すばらしい新聞記事
 新聞記事を普通と違った見方(自分勝手な目)でみると「生もの」から「高級品」に分けられます。「生もの」とは新聞が配られた日だけとても貴重な情報(例、天気予報、テレビ欄)***賞味期限が短い。「高級品」とは何日、何ヶ月、何年たって読んでもすばらしい記事。***一ヶ月に一記事ぐらいしかないです。このコーナーではこういった記事を集める予定です。最もこういうカリスマ性を持った人物。それは明らかです。++++もちろん長嶋監督です。


2003年1月15日
 田中さん「自信」の源泉 
今西拓人(大阪科学環境部) 


講演会で日本質量分析学会から贈られた特別賞の記念品を手にする田中耕一さん=大阪国際会議場で8日、佐藤賢二郎写す
 ◇技術者としての実績自負−−「変人」だから独創性も

 島津製作所フェローの田中耕一さん(43)がノーベル化学賞に選ばれたのは、昨年の最も明るいニュースの一つだったと思う。年が明けても講演会の依頼やマスコミからの取材申し込みが相次ぎ、人気は衰える気配を見せない。一部で「癒やし系」ともてはやされる田中さん。しかし、受賞発表から約3カ月間、取材を通じて鮮明になったのは、田中さんは「自信に裏づけられた優れた技術者」だったということにほかならなかった。

 田中さんをめぐっては、ほほ笑ましい話題が絶えない。「授賞式での英語のスピーチが不安」とこぼし、自分のことを「モテナイくん」と言って周囲を笑わせた。「独身だったらよかったのに」などと、ユーモアも忘れない。

 田中さんは、そうした研究以外の部分にスポットを当てた報道が多かったことを、どう感じているのだろうか。記者会見で研究内容について問われ、目を輝かせて熱心に説明する「技術者」の顔が印象的だったので、受賞決定から間もない時に、それについて尋ねたことがある。

 「全然、構いません。みなさんが面白がって、世の中が明るくなるのなら、それでいいのかなと思っています」とあっさり言い、その後で、こう付け加えた。

 「私はある程度、自分に自信がありますから」

 控えめな言動が多い田中さんと「自信」という言葉は、結びつきにくかったが、この時、田中さんの知られていない一面を見たと思った。

 田中さんは、自ら「変人」と呼ばれていると明かした。最初、それを自分では否定したいという気持ちがあり、直接、言われても、気づかないふりをしたり、無視する気持ちもあったという。社会人になって実績を上げることで、そんな気持ちを克服し、人から何と言われようと気にならなくなったと話した。

 小さいころは、自分に自信が持てず、人前で話す時は、赤面したり、あがったりして失敗したことがよくあった。人と違うことを言って、笑われることも嫌だったという。

 そんな田中さんが大変身するのは、技術者になってからだ。大学時代の専攻とは別の分野に取り組み、開発した技術が「これはいい」と周囲に認められるようになって、ようやく自信が出てきたという。自信が持てる部分が一つでもできると、人に何と言われようと全然、構わなくなり、「変人」を受け入れられるようになったわけだ。

 今度は、「変人」を逆手に取った。「変な考え方」と思われても結構だし、自分が飾らずに話していることを、人が面白がり、人を楽しませたり、気分を楽にさせているのなら、それでもいいんじゃないか。そう思うと、非常に気が楽になったという。

 そうした「心の変遷」を通して得た自信が、田中さんの言動を、自然体にし、みなに好感が持たれるのかもしれない。

 自信を持った田中さんは「変人」のあり方にも言及するようになる。そこには「人間は完ぺきではない」という考えが前提にある。「日本は何事にでも完ぺきであることが求められるから、失敗ばかりが目についてしまう。だから、失敗を恐れ、みんな同じ枠にはまり、似たようなことに取り組む」と、独創性が生まれにくい日本の土壌の現状を指摘するのだ。

 田中さんは「人間、普通でなくてもいいと思います」と話す。ここには「変人」ぶりを認める環境でないと、独創性は生まれないという意味が込められている。

 「完ぺきを求めない、失敗を恐れない、失敗をしても取り返しがつく。そういう考え方を日本の社会は取り入れてもいいのではないか」――ノーベル賞受賞で田中さんは、このことを一番、言いたかったのでは、と感じる。

 この言葉は、閉そく感にあえぐ日本社会を照らし、今後の筋道を示している気がする。ノーベル賞受賞の対象となったたんぱく質などの新しい質量分析法も、コバルトとグリセリンを誤って混ぜた「失敗」から生まれたものだったからだ。

 ノーベル賞受賞は、裏方で地道に仕事をしている人でも、世界に評価される可能性を教えてくれたことでも意義深い。それに、勇気づけられ、励まされた人は少なくない。「田中人気」は、謙虚さの中にも、さまざまな苦難を克服した田中さんの自信が隠されているからだ、と改めて思う。

 メールアドレス kishanome@mbx.mainichi.co.jp

(毎日新聞2003年1月15日東京朝刊から)


タマちゃんTop News
タマちゃんは「ニシ・タマオ」
◆西区が「住民票」を交付へ
「ニシタマオ」として住民登録されることが決まったタマちゃん
 横浜市西区の帷子川に頻繁に姿を見せているアゴヒゲアザラシのタマちゃんが、西区役所に住民登録されることになった。タマちゃんに「住民票」を交付して新区民に迎え入れるイベントが十二日、横浜市西区中央の西区総合庁舎一階の区民ホールで開かれる。「帷子川に現れて五カ月になり、区内ではすっかりおなじみの存在。帷子川を全国に有名にした功績をたたえたい」と区の担当者は話している。
 区では専用の住民票を用意。名前の欄は、姓は区名から「ニシ」を、名は性別が雄であることから「タマオ」と決めた。住所は「西区西平沼町帷子川護岸」。区民になった日は、帷子川に初めて来た昨年九月十二日とした。
 住基ネットのコード番号も割り振るが、「実在の区民と重なる恐れがある」(同区区政推進課)ため、漢字を加えるなど工夫を凝らすという。住民票の交付に先立ち、区は転入届も準備し、今までの住所には「多摩川から鶴見川」と記入される。
 晴れて新住民となったタマちゃんには、河川環境の浄化運動やポイ捨て禁止キャンペーンなどのマスコットとして、「西区まちのセールス大使」に君塚道之助区長から任命される。
 午前十一時から行われるイベントでは、帷子川近くの保育園と幼稚園の園児が代理人として転入届を提出し、住民票を受け取る。また、「見守る会」のメンバーがエピソードを披露するほか、区民が提供した写真約十点の展示会が同日から十四日まで開かれる。
 動物が住民登録されるのは、同市内では初めてという。

2003年2月7日神奈川新聞ホームページより

太平洋上空、医師・看護師ら連携プレーで1歳児助かる

 太平洋上を飛行中の大韓航空機内で3日、急病で危険な状態になった1歳2か月の女の赤ちゃんが、同機に乗り合わせた看護師と近くを飛行中の別の大韓航空機に乗り合わせた医師、乗務員の連係プレーで命を救われた。成田空港に到着後、入院した赤ちゃんは14日までに元気に退院した。

