旅の途中 side:IK

Youthful days









 
どれくらいの季節
 僕たちを通り抜けて

 どれくらいの心
 僕たちは交わしただろう?




 日本の首都であり、それがイコールで政治の中心に位置している霞ヶ関の一角。皇居の桜田門前に
は、地下4階、地上18階の、屋上には通信塔を持つ、白亜のAラインの建物が在る。それは日本で生
活している人間なら、一度はテレビで眼にしているだろう建築物だ。
 その内部構造は、正面左手に受付を持ち、奥に進めば、二階まで吹き抜けのホールになっている。
精々一般人が立ち入りできるのは、二階の展示室までだ。後はテロや犯罪者に備え、内部構造はす
べて部外秘になっており、警備は厳重を極めている。霞ヶ関の一角を占めるそこは、政治の中心の国
会議事堂を管轄に持つ、事実上、警察組織のトップ
である警視庁だ。
 地方分権型の地方警察に比べ、中央集権型の警視庁は、国家警察の色合いが強く、一つの機械と
して、効率的な運用が期待されている警察組織のトップに位置している。正しくはその行政指導は当然
警察庁になるものの、通常に生活している日本人にとって、警察のトップと言えば、大抵の人間は警視
庁と応えるだろうし、その中身を知らなくても、捜査一課という言葉が思い付くだろう。けれどその組織
内部は複雑怪奇に入り乱れ、利権が絡んでいる場所でもある。政治に近いと言うことは、そういう意味
でも政治が含まれるということと同義語でもあった。正しいことが正しいと通用しない場所。それが警察
組織であり、カタチのない社会正義を貫くのは難しい場所だ。六法全書の何処を捲っても、社会正義は
一体何かは、書かれてはいないのだから。
 管轄下に101の所轄を持つ警視庁は、中でも刑事部捜査一課が有名だろう。そこは長い間、刑事警
察の聖域として機能してきた部署である。それだけに、マスメディアに登場する回数は何処の部署より
抜きんでている。けれどその部署内にも様々な係があることを知っているのは、警察マニアか推理小説
マニアだろう。普通に社会生活を送っている人間は、一括りで捜査一課と思うからだ。
 だから普通、捜査一課が警視庁の6階に位置していることも、その一階上の7階には、科学捜査研究
所があることも知らないだろう。
 科捜研は常に刑事部の近くに位置して、証拠品の鑑定などを行っている部署だ。
 被害者が、いつ、どこで、だれに、どうして殺害されたのか。それは捜査過程に於いて軸になる5WH
だ。被疑者が検挙され、検察に送致され、起訴が確定し公判が開始されれば、その証拠能力は重要
になってくる。検挙した被疑者の自白調書だけでは、当然公判は維持できない。自白の任意性が刑事
訴訟法の大原則とはいえ、それだけで公判が維持できる程、裁判は甘くない。その為の刑事訴訟法だ。公判の為に必要な書類は山とある。刑事の仕事が書類書きの毎日というのは、あながち嘘のない
台詞だ。刑事に必要な資質は、書類を簡潔明瞭に纏められるかも問われてくるのだから尚更だ。
 刑事捜査の原則が任意がなら、裁判の原則は推定無罪だ。そして公判が維持できなければ、誤認
逮捕、ひいては冤罪の可能性が浮き彫りされ、捜査員の矜持にも関わってくる。
 科捜研は、そうしたキーワードを、客観性と合理性で科学的作業で解決する為の部署だ。そしてその
内訳は、やはり細かく分類されているものの、千葉に在る科学警察研究所に比較すれば、その内訳は
大雑把にならざるおえない。
 科警研が18研究部門からなる多部署なら、科捜研は精々が『法医2係』『物理2係』『文書鑑定2係』
『第一化学2係』『第二化学2係』程度になってしまうのは否めない。科警研は警察庁の付属機関で、
