● 人間と動物の気を枯らすケガレ
ペットを亡くした悲嘆者の内面から自然にわき起こるあの子の死に対する罪の意識がある。ペットロスによって生ずる罪の意識といってもその原因はさまざまある。世話をじゅうぶんにしなかったこと、あの子をいつもひとりにさせてないがしろにしたこと、病気の発見が遅れたこと、良い医療を受けさせなかったこと、死に立ち会えなかったこと、探せばいくらでもでてくる。
飼い主としての責任をじゅうぶんに果たさずにペットに苦痛を味わわせて死なせたという思いがあれば、人はペットに対して悪いことをしたという思いとともに申しわけない気持ちに襲われていく。申しわけなさは、その犯した行為になんら弁解する余地はなく、自分に落ち度があり責任は私にあると認めることから生まれる。
また、さしたる前触れもなくペットが急死し、しかもその原因が不確かなとき人は怖れおののくばかりとなり、思考はほとんど停止してしまう。例外としてはたらくことといえば、この原因はすべて自分にあるのではと思えることである。愛するペットが不可解な死を迎えたとき、もっとも傍らにいる者はそのような疑念をもつものだ。そこからも罪の意識は生まれる。さらに、年若いあの子は先に死に、自分だけが生き残っていることにも罪悪感は生まれる。
このようにペットにかわいそうなことをしてしまい申し開きもできずに落ち込んでいるというのが、ペットロス悲嘆者の罪意識の内訳のように思われる。ペットの死によって生まれる飼い主の罪悪感がどのような性質のものかを知ることは、ペットとの別れによるグリーフ(悲嘆)を理解するうえで重要である。そこで罪意識の問題を考えるにあたり、私たちが歴史的にどのように罪を捉えてきたか、さらにはその罪をどうやって克服しようとしてきたのかを探っていこうと思う。
日本における伝統的な罪の観念によれば、穢(けがれ)や禍(わざわい)をもたらすものは罪とされた。それは人間が作りだすこともあれば、病気や死、流れる血を伴うようなケガ(ケガは、けがれが語源だという説がある)といった事柄から風水害などの自然災害のように人間の生存と繁栄や、家畜を含む動物の成育と繁殖に重大な脅威を及ぼすものまであり、それらも災厄をもたらすとして罪とみなされた。
人間が作るものとしては、道徳や社会規範によって培われてきた掟(おきて)とされる決まり事を破る行為は罪とされた。犯してはならない掟(慣習法)を犯したとき、当人は禁制すなわちタブーに触れる掟破りをしたとして周囲の人々からハライ(ハラエともいう)の社会的制裁を受けた。
これには共同体からの追放や村八分(接触を断つ隔離やネグレクト(無視)すること)があった。これらはもちろん今日では差別にあたるが、今も職場や学校などでのグループからの追放や無視などのハライはある。また、贖物(あがもの)(あがないとしてさし出す物品)として財産の没収や体罰などがあった。古代国家成立時の律令における律(刑罰を規定。刑法にあたる)は、民衆のあいだで行われていたこれらの罪をつぐなわせる罰則の影響をうけている。
けがれの語は、気枯れ(気涸れ)からきているという。どのようなものであれ、人間や動物の気を枯らすものがけがれであり、罪なのである。気枯れを起こす原因は、いま述べたように人間によるものもあれば自然現象のこともある。だが、被害を受ける人間や動物は、それがどんな原因であれ身と心は消耗し、その両面にわたって悪影響を被るのである。
そのわざわいとなる罪けがれを排除する伝統的な手技が祓禊(ハライミソギ)であり、それを行うことにより人間は清き明き正しき直き心という本来の精神の輝きを取りもどすことができるとした。その意味からハライミソギは、道徳的な修養法というだけでなく罪けがれから身を守るための予防策であったり、被害を受けた場合には修復してもとの正常な状態にもどすための回復技術でもあった。
● ハライミソギに生きる日本人
日本神道は祓禊(ふっけい)の宗教といわれる。これは神道の本質がハライとミソギにあることを語るものだが、それは同時に日本人がハライとミソギの影響を多大に受けた民族であることを示している。日本人のものの考え方や感じ方、さらには道徳観や社会通念といったものから問題の解決方法に至るまで、私たちは知らず知らずのうちにハライミソギの観念にしたがって行動しているのである。
先に「ペットは飼い主の不安や葛藤を食べてくれる」(「ペットと動物的退行(前編)」参照)と述べた。このことを伝統的な神道的文脈にそって語れば、「ペットは飼い主の罪けがれや厄(やく)を代わりに祓(はら)い取ってくれる」という言い方になるだろう。このように古くから使われてきた言語表現にいい直すと日本人の問題意識がどこにあるのかということと、私たちが動物とどうつきあってきたかといったこともよく見えてくる。
ここでは「不安や葛藤」が「罪けがれや厄(やく)」に対応する。私たちは不快感をもたらす不安や葛藤が心理現象であり、精神症状であることは理解している。そう承知しているが、その原因は自己の外部にあって人に依りついてくる罪けがれのようなものであり、わざわいであると見なしてきた。
それは自己の内部で生じるストレスは、外部から刺激としてやってくる種々の有害なストレッサーを原因としているという現代ストレス理論を地で行くような発想である。私たちは心身の負担になるストレッサーを簡略にひとくくりにして「罪けがれ」と総称している。
