【あ】 【い】 【う】 【え】 【お】 【か】 【き】 【く】 【け】 【こ】
【さ】 【し】 【す】 【せ】 【そ】 【た】 【ち】 【つ】 【て】 【と】
【な】 【に】 【ぬ】 【ね】 【の】 【は】 【ひ】 【ふ】 【へ】 【ほ】
【ま】 【み】 【む】 【め】 【も】 【や】 【ゐ】 【ゆ】 【ゑ】 【よ】
【ら】 【り】 【る】 【れ】 【ろ】 【わ】 【を】 【ん】
【さ】
さいぞうぼう【西蔵坊】中村。志田修太郎さん宅。平成15年焼失。(広)
(撮影:広)
さいとうげんぞう【斎藤源三】つる細工の第一人者。参照『月のぼる町』p55-
さいとうもきち【斎藤茂吉】岩根沢を経由して月山へ登ったことがある。平成15年8月「斎藤茂吉と茂太(15歳)親子の月山参り」と題して高橋宗伸さんによる講演会が岩根沢にて開催。(広)
(齋藤茂吉像・上山茂吉記念館にて 撮影:広)
さがえがわ【寒河江川】日本一の清流。朝日岳を源に月山湖に注ぐ最大の河川。支流は根子沢、根子川、見附川、大井沢川、大桧原川、小桧原川など。キャッチ&リリース区間。(http://www3.freeweb.ne.jp/sports/mhc00412/2sagaegawa.html)
さがえし【寒河江市】西川町の東となり。山形盆地の西方。寒河江川が最上川と合流する広大な扇状地に位置する。面積139.08平方km。現在世帯数約1万1600、約4万3500人を数える。平安期に京都藤原家の摂関として開かれ、鎌倉幕府成立に伴い、大江広元が拝領。後に息子の親広(ちかひろ)が名代として支配した。近世初頭は最上氏へ移行するが、藩政期に山形藩、幕府領預かり地、上山藩、左沢藩、庄内藩に分散された複雑な土地柄。「寒河江(さがえ)」という地名に関しては、神奈川県南部の相模川流域に位置する高座郡『寒川町』からの“転移地名”と考える説がある。 参照:山形新聞【地名伝説】寒河江(http://www.yamagata-np.co.jp/media/chimei/kj/k094.html)
さがえはちまんやぶさめ【寒河江八幡やぶさめ】
(撮影:広)
さがえダム【寒河江ダム】月山湖。土や岩をつみあげて作ったロックフィルダム。昭和47年から平成2年まで約19年かけて完成。洪水を防ぐ・川の環境の保護・農業用水の確保・水道水の確保・発電の多目的ダム。総貯水容量109,000,000m3。ダムの高さ112m(全国で36番目)。最上川ダム統合管理事務所管轄。昭和50年代には、湖底に沈む二つ崖・四ツ谷など112戸が離村したという。
(撮影:広)
さかのうえ【坂の上】中上の民宿。佐藤敬さん(故)宅。
さがみやま【相模山】1591m。
サクラマス
ささだけ【笹竹】
サシバ 猛禽類。
ザゼンソウ
ザッこ 雑魚。ちいさな魚。ざこ。
さとうきたろうせんせい【佐藤喜太郎先生】故。
さとうたかし【佐藤 敬】大井沢小中学校教員、校長職をつとめたのち、西川町立大井沢自然博物館・館長に。平成15年(2003)3月死去。http://www.okaze.co.jp/yutoritomeikan/category/hito/1f/1-1-021/
サトウしょうじ【サトウ商事】高級婦人服を作製。現在は吉川に山形工場がある。昭和期には、大井沢中村・学校前に大井沢工場があった。
さとうよしのり【佐藤義則】『大井沢中村の民俗』昭和43年(孔版)。昭和54年死去。大井沢のことを「山水の美」と称賛したという。
さどのさわ【さどの沢】(千)
さぼうダム【砂防ダム】
さぼうダムのスリットか【砂防ダムのスリット化】
サラサドウタン
さらぶち【皿淵】地名。
サル 参照『朝日連峰の狩人』志田忠儀・西澤信雄p186
サルナシ コクワ。
サルノコシカケ
さるわたり【猿渡】峡谷。
サワオグルマ
さわガニ【沢ガニ】
サワグルミ
さんがくしんこう【山岳信仰】
さんがくぼう【さんがくぼう】
サンカヨウ
さんさい【山菜】参照『峠の小鳥』第三集「植物名の方言しらべ」p34-。
さんさいおうこくおらがまち【山菜王国おらが町】国民文化祭「山菜学」を期に作成。三浦さんが作った展示パネル2枚分の大きさの月山和紙に、西川婦人会のコーラス教室と書道教室がいっしょになって、『山菜王国おらが町』の歌詞を書き入れた。開発センター(間沢)の大ホール入り口に展示。
さんさいりょうり【山菜料理】
さんざんてつどう【三山鉄道】三山電気鉄道。寒河江市高松と西川町間沢のあいだを走った。開設、昭和元年。昭和49年、閉鎖。参照『月のぼる町』p73
サンショウ 大井沢に自生のサンショウは少ない。
さんのうしゃ【山王社】大井沢湯殿山神社。関ヶ原の戦いの頃、上杉の家来が、二十一観音像のうち二十体を田川方面に持ち去ったと言い伝えられている。残りの一体が現在も山王社に奉られている。持ち去られた観音像は、現在も酒田市の日枝神社に奉られているともいう。参照「失われた仏像たち」『峠の小鳥』第6集p.72
さんば【産婆】おのえさん。平成15年、亡くなる。