全国の科捜研を指導する立場でもあるからだ。
「あんたまた性懲りもなく……」
 室内に一歩踏み込んだ海堂は、あまりに予想通りの惨状に、眉間に深い皺を寄せた。たまには予想
を裏切ってみろ。内心自棄くそに海堂が罵ったとしても、罪はないだろう。
 科捜研と言われるくらいだから、室内は無機質で、多用な最新機器が導入されている。そのくせある
一角のデスク周囲は、関係書類や資料関連の本が開きっ放しになったまま放置されているから、海堂
はもう小言を言う気力もなかった。
 所詮相手にとって小言を言い募ってみた所で、一向に効力がないのは判りきっている。粘り強さが売
りの海堂も、流石に長年付き合いのある乾のこの性癖とも言える散らかし癖には、諦めの境地に入って
いる。所詮言った所で無駄なのだ。こう思える程度には、海堂も成長したと言うことだろう。
 それでも、これだけは言っておかないと気がすまないと、海堂は呑気に珈琲の香を楽しんでいる乾に
詰め寄った。周囲には、既に乾に毒されてしまった同僚の姿まであるから、海堂には頭のいたい事実
だった。
 精密機械を扱い、科学捜査の軸なのだから、もう少し気を使ってもいいだろうに、そう思うものの、研
究分野の人間と言うのは、案外個人主義者と変わり者が同義語になっている人間が多いから、海堂は
乾の同僚にも近頃はめっきり諦めの境地に達している。所詮仕事でも部署が違うのが幸いして、滅多
なことで海堂が被害を被ることはない。人間自分に無関係で無害と判れば、幾らでも寛容になれる生き
物だ。
「乾先輩、あんたのやり方に、今更口挟む気もしないスけど、ビーカーで珈琲沸かすそれは、直して下さ
い!」
 幾ら真新しいものでも、普段仕事で使うビーカーの類いで珈琲を淹れる乾の神経は、長年の付き合い
でも、海堂には得体が知れないこと夥しい。万が一にも薬品や何かが混じっていたら、一体どうするん
だと思う海堂の危惧は、当然のものだろう。けれど乾は何処までいっても乾で、相変わらず飄々として
いる。
「やぁ海堂、待ってたよ」
 けれど乾はまったく平然と海堂の小言を聴き流すと、ビーカーに残っている珈琲を、プラカップに白い
紙コップを入れ、注ぎ始めた。
「だからあんた、俺の言ったこと、ちゃんと聴け!」
 ハイ、美味しいよと差し出されれば、根がお人好しの海堂だ。文句を言いつつも、半ば条件反射で受
け取ってしまう。このお人好しの部分が、乾の好む所なのだと、けれど不幸なことに、海堂は未だに知
らない。周囲からは、それこそ中学時代から付き合いのある人間から、乾の同僚までを含め、乾の面倒
をみられるのは海堂だけと囁かれているのを、けれど海堂は知らない。
「美味しいんだけどね。ポットからお湯注ぐより」
「珈琲メーカー使えば済む」
 大抵の部署には、必需品とばかりに、珈琲メーカーも設置されているのだ。
「味が違うよ」
 手間かけた分だけ、美味しいんだよと、相変わらず眼鏡の奥の表情は読めない乾は、けれど長年の
付き合いで海堂にはそれが判る。本気で乾はそう思っているのだ。
 流石にマンションでこれをやると、問答無用で海堂の雷が落ちるからやらないものの、職場だと何より
ビーカーや試験官が当然のように手近にあるから、ついついそんな愚行を繰り返してしまう乾はだった。
「あんた来週明けから異動だっていうのに、この有様はどう言い訳するつもりなんだ」
 乾のデスク周辺に乱雑に散らかっている書類や書籍群に、海堂は深々呆れた溜め息を吐き出した。
 科捜研の物理研究室に在職している乾の部署は、電気、機械等の事故鑑定、声紋や痕跡の鑑定、
銃器の鑑定などを行う部署だったから、扱う機器類も相当数の大型になる。その周辺の至る所に、書
