木々の緑が眩しく反射する季節は、急速に春から初夏の装いを深めていく。陽射に反
射する緑が眩い季節は、まさしく青黛輝く光の季節だ。
ランドセルを背負っていた小学生が、少しばかり大人の世界に踏み込んだ気がする中
学生。それは幼等部からエスカレーター式で、大学まで存在する青春学園でも変わりが
なく、緊張した面持ちで、中等部の門を潜ってきた新入生が、校内の雰囲気に慣れる5
月も下旬の季節に、青学は毎年身体測定が実施されることになっていた。
「よぉ、お前ら」
幾つかの教室に別れ、身長、体重、視力、聴力 色覚と実施される身体測定は、いか
にも文武両道の青学らしいやり方で、毎年実施されていた。
青学のモットーは、創設者の意思がそのまま反映され、生徒の自主性を重んじる校風
が、時の連綿に忘れ去られることなく、現在まで受け継がれている。
全力で学び、全力で遊べという校風は、だから身体測定も、他校ならこんな光景は見
られないだろうというやり方だった。それが青学という一つのカタチを為す場所での特色
だといえば、それまでだろう。良く言えば臨機応変、悪く言えば大雑把だ。
その場所を管理する教師より遥かに、使用頻度の高いだろう乾が、そこに出入りする
目的はたった一つしかないとまで言われている科学実験室の広い教室は、実験用の大
きい机はそのままに、椅子だけが綺麗に後ろに整理され、室内には幾つかの体重計が
設置されていた。其処に転々と列ができている。その列の一角に、桃城は見知った後輩
の姿を見付けていた。
「よぉ、お前らも来てたんだ」
「アッ、桃ちゃん先輩」
背後から掛けられた声に、堀尾達は物怖じしない気軽さで、桃城に笑顔を向ける。
初等部から中等部に進学して約二か月近く。テニス部員の堀尾達にとって、桃城は部内
でも一番気心の知れている先輩だった。
桃城は3年の菊丸と双璧を張る部内のムードメーカーだったから、堀尾達一年にとって
は、どの先輩達より馴染みが深い存在だ。
「よぉ、どうよ?中等部の身体測定は?」
生徒の教室ではなく、実験棟となっている教室を使用し、全校一斉に実施される身体
測定は、だからこんな場面にも遭遇してしまうのだ。普通なら身体測定で、先輩と後輩が
出会うことはまずないだろう。
「喫驚しました。けど、なんか楽しいです」
桃城の科白に、カツオは本当に楽しいのだろう、笑顔で応えている。その物怖じのなさ
が、桃城と彼等の距離の近さを示しているのかもしれない。
初等部での身体測定は中等部と違い、学年単位でクラスごとに男女別に、順番に回っ
ていった。けれど中等部の身体測定はまったく違う。そのことに最初面食らったのは、き
っと一年生全員だろう。こともあろうに男女別でさえない。けれど不思議と、其処に抵抗
する女子はいなかった。尤も、教室は同じでも、体重はそれでも教師側が気を使い、右と
左で列が別れていた。やはり思春期の女の子は、他人に体重を知られたくないものだろ
う。
「そうだろう?」
桃城は後輩の科白に、自分も去年は喫驚したと愉しげに笑う。少なくとも初等部当時、
身体測定が楽しいなど、思ったことはなかったのだから。
それぞれ自分のカルテを持ち歩き、好きな場所から好きに回れという身体測定など、
他校なら確かにお目に掛かれる代物ではないだろう。
生徒の自主性を重んじる校風からなのか、決められた時間内に、決められた測定を終
了することを目的とされている部分も、確かにあるのだろう。だから朝のホームルーム時、担任にカルテを渡されてから、二時間目終了までの間。生徒は夫々好きな場所から、
