2003年1月15日
田中さん「自信」の源泉
今西拓人(大阪科学環境部)
島津製作所フェローの田中耕一さん(43)がノーベル化学賞に選ばれたのは、昨年の最も明るいニュースの一つだったと思う。年が明けても講演会の依頼やマスコミからの取材申し込みが相次ぎ、人気は衰える気配を見せない。一部で「癒やし系」ともてはやされる田中さん。しかし、受賞発表から約3カ月間、取材を通じて鮮明になったのは、田中さんは「自信に裏づけられた優れた技術者」だったということにほかならなかった。 田中さんをめぐっては、ほほ笑ましい話題が絶えない。「授賞式での英語のスピーチが不安」とこぼし、自分のことを「モテナイくん」と言って周囲を笑わせた。「独身だったらよかったのに」などと、ユーモアも忘れない。 田中さんは、そうした研究以外の部分にスポットを当てた報道が多かったことを、どう感じているのだろうか。記者会見で研究内容について問われ、目を輝かせて熱心に説明する「技術者」の顔が印象的だったので、受賞決定から間もない時に、それについて尋ねたことがある。 「全然、構いません。みなさんが面白がって、世の中が明るくなるのなら、それでいいのかなと思っています」とあっさり言い、その後で、こう付け加えた。 「私はある程度、自分に自信がありますから」 控えめな言動が多い田中さんと「自信」という言葉は、結びつきにくかったが、この時、田中さんの知られていない一面を見たと思った。 田中さんは、自ら「変人」と呼ばれていると明かした。最初、それを自分では否定したいという気持ちがあり、直接、言われても、気づかないふりをしたり、無視する気持ちもあったという。社会人になって実績を上げることで、そんな気持ちを克服し、人から何と言われようと気にならなくなったと話した。 小さいころは、自分に自信が持てず、人前で話す時は、赤面したり、あがったりして失敗したことがよくあった。人と違うことを言って、笑われることも嫌だったという。 そんな田中さんが大変身するのは、技術者になってからだ。大学時代の専攻とは別の分野に取り組み、開発した技術が「これはいい」と周囲に認められるようになって、ようやく自信が出てきたという。自信が持てる部分が一つでもできると、人に何と言われようと全然、構わなくなり、「変人」を受け入れられるようになったわけだ。 今度は、「変人」を逆手に取った。「変な考え方」と思われても結構だし、自分が飾らずに話していることを、人が面白がり、人を楽しませたり、気分を楽にさせているのなら、それでもいいんじゃないか。そう思うと、非常に気が楽になったという。 そうした「心の変遷」を通して得た自信が、田中さんの言動を、自然体にし、みなに好感が持たれるのかもしれない。 自信を持った田中さんは「変人」のあり方にも言及するようになる。そこには「人間は完ぺきではない」という考えが前提にある。「日本は何事にでも完ぺきであることが求められるから、失敗ばかりが目についてしまう。だから、失敗を恐れ、みんな同じ枠にはまり、似たようなことに取り組む」と、独創性が生まれにくい日本の土壌の現状を指摘するのだ。 田中さんは「人間、普通でなくてもいいと思います」と話す。ここには「変人」ぶりを認める環境でないと、独創性は生まれないという意味が込められている。 「完ぺきを求めない、失敗を恐れない、失敗をしても取り返しがつく。そういう考え方を日本の社会は取り入れてもいいのではないか」――ノーベル賞受賞で田中さんは、このことを一番、言いたかったのでは、と感じる。 この言葉は、閉そく感にあえぐ日本社会を照らし、今後の筋道を示している気がする。ノーベル賞受賞の対象となったたんぱく質などの新しい質量分析法も、コバルトとグリセリンを誤って混ぜた「失敗」から生まれたものだったからだ。 ノーベル賞受賞は、裏方で地道に仕事をしている人でも、世界に評価される可能性を教えてくれたことでも意義深い。それに、勇気づけられ、励まされた人は少なくない。「田中人気」は、謙虚さの中にも、さまざまな苦難を克服した田中さんの自信が隠されているからだ、と改めて思う。 メールアドレス kishanome@mbx.mainichi.co.jp (毎日新聞2003年1月15日東京朝刊から) |
