おなかいっぱいの恋・2



 悪魔の名は、ティンカー・ベル。愛らしいその名前にはそぐわない、身長二メートル弱、胸囲は百二十センチを越える、いかつい大男である。
 黒髪に黒い瞳の持ち主で、何より目を引くのは、鮮やかなブルーの肌色だ。そのうえ大きな耳は尖り、頭の両脇には角、背中には羽、腰からは尻尾までもが生えている。
 そのような、見るからにファンタジーな生き物である彼の衣装は、ビジネススーツだった。そう、仕立てとセンスが良い以外は、その辺を歩いている男性が着ているのとなんら変わらない、普通のスーツである。
 「悪魔」という、人の常識からかけ離れた存在である彼が、なぜそんな畏まった格好をしているのか。そう問えば、当のティンカー・ベルは、「接客業に従事する者は、人並み以上に身だしなみを整えるべきだ」と返してきた。その答えを聞いたとき、景は彼のポリシーに感銘を受けると共に、悪魔は接客業だったのか……と、そちらに新鮮な驚きを感じたのだった。




 白飯にオムレツをのせて、「オムカレー」にしてあげようかと持ちかけてみたところ、ティンカー・ベルは大きく目を見開いた。

 「お前は天才か……!」
 「大げさだなあ」

 溶いた玉子をフライパンに流し込んだところで、悪魔は大きな紙袋を差し出してきた。有名ブランドのロゴが入っているそれを、期待を込めて開けてみると、しかし中には泥付きの野菜が入っている。ごぼうに大根、白菜。つやつやと新鮮で、いかにも採れたてだった。

 「悪魔の世界にも、家庭菜園があるの?」
 「いや、人間の畑を手伝った報酬に、もらったんだが」
 「いろんな仕事をしてるんだね……。ありがとう」
 「なに、どうせ我の腹に収まる」

 なるほど、これを料理しろということか。

 「そういうのは、お土産って言わない!」
 「だから、土産などと、一言も言っていないではないか」
 「うー……。 女の子の部屋に来るんだからさあ、もうちょっとさあ……」

 頬を膨らまして、ブツブツ文句を零しながらも、景はもらった野菜で何を作ろうかと、頭の中でレシピ帳をめくり始めている。

 「そういえば、ティンカー・ベルは、普通に玄関から来るんだね」

 固まり始めた玉子の、表面にできた泡を菜箸で潰しながら、景はふと気付いたことを口にした。
 一番初め、召喚の儀式で呼び出したときこそは、いきなり部屋の中に現れた彼だったが、それ以降は、そういえば、律儀に玄関からやって来る。
 ティンカー・ベルはずかずかと奥に進み、脱いだジャケットを壁に掛けながら、答えた。

 「それこそ、女の子の部屋にお邪魔するのだから、気を使わねばいかんだろう」
 「ああ……うん」

 着替えや化粧中なら、まだ可愛いものだ。例えばムダ毛処理の最中を見られたら、立ち直れないかもしれない……。悪魔の気遣いに、景は素直に感謝した。




 一杯目はオムレツをのせて、二杯目は福神漬けを添えて、都合山盛り二杯のカレーをぺろりと平らげたティンカー・ベルは、食後のお茶を悠然と口元へ運んだ。

 「それで、幸せになるためにはどうしたらいいか、考えたか?」
 「えっ、私が考えるの!?」

 突然話題を振られて、景は素っ頓狂な声を上げた。

 「当たり前だろう。我々悪魔はサポート役に過ぎない。何をどうしたいか、何が欲しいのか、命令するのはあくまでもお前自身だ。……シャレではないぞ」
 「えー……」

 シンデレラだって、ドレスから馬車まで、魔法使いがお膳立てしてくれたというのに。――いや、そうか。そもそもあのヒロインは、「舞踏会に行って、王子様と踊りたい」という明確な希望が、予め存在していたのだった。
 ティンカー・ベルを初めて呼んだときもそうだ。景には「初恋の相手と親密になりたい」という目標があった。しかし今はその望みも破れて、心は空っぽの状態である。そんなときに、何か命令しろと言われても、困ってしまう。
 そもそも「幸せにしてやる」と、好意なのか単に仕事熱心なのか、言い出したのはティンカー・ベルのほうだ。景が望んだわけではなく、いわば押し売りである。
 それでも、せっかくだから……と、景は眉間にしわを寄せ、自分の幸せについて考え始めた。

