第19回 東谷研究(中編)
平成15年11月7日
前 編
中 編
後 編
■東谷の生年
■東谷の写真
■「東谷」「普随」「楳立」の銘の由来
■東谷の生地
■東谷の少年時代と開業
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開業後の居住地
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東谷の住んだ家
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東谷の師匠
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竹陽齋友親らとの関係
■
東谷の取引相手
■
東谷の弟子
■東谷根付の特徴
■東谷根付の分類
■東谷初期の作品
■東谷後期の作品
■東谷3代の彫銘の識別
■東谷略歴表
■参考文献
開業後の東谷の住所は『東京名工鑑』に「
浅草區馬道町四丁目五番地
」と記録されている。東谷34歳の住所であるが、現住所は
東京都台東区花川戸1丁目7番地
が該当する。
ここは浅草寺の真横に位置し、当時は浅草寺子院街とその門前町屋が集まっていた。家の斜め向かいには弁天堂が見えた。弁天堂には江戸時代に時刻を知らせる時の鐘の鐘楼があり、東谷は鐘の音を間近で聞いていた。
この場所は「東谷」の名前の由来であることから、開業当初の「東谷」の号を使用する根付師としての開業前からこの場所に住んでいたと思われる。さらに、ここが自分の「号」の由来地であることに鑑みれば、東谷はこの地を一生離れなかった可能性がある。
東谷開業後の居住地
(
台東区花川戸1丁目7番地
(浅草區馬道町四丁目五番地)
)
手前が現在の馬道通りで、浅草區馬道町四丁目五番地は
写真中央の部分になる。
東谷開業後の居住地
現在は駐車場になっている
内務省地理局作成『実測東京全図』(明治18-28年)が示す東谷の居住地
東谷の家は、浅草寺から見て東側の子院が集まる『東谷』と呼ばれる
地帯に位置していた。家は馬道に面し、前には弁財天が見える。
地図左の南北に延びる道は仲見世で、南にさらに行くと雷門がある。
家の建物は、浅草寺東側の
馬道
(うまみち)
と呼ばれる通りに面して建っていた。「馬道」の名前の由来は諸説あるが、浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場に行くおりこの付近を通ったところから"馬道"と呼ばれるようになったと伝えられる。
当時は、銀座方面からの遊里吉原通いで通る道であったり、小塚原の刑場へ行く道でもあった。随身門近くでは「大みつ」という名代な酒屋があって、剣菱、七ツ梅という銘酒を出し、チロリ(酒を暖める際に用いる金属製の円筒状の容器)で燗をして湯豆腐を食べさせたという。門前には富士屋という一流料理屋や朝帰りの客を呼ぶ蛤鍋の店、藪の麦とろの店が並んでいたという。
馬道をさらに北に行けば、歌舞伎の中村座、市村座、河原崎座、結城座などの芝居小屋が並ぶ猿若町があった。1842年に江戸市中の芝居小屋が浅草猿若町に一括移転させられたものだ。現在でもこの馬道は、毎年8月の賑やかな浅草サンバカーニバルや11月の東京時代祭でのメイン会場になっている。東谷が住んだ浅草寺子院と門前町屋が集まるここは、当時からとても賑やかな場所であったことが分かる。
同じ馬道には有名な町火消し「を組」の組頭、新門辰五郎(1800-1875)も住んでいた。辰五郎には3,000人の配下がおり、親しい徳川慶喜公の上洛の際には、一緒に京都に赴き身辺警護をしたという。
また、有名な
浅草凌雲閣(通称:浅草十二階)
が明治23年(1890年)に浅草寺横に建てられているので、東谷は家から浅草寺裏手に十二階を眺めていたのだろう。
浅 草 凌 雲 閣
凌雲閣登覧寿語六(三代国貞)
「東京電燈株式会社開業五十年史」より
浅草公園遊覧之図・揚州周延
(明治二四年四月、三枚続)
(印刷・発行 浅草区瓦町二番地森本順三郎 明治二四年四月十日)
Copyright (C) 2001 Hiromichi Hosoma (細馬宏通)
当時の家は、明治17年に参謀本部陸軍部測量局が作製した『東京五千分之一実測図』でおおよその概形を知ることができる。これによると、東谷が居住した家は一戸建てではなく、5,6世帯が入居できる通りに面した棟続きの長屋のような建物だった。