タマちゃんは「ニシ・タマオ」 | |||
◆西区が「住民票」を交付へ
区では専用の住民票を用意。名前の欄は、姓は区名から「ニシ」を、名は性別が雄であることから「タマオ」と決めた。住所は「西区西平沼町帷子川護岸」。区民になった日は、帷子川に初めて来た昨年九月十二日とした。 住基ネットのコード番号も割り振るが、「実在の区民と重なる恐れがある」(同区区政推進課)ため、漢字を加えるなど工夫を凝らすという。住民票の交付に先立ち、区は転入届も準備し、今までの住所には「多摩川から鶴見川」と記入される。 晴れて新住民となったタマちゃんには、河川環境の浄化運動やポイ捨て禁止キャンペーンなどのマスコットとして、「西区まちのセールス大使」に君塚道之助区長から任命される。 午前十一時から行われるイベントでは、帷子川近くの保育園と幼稚園の園児が代理人として転入届を提出し、住民票を受け取る。また、「見守る会」のメンバーがエピソードを披露するほか、区民が提供した写真約十点の展示会が同日から十四日まで開かれる。 動物が住民登録されるのは、同市内では初めてという。 2003年2月7日神奈川新聞ホームページより 太平洋上空、医師・看護師ら連携プレーで1歳児助かる 太平洋上を飛行中の大韓航空機内で3日、急病で危険な状態になった1歳2か月の女の赤ちゃんが、同機に乗り合わせた看護師と近くを飛行中の別の大韓航空機に乗り合わせた医師、乗務員の連係プレーで命を救われた。成田空港に到着後、入院した赤ちゃんは14日までに元気に退院した。 大韓航空東京空港支店によると、ロサンゼルス発成田行き大韓航空2便(ボーイング747―400型)で3日午前8時ごろ、乗客の在日韓国人の女性(32)が「搭乗前から風邪気味だった娘が意識を失ったようだ」と客室乗務員らに訴えた。 乗り合わせた日本人看護師の女性2人が乗務員の機内アナウンスに応え、ファーストクラスの空席に赤ちゃんを移して救護にあたったが、容体は悪化。当時、ロサンゼルスと成田の中間点を飛行中で、付近に緊急着陸できる空港がなかったことから、機長は付近を飛行中のロサンゼルス発韓国・仁川行き同航空18便(同)の機長に、医師が搭乗していないか僚機同士をつなぐ専用無線で問い合わせた。 18便に偶然乗り合わせていた韓国人医師が名乗りを上げて操縦室に入り、機長や乗務員らの通訳を交えて無線で看護師と交信し、急性肺炎と診断。看護師らは医師の指示に従いながら、意識を失った赤ちゃんに酸素ボンベを使用するなどの応急処置を実施し、何とか窮地を切り抜けた。 2便は午後1時40分ごろ、成田空港に到着。赤ちゃんは待機した救急車で千葉県成田市内の病院に運ばれ、ただちに入院。手当てを受けて一命を取り留めた。 同航空は、「医師と看護師の国籍を超えた連係プレーで赤ちゃんの命を救うことができた」と話している。(読売新聞) 読売新聞ホームページより[2月15日6時25分更新]
■《天声人語》デンマーク対イラン戦の前半終了間際のことだった。観客の笛を終了の笛と勘違いしたイランの選手がボールを手に取った。反則である。審判はデンマークにペナルティーキックを与えた。イラン側は抗議し、ファンは騒ぎ、競技場は険悪な空気に包まれた。 「ボールを手に取ったイランの選手は不運だった。それに乗じるのはフェアではない」。キックをわざと外したデンマークの主将の弁である。結局デンマークは0対1で敗退するが、さわやかな印象を残した。 これがたとえばワールドカップの出場権をかけたような大事な試合だったらどうだったろうか。ルールはルールだ、と迷わずゴールを目指すか、やはりわざとゴールを外すか。葛藤(かっとう)は一段と厳しかったろう。 去年、高校サッカーの岡山県大会で優勝した水島工はそんな例だ。決勝の延長戦でいわゆるVゴールを決められた。しかし、審判はゴールを認めなかった。最後はPK戦で水島工が勝った。水島工の選手や先生は悩んだ。全国大会出場を辞退すべきかどうか。結局出場することにしたが、ある主力選手は「試合は負けでした」と言って全国大会に出なかった。 どちらがいいか悪いかという話ではない。素早く決断したデンマークにも、悩んだ水島工の選手らにも共感できる。そして、自分だったらどうしただろうかと考えさせられる。