 「うーん……。やっぱり、お金かなあ?」

 「お金があれば、大抵の悩みは解決する」と、人はよく言う。景も贅沢がしたいわけではないが、将来のためにもうちょっと備えがあったほうがいいだろうとは、常々思っていた。

 「金か。まあ、妥当だろうな」

 ティンカー・ベルは無表情に頷くと、持ってきた革のカバンから新聞を出した。

 「さて、お前、種銭をどれだけ用意できる?」
 「えっ? たねせん?」
 「一番てっとり早いのは、株だろうな。これと、この銘柄はどうだ?」
 「株!?」

 株やいわゆる財テクについて、知識のない景には、あまりいい印象がない。所詮テレビや雑誌の聞きかじりに過ぎないが、大儲けしている人たちがいる反面、大損したとか、破産したとか、そんなマイナスなイメージばかりが頭に残っている。

 「心配なら、最初は投資信託にしてみるか? リスクが全くないわけではないが、定期預金に預けるよりは金を産むぞ」

 ジャケットのポケットから眼鏡を取り出して掛けると、景が渡した貯金通帳の、なけなしの残高を見ながら、ティンカー・ベルは電卓を叩き始めた。そうしていると、彼は少し体格のいい、普通のサラリーマンにしか見えない。

 「あの……。魔法とかで、ぱぱっと、金銀財宝を出してくれたりはしないの?」
 「何もないところから財を生み出す行為、つまり人間界の資産量を勝手に変えることは、タブーになっている。昔、別の悪魔がそれをやって、経済が大混乱したことがあってな。世界規模の戦争が勃発したり、大変なことになってしまった」

 たかだが女一人が、不自由なく暮らせるだけの財を作り出しても、世界経済に影響があるとは思えないが……。
 懐疑的な景の表情を一瞥すると、ティンカー・ベルは眼鏡のブリッチを指でぐっと上げた。

 「人間の欲は無尽蔵だからな。要求する額も、一億だったものが、二億に十億に百億にと、恐ろしい勢いで跳ね上がっていく」
 「そ、そういうものなの……?」

 今は慎ましく暮らしているが、いざお金持ちになってゴージャスな生活に慣れたとき、もっともっとと強欲にならないとは言い切れない。自分の弱さをよく知っている景は、だから悪魔に反論できなかった。

 「――さて」

 ティンカー・ベルは数字が表示された電卓を、景のほうへ向けた。

 「とりあえず、一年で三万円のプラスを目指すか」
 「け、堅実過ぎる……!」

 景は思わず唸る。
 いや、お得ではあるのだろうが、その程度のお金を増やすのに、わざわざ悪魔を使う意味があるのか。

 「元となる資金が少ないのだから、仕方がないだろう」
 「貧乏でごめんね! でも一生懸命、貯めたんだから!」

 なんだか納得がいかず、景は更に食い下がった。

 「ほかの方法は? 宝くじを当てるとか」
 「未来のことは分からんから、無理だ」
 「じゃ、じゃあ、ギャンブルは? 競馬とか競艇とか、よく知らないけど、自分が買った馬や選手が勝てるように、手心を加えたりはできないの?」
 「それはできるが、いいのか? 誰かを勝たせれば、違う奴が負けるということだぞ。その負けた馬だか選手に、人生の全てを賭けて、大勝負を挑んでいた人間がいたとしたらどうする? そいつは、お前のゆるふわな『お金が欲しいの〜』という願いのせいで無一文になり、一家離散、もしくは妻と幼い子供を巻き込んで、無理心中でも図るかもしれない……」
 「そんなこと言ってたら、何もお願いできないじゃん!――でも、やっぱりやめて! そんなことになったら、後味が悪過ぎるから!」

 悪魔の語る、ありがちな不幸の筋書きを聞かされれば、小心者の景は自分の提案を引っ込めるしかない。

 「ギャンブルといえば、昔はパチンコの釘を読んだりもしたが、今は当たり率をコンピュータが管理している台が多くてな。世知辛い世の中になったものだ」
 「……ティンカー・ベルって、もしかして役立たず?」

 少し責める口調で言うと、ティンカー・ベルはむっと顔をしかめた。

 「そこまで言うなら、手っ取り早く、銀行強盗でもしてくるか?」
 「犯罪はいけません!」
 「――要は、お前の覚悟の問題なのだ。何をも犠牲にしてでも、巨万の富を得たいならば、誰が死のうが苦しもうが、お前は我にやれと命令するだろう?」
 「……………………」

