44 失われていた意識がふいに蘇ってきた。その途端ひと時の幸福な時間がうそのように、再び猛烈な痛みが襲ってきた。昭栄は声にならない痛みを全身に感じだ。信じられなかった、自分はまだ生きているのだ。もうとっくに死んでいてもおかしくはずなのに。 昭栄の体はくの字に横たわり、頭からつま先までじっとりと湿りを感じていた。汗のせいもあるあろう。でもそれだけではなかった、目をちらっとそちらへと向けると、どす黒い液体が広がり、次々と地面へ吸い込まれては消えていった。前に見たときと全く同じだった。それで自分が流している血の量を改めて確認できた、さっきはその直後気を失ったのだった。 今意識は十分にあった、だがやはりぼうっとした感もある。目もかすみ、いままで眼鏡なんて別の世界の産物同然だった昭栄にとって初めて目の悪い人の気持ちを感じられたようだった。今度こそ本当に死が近づいてきたのだろう。そのときなぜか昭栄は安らかな気分になった。一気に全身の痛みが消えた。感覚が麻痺したのだろう、だが同時にどこも動かせなくなった。 目の前にあるシーンが浮かんできた。いまや遠い昔のように思える懐かしの3年B組の教室だった。みんなが思い思いの席のつき、何やら楽しそうに話している。自分自身はというと一番後ろの席にぽつんと取り残されている。回りを見渡して親友の森田康輔を探した。すぐに見つけた。左手の窓側の真ん中あたりに相川真一朗と一緒にいた。他のみんなと同じように何かを喋っていた、顔には満面の笑みが浮かんでいる。一刻も早く自分もそこに加わりたく、立ち上がろうとした。だが椅子から腰が上がらなかった。異常な重さを感じ今度は手足を使って立とうとした。動かなかった。それでそういえばみんなの声も聞こえていないことに気付いた。そのとき康輔の顔がこちらへ向いた。昭栄は懸命に声を上げて何か訴えようとした・・・・・、が声さえでなかった。康輔の顔が再び前を向こうとした。昭栄は必死に目だけで訴えたがその効果はなく、康輔が前を向いたときその後頭部が露わになった。一瞬なにがなんだかわからなかったが、すぐにわかった。頭の後ろ半分がまるで鋭利な刃物で切られたようになくなっており、前頭葉から垂れ下がるゼリー状の物体が長く学生服の肩まで垂れて、今にも床へと落ちそうだった。隣の相川真一朗の様子もおかしかった。突然ぶるぶると震え始めたのだ。訳がわからず、そちらに目を向けた途端、首筋のぴっ、と赤い線が浮かんできた。そこから血が湧き出してきたと思うと、首をつたい襟の中へと流れ込んだ。だが次の瞬間、まるでボールが転げ落ちるかのように頭が体からぽろり、と落ち、床に転がった。それが止まることなく自分の席へと転がり続けた。自分の机の足元へとたどり着いたときその目がちょうどこちらを向いた。そしてその口がにたっ、と笑むように動いた。 昭栄は恐怖に耐えられず、視線を他のみんなへと移した、―――がみんながみんな机に伏せていた。顔が潰れたもの、口からなまこみたいに太い舌が飛び出しているものなど様々だった。床は真っ赤に血が広がり今にも自分のところへ届こうとしていた。昭栄は相変わらず全く体を動かせない状態のまま、叫び声を上げた。 目の前に草木が茂っていた。それで今見たのが夢であったと理解できた。だがやはり体はその夢の中同然に動かせなかった。感覚がまったくないのだ。 草木の向こう側、視界の端に何か布みたいな黒っぽく柔らかいものが見えた。あれはなんだろう、あんなものがあっただろうか。でもすぐに昭栄の目は見開かれることになった。学生ズボンの裾だと分かったのだ。誰かがいる! だが逃げることもかなわなく、どうせ死ぬんだし怖さなどなかった。いや、それ以前に感覚だけでなく、感情も麻痺していたのかもしれない。目玉のみを動かしてそのズボンから上を見ようとしたが、どうしても腰より上を視野に入れることはできなかった。 