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血液の重い病気と闘いながら、金大附属病院の院内学級に通う中学一年、金田沙貴子さん(13)が今夏、あこがれの「モーニング娘。」の公演を観賞する夢をかなえ、実現に協力した金沢市のボランティア団体に感謝の手紙を寄せた。「涙が出るほどうれしかったです。一生の思い出になりました」。公演後、病状が一時、飛躍的に回復し、主治医を驚かせた沙貴子さん。手紙の文面からは躍動的な舞台に元気になった自分の姿を重ね、病と闘う気持ちを一層強くする前向きな心情がにじんでいる。
沙貴子さんは三歳の時に血液中の血小板が少なくなる「慢性血小板減少紫班病」と診断されて以来、入退院を繰り返してきた。この病気は内出血を起こしやすく、脳や腹部で起きると生命に危険を及ぼすこともあり、沙貴子さんは激しい運動や一時間を超える移動も控えている。感染症を防ぐため人ごみではマスクが欠かせない。
沙貴子さんは小学生のころから「モーニング娘。」、特に加護亜衣さんの大ファンだった。今年五月、沙貴子さんが脳に出血を起こして入院した際、父親は最悪の事態も覚悟して、子どもの夢をかなえる手助けをしている世界的なボランティア団体「メイク・ア・ウイッシュオブジャパン」北陸支部に相談。「何とか大ファンの『モー娘。』を間近で見せてやりたい」と訴えた。
その後、北陸支部長の祖泉淳さんらが関係者に働きかけ、八月に愛知県豊田市の豊田スタジアムで行われるコンサートの観賞が実現した。
同じく「モーニング娘。」のファンだった双子の妹、由貴子さんや両親と会場を訪れた沙貴子さんはステージに近いスタジアム席から涙を流し、声援を送ったという。
「小さいころから安静が必要な生活を続けてきた娘にとって『モー娘。』はあこがれの的。特に年齢の近い加護さんに自分の姿を重ねていたようです」と母親は沙貴子さんの心情を代弁する。
コンサート後、金沢に戻って病院で検査を受けた沙貴子さんは、ふだん十万から数千の間を上下している血小板の数値が正常値の三十万二千にまで上昇した。一週間後には元の低い数値に戻ったが、父親は「病は気からというが、夢が実現して病気と闘う気持ちが高まったのだろう」と医学的には説明できない娘の変化を語る。
「あの後、血小板が増えたのも、そいちゃん(祖泉さん)のおかげです。私もこれから頑張っていきたいです」。沙貴子さんから感謝の手紙を受け取った祖泉さんは「自分たちは病気を治すことはできないが、夢をかなえることで子どもたちに次のステップへ向かう勇気を持ってほしい」と感慨を新たにしている。
【メイク・ア・ウィッシュ】難病と闘う三歳から十八歳未満の子どもたちの夢をかなえるボランティア団体。米国で一九八〇年に白血病の七歳の少年の「警察官になりたい」という夢を地元警察官たちが「名誉警察官」に任命してかなえたのが設立のきっかけ。世界二十八カ国にネットワークを広げている。日本では一九九二(平成四)年にメイク・ア・ウィッシュオブジャパンとして設立。現在までに五百人を超える子どもの夢をかなえた。二〇〇〇(同十二)年には北陸支部が発足。ヤンキースの松井秀喜選手も日本にいた時代、難病の子どもと会い、励ましの言葉を贈っている。
北国新聞ホームページより日米ともプロ野球シーズンが終わった。松井秀喜選手が所属する大リーグのニューヨーク・ヤンキースは、ワールドシリーズでフロリダ・マーリンズに敗れたが、彼の活躍は本当にすばらしかった。第2戦で先制の3点本塁打を放ち、第3戦では決勝の適時打を打った。日本から声援を送ったファンは大きな感動をもらっただろう。
「僕自身はチームの力になることしか考えていないが、ファンの皆さんや野球好きの子どもたちが喜んでくれればうれしい。いろんな人のパワーにつながってくれればいいですね」と、松井選手は言った。
プロとして、「自分を見る人」の存在を常に意識してきた。シーズンの163試合すべてに出場し、地区シリーズ、リーグ優勝決定シリーズ、ワールドシリーズの全試合に彼の姿があった。実力でつかみとった出場だが、彼の自負とファンへの責任感が伝わってくる。
ひどい負け方をしても、まったく打てなかった日でも、試合後の記者会見できちんと語った。メディアのうしろのファンの存在を常に考えているのだ。