さんぽうざかい【三方境】以東岳・寒江山・二ツ石山の境。
【し】
シイタケ
しいな スナ。細身の米。
しおで 山菜。山菜の王様。
じおんじ【慈恩寺】寒河江。縁起によれば、行基が724年にこの地をおとずれ、746年に婆羅門僧正により開基されたという。摂関家藤原・奥州藤原・大江・斯波・最上などさまざまな為政者をへて、現在に至る。慈恩寺の鐘は、いつでもだれでもつくことができます。(広)
(撮影:広)
じおんじさんじゅうのとう【慈恩寺三重塔】寒河江。慶長13年(1608)山形城主最上義光が大檀那となって建立後、焼失し、文政13年(1830)再建。大工棟梁は慈恩寺の布川文五郎。塔内の大日如来像(県有形文化財)は茨城県笠間から伝わったものという。高さ8丈8尺・方三間四面(県有形文化財)。
(撮影:広)
ししがぐちじんじゃ【獅子ヶ口神社】
(撮影:広)
しず【志津】
しぜんがくしゅう【自然学習】大井沢小中学校でつづけられている特色ある教育。昭和26年「自然研究」の名称で開始。参照『かもしか学園』(広)
しぜんとたくみのでんしょうかん【自然と匠の伝承館】中村。入館料200円。定休日・月曜日。こけし。つる細工・めのう細工・草木染め・はた織りなどがあり、体験学習ができる。平成元年の開館。
しぜんとたくみのでんしょうまつり【自然と匠の伝承まつり】月山和紙・草花和紙絵・めのうアクセサリー・菊麻呂こけし・絵付け・機織り・藍の生葉染め・木の実細工・土鈴絵付け・リース作り・流木クラフト・つる細工・木地木工・月山白炭
しぜんのうた【自然の歌】大井沢小中学校でうたわれた自然学習のテーマソング。自然の歌Aは校歌。A・Bともに作詞は職員一同、作曲は丸子喜一。(広)
自然の歌B
一、渓流清く 岩かむところ
滝はしぶきて 雪と散る
藍をたたえて 深淵に
岩魚はおどる 銀鱗見せて
おお ラララ
川は我らを 呼んでいる
二、原始の樹海 若葉は香り
残雪輝く 連峰に
珍獣ヤマネ カモシカや
高山蝶舞う お花畑
おお ラララ
山は我らを 呼んでいる
三、水芭蕉咲く 谷川に
カジカは銀の 鈴を振る
百鳥競う コーラスに
自然の公園 平和な里よ
おお ラララ
自然は我らの 学習園
しぜんはくぶつえん【自然博物園】志津。
じぞうさま【地蔵さま】中上。江戸時代の建立。11月に地蔵講、12月31日に地蔵さまおびがある。「地蔵様、山の神様、三宝荒神、ほーいほい」と大きな声でさけび、神様が来たことを告げる。中上に古い寺があって、それを持ってきたという。参照「大井沢の史跡について」『峠の小鳥』第6集 p87
じぞうさま【地蔵さま】萱野。明治時代の建立。12月15日に、子供たちが料理を持ち集めて、お膳立てしてお参りに来る人をもてなす。地蔵様のご飯食いは、男は5歳、女は3歳から参加した。昔は天神様があり習字を書いて納めた。また、あきた様(火の神様)があり、11月24日に地蔵っこ(じぞっこ)という行事があった。志田みよこさん管理。参照「大井沢の史跡について」『峠の小鳥』第6集 p87
じぞうさまおぶい【地蔵さまおぶい】山の神様おぶい、地蔵さまおび。
じぞうどう【地蔵堂】清水原。江戸末期の建立。三重県のお稲荷様から譲り受けたもの。参照「大井沢の史跡について」『峠の小鳥』第6集 p87
じぞうどう【地蔵堂】中村。明治30年の再建。延命子安地蔵尊を奉っている。8月10日、ご縁日が開かれる。11月17日に中村観音講の集まりがある。志田国太郎さん管理。再建後、3回改修工事が行われている。最上四十八所霊場の第二十八番札所。参照「大井沢の史跡について」『峠の小鳥』第6集 p87
じぞうとうげ【地蔵峠】
じぞうぬま【地蔵沼】志津。
しだ【信太】茨城県美浦町にある地名。霞ヶ村の南、稲敷台地の北東部に位置する。縄文時代の信太貝塚、弥生時代の宮平遺跡がある。〔古代〕信太郷 平安期に見える郷名。「和名抄」常陸国信太郡十四郷の1つ。郡衙が置かれた郷で、「延喜式」には信太馬牧が見える。(略)
信太郡 しだぐん 国・茨城県の郡名。霞ヶ浦の南岸に位置する。郡名の由来は、「万葉集註釈」所収の「風土記」逸文に、蝦夷を征討した黒坂命が、その帰途多歌の郡の角枯の山(竪破たつわれ山)で病死したが、日高見の国で行われた葬儀では、盛大に赤や青の旗が翻り、その旗が長く垂れ下がったので、赤幡の垂しだりの国というようになり、のちに信太の国となったという説話がある。
〔古代〕 郡成立以前は、筑波・茨城両国の一部。「釈日本記」所収の「風土記」逸文に、「此の地は、本、日高見の地なり」と見えるが、日高見国は、ほかに、蝦夷地を指す場合(日本書紀)、大和を指す場合もあり(延喜式)、意味については地名というよりは、太陽の恩恵を豊かに受けて農作物が豊穰する国という意味の東国の美称と考えるべきであろう。(略)『角川日本地名大辞典 8茨城県』より
しだ【志田】福井県勝山市にある地名。海から60km程山にはいった岐阜県と石川県の県境に近く、福井県の九頭竜川の河岸段丘の上にある。http://www.mitene.or.jp/~hiro3/sida/index2.html