また、「食べてくれる」が「祓い取ってくれる」にあたるが、不安や葛藤などのネガティブな感情をペットが飼い主の代わりになって取り去ってくれるというものである。そうして人はペットを利用しているのだが、ここで「代わりに」が問題となってくる。ペットが人間の身代わりになること、すなわちペットの持つ代理性については以前に述べたとおりである(「形代の猫」参照)。
今日ハライといえば、神社での神主(かんぬし)さんによるお祓いを連想する人が多いのではないだろうか。それは神に祈願して厄除(やくよ)けをしたり、邪気を祓いのけてもらい身を清める神事として理解されている。また、厄払いと称して正月七日には七草がゆを食べて健康を願ったりする。しかし、もともと人々の間ではハライ・ハラエは今日とはやや異なる使われ方をしていたようだ。そのことを見てみよう。
第三十六代天皇・孝徳帝は、大化の改新の詔(みことのり)―天皇が正式に述べた命令の言葉。「御言宣」の意―を発した2か月後、あわただしげに以下の奇妙な詔を発している。
(現代語訳)夫を亡くした女性が、十年か二十年して再婚したり、初婚の女性でも嫁ぐときに、この夫婦のことを(誰かが)
妬
んで
祓除
を要求することが多い。<・・・>また、辺境の地での任を終えた役民(国から労役を課された人)が故郷に帰る途上で、にわかに発病して路頭で死亡する。すると、路傍の家の者が出てきて死者に連れそう仲間に『なんでわが家の前で人を死なせるのだ』といって
祓除
を強要する。このため兄が旅のさなかに死亡しても、弟は収容しないことも多い。また、河で溺死した人を目撃したとき、『どうして溺れた死人を私に会わせたんだ』といって、死体を目撃した者が溺死者の仲間に強く
祓除
を求める。このゆえに兄が溺れ死んでも弟が助けない者も多い。また、役民が旅の途上にあって他人の家の路傍で炊事をすると、その家の者がやってきて『どうしてわが家の前で勝手気ままに飯をたくのか』といっては強力に
祓除
を要求する。また、ある人が
甑
(米や豆を
蒸
すためのうつわ。「せいろう」のこと)を借りて飯をたいた。その折に、
甑
が物に当たってひっくりかえってしまった。ただそれだけのことで
甑
の持ち主は貸した者に
祓除
を求めた。これらのことは、じつに愚かしい習わしである。よって今からことごとく止めて、ふたたびこのような事を行ってはならない。(以後、記載のない現代語訳は拙訳)
[日本書紀、孝徳天皇、大化二年(646)三月の条]
これは孝徳天皇が当時の民衆の状況を嘆いて民間でのハラエを禁じた詔である。天皇自身があげた事例を要約すれば次の通りである。
1例目 |
男女の結婚を妬(ねた)んだ者が、その夫婦にハラエを要求することを禁ずる。 |
2例目 |
自分の家の前で死人が出ても、家の者が死人の仲間や近親者にハラエを強要してはならない。 |
3例目 |
溺死者を目撃した者が、溺死者の仲間や近親者にハラエを求めてはならない。 |
4例目 |
役民の旅人が家の路傍で飯をたいて炊事をしたことに対して、家の者が旅人にハラエを要求してはならない。 |
5例目 |
貸した食器をひっくりかえされたというだけで、貸した者は借りた者にハラエを求めてはならない。 |
ここでいう祓除(はらえ)とは、いったい何だろうか。そしてその行為を禁止したとはどういうことなのだろう。1例目は、再婚・初婚に限らず男女が結婚するにあたって、それを知った者が嫉妬心からハラエを要求してはならない、というものである。
これなどはその男女と以前いくら深い関係にあったとしても妬(ねた)み心を起こして夫婦となった者へいやがらせのようにハラエを求めてはならない、ということであろう。焼きもちを焼いて腹いせにハラエを請求してはならぬということのようだ。
この場合、結婚する二人とは縁もゆかりもない見ず知らずの他人であれば、嫉妬心は普通おこらないだろう。しかし、かつて深い仲であったり、利害関係があるのであれば、平静ではいられないかもしれない。ここでは嫉妬に燃えた人間がかつてのことへの償(つぐな)いとして対価を求めているように思われる。人の幸福や成功を妬(ねた)み嫉(そね)む心理は、古代人も現代人もあまり変わらないようだ。
ところで、古事記・日本書紀(以下、記紀と略す)では「嫉妬」の文字を「うはなりねたみ」と読ませている。「うはなり」とは、後妻のことで、本妻が夫の後妻や妾や愛人などの女性に対してねたむことを意味していた。記紀には正妻が後妻を憎んでいじめる話がよくでてくる。嫉妬の心は、男女の情愛をめぐる女の焼きもちがその始まりであることを述べていて興味深い。ここでは孝徳天皇は「うはなりねたみ」とは述べていないので、このねたみは主に男のねたみではないか。
2例目と3例目は、はからずも見知らぬ死人を目撃してひどくショックを受けて心を汚(けが)されたとして、死者の近しい者にハラエを要求するということであろう。死や死者は不浄なのだ。これを今日的な表現で言えば、見たくもないものを見せられて精神的苦痛を被ったので慰謝料を支払えということのように思われる。