昭栄がその存在に気付いたのを察知したのか、その脚がゆっくり自分の方へと近づいてきた。 すうっ、と裾が眼前へと向かって、ほぼ眼中を黒一色に染めた。普通ならそれは自分を殺そうとして近づいてきていることくらいは容易にわかったことかもしれない。だが今の昭栄にはその行動の意味さえ理解できず、ただ一点を見つめていた。動くこともできず、顔さえ確認できない昭栄の目の前で、ゆっくりとその脚が曲げられていくのが見て取れた。 膝、腰、胸という順序ですすすっ、と画面が移り変わった。それが首あたりまで降りてきた。だが顔が見える前にそれは止まった。ちょうどあごのあたりが視界の端に写っていた。それは現代人に特有なとがった感じのあごだった。次の瞬間その顔が横に倒れるように動いた。視界がほとんど利かなくなった昭栄の眼中にその顔全体が映りこんできた。 一言で言ってしまえば、美しい、それだけで終わってしまいそうだった。否定しようもない完璧な顔、すべてのパーツがマニュアル(マニュアルってなんだ)通りに整えられて、それは一種の彫刻でも見ているような感じを起こさせた。無駄な筋肉の運動を課されない皮膚(その通り彼は一切笑ったりしなかった)はまるで子供のようにつやつやだった。動いているものといったら眼球のみで、きれいな二重まぶたを持ち、すべてを見透かしてしまうほどの輝きがあった。その顔は桐山和雄だったのだ。 このとき昭栄にはその顔が彫刻に見えた第一の原因はそのきれいさだと思っていたのだが、正確にはそうではなかったのかもしれない。というのはその顔には全く感情と言うものが感じられなかったのである。本物の彫刻がただ命を吹き込まれて、動き回っていると考えたほうが適切な描写のようにさえ思えるのだ。 昭栄はそれにしばし見とれていた。もちろん次に何が起こるかなど考えることもなかった。 そんな昭栄の意識とは無関係にすっと銃口が眉間に当てられた。それでも彼は何も感じることはなかった。 ぱーんっ。 銃声が響いた。至近距離から銃弾を受けた昭栄に顔は、それで原形を留めることもなく吹き飛んだ。 桐山和雄はその光景を顔色一つ変えることもなくしばし見つめていた。事実昭栄が感じた通り、彼はその美しい顔とは裏腹にまったく感情というものが欠如していたのだ。悪と善などの区別などあるのかはわからない。ただすべての行動を決めるのは感情などではなく、本能であったのではなかろうか。いやそもそも彼に本能というものさえあったのかどうかもわからない。そう、彼の人生はギャンブル的なもので決められていたのだ。人々が何かを決めようとするときに行うコインとす、じゃんけん、そういった物事の判断しか彼は持ち合わせていなかったのだ。哀惜だとか同情だとか――それらの感情の何一つ、感じていたわけではなかった。 彼は昼に殺した森田康輔らと同じように、銃弾で弾けとんだ人間の体について知りたかった――いや、知るのも悪くないと思った″のだった。 実際、桐山和雄は最初分校を出てすぐポケットに入っていた一枚の銀貨を取り出し宙に投げた。それは表なら政府の連中と戦う、裏ならこのゲームに乗るというものだったんだが、結果は今の彼を見ての通りである。神こそが殺人マシーン桐山和雄を生み出したのだある。もしあのとき神にほんの少しでも御慈悲があったなら、ゲームの存在自体を大きく踏みにじることができていたかもしれない。しかしもはや彼を止めることはできない。それはどんな説得によっても・・・・・・。 桐山の顔がすっ、と後方を振り返った。それはほとんど無音に近く、普通意識に達するレベルではなかったにもかかわらず、桐山の耳にははっきりと捉えられたのだった。それで腰を上げると木陰へ向かって走り出した。 (残り21人)
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