その女、悪魔憑きにつき・3



 大蔵田 景、二十歳。ところどころメッシュを入れたショートカットがよく似合う、女の子である。高校を卒業と同時に家を出て、彼女は築三十年のボロアパートで暮らし始めた。
 職業はフリーター。自宅から自転車で二十分ほどのところにあるカフェで、働いている。




 カフェ「ファウスト」。それが景の勤め先だ。

 「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりでしょうか」

 真っ白のシャツに、黒のミニスカートという制服に着替えて、景は今日もシャキシャキと労働に勤しんでいる。半年前のオープン時からここにいる彼女は、接客も調理も慣れたもので、しかもほぼ毎日シフトに入れるから、オーナーや店長、他のスタッフからも頼りにされていた。
 繁華街の中心から少し外れた場所にあるこの店は、おかげで静かで、憩いにやってくる客も多く、休日は一息つく間もないほど忙しかった。だが今日は平日だから、埋まっている席は店内の六割ほどだ。なのに、詰まって見えるのはなぜか。――妙に存在感のある男が、随分長いこと、一席を陣取っているからだ。

 ようやくの休憩時間である。
 コーヒーの入った自前のマグカップを手に、景は客席に腰を下ろした。目の前では男が、大きな口へせっせと食べ物を運んでいる。
 ――悪魔ティンカー・ベル。
 悪魔は、店の看板料理であるパンケーキの、全てのメニューを制覇するつもりらしく、最後の一皿、「三つのベリーのミルフィーユパンケーキ」に取り掛かっているところだった。彼が今ナイフとフォークで丁寧に切り分けているそれは、ストロベリー、ラズベリー、ブルーベリーの入ったカスタードクリームを、サクサクのパイ生地と、しっとりした食感のパンケーキで交互にサンドしたスイーツだ。高さ十センチ以上と見た目はボリューミーだが、甘さは控えめで、女性でもペロリと平らげてしまえる。何より美味で、雑誌にも何度か載ったほどだ。
 それを最後に、全六種類もの大量のパンケーキを胃袋に収めた悪魔は、さして食べ飽きたとか苦しいといった様子を見せることなく、涼しい顔をしてポツリとつぶやいた。

 「パンケーキとホットケーキは、どう違う?」
 「あっ、それ、前にググったことある。甘くないミール系がパンケーキで、甘いおやつ系がホットケーキらしいよ」
 「じゃあ、我が今食べたのは、正しくはホットケーキなのか?」
 「……そうか。どうなんだろう?」

 悪魔と人の子はそれぞれ腕を組み、うーんと唸った。

 「人の世は、曖昧なことだらけだ」

 そう漏らす彼の皿には何も残っておらず、飾りに使ったミントまで消えている。ここまで綺麗に食べてもらえると、しかも六枚も、嬉しいものだ。ティンカー・ベルがこの店で口にしたものは、全て景が作った。ちなみに代金は、全て悪魔自身が支払っている。
 渡された金を、景は念のためよく見てみたが、普通の、普段皆が使っているものと変わりないようだった。時間が経ったら葉っぱになったりしないかと不安だったが、ティンカー・ベルは、それはないと否定した。彼曰く「余っているところから貰ってきた」そうで、景はそれ以上追求するのをやめた。例え盗んできた金だったとしても、悪魔にそれはいけないことだと道徳を説くのは、ナンセンスな気がしたからだ。とりあえず店のレジの金額が、合わないということにならなければ、それでいい……。

 空いた皿を洗い場に運ぶと、景はティンカー・ベルのための飲み物を持って、戻ってきた。
 悪魔は、今日は今日で、昨日とはまた違うスーツを身に纏っている。それにしても、短い黒髪を形よくスタイリングし、しかも眼鏡までかけているのは、やり過ぎではないが。これでは悪魔というより、ファッションモンスターである。

 「ちょっとシャレオツ過ぎない? どこでそんな服、仕入れてくるの?」
 「見栄え良くしろとか、そういったことを願う契約者も多いのでな。人間の流行は、常に気にしているのだ。――似合っていないか?」
 「そりゃまあ、似合ってるけど……」

 正面から褒めるのが照れくさくて、もごもごと口ごもりながら、景はカップを差し出した。

 「これは私のおごり」

 悪魔のために淹れてきたのは、温かいカフェラテだ。受け取ったカップを一目見た途端、ティンカー・ベルの表情は緩んだ。

 「これは我か?」

 ミルクの泡を使って、カフェラテの表面に、悪魔の似顔絵を描いてみたのだ。景が頷くと、ティンカー・ベルは金色の目を細めて笑った。

 「なかなかよく出来ている」

 悪魔の笑顔が思ったより可愛くて、景は思わず目を逸らした。――どうにも直視できず、なんとなく、彼の手元にあるカップを見詰める。我ながら、なかなか上手に描けたと思う。悪魔の角と、羽と……。そこでふと疑問が浮かんだ。