 大韓航空東京空港支店によると、ロサンゼルス発成田行き大韓航空2便(ボーイング747―400型)で3日午前8時ごろ、乗客の在日韓国人の女性(32)が「搭乗前から風邪気味だった娘が意識を失ったようだ」と客室乗務員らに訴えた。

 乗り合わせた日本人看護師の女性2人が乗務員の機内アナウンスに応え、ファーストクラスの空席に赤ちゃんを移して救護にあたったが、容体は悪化。当時、ロサンゼルスと成田の中間点を飛行中で、付近に緊急着陸できる空港がなかったことから、機長は付近を飛行中のロサンゼルス発韓国・仁川行き同航空18便(同)の機長に、医師が搭乗していないか僚機同士をつなぐ専用無線で問い合わせた。

 18便に偶然乗り合わせていた韓国人医師が名乗りを上げて操縦室に入り、機長や乗務員らの通訳を交えて無線で看護師と交信し、急性肺炎と診断。看護師らは医師の指示に従いながら、意識を失った赤ちゃんに酸素ボンベを使用するなどの応急処置を実施し、何とか窮地を切り抜けた。

 2便は午後1時40分ごろ、成田空港に到着。赤ちゃんは待機した救急車で千葉県成田市内の病院に運ばれ、ただちに入院。手当てを受けて一命を取り留めた。

 同航空は、「医師と看護師の国籍を超えた連係プレーで赤ちゃんの命を救うことができた」と話している。(読売新聞)
読売新聞ホームページより[2月15日6時25分更新]

■《天声人語》

 騒然とした中でのキックだった。ボールが大きくゴールを外れると、観客は喝采(かっさい)した。先日香港であったサッカー国際親善試合の一幕である。地元紙などによるとこんないきさつだった。

 デンマーク対イラン戦の前半終了間際のことだった。観客の笛を終了の笛と勘違いしたイランの選手がボールを手に取った。反則である。審判はデンマークにペナルティーキックを与えた。イラン側は抗議し、ファンは騒ぎ、競技場は険悪な空気に包まれた。

 「ボールを手に取ったイランの選手は不運だった。それに乗じるのはフェアではない」。キックをわざと外したデンマークの主将の弁である。結局デンマークは0対1で敗退するが、さわやかな印象を残した。

 これがたとえばワールドカップの出場権をかけたような大事な試合だったらどうだったろうか。ルールはルールだ、と迷わずゴールを目指すか、やはりわざとゴールを外すか。葛藤(かっとう)は一段と厳しかったろう。

 去年、高校サッカーの岡山県大会で優勝した水島工はそんな例だ。決勝の延長戦でいわゆるVゴールを決められた。しかし、審判はゴールを認めなかった。最後はPK戦で水島工が勝った。水島工の選手や先生は悩んだ。全国大会出場を辞退すべきかどうか。結局出場することにしたが、ある主力選手は「試合は負けでした」と言って全国大会に出なかった。

 どちらがいいか悪いかという話ではない。素早く決断したデンマークにも、悩んだ水島工の選手らにも共感できる。そして、自分だったらどうしただろうかと考えさせられる。

朝日新聞ホームページより(2003.2,13)


2003年5月11日
自分が「キャッチボール」と呼んでいる朝日新聞の得意技が久しぶりにあったので紹介させていただきます。「キャッチボール」とは「違う日の紙面に連鎖する」ことをいい、「天声人語」、「社説」、投稿欄「声」の間で行われます。
4月28日声欄「胸が熱くなる心眼開く決意」

上の投稿が下に連鎖しました。
5月3日声欄「盲導犬育てる喜びとつらさ」

 
投稿欄「声」欄で福祉の投稿は上と下の長方形のところに掲載されることが多く、次に一番下の段です。ちなみに政治経済など難しいのは一番上の段に載ります。

余談


10年近く新聞を切り抜いていますが、「キャッチボール」が載ると前に切り抜いた記事の山から探し出すのが楽しくて仕方がありません。(上の画像は近頃の4ヶ月間で切り抜いた新聞記事です)だいたい2週間ごとに切り抜くので2週間周期の地層になってます。順番をかえないように一層、一層、丁寧に地層を崩し、探します。 
 もう社会人になり、新聞を切り抜いても何もメリットはないんですが、新聞記事からいろんな知識を得てきたため、自分には神聖なものになってしまい、汚せないし、ごみとしては捨てられないという思いで続けています。おかしなことに「福祉記事」を切り抜いた新聞はただの紙切れ。汚れてもなんとも思いません。ただ福祉の情報を得るだけなら「ヤフー」の方が短時間で広域の情報をたくさん得られますが、新聞を1ページ、1ページめくって探しだせた記事には愛着がもてます。
10年にもなると切り抜きながら聞いていたBGMが「チャゲアス」「ドリカム」が「小室」になり「宇多田」へと変わりました。阪神大震災、2002年の「日韓ワールドカップ開催決定」、「介護保険制度の成立」したときも切り抜いていました。
3大紙をいっしょに切り抜いた時期もありましたが、今は携帯電話、インターネットの費用のため経済的に厳しくあきらめてます。「読売新聞」、「毎日新聞」もおもしろいです。
 「キャッチボール」。最近では元日本サッカー代表の井原選手の「わざとファールで試合を止める」という連載記事に連鎖したのもありました。

2003/9/29
モー娘が生きる勇気くれた 金沢・難病の女子中学生 夢実現、ステージ観賞

 血液の重い病気と闘いながら、金大附属病院の院内学級に通う中学一年、金田沙貴子さん(13)が今夏、あこがれの「モーニング娘。」の公演を観賞する夢をかなえ、実現に協力した金沢市のボランティア団体に感謝の手紙を寄せた。「涙が出るほどうれしかったです。一生の思い出になりました」。公演後、病状が一時、飛躍的に回復し、主治医を驚かせた沙貴子さん。手紙の文面からは躍動的な舞台に元気になった自分の姿を重ね、病と闘う気持ちを一層強くする前向きな心情がにじんでいる。

 沙貴子さんは三歳の時に血液中の血小板が少なくなる「慢性血小板減少紫班病」と診断されて以来、入退院を繰り返してきた。この病気は内出血を起こしやすく、脳や腹部で起きると生命に危険を及ぼすこともあり、沙貴子さんは激しい運動や一時間を超える移動も控えている。感染症を防ぐため人ごみではマスクが欠かせない。

 沙貴子さんは小学生のころから「モーニング娘。」、特に加護亜衣さんの大ファンだった。今年五月、沙貴子さんが脳に出血を起こして入院した際、父親は最悪の事態も覚悟して、子どもの夢をかなえる手助けをしている世界的なボランティア団体「メイク・ア・ウイッシュオブジャパン」北陸支部に相談。「何とか大ファンの『モー娘。』を間近で見せてやりたい」と訴えた。

 その後、北陸支部長の祖泉淳さんらが関係者に働きかけ、八月に愛知県豊田市の豊田スタジアムで行われるコンサートの観賞が実現した。

 同じく「モーニング娘。」のファンだった双子の妹、由貴子さんや両親と会場を訪れた沙貴子さんはステージに近いスタジアム席から涙を流し、声援を送ったという。

 「小さいころから安静が必要な生活を続けてきた娘にとって『モー娘。』はあこがれの的。特に年齢の近い加護さんに自分の姿を重ねていたようです」と母親は沙貴子さんの心情を代弁する。