また、4例目と5例目は、いずれも炊事にまつわる話である。古代人にとっては火を用いた煮炊きなどの食にかかわる行為は今日以上にナイーブな事柄だったのだろうか。4例目は見知らぬ者が家の前で勝手に飯を炊くのはけしからんことだと因縁をつけて落とし前をつけよと言わんばかりの話であり、5例目に至っては貸した食器を粗末に扱ったとして、いいがかりをつけて見返りをせびるような話である。
以上はショックを受けたり、心を傷つけられるような不快な体験に遭遇させられたので、その弁済をせよという要求であるように思われる。この要求者たちは、「これは不吉だ、わざわいだ。おかげで私は汚(けが)された被害者だ。だから贖(あがな)え、償(つぐな)え、迷惑料をはらえ、代わりに何かよこせ!」とごねているのである。当時、人々の間でのハラエとはこのようなものであった。
このように心が汚されたというような実害の乏しいと思える精神的事象に対してもつぐないを求めることが巷(ちまた)で横行していたため、帝はそのような民間でのハラエを禁止したと考えられる。だが、ハライ・ハラエが人々の間でそんな使われ方をしていた事実からは、ハライの本質がかえって見えてくるというものである。
● 説話にみるハライ
「祓う」の語は「晴れ」と同源とされる。また、お金を支払うの「払う」ともまた語源を同じくしているという(小松和彦著、呪いと日本人、角川ソフィア文庫、平成26年)。人間や動物の気が枯れないように対処する行動がハライであり、罪けがれを取り除くことによってはらう側もはらわれる側も後腐れなく気を晴らそうとしたのだろう。このことからハライ・ハラエは、罪を犯した者へ罰金を科することを意味したり、種々の刑罰を負わせる意味を持つようにもなった。
たとえば、平安時代後期に成立した「今昔物語集」にある「飛騨の国の猿神、生贄(いけにえ)を止めたる語(こと)」(巻二十六、第八)という説話には、民間で行われていたハラエが興味深く語られている。それは飛騨(現在の岐阜県北部)の隠れ里で自らを神と称して神社に巣食って生贄の人間を食べていたという四匹の邪悪な猿を元僧侶の男が成敗したとき、この猿たちに次のような厳しい懲罰を加えている。
「<・・・>
此
より後、
若此辺
に見えて、人の為に悪しき事を至さば
其時
に必ず射殺してんとするぞ」と云いて
杖
を以って、二十度
許
づつ次第に
打渡
て、郷の者皆
呼集
て、
彼社
に
遺
て、残りたる
屋共
皆
壊
集めて、火を
付
けて
焼失
ひつ。猿をば
四乍祓負
せて
追放
けり。
片蹇
ぎつつ山深く
逃入
て、
其後敢
て
不見
けり。
[今昔物語集・本朝部下、岩波文庫、2001年、70頁]
(現代語訳)「これからのち、もしこの村里近くに現れて人々に悪事をはたらいたならば、その時は必ず弓矢で射殺してやる!」と男はいって、
杖
で猿たちを順番に二十回ほどずつ次々に叩きのめした。それから男は村人全員を呼びよせて猿の住んでいた神社に向かわせ、残った建物をすべて破壊し、火をつけて焼き払わせた。こうして四匹の猿どもに懲罰を加え、罪を祓い負わせて追い払った。猿たちは片足がびっこになりながら奥山に逃げ帰っていき、その後二度と姿をみせることはなかった。
ここで4匹の猿たちは、一匹につき杖(つえ)で20回ほど打ちのめされた後、山に追放される。ここでは体罰によるハラエ、けがれた社(やしろ)を取り壊して焼き払うハラエ、山奥へ追放するハラエの三つのハラエをおこなうことによって社会秩序を回復している。つまり、村は平和な日常を取りもどしているのである。
この悪事をはたらく猿への裁きは、8世紀前半にできた大宝・養老律令の刑罰で定められた杖刑(じょうけい)と流刑にあたる。杖刑とは、罪人を杖(つえ)で臀部などを打つ体罰であり、肉刑(身体刑)である。
律令では犯した罪の重さによって杖六十回、杖七十回などと打つ回数が規定されていた。また、杖刑より軽いものに笞刑(ちけい)があり、これは杖より細い笞(むち)で打つ刑だった。笞刑はムチ打ちの刑として現在でもイスラム社会では刑罰として行われている。
流刑は犯罪者を遠く離れた不便なところへ追いやる刑罰で、へんぴな土地や離島に流人として送っていた。流刑は徒刑(懲役のこと)より重く、死刑より軽かった。日本律令では、笞刑→杖刑→徒刑→流刑→死刑の5段階があり、この順番で刑が重くなっていた(律令 日本思想体系3、岩波書店、1976年、補注(青木和夫))。
この猿たちには第2段階の杖刑と第4段階の流刑を私刑(法律にもとづかずに私的に暴力的な制裁を加えること。リンチ)で行っており、もし今度同じことをしたら次は弓矢でい殺す死刑にすると脅されている。これらの刑は他の猿たち、すなわち人々への見せしめともなっている。このような私刑も法律のない社会や法律の及ばない社会であれば、社会の維持のために有効な手段だった。
このようにハラエはもともと人々の間で受けた損失を当事者間の示談により償(つぐな)って金品を支払うことだったり、処罰として私的な制裁を加えることを意味していた。しかし、その後そういった風習を禁じて、国家が一元的に犯罪を管理し刑罰を執り行なうようになっていった。それが律令制度である。
また、律令国家を支えるためのイデオロギーを宗教行為に昇格・発展させていったものが神道(中臣神道)における祓除儀礼の神事と考えられる。わが国の場合、古代国家の成立にあたり法令集である律令と、神道儀礼は不即不離であり、互いに補完し合う関係にあったといえる。
