東谷初代は、約50年の活動期間中に数多くの作品を残した。明治時代の最初から終わりまでを通して活動期間があるため、維新直後の需要変化や外国人からの注文、自分の技術の向上に応じて、その種類や作風は多岐に渡っている。
東谷作品の特徴は、木刻を主体として、多様な素材を寄せ木細工的(mosaic)に象嵌する技法にある。
硬質の様々な色の材料を寄せ木して、鉄を除く金、銀、銅、真鍮を刀先で切る研究をして技法を自得したという。東谷34歳時点の『東京名工鑑』には、象牙彫り、角彫り、木彫り、金石彫刻を行う名工として紹介されているので、19歳から彫刻を始めたものの早い時期に多様な素材を使いこなす技術をマスターし、名工として頭角を現していたことが分かる。
あるコレクターは、東谷の控えめで要所をおさえた象嵌のことを、"バイオリンの名手が最も難しいカデンツァを普通の音階のようにいとも簡単に弾きこなすのと同じくらいに巧みなもの"と評している。東谷は象嵌を常に使用したわけではなく、度が過ぎて下品にならない必要最小限で使用し、意匠の表現の中で効果的なアクセントとして用いた。必要以上に派手で無益な寄せ木は、弟子やフェイクである可能性がある。
東谷は古道具屋を営む傍ら副業として根付彫刻をしていた。生活のためにあくせくと売らんがための安直な根付を製造していた他者とは異なる。探求心や向上心が強かったようで、未知の材料を象嵌する技術研究に励み、また開業後には師に就いて書道も勉強した。経済的に余裕があったことがうかがえ、これらの生活環境が総合して東谷に上品な作品を作らしめたのだろう。
『東京名工鑑』には、東谷の「流派」は「時代彫」と記載されている。友親や法實といった一世代前の流派を模した根付を製作していたので、このような流派名が記録されたのだろう。東谷は、古道具商を営み、時代を経た古い物の味や魅力を十分に理解していた。維新後の需要変化により他の根付師が総じて貿易用の置物や煙管筒への製作に移行していた時に、古い時代彫りをせっせと探求していたわけである。
東谷楳立銀印 搗屋 3.7cm 木刻象牙象嵌(共箱 東谷普随 楳立朱印) |
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搗屋(つきや)とは賃をとって玄米から白米に米つきをする人。
搗臼を転がしながら街上を回り、頼まれた家の前で拝み搗きをする搗米屋。
古典落語に「搗屋幸兵衛」という演目がある。
この作品は、両眼や搗臼の米に象牙が象嵌され、緑の染め鹿角で紐穴が補強されている。
さらに、臼の縁や底面の散らばった米(象牙)、臼の割れ目に補強用に打ち込んだ
鉄のかすがい(金属象嵌、2カ所)で細かい象嵌細工が施されている。
臼の割れは、本物のように見せかけた意匠のひとつである。
搗屋の体、臼、杵、褌などは複合的な寄せ木に見える。
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MCIには東谷の37の作品が記録されているので、東谷作品の傾向を知るには良い資料である。大部分の作品は木刻で、様々な種類の象嵌が用いられていると記録している。象嵌の種類は黒檀、椿、竹、象牙、角、貝、金・銀の金属類、漆、陶磁と多種であり、染めたものも時々使用したと記録されている。なお、37個のうち少なくとも6個は完全なイミテーションであると指摘している。
37個のうち5個が寄せ木のない象牙素材のみの作品で、うち4個が饅頭根付であった。寄せ木や象眼のない東谷作品は珍しい。根付以外には、銀漆に象嵌のデザインの"印籠"が3個あった。内訳は、1個が東谷63歳の時に製作した四段印籠で羅漢と鬼の図柄、1個が木製のトンコツ、1個が支那風の枝模様を施した象牙軸の金属煙管となっている。
更にMCIは作品の題材の分類も次の通り記録している。
達磨 4個、子供 4個、瓢箪などの植物 4個、寿老人 2個、能役者 2個、大黒 2個、おかめ 2個、鬼 2個、布袋 1個、大黒と福禄寿 1個、面打師 1個、侍 1個、猩々 1個、雷神 1個、天人 1個、亀 1個、(計30個) |
達磨や子供、瓢箪などの植物を題材とした根付が多く残されており、寿老人や猩々などの伝説上の題材も扱っていることが分かる。人物の形彫がほとんどで、動物単体の根付は皆無に近い。
(なお、このMCIのデータは、東谷作品の傾向を知る上で貴重なデータであるが、外国人が注文や収集したであろう作品に偏っていることと、初代と2・3代目の作が区別されていないので注意を要する。)
東谷はどこからこれらの題材を得たのであろうか。当時多くの根付師が手本とした『北斎漫画』の葛飾北斎は、浅草を中心として活動し元浅草4丁目の誓教寺の墓で眠っている。浅草寺境内には、東谷が実際に作品を残している石橋や四睡、猩々舞の大絵馬が掲げられていた。絵馬には他にも、予譲刺衣、韓信股くぐり、司馬温公水瓶割り、関羽、迦陵頻迦などがある。東谷はこれらからも題材のヒントを得ていたのではないだろうか。
東谷の初期は、象牙の饅頭根付や鏡蓋根付、浅草スタイル(谷齋風)の煙管筒を製作していたようである。