しだ【志太】静岡県藤枝市にある地名。志田とも書く。志太山地から連なる丘陵東麓、瀬戸川左岸に位置する。地名の由来は、シダが多く自生していたためだとする説(掛川誌稿・地名辞書)、「し」は美称で、「しだ」は美田を表し、瀬戸川や大井川の自然灌漑による肥沃な土地をいうとする説などがある(ふるさとの想い出写真集明治大正昭和藤枝)。また志太(志田)が郡名となったのは当地に初め国造・郡司などが置かれたことによる(掛川誌稿)。九景寺古墳群がある。〔中世〕志田郷 戦国期に見える郷名。駿河(するが)国志田郡のうち。天文18年8月11日付、今川義元朱印状に「壱貫弐百文 志田郷<五ヶ村打替々々>」と見え、青山八幡宮放生会流鏑馬役として当郷内の5か村が交代で1貫200文の役銭を負担することになっている(旧村岡大夫文書/県史料3)。永禄元年8月13日付の今川氏真朱印状にも同様の記載を見る(静岡浅間神社文書/県史料3)。その後、天正元年頃、当時武田氏に仕えていた岡部正綱は杉山小兵衛に対し、その合力を賞し、志田郷内三輪の5貫文の地を渡し置いている(杉山文書/県史料3)。
志田郡 古代〜現在の郡名。江戸期までは駿河(するが)国に属す。志田・志駄・止駄・思太・斯太とも書かれる。東部から北東部にかけては山岳地帯が占め、北西から西部は大井川、南は駿河湾に面する。郡名の由来は、この地方にシダが多くあったからという。〔古代〕天平10年「駿河国正税帳」に「志太郡天平九年定穀三万伍仟伍佰三拾陸斛(略)」とあるのが初見(天倉院文書)。官衙跡は、昭和51年からはじめられた発掘調査の結果、現在の藤枝市瀬古字御子ヶ谷(みこがや)の御子ヶ谷遺跡であることが明らかとなった。ここから奈良期から平安期にかけての建物趾29棟のほか、井戸、土壙とこれらをとりまく板塀、柵列が発掘されている。また郡司の四等官の役職名を記した「志太少領」「志太領」「志太少」「少領」などと墨書された土器もあわせて出土している。郡衙であった時期は、8世紀中期から9世紀前半までと推定され、特に客殿風の建物跡は当時の東海道を往復する高級役人の旅宿となったと考えられている。(静岡市史原始古代中世)。「和名抄」は大和・大長・大津・英原・葦原・余能・刑部・夜梨の8郷をあげる。
志太の浦 奈良期に見える海岸名。駿河国志太郡のうち。「万葉集」譬喩の部に「志太の浦を朝漕ぐふねはよし無しに漕ぐらめかもよよしこさるらめ」という歌があり、この志太の浦を駿河の海岸とする。また、駿河舞の5段目などにも「志田江」などとあって、かなり有名なところであったことがわかる。古く「駿国雑志」などで「大津郷の浜より葦原郷(今の前島)を古は志太浦と惣名を唱へしにや」とあるように、島田市のほうまで駿河湾が奥深く湾入していた時代の志太郡の海岸線を詠んだものと考えられる。大井川の河口であるが、現在の河口とはだいぶ異なる。『角川日本地名大辞典 22静岡県』より
しだかうえもんふじわらのうむやすのひ【志田嘉右エ門藤原産安碑】産婆役をつとめた人物の碑。中村、志田研氏宅前。明治31年建立。
しだかんづめ【しだ缶詰】千葉県銚子市のかんづめ屋さん。いわしの角煮やサバカレーなどがある。http://www.rakuten.co.jp/shida/
しだきくまろ【志田菊麻呂】
しだきくひろ【志田菊宏】菊麻呂さんの孫。米沢のこけし職人、高崎祐一さんのもとで修行。現大井沢湯殿山神社の宮司。参照『月のぼる町』p.14-
しだきぬえ【志田キヌエ】中村。学校前の店。
しだきぬよ【志田きぬよ】むかしばなし。
しだぐん【志田郡】宮城県の地名。古代〜現代の郡名。県北部の郡の1つ。ただし古代は志太郡と書いた。郷名は信太郡。志太郷は隣郡の玉造郡にもある。現在の古川市はもと郡内であった。東は遠田(とおだ)郡、南は仙台・黒川郡、西は加美・玉造郡、北は栗原郡。江合(えあい)川・鳴瀬川、仙北の主要な河川のうち2つが北と南を西から東に流れ、品井沼の大湖沼が黒川・宮城2郡との間に横たわるなど、仙北の水との戦いが長い歴史をつづってきている郡のひとつである。その戦いの中から、大崎耕土の開拓をすすめて今日に至っている。〔古代〕郡名の初見は、「続日本記」延暦8年8月30日に、いわゆる「奥十郡」として、他の多賀城以北の諸郡とともに記録されているくだりである。ただし、この奥十郡というまとめかたは、すでに同書の天平14年正月23日条には見えていて、黒川郡以北に似たような性格の辺郡として置かれた10郡のことをさす。したがって、すでに奈良期中頃には、正規の郡として建てられていたと考えられる。(略)〔中世〕中世の志田郡の存在形態は大きく変わっている。それは、松山町から鹿島台町方面にかけてが長瀬(ながせ)保としての特別行政区としての再編成を見、志太郡という形での記載があまり見えなくなっていることである。(略)『角川日本地名大辞典 4宮城県』より
しださとじ【志田里治】陸軍上等兵歩兵。明治10年西南の役にて、鹿児島県平野山に於いて戦死する。参照『西川町大井沢の石仏といしぶみ』志田章一p47