そこに日本人の精神的支柱としての自然信仰であった神道が天皇を祭主とする国家神道となり古代国家と結びつく必然性があった。この結びつきは、明治時代に近代国家を形成するさいに再びよみがえり、その強固な関係は大東亜戦争の終結までつづくことになる。
● スサノヲのミソギ
日本初の体系的法律書である大宝律令の制定から遅れること十一年、和銅四年(712)に神学書にして歴史書の古事記が編纂される。そこには弟のスサノヲが姉のアマテラスに数々の悪行をはたらいたとある。神道ではこの罪を天津罪(アマツツミ)という(具体的な罪の詳細は後述する)。そこで神々は協議し、贖罪として以下のハラエをスサノヲにおこなったと書かれている。
ここに八百萬のb共に
議
りて、
速須佐之男命
に
千位
の
置戸
を
負
せ、また
鬚
を切り、手足の爪も抜かしめて、
神逐
らひに
逐
らひき。
[ 古事記、岩波文庫、2012年、42頁]
(現代語訳)そこで、
八百万
の神たちが一同に会して相談しあった結果、ハヤスサノヲノ命に悪行に対する罪けがれを
祓
い負わせるために多くの持ち物を台の上に出させ、またヒゲを切り取り、手と足のツメをも抜き取らせたのち、高天原から放逐した。
ここではスサノヲは、自分の財物を贖(あがな)い物として多く供出させられ、ヒゲを切らせた上に手足のツメを抜かせられる肉刑を受けたのち、天界から下界の出雲の国へ追放されるという流罪のハライを受ける。悪事をはたらいて天つ神にそむいて罪を犯した者には、天罰として神々はさまざまな刑罰を与えるのである。このエピソードからも、ハライ・ハラエは悪行や罪けがれに対する贖(あがな)いとして負わされる厳しい処罰と見てよいであろう。
興味深いことに古事記学者の倉野憲司によれば、神々がスサノヲに行わせた自らヒゲを切らせたり、自分のツメを抜き取らせる体刑は単に懲罰のためにするのではなく、スサノヲが自身の心身の清浄を回復するために施されるものであるという。ここに体罰を行う本来の目的が示されている。
<・・・>鬚を切ったり、手足の爪を抜かせたりしたのは、いわゆる呪的転移であって、身に負うている罪穢れを身体の一部である鬚や爪に呪的に転移せしめて、自身の清浄を回復しようとしたものである。
[古事記 祝詞・日本古典文学大系1、岩波書店、昭和49年、84頁、頭注(倉野憲司)]
肉体的精神的苦痛を伴うこの行為は、悪さをはたらく罪やけがれをヒゲ―日本書記では髪になっている―に結集させて自らが切り取ったり、ツメに集めて抜き取らせることによって自身の本来の清き明き状態にもどすための処置でもあったという。 日本書紀・神代上・第七段・一書第二では、神々はさらにスサノヲの唾(つば)や涎(よだれ)に対しても祓わせている。つまり、上代の神道的思考では身体的な刑罰に服するとは身体に憑りついた罪けがれという毒気を抜き去るための一種の施術のような行為と解されていた。
ここで倉野のいう「呪的転移」とは、身に染まった汚穢(おえ)をヒゲやツメを形代としてその部位にうつしかえることをいう。そうしてヒゲやツメにためた悪い部分を切除するという外科手術のような行為だった。これはけがれた禍(わざわい)を身体の一部分に移動させて、その病巣を摘出するという呪術的な治療的行為といえよう。すなわち、ヒゲやツメに罪けがれを背負わせるのであり、悪いのはヒゲやツメであって、それらを祓いとるという考えはヒゲやツメに感情転移した発想といえる。
自分のツメを抜き取る自虐的な行為をスサノヲが自ら積極的に望んだとは考えにくいが、スサノヲの心情に即して考えれば、本人には罪を犯したことへの自覚があり、姉のアマテラスに対する謝罪の意があったので、その反省の上にたって禍(わざわい)を祓おうと自らの身をそぐ行為、すなわちミソギして自律的に清浄たらしめようとしたと考えられる。ミソギは「身を削(そ)ぐ」が語源だという説があるが、それに従えば身についた罪やけがれを自己治療的に自らそぎ落して心理的な晴れの状態をつくりだしていく浄化(カタルシス)行為といえる。
このように見てくると、ハライは次の9種類に概念上区分することができる。これらは、一つのハライの行為のなかで重複することもある。
1. |
浄化的ハライ 身心を清め、罪や汚穢(おえ)を取り除くためのハライ。神社で参拝する前に手水で手を洗い、口をすすぐ。祭りの前のある期間、執行者が禁酒したり女性を近づけない等の精進潔斎などがこれ。 |
2. |
修養的ハライ 自己修養や鍛錬を目的としたハライ。滝に打たれるミソギの行や山岳修行などの求道的な行為を経て罪けがれを取り除いて心身の清浄を得ようとする。 |
3. |
防衛的ハライ 罪けがれやわざわいを排除して個人や集団(共同体や国家)を敵や危険から守るためのハライ。先に述べた犯罪者や掟破りの破戒者の村落からの追放や村八分、あるいは病気の感染者やその疑いのあるものは入国・下船させないなど。 |
4. |
懲罰的ハライ 罪けがれた者や犯罪者やわざわいをもたらした者への制裁のためのハライ。すでに述べた体罰や懲役や流罪などの刑罰がこれにあたる。懲(こ)らしめるためだが、その目的は改心して清き明き正しき心に立ち返らせるために行う。 |
5. |
形代(かたしろ)的ハライ 先に述べた形代転移によるハライである(「形代の猫」参照)。身代わりを作り、そこに罪けがれを転移させてはらう。動物を用いた犠牲獣、植物の稲で作るワラ人形や紙を用いたヒトガタ、土製品の土偶などを形代に使う。 |
