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第18回 東谷研究(前編)
平成15年11月3日(文化の日)


 今回は根付師・鈴木東谷(すずき・とうこく)について3回シリーズで報告する。
 明治時代に活躍した東谷は、当時から最も優秀な根付師として内外で知られていた。明治維新後の根付需要の減退のため、他の根付師が総じて置物や煙管筒の製作にいそしんでいた頃、独り「時代彫り」という古いタイプの根付を研究し、製作していた。多様な素材を寄せ木細工的に象嵌する東谷作品は、当時から人気があり、現在でも海外オークションで一体が数十万円、数百万円という高値となっている。今回の調査研究により東谷の略歴がかなり具体的に判明した。

前  編 中  編 後  編

 ■東谷の生年
 ■東谷の写真
 ■「東谷」「普随」「楳立」の銘の由来
 ■東谷の生地
 ■東谷の少年時代と開業

 ■開業後の居住地
 ■東谷の住んだ家
 ■東谷の師匠
 ■竹陽齋友親らとの関係      
 ■東谷の取引相手
 ■東谷の弟子

 ■東谷根付の特徴
 ■東谷根付の分類
 ■東谷初期の作品
 ■東谷後期の作品
 ■東谷3代の彫銘の識別     

 ■東谷略歴表
 ■参考文献





東谷の生年

 昭和55年11月発行「根付の雫」第7号には、日本根付研究会会長の関戸健吾氏が『東谷について』と題して、東谷の略伝を大正元年に記した文書(以下「関戸氏資料」)を示されている。

 生年については、この関戸氏資料には弘化2年(1845年)と記されているが、マイナーツハーゲンのカードインデックス(以下「MCI」)には1846年生まれと記されている。生年に若干の混乱があるようであるが、東京府勧業課が明治12年に編纂した『東京名工鑑』には、調査時点での東谷の年齢は"34歳"と記録されている。この資料は数え年の年齢なので、関戸氏資料の1845年が正しい生年であろう。

 没年については、MCIは1913年(大正2年)と記載し、東谷二代目及び三代目に引き継がれた、と記載している。この情報を得たソースは不明であるが、THE JAPAN MAGAZINE(明治43年)の記事で「65歳の高齢であっても、まだ壮健で達者。家業に忙しく従事している。」と生存中の東谷が紹介されている。また、「行年六十六齢東谷鈴木普随」と刻された煙管筒が郷コレクションに存在している(「根付の雫」2004年第51号)。よって、少なくとも66歳以上は生きていて、晩年近くまで現役だったようだ。




東谷の写真

 晩年に近い貴重な東谷の写真が、THE JAPAN MAGAZINEという英字雑誌に掲載されている。

 THE JAPAN MAGAZINEは明治・大正期の外国人向けの代表的な日本紹介雑誌で、東京のジャパン・マガジン社が月刊で発行していた。創刊は明治43年である。1冊50銭で、年間契約では4円50銭、海外には年間6円で発送していた。

 当時の日本の政治、経済、文化、芸能を広く取り扱っていて、日本の植民地政策に関する記事から印篭、かんざし、箸、鎧などの工芸分野、古今集、竹取物語、伊勢物語などの古典分野、刺青、芸者、武士道、京都の都踊り、ハラキリ、小泉八雲などに関する様々な記事を掲載していた。

 東谷が紹介されているのは明治43年3月号で、根付を紹介する6ページの記事の中で写真とともに"最も偉大な現代の根付師"と掲載されている。著者はH.A.E.Jeahneという名前だが詳細は不明である。記事の英文法に少々難があるので、英語圏以外からきた外国人だと思われる。

