LUNE

act2






 まるでお盆の迎え火のようだと、不埒にも縁起悪くも思ってしまった己の間抜けさを、快斗は内心盛大に呆れ、笑った。
 未だ、笑っていられる。いられると、胸に刻み付けるように、再度苦笑する。
 ポーカーフェイスは父の遺言だ。だとしたら、ポーカーフェイスを刻み付けたまま、父は逝ったのだろうか?
 記憶の底にこびりつく黒煙のように残滓されているのは、身の裡の何処かに居座り根をはってしまった生々しい記憶だ。
 見詰めた先には光と闇と、どちらが視えたのだろうか?知る手段など、何処にもないし、識る為に生死を賭けるギリギリ境界線に立っている姿を、新一が心配している事を、快斗は嫌と言う程理解している。
 問い掛けてくる眼差しの深さ。物言いたげに、困った顔をする貌。深みに嵌まってしまえば、危険が愉しい、そんな危うい思考にさえ支配されてしまう快斗の内心を、新一は綺麗に見透かしている。
 稀代の怪盗のポーカーフェイスも、稀代の名探偵の前ではあのり意味はないのかもしれない。けれど、誰より大切な人の前では、見透かされると承知してでも、ポーカーフェイスで有る必要は幾重も存在するし、意地も有ると言うのは快斗の言い分だった。
 盾としての笑顔は、内界を理不尽に踏み荒らされない為のもの、そして他人を隔絶する為のものだ。新一には何一つ通用しないとは百も承知しているけれど、誤魔化されてくれている今は、誤魔化されてもらおうと思う快斗だった。狡猾な事など、お互い様と言う事なのかもしれない。
 深夜に近い住宅街。十五夜だからと昔のように風流を眺める余裕など、時間に追われている現代人には皆無に等しいから、全開にされた窓際で、迎え火さながら灯っている赤灯が、快斗の視界には嫌でも入ってる来る。
 照明の灯らない室内の暗さが有って、初めて判る赤灯の炎。姿までは確認できはしないけれど、想像なら出来る。
少しだけ憮然として、視る事もなくボンヤリ月を見上げているだろう姿が想像できてしまい、快斗は更に苦笑を深めた。
 快斗は夜空を飛行し、目指すポイントに飛行距離を絞った。










「お前な、何度言ったら判るんだ。学習機能付いてのんか?」
 お前ぇのIQ400ってふざけた数値は飾りか?新一の言外には、そう滲んでいた。
「でもね名探偵。この時間、玄関のドアチャイム鳴らすのも、十分非常識だと思うけど?」
 綺麗に着陸ポイントを絞って、やはり綺麗に室内に入り込んだ快斗に、けれど新一はやはり憮然として盛大に悪態を吐いた。こんな会話は二人の間では、代わりばえしない会話の為の言葉遊びに近い。
 いつも二階の新一の部屋を玄関変りに工藤邸に入ってくる快斗に新一は合鍵を渡しているし、快斗は快斗でそれを使用した事など、過去一度とて存在しないのだから、やはり二人の会話は言葉遊びに近いのだろう。今更服部も哀も、二人のこの手合いの会話には、呆れて口を挟む事もしなくなっている。
「非常識って判ってんなら、非常識って時間に人様の家訪問するな」
 不在の主の室内のデスクの引き出しにしまわれている、外国産煙草を引っ張り出し吸っていた新一は、手にしていた小さいクリスタルの灰皿に吸い殻を押しつけ、火を消すと、呆れて深夜の訪問者を眺めた。
 深夜の帳に照明の灯らない室内での会話は、けれど天高く輝く冷たい光によって、互いの表情など手の内のように判ってしまうから、別段問題にもならなかった。
「吸ってるし」
 言いつけるよぉと、快斗は笑うと、新一は途端嫌そうに顔を顰めた。
「っるせぇ、あいつだって俺が吸ってるの知ってるんだ」
「知ってるのと、納得するのは別物だと思うけどな、俺」
 新一の躯の事を考えれば、服部が新一の喫煙を歓迎する筈は当然の事ながら皆無だから、服部自身が喫煙する時は、通常使用される頻度の果てしなく低い自室だと、快斗は知っている。
「今夜はさ、名月だからね」
 満ちる月の光が、吐き出す紫煙も隠してくれるよと、快斗が笑うと、新一は思い切り嫌そうに、
「お前ぇいつもそー言って、女口説いてんだな」
 と呆れた。