測定に回ることになっていた。其処に先輩後輩の区分は何一つない。
「そいや、越前はどうした?」
リョーマの姿が堀尾達の周囲にないことに、桃城が半瞬怪訝な顔をする。いつも何かと
リョーマと一緒にいる堀尾達が、今日という日に別行動だとは、桃城には思えなかったか
らだ。
個人主義で能率主義のリョーマのことだから、一人でサッサと進んでしまっている可能
性もゼロではなかったが、けれど堀尾達がリョーマと一緒に居ないとは、桃城には思えな
かった。彼等はリョーマに対し、そのテニスの実力に素直な羨望と声援を送っても、それ
が劣等と引き換えにしていないことを、知っていたからだ。だからリョーマは彼等を近付
ける。其処に少しでもレッテルやラベルというものを感じ取ったら、リョーマは彼等を側に
置きはしないだろう。
「あそこです。リョーマ君、先に行っちゃって」
桃城の級友の荒井や池田に言わせれば、カチローの素直さは好感が持てるらしい。
確かに素直な性格で、顔立ちも幼い可愛さを残している。後輩からは短気な性格を怖が
られている感の拭えない荒井に対しても、カチローは素直だ。そこが荒井には好感が持
てる部分なのなのかもしれないなと、思う桃城だった。
「相変わらずだな」
示された指先の先に視線を向ければ、周囲に埋もれてしまっている列の中に、桃城は
リョーマの姿を見付けることができた。
今時の中学生は、頭の中身は別にして、体格や身長は大人並みだ。その中にあって、
リョーマは体付きも華奢で、周囲の生徒に細身の躯は綺麗に埋もれていた。
「つまらなそうな、顔してるな」
精悍な貌が、苦笑する。
コートに立てば、冷ややかな切っ先のような気配を滲ませると言うのに、ああして人混み
に紛れていると、人形のように綺麗な貌は、ブレーカーの落ちた無機質さが顕れる。それ
をして女子には、人形のように綺麗さんと言うことになるらしい。
けれどリョーマの内側は、魂の宿らない空っぽの器ではないことを、桃城は知っている。
「桃ちゃん先輩は、一人なんスか?」
「ん?ああ、適当に回ってたら、なんかはぐれちまった」
堀尾の科白に、シレッと答えた桃城の科白は、完璧に嘘だった。偶然を装った僥倖を
手にいれたかったから、桃城はさりげなく級友達と距離を置いた。別段朝練でも放課後
でも、あまつさえ昼食も一緒に屋上で摂っているのだから、それ以外の時間帯までリョー
マに会えなくても、どうってことはないだろう。けれど決められたいつも会っている時間以
外で会えるのは、案外愉しいものだと、桃城は気付いてしまった。だから会えなければ
別段落胆しない程度の期待で、桃城はリョーマの姿を探していた。
「桃ちゃん先輩は、此処で終わりですか?」
「俺達、此処が二番目なんスよ」
体重計の順番待ちをしている堀尾が、カルテを開いて見せた。其処には一年生の真新
しさを証明するように、綺麗に空欄が並んでいる。カルテは三年間同じものを継続してい
くから、一年生はこれが最初の測定になる。堀尾の開いたカルテには、身長が書かれて
いた。その身長は、リョーマとさして違いのないものだろうなと、桃城には思えた。
「俺はあと視力だな」
ホレッと、桃城がカルテを開いて見せてやれば、其処にはズラリと過去の測定データー
が記載されている。カルテは測定後回収され、学年単位の分析がなされ、身長、体重、
視力と、平均値が計算される仕組みになっている。それはそのまま厚労省の国民衛生
動向の平均値と比較され、データーとして保存される。
「桃ちゃん先輩、眼、いいんですね?」