6. |
治療的ハライ ハライを心身を正常な状態に修復する治療行為とみる。罪けがれを身心にたまった排泄すべきものとしてとらえ、それらうっ積する汚穢(おえ)を積極的に取り去るためにおこなう瀉泄(しゃせつ)的なハライである。人間に本来的に備わっている清き明き直き精神を取り戻すための療術であり回復技法だとする。先のスサノヲに身をそがせた行為など。 |
7. |
予防的ハライ わざわいが起こらないように先手を打つハライ。厄除けのお祓いや鎮護国家のための祈祷や定期的に開催する大祓の神事など。 |
8. |
見せしめ的ハライ 見せしめとなるハライ。防衛的ハライや懲罰的ハライの執行は、人々への示しとなり戒(いまし)めとなる。罰するところを人に見せることは、掟破りや犯罪の抑止に一定の効果があると思われる。 |
9. |
衒示(げんじ)的ハライ 見せびらかしのためにおこなう示威的なハライ。個人や集団がいかに優れているか、あるいはいかに富貴であるかを周囲に誇示するためにわざとおこなう。個人であれば、いかに求道的人間で徳が高いかを人に誇示するための見せかけの修行をする。自己の存在を自慢して内外に見せつけるためにおこなう偽りのハライである。 |
● 人間・動物関係におけるハライ
さて、神話時代や古代社会でのハライを引き合いに出してあれこれ語ってきたが、その理由は現代人の人間関係のみならず人間・動物関係のなかにも明らかにこれらと起原を同じくし、相通ずる問題を見出すからである。ハライと日本人は深い関係にあるが、それゆえにハライと日本人ペット愛好家も深い関係にあると言えるのである。飼い主・ペット関係に関して言えば、それは以下の七点でかかわっている。
第一は、ペットの生前のこととして先に述べたように、ペットが飼い主の不安や葛藤を取り去ってくれるハライである。これは人がペットと暮らす理由と深くかかわっている。ペットといると楽しい、癒されるということは、嫌なことや心配事があってもペットはそれらをはらい捨ててくれるということである。
ペットが飼い主を明るい気分に変えて元気をもたらしてくれるとなれば、わざわいを取り除き清き明き心を取りもどしてくれるということになり、それはまさにペットにミソギハライをしてもらっているという話になる。これはペットのマスコット化の問題でもある。マスコットとは、持ち主に幸運をもたらしたり、命を守ってくれると信じられているために、大切に保持したりかわいがったりする人形や動物をいう。
マスコットはフォーチュングッズ(幸せをよびこむもの)であり、危険から身を守ってくれる護符(お守り)なのだ。福犬・福猫などと称するペットは生きたマスコットである。このペットを大切なお守りとみなすことは、ペットをフェティシュにすることでもある(ペットとフェティシズム(呪物崇拝)の関係については、後日改めて論ずる)。
第二は、ペットの弔(とむら)いにおけるハライである。ペットが死亡すると、飼い主は命を救えなかったことや、世話がじゅうぶんできなかったことに当然のように申し訳なさを感じ、後悔を伴った罪悪感を抱く。それら数々の負い目を抱えた飼い主は、それゆえ贖罪意識からペットを丁重に火葬し、遺骨は自宅に持ち帰って祭壇を作ってねんごろに安置する。
さらにペットの好きな食べ物をお供えし、さまざまなメモリーグッズを購入する。そうしてお骨になった子とともにふたたび暮すのであるが、中には何年も何十年もお骨を手元に置いている人もいる。その後お墓に埋葬するが、そこはペットとともに入れる墓地だったりする。また、自宅に敷地があれば、そこに葬る。そうやって、また近くに置いてともに暮らす。
ご供養は負い目がはらわれるまで、すなわち気持ちが
晴れる
までつづけられる。その間、多くの費用が
支払われる
が、この一連のお弔(とむら)いはあの子への償いであり、許しを請うための罪滅ぼしとしておこなわれているのである。
一般に葬儀をしたり自宅で遺影に手を合わせるなどの弔いは、死者の慰霊と鎮魂のためにおこなわれる。喪った子の霊をなぐさめ、その魂を鎮めることが目的である。しかし、現実にはそれらの行為は、悲嘆者が懺悔し謝罪を表明する場となっていることが多い。
ペットの死別者で、そのペットが生きているあいだ、飼養や医療看護などでできる限りのことはしたと感じている飼い主ならば、深い悲しみの中にあっても悔やみの感情や不満は少ないであろう。あの子にはいろいろとやってあげたのだから、あの子もきっと許してくれるにちがいないと思う。そう思えるのであれば、悲嘆者はそれほど強く後悔せず、深く傷つくこともなく立ち直っていくことができる。
しかし、生前の介護や医療が不十分だったと感じている飼い主であれば、不足の分だけ悔いとなって残る。その不足分は死後のとむらいや供養に持ち越されて丁寧におこなわれていく。死後の供養への傾注は、飼い主が生前できなかった飼養の置き換えdisplacementとしてなされ、悔いや不安などの情動的苦痛を補償する行為となる。今日おとむらいは、死者への鎮魂と慰霊のためになされる以上に重要な効用をもたらしている。それは遺族のモーニングワーク(喪の作業)にはたらき、悲嘆からの立ち直りに大きく寄与しているという点である。