「もう随分高いねぇ」
 明かりのない室内。窓際から見上げた月は真ん中より随分下に位置して、綺麗な光で地を満たしている。暗い室内の中からだからこそ、冴える光がより綺麗にみえるのかもしれない。
 蒼い沈黙に閉ざされた、スッパリ切断されそうな鋭利な白い光。冴々と凍て付く冬の皓月より幾分柔らかい白い光は、静謐で怖い程だ。見詰めていると、確かに引き摺り込まれてしまいそうな光を放っている。
 此処数日で随分涼しくなった空気は、深夜になれば少しだけ肌寒さを薄布越しに伝えて来る。秋の名物のように外から虫の声が鳴いていて、名月に似つかわしい装いをしている。
沈黙に閉ざされた深夜の気配の中。月の光と虫の声が、ひどく綺麗で、新一も快斗も、暫くその光景を眺めていた。
 そんな中、新一が不意に思い出したように、口を開いた。
「月って、上に行けば行くだけ、遠くなるよな」
「遠く?」
「ん〜〜〜小さくなってるだろ?歩美達がさ、言ってたんだよ」                   


『ねぇねぇコナン君。お月様って、時間が立つと、遠くに行っちゃうね』


 無邪気な子供の疑問が脳裏に甦り、新一は無意識に薄く柔らかい笑みを口唇に刻み付けていた。
 コナンだった当時の新一を支えていてくれた優しい子供達。他人の為に純粋に泣く事の出来る綺麗な魂を、いつまでも持ち続けてほしいと、新一が願い祈っている事を、快斗も服部も哀も知っている。哀も新一同様、彼等を大切にしている事も、知っていた。
 優しい子供達と過ごした柔らかい時間が、戻った今こうして思い出しても優しく胸を包んでくれる。快斗も知っているのだ。江戸川コナンだった新一が崩れなかったのは、服部の存在だろう。けれど、新一の心を柔らかく包んでいてくれたのは、服部だけではない事を。新一が、その空間を与えてくれていた子供達を、今でも大切にしている事を、快斗は知っているから、新一の漏らした言葉に、やはり優しい笑みを浮かべている。
「MOON−Illusion、心理的なものだよ。コインで計ってみれば判るけどね」
 そう笑うと、100円玉を何処からともなく取り出して、月に併せるように翳して快斗は笑う。
「でも月って、判らない事だらけだよな」
 椅子を持ち出して、新一は子供のように窓の桟に頬杖を付いて、月を見上げている。
本格的に名月を愛でる気分になったのか気紛れなのか、快斗にその判別はできない。
その新一の横に、快斗は立っている。
「地球に一番近い、地球の唯一の衛星なのに、知られてない事ばっかだしな」
 あの綺麗な地球の衛星の裏側を、見る事はできないのだから。
「地球の一部が隕石に削り取られたとか?」
 恐竜滅亡の片棒を担がされている隕石節は、未だ根強い。
「可笑しい磁場があるとか?」
 抜け落ちたクレーターがあったり、沈黙に閉ざされた死の世界なのに、太陽の光で白く輝いて兎が住んでいたり。
「近くなって遠くなって、一定の引力で引き合って回ってたり」
 以前、服部と交わした会話がそんな話だったと、快斗は思い出す。
「お前ぇ、月見なのに、月見団子も酒もなしかよ?」
 闇の中。ゆっくり息衝き満ちて行く光を眺めるなら、それは必需品だと、新一は月を眺めたまま、口を開いた。
「………それは気付きませんでした」
「気付けよ。月見ってんなら」
「ねぇ名探偵さ」
「あんだよ」
「変らないものはないけど、変らないものも有る事は、知っといてね」
 フワリと、マジックをする繊細な指が、新一の髪に埋もれて、一房梳いて行く。その感触に、新一は初めて隣に佇む快斗に視線を移し、何とも言えない表情で見上げ、凝視した。
 薄暗い室内に差し込む月の光が、二人の表情を曖昧に隠して凝視して来る新一の眼差しが、何処か傷付いた表情をしている事に気付いて、快斗は薄く笑って、口を開いた。
「感傷で言ってるんじゃないんだよ。確かにね、満ちてもまた欠けるし、願いも祈りも悟ったつもりでまた迷う。繰り返しだよ」
「……十分感傷的だろソレ」
「姿形を変えないものの中でも、変らないものも確かに有るよ」
「……お前、狡いな…」
「ウン、狡いよ。名探偵相手なら、幾らでも奥の手を持つよ。手の内を曝すなら、奥の手を持てって言うのは、定石だからね」
「…何の定石だよ何の」
 触れてくる温もりは、極簡単に身の裡に触れ、包んで行く。優しい言葉と響きと声と、そして少しだけ哀しげな快斗の貌。
 簡単に触れては、守ってくれる服部と同じ腕。狡いとは百も承知で、新一はけれど誤魔化すように軽口を叩いた。
 きっと快斗に対しては、そんな事しかできないと、知っているだろうのだろうし、自分の立つ位置も、心得ているのだろう。
「運命なんて言葉は簡単だけど、だから奥の手なんだよ」
「呆れるぞ。今時少女漫画でも使わねぇよ」
「俺はね、名探偵」
 其処で快斗言葉を区切ると、越しを屈め、新一の眼差しを覗き込む。
間近に覗き込めば、色素の薄い眼差しが、揺らいでいるのが見て取れる。少しだけ動揺と困惑を映し瞬いている綺麗な眸。泣かせてしまうなと、フト思う。
「名探偵に大切にされ愛されて、一緒に逝く事のできない服部より、倖せだって事は、判ってるよ」
 優しく柔らかい笑みは、白く静謐に輝く月と同じ鋭利さで、新一の内心を切り裂いて行く。
快斗の科白に、新一は何とも言えない貌をし、覗き込んで来る、今では自分と似ていない貌を新一は凝視する。
 凪いだ夜の湖面のように、静かな蒼い淵を連想させる色素の薄い綺麗な眸。月を抱え揺れる水面のような眸が不意に揺らぎ光の像を結んだ。
 それを見て取って、快斗は、アア泣かせてしまったな、内心で自嘲が漏れた。
「黒羽……」
 途切れる言葉、大切な名前。今夜初めてその名を呼んだと気付く。
「それだけはね、服部には逆立ちしても真似のできない芸当だろうし」
 瞬く眼差しの奥で光が弾けていくかのようで、快斗は慄える長い睫毛にソッと指を添えた。
「泣かないでね」
 泣かしたい訳ではなかったのだから。ただちゃんと、言葉に出したかっただけだった。
新一を傷付けるだけの自己満足だとしても。
「エゴイストって呼んでもいいから」
「………お前は狡くて卑怯な悪党のタラシで詐欺師ってんだ」
 泣いてやらないと、新一は添えられた指を、少しだけ乱暴に振り払った。