プロスポーツは実績だけで勝負すべきものだという考え方もある。「野球選手はバットとグラブで語るものだ」という大リーグの格言も残っている。しかし、マツイの実力と試合後のまじめな態度は米国のファンにもとても好意的に受け止められた。「ヒデキはあらゆる点で伝統のヤンキーだ」とニューヨーク・ポスト紙は評した。
松井選手のほかにも、今年の大リーグではイチロー、野茂英雄、長谷川滋利ら日本人選手の活躍が目立った。
ところで、日本のプロ野球はどこへ行くのか。今年は阪神タイガースの18年ぶりのリーグ優勝で盛り上がり、日本シリーズにも熱が入った。とはいえ、実力と開拓者精神を兼ね備えた若者の大リーグ進出はこれからさらに加速するだろう。
日本のプロ野球をもっと魅力のあるものにする鍵は、ファンを大切にすることと、国際的な広がりを持つことである。
大リーグは地区シリーズ、リーグ優勝決定シリーズ、ワールドシリーズと息もつかせぬ展開でファンを引っ張っていく。日本では、リーグ優勝が決まってから日本シリーズまでかなりの空白があった。ファンの心理を踏まえぬ間延びした空白だ。パ・リーグは来季からプレーオフを始めるが、まだ球界全体に巨人にぶらさがっていればいいという空気が残っている。ファンの求めるものを見つめ直してもらいたい。
国際的には、日本が音頭をとって韓国、中国、台湾などとの「アジアシリーズ」を実現させる道を探るべきだ。
日本シリーズの勝者が「アジアシリーズ」で勝ち抜き、大リーグのプレーオフに参加する。そんな枠組みができれば日本のプロ野球と大リーグがさらに近くなり、新たなファンを引きつけるだろう。
24日決まった2004年度予算政府案は、一般会計の総額で82兆1100億円。1万円札を積み上げると高さ821キロ、エベレスト山92個分という想像もつかない額だ。
しかし、歳入と歳出のシェアを、平均的な勤労者世帯(年収646万円)の家計にあてはめると、その深刻な財政状態が実感できる。
ボーナスを含めた年収を月収に直すと、夫の収入は49万3000円。国の税収(41兆7400億円)が、この月収にあたるとして計算した比率で、予算案の主要項目の金額を家計にあてはめてみた。
妻の内職(予算案のその他収入)4万4600円を加えた世帯の収入は53万8000円。しかし、過去のローン返済(国債費)と田舎への仕送り(地方交付税)で40万円が消え、家族が衣食住に使える可処分所得(生活費)は13万円しか残らない。
ところが、通院費・薬代(社会保障関係費)に23万4000円もかかるほか、教育費(文教・科学振興費)や家の補修(公共事業)などの出費も大きい。月々の出費が月収を43万円も上回り、毎月カードローン(国債発行)で借金を重ねている。
積もり積もったローン残高(国債発行残高)は6800万円。返済のめどはまったくたたない
ある学校の先生から聞いた実話である。
近所の玄関先で大きな声を出す障害児がいて、迷惑がられていた。その先生の家にも来た。たしかにうるさい。しかし、「あっちへ行け」とも言えず「元気そうで、いいじゃないか」と思うことにしたら、その先生の家にばかり来るようになったという。
あるとき、近所一帯が空き巣に入られた。ところが、先生の家だけは無事だった。「いつも人の声のするところには泥棒は近寄らないのでしょう」と先生は言う。
下校途中の小学生が襲われる事件が相次ぎ、世の親たちを震え上がらせている。防犯用PHSを児童に持たせている自治体もある。すぐにSOSを発信すれば初動捜査には役立つだろうが、未然防止にはあまり効果がなさそうだ。
情報技術や通信機器よりも、やっぱり人間だ。小学校乱入のようなケースもあるが、たいていは誰もみてないところで子供が襲われる。人の声がするところに悪意は入り込みにくいものだ。親たちが忙しいのなら、お年寄りが地域に出て、いつも人の気配がある街づくりに一役買ってはどうだろう。
認知症のおばあちゃんが早朝深夜に徘徊(はいかい)し、何かとトラブルを起こしている地域を知っているが、やはり空き巣や痴漢の被害は少ない。
12月17日17時9分配信 ロイター
[上海 14日 ロイター] 中国に住む世界で最も背の高い男性が、その腕の長さを生かして、死にかけていたイルカ2頭の命を救った。新華社が14日伝えた。 |