『東京名工鑑』は、開業当初は専ら根付を製作し、34歳の時点では「煙管筒 根付 緒締」を主に製作していたと記録している。明治維新の需要変動のため、明治6年以降は根付だけでなく煙管筒を製作していたという。明治初期は袋物の流行のおかげで根付よりも煙管筒の方が需要が多かった。
さらに、『東京名工鑑』には、東谷の得意分野は「草花・虫のたぐい」と記録されている。東谷の形彫根付はほとんどが人物像であるが、草花や虫がモティーフとなるには、饅頭根付や煙管筒の作品形式しか考えられない。すなわち、19歳で初めて彫刻を習い、友親らの作品を模刻しながら技術を上達させる途上の30歳代までは饅頭根付や煙管筒が主要作品であり、あの人物形彫りを発展させたのはそれ以降だと思われる。
初期の作品には、いわゆる浅草スタイルと呼ばれる鹿角の煙管筒や柳左根付が数多く残されている。
国際根付研究会のジャーナル(1984年、Vol.4, No.1)には、鹿角の煙管筒が紹介されている。草木を題材とした東谷34歳の作品で、「己卯作秋 楳立山人東谷 楳立金印」と刻まれている。典型的な浅草スタイルと呼ばれる様式の煙管筒である
人物形彫りへの寄せ木細工の技法を確立するまでは、谷齋や蓮齋が確立してきた浅草スクール似の製品を需要に応じて作っていたのだろう。東谷が開業した時は、既に谷齋は29歳で、蓮齋は初代が袋物につける根付の世界で活躍していた。メトロポリタン美術館には、谷齋風に崩した「東谷」銘の「鍾馗と鬼」形彫根付が2体収蔵されている。
MCIによると、東谷初期の作品は「象嵌のない象牙饅頭根付」だったと指摘している。そのイラストが2点掲載されているが、トレードマークの「楳立」刻印はなく、楷書体の「東谷」銘となっている。その刻銘の字は決して上手ではなく、後期作品の銘や箱書きに見られるような滑らかな草書体ではない。
マイナーツハーゲンは彫銘の形や象牙の古色などから初期だと判断したのであろうか。念のため、MCI以外のカタログに掲載されている東谷の別の4個の饅頭根付を確認したが、4個とも「楳立」は刻されていなかった。(Sotheby's
September 2 1993, Sotheby's November 18 1999, Netsuke Kenkyukai Study Journal)
名声が確立され国内だけでなく外国人からの需要が増えると、煙管筒等も製造していた東谷は、再び根付製作に回帰したようである。煙管筒も盛んに作っていたはずだが、現在筒があまり多く残されていないことを考えれば、後期は注文以外では滅多に筒を作らなかったのだろうか。
東谷後期と二代目以降の作品には、寄せ木の象嵌の技法に成熟感があり、主に木刻形彫の人物根付が作られた。よく観察しないと象嵌とは判別できない程度に控えめに入れる作品と、一方は寄せ木だと明示的に分かる大きさでカラフルに施された作品がある。外国人に対してはこの後者の派手でカラフルな象嵌が受けたようで、顧客の好みに合わせてスタイルを変えたのではないだろうか。
MCIには、英国のOscar Raphael氏が1910年に東谷に注文した「鶴に寿老人」が紹介されていて、唯一製作年代が特定可能な作品である。本体は木刻だが、寿老人の顔や手、脇にいる鶴は象牙でできていてカラフルな根付となっている。
東谷楳立銀印 搗屋 3.7cm 木刻象牙象嵌 |
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東谷の彫銘は、「東谷」、「東谷 楳立刻印」、「普随 楳立刻印」、「東谷普随 楳立刻印」、「東谷普随」、「楳立山人東谷 楳立刻印」、「楳立刻印」のように非常に多くのパターンを刻している。さらに「楳立刻印」は金、銀、赤(朱)の3種類がある。普通、根付師は、「銘」のみ又は「銘」と「書判」を用いるが、東谷は珍しく様々な銘や刻印を使い分けている。
東谷3世代の銘の見分け方としてブッシェルは、「楳立」の刻印の色について言及している。3代とも「東谷」銘を用いたが、印刻は初代は金色を使い、2代目は銀色のみ、3代目は赤色のみという説である。ただし、サンプルを調べたところ、初代の高い技術で製作されたと思われる根付には3色とも用いられているようであり、最終的にはあくまでも作品の技術と芸術性で判断すべきだ、と結んでいる。
一方、ロンドンの根付ディーラーであるSydney L. Moss社によると、初代は金・銀・赤色を使い、2代目は銀・赤色の2色、3代目は赤色のみという基準を説明している。が、これにも例外はあり得ると説明している。また、いずれにしても初代のみが「普随」を用いたとする別の観点の判断基準も説明している。
江戸・明治の日本で西洋オリンピックのような金・銀・銅(赤)の順位付けの概念が既に存在したかどうかは甚だ疑問であるが、「普随」は初代が先達を敬い付けた号であることから、直接初代から技を伝習した2代目3代目には「普随」と縁がなく、その号を使用しなかったとするSydney
L. Mossの鑑定基準は筋が通る。彫銘の判定のためには更なる研究が必要であろう。
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東谷楳立銀印 搗屋 3.7cm 木刻象牙象嵌(共箱 東谷普随 楳立朱印)