「なぁ、お前、アレ盗ってきてくれよ」
「アレ?」
 相変わらず、窓の桟に頬杖を付いたままの新一の腕が、スルッと上がった。その腕の先、指先の先が示す石の球体を眺め、 それはcry for the MOON、叶わぬ願いだよ、快斗はそう笑った。
 月は随分天上から傾きつつあって、もう数時間も立てば、地の縁に沈んで行くだろう。
お前泥棒なんだから、盗んで来いと新一は窓の桟に頬を押し当て、子供のような仕草で月を見上げている。その横顔から推し量れるものなど、快斗にはなかった。ただ、新一がもたらす言葉にされない言外の意味なら、漠然と判っている気がした。
「月、ねぇ。月の石なら、何とかなるけど」
「嫌だね。月」
「あのねぇ」
「俺アレ欲しいから、盗ってこいよ」
「名探偵が盗んで来いは、不味いんじゃない?それ刑法61条じゃないの?」
 どっちかってぇと、60条だよ、快斗の科白にそう呟くと、新一は月を見上げたまま、話している。
「お前、俺との約束は破らねぇんだろ?」
「名探偵ね…」
 快斗は、其処で深い溜め息を吐き出した。新一の科白の意味が、繋がったからだ。だから快斗は苦笑すると、新一の前で右手首をヒラリと捻ると、
「ハイ」
 薄い笑みを刻み付けた。
「名探偵ご所望の月見酒」
 何処からともなく、白いお猪口が取り出されると、片手には冷酒の瓶が持たれている。
「……お前相変わらず、自然界の法則無視しまくってんな」
 差し出された日本酒のミニボトルとお猪口を見比べると、新一は不意に覗き込む快斗のシャツの裾をペロッと捲った。
「名探偵〜〜〜〜」
 服部と同じだよ、快斗は呆れると、
「俺には四次元ポケットなんてないからね。どっちかっていうと、欲しいのは何処でもドアだし」
「お前が自然界の法則無視しまくってるからだ」
 憮然とする新一の横顔を眺め、快斗はお猪口に日本酒を注いぎ、新一の眼前に差し出した。
「ホラ、月」
 注がれた冷酒に浮かぶ名月の名残。それはもう随分傾いている。
凪いだ水面に映るかのように映る白い月が、其処には綺麗に映し出されていた。揺れる水面に浮かぶ月。
 差し出されたお猪口に浮かぶ月を見た時、やはり新一は泣き出しそうな顔をした。
「お前さ、やっぱ月と同じな」
 手の内も奥の手も、何一つ曝す事なく、きっと自分の前から居なくなる。
 地球の唯一の衛星は、いつだってその片面しか地球に向けてはいないのだから。その裏側を、誰も見る事は叶わない。
 その裏側には、一体どんな表情が有るのだろうか?判りはしない。きっと想像もできない。判っている事と言えば、枷の在処が垣間見える、その程度だ。
 枷と承知で父親の名を受け継ぎ、白い翼を血に濡らし、夜空を飛んでいる。ギリギリの境界線に佇み、それでも飛ぶ事を決して止めない。
 新一が快斗の事で判っている事と言えば、情報として得たその程度の枷の在処だ。快斗の想いなど、到底分かりはしないは、彼もまた判って貰いたいと望んではいないだろうと、新一は正確に理解している。望まれたとしても、決して判らない。人の内心など。
 何一つの言葉など、掛けられる立場でも、言葉も持ってはいない事も、そして引き止める事などできない事は、百も承知だ。それはどれ程の発作に倒れ、服部や快斗を心配させても、探偵で在る自分を放棄できない事と同じだろう。だろうと、新一は少しだけ傷付いた、それでいて不意に泣き出しそうな表情で、快斗を見ている。
「でもさ、名探偵も、同じでしょ?」
 莞爾と笑うその笑みが、新一に泣き出したい衝動を孕ませる。優しくて冷たい冷ややかな光と同じ笑み。綺麗で静謐で、そして血濡れた白い翼を持っている。
「名探偵はさ、見つけてくれたから」
 レプリカではない真実の名を持つ自分の姿を。
月に照らし出された影が真実の名だと。
「黒羽……」
「名探偵は、このままでいいんだよ」
「俺、お前の事、服部と同じには思えないけど」
 けれど、大切だから、黙って消えてほしくはなかった。
他人の事など、今の自分の置かれた状況を考えれば、何一つ、新一に言う権利はないのかもしれないけれど。
「トドメくらい、俺が刺してやっから」
 快斗を凝視したまま、新一は静かに口を開いた。
滑り出た言葉に、快斗は瞠然と端整な貌を凝視する。その言葉を聴いたのは、二度目だった。
「お前の為になら、犯罪者にくらい、なってやっから」
 残酷な程、優しさに塗れた科白と共に、細い腕が快斗の頬を撫でて行く。
 アノ時より大きくなった掌。けれどそれでも相変わらず、細い腕。
「守ってやるって、言ったろ?」
 きっと自分が今までこの稀代の快斗に与えて貰った幾重もの優しい想いを返してやれるのは、その程度だと、新一は淡い笑みを滲ませる。
「名探偵………」
 快斗が、泣き出しそうに呟いて、長い両腕が新一を包み込む。同時に、快斗の手に有ったお猪口と酒瓶が鈍い音を立て、フローリングの床で皹割れ、月が砕けた。