バルセロナの敗戦に号泣した日本人少年2006年12月22日(金) 21時25分 スポーツナビ |
22日の『ムンド・デポルティボ』紙には「この少年にとって一番のクリスマスプレゼント」と題して1ページにわたる記事が掲載された。これによると、バルセロナがこの少年をカンプ・ノウの試合観戦に招待する意向であるとされており、マルク・イングラ副会長もその事実を認めている。また、この少年がロナウジーニョやバルセロナの選手と会った際には「ドウモアリガトウ」と言い、カタルーニャ語で「ありがとう」も言うだろうというストーリーも作られていた。 この少年にとってはバルセロナからまさかのクリスマスプレゼントが贈られることとなったが、バルセロナにとっても日本の少年がバルセロナの試合結果に一喜一憂し、悲しみの涙を流している事実は敗戦の痛みを癒すものだった。クラブのみならずバルセロナの地元ファンにとっても、日本から届いた温かいクリスマスプレゼントとなって受け止められている。 |
「逆風満帆」 歌手 米良美一(上) |
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■ひた隠しにした人生 語り口は、耳を傾ける者のほおを小気味よく平手打ちしたかと思うと、やにわに胸倉に深々と短刀を突き刺すかのように挑発的だった。気圧(けお)された聴衆は吐息までのみこんだまま、先鋭な言葉をひたすら待ち構えている。 「ここ宮崎は私にとって、大好きであるとともに、とても苦手な場所でした。かつては自分の人生をどうしても受けいれられず、ひた隠しにしてきましたが、口には出さずとも、皆さんから奇異の目を注がれていたのは自明のことでした。私は疲れきってしまい、心底から楽しんで歌えなくなってしまったのです」 故郷の宮崎県へ8月半ばに里帰りした米良美一(36)は、宮崎市の市民文化ホールで演壇に立っていた。学校医や養護教諭ら九州の保健教育関係者のイベントに招かれ、初体験だという講演を引き受けたのだ。 掲げられた演題は「生きながら生まれ変わる」。出版したばかりの自筆の半生記のタイトルそのままだ。「ひた隠し」にしてきたという実人生の暗闘を語ろうとしていた。 「世間への恨みや過ち、すべて墓場まで持ってゆき、天使のような『もののけ姫』の歌手として、皆さんを騙(だま)くらかして生きていこうと思っておったんです。でも私、ほかの芸能人の方々よりも正直者だったんですね」。緩急自在の話術は、音楽で人を魅惑する技法と変わらないという。聴衆はいつしか屈託なく笑い転げていた。 「生まれながら、ハンディキャップと才能をともに与えられたからには、その裏と表の調和を保つのが人生のテーマ」と語り結んだ米良に、聴衆は拍手で歌をせがんだ。 今も聞こえる ヨイトマケの唄(うた) 今も聞こえる あの子守唄…… アニメ映画「もののけ姫」で聴き慣れた、カウンターテナーの裏声ではなかった。野太くさえある低音の地声で歌う「ヨイトマケの唄」だ。 「もののけ姫」が空前のメガヒットとなった97年暮れ、当時、雑誌の編集者だった私は、主題歌を歌った米良の人物ルポの取材にかかわった。 米良はそのころ、アイドル視される、つかの間の狂騒にただ陶然としているかにみえた。「生まれながらのハンディキャップ」も「受け入れがたい人生」も、インタビューでは一切、語られなかった。 聖と俗、男と女の境界をとろかす歌声を賛美する記事の見出しを「『融合』という名の誘惑」としたのは、いま思えば皮肉というほかない。 米良の内面では、融合どころか、己を見失う分裂の連鎖が始まっていたからだ。 ■両親は途方に暮れた レンタカーのカーナビの目的地に「西都市寒川(さぶかわ)」とセットし、宮崎市の中心部を出発した。道のりは約30キロだが、最後の5キロは、九州山地の奇態な巨岩の連なる山肌にへばりついた難所だった。 車のすれ違えない道幅と連続するカーブに吐き気を催すほど恐怖しながら目的地にたどり着くと、そこはたしかに、米良が「もののけ姫」的世界というのを瞬時に納得させられる幽玄な秘境である。 米良の母(68)が生まれ育った集落は、さらに1キロほど険しい林道を登り切った山頂にあったという。しかし、いまは住む者もなくなり、朽ち果てた廃屋しかない。 