しださとる【志田 知】志田国昭さんの父。村長をしていた。(千鶴子)
しだした【志田下】千葉県にある地名。波乗りのポイントのひとつ。http://www.asahi-net.or.jp/~yq2k-kwkm/shida.html
しだしょういち【志田章一】大正15年4月、大井沢村うまれ。昭和46年大日寺跡湯殿山神社宮司就任。平成8年4月退任、霊山朝日嶽神社宮司就任。『金色山大日寺』『大井沢の昔ばなし』『大井沢の石仏と石碑』(広)
しだしんや【志田信也】石橋屋さん。信也さん・ふみ子さん夫妻。
しだそうう【志田草雨】寛政元年うまれか。(広)
しだただのり【志田忠儀】大正5年3月うまれ。昭和25年から磐梯朝日国立公園の管理人。遭難救助隊の隊長。朝日連峰のブナ等の原生林を守る会会長。『朝日連峰の狩人』「知恵だより 066号・狩人」http://www.ohmae.com/wisdom/report/grep066.html
しだだんじょう【志田弾正】平将門の後裔。志田家の先祖。(広)
しだだんじょうのつか【志田弾正の塚】湯殿山神社
(撮影:広)
しだちかこせんせい【志田周子先生】明治43年生まれ。昭和37年没。
しだとうげ【志田峠】神奈川県津久井町−愛川町にある峠名。http://www2u.biglobe.ne.jp/~m-shima/newpage105.htm
しだともゆき【志田友之】友之さん・静江さん夫妻。
しだのこたろう【信太の小太郎】佐倉の信太の小太郎。話・塚本哲 参考文献・江戸崎西高「紀要」川崎吉男「信太小太郎」。「手掘り江戸崎の昔話 第十四話 掲載 98/03/22」http://www.asahi-net.or.jp/~yb2y-tmr/vol14.htm
しだはちんせいか【「信太(しだ)」は珍姓か?】「信太」にまつわる情報をあつめたページ。2001.10.24、信太一郎さん作成。http://www.geocities.co.jp/Berkeley-Labo/6084/Sida.htm
しだはま【志田浜】福島県猪苗代湖にある浜のなまえ。毎年沢山の白鳥がやってくる。天気が良ければ磐梯山が見える。http://www.jeynet.ne.jp/~yanagida/fukushima/
しだやき【志田焼】志田窯。佐賀県塩田町志田焼。江戸時代の焼き物「有田伊万里」のひとつ。鍋島本藩領としての志田東山、鍋島蓮池支藩領としての志田西山を総称して志田窯と呼んでいる。志田窯の歴史は18世紀初頭までさかのぼるようである。志田焼の里博物館:http://www.arita.or.jp/shida/kura.html「志田随想1・志田染付皿の魅力」http://homepage2.nifty.com/shidasometuke/shidazuisou1.html
しだやゑの【志田やゑの】菊宏さんのかあちゃん。
しだるい【志田瑠衣】中村。エレクトーンの名人。
しちけん【七軒】地名。大江。
しちょうそんがっぺい【市町村合併】
しどけ 山菜。もみじがさ。
しのだづま【信太妻】安倍晴明の生母、葛の葉。歌舞伎「葛の葉子別れ」。「恋しくば たづね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」http://www.d3.dion.ne.jp/~kyorakuz/sinoda.htm
しまへび このヘビも大分少なくなった。農薬?(英)
しみずばらけんしゅうセンター【清水原研修センター】
しみだいこん【凍み大根】ハクビシンも食べに来る。(英)
しみもち【凍みもち】
(撮影:広)
シメジ
しもとうげ【下峠】
しもまつり【霜まつり】春。秋は風まつり。(英)
しゃあましする【しゃあましする】しゃあますする。もてあます。
シャー 狩り用語で「落とし」のこと。参照『朝日連峰の狩人』志田忠儀・西澤信雄p88
シャーば【シャー場】地名。参照『朝日連峰の狩人』志田忠儀・西澤信雄p88
しゃくなげ【石楠花】山野草。
じゃこうまい【麝香米】かおり米。
しゃなざん【舎那山】釈那山とも。(広)
しゃむぜき【社務ぜき】中村の水源のひとつ。天和2年に完成。
ジュウイチ
しゅくぼう【宿坊】大井沢における大日寺の宿坊は、江戸期には26件あったという。平成10年度現在で18件の旅館・民宿がある。参照『大井沢の民俗 平成11年度・明治大学居駒ゼミ調査報告書』p12
しょうぐんじぞう【勝軍地蔵】中村・地蔵堂に安置。
しょうしか【少子化】
しょうじがたけ【障子ヶ岳】1481m。磐梯朝日国立公園東日本新風景十景のひとつとうたわれた山。春のぜんまい取りの山でもあった。(英)
(原より撮影:広)(大井沢トンネル近辺より撮影:広)
じょうじま【上島】
じょうじまやすらぎのひろば【上島安らぎの広場】桧原の川向かい。ポケバイコース。
ショウジョウバカマ
