我々は愛する花を見、又親しき動物を見て、直に全体に於いて統一的或物を捕捉するのである。之が其物の自己、其物の本体である。美術家は斯の如き直覚の最もすぐれた人である。
「善の研究」第二編第八章「自然」でこう述べた西田幾多郎は第四編第三章「神」でテニスンを引用しています。
例へば詩人テニスンの如きも次の如き経験をもってをった。氏が静に自分の名を唱えて居ると、自己の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の実在となる、而も意識は決して朦朧たるのではなく最も明晰確実である。此時死とは笑ふべき不可能事で、個人の死といふ事が真の生であると感ぜられるといって居る。