THE JAPAN MAGAZINE(明治43年3月号)
表 紙
THE JAPAN MAGAZINE(明治43年3月号)
目 次


 収録されている写真は東谷65歳頃のもので、日の照る明るい縁側で座布団に座って作品を製作しているシーンである。白布を敷いた四角盆を膝の上に置いている。現代根付師の駒田柳之氏によると、これは昔よく使われた作業台で、東谷の目の前にある台(角がへこんでいることから、おそらく太い幹から切り出したもの)に盆のような作業台を差し込んで使用するものだろうとのことであった。

 左手には製作途中の荒突き段階の作品、右手にはヤスリのような先が鈍角の棒状のものを持っている。作品の材質は、白いので象牙だと思われる。

 駒田氏によると、この東谷の座っている位置は写真は撮影のためにセッティングされたもので、本来は部屋の別の場所がいつもの作業の定位置ではないかとの指摘があった。確かに東谷はゴツゴツした敷居の上に座っており、安定性が悪い。太陽光を照明にするためにわざわざこの位置まで移動させたのだろう。

 手は血管が浮き出てしわくちゃだが、とても大きな手をしている。顔はきりりと締まり、姿勢良く端正に作品に目を落としている。顔は面長だが団子っ鼻である。右前の和服であり写真が裏焼きされているおそれはないため、東谷は右利きであったことが分かる。

 周りには道具箱らしい箱がござの上に置かれ、手前には金唐革のたばこ入れと木刻煙管筒の一組が置かれている。火鉢入りのたばこ盆が置かれているので、これは東谷所有の煙草入れだと思われるが、ひょっとしたらこれから誂える根付の見本用にと側に置かれていた可能性もある。たばこ盆の中には火入れと灰吹が見える。道具箱の上には、染料入れらしいお椀と湯飲み、筆が置いてある。奥の方には土間と重ねられた篭が見える。

東谷65歳の写真




「東谷」、「普随」、「楳立」の銘の由来

「東谷」の由来

 東谷の本名は鈴木鉄五郎である。関戸氏資料によれば、彼が「東谷」という業名を付けた理由は、

 1.生を
宰府天満宮(現在の亀戸天神社)の氏子に受けたこと、
 2.書を
(とうか)という師に学んだこと、
 3.
端(江戸の東の意味)の金龍山浅草寺の近隣地の東谷という所に居住していること

から「東」に因むことが多いこともあり、浅草の東谷という地名から「東谷」と号したという。

 今回、この関戸氏資料の裏を取ることができた。台東区が編纂した『下谷浅草町名由来考』によると、浅草の「東谷」とは正式な地名ではない里俗
(地域の人たちが使用した俗称のこと)であり、当時の浅草寺を中心とした浅草公園の地域に「北谷」「東谷」「南谷」という俗称があったという。いずれも江戸時代に浅草寺の子院があったところで、本堂からみてそれぞれ北側、東側、南側に位置していたからそのように名付けられていた。

 東谷の開業後の住所は、『東京名工鑑』の記録により「浅草區馬道町四丁目」(現在の花川戸1丁目北部と2丁目の南部一帯)であることが分かっているが、この場所は『下谷浅草町名由来考』によると、

  ”本町(四丁目)は里俗東谷と呼ばれた地の南側、南馬道町と北馬道町のそれぞれ一部で構成された。
   東谷は浅草寺子院街とその門前町屋で、東京都志料によると浅草寺地中上地町屋といった。


と記録されている。

 よって、関戸氏資料や『東京名工鑑』等の資料に基づき、「東谷」の号は東谷の開業の地である浅草寺東側の「東谷」と呼ばれる地名から由来するものであることが確認された。



「楳立」の由来

 東谷が「楳立
(ばいりゅう)」と陰称した由来は、生地(本所林町)の氏神天神の定紋である「梅鉢」から来ている。「楳」は「梅」の古字である。梅鉢紋(うめばちもん)は菅家の紋、すなわち菅原道真の紋であって、天神様の社紋である。

