愛するペットとの別れが起こったとき、わたしたちはどのように日々を過ごせばよいのでしょうか。また、その悲しみから抜け出すために、何かできることがあるのでしょうか。死別後の喪中(もちゅう)の過ごし方や悲嘆の対処方法について考えてみましょう。喪った悲しみを乗り越えて立ち直っていくために、わたしたちは以下の5カ条を提案しています。
1.悲しみを押し殺さず、素直に出す
ペット(伴侶動物)をわが子のように大切にして深く癒されたり、安心や安全をペットから得ていた人ほど、亡くしたときの悲しみとショックは大きいものです。
しかし、ペットロスからいつまでも立ち直れずにいたり、重くこじれる方の場合はペットの死を嘆き悲しんでいるには違いないのですが、実際には別れに伴うさまざまな感情や起こった出来事に翻弄(ほんろう)されてうまく悲嘆を解放できずにいるために、回復できないでいることが多いのです。
これは悲嘆の作業が何らかの理由によって妨げられているために、うまく悲哀を進められなくなっている状態といえます。この状態では、深く悲しむことが抑えられているために先に進めずに止めてしまっているか、他の心身症状や行動―たとえば、無断で職場を欠勤する、浴びるほどお酒を飲む、仕事に逃げ込んでワーカホリック(仕事嗜癖)になるなどーに置き換えるなどして別の表現手段をとっていることがあります。
したがって、適正な対処ができずにうまく悲しめないでいる状態というのは、じゅうぶんに悲しみの感情を出しきっていないためにストレートに大泣きして純粋に悲しんでいるよりもある面でもっとつらい状況に陥っているともいえます。
死別の悲哀とは、別離を心から認めて、もう二度とこの世ではあの子に会えないのだと知ったときに生まれる失意とあきらめの感情であって、心のなかであの子の死を心底受け入れずに、生前と同じように生かし続けているのであれば、深く嘆き悲しむこともありません。
飼い主さんのなかには、自らが生きている実感を得るためにペットが必要だったため、ペットの死後もペットを生かして飼い主であり続けようとする人がいます。ですが、この状態を続けることは現実にはあの子はいないのに、いることにしているというあたかも半死半生のような矛盾した状態をつくりだしているため、悲嘆者は葛藤と緊張を常に強いられて心休まることがありません。
悲しむことは、ペットと別れたときに起こる悲嘆の症状であるとともに、自らを深く癒している行為でもあります。したがって、悲しみを強く抑えこむことは、正常な立ち直りを阻害してしまうことにつながりやすくなります。「他人に知られたら恥ずかしい」などと考えず、悲しみが襲ってきたら思い切り泣いて、悲しみをすべて吐き出すことが、回復につながります。
人は悲嘆することによって、悲嘆を乗り越えることができます。そして、たくさん泣いてあげることが、失った子へのいちばんのご供養であり、深く愛していることを伝えるもっとも確かな表現といえるのではないでしょうか。
2.早く立ち直ろうと、がんばらない
ご家族でペットの死別を迎えたとき、家族成員の一人ひとりはペットへの思いや愛情の程度が異なるため、回復する速度も異なることがよくあります。通常は、ペットをもっとも大切にして支えられていた人が、立ち直りにいちばん時間を要します。そのため、当初は家族全員が等しく悲しんでいても、しばらくすると家族間の回復に差が生まれることから、思いもよらない不協和音が生じることがあります。
妻が悲しんでいると、「いったい、いつまで泣いているんだ。おれまで悲しくなるじゃないか!」と言って、おこりだす夫。「お前が代わりに死ねばよかった」と落ちこむ夫に言われて、さらに落ちこむ妻(これは実際の話です)。「お母さん、もういい加減にしてよね」と、いらつく娘。「早く前のような明るいお母さんにもどって!」と、せがむ子どもなどです。
そのため、悲嘆者は早く立ち直ろうとがんばったり、家族とのあつれきを避けるために、無理して立ち直ったそぶりを見せるようになります。しかし、心はいつまでもついていけずに、ほどなく余計に疲れて落ちこんでしまうことになります。これは、職場や学校の人づきあいでも同様です。
古来より喪中の四十九日間は、家にいて静かにしているのがよいと言われます。それは、遺族は心身ともにエネルギー切れの状態になっているため、がんばって何かに取り組むと事故や病気を起こすからです(近親死の遺族を隔離して人との接触を禁ずる昔の慣習は感染症の拡大を防ぐ意味もあっただろうと考えられます)。
また、転職や引っ越しなど大きな決断を要することも避けたいことです。平常心ではなくなっているからです。職場でも大役はひかえ、残業も当分の間、しない方がよいでしょう。
シングルの方の場合など、ペットを亡くした後、寂しさと不安に耐えられなくな
って引っ越しをしようとする人がいますが、これも回避行動のひとつです。この時期の過ごし方としては、新たなことはせず、現状維持のまま、ゆっくり悲嘆と向き合うことです。
3.無理がない程度の作業をする
では、何もせずに、家でじっとしていればよいかというと、それも実はあまりよくありません。ストレスはその性質として、災いが通り過ぎるのをただじっと待っているように何もしないでいるほうが強く感じられてしまうものです。これは死別時も同様で、布団をかぶってただただ悔んで過ごしているほうが悲しみや苦痛のストレスは激しく感じられてきます。