第三も飼い主心理としてはたらくハライである。ペットロス体験者のなかには、自分の都合でペットを飼い、自分の都合でペットを死なせたと思う人がいる。だから自分のせいでペットは死んだのだと思う。この人たちは、ペットの死に際して飼育放棄をして私があの子を見捨てたとか、お払い箱のようにはらい捨てたという思いにとらわれていることが多い。この状況は育児放棄をして落ち込む母親の感覚に近いといえるだろう。
その一方で、遺される人間は、愛するペットに先に死なれることによってひとり置いていかれて自分がはらい捨てられたような気分に襲われるものである。それは安心やなぐさめを与えてくれた母親に見捨てられた子どもの心境ともよく似ている。人間は伴りょ動物を前にするとその母親にも子どもにもなるのである。それゆえ死別すると見捨てたり、見捨てられた感覚に陥るのだ。それは飼い主にとってペット・伴りょ動物は愛しい自分の子どもであり、癒してくれる母親のようでもあるという両義的な性質を持つ一人二役的存在となっているからである。
このように悲嘆者には、ペットをはらい捨てたことと、ペットにはらい捨てられたという両者のはらいの感情が混在する祓除(ばつじょ)不安といえる不安状態があり、それがペット喪失時の分離不安の一部を構成していることがある。
● ペットの痕跡を消そうとする飼い主
第四は、ペットを喪った直後、ペットの痕跡をすべて消そうとする飼い主がいる問題である。悲嘆者のなかには、ペットと暮らした体験を早く忘れようとペットの生活用具や写真などの思い出の品をすべて早急にはらい捨てて処分する人がいる。それは亡くした子の遺品を見るとひどく悲しくつらくなるからであろう。そして、その子についての会話も一切タブーとなり、何事もなかったかのように日常を送るのである。
しかし、そうすることは喪ったペットの存在をなかったことにしようとする行為である。それはあの子が初めからいなかったことにしようとすることでもある。もともといなかったのだから、あの子の生もなく死もないので、悲しくもないはずなのだ。これは見たくない映像のフィルムを部分的に切り取って、その前後をつなぎ合わせて済ませるようなものであり、こうした形で死を否認しているのである。
あの子が現実に生きてここにいた事実を消し去ることは所詮できないことである。この現実不可能な取り組みがうまくいくことはなく、飼い主は早晩ペットの死という厳しい現実をつきつけられていく。こうして通常は時間経過とともにやむなく現実を受容していくのだが、ペットロスから立ち直れずにいる人とは、この現実を認めようとせず、喪った子の存在を否認しつづけるのである。
また、ペットの存在を消すには外的な形跡をなくすほかに、内的な形跡である飼い主の記憶の中にあるあの子やあの子との日々の暮らしをはらい捨てて消してしまうことである。それは飼い主の記憶のなかからあの子を締め出すことである。
ペットロス悲嘆者が、ときとして語る「あの子とどう生活していたかを覚えていないんです」とか「ペットの最期の様子や死亡したときの状態がどうしても思い出せないのです」という記憶の欠落は、この死別の衝撃がいかに大きかったかを示すものであり、そのストレスの脅威に耐えられないと自ら判断したための飼い主の一時的な心理的防衛措置である。
しかし、あの子がいたにもかかわらず、いなかったことにすることは、ひどく不自然であり、そのような心理状態を維持することは、たえず大きな葛藤を招いて常に緊張を強いられて生きていくことになる。あの子との経験を消そうとすることは、自分の経験の一部を消そうとすることであり自己の否定にもつながる。このアンバランスな精神状態はいつまでもつづくことはなく、通常この記憶の隠ぺいはしばらくののち、すなわち事実を受け入れる心の準備ができるにつれてとれてくる。
ペットが生きた、そして死んだという跡を消そうとする心理は、死別直後の飼い主が現実を受け入れたくないとする心的防衛機制に根ざしているが、その後もこの状態が解除されることなくそこに固着しつづけるならば、モーニング・プロセスの進行を停止させることになりいずれかの病的悲嘆を誘発する要因となる。あの子の形跡を抹殺した生活は、あの子が生きた事実や、生きたあかしを消そうとすることであって、その言動の異常さから悲嘆を複雑にしたり長引かせたりしやすい(註1)。
(註1)ペットロスの回復が遅れる人のなかには、この「いたのに、いなかったことにする」否認とは反対に、「いないのに、いることにする」という現実否認に固執する死別者もいる。あの子は今も生きている、どこかにいるに違いないという幻想を持ちつづけている人である。これは臨終に立ち会えなかったり、遺体を見たり触れたりすることができなかった人や、火葬埋葬に参加しなかった人などにときにみられる。
また、安易なスピリチュアル信奉者も事実から目をそむけ死を受け入れようとしないことがある。ペットの霊魂の存続や魂の不死を理由にあの子は生きているとして死を否認する人である。昨今、流行りのアニマル・コミュニケーターなどの霊媒師がペットの心情を代わりに語ることによって飼い主と亡くしたペットが会話をかわすということが行われている。これはペットロス悲嘆者にとって最大の関心事である亡くした子が今どうしているか、私のことをどう思っているかを聞き出すことができる場となっており、そのため会いたかったペットに会っているような感覚が得られるのである。今その体験の真偽はともかくとして、このような体験により悲嘆作業が一時的に抑制され、死別はあたかもなかったような気分になる。ここに喪者が悲嘆をやり遂げるwork through点からいってひとつの落とし穴がある。