「ああ、眼はいいぞ。両眼1.5」
近頃はゲームとPCに精神を浸食され、その見返りのように、視力の落ちている子供は
多い。それも外見からは判りにくい、コンタクトを使用し視力をカバーしてしまっているから、当人が思っているより、視力低下が進んでいるケースも少なくはない。けれど桃城はゲ
ームにのめり込むことはなく、むしろテニステニスの生活だから、案外視力は保たれてい
るのかもしれない。
「越前は、もっといいけどな」
部内でも菊丸と動体視力を競うリョーマだ。以前訊いたら両眼2.0という応えが返って
きた。
そんな時だった。
「リョーマ、お前さん、見掛けより体重あるのかい?」
訝しげな声を漏らす教師の声は、桃城達には嫌という程、聞き覚えのある声だった。
ましてリョーマを『リョーマ』と、その名前で気軽に呼べる教師は、青学広しといえど、テニ
ス部顧問の竜崎スミレ以外存在しないだろう。さして大きくはないその声を、けれど桃城
が適格に聞き分けたのは、何も聴覚の良さだけではなかった。其処に『リョーマ』の名前
がなかったら、竜崎の声は、耳は素通りしていた筈だ。
「バァさん?」
桃城は其処で始めて、リョーマの並んでいた列の体重測定担当の教師が、顧問の竜
崎だと気付いた。
リョーマは、竜崎の前に置かれた体重計に乗っている。昔なら秤の体重計が主流だっ
たが、今測定に用いられているのはデジタル表示のもので、乗れば体重が瞬時に表示
される、機械的なものになっている。
「どうしたんスか?」
「アッ、桃先輩」
列の後ろで、堀尾達が桃城と喋っているのに気付かなかったのだろう。リョーマはキョ
トンとした表情で、突然目の前に現れた桃城を、不思議そうに眺めている。
細すぎる首を傾げ、瞬く眼差しが長い睫毛を揺らす様は、桃城しか知らないリョーマの
無防備な表情だった。
「どした?」
無防備な表情を見せるリョーマに、桃城は緩やかな笑みを漏らすと、リョーマの足許の
デジタル表示に視線を移し、
「オイ〜〜〜?」
其処でやはり竜崎同様、訝しげな視線をリョーマに向けた。
「バァさん、これ壊れてるんじゃないスか?」
リョーマから再び足許の体重計に視線を落とし、次には竜崎に視線を向ける。
どう見ても、表示は誤りを示している。それが判るから、竜崎も怪訝な表情をしているの
だろう。リョーマ自身も困惑した表情で、視線が足許に落ちている。
「お前さんがそう言うなら、そうなんだろうねぇ」
「………其処でなんで納得するんスか?」
竜崎の科白に、リョーマは渋面を刻み付けた。桃城の根拠のない科白を信用する竜崎
に、桃城との関係を、見透かされているのだろうかと思う。
「そりゃリョーマ、訊くだけ野暮だろうが」
「………クソババァ」
完全に桃城との関係がバレている。今の今まで竜崎に気付かれているとは思えなかっ
たから、リョーマは苦々しげに小声で呟いた。
流石父親である南次郎が、『今でもクソババア』だと悪態を吐き出す教師だと思う。
『年を食ったから、正真正銘のクソババアだ』と悪態を吐き出す父親の科白はいつもの
ことだった。それでもそう悪態を吐き出す軽口とは裏腹に、いつも南次郎の双眸に滲むも
のは、懐かしさだと、気付かないリョーマではなかった。尤も、南次郎の口から、竜崎を『恩師』だと告げられたのは一度だけだ。
それは帰国を決めたアメリカでのことだ。『恩師のいる母校に、お前を放り込む』そう突然
切り出された時だった。
「何か言ったかい?リョーマ」
大概竜崎もいい性格をしているのだろう。教え子二人が同性同士で番っている関係だ