『守ってやっから』

 ボロボロになり血に濡れ、もう駄目だと思った矢先。差し出された折れそうに細い腕と小さい掌。

『お前一人くらい、守ってやっから』

 きっと、守るの意味合いは、生命というより快斗の精神を指していたのだろう。
 枷を持つその枷の意味も在処も、当時の新一には漠然としたものでしかなかったというのに、それでも新一は快斗を守ろうと、躊躇いもなく幼い腕と掌を差し出した。

『守ってやっから』

 抱き締めてくれた細く折れそうな腕は、血に濡れて、それでも躊躇い一つ滲ませてはいなかった。
 吹き上げてくる地上の風。生温い澱んだ血と腐臭を乗せ吹き上げて来る熱帯の風。



「だから、還ってこい」
 人の事を、言える立場ではない事を百も承知して、それでも新一は告げているのだ。
其処には、必死な願いが隠されている。いる事を、見抜けない快斗ではなかった。
 きっと服部に、同じ思いを抱かせるのだろう、これから。
愛してくれる人。愛する人。幾重にも嘘を付いて欺いて偽って。快斗の事など、何も言う資格はない事を、新一は正確に理解しているのだ。
「なぁお前、覚えてる?」
 抱き締めてくる腕に包まれ、新一は身動ぎもなく、されるままにされ、ポツリと呟いた。
「頼まれ事、多いんだよね」
 七夕の夜。服部にも言われた科白を快斗は思い出す。