類の束や、書籍が散乱している。そして最も被害が拡大しているのは、当然乾のデスク回りだった。
「これは散らかしてるんじゃなくて、能率的に散らかってるんだよ」 
「言い訳にならない」
 流石の海堂も、中等部時代から付き合いのある乾のこの台詞には、耳に蛸ができている。だから普
段ならいつものことと放置しておくのが有効的だとも知っていた。此処で苛ついては、自分の神経がくた
びれてしまうからだ。けれど今はそうも言っていられなかったのは、来週明けから、乾は警視庁の科学
捜査研究所から、3ヶ月の研修期間とはいえ、千葉にある科学警察研究所へ、異動通達が出されてい
るからだった。
 同じ警察の研究機関とはいえ、科捜研と科警研とでは雲泥の差がある。科警研は、各自治体運営の
警察署にある科捜研ではなく、警察庁の付属機関であり、各警察署の科捜研の行政指導を行う機関
だからだ。その機関に研修というのは、乾は出世街道を歩いている、そういうことだろう。扱いも技官で
はなく、国家公務員二種の試験に合格している準キャリアだ。尤も、乾の父親が現職の最高裁判事で
あるのを考えれば、乾の職業の選択は、大きく周囲を裏切ったことになる。
 全国3千にいる裁判官の頂点に立つのは、たった15人の最高裁判事だ。たった15人の判事が、司
法の片翼を担っているのは、パワーゲームの警察組織と大差ないだろう。28万のノンキャリアの警察
官を統括し、組織運営をしているのは、たった500人のキャリア達だ。財務省キャリアが夢中になるの
がマネーゲームなら、警察官僚がするのは、パワーゲームの椅子取りゲームだから、権力志向が強い、そういうことだ。
 乾の父親は、息子の将来の選択に一切の口を挟まなかった。乾が大学を青春大に進学した時点で、
国家機関の官僚形態に属するのは無理だという判断も、確かにあったのだろうが、研究が好きな乾に
は、魑魅魍魎が跋扈する霞ヶ関は、不向きだと思った部分も濃厚だろう。それは乾の父親が歩む判事
人生で、様々な政治取引に手を染めなくてはならない、毒を飲み下す選択を強いられたことも、影響し
ているからなのかもしれない。けれど結局乾は警察という組織に属しているから、政治とはまったく無縁
とは言いがたい生活を送っている。
「でも海堂さん、今回乾さん頑張ったんですよ」
 それは乾の研究室の同僚の賛辞の台詞だ。研究機関に属する人間は、どこか一風変わった人種が
多いと、海堂はつくづく溜め息を吐き出した。乾の飄々とした得体のなさに、懐いている職場関係は、海
堂には乾同様得体が知れない。
「知ってる」
 乾の同僚の台詞に、海堂は疲れた様子で溜め息を吐いた。
研究部門が違うとはいえ、同じ科捜研の技官である海堂は、今回の乾の功績を知っている。
 何より物理に属している乾は、けれど中学時代からの趣味が高じて、薬学もかなり特異分野だと心得
ている海堂が、第一化学研究室から、物理研究室の乾に話を持ち込んだものでもあるからだ。むしろ乾
が薬学方面に進まなかったことの方が、海堂には意外でさえあった程だ。むしろ製薬会社の新薬開発
セクションで、薬品相手にしている乾の方が、海堂には想像しやすい一面が未だ根強い。それでもちゃ
っかり功績を残し、科警研に出向という辞令が出ている乾だから、やはり得体が知れないと思う海堂だ
った。
「管理官がね、絶対あれは放火殺人だから、ガンガン鑑定してくれって言ってきてね」
 だから頑張っちゃったよと、相変わらず抑揚のない声が笑うのに、海堂は眉間を押さえた。
 科捜研に顔を出す管理官など、捜査一課ひろしといえど、たった一人だ。尤も、一課の管理官は8人
しかいないから、それは推理の必要もない単純なものだ。
「……青島管理官ですか…」