周りが料理屋などの商店であることを考えると、神田区仲町の古道具屋とは別に、馬道に面したこの家でも何らかの商売を営んでいた可能性がある。根付製造だけではなく、地の利を活かして浅草寺参拝客、芝居小屋や吉原に通う客相手に、袋物や煙管筒を商っていたのではないだろうか。とすると、通りに面した側には店舗のような縁台があり、裏手には土間や台所、縁側がある構造になる。
この東谷が住んだ長屋は建築したての新しい建物であったと思われる。というのは、慶応元年(1865年)に浅草一帯に大火事があり、浅草寺の南に位置する三軒町から出火して雷門を消失、馬道に延焼してから芝居町まで焼け込んだという。その状況は高村光雲の自伝に詳しく書かれている。
嘉永6年の『今戸箕輪浅草絵図』によると、この場所には以前は自性院地蔵や顕松院権現があった。一帯が焼け野原になって新興住宅(長屋)の募集が行われた時に、東谷はこの地へ移り住んできたのではないか。東谷開業の年は、実はこの大火事の年とほぼ一致する。
東谷の晩年に近い大正元年(1912年)の『地籍台帳』で確認すると、この土地の所有者は隣の番地に住む和田倉蔵(倉三)という者であった。『地籍台帳』とは、土地台帳に基づく一筆毎の地主の明細を添えた記録である。東谷が晩年もこの家に住んでいたと仮定すると、東谷はこの29坪の決して広くはない土地で、長く借家住まいしていたことになる。
弁天堂
東谷の家の前にあった
弁天堂の時の鐘の鐘楼
東谷には師匠がいなかったことが上田令吉の『根付の研究』に記されており、また、東谷三十四歳の時点で東京府が調査した『東京名工鑑』にも同様に記載されている。後者は直接本人から聞き取り調査をしたと思われるので、
師匠を持たずに自力で勉強した
、というのは事実であろう。
東谷は19歳から彫刻を勉強し始めた。二十歳前後というのは普通、師匠に弟子入りして年季が明けて独立する歳であるが、東谷の根付師としてのスタートは普通よりも10年遅かったようである。
東谷は専ら
友親
の作品を習い、更に
法實
や
寿玉
、
楽民(更に懐玉齋も含まれるとする説もある)
達の先哲の技を学んだという。この自習にあたっては、古根付や当時の傑作を模刻(imitating)した。彼が友親や法實、寿玉、楽民に尊敬の念を抱いていたので、主に彼らの作品が模刻の対象だったのだろう。東谷が古物商や
煙草具嚢物商
として根付や袋物を取り扱う際、彼らの根付に触れ、または自分の所有物として手に入れる機会があったのだろう。
友親 鍾馗と鬼 4.4cm 幕末・明治初期
(友親初代又は二代目の作)
東谷は有名根付師をただ真似るだけではなかった。関戸氏資料には、年月をかけて刀先で金・銀・銅・真鍮類を切る技術を会得したとある。硬質な各色の材料を寄木にして、古来には例が少ない寄木彫刻を超越した斬新な根付や印籠、煙管筒を開発した。
ただし、東谷は最初からいきなり傑作を製作できたのではなく、年を積みつつ技を上達させたと思われる。江戸時代の根付師の修行期間は平均して
9年間
も要している
(後述)
。19歳で彫刻を習い始めて、直ちに売れる作品を彫刻できたとは思えない。東谷の場合は、20代の後半頃からようやく一人前の根付師として作品が製作できるようになり、あの斬新な寄せ木細工を開発したのは更に後年のことであろう。
”東谷は師を持たなかった”としたが、全くの無の状態から根付彫刻を突然開業した、と断定することには無理があると思われる。プロの根付師とは何らかの交流や助力があって、技術を伝習する機会があったのではないだろうか。
東谷は19歳までに煙草具嚢物商を独立開業した。嚢物商は当時の東京には158店あり、その多くが日本橋区と浅草区に集中していた。嚢物商の役割とは、端的に言えば、客の注文に応じて職人に注文を出し、袋物の仕立て、根付、彫金、組紐、刺繍を総合的に組み合わせる
"コーディネーター"
であった。袋物を完成させるために仕立て職人、根付工、彫金工、組紐職人らを統括する立場にある。当然、根付師と交流の機会があった。東谷は友親達の先哲の技を学んだが、実習の機会は嚢物商の立場から得ていたのではないか。
東玉齋友政の居住地
旧馬道町4丁目11番地の近辺
実は、東谷と友親の関係を具体的に示唆する事実を発見した。
竹陽齋友親の弟子には、加藤正十郎という根付師がいる。業名は
「東玉齋友政」
である。初代友親の下で8年間修行し、明治元年(1868年)に独立し開業している。主に置物と根付を製作したという。『東京名工鑑』掲載の根付師であることからすると腕のある名工だったようだ。