この「楳立」は銀刻印 |
年 |
歳 |
出 来 事 |
弘化2年(1845) |
- |
本所林町(墨田区立川)の木炭商の息子として誕生。
幼名、鉄五郎。生を東宰府天満宮の氏子に受ける。 |
安政5年(1858) |
13歳 |
父と死別。孤児となり父の知人の古物商に入る。
常に美術彫刻物を取扱い、そのなかで美術彫刻の趣味に開眼。
その後、独立して煙草具嚢物商となる。 |
文久4年(1864) |
19歳 |
根付類の彫刻を志し開業。
古人の作品を慕い、専ら竹陽齋友親の作を習い、更に法實、寿玉、楽民等の先哲の技を模刻により学び始める。硬質の様々な色の材料を寄せ木して、鉄を除く金、銀、銅、真鍮を刀先で切る研究。
書を東珂という師に学ぶ。
「東谷」の由来である浅草馬道町に転居。当初は専ら根付を彫刻。草花や虫を題材とした象嵌なしのシンプルな牙彫饅頭を製作。当初は「楳立」刻印を用いず。 |
明治6年(1870) |
28歳 |
この頃は維新後の需要変化のため主に煙管筒を製造。 |
明治10年(1877) |
32歳 |
第一回内国勧業博覧会には出品せず。 |
明治12年(1879) |
34歳 |
東京府の『東京名工鑑』に牙角木彫工兼金石彫刻の名工として紹介。
主に煙管筒、根付、緒締を製作。弟子は4名。
鹿角の煙管筒を製作。銘は「楳立山人東谷 楳立刻印」。 |
明治13年(1880) |
35歳 |
神田区仲町で古道具商を営業中と『東京商人録』に記録。 |
明治43年(1910) |
65歳 |
東谷に言及した記事がTHE JAPAN MAGAZINEに掲載される。当世一番の根付師と賞賛され、写真撮影。壮健でいまだ現役だと書かれる。存命中に既にコピー品が出回っているとの報告あり。 |
同年 |
65歳 |
イギリスのOscar Raphael氏、木刻の「鶴に寿老人」を注文。 |
大正2年(1913) |
68歳 |
東谷死去。東谷二代目に継承。 |
(1)上田令吉『根付の研究』の人名録
鈴木鐵五郎と称し東京に住す彫刻を好み師に依らずして自ら研究をなし文久二年門戸を開く、根付等の彫刻をなせしが其の聲價高く且牙角金石木何れも巧みなり、現在は其の三代目業を継げり(彫銘:東谷或は金属に東谷と銘し嵌入せり)。
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(注)聲價とは評判の意味である。
(2)『東京名工鑑』(東京府勧業課編、明治12年12月印行)
氏 名 |
牙角木彫工 兼金石彫刻 鈴木鐵五郎 業名:東谷 三十四歳 |
住 所 |
浅草區馬道町四丁目五番地 |
流 派 |
時代彫 |
所 長 |
草花 虫ノ類 |
製造種類 |
煙管筒 同根付 緒締 |
嘱 品 家 |
橘町四丁目川口興兵衛 |
助工人員 |
門弟四名 |
博覧會出品 |
― |
開業及ビ沿革 |
幼時ヨリ彫刻ヲ好ミ師ニ依ラズシテ其術ヲ自得シ今ヨリ十六年前ニ開業シ専ラ根付ヲ刻セシガ明治六年ノ頃ヨリ時ニ好ミ應ジ煙管筒等ヲ製造シ其事業曾テ盛衰ナシ |
(3)関戸健吾氏資料『東谷について』(昭和55年11月、「根付の雫」第7号)
東 谷 鈴 木 普 随 之 伝
弘化弐乙巳歳江戸本所林町に生る。幼名を鉄五郎と称す。父は木炭商にして十三歳の時父に別る。父の知人に古物商あり、その仁に就き、古物商を営む。常に美術彫刻物を取扱ふを以て自然美術彫刻の趣味を覚ゆるに至り煙草嚢物商となる。十九歳の時実地根附類の彫刻を志し、古人の製作を慕い専ら竹陽齋友親の作を習い、法実、寿玉、楽民等の先哲の技を学ぶ。以て普随と号す。勉めて彫刻業を励みたり年積で硬質なる各色の材料を寄木とし、刀先を以て鉄を除く金銀銅真鍮類を切る事を研究せる結果一個の古来少なき寄木彫刻の範を越し、是を根附印籠煙管筒等に施し古作になき一奇軸をなしたり。其傍ら書を東珂と云へる師に学び、生を東宰府天神の氏子に受け、東都の東端金龍山浅草寺の辺東谷と云へる所に住せる以て事□東に因む事多く依て地名を取り東谷と別号し、生地氏神天神の定紋の梅鉢なるが故楳立と陰称す。当年之□月□七年
大
正 元 年 第 桧 □ 月
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(注)適宜現代仮名遣い等に直した。
(4)THE JAPAN MAGAZINE(明治43年3月号、ジャパンマガジン社)
It is a great mistake to think that only among the old carvers
can good workmanship be found. There are still carvers in Tokyo to-day
who compare very favorably with those of the latter half of the nineteenth
century. Netsuke carved by Tokoku, who is without doubt the greatest living