と見透かしながら、意味深な笑みを浮かべている。それが教師のする笑みかと、内心リョ
ーマと桃城の二人は呆れていた。その呆れさえ、きっと竜崎は知っているに違いないの
だから、南次郎が言うとおり、『クソババア』だ。所詮年の甲には逆らえないように、世の
中はできている。
「お前が50なんて体重のわけあるか」
デジタル表示で示されているのは、かっきり50という文字だった。小柄で華奢なリョー
マがそんな体重である筈もない。
「ちょ……!桃先輩!」
突然の浮遊感に、リョーマは半瞬では何が起きたのか理解できなかった。けれど周囲
の喧騒に、リョーマは自分の状況を理解した。した途端、らしくなく貌が紅潮するのが判っ
た。周囲を包む女子の喧騒に、男子の呆れた声に、桃城は何でもないことのように、涼し
い表情をしている。
「離してよ」
「暴れるなって」
両脇に腕を差し込み、ヒョィッと、体重を感じさせない動作で、桃城はリョーマを抱き上げ
ている。
二人きりの時でも、滅多にこんな態勢をすることない。それを衆人環視の中でされたの
だから、リョーマの羞恥は計り知れない。少なくとも、同性同士でする態勢ではない筈だ。まして先輩後輩でする恰好でもない。けれど桃城は腹が立つ程、飄々としている。
いっそ蹴り飛ばしてやろうかと、凶悪な考えが脳裏を掠めたものの、顧問の前でそんな
ことをしても、後に持つのは部長である手塚の小言だ。
「お姫様抱っこよか、マシだろうが」
暴れるリョーマをよそに、桃城は半瞬思案気な表情を作り、次にリョーマを床に下ろし、
「お前、付けてるだろう」
「何?」
心底呆れた様子で溜め息を吐き出す桃城に、リョーマは意味が判らず、キョトンと瞬き
を繰り返す。
「乾先輩の特性パワーアンクル」
「アッ………!」
「……リョーマ…」
桃城の指摘に、リョーマは始めて思い出したとばかりに、両足の白いソックスの下に隠
されている存在に気付いた。
一年生は本来、九月までは基礎練習が中心になる。それは初等部から中等部では、
部活に費やされるエネルギーがまったく異なるからで、大抵の一年はハードな中等部の
練習に最初から付いてこられる者はいない。けれどリョーマは違った。
元々南次郎相手に、テニスに必要な基礎体力を作っていたリョーマだ。長時間の試合
を戦うに必要なのは基礎体力だ。見掛けの派手な技術だけではなく、リョーマは南次郎
からしっかり基礎を叩き込まれてきた。だから手塚も入部早々、ランキング戦にリョーマを
参加させた。その結果により、今までレギュラだった乾はレギュラーから落ち、今はコーチ
として部員の体力強化に勤めている。その乾により、レギュラー面子は、体力強化の一
環で、練習中は、乾特性パワーアンクルを付けることが義務づけられていた。
「リョーマ、何もそこまですることないよ。無理しても足首痛めるだけで、逆効果だからね」
「……朝練で嵌めてて、忘れてただけっス」
竜崎の呆れた溜め息に、リョーマは憮然と反駁する。
「お前の体重なんて、40あるかないかだろうが」
「流石お前さんは、詳しいねぇ」
「…キツネとタヌキ…」
シレッと告げる桃城の科白に、これもまたシレッと返す竜崎は、リョーマにしてみれば化
かしあいの会話にしか聞こえなかった。
「ホラリョーマ、外してもう一度乗ってごらん」
「……桃先輩の言葉信用するなら、そう記載していいっスよ」
「本当、懐いたもんだねぇ」
完全に判って口にしている竜崎の科白に、リョーマは益々憮然となる。