じょうふくいん【常福院】飯豊町添川。明治9年、大日寺の不動尊像と二脇童子(こんがら童子・せいたか童子)が伝えられた。不動尊像は総長179.5cm。二脇童子は93.5cm。不動尊像は黒漆。参照「失われた仏像たち」『峠の小鳥』第6集p.69-
じょうりんじ【常林寺】寒河江市。寒河江の神宮寺を経由して大日寺の仁王像が伝えられたという説がある。参照「失われた仏像たち」『峠の小鳥』第6集p.69-
しょくぶつさがし【植物さがし】自然学習のさいに児童生徒が学校周辺の植物をさがし、観察やスケッチをおこなったこと。昭和50〜60年ごろには、佐藤敬先生が指導。(広)
しらたかみやまかんのん【白鷹深山観音】白鷹町。
(撮影:広)
しらたき【白滝】朝日町。根子から朝日鉱泉へ向かったところにある。(広)
(撮影:広)
シラネアオイ 山野草。山牡丹。
(撮影:広)
しらゆきかい【しらゆき会】平成5年3月結成。会長・志田美子さん。
しろもち しょもち。しょもぢ。
(撮影:広)
しんごんしゅうは【真言宗派】
しんぶつぶんりれい【神仏分離令】明治2年に施行。大井沢大日寺は明治8年、湯殿山神社となる。もともと大日寺には600体に及ぶ仏像が安置されていたという。本尊の大日如来・阿弥陀如来・観世音菩薩の三尊は米沢市小野川の宝珠寺へ、不動明王と脇侍の矜羯羅(こんがら)・制叱迦(せいたか)の二童子は飯豊町添川の常福寺へ、仁王像は寒河江市六供町の常林寺にうつったとされている。このほか、換鐘や大黒天なども宝珠寺に納まったという。参照:菅野 玲「信仰伝承」『大井沢の祭りと伝承』平成10年度・明治大学居駒ゼミ調査報告書p75
【す】
すいげんちせんげん【水源地宣言】
すいじんぶち【水神淵】
スカシユリ
すけっとたい【助っ人隊】大井沢地区外からの学生ボランティア。雪まつりなどのイベントの手助けや、それにとどまらず、若い力を大井沢に注いでくれている。
すずきとしひろ【鈴木利弘】美術の先生。昭和60年代に大井沢小中学校へ赴任。
ススタケ
スズメバチ
スズラン
(撮影:広)
スダチ ヤマメの幼魚。
すなふったてやま【すなふったて山】すなくぼ。すなこ。ぜんまい山。障子へ向かって左の奥。(英)
すなごせき【砂子関】
(撮影:広)
すなごせきトンネル【砂子関トンネル】月山沢トンネルと展望台のあいだにあるトンネル。
スノーモービル スノーモビル in 大井沢:http://www.yamaha-motor.co.jp/snowmobile/ichiran/tohoku/oisawa.html
すみやき【炭焼き】
スミレサイシン
するすひき【するす引き】とうみを使って、モミの殻をとる作業。3番までおこなった。雪のふるころのしごと。(千鶴子)
【せ】
せいたいいわやま【清大岩山】1465m。
せいしんしょうにんのはか【勢眞上人の墓】芭蕉の句碑の裏台地にある。明治初め、当時の宮司浅間文助氏が土中より発見・再建。「天文7年(1583)大隅国(鹿児島県)住人、勢眞上人の墓」と刻まれている。勢眞上人は天文のころ、大隅よりこの地に参り、すたれた大日寺を再興しようと、この地に伽藍を建設した。参照『西川町大井沢の石仏といしぶみ』志田章一p44
せいぶつごくん【生物五訓】大井沢小中学校の自然学習のきまり。
一、生物は、みんな楽しく生きています。
一、生物は、学習に尊い生命をささげています。
一、なんの目的もなく、生物を苦しめないようにしましょう。
一、学習に、いらない部分とよけいな数はとらないようにしましょう。
一、生物をよく理解し、かわいがりましょう。(広)
せきぐち【関口】関口さん・よしゑさん夫妻。
せきね【せきね】(千鶴子)
セキレイ いしだたき(石叩き)。
せこ【勢子】
せなみじぞうそんぞう【瀬波地蔵尊像】中村・地蔵堂に安置。
セミナーハウス 中村。かやぶき屋根の研修施設。
セリ
せんじゅかんのんぞう【千手観音像】中村・地蔵堂に安置。
せんじょうだき【千丈滝】障子岳の下、砂吹立沢の出口の滝。「天狗相撲は勝負がつかぬ 水が入った千丈滝」天狗音頭より
せんだつ【先達】
ゼンダナ 根子。
ぜんまい
(撮影:広)
ぜんまいくみあい【ぜんまい組合】組合長・志田英機さん。
【そ】
そばかいどう【そば街道】「山間地の遊休農地の有効利用を目指す−そば街道旗揚げ−」http://www.toukei.maff.go.jp/genti/1998_09/98_095_14.html
そううんりょう【窓雲寮】教員住宅。現在のこっている建物は、昭和45年の建築。(広)
そうなん【遭難】参照『朝日連峰の狩人』志田忠儀・西澤信雄p201
【た】
だいきぼレクリエーションきちこうそう【大規模レクリエーション基地構想】
だいこくまい【大黒舞】
だいこん【大根】高原野菜。アブラナ科。
(撮影:広)
だいじんぐうさま【大神宮様】根子大神宮。だいずぐさま。昭和11年建立。天照大神が奉ってある。三が日と9月16日にお参りする。参照「大井沢の史跡について」『峠の小鳥』第6集 p.85
だいずもりやま【大頭森山】984m。