これらのような両極端な非現実的幻想を長期に抱く悲嘆者たちは、概して立ち直りが悪く複雑な悲嘆に陥りやすい。きびしいことだが、死がおこったことは事実であり、この真実をごまかすことはできず、この世ではふたたび会うことは叶わないという現実をありのままに認めることが必要であり、そこから回復の第一歩は始まる。
このことから、遺品をそのままにしておくと亡くしたペットにいつまでも執着してしまうので、なるべく早くすべてを処分したほうが早く立ち直るというのは臨床的裏づけのない誤った俗説である。死別直後、衝動的にペットの生活具や思い出の品々をすべてはらい捨ててしまい、後々後悔する人がいる。この人は不幸なことにさらなる後悔を背負ってしまうのである。遺品の整理は、喪者の悲嘆作業の進行にしたがって悲哀から回復するペースにあわせて本人が納得しながらゆっくり進めていくことが好ましい。
● 悲嘆者の祓禊(ふっけい)マゾヒズム
第五は、ペットを喪ったあと、自己処罰としてさまざまなハライを自らに負わせる問題である。これは熱心なペット愛好家の中にときに見られる道徳的マゾヒズムの心理と関係している。愛する子を亡くした飼い主の中には、強い道徳心にさいなまれて罪悪感を持つが、そんな自分を許すことができずにいることがある。
そのため自虐的に自らをひどく責めたてて自己非難を繰り返したり、努力してやってきた物事を自ら失敗させるなどして自分に苦痛を与えて罰しようとするのだが、その行為にある種の快感さえ見出しているような場合である。この人たちは罰が罪と罪悪感を帳消しにしてくれると無意識裏に思っており、誰も罰を与えてくれないために自らを罰していくのである。
この自罰が過剰となり病理性をもてば身体を傷つける自傷行為となる。このように自らを罪人として罰するために自らに過酷な労働を強いたり、失敗に導いたり、ケガをさせたりして身をそいでいくのである。それは前に述べたスサノヲが自分のヒゲや髪やツメを抜き取って自らを痛みつけて罪を贖(あがな)った日本的なマゾヒズム行為に源を発していると考えられる。
この身をそぐ行為を極端に行動化し美化したものが、責任を取って武人が詰め腹を切って自らをあの世にはらうハラキリ・切腹であろう。自罰は自祓なのだ。このようなハライミソギの観念を基調とした祓禊(ふっけい)マゾヒズムは、スサノヲ・コンプレックスとよべる日本人の深層心理における観念複合の主体をなすと考えられ、ペットロス悲嘆者のみならず、他のさまざまな悲嘆体験者のなかにも認められる。
次に、ペットロスの後に引っ越しをする人のことである。これは気分を変えて心機一転やり直したいといういっけん前向きな姿勢のようにみえる。また、部屋のあちらこちらにあの子の思い出が残っていることに耐えられなくなっての逃亡劇のようにもみえる。なかには、あの子のいない自宅に戻ることが恐怖となってしまい引っ越しをする人もいる。
どのような理由であれ、これらは早く忘れようとしてとる回避行動である。それはちょうどあの子と悲嘆もろともそこに置いて家を出ていくようなものである。いわば、亡くした子に家を明け渡して家出をするようなかっこうだ。
出はらって
住まいをうつせば、いまわしい思い出も死のケガレもどこかにうつっていくと思うのだろう。
これはその住まいに悲嘆を置いていくことであり、そこにすべてを封印しようとするものである。それは取りも直さず自らの意識下に塗り固めるように抑圧することでもある。これらは自分からの逃走でもあって、死と向き合うことを避けている状態であり、何も回復には向かっていない。
さらに、悲嘆者が慣れ親しんだ住まいや街を追われるように出ていく様子からは、もはやここに住んではいけないという禁止を自らに課しているように私には思えることがある。それはちょうど懲罰として自分に流刑の罪をはらい負わせているようでもある。これと同じ理由で、死別後の当てのない遠い旅行をする人も自分への流罪を課しているように思えるのである。よって、死別の悲しみのさなか、引っ越しをしようとする人に対しては、つらいことだがそこに踏みとどまって悲嘆に向き合うよう説得することが必要である。
また今後、動物を飼ってペットライフを楽しんではいけないという定言命令を自らに負わす懲罰的なハライもある。この状態が解除されることなくつづけば、この人は二度とペットと暮らすことはできなくなる。さらには、ペットとともに生活したことへの罰がペットロスの苦しみだととらえる人であれば、以後はペットを飼うことはないであろう。
このような人たちが近時、数多く現れているが、これらはじっさいには時の経過とは関係なく何年も何十年にもわたってペットロスの悲嘆から今も立ち直れていない人たちである。わが国においてここ数年にわたり毎年犬の飼育頭数が減少しているのは、この人たちが増えているためと考えられる(註2)。