きっとこんな姿が、桃城には可愛くて仕方ないんだろうと竜崎が思えば、リョーマの隣で、桃城は緩やかな笑みを覗かせている。それは今まで竜崎が見たことのない、大人びた
桃城の笑みだった。その笑みに、竜崎は桃城の成長の跡を見て取った気がした。
「ハイ」
「持ってろってか?」
足首から外されたアンクルを、躊躇いなく差し出すリョーマに、桃城は半瞬呆れた貌を
刻み付け、リョーマの掌中に乗るアンクルを眺めた。
「意識したら重くなったから」
「ってことは、俺に持ち歩いてろって?」
「放課後でいいっスよ」
「………それがもの頼む態度か?」
「頼んでないし」
「ったく」
綺麗な笑顔で小生意気な軽口を叩くリョーマに、所詮桃城が勝てる筈もない。どう言い
繕っても、桃城はリョーマに甘い。それはリョーマが入部して二か月近く経つ現在、既に
部員間で浸透してしまった、共通認識だった。
「本当、お前小生意気だよ」
リョーマがこんな我が儘を言うのも、無理難題を言うのも、桃城に限定されている。それ
が判っているから、桃城は益々リョーマに甘くなっていく。リョーマの我が儘は、甘えと同
義語に近い意味を持っていると、当人にだけ自覚がないから始末に悪い。
桃城はクツクツ愉しげに笑うと、リョーマからアンクルを預かり、
「ホレ」
「今度やったら、殴るよ」
桃城は軽い動作でヒョイッと、リョーマを体重計に乗せた。無自覚に甘くなる雰囲気に、
リョーマに当然自覚などない。正面では、竜崎がヤレヤレと呆れた笑みを覗かせている。
「ホラ、リョーマ。動くんじゃないよ」
軽口を叩き合う二人に仕方ないねぇと竜崎が呆れれば、リョーマは憮然となった。
帰りにパフェ奢らせてやる。リョーマは内心拳を握り締める威勢で、そう誓う。
「ビンゴ」
ピッと短い機械音と共に表示された数値に、桃城が口笛を吹けば、
「…腹立つ……」
苦い表情でリョーマが口を開いた。
デジタル表示は、40という数字を弾き出していた。
その表示に、何処か呆れた表情で、ヤレヤレと溜め息を吐き出し、これでは到底、孫娘
の初恋は実らないだろうと、竜崎は教え子二人を眺めていた。
□
「……あんた何恥ずかしいことするわけ?」
衆人環視の中で抱き抱えられ、喜ぶ男子はいないだろう。
リョーマは体重測定の順番待ちをしている堀尾達に付き合い、列から離れた場所で、桃
城に悪態を吐いていた。
教室内で男女別に別れているだけで、其処には女子の姿もあったから、先刻の一幕で
周囲の視線を集めてしまった二人に、女子の好奇な視線注がれていた。尤も、そんな視
線を気にするリョーマではなかったから、悪びれた様子も見せず、桃城に悪態を吐き出し
ている。とはいえ、教室の隅で話している二人の声まで、周囲に聞こえることはない。
今の二人の醸し出す雰囲気に、入り込める女子もいなかった。
リョーマが入学して一ヶ月半。テニス部のルーキーが、桃城と仲が良いという噂は、か
なりの頻度で生徒間で知れ渡り始めていたから、二人が教室の隅でヒソヒソ話しをして
いたとしても、誰もが好奇心を煽られても、訝しげにする者はいない。
「半分は、気付かないお前の所為だろうが」
正面で睥睨を向けてくるリョーマに、けれど桃城は飄々とした笑みを崩さない。それが
似合ってしまうから、リョーマは益々癪に触って、桃城の足を踏み付けた。
「痛ッッ!コラ越前!」
「どうせ俺の体重は軽いんだから、そんな痛がらなくってもいいでしょ?」
それにと、リョーマは桃城にだけ見せる意味深な笑みを刻み付けると、瀟洒な造作を桃
城に寄せ、
「俺はあんたの重さ、受け止めてるんだから」