だいにちじ【大日寺】開基は、旧記(妙学坊文書)に「大祖弘法大師天長年中(824〜833)湯殿山を開かれ、また、大日寺も草創したまう」とある。中興の祖、道智上人は応永2・3年頃(1394)大日寺を再建し、道智みちをつくる。湯殿山別当四ヶ寺の一つとして、江戸時代中期以降に最も繁栄し、貞享年中(1684)勅命により、国家鎮護玉体安穏の祈願寺として免許される等、また、江戸の誕生院よりは280〆の大鐘が奉納される等して、日本七大霊場の一つに数えるまでに至った。大井沢の里は、白衣の行者によってうめつくされ「湯殿まで笠の波うつ大井沢」と歌にまでよまれた。御朱印は四石五斗境内は、三丁四方、このうち本堂・山門・惣天門・金蔵院・妙智院・蓮花院・福蔵・地蔵堂・山王堂・五智堂・大師堂・鐘楼・庫裏・台所・門前家来六件七坊があり外に宿坊は二十六坊、明治初期迄の繁栄が推察される。明治元年(1868)神仏分離令の公布と共に諸仏は縁ある方々の諸寺、院に流され、明治7年(1875)寺号を返上し、明治8年(1876)湯殿山神社と改称。明治36年(1904)12月、火災により山門・鐘楼を残し焼失。参照「大日寺のあらまし」
だいにちじあと【大日寺跡】延宝2年の大火災にて焼失。慈恩寺住職亮海によって再興。以来明治まで、15代にわたって隆盛が続く。参照『月のぼる町』p123
(撮影:広)
だいにちじあといしがき【大日寺跡石垣】惣天門の袖としてつみあげられたもの。享保17年(1732)つくられる。石棟梁は下野国(栃木県)日光の関東屋金蔵。[惣天門]享保10年(1725)利海方丈のとき新造。弘化3年(1846)改築に着工。嘉永3年(1850)落成。石工は関東屋金蔵。施工棟梁は溝延村仁三郎富久。明治37年8月の中村の大火で焼失。参照『西川町大井沢の石仏といしぶみ』志田章一p28-
(撮影:広)
だいにちじあともんぜん・ゆどのさんせきひ【大日寺跡門前・湯殿山石碑】文政13年の建立。その年の3月に見附沢からひっぱる。当時の住職は亮秀。仙城南太白嶺主 一如道人の書。参照『西川町大井沢の石仏といしぶみ』志田章一p1
(撮影:広)
だいにちじじぞうそん【大日寺地蔵尊】最上48地蔵尊第28番札所。中村。「じひの水ふかきちひろのおおいさわくみてたのまんつきぬねがいを」。延命・子安地蔵。木造の地蔵菩薩座像は、京都の仏師、大武法眼による永禄4年(1561)の作。参照『西川町大井沢の石仏といしぶみ』志田章一p37
だいにちじじゅうしょく【大日寺住職】住職のことを方丈ともいう。道智(応永)→勢真→清誉→清栄→清光(1584)→清善→祐善→祐清(1674)→賢朝→亮海(1675)→利海(1708)→亮快(1728)→利珊→亮賢→亮源→亮珊→亮●→亮済→亮憧→亮秀→亮空→融栄→亮備(1854)→亮舜(1854)→亮皓→亮衛→×→×→信教。参照「中村部落の発生について」佐藤友子『峠の小鳥』第三集p105-
初代:道智
応永年間(1400年頃)に大日寺に来る。大日寺へ来る前に慈恩寺と亀岡文殊堂にて修行。応永34年(1427)11月24日、67歳で亡くなる。
2代:勢眞
大隅国(鹿児島県)出身。参照:勢眞上人の墓
7代:賢朝
「湯殿山はもともと羽黒山から出て来たものであるから、羽黒の支配を受けるべきだ」と羽黒山別当から幕府寺社奉行に対する訴えがあった。延宝2年(1674)2月、湯殿山方は負けてしまった。加えて、同じ年に大日寺は大火災にあって何も残さず灰となった。この時の方丈が賢朝。
8代:亮海
本道寺・慈恩寺の住職を兼ねる。若い頃、慈恩寺宝蔵院にて修行。焼け跡となった大日寺の復興をおこなう。本堂の再建・新田の開墾・用水の引水・根子村の新道作り。宝永5年(1708)11月7日、67歳で亡くなる。
9代:利海
左沢出身。幼い頃から大日寺へ入る。成長して京都の本山に入り修行。慈恩寺の住職を兼ねる。大日寺金堂の建て直し。享保13年(1731)1月7日、67歳で亡くなる。利海の位牌は左沢の巨海院にある。
10代:亮快
五百川出身。小さい時から亮海を師として修行。享保12年(1730)、利海の招きで大日寺に入る。鐘堂・境内の敷石・石垣・石仏などの修復・新造が進められた。
11代:利珊
延宝3年(1675)から寛保4年(1744)までの70年間の三僧(亮海・利海・亮快)が活躍した時代の記録である『三僧記』をまとめた。
18代:亮秀
湯殿山の石碑を2年がかりで作った。文政3年(1820)開眼式。参照:大日寺跡門前・湯殿山石碑
金色山大日寺歴代方丈および湯殿山神社歴代宮司名
※明治8年の神仏分離令により、26代目(宝来)からは神主になる。
初代
道智(どうち)
11代
利珊(りさん)
21代
亮備(りょうび)
2代
勢眞(せいしん)
12代
亮賢(りょうけん)
22代
亮舜(りょうしゅん)
3代
清誉(せいよ)
13代
亮源(りょうげん)
23代
亮皓(りょうこう)
4代
清光(せいこう)
14代
亮珊(りょうさん)
24代
亮衛(りょうえい)
5代
清善(せいぜん)
15代
亮●(りょう?)