(註2)日本ペットフード協会・全国犬猫飼育実態調査によれば、2019年10月現在、全国の犬の飼育頭数は約879万7000頭(推計値)であり、前年(2018年)に比べ約10万6000頭の減少となっている。また、現在犬を飼っていない954人に、犬を飼わない理由を聞いた調査(犬の飼育阻害要因)では、17項目のうち、「別れがつらいから」飼わないと答えた人が2位、「死ぬとかわいそうだから」が5位、「以前飼っていたペットを亡くしたショックがまだ、癒えていないから」が9位と、いずれもペットロスにかかわる理由をあげた人が非常に多いという結果になっている。家庭犬の飼育頭数は、2011年の1193万6000頭を境に毎年減りつづけており、この8年間で313万9000頭あまり減少している。これは平均すれば一年に約39万頭ずつ減少している計算になる。この毎年の犬の減少が、いつ底を打って止まるのか筆者は注視しているが、今年も減少は止まらなかった。
なお、猫についても飼わない理由として、ペットロスに関する回答が同じように上位を占めている点で共通している。ペットロスがあるので前の猫が死亡しても新たに猫を飼わないという人が、やはり多くいるのだ。しかし、幸いなことに猫の飼育数はわずかながら増加傾向にあり、2019年は前年より12万9000頭増えて約977万8000頭となっている。そのため昨年は猫が犬より98万頭ほど増えている。ペットフード協会のデータでは、2016年に猫が犬の飼育頭数を超えており、それが今日に至るまでつづいている。猫ブームといわれながら、猫の数はこの10年ほどさしたる変化がなかった。そのため犬と猫の数の逆転は、犬が減ったためというのが事の実態であろう。
● 祓除(ばつじょ)葛藤に苦しむ悲嘆者
第六は、やはりペットの死後のこととして、悲嘆者が周囲の人々と遊離することによって孤立し疎外感を持つなどして集団や社会から虐(しいた)げられて追い立てられるようにはらわれる問題である。これにはペットとの別れを契機にペット仲間とのつき合いがなくなったり、外出が困難となって引きこもっていくなどして社会との接点を失ってゆくことと関係している。このペット死別後の社会的ひきこもりも先の刑罰の論理から見て家でおとなしくこもっているよう自らに徒刑(懲役)の罰を与えているように思えるのである。
このことに関連してもっとも気をつけねばならないのは、悲嘆者がペットの死によってこの世に自らをつなぎ止めておくものがなくなったと感じて生きる希望を失うことである。そして、この世からあの世に追い払われていくように後追いをする問題である。このことはとくにペットと深く結びついているが、他との関係が希薄となっているペット愛好家にいえることである。自死は自らを不要なお払い箱にすることであるが、その心理はやはり罪意識から自らを罪人として死刑に処していると思われるのである。
あの子の存在を記憶から消すことができないとわかったとき、記憶を保持する自己の存在を亡き者にしようとするのだ。あの子の存在を消したいという願望は、その後自分に返ってきて自分の存在を消したい願望に変わっていく。ペットと強く同一化している飼い主であれば、ペットの存在が消えるにともなっていっそう自己の存在も消そうとするのである。
自死はこの世における自己の存在を抹殺したいという願望であり、自己の獲得したすべての記憶を抹消したいという願望でもある。このような強い願望に取りつかれるのは、死にたくなるほど肥大化した罪悪感のゆえだ。自死は自らをあの世へ犯罪者として流す最大のハライといってよい。
そして第七は、その悲嘆者の罪悪感や分離不安を伴った抑うつ感情をいかに正当に振りはらって解除していくかのハライである。正常な喪であれば、時間経過とともに悲しみや罪悪感や悔やみの念がゆっくりとだが減少していく。それは悲嘆が少しずつ祓い捨てられていく状態といえる。
しかし悲嘆者は、この悲しく苦しい状態から一刻も早くのがれたいと思う反面、亡くしたペットのことを決して忘れてはいけないという思いもはたらく。そこにはあの子のことを過去のこととしていくことへの抵抗感があり、忘れていくことへの不安(忘却不安)がある。あの子のことを過ぎ去った出来事として捨て去って先に進むことへの不安である。飼い主はこのつらい体験を忘れてしまいたいという思いと、あの子のことをいつまでも思いつづけてあげねばならないという二つの異なる心情にさいなまれるのである。
また、悲嘆者は早くここから脱して楽になりたいと思う一方、自分に罰を与えようとする点からそう簡単に立ち直って楽になってはいけないという心理がはたらく。喪者はこれらの互いに相反する感情の板挟みとなって苦しむことがある。
この両価値が併存するアンビバレントな状態は常に葛藤を生むが、このような悲哀の過程においてつらく不快な感情をはらい捨てていくことに伴う祓除(ばつじょ)葛藤と呼べる分離葛藤(別れに伴う葛藤)があり、ペットロス悲嘆者の立ち直りに少なからず影響を与えている。
ペットロスのグリーフケアの目的は、これらの別れに伴って生じるあらゆるネガティブでアンビバレント(両価的)な思考と感情から解放され、ペットとともに暮らしたことが喜びと感謝の念につつまれたポジティブな思考と感情になれるよう支援することである。悲嘆体験を経ることによって人は他者の痛みを知り自己理解を深めていくことができる。そのためには、このハライの心理を理解することが求められている。
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