耳元で、タチの悪いクスクスとした笑みを漏らしながら、それ以上にタチの悪い科白を
吐き出した。
二人の関係は既に世間からは恋人と言われる関係になっている。元々周囲に無関心
だったリョーマは、当然そんな関係を持つのは桃城が初めてだったから、それが世間一
般にそうと位置付けられるものと理解できても、その関係に至った時間が早いのか遅い
のか、普通なのかは判らないでいる。
「越前〜〜〜〜」
耳を擽る甘い笑い声とタチの悪い科白に、桃城はガックリ肩を落とす。脱力し、次に何
事かを思い付いたように、リョーマの耳元に顔を寄せ、
「お前の体重は確かに軽いけどな、俺にとってお前の存在は重いから、それでお相子だ」
低い声で囁けば、リョーマは心底呆れた表情を見せた。
「………あんた何そんな恥ずかしい科白、口にしてるの」
生徒が群れている場所で言う科白かと、リョーマは更に呆れを刻み付けていく。
「第一、タラシで詐欺師のあんたが言うと、そういうのって、嘘くさく聞こえる」
部長である手塚に、『曲者』と言われている桃城だ。他人に余裕を作らせるのは、桃城
の才に違いない。雑踏の賑わいのような笑みを放つ桃城の周囲は、常に級友達が群が
っている。けれどそれは実際には、盾としての意味しか持たない、境界線だ。そんな桃城
の笑みの裏側を知っているリョーマにしてみれば、桃城のそんな科白は、何処までも嘘
が付き纏う気がしてならない。尤も、そんな不可視の笑みを、桃城はリョーマに向けたこ
とはなかったから、その科白に込められる意味が嘘ではないこと程度、リョーマにも判る
ものだったのだけれど。
だからと言って、言われて嬉しい科白かと言えば、何事にもTPOは必要だ。ムードも何
もあったもんじゃない身体測定の教室で、言われて嬉しい科白ではないのは確かだ。
否、情事の最中に言われでもしたら、あまりの嘘くささに、笑うしかなかっただろうけれど。
「信じる者は、救われるって言うぞ?」
リョーマの言い様に苦笑すると、桃城は長い前髪をツッと引っ張り、白皙の貌を覗き込
む。其処には呆れと憮然とを混融させた、一対の空色が瞬いていた。
「俺生憎、クリスチャンじゃないから、そんなめでたい思考回路は、持ち合わせてません」
弄ぶように前髪を緩やかに引っ張っている桃城の手を軽く振り払えば、それ以上未練
も見せず、桃城の手は離れていく。僅かに触れていた体温が離れ、フトリョーマは桃城を
見上げた。
今までなら、誰かにこんな仕草を許したことはない。触れてくる温度が、気持ちいいと思
ったこともない。他人に触れられる心地好さ教えられたのは、桃城という存在にだった。
リョーマはジィッと桃城を見上げると、次には意味深な忍び笑いを口端に刻み付け、
「だったら、その重い存在、今夜確かめてみる?」
更に桃城を脱力させる科白を吐き出した。
「だって、あんたは、何も知らないでしょ?他人を身の裡に迎えいれる重さ、なんてサ」
「越前?」
「身重って、よく言ったと思うよ」
他人の生命を身の裡で養うその重さ。桃城を迎え入れる一瞬。そして快楽を貪り終焉
を迎える瞬間。その重さを否応なく感じさせられる。
今では慣れてしまった重さに体温。迎え入れる桃城という男のカタチと灼かれていく熱
さ。溺れていく恫喝と心地好さ。
セックスなんて大したことないと軽口を叩き、キスしか仕掛けてこない桃城を挑発し、初
めて桃城という男の熱さを胎内深くに迎え入れた時。押し込められる激痛より何よりも、
感じたものは、そんな莫迦げたことだった。