したがって、悲嘆の対処行動(心理学ではコーピングといいます)としては、無理は禁物ですが、少し努力をして体や手先を動かすなどの軽作業をするほうが、概して回復は早くなると言われています。具体的には、亡くしたペットの写真を整理してアルバムを作る、絵心があればペットの絵を描く、天国にいるペットに手紙を書く、お墓参りに行く、祭壇を手作りする、記念にブログを作るなどご供養になることで、これならできそうだと思うことから少しずつ始めるとよいでしょう。
そのとき周囲の人は、後ろからそっと後押しする程度にとどめるのがよいでしょう。元気づけようとパーティー、カラオケ、飲み会、過密な旅行などに強引に連れ出すと逆効果になってしまうことがよくあります。行動は、あくまで本人の自主性にまかせ悲嘆者のペースで進めることが重要です。
なお、飲酒量は平素以上に増やさないか、減らす努力をしてください。お酒はいっとき楽になるように感じますが、かえって悲しみを増すことがあります。
4.悲しみをわかってくれる人に思いを話す
死別後、「誰とも会いたくない」「どうせ、人に話してもわかってもらえない」と閉じこもってしまう人がいます。ですが、気持ちが少し落ち着いてきたら一人で別れをこらえるのではなく、同じ悲しみを経験したわかり合える人にペットとの思い出話やつらさを聞いてもらうとよいでしょう。
ペットの死別体験者と自由に語ることによって苦痛を直視し、死と向き合う力をもらえるようになります。そうすることによって心を整理させ、徐々にペットのいない生活に慣れていくことができるでしょう。
ここで注意すべきは、ペットロスの場合、わかってもらえると思って人に話しても、わかってもらえないということがあることです。家族、親族や友人からは、なぐさめの言葉の代わりに、しっかりするようきつくはげまされることがあります。
また、ペット仲間や動物の専門者からは、途方に暮れられるか、「そこまでは、私には理解できない」と、いわれてしまうこともあるかもしれません。どうしても立ち直れないときは、ペットロス・カウンセラーなどの専門者に頼るのも一案です。
なお、死別直後で激しく悲嘆しているときや非常に混乱しているときは、ペットロス体験者の集会や自助グループなどの集団への参加は、時期尚早といえます。しばらく間をおいてからの参加が好ましいといえます。また、症状が非常に重い方も一般のペットロス体験者のグループへの参加には向きません。
5.周囲の無理解や偏見を気にかけない
ペットロスに対する社会的認知は、残念ながら未だ低いと言わざるを得ません。「ペットが死んだくらいで会社(学校)を休むのはおかしい」「気のもちようだ」「たかが動物でしょ。すぐ次のを飼えばいいじゃない」などと、心ない言葉を浴びせられ二重に傷つくことがあるかもしれません。
この落ちこみは、ペットの死による落ちこみというより周囲の人々から受ける二次的な被害、すなわち人災ともいえます。ペットロスでは、つねにこの問題がつきまとっており、このことがしばしば悲嘆者の回復を遅らせる誘因にもなっています。
また、悲嘆中にペットを失うつらさをわかってもらおうと一生懸命に人に力説しても徒労に帰して、さらに落ちこんでしまうことがあるかもしれません。
こうしたことが度重なると飼い主さんは、意識的に悲嘆を回避するようになったり(これは悲しみが襲ってきてもパッと気持ちを切りかえたり、別のことを考えるなどして、悲嘆と向き合わないようになるということです)あるいは、無意識的に抑圧してしまうようになり、立ち直るきっかけを失ってしまうことがあります。
よって、周囲の理解のない言動はいっさい気にとめないようにしましょう。これは消極的な対応策のようですが、現状においては、何を言われても気にせずに受け流す態度が求められます。
ペットたちは、わたしたちに大きな喜びや癒しを与えてくれますが、その子との別れがおこったときには、悲しみやつらさもしっかり忘れずに与えてくれます。ことにペットの生前、いい思いをたくさんした飼い主さんほど、しっぺ返しを食らうように別れが苦しみと悔恨に満ちたものになっていきます。
ですが、飼い主さんはペットが与えるこの貴重な体験を通じて哀しみを知る人間に成長していきます。ペットはわたしたちにその生涯をかけて生きることと、死ぬことの意味を問いかけているように思います。わたしたちは、遅ればせながらこの子らを失ってはじめてその問いかけに気づかされます。これは彼らがわたしたちに残していく小さくない課題であり、まさに身をあげて教えようとする最後の置き土産(みやげ)※といえるでしょう。
わたしたちは、ペットを失った悲しみの中でさまざまなことを考え、感じていきます。しかし、そこでは失うことばかりではなく、新たに何かを得ることや知らなかった自分を発見することもあるでしょう。
そして、亡くした子の生老病死を考えることから始まって、飼い主さんは最後には自身の生老病死を改めて考え始めます。喪中は遺される人が、いままでのことと、これからのことを見つめ直す大切な時間でもあります。そのような重要な時を与えてくれたのもあの子です。それゆえに、わたしたちはペットロスから立ち直るところまでいって、はじめてあの子とともに暮らしたといえるのだと思います。
※「みやげ」という言葉はアイヌ語のミアンゲに由来するといいます。アイヌの人々は、クマは神様が毛皮をまとって地上に降りてきたものであり、人に射とめられることによって食料や毛皮となって身をささげてくれるので人間は生きていけると考えました(このことは、梅原猛著「神殺しの日本」から教えられました)。このような動物に対するメンタリティは、現代日本人のペット観のなかに形を変えながら受け継がれているように思います。
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