 コンサート後、金沢に戻って病院で検査を受けた沙貴子さんは、ふだん十万から数千の間を上下している血小板の数値が正常値の三十万二千にまで上昇した。一週間後には元の低い数値に戻ったが、父親は「病は気からというが、夢が実現して病気と闘う気持ちが高まったのだろう」と医学的には説明できない娘の変化を語る。

 「あの後、血小板が増えたのも、そいちゃん(祖泉さん)のおかげです。私もこれから頑張っていきたいです」。沙貴子さんから感謝の手紙を受け取った祖泉さんは「自分たちは病気を治すことはできないが、夢をかなえることで子どもたちに次のステップへ向かう勇気を持ってほしい」と感慨を新たにしている。

 【メイク・ア・ウィッシュ】難病と闘う三歳から十八歳未満の子どもたちの夢をかなえるボランティア団体。米国で一九八〇年に白血病の七歳の少年の「警察官になりたい」という夢を地元警察官たちが「名誉警察官」に任命してかなえたのが設立のきっかけ。世界二十八カ国にネットワークを広げている。日本では一九九二(平成四)年にメイク・ア・ウィッシュオブジャパンとして設立。現在までに五百人を超える子どもの夢をかなえた。二〇〇〇(同十二)年には北陸支部が発足。ヤンキースの松井秀喜選手も日本にいた時代、難病の子どもと会い、励ましの言葉を贈っている。

北国新聞ホームページより


2003年10月30日更新
朝日新聞「社説」ホームページより

松井選手――花開いた大きな挑戦

 日米ともプロ野球シーズンが終わった。松井秀喜選手が所属する大リーグのニューヨーク・ヤンキースは、ワールドシリーズでフロリダ・マーリンズに敗れたが、彼の活躍は本当にすばらしかった。第2戦で先制の3点本塁打を放ち、第3戦では決勝の適時打を打った。日本から声援を送ったファンは大きな感動をもらっただろう。

 「僕自身はチームの力になることしか考えていないが、ファンの皆さんや野球好きの子どもたちが喜んでくれればうれしい。いろんな人のパワーにつながってくれればいいですね」と、松井選手は言った。

 プロとして、「自分を見る人」の存在を常に意識してきた。シーズンの163試合すべてに出場し、地区シリーズ、リーグ優勝決定シリーズ、ワールドシリーズの全試合に彼の姿があった。実力でつかみとった出場だが、彼の自負とファンへの責任感が伝わってくる。

 ひどい負け方をしても、まったく打てなかった日でも、試合後の記者会見できちんと語った。メディアのうしろのファンの存在を常に考えているのだ。

 プロスポーツは実績だけで勝負すべきものだという考え方もある。「野球選手はバットとグラブで語るものだ」という大リーグの格言も残っている。しかし、マツイの実力と試合後のまじめな態度は米国のファンにもとても好意的に受け止められた。「ヒデキはあらゆる点で伝統のヤンキーだ」とニューヨーク・ポスト紙は評した。

 松井選手のほかにも、今年の大リーグではイチロー、野茂英雄、長谷川滋利ら日本人選手の活躍が目立った。

 ところで、日本のプロ野球はどこへ行くのか。今年は阪神タイガースの18年ぶりのリーグ優勝で盛り上がり、日本シリーズにも熱が入った。とはいえ、実力と開拓者精神を兼ね備えた若者の大リーグ進出はこれからさらに加速するだろう。

 日本のプロ野球をもっと魅力のあるものにする鍵は、ファンを大切にすることと、国際的な広がりを持つことである。

 大リーグは地区シリーズ、リーグ優勝決定シリーズ、ワールドシリーズと息もつかせぬ展開でファンを引っ張っていく。日本では、リーグ優勝が決まってから日本シリーズまでかなりの空白があった。ファンの心理を踏まえぬ間延びした空白だ。パ・リーグは来季からプレーオフを始めるが、まだ球界全体に巨人にぶらさがっていればいいという空気が残っている。ファンの求めるものを見つめ直してもらいたい。

 国際的には、日本が音頭をとって韓国、中国、台湾などとの「アジアシリーズ」を実現させる道を探るべきだ。

 日本シリーズの勝者が「アジアシリーズ」で勝ち抜き、大リーグのプレーオフに参加する。そんな枠組みができれば日本のプロ野球と大リーグがさらに近くなり、新たなファンを引きつけるだろう。


2003年12月23日更新
12月19日読売新聞「編集手帳」
 米大リーグ、ヤンキースの、というよりは時代そのものの花形選手だったジョー・ディマジオは、一九四九年に辛酸をなめている。右足かかとの軟骨を手術し、長い欠場を余儀なくされた◆練習する間もなく復帰した最初の試合で貴重な本塁打を打つ。残りのシーズン、大差の負け試合にも痛む足で全力のプレーを見せた。「どうしてそこまで自分を痛めつけるのか」と問われて、答えている◆球場に来てくれたファンのなかには、ディマジオを見るのが最初で最後の人が必ずいる。私はそういう人たちのためにプレーしている」と(伊東一雄、馬立勝著、中公文庫「野球は言葉のスポーツ」)◆「アメリカには美しくデザインされたものが三つある。合衆国憲法、ジャズミュージック、そして野球だ」と語ったのは文学者のジェラルド・アーリーだが、野球に携わる人の心の意匠として、ディマジオの言葉も十分に美しい◆松井秀喜選手のいるヤンキースとデビルレイズの開幕戦が、来年三月、東京で開催されることが決まった。ヤンキースが日本で試合をするのは四十九年ぶりのことである◆巨人時代から全身全霊で白球に向かってきた松井選手には、ディマジオの言葉がよく似合う。「美しきデザイン」の一角としてひと回り大きくなった姿を、攻守に見せてくれることだろう。

2003年12月30日更新 読売新聞ホームページより
日本の財政赤字を家計に例え、わかりやす説明してています。
予算案、家計なら月収54万、ローン残高6800万円

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 24日決まった2004年度予算政府案は、一般会計の総額で82兆1100億円。1万円札を積み上げると高さ821キロ、エベレスト山92個分という想像もつかない額だ。

 しかし、歳入と歳出のシェアを、平均的な勤労者世帯(年収646万円)の家計にあてはめると、その深刻な財政状態が実感できる。

 ボーナスを含めた年収を月収に直すと、夫の収入は49万3000円。国の税収(41兆7400億円)が、この月収にあたるとして計算した比率で、予算案の主要項目の金額を家計にあてはめてみた。

 妻の内職(予算案のその他収入)4万4600円を加えた世帯の収入は53万8000円。しかし、過去のローン返済(国債費)と田舎への仕送り(地方交付税)で40万円が消え、家族が衣食住に使える可処分所得(生活費)は13万円しか残らない。

 ところが、通院費・薬代(社会保障関係費)に23万4000円もかかるほか、教育費(文教・科学振興費)や家の補修(公共事業)などの出費も大きい。月々の出費が月収を43万円も上回り、毎月カードローン(国債発行)で借金を重ねている。