痛感の先に与えられた快楽。抱かれれば抱かれる程、慣らされていく躯。桃城とセック
スを始めて未だ半月しか経たないというのに、確実に肉体は作り替えられていく気がし
てならない。そのくせ、何処かが浸食される心地好さに、肉体も精神も、浅ましく悦んで
いる気さえするから始末に悪い。溺れるということは、こんな感覚や感触なんだろうかと、
フト思う。
桃城とのセックスは危険だ。他人に触れられる嫌悪より何より、女のように桃城の熱情
を迎え入れ、肉体は浅ましい歓喜に満ちてしまう。胎内で質量を高め、内側から押し開か
れていく生々しい圧迫感に、気持ちまで満たされてしまう。この心地好さに溺れてしまっ
たら、自分は弱くなってしまう。テニスだけを、求めていけなくなってしまう危険がした。
それでも、桃城とのセックスはとめられない。いつか突然この関係が切れてしまったとし
ても、後悔できないと思う所まで、もう来てしまっている気さえする。
「あんたの、残骸」
死海に吐き出される、桃城という男の生命の残骸。宿していくそれの重さなど、桃城は
生涯知らずに生きていく。それが少しばかり悔しいと思う反面。自分を抱く牡の立場の桃
城には、到底理解できないものもあるのだと思えば、悔しさと対極の等価値で、精神の
何処かが喜んでいる。
「だから、俺の重さくらいで、痛がらないでよ」
たかがこの小さい器に詰まっている、40キロの重さになど。
「越前……」
見詰めてくる眼差しから、推し量れるものは一切ない。リョーマはなんでもないことのよ
うに話しているが、桃城が受けた衝動は計り知れない。きっとリョーマは、その衝動の大
きさを、理解できないだろう。
「お前……」
辛いだろうか?フトそう思えた。
セックスなんて大したことないと嘯きながら、挑発をしかけてきた幼い子供。受け入れる
機能のない場所に、穿たれるのだから、辛くない筈がないだろう。けれど、今リョーマが
言っていることは、そういう痛みではなかった。その程度のことは、桃城にも判っている
つもりだ。外側から見て判る痛みなど疵にはならない。その程度のことは、桃城にも判っ
ているつもりだった。怖いのは、リョーマの内側で、桃城に見えない部分に及ぶ傷であり、痛みで、苦痛だ。
「辛かったら、誘ったりしないよ?」
半瞬だけ笑みの崩れた桃城に、リョーマは笑う。
事実を事実として告げただけの科白だと、その笑みは語っていた。そこに気遣いを求め
るものは一切ない。何よりリョーマは、桃城の情事の最中での気遣いを、何より嫌う。
「気持ちいいこと、教えてもらったと、思うだけ?」
「お前……案外莫迦だろう?」
本当に、ただ気持ちいい、心地好い行為だっただろうか?
抱き合う行為は?この目の前の綺麗な生き物にとって。牡でありながら、雌のように穿
たれる行為に半瞬でも、屈辱や汚辱を感じたりしなかったのだろうか?桃城には判らな
い。
「ムカツク…何ソレ」
「お前が、どうしようもない程、莫迦だからだよ」
身重なんて言葉を吐かせてしまう自分を、あっさり許している。優しい莫迦じゃなければ
できない芸当だと、桃城は目の前の華奢な躯を抱き締めたくて、けれど衆人環視の中。
そんな行為をしたら最後、当分口は聞いて貰えないだろう。それが判るから、桃城は抱
き締めたい衝動を怺え、苦笑を刻み付けた。
こうして少しずつ少しずつ、その境界線が不明瞭になっていく。ふざけで始まった関係
ではなかったが、それでも。リョーマは取り合えず付き合ってもいいと言ったのだから。
『取りあえず付き合ってあげる』
その科白は一体何処まで有効なのだろうか?