歳は東谷の2歳下で東谷と同年代であるが、
実はこの友政、明治12年時点での住所は、浅草區馬道町4丁目11番地なのである。
この番地は東谷の家から直線距離で50mも離れていない場所であり、建物も東谷と棟続きか隣同士だった。東谷は表通りに面していたが、こちらは一本裏路地に入った番地である。お互いに顔を知らないはずはない。密接な近所づきあいがあったはずだ。ということは、東谷は友政を通じて友親と親交があったと考えてもおかしくはない。
また、当時の竹陽齋友親は、主に日本橋区本銀町二丁目の袋物商・
辻惣兵衛
という人物と、日本橋区横山町一丁目の
鈴木茂助
という人物から根付の注文を受けていたことが『東京名工鑑』の記録で分かっている。東谷の古道具屋(神田区仲町1丁目)と近隣の地にあるので、商売仲間を通じて友親を紹介してもらっていた可能性もある。
飴売り 東玉齋友政 6.1cm
余談になるが、東谷の生地や開業後の家から友親・法實の家へは、距離にして4〜6km程度の道のりがあった。東谷が技の伝習のために継続的に通うのは困難だろう。また、もし東谷が住み込みで修業していたのであれば、それは本格的な伝習であり、"師匠がいなかった"という記録は残らないはずである。よって、友親や法實からワザの伝習を継続的に長期間受けていたとは考えにくい。
友親は当時、
小石川區巣鴨駕籠町35番地
(現在の文京区本駒込2丁目29番地)に住んでいた。また、友親の弟子、雲鳳(小倉幸右衛門)も
巣鴨駕籠町38番地
に住み、友親の右隣に住んでいた。友親(山口鎮之助)が少なくとも大正元年までここに住んでいたことは、『地籍台帳』に35番地の約百坪の土地の所有者として自身が登記されている事実から判明している。
一方、明鶏齋法實は
小石川原町鶏聲ヶ窪
(文京区白山5丁目)に住んでいて、写真の白山通りの先に行った場所に住んでいた。友親と法實との距離は
わずか約600mの近所
であり、同時代に生きた彼らはお互いに親交があった可能性が高い。
竹陽齋友親の居住地
(本駒込2丁目29番地(巣鴨駕籠町35番地))
手前が現在の白山通り(中山道)で、旧35番地は
写真中央の茶色とビルとグレーのビルの部分になる。
竹陽齋友親の
居住地
隣奥が弟子の雲鳳が住んでいた駕籠町38番地。
右手の中山道を約600m先に行くと、法實が住んだ
小石川原町の鶏聲ヶ窪となる。
火災保険地図(小石川区、昭和12年11月)が示す友親の居住地
友親の35番地は中山道に面した約100坪の土地だった。上の地図では
35番地に6棟の家屋が建っている。この広い敷地に当時も工房経営のため、
母屋とは別の家屋が複数並んでいたと思われる。
地図上部の「府立第五中学校」は現在の都立小石川高校である。
道路の2本線は、当時の路面電車(市電)の線路。
参考のため、東谷の住所と、彼の同世代の友親一派、法實一派、寿玉一派、楽民一派の根付師たちの住所との関係を表の形式でまとめておきたい。
(出典:東京名工鑑)
下図によると、東谷の生地(本所林町)や開業後の住所(浅草区馬道町)からは、比較的近い距離に東谷が手本とした根付師一派が住んでいたことが分かる。東谷は師匠には就かなかったが、距離に換算したお互いの親交の可能性を考慮すれば、これらの根付師から短期的にでも技を伝習した可能性は大いに考えられる。
友親,法實,寿玉,楽民一派の根付師と東谷との距離関係
当時の住所 (現在の住所)
開業後の住所
からの距離
東谷の生地
からの距離
竹陽齋友親
小石川區巣鴨鳥籠町35番地
(東京都文京区本駒込2丁目)
※法實との距離は約600mの近所
約6.5km
約5km
東玉齋友政
(友親の直弟子)
浅草區馬道町4丁目11番地
(東京都台東区花川戸1丁目7番地)
―
約50m
明鶏齋法實
小石川原町鶏聲ヶ窪
(けいせいがくぼ)
(東京都文京区白山5丁目)
※友親との距離は約600mの近所
約5.5km
約4km
櫻井法一
(法實の直弟子)
下谷上車坂町29番地
(東京都台東区東上野7丁目1番地付近)
―
約1.8km
一光齋孝實
(法實の直弟子)
本所緑町
(東京都墨田区亀沢1〜3丁目の南側、緑1〜3丁目の北側)
約400m
―
一固齋静民
(楽民の直弟子)
深川東森下町43番地
(東京都江東区森下2丁目)
約500m
―
小野龍眠
(楽民の直弟子)
小梅村12番地
(東京都墨田区向島1・2・3丁目)
約2km
約700m