carver, are much prized and sought after by collectors, and even at the
present time are being cleverly copied.
Suzuki Tokoku was born in the ward of Honjo in Tokyo. His early name was Tatsugoro*, and he was left an orphan at the age of thirteen years. When he was nineteen he learned for the first time the art of carving without the aid of a teacher, by imitating the masterpieces of the old and new carvers of netsuke. He held in high esteem the work of Hojitsu, Kwaigyokusai, and Tomochika, and gradually made himself a master of the art. He originated an entirely novel process, combining rare woods and metals in mosaic work, the result surpassing even that of the old makers. He may be ranked as one of the foremost carvers, either old or new, of Japan. Tokoku is also known by the names of Fuzui and Mairui**, and at the advanced age of sixty-five is still hale and hearty and busily engaged in his work.
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*Tetugoroの誤りと思われる。
**Bairyuの誤りか。 |
(5)参考文献
関戸健吾『東谷について』、昭和55年11月発行、「根付の雫」第7号
東京府勧業課編『東京名工鑑』、明治12年12月印行、有隣堂
東京都台東区『台東叢書第三集 下谷浅草町名由来考』、昭和42年3月
高村光雲『木彫七十年』、2000年10月、鞄本図書センター
金龍山浅草寺『絵馬図録』、昭和53年発行
内務省地理局作成『実測東京全図』、明治11年
内務省地理局作成『実測東京全図』、明治18-28年
参謀本部陸軍部測量局『東京五千分之一実測図』、明治17年
火災保険地図(小石川区)、昭和12年11月
東京郵便局『明治四十年一月調査東京市浅草区全図』、明治40年、大倉保三郎
平凡社『太陽コレクション「地図」江戸・明治・現代 江戸・東海道』、1977年2月
上田令吉『根附の研究』、昭和18年、金尾文淵堂
平野英夫『嚢物の世界』、1998年10月、葛@エ堂
横山錦棚、『東京商人録』、明治13年
東京市区調査会、『地籍台帳・地籍地図〔東京〕』、大正元年
Raymond Bushell, Collectors' Netsuke, Weatherhill(1971, 1977)
Paul Moss, Japanese Netsuke: Serious Art, Outstanding Works Selected from American Collections, Sydney L. Moss London (1989)
INS, Journal, Volume 19 No.4 Winter 1999
Netsuke Kenkyukai, Study Journal, Vol.4, No.1, 1984, p.33
Barbra Teri Okada, "Netsuke, Masterpieces from the Metropolitan Museum of Art", 1982, p.96
井戸文人編『日本嚢物史』、日本嚢物史編纂会、大正8年
THE JAPAN MAGAZINE、Netsuke、March 1910、JAPAN MAGAZINE COMPANY
Frederick Meinertzhagen, The Meinertzhagen Card Index on Netsuke in the Archives of the British Museum, Edited by George Lazarnick, Alan R. Liss, Inc., New York, 1986
Raymond Bushell, Netsuke Familiar & Unfamiliar, p.125, New York, Weatherhill(1975)
(東谷研究終わり)
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