25代
信教(しんきょう)
6代
祐清(ゆうせい)
16代
亮済(りょうさい)
26代
宝来(ほうらい)
7代
賢朝(けんちょう)
17代
亮憧(りょうどう)
27代
浅間丈助(あさまじょうすけ)
8代
亮海(りょうかい)
18代
亮秀(りょうしゅう)
28代
志田卯兵(うひょう)
9代
利海(りかい)
19代
亮空(りょうくう)
29代
志田円学(えんがく)
10代
亮快(りょうかい)
20代
融栄(ゆうえい)
30代
志田菊広(きくひろ)
参照「大日寺の方丈たち」『峠の小鳥』第6集 p115
(撮影:広)
だいふんすい【大噴水】日本一の大噴水。月山沢。112mの大噴水。世界第4位の高さ。
だいほういん【大宝院】上島。遠藤おとよさん宅。
だいみょうじやま【大明寺山】864m。
たいらのまさかど【平将門】
たかまつのみやさま【高松宮さま】
たけのこ【竹の子】山菜。根曲がり竹。月山竹の子として有名。(英)
(撮影:広)
たけかんば【たけかんば】樹木。地蔵峠から朝日岳へ向かう道にある。黒々した桜の木肌に似た木。(千鶴子)
タチスボスミレ
たて【楯】「『大井沢のたて』の調査」『峠の小鳥』第三集p61-。
たなごめ【たな米】ひようたんに入れておやつにした。(千鶴子)
タムシバ
タヌキ ムジナ。
タラノキ
たらのめ【たらの芽】山菜。
だんごさし【だんごさし】
【ち】
ちいきのこそだてじぎょう【地域の子育て事業】第1回目は、大井沢峠の散策。
ちいさなまちのおおきなしぜん【『小さな町の大きな自然』】佐藤敬先生著。無明舎出版、1996年発行。町報『西川』連載記事を編集した本。
チゴユリ
チシマギキョウ
チャペ ねこのこと。参照『朝日連峰の狩人』志田忠儀・西澤信雄p88
ちょうえいバス【町営バス】かつて、山形交通がバスを走らせていた。昭和52年7月から、各集落と町の中心部を日曜・祭日をのぞく毎日(1日3往復)運行。7路線11系統。参照『月のぼる町』p128
ちょうげんぼう【長源坊】長元坊? 中村。志田賢(まさる)先生・智恵子さん宅。
ちょうじょそうぞく【長女相続】参照『大井沢の民俗 平成11年度・明治大学居駒ゼミ調査報告書』p6
ちょうせんコ【朝鮮コ】
ちょうみんグラウンド【町民グラウンド】間沢。
ちょうみんスキーじょう【町民スキー場】間沢。
期間 12月20日〜3月中旬。
営業時間 8:30〜21:00。
リフト券 ※子供は中学生以下。
大人
子供
一日券
2,000円
1,000円
半日券
1,500円
750円
11回券
1,000円
500円
1回券
100円
50円
ナイター券
1,000円
500円
シーズン券
12,000円
6,000円
ちょうないかい【町内会】
町内会名
隣組数
世帯数
大井沢第一
3
33
中上
2
14
萱野
1
7
中村南
4
18
中村北
3
15
原
3
20
桧原
2
8
上島
1
8
合 計
19
120
参照:上田崇平「大井沢中村の社会伝承」『大井沢の祭りと伝承』平成10年度・明治大学居駒ゼミ調査報告書p8
チングルマ
【つ】
つきおか【月岡】上島集落。西川町大字月岡に区分。寒河江川の東側にあたる地域一帯を「月岡」と呼んでいた。月岡地区にはかつて「水ヶ沢」「子砂子関」「二ッ掛」「上島」「月岡」の五つの集落があった。このうち水ヶ沢は天明の飢饉のために廃村し、子砂子関と二ッ掛は寒河江エダムの建設の際に水没したため、両端に位置していた上島と月岡のふたつの集落だけが現在に残っている。以前は本道寺地区の対岸の集落という意味から「向本道寺村(むかいほんどうじむら)」と呼ばれていた。明治6年の地区改編のときに「月岡」と命名された。参照「ふたつの月岡」『峠の小鳥』第6集 p.74
つきぬのがわ【月布川】大江町。
つきぬのがわのこぼく「けやきのき」【月布川の古木「欅の木」】大江町。熊野神社前に、徳沢に通じる三叉路が有り、橋が架けて有ります。側に樹齢1,000年以上が過ぎようとしている古木、「欅の木」が有ります。亡き母の伝えでは、昔大宝院の敷地内に有った物で、熊野神社の御神木の一本だったそうです。又熊野神社一帯は紀元前より住み着いた形跡があり、縄文土器や石器が出土しております。先日お邪魔した際に、まだ残ているか、参拝後に近くの畑を見ましたが、以前(〜中学生)訪問時より少なく、埋蔵文化財も開墾や心無い人達により、荒された感じを受け、心寂しく帰京致しました。(熊野神社代理人)
つきのぼるまち【月のぼる町】本のタイトル。副題「生涯学習のむら・にしかわ物語」。編集:西川町クオリティ・ライフ研究所。発行:平成3年5月、第一法規出版。
つきのわぐま【月の輪ぐま】
(熊のフン 撮影:広)
つきやまざわ【月山沢】
つきやまざわとんねる【月山沢トンネル】月山沢橋と砂子関トンネルのあいだ。
つきやまざわばし【月山沢橋】月山沢トンネルの手前。
つぢざぐら【土桜】イワウチワ。
つちだしげみ【土田重美】月山フィッシュランド。
ツリフネソウ
ツルウメモドキ
づんべ わらの長ぐつ。(千鶴子・英機)
【て】
てうちそば【手打ちそば】
でかせぎ【出稼ぎ】
てづくりハム・ソーセージ【手作りハム・ソーセージ】月山ポレポレファーム・田作さん作。
(撮影:広)
テレビとう【テレビ塔】