 「そういえば、あなたの姿って、他の人にはどう見えてるの?」

 服装だけは人間と同じでも、景の目には悪魔の角も羽も尻尾も、はっきりと見えたままだ。

 「我のことは、体格のいい、イケメンに見えているはずだ。人間とは違う箇所、角や尻尾は目に入らない」

 ティンカー・ベルは、そうっとカップに口を付けて、答えた。
 そうか。だから昨日の夜、景の部屋へ助けに来てくれた隣室の女性は、ティンカー・ベルの正体に全く気付かなかったのか。
 ――それにしても。

 「自分でイケメンとか言っちゃうのかー」

 呆れる景の前で、残念ながら崩れてしまったカフェアートを、ティンカー・ベルは残念そうに見詰めている。

 「我が携帯を持っていれば、写真に残しておくんだが」
 「あんなので良ければ、また作ってあげるよ」

 そうこうしているうちに、十六時になった。
 ドアが開き、来客を告げるチャイムが鳴る。同僚の「いらっしゃいませ」という声掛けと同時に、景は振り返り、そして硬直した。なんとか、ティンカー・ベルの厚い布地の袖をつまみ、小声で囁く。

 「来た……!」

 本日悪魔がこの店を訪れたのは、もちろんスイーツを食べに来たわけではない。これが目的だ。景の初恋の相手、「飯島 大吾(いいじま だいご)」を調査するため――。
 大吾はカウンターで注文したコーヒーを持って、いつもどおり窓際のテーブルに着いた。通路を挟んで、景たちの隣の席だ。
 落ち着かず、そわそわと指先を動かす景の前で、ティンカー・ベルは沈黙している。調査といっても、話をするだとか、そういった直接的な接触はしないらしい。

 「――これは問題かもしれないぞ」
 「えっ」

 ややあって発せられた、ティンカー・ベルの鋭い一声に、景の顔は強張った。
 一体、何が問題だというのか。
 戸惑う景に構わず、ティンカー・ベルは席を離れ、店の真ん中にあるマガジンラックから、本を一冊抜いて戻ってきた。手にしているのは、どうやら男性用のファッション雑誌のようだ。

 「これを見ろ。――あのセーター、ちょっといいなと思って、覚えていたんだが」
 「セーター?」

 机の上で開かれたページには、すらりと背の高い、男性モデルが載っていた。不審げに顔を上げる景に対し、ティンカー・ベルは大吾を指した。気付かれないようにそっと、景は大吾の様子を伺う。それからもう一度雑誌に目を戻し、大吾と男性モデル――いや正確には、彼らが着ている服を見比べてみる。

 「……………………」

 ――大吾と雑誌のモデルは、全く同じ格好をしていた。
 ざっくりとしたステッチのセーターに、デニム。靴は、有名なメーカーのスニーカーで、これも一緒だ。チャコールグレーのセーターの襟口からは、ほんのわずか、コーラルピンクのインナーが見えている。差し色のつもりだろうが、それすら雑誌と全く同じとなれば、偶然かぶったとは思い難い。

 「全身ユニクロのほうがマシな気がするな」
 「ゆ、ユニクロだって、コーディネートは難しいんだからね!」

 フォローするつもりで意味不明の反論をしつつ、しかし景も正直にいえば、大吾に少しだけ幻滅してしまった。
 中学生時代の大吾は、雑誌に出てくるファッションそのままを真似て、洒落者を気取るような、そんなタイプではなかったはずなのだが……。野球部だったから頭は丸刈りだったし、服装にも乱れはなく、校則をきっちり守っていた。そもそも彼はクラスではあまり目立たない存在で、地味な男子だったのだ。――そんなところも好きだったのに。 歳月は、こんなにも人を変えてしまうのか。

 「もう一度確認するが、本当にお前が親しくなりたいというのは、あの男なんだな?」
 「そ、そうだよ!」
 「そうか……」

 ティンカー・ベルは、それきり口を噤んでしまった。
 なんなのだ。自分が大吾を好きで、何が悪いのか。

 「そりゃ、雑誌そのまんま真似っことか、ちょっとカッコ悪いかもしれないけど……! 本当は優しい男の子なんだよ! 大事なのは中身でしょ!」
 「……中身か」

 ティンカー・ベルはますます表情を険しくし、黙り込んでしまった。
 自分の恋心を、ひいては、自分自身を否定されたような気持ちがして、景は泣きたくなった。誤魔化すように、カフェエプロンのポケットから携帯を取り出し、時間を確認する。丁度、休憩時間が終わるところだ。

 「じゃあ私、行くね」

 景は逃げるように、席を立った。


つづく