 積もり積もったローン残高(国債発行残高)は6800万円。返済のめどはまったくたたない


2004年1月24日更新
「洗剤ピラミット」

現在、4つの新聞を採ってます。契約の度に「洗剤」、「洗剤」。こんなにたまりました。
「ヨシノブ」も巨人ファンでない自分にはただの人。粗品よか、内容で勝負してほしいです。

2006年2月15日更新
 12月10日の毎日新聞の記事で、これが三大紙の新聞記者が、枠記事(コラム記事)で書く内容なのかとずっこけてしまう記事がひさしぶりに掲載されました。さすがプロの新聞記者の記事だというすばらしいのにはたくさん出会いましたが、逆は珍しいです。
 野沢和弘さんという毎日新聞の記者の方が書かれたみたいなんですが、載っている顔写真も歯をみせた満面な笑みで今までの背広でネクタイの真剣な他の記者さんの顔写真とは違う雰囲気で、信憑性に欠けるような印象も・・・。この方がどんな記事が今まで書かれたかヤフーで検索しても、ウィルスバスターのフィルターがかかり(性関係?)、見ることも出来ず。ひとりぐらいこういう記者さんがいてもいいんですが、正直、どうした毎日新聞という感じです。
よくクレームから社会問題に発生しなかったのかの法が不思議です。
ヤフー「野沢和弘(記者)」へリンク

以下は該当記事です。

ある学校の先生から聞いた実話である。

 近所の玄関先で大きな声を出す障害児がいて、迷惑がられていた。その先生の家にも来た。たしかうるさい。しかし、「あっちへ行け」とも言えず「元気そうで、いいじゃないか」と思うことしたら、その先生の家ばかり来るようになったという。

 あるとき、近所一帯が空き巣入られた。ところが、先生の家だけは無事だった。「いつも人の声のするところには泥棒は近寄らないのでしょう」と先生は言う。

下校途中の小学生が襲われる事件が相次ぎ、世の親たちを震え上がらせている。防犯用PHSを児童に持たせている自治体もある。すぐにSOSを発信すれば初動捜査には役立つだろうが、未然防止にはあまり効果がなさそうだ。

 情報技術や通信機器よりも、やっぱり人間だ。小学校乱入のようなケースもあるが、たいていは誰もみてないところで子供が襲われる。人の声がするところに悪意は入り込みにくいものだ。親たちが忙しいのなら、お年寄りが地域に出て、いつも人の気配がある街づくりに一役買ってはどうだろう。

 認知症のおばあちゃんが早朝深夜徘徊(はいかい)し、何かとトラブルを起こしている地域を知っているが、やはり空き巣や痴漢の被害は少ない。

 だいたい、高齢化率のわりに、街で見かけるお年寄りの姿が少なすぎる自宅に閉じこもり、施設の中で介護予防の訓練を受けているだけではもったいない

 お年寄りよ、街に出よう。孫たちが大変へ目にあっている。見守ってほしい。

******この記事で疑問に感じること********
*学校の先生が家で過ごす時間と障害児が外で遊ぶ時間は違うのでは?
*「たしかにうるさい」、「あっちへ行け」とは障害児を受け入れられる方は感じないのでは(障害を理解しているので)?
*「近所一帯が空き巣入られた。ところが、先生の家だけは無事だった」は表現がおおげさ。別の理由で入らなくって、障害児の方と関連してはまずいのでは?本当に一軒だけ入らなかったのでしょうか?
*「お年寄りが地域に出て、いつも人の気配がある街づくり」は車社会になり主婦たちが歩いて買い物や外出しなくなったほうが要因では?
*「認知症のおばあちゃんが早朝深夜徘徊(はいかい)し、何かとトラブルを起こしている地域を知っている」でトラブルとはどんなことでしょうか?地域とはどこなんでしょうか?空き巣や痴漢を減らすのには「認知症の方を徘徊させる」のが一番ということか?
*「だいたい、高齢化率のわりに、街で見かけるお年寄りの姿が少なすぎる自宅に閉じこもり、施設の中で介護予防の訓練を受けているだけではもったいない。」。これは記者さんが昼間都会で働いているためではないでしょうか?
*根本的に知的障害児の方と認知症の方を話題に使わなくても他のことで足りる気がします。

ごちゃごちゃ書きましたが、自分には「お年寄りの外出」より別の問題(地域力の低下など)を解決させた方がベストに感じられます。

(おまけ)
野沢記者は毎日新聞社会部副部長(上から2番目?)で全日本手をつなぐ育成会理事(各地域にある親の会を結ぶ役割がある会?)だそうです。てっきり新人の記者さんが書いたと思っていました。こんな役職をしている方が書いたとはがっかりです。
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上記の記者が違う日に同じ欄に載せた記事をみつけましたが、これまたおかしいです。本当に毎日新聞のベテラン記者なんでしょうか?
2006年1月7日毎日新聞発信箱「駅」(これまた全体的に矛盾があるんですが、今回は1部を抜粋)
 手足が不自由でトイレの始末を自分では出来ない医師から聞いた話しだ。学生のころ、車いすで通学途中に便意を催した。
 「すみませんが、私のお尻をふいていただけませんか?」。駅で見知らぬ人に声を掛け、
トイレにつれていったという。
 「はずかしくなかったですか」。そう聞かれた医師は意外そうな顔で言った。「できないことを頼むのがはずかしいのですか?。」
 何でも一人でできることが自立なのではない。できないことを遠慮なく頼める、頼みを聞いてくれる人がいる、それが太古の昔から群れで暮らしてきた人間にとっての自立だと悟った。
******この記事で疑問に感じること********
 *学者ならともかく、学生時代にお尻がふけないほどの障害があっても医師になれるのでしょうか?技術者になろうと大学に入って、障害の進行のために夢をあきらめた方はたくさん居られます。
*もっと矛盾に感じるのが学生時代ということで今から20年以上と想定すると、そのころの駅は階段を上るのは持ち上げしかなく(駅員に手伝ってもらうため、駅構内ではずっと駅員の方と一緒では?)、トイレ自体も段差が存在し(車いすトイレはもちろん存在しなく)、このお願いが簡単にできる環境ではないのでは?と感じます。そもそも車いすが電動だとしてもバッテリが重たい上に長距離も走行できないので、一人ではなく付き添いつきの手動車いすでの通学しか出来なかったようにも感じます。
*学生時代だけでもなく、今現在もお尻はふけないので、現実的には病院の職員に気軽に声を掛けることでトイレをしているというような会話になるはずです。うその話なので濁すように回想にしている気が自分にはします。(学生のころからでは信じられます。)
*上で青色にした決め台詞を生かすために作ったのでは?