(いずれも明治12年当時の住所(法實を除く))
『東京名工鑑』には、東谷の「嘱品家」(注文主)として日本橋橘町四丁目(現在の中央区東日本橋3丁目付近)の
川口興兵衛
が記されている。
川口氏は横浜開港以来の
嚢物貿易商
であった。東谷は貿易商を通して外国人からの注文も受けていたようであり、MCIには英国のOscar Raphael氏が1910年に注文した「鶴に寿老人」の木刻根付が紹介されている。よって東谷根付も、日本人だけを相手にしていたのではなく、貿易品として当時大いに海外にも輸出されていたことが分かる。
30代の頃は専属に近い形で川口氏の注文に対応していたのだろうか。根付師の寺本元次郎(永齋)の嘱品家としても、この同じ川口氏が記録されている。東谷がどのようなきっかけで川口氏と知り合ったのかは不明である。
なお、THE JAPAN MAGAZINEの記事によれば、東谷は最も優れた根付師であり、コレクターの垂涎の的となっているが、存命中でさえも既にコピー品が出回っていると報告されている。当時の外国のコレクターは、そのカラフルで斬新かつ優美な作品を競って蒐集したという。このことからも東谷根付が貿易品であったことが分かるが、記事によると
初代の死後も貧弱なコピー品が数多く英国と米国に輸出された
という。
『東京名工鑑』には東谷の家業の状況は、「其事業曾テ盛衰ナシ」
(その事業かつて盛衰なし)
と記されている。19歳で開業してから34歳までは、良い取引相手にも恵まれ、特段に大きな変動なく、順調に根付製作を進めていたことが分かる。
『東京名工鑑』によると、明治12年(1879年)の
34歳の時点で既に4名の弟子を抱えている
と記録されている。その中には東谷2代目が含まれているかもしれない。また、MCIによると、光谷と幽谷、そしておそらく、廣乗、北亭(?)、吉秀も東谷の弟子であると解説しているので、これらの根付師が当時から弟子であった可能性がある。
この”4人”という数は、他の根付師と比較しても多い部類に入る。
明治初期には江戸時代の徒弟制度が続き、数名の弟子を抱えているのが通例であったが、全く弟子を持たない者もいた。弟子の数は、そのまま商売繁盛のバロメータであり、例えば、三代目舟月は幕末の最盛期には助工を15,6名を抱えていたが、明治に入ると需要減退や弟子の独立により1名に激減したという記録がある。
東谷が34歳の時点では、若くして神田区仲町に古道具商を構え番頭に店を任せていたと同時に、浅草馬道町では4人の弟子を抱えて盛んに根付を製作していた。他の根付師よりスタートが10年も遅かったにもかかわらずである。東谷は、商才と彫刻技術の両方持ち合わせた成功者だったといえる。
ちなみに当時は、変則的な例外はあるものの、
弟子入りはおおよそ10代前半に始まり、22歳頃に年季が明けて独立するのが通常だった。修行期間は平均して約9年間だった。
19歳から根付彫刻を学び始めた東谷は、他と比べてひとまわり遅れたスタートだった。
(出典:東京名工鑑)
根付師の弟子と修行期間
(明治12年現在)
年 齢
弟子の数
自身の修行期間
(独立開業の歳)
東 谷
34歳
弟子4名
― (19歳)
一固齋静民
44歳
門弟7名
12年間(23歳)
龍 眠
47歳
弟子1名
8年間(21歳)
旭玉山
38歳
弟子1名
― (25歳)
賞状齋州楽
37歳
弟子1名
10年間(21歳)
大石芳齋
52歳
長男、弟子2名
8年間(21歳)
谷 齋
45歳
弟子2名
4年間(27歳)
法 一
51歳
弟子5名
10年間(30歳)
寶眞齋(田中嶺玉)
42歳
門弟5名、傭工3名
― (24歳)
春 重
―
弟子9名
― (慶應2年独立)
江柳齋(鵜澤春月)
38歳
門弟10名
― (11歳)
竹陽齋友親
38歳
弟子2名
― (22歳)
舟月(三代目)
52歳
弟子1名
― (20歳)
龍光齋壽玉
64歳
弟子1名
3年間(21歳)
春江齋潮月
54歳
弟子1名
― (27歳)
石川豊勇齋光明
32歳
弟子3名
14年間(25歳)
蓮齋(二代目)
26歳
生徒2名
― (18歳)
東玉齋友政
32歳
弟子なし
8年間(21歳)
證龍齋政親
31歳
門弟2名
6年間(20歳)
橋 市
62歳
弟子1名
―
東 雲
53歳
弟子6名
15年間(27歳)
平 均 (21人)
43.6歳
3.5人
8.9年間(22歳
)
※出典:東京名工鑑、弟子を持たなかった根付師は掲載から除いてあるので平均的な弟子の数は更に少なくなる。