 景はしばらく黙って考え込んだ。

 「そこまでしてお金を手に入れても、それで幸せになれるとは思えない……」
 「そうか。ならば、やめておけ」

 ティンカー・ベルは眼鏡を外し、涼しい顔でお茶を啜った。

 「あっ、そうだ! すっごい美人にしてもらうっていうのは、どうかな!?」

 見た目がよろしければ、人生はバラ色に違いない。周りにちやほやされるだろうし、玉の輿にだって乗れるだろう。
 目を輝かせて新たな望みを口にする景に、ティンカー・ベルはまた頷いて見せた。

 「ふむ。では、携帯を貸せ」
 「いいけど、何に使うの?」
 「評判のいい、美容整形外科を検索する」
 「そんなの自分でもやれるからいい! いや、やらないけど!
 〜〜〜これも魔法で何とかできないの!?」

 一度出しかけた携帯を引っ込めて、景は悪魔に詰め寄った。

 「できないことはないが、我の主観が入るからな。それよりはプロに任せたほうがいいんじゃないか?」
 「顔にメスを入れたり、注射したりするのはやだなあ……」

 そういったことが怖いから、悪魔に頼んだのに。景はじとっと不満げに、ティンカー・ベルを睨んだ。その視線が、彼の横にあった雑誌を捉える。フローリングの床に無造作に置かれたそれは、毎月惰性で買っているファッション雑誌だった。表紙を飾るのは、「神戸(こうべ) あすな」だ。彼女は、今日バイト先に来ていた水沢 花憐と双璧をなす、人気のモデルである。
 あすなは面長の顔に、涼し気な目元が印象的な美女で、その顔立ちは、タレ目で狸顔の景の憧れでもあった。

 「じゃあ、見本があれば大丈夫? この人みたいにして欲しいんだけど」
 「ああ、それならば容易い」

 ティンカー・ベルは突き出された雑誌に目をやり、見比べるように景の顔を見詰めた。

 「だが、いいのか? お前は、この女のそっくりさんということになるぞ?」
 「あっ……」

 誰かを真似るということは、個性を失うということだ。景は自分が独創的な人間だとは思っていないが、それでもこれから先、誰かに似ていると言われ続けるのは、鬱陶しいかもしれない。

 「それはちょっと嫌かなあ……。うーん、残念」
 「第一、見てくれを直す必要はなかろう。お前はなかなか可愛らしい顔をしているではないか」
 「……!」

 悪魔はそういうことを、さらりと言うから困る。
 景は真っ赤になった。

 「も、もう! あれもダメ、これもダメなんだから! やっぱり君は役立たずだなあ!」

 照れくさくて、怒ったように吐き捨てると、景は食べ終わった夕飯の皿を持って、台所へ逃げた。
 流し場へ皿を置き、汚れを水で流していると、大きな手が蛇口をひねる。くるりと振り返ると、自分を見下ろしているティンカー・ベルと目が合った。
 近付いて来る気配なんて、まるでなかったのに。大きく、筋肉でずっしり重たそうな体をしているのに、まるで猫のような身のこなしだ。
 驚いている景の下半身を、シンクに押し付けるようにして、ティンカー・ベルは彼女の前に立った。

 「ど、どうしたの?」
 「どうやら結論は出ないようだが、相談料くらいはいただこうと思ってな」
 「い、今どきはどこでも相談くらい、無料でやってくれるのに! サービス悪いんじゃないの!?」
 「――腹が減ったのだ」

 すっと細くなる切れ長の目の色っぽさに、景は身動きができなくなる。

 「か、カレー、まだあるよ……」
 「それはあえて残したのだ。二日目のカレーも、美味いからな」

 ということは、この悪魔は明日も来るつもりだろうか。
 ティンカー・ベルは、景の着ているパーカーのジッパーを下げると、その下のインナーに手を突っ込み、迷いなく背中のホックを外した。ブラジャーをずらして、直に胸を揉み始める。

 「やっ……!」

 悪魔の手を押さえながら、景は助けを乞うように言った。

 「で、デザートに、フローズンヨーグルト、作ってあるから! それ、あげるから……っ!」
 「それも食べる。だが、今欲しいのは、お前だな」

 ――そういえば、私が作ったものを、この人が「いらない」と言ったことは、一度もないな……。

 ティンカー・ベルの大きな唇に、くすぐるように首筋を食まれながら、景はそんなことを思った。


つづく