山中に分け入る手前の三財(さんざい)という集落に米良の実家はある。父(70)は米良が幼いころまで杉の植林や伐採を生業とする「山師」だった。 結婚4年目、33歳の母が授かった米良の出産は初産で、ひと晩がかりの難産になったが、ふり絞るような産声を聞いて、母は安らいで眠った。 ところが、わが子の身に起きた異変は疑いようがなかった。両足はねじ曲がり、頭は腫れ、首は据わらず、乳を吸う力もなかったという。 両親のいちずな介抱で、どうにか立って歩けるまでに成長すると、さらに苛烈(かれつ)な運命の仕打ちが待ち受けていた。転んだり、はしゃぎ過ぎてひねったりしただけで、手足の骨が折れてしまうのだ。 米良が6歳になるまで、それが先天性骨形成不全症という難病だと分からず、両親は途方に暮れるばかりだった。=敬称略
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「逆風満帆」 歌手 米良美一(下) |
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■幻想をみずから破壊 忍び泣くようにやまない雨に沖の小舟がけぶる情景を、詩人の北原白秋が詞に描く歌曲「城ケ島の雨」を、無名の米良美一(36)が歌うのを、宮崎駿(66)はカーステレオでなにげなく聞いていた。 しっとり濡(ぬ)れた哀感を、精霊のため息にも喩(たと)えられたカウンターテナーで精妙に歌いあげる声楽家は即断で、「もののけ姫」の主題歌の歌い手に抜擢(ばってき)されたという。 このサクセスストーリーは米良と、最初のマネジャーの武田浩之(45)それぞれの胸中に微妙に波形のずれた波紋を描いた。米良はこう語る。 「僕が活躍の場を与えられたバロック音楽の世界はクラシックの本流ではない。熱心に聴いてくれる愛好家に感謝してはいても、窮屈だった。『もののけ』の話を聞いたとき、表舞台へ飛び出す突破口になると小躍りしました」 しかし、米良の歌う日本の歌曲を海外レーベルで発表して、古典としての芸術性を世界に認めさせたいという地道な戦略を練っていた武田は、米良の情熱を、もろ手をあげて受け止めきれなかった。 「なにもかもが順調で、焦る必要などありませんでしたからね。ただ僕も、彼には才能に見合う注目を浴びてもらいたくもあった。いま思えば両足ごと突っ込まず、片足だけ残せばよかったんです」 「もののけ姫」が公開された97年7月から、米良の生活は竜巻にのみこまれたように激変した。月に10回を超えるリサイタルで歌い、殺到する取材やテレビ出演のオファーをこなしながら、夜な夜な取り巻きを引き連れて飲み歩いてはストレスを吐き出した。仕事をさばききれなくなった武田は同年末に、米良のマネジメントから身を退いた。 米良は屈折した慢心にとりつかれかけていたようだ。 「言葉にもできないほどの苦労を味わったからこそ、天からのごほうびを与えられたのだと思いながら、感謝の念が足りませんでした。群がって来る人たちに、たかられていると思いこみ、吸い尽くされまいとして、逆に人を攻撃するようになった」 難病や養護学校出身などのプロフィルは、すでに「もののけ姫」を歌う前から禁句になっていた。アーティストとしての美学がそれを許さず、墓場まで持ってゆく秘め事と決めこんでいたのだ。 世紀末の寵児(ちょうじ)のように世に出ると、たちまち反動に逆襲され、暴力沙汰(ざた)のスキャンダルを週刊誌に暴き立てられたりした。いま思えばそれは、無意識の自傷行為のようなものだったという。 「米良美一は、かくあらねばならないという、なかば煩悩と化した幻想を背負っているのに疲れ果てて、罠(わな)を仕掛けてくるような人物を、あえて引き寄せたりして、みずから破壊しようとしたんです」 自意識が方向感覚を失ったように迷走し、心身のバランスに変調を来し始めた米良は00年、ついに納得のいく発声ができなくなった。 ■人生と重なり合う歌 瞳の奥深くで小爆発が起こったように、とめどなくあふれる涙をぬぐおうともせず、米良は自宅の居間で正座したまま、テレビの画面に目を奪われていた。 偶然、映った夜の番組で、美輪明宏が自作の「ヨイトマケの唄(うた)」を歌っていた。