38 相変わらずウシガエルの鳴き声が響く中、伊那泉(女子一番)はふと目を開けた。左腕を少し持ち上げ、時計に目をやった。十一時四十六分だった。さっき確認したときが四十三分だったのでそれからまだ三分しか経っていなかった。もどかしかった。何でこんなに時間が経つのが遅いのか、時計が壊れているんじゃないかとさえ思えた。 一日に疲れがどっと押し寄せ、眠気に襲われ始めていた泉にとって必死にこらえても意識が途中途中で飛んでいた。しかし眠るわけにはいかない、放送を聞いておくことが何よりも最低限必要なことであったし、ゲームの進行状況も知っておきたかったのだ。ひょっとするともう全員死んでしまって、残りはあたしと、あと一人になっているかもしれない。そうすればもうこんな思いをしなくても済むし、このレーダーを頼りにこのゲームを終わらせることができる。 泉は一度レーダーを覗き込んでみた。反応はなかった。それで誰もいないことを確認した後、大きく伸びをした。この調子なら放送後はゆっくり眠れそうだな、なんてことを考えていた。 再び時計を見た。十一時五十分だった。あと十分か。 気を紛らわそうと泉は、午後六時の放送のことを思い出した。そう言えば、直美、死んじゃったな。誰に殺されたんだろう? 最初彼女の名前が放送で流れたときは、仲がよかったし、それなりにショックを受けはした。だが遅かれ早かれ、みんな死ぬのである。それがあたしと仲の良い友達のなかで一番最初であったというだけのことで、別に悲しむことでもないのだ。直美には悪いけど、こんな状況じゃ、人の死を気にしている暇はなかった。 それにあたし自身もできるだけ仲の良い人たちには死んでほしかったし。だってそうじゃない、そのこが最後まで残ったりしてたら(まあ、万に一つもそんなことはないとは思うけど)、あたしが最後に止めを刺さないといけないから、いくらなんでもそれは気が引ける。 ああ、それにしても眠い。ちょっと顔でも洗った方がいいかもしれない。誰も近くにいないので危険はないだろう、ほんとに役に立つなあ、このレーダーは。 しかしそのときぴたっ、とウシガエルの鳴き声が止んだ。泉の体が一気に硬直した。 そんなばかな!? 誰もいるはずはない、さっき確認はした。見落としていたかもしれないという疑問が沸き、ゆっくり音を立てないようにレーダーを手に取った。覗き込んだ、やはり反応はない。真ん中に自分を差し示す印が一つあるだけだ。 じゃあ、なんで、鳴き声が止んだの? 泉はゆっくりと体を浮かし、木に下の茂みから目から上までを出し、池の方を覗き込んだ。 今度こそ本物の恐怖が込み上げた。池の端、泉がいる方とはまったく逆方向だったが、そこには四本脚で体を支え(前の二本脚は水の中の突っ込んでいた)、全身が灰色に近い黒の毛で覆われた生き物が目をぎらぎらと輝かせながら、水を飲んでいた。体を丸めているが、それでもかなりの大きさだった。多分二本脚で立った場合は、全長三、四メートルはあるに違いない。熊だった、それも巨大熊。 レーダーに写らないのは当然だった。 泉は中腰姿勢のまま体を凍りつかせていた。 な、なんで熊なんているのよ。泉は心の中で思った、それはもちろん音を立てること自体危険だし、声を上げるなんてもってのほかだったので。体が動かなかった、いや動けなかったのだ。少しでも動けば、音を立ててしまうかもしれないし、相手は動物だ、ちょっとの気配さえ見逃さないに違いなかった。その点は下手に殺人者が訪れてきたときよりも、厄介かもしれなかった。動物の聴覚は人間などとは比べものにならないくらい優れているということぐらい、泉も承知のことだった。 だが中腰の姿勢にも限界がきた。運動をすることなどない、泉の体には長時間そんな態勢を保てるほどの筋肉など付いているはずもなかったし、ひょっとすると昼間の疲れで全身は張っていたのも原因かもしれなかった。とにかくその姿勢がもはや耐えられなくなった。こんなことならもっと体を鍛えておくべきだった、という後悔に念も浮かばない事もなかったが、後悔先に立たず、泉はゆっくりと両手を両膝に乗せると、その両腕に全身の力を預け、極力ゆっくり、熊に気配を感じ取られないように体を下げていった。 尻は浮かせたままだったが、なんとか座り込むことはできた。自分でも驚くほど静かに事を運ぶ事ができた。全くの無音、これならやり過ごすことはできるだろう。 だが今晩をここで過ごす事はできなくなってしまったことは事実である。熊なんて出る場所で野宿などやってたら命がいくつあっても足りない。あの熊が去ったらあたしもここを去ろう、そう決心した。 その頃熊はというと、水を飲み終え、池の横を通り、獣道へと向かい出していた。