【 第 4 章 】−(3)
〜1年半前、大阪〜
6月も後半にさしかかったある日…唯維ちゃんは大阪で生活するようになって3ヶ月経過しようと
していた。この日は零くんに食事に誘われていたので、一度学校から戻った後、いつもの
待ち合わせ場所にしている公園へ向けて走っていた。
零くんは高校を卒業してからの進路は決まってなかったが、すぐに大阪の親戚の家で実家の
稼業を継ぐための修業の一環として住み込みで働く事にした。その為、頻繁に2人はなんとか
スケジュールをやり繰りして一緒に過ごす時間を作っては楽しく過ごしていた。
唯維ちゃんはそういった時間に幸福を感じており、特に今回はお互いの都合が合わず2日ぶりの
再会となるので楽しみにしていたのだが、学校から帰るのが予定より大幅に後れてしまった。
自らの不注意を心の中で叱責しながらも走り続け、ようやくいつもの待ち合わせ場所に
なっていた公園まであと交差点を越える所まで辿り着いた。
唯維ちゃんは吹き出した汗をハンカチで拭って息を整えながら公園の方に視線を向けると
道路向こうの公園の入り口で零くんが佇んでいた。
相変わらず、ストレートに流している髪の毛をうっとうしいそうに手で掻き分ける仕草を
見せている。何度か床屋にいって短くしたら言った事があるがそれだけは何かと理由をつけては
拒んでいた。
「零さーん」
唯維ちゃんは零くんの姿を見かけると道路越しに手を振って呼びかける。
零くんも唯維ちゃんの声に気が付き振り向き、手を振り返して応える。
唯維ちゃんはそれを見てホッとしたのか、ゆっくり横断歩道を渡り始める。
しかし、唯維ちゃんは遅刻してしまった事に対する後ろめたさか、又は焦りからか
気付いていなかった、既に薄暗くなって見づらくなっている車道の向こうから
トラックが向かって来ている事を…トラックの運転手は唯維ちゃんが飛び出している事に
気付き、慌ててブレーキをかける。
キキキキキ…と悲鳴のようなブレーキの音に気づいた、唯維ちゃんは振り向くと既に目の前に
トラックが迫ってきていた。表情は凍りつき、脚はすくんで一歩も動けず一瞬でもう駄目だと悟った。
「危ない!!」
零くんの声と共にドンッと鈍い音と共に唯維ちゃんは飛ばされ、倒れてしまい気を失うが
すぐに眼を覚ます。
半身起こして、自分の身体を確認するが何ともなかった。唯一、右腕に擦り傷のような
ものができていて赤くにじんでいた。
そして零くんの事が気になり周りを見回すと、その光景に頭を殴られたような衝撃を受ける。
トラックの前で仰向けになって倒れている零くんの姿があった。
運転手が安否を気遣うように必死に呼びかけしている。
唯維ちゃんは、立ち上がるとよろよろと覚束ない足取りをしながら零くんの元に近づく。
既に血の気を失せた表情をしながら…
「零さん!零さん!!」
唯維ちゃんは身体を動かさないように気をつけながら右手を両手で握り必死に呼びかける。
「やあ…無事…だったん…だね」
零くんはその声に反応したのかうっすらと眼を開け、笑みを浮かべながら応える。
「ごめんなさい、ごめんなさい!!あたし…あたし…」
叫ぶようにして唯維ちゃんが呼びかける。眼にはすでに涙を浮かべ、そこから溢れ出た
涙が握っている零くんの手に当り小さく砕け散る。
「唯維ちゃん…無事で…よか…った。」
「何、言ってるのよ!だからと言って零さんが怪我しちゃったら、あたし…」
「この前も…言ったじゃないか…大丈夫だって…任せろ…て言った…ろ」
悲愴感漂う唯維ちゃんを零くんは笑顔で力一杯、励ますように言ってからゆっくりと眼を閉じた。
「零さん…零さん…ううっ…」
唯維ちゃんはそれ以上何も言えず、ただ泣きじゃくるだけだった。
数分後、誰かが通報したのかパトカーや救急車のサイレンの音が聞こえてくる。その間に零くんは
事故による衝撃からか血の気が失せていくように見えたので唯維ちゃんは右手をしっかり
握り締めながら涙混じりの声で懸命に何度も呼びかけ続けた。
救急車が到着した時には既に騒ぎを駆けつけ十数人くらい野次馬等が集まっていた。
救急隊員が野次馬等を掻き分けて零くんを慎重に担架に乗せて救急車の中に運び入れる。
唯維ちゃんも救急車の中に同乗する。
救急隊員の人が素早く、零くんに止血作業などの必要な応急処置をする、その甲斐あってか
零くんは再び息を吹き返す。
「ここは…」
「救急車の中。今、病院に向かっているの。」
薄目をちらっと開け小声で零くんが話し掛けるので唯維ちゃんは少し安堵した表情で言った。
「そうか…私は車に…跳ねられた…のだ。あんまり覚えてない…のだ」
「もう、大丈夫よ。ケガも大した事無いからすぐに治るからね。」
唯維ちゃんは無理に笑顔を作って零くんを元気付けようと励ます。
「いや…もう駄目かも…しれないのだ…もし…自分が…」
「零さん…何…バカな事言ってるのよ。絶対に死なせたりさせないから、もし死んだりしたら
あたし…他の人と探すからね。」
「唯維…」
少し驚いたのか、零くんは薄目で視線だけ動かすようにして唯維ちゃんを見つめる。
「そして…あたしを置いていった零さんが後悔する位、その人と幸せになるんだから…
だから…死なないで…お願い…やっと、やっと一緒になれたんだから…。」
眼に涙を浮かべ、唯維ちゃんは必死に零くんの意識を保たせようと訴えるようにして話しかける。