泥にまみれた男たちに交じって、土木工事に汗水たらして働いてくれた、貧しい母親をしのぶ賛歌は、肉体の苦痛にさいなまれた少年時代の記憶をまざまざとフラッシュバックさせたのだった。 このとき、ありのままの声で無心に歌えなくなるスランプから抜け出せないまま、数年もの月日をもがき苦しんでいた米良は「すべては、この歌にたどり着くために起こったのだ」と直感したという。 「この歌は、苦しみを分かち合える同志のような存在。まるで僕が歌うことを予期してつくられたとしか思えないほど人生と重なり合う。ありのままの自分をさらけだして歌える歌はこれしかない」 レパートリーに欠かせない一曲となった「ヨイトマケの唄」は裏声ではなく地声で歌う。神がかった仮象の声ではなく、悩み苦しむ人の声で歌われるべきだからだ。ようやく人生の礎を踏みしめて、現実から目を背けずにいられるプライドを取り戻した。 天上界につながる仮象の世界で、ひたすら夢想する米良を偏愛していた古くからの熱狂的なファンは激減しただろうという。しかしそれでも、神ではなく、あっけらかんと人を称(たた)える賛美歌を歌いやめるつもりはない。=敬称略 |
秋の叙勲受章者らを天皇陛下がお祝いする行事が7日あり、皇居・宮殿に初めて盲導犬が入った。旭日双光章を受けた元京都府視覚障害者協会会長、福嶋慎一さん(74)の「ルカ」で、ラブラドルレトリバーの4歳のオス。
陛下は宮殿・豊明殿などで約1600人の受章者らを祝福。その後、福嶋さんの手を握り、「(盲導犬とは)もう何年くらいになりますか」「よくついてきますか」などと声をかけた。ルカは、肌色の服を着せてもらい、福嶋さんの横におとなしく座っていた。
福嶋さんは全盲で視覚障害1級の認定を受けており、外出時にはいつもルカを伴い、2年半、一緒に生活している。盲導犬の同伴を申請し、許可された。宮内庁によると、盲導犬の同伴申請も初めてだったという。
福嶋さんは「(盲導犬を)入れていただき本当にありがたい。社会に盲導犬への理解が広がる大きなステップになるのでは」と話した。【真鍋光之】
毎日新聞
2月6日13時0分配信 WIRED VISION
世界中で売れている『脳を鍛える大人のDSトレーニング』ゲーム。その中で微笑んでいる顔が印象的な川島隆太教授(48歳)は、このシリーズで生じた監修料約1100万ドルの受け取りを辞退した人物でもある。
AFPが最近行なったインタビューをまとめた記事(英文記事)によると、川島教授が勤める東北大学の規定で、教授はこれらのゲームで発生した監修料の半分を受け取る権利があるが、同教授はこの全額を研究室建設に回したのだ[監修料はNintendo DSのみでも累積24億円にのぼり、教授はこのうち12億円を受け取る権利があるという]。 川島教授は約1100万円の給料だけで満足だと述べ、「家族はみな怒ってますが、私は、金が欲しいなら働いて稼げと言っているんです」と語っている。 川島教授は辞退した監修料を研究資金として使用し、東北大学加齢医学研究所に3億円をかけた研究室[ブレイン・ダイナミクス研究棟。最新のレーザー顕微鏡が約2億円]を建設した。4億円をかけた別の研究室[超高磁場の磁気共鳴画像装置を備えている]も、3月に完成する予定だ。 世界で最も成功したゲームの1つに顔を出しているにもかかわらず、川島教授自身はゲームをせず、仕事をして時間を過ごす方が好きだという。教授の子供たちも、平日のビデオゲームは禁止され、遊んでいいのは休日の1時間のみだった[前述記事によると、教授には、14歳から22歳まで、4人のお子さんがいる。規則を破った罰にディスクを壊したこともあるという]。 「ゲームの恐ろしいところは、いくらでも多くの時間を注ぎ込めることだ。ゲームをすること自体が悪いとは思わない。問題なのは、ゲームをすることで子供たちが、勉強や家族との会話といった大切なことをできなくなってしまうことだ」と、川島教授は言う。 だからこそ、川島教授のゲームは1日数分で脳を鍛えられるようになっているのだろう。 川島教授は本当にひたむきな人のようだ。少々変わり者でもあるが、悪い意味でというわけではない。 [科学技術振興機構のサイト『Science Portal』には、川島家の子育ても含むさまざまな話題に関する、教授へのインタビュー記事がある] |