一瞬、慣れ親しんだ教室にいるという錯覚が、前原尚継を包んだ。

 その部屋はいつもの三年B組の教室ではなかったのだけれど、教壇があり、色あせた黒板、その左、高いところに大型のテレビを置いた台があり、鉄パイプに合板を張り付けた机と椅子が並んでいた。一見いつも憂鬱に授業を受けている、教室そのものだったのだ。

 そして、何より、詰め襟の学生服を着た男たち、そしてセーラー服を着た女の子たち、つい先ほどまで(少なくともそう思える)ほぼ半数の者は思い思いの場所で、好き勝手に喋りほうけていた。自分はというと確か雑誌を読んでいた、横では、でかぶつの古賀弘が、うっとおしいことに人の雑誌を覗き込んでいたはずだった。俺に断りもせずに、何様だ、一体。

 まあそんなことより、今は全員がきちんとおのおのの席にきちんとついていた。ただ――みんな思い思いに机や椅子に寄りかかり、眠っているのは別にしても。

 尚継が違和感を覚えた。何かがおかしい、確かに今の状況はおかしいのだが、それとは別に何かが頭にひっかかった。しばし熟考したのち分かった。そうだ、井上和美(女子二番)がいるということだった。和美の席は尚継のすぐ前だった、その席にきちんと人がついていたのである。彼女は病弱で学校を休みがちであり、その病弱ということを反映するかのように、肌も雪のように白かった。肩にかかるかかからないかくらいのショートヘアの女の子でかわいらしい子でもあった。

 彼女は今日も学校を休んでいたはずだ。朝、担任の荻野先生がそう言っていた。それなのになぜか今俺の前の席に彼女がいる。

 いや待てよ。別に彼女と決まったわけではないじゃないか。

 確かにその通りだった。その女の子は机の顔を伏して両腕で包み込むようにしていたのだ。顔を確かめたわけではない。だが女というのは当たっている、セーラー服を着ているのだから。

 尚継はおもむろに周りをもう一度見回した。やはり全員が眠っているようだった。教壇に先生の姿は見えない。そこまで確かめた後、椅子を軽く引いて両膝に力を込めて立ち上がった。机の横に少し移動しただけでその前の女の子の顔は確認できた。腕の隙間からその顔が覗けたのだ。間違いない、井上和美さんだ。

 その隣の席で村山茜がその後ろで山部昭栄がさらにその後ろでは、尾畑修二が、やはりぐったりと机に伏して眠っている。そしてその後ろ一番後ろになるのだが、不良で教室などにいるはずがない、黒木久信、秋山洋二、古賀龍時、前田友里が横に並んでいた。もちろん眠っていた。

 尚継にとっては、和美のことよりもこちらの方が不思議に思った。

 再び周りを見渡した。こんなにみんなをじろじろ見ることなど今までなかったので、何か変な感覚を覚えながらも、前から好きだった伊那泉の方を向いた。泉の席はちょうど、廊下側の窓際真ん中あたりだった。泉の姿を捉える前に、尚継の目は別のものを捉えた。本来窓があるところが、黒い板のようなもので覆われている。鉄板――だろうか? 天井に並んだ蛍光灯から落ちてくるくすんだ光を、その表面が冷たくはね返している。校庭側の窓も同じように鉄板で覆われていた。

「うーん」という唸り声のようなものが左後ろから聞こえてきた。

 尚継はすかさずそちらを振り返ると、草場亮が顔を持ち上げかけているのが見えた。亮が完全に顔を持ち上げたとき尚継の目には、亮の首元に銀色の、ぴったりと首に巻きつく金属製の帯みたいなものが映った。自分のすぐ後ろの席の立石厚に目を落とした。学生服の詰め襟のせいで見えにくかったが、しかし、同じものが覗いていた。そしてほかの全員の首にも同じものがあった。

 それから、尚継ははたと気づいて、自分の首筋に右手を差し入れた。

 硬く冷たい感触が伝わった。――尚継の首にも、同じものが巻かれているに、違いなかった。

 尚継は少し引っ張ってみたが、がっちり食い込んでいて外れなかった。それがそこにあると気づいた途端、何だか息苦しくなった。首輪! 首輪だ、ちくしょう、犬じゃあるまいし!

 尚継はしばらくそれをいじった後、あきらめた。

 それよりも――

「おい! 草場」尚継がいうと、その呼びかけに答えるかのようにまだ寝ぼけまなこだった亮は尚継の方を向いた。

「目を覚ませ! 大変なことになっているぞ!」

 亮は相変わらず眠たそうに目をこすり周りを見渡し始めた。

 すぐに状況を理解したのか亮は驚いたように目をいっぱいに広げ、尚継を見つめ返していた。

「おい、これもしかして――」亮がいうと、尚継は食って掛かるように言った。

「何か知っているのか! 教えてくれ! 俺たちなんで眠ってたんだ!」

 突然、教室の、教壇側の入口が大きな音を立てて開き、二人はそちらに向き直った。

 男が一人入ってきた。

 男は背はやや低めだが、がっしりした体つきで、胴体のおまけに添えられたように脚が短かった。地味なカーキのスラックスとグレーのジャケット、エンジ色のネクタイを締め、黒のローファーを履いているが、どれもくびれた印象だ。とても血色のよい顔。そして何より特徴的なのは、その髪型だった。まるで妙齢の女性がするように、肩口まで、まっすぐ髪を伸ばしているのだ。

 男は教壇の位置に立ち、教室を見渡し、その視線は、教室の中央で立ち尽くしていた尚継の顔に止まり、その後その斜め後方の亮に止まった。

 亮と男はたっぷり一分は見つめ合っていたに違いない。しかし、そのうち、ほかのみんなも目を覚まし始めたのか、教室の中に少し緊張した息遣いが広がり始め、男は亮から視線を外した。誰かすっかり眠り込んでいたものがいるのか、起こすような声もした。

 亮も教室を見渡した。目を覚ましたクラスメイトたちは皆、一様に焦点の定まらない目つきをしていた。なにが起こったのか全くわからないのだ。

 やがて全員が目を覚まし、男が言った。快活な声だった。

「はーい目が覚めましたかー? よく眠れましたかー?」

 誰も一言も喋らなかった。おしゃべり、兼、お調子者代表ともいえる、田中直美ですら、何も言わなかった。

 ただ一人草場亮だけが少しの苦笑いを浮かべて、これから起こる自分たちの運命を想像していた。





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