その獣道は泉がここへ来るとき通った道でもあった。そしてちょうど獣道へと入ろうとしたとき、突然しきりに鼻を鳴らし始めたのであった。何かを嗅ぐようにしきりに鼻を鳴らしながらその巨大な体を再び池の方へと向けた。 ふんふんふん、という鼻息を立てながら泉がいる茂みに向かって地面の匂いを嗅ぎながら近づいていった。 泉は息を殺しその熊がいなくなるのを待った。もちろん今の姿勢ではそれを確認することはできなかったが、それもウシガエルたちに任せておけばいいだろうと思っていた。とりあえず、それまではじっとして、動くべきではない。下手に動いてまだ熊がいたら取り返しがつかないことにもなりかねない。 だがその泉の耳に何か聞き慣れない、音が聞こえ出した。その音が近づくにつれ、それは家で飼っている犬のペン太がよく出す音に似ているのに気づいた。ペン太を散歩に連れて行くといつも田んぼ道の脇でよくやる、あれ。泉はそこまで考え、今度は全身にどっと冷や汗が沸いた。匂いを嗅いでいる!? 泉は自分の愚かさに気づいた。聴覚だけじゃない、嗅覚だって人間とは比べものにならないことを見逃していた自分に愚かさに・・・・・・・。 一刻の猶予もないと感じた泉は、ばっと立ち上がった。自分の前方約三、四メートル先に巨大熊の姿があった。泉自身恐怖で心臓が飛び出そうになったが、それは熊の方も同じらしかった。突然現れた、人間の姿に驚いたのか、二本足で立ち上がった。その熊の胸には黒い毛の中に白い毛でV(ブイ)の字のような模様が入っていた。――ツキノワグマだ! あの人食い熊で有名な! 泉はすぐに体を反転させ走り出した。荷物など持つ暇さえなかった、もちろんレーダーさえも。あれほど張っていた足の筋肉が、うそのように元通りになっていた、それとも筋肉もそれどころではないということを察知したのだろうか。一歩、二歩と足を運ばせた瞬間、前に運んだ右足が突如何かにすくわれたように、ずっ、と滑った。視界がものすごい勢いで回転し出して、体も同時に茂みに覆われた地面へと後ろ向きに落ちていった。あまり衝撃による痛みはなかった。すぐにその原因がわかった。右半身ほとんどに、水で濡れた泥がべっとりと付いていたのだ。水で地面がぬかるんでいたのだ。恐らく池に入り込む水がここら一帯に漏れてきているのだろう。それでもすぐに立ち上がろうとした泉だったが、熊の姿が空を見上げた状態の泉の視界いっぱいに映りこんできた。 今度こそ生まれてきて十七年間感じた事のないような身の危険と恐怖を感じた。意識とはまったく別に、両手で地面の泥をその熊へと投げつけていた。 熊はそれに動じた様子もなく泉の腹と胸の真ん中辺りを脚で踏みつけてきた。「うっ」と声が洩れたが、すぐに声もでなくなった。息ができないほどの力だったのだ。全体重が泉の比較的小柄な体へと乗せられていた。泉は両手足をばたつかせた、しかし逃れる事はできなかった。しかしそれでも今度は両手足と、頭、尻、動く部分すべてをばたつかせた。熊に押さえられている力が少し弱まったような感じがした。だが次に視界に飛び込んできたのは、熊の大きい口が開かれた顔だった。泉の目はその熊の牙にだけ集中していた。するどい牙だった。それだけわかった。 その熊の牙が泉の顔を左右から噛む形で向かってきた。もはやどうしようもなかった。泉は目の前が真っ暗になったかと思うと、両こめかみの辺りと、両頬に激痛が走った。熊の牙が食い込んだのだった。熊は噛み付いた状態からいったん口開きかけたが、再び噛みついた。泉の視界は真っ赤に染まったかと思うと、再び真っ暗になった。熊の牙が眼球に達し、右目の方はその牙により潰され、左の方はその圧力に耐えられず、飛び出していた。もちろんそれはすべて熊の口の中で起こっていたことなので誰にも確認することはできなかったが。さらに熊が顎に力を加えたときには、泉の体はただ痙攣に似た動きをしていた。だがそれもすぐに収まり、ぴくりともしなくなった。 泉の体が完全に動かなくなり、熊の牙は泉の顔から外れ、再びしきりに鼻を鳴らし始めた。その鼻が、泉の首輪の巻かれた首あたりで止まった後、熊はその鮮血で染まった舌でべろり、と舐めた。熊はすぐに苦いものでも食べたときのように、それを止め、興味がなくなったのか、奥の茂みへと歩き出した。 もはや顔が側面から押し潰され、原形をとどめず事切れている、泉には知る由もなかっただろう。いつもつけているお気に入りの香水、ブルガリのプールオム″が自分を死に導いたことなど。 [残り22人]
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