*今回は省略しましたが、前半では階段を下りる老人をだれも助けなかったことを掛かれているんですが、「終電間近の東京の地下鉄の階段を、足元がおぼつかない老人が手すりにつかまって下りていた」との「終電間近」との表現も作りぽっくてあやしいです。
*他にも多々首をかしげるところがあります。
ここまでなんでオーバーに書くのか、理解できないです。
2006年2月28日更新
 毎日新聞野沢記者が以前に書かれた記事が見つかったので、紹介させていただきます。これまたおかしいです。なんで「刑務所」を例に出すのか、さっぱり理解不能です。ほかにいろんな例えを出来るのになんで「刑務所」なんでしょうか?これではいろんな方に失礼です。野沢さんは山梨に来る予定はないんでしょうか?直接お会いしたいです。絶対におかしいです。比較の基準がわからないです。(おかしなところに色をつけます)「何十年」という表現を使ってますが、20年以上前は施設数はとんでもなく少ない上に、その後増え続ける施設増設を望んだのは保護者様など「親の会」が中心です。表現がおおげさです。この記事では、今、施設で暮らしている入所者の方は全員強制的に施設内で生活を強いられ、嫌な思いで暮らしているような表現にも感じられますが、実際にはそんなことないです。次の記事に注目してます。

<発信箱>もう施設に帰らない・野沢和弘 科学環境部



「ノーモア施設」とか「入所施設は刑務所のようなものだ」という記事を書くたびに、「ひどい」などという批判の手紙や電話が来る。

障害者の福祉に情熱をささげている入所施設の職員にとって自分が働く場所を「いらない」なんて言われたら腹が立つのは分かる。真面目で有能な施設職員の友人が私には何人もいる。障害のある長男が半年暮らした施設の献身的な支援には今も感謝している。医療や社会的理由で一時的に入所施設が必要な場合があることは認める。

しかし、また友人を失うことを覚悟して書くが、障害者の入所施設の中には刑務所以下の所が少なくない。ウソだと思ったら、刑務所を見学してほしい。明るさ、広さ、衛生、食事、医療。どれを取っても刑務所にかなわない施設は多いはずだ

ちょうど今、新障害者プランの策定作業が佳境を迎えているが、入所施設偏重路線を守ろうという声は相変わらず強い。わが子の将来を不安に思う親。その親心を施設の経営者、建設業者、議員などが後押しする。こうした勢力に比べ、障害者自身の声はあまりにも小さい。しかし、いったい誰のための福祉なのか、行政は今一度考えてほしい。

何十年も施設にいた経験のある障害者の声を集めようと、今、各地の福祉関係者が聞き取り調査をしている。施設の中の驚くべき実態、施設から出た彼らのみずみずしい感性「もう施設には帰らない」という声をぜひ聞いてほしい。街の中でつまづき、傷つきながらも人間らしさを回復していく姿は、感動的ですらある。

(科学環境部)


[毎日新聞ニュース速報 2002年10月19日]
***つけたしコメント
 根本的に福祉観がしっかりしていないため、身体障害福祉と知的障害福祉が混ざっている気がします。「施設の中の驚くべき実態」ってなんですか?人の出入りが少ないので中では非人権的なことが、日常的に行われているとのことなんですか?どこの施設を訪れても、職員の方は一生懸命やっているので少なくとも1つは輝くところがあるはずです。この記者さんが偏りすぎというか。そんなに自閉症を持たれた子供さんの育児過程において嫌な思いをしたんでしょうか?なにしろおかしいです。

世界一背の高い男性、長い腕を生かしてイルカを救助

12月17日17時9分配信 ロイター


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 12月14日、世界で最も背の高い中国人男性が、その長い腕を使って瀕死(ひんし)のイルカ2頭を救助(2006年 ロイター/China Daily)

 [上海 14日 ロイター] 中国に住む世界で最も背の高い男性が、その腕の長さを生かして、死にかけていたイルカ2頭の命を救った。新華社が14日伝えた。
 記事によると、助けられたのは遼寧省・撫順の水族館で飼われているイルカ2頭。
 身長2メートル36センチの鮑喜順さん(55)は、プラスチック片を飲み込み瀕死(ひんし)の状態のイルカ2頭の口にその長い手を入れ、胃の中から見事に破片を取り出したのだという。
 一般的な人の腕の長さではイルカの胃にはまったく届かず、今回は処置に困った関係者が、ギネスブックに世界一背の高い男性として登録されている鮑さんをわざわざ内蒙古から呼び寄せた。
 鮑さんが、1メートル6センチもある長い腕を使ってイルカの胃の中から異物を取り出す様子は当地のテレビでも放映された。
 新華社によると、イルカはその後元気を取り戻しつつあるという。

バルセロナの敗戦に号泣した日本人少年

2006年12月22日(金) 21時25分 スポーツナビ

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 バルセロナが、ここ数日躍起になって探していた少年がついに見つかった。その少年とは、クラブワールドカップの決勝戦(インテルナシオナルが1−0でバルセロナに勝利)後に号泣し、12月18日付のバルセロナ寄りの『ムンド・デポルティボ』紙に一面トップで大きくそのシーンが掲載された日本人少年。バルセロナの敗戦を受け、号泣しているこの少年の反響は想像以上に大きく、20日にマスコミとの懇親会を持ったバルセロナのラポルタ会長自らが「この子を探し出してもらいたい。何らかの贈り物をしたい」と要請していた。これを受けたクラブは日本のソシオ(クラブ会員)や関係者にその少年を探し出すための協力を仰ぎ、21日にはそれが誰であったのか明らかになった。

 22日の『ムンド・デポルティボ』紙には「この少年にとって一番のクリスマスプレゼント」と題して1ページにわたる記事が掲載された。これによると、バルセロナがこの少年をカンプ・ノウの試合観戦に招待する意向であるとされており、マルク・イングラ副会長もその事実を認めている。また、この少年がロナウジーニョやバルセロナの選手と会った際には「ドウモアリガトウ」と言い、カタルーニャ語で「ありがとう」も言うだろうというストーリーも作られていた。

 この少年にとってはバルセロナからまさかのクリスマスプレゼントが贈られることとなったが、バルセロナにとっても日本の少年がバルセロナの試合結果に一喜一憂し、悲しみの涙を流している事実は敗戦の痛みを癒すものだった。クラブのみならずバルセロナの地元ファンにとっても、日本から届いた温かいクリスマスプレゼントとなって受け止められている。
2007年3月21日更新
 読売新聞の「人生相談」という毎日掲載の読者の相談に専門家の方たちが答えるコーナーで障害者の方同士の結婚において、すばらしいやり取りがあったので紹介させていただきます。今から10年以上前に「大学生の息子が自分の生活もきちんとしていないのに障害者の方のサポートに熱中していてこまり、どう辞めさせるか教えて欲しい」という相談に答え役の方が「辞めさせるどころか、人間としてすばらしいので逆に褒めなさい」という予想外の回答。当時、学生時代だった自分はこの息子さんと同じで在宅生活をされている脳性まひの方のお風呂介助に毎日入っていて、実家に帰るたびに「そんなことをしないで自分の生活をしっかりしなさい」と言われ続けていたので、この方の答えは本当に支えになりありがたかったです。介護保険や支援費で居宅事業化される前のため、何時間掛かっても交通費込みで1回1,000円。そのころ住んでいたアパートから歩ける距離ではなかったため、毎回車で結局はカソリン代に消え、金銭的にはほぼ無償。今みたいに入浴介助に時給1300円とかもらえていれば下手したら100万円くらい貰っていてもおかしくなかったと今でも時々感じますが、お金では得られないことをたくさん得られたと自覚しており、お金になるからヘルパーや施設職員している方への反骨精神(ど根性精神?←いろんな意味で負けない自信があります)になっています。あの毎日、嵐の日でも雪の日でも毎日ローテーションを続けられたからこそ今があり、お金では得られない大切なことを学べたと本当に感じています(このときから自分が体調を崩して、お手伝いに穴をあけることは全体にしてはいけないことなんで体調管理に気をつけ始めたためか、社会人になってから病欠がないです。体調不良の前触れを感じたら、免疫が働く行動をとります。早寝・厚着など)。ごちゃごちゃ書きましたがすばらしい記事なのでぜひ目を通してください
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2007年10月21日更新
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「逆風満帆」
歌手 米良美一(上)

