは推測でしかなかったのだが、合掌している間、自然と唯は心の中で直利に
向けて語り掛けていた。
唯は焼香をし終わると部屋を出て、店番をしている啄石に声をかけ挨拶する。
「どうもお邪魔しました。今日はこれで失礼します。」
「いえいえ、零が帰ったら帽子の事、言っておくからね。」
そう言ってくれる啄石に対して唯は笑顔を見せてお辞儀をし、一堂家を後にした。
結局、帽子の持ち主が誰なのかはハッキリしないままだったが、それよりも零さんとの間に小さな思い出が
1つあった事が唯にとって凄く嬉しかった。
ふと、唯は歩くのを止めて上を見上げると雲1つなく澄んだ青空が広がっている。
そんな時、そよ風が唯の身体を通るように吹き抜ける。
唯はハッとなり、辺りを見回したが誰もいなかった。
何と言っているのかは判らなかったが、誰かの声がそよ風に乗って聞こえて来たような気がした。
(気のせいだったのかな…)
唯は周りに誰もいないのを改めて確認すると時計を見ると時計は11時を回っていた。
「やば〜い、お昼ご飯の支度しないと。遅くなるとお父さんうるさいし…」
そう呟いた唯は慌てて駆け足で家に向かっていった。

【帽子 ‐ あとがき】 へ続く

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