没年については、MCIは1913年(大正2年)と記載し、東谷二代目及び三代目に引き継がれた、と記載している。この情報を得たソースは不明であるが、THE
JAPAN MAGAZINE(明治43年)の記事で「65歳の高齢であっても、まだ壮健で達者。家業に忙しく従事している。」と生存中の東谷が紹介されている。また、「行年六十六齢東谷鈴木普随」と刻された煙管筒が郷コレクションに存在している(「根付の雫」2004年第51号)。よって、少なくとも66歳以上は生きていて、晩年近くまで現役だったようだ。
晩年に近い貴重な東谷の写真が、THE JAPAN MAGAZINEという英字雑誌に掲載されている。
THE JAPAN MAGAZINEは明治・大正期の外国人向けの代表的な日本紹介雑誌で、東京のジャパン・マガジン社が月刊で発行していた。創刊は明治43年である。1冊50銭で、年間契約では4円50銭、海外には年間6円で発送していた。
東谷は古人の作品を慕い、専ら竹陽齋友親の作を習い、更に法實、寿玉、楽民等の先哲の技を学んだ。このことから「普随」と号することとした、との略歴が関戸氏資料に記されている。THE JAPAN MAGAZINEの記事でも、”友親、法實、懐玉齋を非常に尊敬していた”と紹介されているので、この由来は真実だろう。
JR両国駅と錦糸町駅の中間にあり、東西に流れる竪川(たてかわ)という川の脇に位置する。「立川」という地名は、堀割としてつくられた「竪川」から来ている。ここは江戸の中心部から見て東部に位置していて、東谷が開業後に居住した浅草地区から隅田川を渡った対岸一帯が本所(ほんじょ)である。THE JAPAN MAGAZINEの記事にも「本所区で生まれた」と紹介されているので、生地は本所林町で間違いないだろう。