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「ヨイトマケの唄」を絶唱する米良。ありのままの自分で歌える、人生と重なる歌は、これしかないという=2日、宮崎県都城市で、森下東樹撮影

■ひた隠しにした人生

 語り口は、耳を傾ける者のほおを小気味よく平手打ちしたかと思うと、やにわに胸倉に深々と短刀を突き刺すかのように挑発的だった。気圧(けお)された聴衆は吐息までのみこんだまま、先鋭な言葉をひたすら待ち構えている。

 「ここ宮崎は私にとって、大好きであるとともに、とても苦手な場所でした。かつては自分の人生をどうしても受けいれられず、ひた隠しにしてきましたが、口には出さずとも、皆さんから奇異の目を注がれていたのは自明のことでした。私は疲れきってしまい、心底から楽しんで歌えなくなってしまったのです」

 故郷の宮崎県へ8月半ばに里帰りした米良美一(36)は、宮崎市の市民文化ホールで演壇に立っていた。学校医や養護教諭ら九州の保健教育関係者のイベントに招かれ、初体験だという講演を引き受けたのだ。

 掲げられた演題は「生きながら生まれ変わる」。出版したばかりの自筆の半生記のタイトルそのままだ。「ひた隠し」にしてきたという実人生の暗闘を語ろうとしていた。

 「世間への恨みや過ち、すべて墓場まで持ってゆき、天使のような『もののけ姫』の歌手として、皆さんを騙(だま)くらかして生きていこうと思っておったんです。でも私、ほかの芸能人の方々よりも正直者だったんですね」。緩急自在の話術は、音楽で人を魅惑する技法と変わらないという。聴衆はいつしか屈託なく笑い転げていた。

 「生まれながら、ハンディキャップと才能をともに与えられたからには、その裏と表の調和を保つのが人生のテーマ」と語り結んだ米良に、聴衆は拍手で歌をせがんだ。

 今も聞こえる ヨイトマケの唄(うた) 今も聞こえる あの子守唄……

 アニメ映画「もののけ姫」で聴き慣れた、カウンターテナーの裏声ではなかった。野太くさえある低音の地声で歌う「ヨイトマケの唄」だ。

 「もののけ姫」が空前のメガヒットとなった97年暮れ、当時、雑誌の編集者だった私は、主題歌を歌った米良の人物ルポの取材にかかわった。

 米良はそのころ、アイドル視される、つかの間の狂騒にただ陶然としているかにみえた。「生まれながらのハンディキャップ」も「受け入れがたい人生」も、インタビューでは一切、語られなかった。

 聖と俗、男と女の境界をとろかす歌声を賛美する記事の見出しを「『融合』という名の誘惑」としたのは、いま思えば皮肉というほかない。

 米良の内面では、融合どころか、己を見失う分裂の連鎖が始まっていたからだ。

■両親は途方に暮れた

 レンタカーのカーナビの目的地に「西都市寒川(さぶかわ)」とセットし、宮崎市の中心部を出発した。道のりは約30キロだが、最後の5キロは、九州山地の奇態な巨岩の連なる山肌にへばりついた難所だった。

 車のすれ違えない道幅と連続するカーブに吐き気を催すほど恐怖しながら目的地にたどり着くと、そこはたしかに、米良が「もののけ姫」的世界というのを瞬時に納得させられる幽玄な秘境である。

 米良の母(68)が生まれ育った集落は、さらに1キロほど険しい林道を登り切った山頂にあったという。しかし、いまは住む者もなくなり、朽ち果てた廃屋しかない。

 山中に分け入る手前の三財(さんざい)という集落に米良の実家はある。父(70)は米良が幼いころまで杉の植林や伐採を生業とする「山師」だった。

 結婚4年目、33歳の母が授かった米良の出産は初産で、ひと晩がかりの難産になったが、ふり絞るような産声を聞いて、母は安らいで眠った。

 ところが、わが子の身に起きた異変は疑いようがなかった。両足はねじ曲がり、頭は腫れ、首は据わらず、乳を吸う力もなかったという。

 両親のいちずな介抱で、どうにか立って歩けるまでに成長すると、さらに苛烈(かれつ)な運命の仕打ちが待ち受けていた。転んだり、はしゃぎ過ぎてひねったりしただけで、手足の骨が折れてしまうのだ。

 米良が6歳になるまで、それが先天性骨形成不全症という難病だと分からず、両親は途方に暮れるばかりだった。=敬称略
「逆風満帆」
歌手 米良美一(中)


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地元の学校へ通えるようになった小学5年生のころ、道路工事現場で働く母と。父の勧めで民謡教室にも通い、のどを鍛えた

■死が身近だった少年

 天孫降臨(てんそんこうりん)の古代神話が伝わる九州の宮崎で、ひと筋の曙光(しょこう)が地を照らすころ。米良美一(36)の母(68)は欠かさず、水神を祀(まつ)った神棚に榊(さかき)と米の飯と茶をそなえ、合掌して、現れたばかりの日輪を拝みながら、ひとり息子の無病息災を一心に祈っている。

 「これをせんと、いつけがをするか分からんし、手を合わせていれば、元気に生きてるなあと思えてくるとです」

 生まれ故郷の宮崎県西都市で米良は01年、両親を住まわせる家を新築した。「休止符の家」と米良が呼ぶ真新しい実家で、両親はいま、つつがなく暮らしている。米良の幼いころ、同じ敷地で、払い下げられた二間きりの市営住宅に親子は暮らした。そこで営まれていたのは、難病のなすがままに翻弄(ほんろう)される異常な日常だった。

 「血を分けた肉親と他人を厳然と隔てる垣根が、僕の感覚にはない」と米良は語る。

 出生から音大へ入学するため単身、上京するまでの18年間のうち両親と暮らせたのはたった9年。残りは、養護学校の寄宿舎で、似たような境遇の他人に囲まれて生き延びてきたのだった。

 自伝「天使の声 生きながら生まれ変わる」の表現を借りれば、「もろい発泡スチロールか枯れ枝のように簡単に折れた」骨折の回数は、米良や両親の記憶する限り、その18年間で30回近くにのぼる。

 骨が折れたり変形したりしやすい先天性骨形成不全症という原因不明の難病だと、6歳のころに診断され、小学校への入学を拒まれた。病弱児が入院治療を施されながら勉強できる、病棟と寄宿舎を備えた養護学校を勧められ、泣く泣く親子離ればなれになったのだった。

 小学4年の半ばから約3年間だけ、自宅療養しながら地元の小中学校へ通えたが、思春期に病状は再び暗転し、中学時代は養護学校の病棟で、ほとんど寝たきりになる。四肢を引き裂く激痛に間断なく襲われ、排泄(はいせつ)物の世話をされる屈辱に心もねじれかけた。