 所轄の刑事時代から、アーミーコートを愛用していたという管理官は、何より現場好きとしても有名だ。
 通常管理官は、捜査本部を幾つか受け持ち、捜査方針の立案をする人間だ。猟犬である捜査員の捜
査指揮をとるのは、通常係長クラスの人間だ。けれどその管理官は違う。必要があれば、何度でも現
場に足を運ぶ。だからこそ、今回の事案も気付いたのだ。現場に残されていたたった一つの極僅かな
痕跡を。それは僅かな可能性も否定しないということで、どうしても思い込みの相関図を描きやすい現
場捜査員にとって、それが強さの伴うものだと、今この場で知らない人間は存在しない。
「桃城一課長も、苦労されてるだろうねぇ」
「でも一課長、秋の定例人事で、麹町署の署長に異動ですよね」
 ノンキャリ警察官の最高ポストは一課長だ。警視で一課長の辞令を受け、同時に地方公務員を退職
し、警視正として国家公務員という身分になる。キャリアでない限り、国家公務員の階級になるのは警
視正からだから、ノンキャリアの警察官は、出世も其処で打ち止めということになる。
 その中で、一課長を無事終え勇退する者もいれば、出世コースの都内の警察署に最終的に異動し、
退官する者もいる。現在の捜査一課長もその一人で、その人物は、桃城の父親だ。
「次期一課長は、有田理事官ですね」
「今回の人事で、上の権力構想図も、随分書き換えされるだろうからね」
 のほほんといった調子で珈琲を啜る乾は、縁側で日向ぼっこする程呑気さしか感じられない。尤も、そ
れは乾の周囲に群がる同僚も同様だったから、海堂にはタチの悪いことこの上もない。
「上の権力構想図を心配する以前に、あんたは自分の荷物を纏める心配をしろ」 
 確かに警察という組織に帰属している以上、トップの入れ替わりは結構下の人間に掛かる負担もある
のだ。それも警察内部の出世コースは、警備・公安経験者というのが暗黙の了解だったから、刑事捜
査に理解を示さない官僚もいる。そうなると、予算面でかなりの違いが発生するから、権力構想図がま
ったく無縁とは言いがたかった。けれど今は天上人の人事より、来週明けに千葉に異動する乾の問題
の方が、海堂に比重があるのは、当然だろう。
「それは俺じゃなくて、海堂向きの仕事だから」
「乾先輩!」
「だって俺今回、海堂のお願いきいて、頑張ったよ」
 物理担当の乾が、第一化学の持ち込み仕事をしたのは、確かに完全な管轄外だ。それでも元々探求
心が旺盛な乾は、管理官である青島の読み通り、現状に残されていた僅かな痕跡から、放火が疑わ
れ、死者まで出た放火殺人のトリックを打ち破った。
「海堂のお願いきいてたから、支度する時間がなかったんだよ」
「あんた……」
 大した言い草の乾の台詞に、もう海堂は反駁を諦めていた。何よりこり周囲の惨状を、乾に片付けさ
せたら、被害が拡大するだけなのは、長い同居生活で、海堂は身に染みて判っていたからだ。
「それより海堂、俺を呼びに来たんじゃなかったのかい?」
 うっかり話し込んで時刻を確認すれば、急いで出かけなければ、約束に間に合わない時間帯になって
いる。
「あんたの所為で」
「そういえば、今夜何か約束あるって、随分前から言ってましたよね」
「デートですか?」
 無邪気に尋ねてくる女性研究員に、乾はチッチッチと、右手人差し指を立て、
「デートは年中できるからね。特別な日だよ。約束の履行日」「莫迦言ってるなら、あんたは此処にいろ」
 何がデートだと、海堂は乾を見捨てると、さっさと研究室を後にする。その海堂の背に、情けない乾の
声が掛かるが、それは何処までも抑揚を欠いた声だった。



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