しかし、零くんは唯維ちゃんの言葉に対してうっすらと微笑みを浮かべたが、何も
語らずに静かに瞼を閉じる。
「零さん!零さん!!」
唯維ちゃんは呼びかけるが返事がない。同乗している救急隊員がすぐに容態を確認する。
まだ心臓は停止していないが、意識も混濁してかなり危険な状態であると説明されると
唯維ちゃんは俯いて何もしてあげられない無力感と絶望感に包まれ、そして大粒の涙をこぼし、
嗚咽を漏らした。
救急車が病院に到着する数分間、唯維ちゃんはまだ暖かい零くんの手を握り締めながらも
うなだれてその顔を上げる事は出来なかった。
病院に到着した零くんはすぐに病院内の緊急用の手術室に直行し、(手術中)の赤い
ランプが表示され、唯維ちゃんは1人、部屋の外で。待たされる事になった。
やがて、連絡を受けた零くんの家族や大阪で零くんの住み込み先となっている親戚など
集まってくる人達は皆、悲痛な表情をしている。唯維ちゃんは気丈に振舞って零くんの
親戚たちが病院を訪れる度に事故について説明などをしていった。病院を訪れた家族や親戚の
人達は交替交替で手術室前の廊下で零くんの安否を気遣うように待っていたが、唯維ちゃんは
零くんの容態を心配し手術が終わるまでの間、10時間、唯維ちゃんにとってはそれ以上に
長く感じられたが1人でそれに耐え一睡もせずにじっと待ち続けていた。零くんの
快復を願いながら…
そして、零くんが手術室に入って10時間後、(手術中)の赤いランプが消え、主治医が
扉を開け、唯維ちゃん達の前に姿を現した。
「先生、零は大丈夫なんでしょうか?」
零くんの父が心配そうな表情で尋ねる。その後ろでは唯維ちゃんが心身とも疲れていたが
それを表情には少しも見せず、固唾を飲んで見守っていた。
「手術は成功し最悪の状況だけは避けられましたが、症状が重い事に変りなくまだ
予断を許しません。今後の経過を見ていかなければなりませんが、しばらくは安静が
必要です。」
医者がそう言うと手術室の扉が大きく開かれ、零くんが運ばれる。
唯維ちゃんがそれに付いて行きながら呼びかけるが零くんからの返事は無かった。
そして、そのまま治療室に移され無機質な音と共に唯維ちゃんの前で扉が閉まる。
そして入院して2週間後零くんは一般病棟へ移された。
唯維ちゃんはその間、1日も欠かさずスケジュールを調整しながら病院を訪れるが
快復した零くんの声を聞くことはできなかった。
症状は快復しているし、懸念された頭へのダメージもなく正常で事故の後遺症も
恐らく無いとの医者の診断であったが零くんが目覚める事はなかった…。
それから1週間後、唯維ちゃんは零くんのいる病室にいつもの様に見舞いに行くと零くんの
両親が先に見舞いに来ていた。
まだ、零くんは症状が少しずつ良くなっているものの、一度も眼を覚ましておらず
眠り続けている。丁度、唯維ちゃんと出会ったのを期に今後について相談をした。
「唯維ちゃん、済まないね。君に迷惑ばかりかけてしまって…」
唯維ちゃんは入院してからの3週間、1日も欠かさず時間のある限り献身的に零くんの
見舞いと看護をしてくれたので、その事に感謝して頭を下げた。
「いいんですよ、お気になさらなくても。あたしも早く零さんには元気になって
もらいたいんです…。」
「しかし、君にも学校とかアルバイトとかしなければいけない事が色々あるだろうに…」
「学校は今でもなんとかしてますし、バイトは零さんのお見舞いにいけない時間帯に
してますから平気です。それに今のあたしには早く零さんに元気になってほしいだけですから…」
「そうかい…本当に済まないね。何か私等にもできる事があれば相談して欲しい。
それに・・・君はまだ若いんだから無理にいつまでも零の事を気遣わなくてもいいからね。
君みたいな娘ならきっといい人がすぐに見つかるだろうから、あの零には勿体無いくらい
だよ。」
(でも、あの時の事故はもしかしたらあたしの方が死んでいたかもしれないんです。あたしの命は
零さんに貰ったような物…あたしにとってあの人は最初の4年間は憧れでこの3ヶ月は恋人として…
この先はどうなるかわからないけど最後まであの人の側にいたいんです。)
と口には出さず、心の中で唯維ちゃんは語りかけた。
「ありがとうございます…今日はこれで失礼します。また明日も伺います…」
唯維ちゃんは頭を下げて述べると同時に零くんの世話を家族の人に任せて病室を後にする。
通路にカツンカツンという音を響かせながら、唯維ちゃんは1人廊下を歩いていく、
もう夕暮れ時で廊下全体は暗く後ろから夕日が指しこみ出口に向かって長い影を
作っていた。歩く度に先頭の部分が周りの暗がりに同化していき形を失っていく、
それを見ながら歩く唯維ちゃんはまるで自分を示しているような気がしたので苦笑し、
後ろを振り向いた、歩いてきた廊下の一番窓側の部屋で零くんが眠っている。その窓から今にも
沈もうとしている夕陽がはっきりと見えた。
(零さんはあたしにとって太陽のような存在だったかもしれないな…けど、今の零さんはまるで
あの太陽のよう…)
唯維ちゃんは廊下で零くんの部屋の方へ振り向きながら心の中で呟くも、暗い事ばかり考えてしまう
自分を自己嫌悪して頭を振ってその思いを追い出そうとする。
そして前を向いて出口に向かって歩いていった。
…その後、唯維ちゃんはと零くんの時はその後1年以上、止まり続けていた…。
【第4章】 - (4)へ続く