 山仕事がなくなり、下界の肉体労働で日銭を稼ぐようになった父だけでなく、母も日当3000円の土木工事で働き、治療費に圧迫される生計をぎりぎり支えていた。

 当時の心労の日々を語ってもらおうとすると、母は嗚咽(おえつ)をこらえるのが精いっぱいで、いまだに言葉にならない。米良も「苦痛にまみれた悪夢だったのかも知れないが、母が『一緒に死のうか』と哀れげに漏らした、おぼろげな記憶がある」という。

 「でも、自我が芽生える前から、あまりに死が身近だったので、ショックはなかった。ただ、いずれ死ぬのだから、あわてて死ぬことはないという観念だけありました」

 だが、残酷な神に支配されたと思われた肉体には、難病と釣りあいを取るかのように天賦(てんぷ)の音楽の才能があった。

 母は米良が2歳のころ、早くも息子の無類の歌のうまさと鋭敏な音感に感心したという。近所の敬老会で、踊りながら「岸壁の母」を歌うと、怪しむ視線が羨望(せんぼう)のそれに一変するのを、母子は誇らしく思いながら飛び交うおひねりを拾った。

 病状が落ち着いた養護学校高等部2年生のころ、幼いプライドを高揚させた、あの喝采の残響が脳裏によみがえった。米良は音楽を生業にしたいと熱望するようになった。

■アイドル志向の天才

 人見知りする、臆病(おくびょう)そうな印象しかなかった、その小さな歌手の歌声は、旋律に宿された思念やイメージを、細部までことごとく浮き立たせ、悩ましくたたきつけてきた。彼が「血」と発声するのを聴くと、おびただしい鮮血がほとばしったかのような戦慄(せんりつ)が総身を駆け抜けるのだ。

 バロック音楽の演奏家のマネジメントを長年、手がける武田浩之(45)は、94年に古楽コンクールの予選会場で米良を「発見」したときの衝撃に打ちのめされた。以来、「彼はただ一人だけ、僕が天才と認める存在」である。

 武田が見いだし、最初のマネジャーとなったころの米良は、音大を出たばかりの新人ながら、ソリストとして表舞台に立ち始めた。リサイタルの聴衆はかならず、神の降臨を確信する法悦の境地にいざなわれ、ほおを涙でぬらすばかりだった、と武田はいう。

 しかし、微妙な違和感を抱いたのは、米良に、世間の耳目を一身に引き寄せるアイドル志向のような願望があることだった。

 「私のなかでは『もののけ姫』で彼は終わった。その責任の一端は私にある」と、武田はいまだに悔やんでいた。=敬称略

「逆風満帆」
歌手 米良美一(下)

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年末のクリスマスコンサートでも「ヨイトマケの唄」を歌う。歌える喜びをよみがえらせた歌だからだ=宮崎県西都市の西都原古墳群で

■幻想をみずから破壊

 忍び泣くようにやまない雨に沖の小舟がけぶる情景を、詩人の北原白秋が詞に描く歌曲「城ケ島の雨」を、無名の米良美一(36)が歌うのを、宮崎駿(66)はカーステレオでなにげなく聞いていた。

 しっとり濡(ぬ)れた哀感を、精霊のため息にも喩(たと)えられたカウンターテナーで精妙に歌いあげる声楽家は即断で、「もののけ姫」の主題歌の歌い手に抜擢(ばってき)されたという。

 このサクセスストーリーは米良と、最初のマネジャーの武田浩之(45)それぞれの胸中に微妙に波形のずれた波紋を描いた。米良はこう語る。

 「僕が活躍の場を与えられたバロック音楽の世界はクラシックの本流ではない。熱心に聴いてくれる愛好家に感謝してはいても、窮屈だった。『もののけ』の話を聞いたとき、表舞台へ飛び出す突破口になると小躍りしました」

 しかし、米良の歌う日本の歌曲を海外レーベルで発表して、古典としての芸術性を世界に認めさせたいという地道な戦略を練っていた武田は、米良の情熱を、もろ手をあげて受け止めきれなかった。

 「なにもかもが順調で、焦る必要などありませんでしたからね。ただ僕も、彼には才能に見合う注目を浴びてもらいたくもあった。いま思えば両足ごと突っ込まず、片足だけ残せばよかったんです」

 「もののけ姫」が公開された97年7月から、米良の生活は竜巻にのみこまれたように激変した。月に10回を超えるリサイタルで歌い、殺到する取材やテレビ出演のオファーをこなしながら、夜な夜な取り巻きを引き連れて飲み歩いてはストレスを吐き出した。仕事をさばききれなくなった武田は同年末に、米良のマネジメントから身を退いた。

 米良は屈折した慢心にとりつかれかけていたようだ。

 「言葉にもできないほどの苦労を味わったからこそ、天からのごほうびを与えられたのだと思いながら、感謝の念が足りませんでした。群がって来る人たちに、たかられていると思いこみ、吸い尽くされまいとして、逆に人を攻撃するようになった」

 難病や養護学校出身などのプロフィルは、すでに「もののけ姫」を歌う前から禁句になっていた。アーティストとしての美学がそれを許さず、墓場まで持ってゆく秘め事と決めこんでいたのだ。

 世紀末の寵児(ちょうじ)のように世に出ると、たちまち反動に逆襲され、暴力沙汰(ざた)のスキャンダルを週刊誌に暴き立てられたりした。いま思えばそれは、無意識の自傷行為のようなものだったという。

 「米良美一は、かくあらねばならないという、なかば煩悩と化した幻想を背負っているのに疲れ果てて、罠(わな)を仕掛けてくるような人物を、あえて引き寄せたりして、みずから破壊しようとしたんです」

 自意識が方向感覚を失ったように迷走し、心身のバランスに変調を来し始めた米良は00年、ついに納得のいく発声ができなくなった。

■人生と重なり合う歌

 瞳の奥深くで小爆発が起こったように、とめどなくあふれる涙をぬぐおうともせず、米良は自宅の居間で正座したまま、テレビの画面に目を奪われていた。

 偶然、映った夜の番組で、美輪明宏が自作の「ヨイトマケの唄(うた)」を歌っていた。泥にまみれた男たちに交じって、土木工事に汗水たらして働いてくれた、貧しい母親をしのぶ賛歌は、肉体の苦痛にさいなまれた少年時代の記憶をまざまざとフラッシュバックさせたのだった。

 このとき、ありのままの声で無心に歌えなくなるスランプから抜け出せないまま、数年もの月日をもがき苦しんでいた米良は「すべては、この歌にたどり着くために起こったのだ」と直感したという。

 「この歌は、苦しみを分かち合える同志のような存在。まるで僕が歌うことを予期してつくられたとしか思えないほど人生と重なり合う。ありのままの自分をさらけだして歌える歌はこれしかない」

 レパートリーに欠かせない一曲となった「ヨイトマケの唄」は裏声ではなく地声で歌う。神がかった仮象の声ではなく、悩み苦しむ人の声で歌われるべきだからだ。ようやく人生の礎を踏みしめて、現実から目を背けずにいられるプライドを取り戻した。