でやがわ【出谷川】地名。
テン
てんかい【天海】
てんぐおんど【天狗音頭】朝日連峰や障子岳・天狗小屋・相撲取り場などがうたわれている。(英)
一、龍の峯から 太鼓が響くよ
正月十日の 鼻くらべ
二、天狗角力場 お山のさじき
山の見晴らし 日本一
三、山は茜に 夕焼けトンボ
夜営仕度の 天狗小屋
四、天狗小屋から 村山平野
近く見えます 夜の灯が
五、白い砂原 十五夜お月
青猪(あお)が友よぶ 天狗峯
六、天狗の角力は 勝負がつかぬ
水が入った 千丈滝
七、初夏の龍岳 若草色に
春蚕あがるよ わらだ雪
八、霧が昇るよ 障子ヶ岳を
万年(おとみ)雪から お空まで
九、二ツ石から 以東岳見れば
青猪(あお)が登るよ エヅラマツ
十、出谷と見付の 分水嶺に
ヤブの鴬(うぐいす) のど自慢
十一、大原目木(めき)に 露営のまとゐ
眠る樹海に ブッポウソウ
十二、天狗朝日の 雪解け水で
町も明るく 田も実り
十三、原始樹海に 大鳥池は
女神の残した 袖鏡(そでかがみ)
十四、以東降りれば 靫(うつぼ)の尾根に
神が秘めたる お花畠(はなばた)
十五、早い川瀬は 白泡(あわ)立ちて
岩魚おどるよ 出谷の谷
十六、行こうか以東岳 もどろか朝日
ここは寒江(かんこう) 思案原
十七、百畝畠(ひゃくねばた)を うす紅色に
いぶきとらのお 花ざかり
十八、白と紅(べに)との 石楠花(しゃくなげ)ざかり
熊が遊ぶよ 清太(せいた)岩
十九、根子川下れば 仁王石平
白いキャンプも チラホラと
二十、秋の山峡(やまかい) 朝霧はれて
黄金(こがね)波打つ 田の実り
てんぐすもうとりば【天狗相撲取場】
てんじんさま【天神さま】天神まつり。
てんのうはい【天皇杯】参照:豊かなむらづくり天皇杯受賞
てんぽうざん【天方山】
【と】
ドウ 魚を捕るかご。
といちろ とういちろう。庄司藤一郎。慈恩寺からりょうじょう。骨接ぎ。新宅のじいちゃんが村長をしていたころ、大井沢へドカタをしに来た。大井沢の多くの人が世話になった。(千鶴子)
とうげのことり 『峠の小鳥』大井沢小中学校の自然学習の成果をまとめた記録集。
昭和29年・第一集。
(広)
どうちさい【道智祭】6月15日。
どうちしょうにん【道智上人】無住の寺であった大日寺を湯殿山の別当の地位にし、湯殿山を参拝する人々のために置賜・五百川・寒河江地方の各地域、黒鴨・茎の峰・古寺・大井沢の間道を整備した。応永年間(1400年頃)に大日寺に来る。大日寺へ来る前に慈恩寺と亀岡文殊堂にて修行。応永34年(1427)11月24日、67歳で亡くなる。
『大井沢の民俗 平成11年度・明治大学居駒ゼミ調査報告書』p48
「大日寺の方丈たち」『峠の小鳥』第6集 p.74
どうちしょうにんのつか【道智上人の塚】享保の中期、方丈利海の建立。
(撮影:広)
どうちづかのくづわへび 『道智塚のくづわ蛇』ビデオ教材。平成7年、文部大臣賞受賞。
どうちみち【道智みち】
とうちゅうかそう【冬虫夏草】サナギ茸・カメムシ茸・コメツキムシ茸・ハナサナギ茸・ガアヤドリ茸・キイロクモ茸・ハエヤドリ茸・ツブノセミ茸
参照:鈴木一久「大井沢の冬虫夏草」『峠の小鳥』第6集 p116-
とうちゅうかそうにふれよう【冬虫夏草にふれよう】1998年7月19日、矢萩信夫氏をむかえて。http://www.yamagata-net.com/about/gassan/event/99/event_0719.html
トウノス 地名。
とうほくおうだんじどうしゃどうさかたせん【東北横断自動車道酒田線】
とうほくげいじゅつこうかだいがく・みたゼミ【東北芸術工科大学・三田ゼミ】地学連携調査。環境デザイン学科教授三田育雄。
とがくししょうま【戸隠ショウマ】参照『月のぼる町』p65
とがわゆきお【戸川幸夫】『かもしか学園』作者。
どくのあるきのこ・しょくぶつ【毒のあるきのこ・植物】ツキヨダケ・マツシメジ・ニガクリタケ・ハナホウキタケ・クサウセベニタケ・トリカブト。
トチ 樹木。トチのはちみつは、花に蜜の量が多く美味。(英)
(撮影:広)
とっきび とうもろこし。
となりぐみ【隣組】
とび 木出し用語。
ドホイナ イヌドウナ。どんぶえ
トラツグミ
トラバース
トラバサミ
とりはらやま【鳥原山】1430m。
ドロボウ ぬすびとはぎ。
ドングイ おおいたどり。
どんづき いえを建てるさいの土台固め。
とんとおおいさわ【とんと大井沢】大井沢の古い道の整備や史跡の探索、発掘・復元と、大井沢の歴史や自然に関する達人(名人)の話の聞き取り調査と記録・保存。総数9名、代表・横山皓一さん。舎那山周辺・愛宕山を中心に活動。グループの名称は、フィンランドの民話に登場する老人の森の妖精の名前と「とんと昔」をかけたもの。参照:「広報にしかわ」平成15年8月号
【あ】 【い】 【う】 【え】 【お】 【か】 【き】 【く】 【け】 【こ】
【さ】 【し】 【す】 【せ】 【そ】 【た】 【ち】 【つ】 【て】 【と】
【な】 【に】 【ぬ】 【ね】 【の】 【は】 【ひ】 【ふ】 【へ】 【ほ】
【ま】 【み】 【む】 【め】 【も】 【や】 【ゐ】 【ゆ】 【ゑ】 【よ】
【ら】 【り】 【る】 【れ】 【ろ】 【わ】 【を】 【ん】