それはもうリョーマにも判らないものになっているというのに。
引いた筈の明瞭さは、既に欠け始めている。その欠片が、いずれれリョーマを苦しめな
いことを、桃城は願った。
「ねぇ?桃先輩」
「今夜なんて、待てなくなりそうだな」
「嘘つきは、詐欺師の重要な要素って、本当だね」
桃城の科白が嘘なことくらい、判らないリョーマではなかった。桃城は見た目の軽さと
は裏腹の、不可視の部分を持つ男だ。こんな科白を告げられて、衝動のまま校内の何処
かで番ってしまうような、ガキの要素は排除されていることを、リョーマは知っていた。
「嘘つきだから、詐欺師って言うんだよ」
「なぁんだ。自覚あり?」
普通肯定するか?と、リョーマは呆れた貌を桃城に向け、けれど悪戯気な笑みを覗か
せている。
「俺の一体何処が詐欺師だって?」
「だ・か・ら、嘘つきな所。俺が挑発しなかったら、手も出せなかった臆病もんのくせにさ」
「壊したくなかったからだよ」
力の限り抱き締めれば、華奢な躯は折れてしまいそうな、発達途上の未成熟さが付き
纏うから、桃城は怖かった。内も外も、傷付けてしまいそうで、怖かったから、簡単に手
など出せなかった。それは大切だからだ。大切だから、安易にそんな関係に縺れ込みた
くはなかったというのが、桃城の言い分だった。けれど実際手間となっては、そんな言い
訳など、免罪符にもならないのだろう。
「待てないんなら、今でもいいんだけど?」
それも嘘だ。桃城にしか見せていない姿を、誰に見咎められるかも判らない校内で、リ
ョーマが曝したい筈がない。そんなことは、桃城にも判ることだった。
取りあえず付き合っている関係でも、互いにそこまで浅ましくはなれない。それは羞恥
が湧くという基本的な部分より、互いのそんな姿を、他人に曝す可能性を作り出したくは
なかったという意味の方が、遥かに二人の間では比率を占めている。
それは互いに持つ、有り触れた独占欲だ。
「今夜な」
桃城は苦笑すると、ネコっ毛の柔髪をクシャリと梳き上げ、体重測定待ちの列に、戻っ
ていった。
「詐欺師……」
不鮮明になっていく境界線。胎内で満ちていく男の存在。
軽い筈がないだろうと、リョーマは桃城の背を見送った。
列に戻る傍らで、桃城にはもう女子の声がかかり、牡に群がる雌のように、桃城の周
囲には数人の女子が群がっている。
見た目の軽い印象の桃城は、女子にもてるし友人も多い。
数人の女子に囲まれ、笑っている詐欺師の笑顔に、リョーマは苦々しげに舌打ちする。
「あんたにはきっと、永久に理解できないよ。桃先輩」
理解できる筈もない。身の裡に他人を受け入れるその確かさなど。その恐ろしさなど。
桃城には永久に理解できない。
「俺にそれを教えたのが、あんただから」
だから桃城には、一生理解できない感傷だろうと、リョーマはその時、何とも言えない
貌で桃城の背を眺め、半眼瞳を閉ざした。
「ココには、何もないのにね?」
抉れる程に薄い下腹に、無自覚に細い腕が伸びる。
生命を生み出す海一つない常闇の死海。その内側に吐き出されて行く生命の残骸の重
さなど、桃城には一生理解できる筈もない。たとえそれが、たかが5Kcal程度のものだと
しても。
「あんたの体重の何十分の一程度の重さが、俺には重いよ」
受け止める重さより遥かに重いその重さを、桃城は永久に理解できはしないだろう。
それが今は少しだけ心地好い。
「それでもあんたにも、いつか判る時が、くるのかもしれないね?」
他人の身の裡に、自分の生命が確かなカタチで養われていると判った時。その揺るぎ
ない事実を、手にいれる時。
「俺はもうこれ以上、判りたくもないけどね」
リョーマは半瞬泣き出しそうな瞳で桃城を眺めると、自分を呼ぶ堀尾達の元にゆっくり
歩いて行った。
貴方には、生涯理解できないだろう、感傷を抱いていくその重さを、貴方は憐れむだろ
うか?
還る場所のない生命。
そんな貴方の生命は、だから可哀相でとても愛しい。
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