 東谷の生地である本所の天神といえば、亀戸天神社(東京都江東区亀戸3丁目6番1号)のことを指している。明治6年に亀戸神社と正式に号するまでは東宰府天満宮又は亀戸宰府天満宮と称され、信仰厚く、行楽の名勝地としても喧伝され、本所地区の丑寅鬼門の鎮守として信仰を集めていた。東谷生地の本所林町から北東方向に直線距離で約2kmの所に位置している。

 楳立と陰称した由来を考えると東谷の信心深さがうかがえる。梅鉢紋をそのまま根付に付するのは恐れおおいため古字をトレードマークとしたのであろうか。

亀戸天神社 亀戸天神社の梅鉢紋




「普随」の由来

 東谷は古人の作品を慕い、専ら竹陽齋友親の作を習い、更に法實、寿玉、楽民等の先哲の技を学んだ。このことから「普随」と号することとした、との略歴が関戸氏資料に記されている。THE JAPAN MAGAZINEの記事でも、”友親、法實、懐玉齋を非常に尊敬していた”と紹介されているので、この由来は真実だろう。

 漢字の「普(ふ、あまねし)」は、すみずみまで行き渡り広がる意味があり、「随(ずい、したがう)」には、従い、なるままに任せ、先行者のするとおりに付いて進むの意味がある。「普随」を「付随」にかけて、先人の業績やワザを広く敬い従うの意味を持たせたのだろうか。古典的な時代彫を特徴とした東谷らしい業名である。

 今回の調査で実は、「普随」にはもう一つの別の由来がある可能性を探し当てた。

 浅草寺本堂の東側には二天門という門が立っている。東谷が開業した後に住んだ家からわずか180mの距離にある。これは元和4年(1618年)に東照宮を境内に勧請した時の将軍参詣の門で、戦災から免れ、今では国の重要文化財に指定されている。掲げられている三条実美書の扁額には「二天門」と書かれているが、実は、この門の通称は「随身門(随神門)」なのである。

 嘉永6年(1853年)の浅草絵図では「随身門」と記されていることから、一般には「二天門」ではなく随身門と呼ばれていたことが分かる。随身門とはお寺の仁王門に相当し、神社を守護する門守神(かどもりのかみ)を安置した神門のことである。よって、「普随」は、先達に敬意を表して号したという説明に加えて、居住した家の前に位置する随神門に因んで、信心深い東谷が神を敬う意気から号した可能性もある。

浅草寺東京都台東区浅草2-3-1

浅草寺 随身門(二天門) 外側より 浅草寺 随身門(二天門)内側より





東谷の生地

 関戸氏資料によると、生まれた場所は江戸本所林町と記載されている。現在の東京都墨田区立川(たてかわ)1丁目16・17番地又は2丁目11・12番地、又は3丁目15番地が昔の本所林町に該当する。

 JR両国駅と錦糸町駅の中間にあり、東西に流れる竪川
(たてかわ)という川の脇に位置する。「立川」という地名は、堀割としてつくられた「竪川」から来ている。ここは江戸の中心部から見て東部に位置していて、東谷が開業後に居住した浅草地区から隅田川を渡った対岸一帯が本所(ほんじょ)である。THE JAPAN MAGAZINEの記事にも「本所区で生まれた」と紹介されているので、生地は本所林町で間違いないだろう。

 明暦3年(1657年)の振袖火事がきっかけで江戸がほぼ全滅、10万人余りの命が奪われた後、防火対策中心の都市復興に着手し、武家屋敷などの移転先に選ばれたのがこの墨田区南部一帯である。本所奉行を中心に、竪川・大横川・南北割下水の開さくや区画整理を進めた結果、武家屋敷を主とする市街となった。

 現在の立川の一帯は、中小の自動車修理工場や鉄工所、問屋が並んでいて、竪川の上には首都高速が走っており、当時と比べるとかなり様変わりしている。

東谷の生地周辺墨田区立川1丁目周辺 生地周辺(立川1丁目16番地)