 天上界につながる仮象の世界で、ひたすら夢想する米良を偏愛していた古くからの熱狂的なファンは激減しただろうという。しかしそれでも、神ではなく、あっけらかんと人を称(たた)える賛美歌を歌いやめるつもりはない。=敬称略


2007年11月9日更新
「天皇陛下より中心に写るアイメイト」(盲導犬)

11月8日の毎日新聞にて。天皇陛下よりアイメイトの方が焦点が合っていて、なんだかおかしな画像。そんなに珍しくなくなったアイメイトを何でアップにしているのか、別にわざわざ中心に扱う必要はないのにと首をかしげていたところ、どうやらご主人様の誘導で訪れた皇居の宮殿に入ったアイメイト第一号だったみたいで、たまたま毎日新聞の記者さんが気づき新聞記事にしてくれたみたいです。すばらしいです。以下はその新聞記事です。

叙勲:皇居・宮殿に初めて盲導犬 天皇陛下が受章者を祝福

 秋の叙勲受章者らを天皇陛下がお祝いする行事が7日あり、皇居・宮殿に初めて盲導犬が入った。旭日双光章を受けた元京都府視覚障害者協会会長、福嶋慎一さん(74)の「ルカ」で、ラブラドルレトリバーの4歳のオス。

 陛下は宮殿・豊明殿などで約1600人の受章者らを祝福。その後、福嶋さんの手を握り、「(盲導犬とは)もう何年くらいになりますか」「よくついてきますか」などと声をかけた。ルカは、肌色の服を着せてもらい、福嶋さんの横におとなしく座っていた。

 福嶋さんは全盲で視覚障害1級の認定を受けており、外出時にはいつもルカを伴い、2年半、一緒に生活している。盲導犬の同伴を申請し、許可された。宮内庁によると、盲導犬の同伴申請も初めてだったという。

 福嶋さんは「(盲導犬を)入れていただき本当にありがたい。社会に盲導犬への理解が広がる大きなステップになるのでは」と話した。【真鍋光之】

毎日新聞 

12億円を辞退、ゲームもしない:『脳トレ』の川島教授

2月6日13時0分配信 WIRED VISION

12億円を辞退、ゲームもしない:『脳トレ』の川島教授

写真: WIRED VISION

世界中で売れている『脳を鍛える大人のDSトレーニング』ゲーム。その中で微笑んでいる顔が印象的な川島隆太教授(48歳)は、このシリーズで生じた監修料約1100万ドルの受け取りを辞退した人物でもある。

AFPが最近行なったインタビューをまとめた記事(英文記事)によると、川島教授が勤める東北大学の規定で、教授はこれらのゲームで発生した監修料の半分を受け取る権利があるが、同教授はこの全額を研究室建設に回したのだ[監修料はNintendo DSのみでも累積24億円にのぼり、教授はこのうち12億円を受け取る権利があるという]。

川島教授は約1100万円の給料だけで満足だと述べ、「家族はみな怒ってますが、私は、金が欲しいなら働いて稼げと言っているんです」と語っている。

川島教授は辞退した監修料を研究資金として使用し、東北大学加齢医学研究所に3億円をかけた研究室[ブレイン・ダイナミクス研究棟。最新のレーザー顕微鏡が約2億円]を建設した。4億円をかけた別の研究室[超高磁場の磁気共鳴画像装置を備えている]も、3月に完成する予定だ。

世界で最も成功したゲームの1つに顔を出しているにもかかわらず、川島教授自身はゲームをせず、仕事をして時間を過ごす方が好きだという。教授の子供たちも、平日のビデオゲームは禁止され、遊んでいいのは休日の1時間のみだった[前述記事によると、教授には、14歳から22歳まで、4人のお子さんがいる。規則を破った罰にディスクを壊したこともあるという]。

「ゲームの恐ろしいところは、いくらでも多くの時間を注ぎ込めることだ。ゲームをすること自体が悪いとは思わない。問題なのは、ゲームをすることで子供たちが、勉強や家族との会話といった大切なことをできなくなってしまうことだ」と、川島教授は言う。

だからこそ、川島教授のゲームは1日数分で脳を鍛えられるようになっているのだろう。

川島教授は本当にひたむきな人のようだ。少々変わり者でもあるが、悪い意味でというわけではない。

[科学技術振興機構のサイト『Science Portal』には、川島家の子育ても含むさまざまな話題に関する、教授へのインタビュー記事がある]
2008年2月6日更新
2007年12月7日朝日新聞社説「知的障害者 愛する人と町で暮らそう」

長崎県雲仙市の社会福祉法人、南高愛隣会が営む知的障害者のための二つの入所施設「コロニー雲仙」と「雲仙愛隣牧場」がこの春、閉鎖された。入所者が全員、各地のグループホームなどに移った全国初の事例になった。巣立った500人あまりが地域で暮らしている。
  岩本友広さん(31)は、プロの和太鼓チーム「瑞宝(ずいほう)太鼓」の団長だ。妻、友子さん(31)、2歳の長男、勇樹君とアパートで生活している。 
 瑞宝太鼓のメンバー6人は全員、知的障害がある。しかし、演奏は高く評価され、年に100回ほどの公演をこなす。岩本さんの年収は約270万円だ。
  2人はコロニー雲仙で知り合った。しばらく交際したのち、市内で家庭を持った。困ったことが起きれば、世話人が相談にのってくれる。
 「どんなによい介護をしても施設は特別の場所。だれもが、愛する家族のそばで暮らすことを望んでいる。閉鎖を目標に、30年やってきました」と理事長の田島良昭さんは話す。
 施設では一般の会社でも働けるようマラソンなどで基礎体力をつけた。職業訓練の場を設け、一人ひとりが製めんや畜産の知識と技術を身につけた。職場への定着率は8割近くと、驚くほど高い。
  一方、入所者のふるさと周辺に、少人数で共同生活をするグループホームを建てたり借りたりした。手厚い介護が必要な人には職員が泊まり込む。生活全般を支える地域サービスセンターを県内4カ所に設け、反対する親たちや地域住民の不安を解いた。施設内で愛を育んだカップルには結婚生活や子育てを支援する。すでに30組の夫婦が誕生している。
 欧各国が「だれもが住み慣れた地域で」と、脱施設の流れを強めた80年代になっても、日本は入所施設を作り続けた。いまも約1700の施設で12万人ほどが暮らす。社会から離され、プライバシーも守れない相部屋で過ごす人生を想像してみてほしい。
 今週は障害者週間だ。障害者自立支援法の施行で日本も障害のある人が地域で暮らせる社会づくりをめざす。法律の理念はいいが、利用者の負担をめぐって議論が起きている。国や自治体は十分な支援ができる仕組みを整えてもらいたい。 
 長野県駒ケ根市にある施設「長野県西駒郷(にしこまごう)」も、5年間で入所者の約半数になる209人を地域へ送り出した。 
 地域生活支援センター所長、山田優さんら職員が入所者と話し合いを重ね、障害の軽重ではなく支援態勢の整った人から移っていく方法をとっている。
 思いがけない効果があった。県内の民間施設も、それぞれ積極的に地域移行の支援を始めたのだ。グループホームは合計200カ所になった。
やれば、できる。これらの例は、そう教えてくれる。入所者の願いに本気で寄り添えば、施設と地域の進むべき道が見えてくるはずだ。