『俺から、稀代の天才マジシャンに依頼や。契約は永久履行。あいつ頼むとは言わへんけどな、あいつも探偵や。俺に何かあったら、俺の存在ごと、あいつから消してくれ』

 その願いが、苦笑に紛れた奥底で、真摯で必死な服部の願いだったのだと、快斗は知っている。


「……俺の方が、早いだろうから」
 早いの意味を考え、快斗は半瞬何とも言えない表情を曝した。新一自身、服部が快斗に託した願いの在処を、知らない事はないと言う事だろう。
 あいつバカだから、新一はポツリと呟いた。
「嫌だな俺」
「我が儘言うなよ」
「月、盗んであげたのに」
「壊しちまったくせに」
 皹割れ転がるお猪口と酒瓶。其処に当然月の名残も欠片も、有る筈はない。
「勿体ないとか、思ってない?」
「勿体ねぇ」
 コトンと、快斗の肩口に額を預け瞼を閉じる。瞬間、快斗の鼻孔を、西の探偵の愛用の煙草の香りが掠めて行った。
 沈黙が心地好く、耳に届く。傾き、地の縁に戻って行く月の光は、ゆっくり消えて行く。
「俺も大概我が儘だから」  
 消えて行くのだろう、この稀代の怪盗は。自らの人生にケリを付ける為に、一人で。
いつ何処でどう消えるのか、それは未だ判らないけれど。
 いつか消える。自分の前から綺麗に。その痕跡さえ見事に消して。それだけは、新一が嫌と言う程痛感している事だった。
 結局、裏を返せば、新一も同じ事を考えていると言う事なのだろう。
「遺いてかないでね」
「………」
「服部の八つ当たりの標的じゃん」
 可哀相でしょ?
視線を下げれば、白い光に照らし出される白く細い首筋が在る。折れそうに細いのは、コナンだった当時も新一に戻っても大差ない。相変わらず、片手で握り締めてしまいそうな程に細い。けれどその薄く細い肩に、決して肩代わりできないものを持っているのだ。
 不老不死の秘薬を知ったが為に、組織に殺された父親。そして、不老不死とは違う効力の錬金の毒によって、生命の寿命である遺伝子を破壊されている新一。繰り返される環状を彷徨う生命。繰り返しも繰り返し。それでも、大小様々な発作が新一を襲う。心臓を引き裂かれそうな痛みに崩れてもなお。新一の精神は崩れない。その強さ。その強さは、一体何だと言うのだろうか?
 新一の痛みや自覚なく負う疵を、肩代わりなど決してできないと理解しているからこそ、服部は見守る事を決めたのだろう。見守る愛情の深さと痛み。その強さは、妬ましい程だ。
「バーロー」
 快斗の冗談に誤魔化す科白に、新一は快斗の肩口に額を押し当てたまま、悪態を吐き出した。それは少しだけ、慄える声をしていた事を、快斗は気付かないフリをした。
「ねぇ名探偵さ、夜明け前が一番暗いんだってね」
 語るように静かな声に、新一は顔ょ上げ、快斗を見上げた。それは少しだけ睥睨するものを孕んでいる。
「夜明け前の数時間が、一番闇が濃いって、世間一般の話しだよ」
 だから明けない夜は、多分ないよと笑う快斗に、新一はますます睥睨し、
「お前のそーいうとこ、スゲー嫌いだ」
 意味深に囁かれた声に、新一はおもむろに両腕を伸ばすと、
「っ痛………名探偵〜〜〜痛いよ〜〜」
 快斗の酷薄な口唇を、新一の指先が両端から思い切り引っ張った。
「お前ぇが、下らない事ばっか、言ってっからだ」
 頬を押さえ、大袈裟に痛がる快斗を横目に、新一はさっさと快斗から離れると、月を見上げ、未だ痛がる快斗に、腕を差し出し、
「折角だから、月見酒しようぜ」
 もう月も陰っちまうけどな、そう笑った。
「………名探偵〜〜」
 大仰に溜め息を吐くと、快斗はガクリと肩を落とした。
所詮酒が好きで、酒豪の新一の事だ。理由を付けて飲める機会を、みすみす見逃す筈はなかった。