 ちなみに、元禄15年(1702年)に大石内蔵助以下47名の赤穂浪士が討ち入った吉良邸があった本所松板町(墨田区両国)は、竪川を挟んで本所林町の斜め対岸に位置する。東谷の生まれた場所からわずか400mである。また近所には相撲で有名な両国回向院もあった。東谷の小さい頃は、親から赤穂浪士の話を聞かされ、回向院相撲に連れて行ってもらったことだろう。

吉良邸跡(墨田区両国3丁目13番8号) 現在は小さな公園になっている





東谷の少年時代と開業

 東谷は木炭商の息子として生まれたという。しかし、13歳で父と死別し孤児として取り残された。関戸氏資料には「13歳で父と死別」とのみ記されているが、THE JAPAN MAGAZINEには「13歳で孤児になる」と紹介されている。おそらく、13歳で父と死別した時には、既に母親は亡くなっていたのだろう。

 死別後、父の知人の古物商に就いて奉公、常に美術彫刻物を取り扱っていた。古物商といっても古着や雑貨といった物ではなく、良質な古道具や美術品を扱う商人だったらしい。当時の古物商や嚢物商は、本所の対岸の日本橋や浅草橋近辺に集中していたので、おそらくこのあたりの古物商の奉公に入ったと思われる。日本橋や浅草橋は、生地から隅田川の両国橋を渡って20分くらいの距離ではあるが、古物商の家に住み込みで奉公に行ったのだろうか。


隅田川の両国橋(上は首都高速道路)
生地から日本橋までは歩いて20分。
東谷はこの橋を渡って奉公に通っていたかもしれない。
両国橋上本所方面から浅草橋方面を見る



 その後、東谷は独立して煙草具嚢物商となり、開業中の19歳の時に根付彫刻の勉強を始めた、と記録されている。東谷が根付師を志したのは、古物商の奉公のなかで美術彫刻の趣味を覚えたのがきっかけである。

 東谷は根付師としての開業後も長い間、煙草具嚢物商を兼業していたようだ。明治13年(1880年)の『東京商人録』によると、神田区仲町1丁目15番地(現在の千代田区外神田3丁目周辺)の古道具商として鈴木鉄五郎の名前が記されており、東谷本人(当時35歳)のことだと思われる。東谷の根付師としてのスタートは、師匠に就いて伝習した他の根付師より10年の遅咲きだった。開業直後はさほど根付が売れず、古道具商を営業しながらコツコツと腕を磨いていった。

 ちなみに、この仲町の隣の旅篭町には、横浜貿易商で有名な三河屋幸三郎が開く三幸商会があった。この人は上田令吉が『根付の研究』で紹介しているペリー来航の際の根付売買で有名な人だが、後に貿易商として成功した。彫刻家の高村光雲も貿易品の形彫を三幸商会から4、5年間請け負っていた時期もあったという。


 ところで、『東京名工鑑』には、名工たちの博覧会(内国勧業博覧会、ウィーン万博、パリ万博)への出品及び受賞の状況が刻銘に記載されている。当時の日本は殖産興業政策を推進中で、特に上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会(明治10年)には、役人が職人のところに直接勧誘にやって来て、博覧会の趣旨や出品手順を詳しく説明して歩き回ったという。出品勧誘を受ければ面倒くさがって辞退する者もいたが、世話焼きが功を奏してか大抵は応じていたようである。

 しかし東谷はこれらのどの博覧会にも自分の作品を出品しなかったようだ。東谷はなぜ出品しなかったのだろうか。俗事にとらわれず、受賞で経歴に箔を付けることにも興味を持たず、ワザの開発にせっせと研鑽を重ね、注文主の依頼のみを黙々とこなす独立志向の職人だったのだろうか。それとも、根付は当時博覧会で歓迎された品種(輸出向きの置物、額、花瓶等)に向かなかったので、しなかった可能性がある。




中編後編

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