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| 手の中の万華鏡 |
夕陽は地平線に雄大な影を沈め、周囲はもう随分と夜の蒼い闇が訪れ始めていた。 かろうじて地平線の向こうに、残像が見える程度の夕陽しか見えず、周囲は急速に蒼い闇に覆われて行く。 ゆっくりと暮れて行く日没。頬を掠め通り過ぎて行く風には、夏独特の匂いが混じり始めている。その匂いが、心根の奥の何処かに眠るナニかに触れ、フト懐かしい感触を感傷的に呼び起こして行く。 夏は好きだった。自分が生まれた月だからという事も有るのだろうが、夏の燃え立つ太陽の光が活力をくれるようで、テニスも盛り上がる気がするのだ。まして大会が有るのは夏だから、俄然気分が高揚するのは当然で、あの心地好い緊張と高揚が好きだった。 暑いと汗を掻いて、水道で頭から水を被り、降る光に散る水滴。そんな心地好い夏の気配を、吹く風は運んでくる。 都大会はもう目前で、この目の前の小生意気な後輩が、部長の手塚と何かしらのやり取りがあった事を、レギュラー陣が知らない筈はない。けれど立ち入らない深慮も残されていたから、誰もが二人の領域に立ち入る事はしなかった。必要なら話す時もくるだろうし、話さないという事は、知る必要はない事なのだろうと誰もが判っていた。それでも、理性で納得する事と感情で理解する事は別もので、桃城は視線の先、奢ってやったお気に入りのファンタグレープを、旨そうに飲んでいるリョーマを眺めている。 「スケベ」 缶から口を話したリョーマは、自分を凝視する桃城を間視し、意味深に笑った。 レギュラーとはいえ特別扱いをしない青学テニス部は、たとえリョーマがレギュラーだとしても練習後諸々の片付けは他の一年生同様だったから、リョーマを律義に待っていた桃城は、自然とリョーマ達一年と一緒に、コート整備をする羽目に陥っていた。 「まったくお前は、俺を先輩だなんて、思ってねぇだろ」 「思ってますよ、桃先輩。そう呼んでるじゃないっスか」 「だったら『スケベ』ってのはなんだ?」 「言葉まんま、ですよ。だって桃先輩、今どんな顔してるか、自分で判ってないでしょ?」 「どんな顔してるって?」 「鏡見てみれば?」 スケベ親父まんまな表情、リョーマは笑う。 「喉元見て欲情するの、やめて下さいよね」 此処取り敢えず校内だし、たとえ周囲の誰一人いなくても。 「……欲情……俺はサカリのついた牡犬かよ」 帰国子女だからなのか?物事をはっきり言うアメリカ生活が長かったからなのか、リョーマは言葉に絹を着せない。 中学一年の口から、サラリと『欲情』なんて言葉が出るのは考えものだと、桃城はガクリと肩を落とす。 中学一年年生が、日常会話に出していい言葉でもないだろうと思う桃城は、けれど常識人かと言えば、そうではないだろう。何も知らない幼いリョーマに、肉の快楽に溺れる事を教えたのは、他の誰でもない桃城なのだから、齎す台詞に、当然説得力はない。 「否定できたら、俺凄いと思うっスけど?」 そして再びファンタの缶を口を付ける。白い喉元が、軽く上下する。 「挑発するのは大体お前だろうが」 だったらお前は発情期の雌ネコだ、桃城は憮然と口を開く。 「その発情期のネコが、好みなくせに」 フフンとリョーマは笑うから、桃城が勝てる筈もない。 勝てないのは、否定できないからだ。 リョーマに付き合わないかと、諸々の経緯は存在したとしても、そう切り出したのは桃城からだから、当然だろう。 「第一俺が挑発しなかったら、手も出せない卑怯もんだったくせに」 「……お前…日本語は正しく使えよ」 手を出さないから卑怯だと、中学一年に言われたらおしまいだと、桃城は思う。 「狡い男のくせに」 「だからお前な…」 「悪党だし」 「天性のヒトタラシなのは、お前だろうが」 リョーマの言い様に、桃城は苦笑する。 卑怯で狡くて悪党。言い得て妙だと、妙に実感してみたりする。けれど対してリョーマは、天性のヒトタラシだ。 個人主義の能力主義で、お世辞にも社交性があるとは言いがたい小生意気な性格をしている。人間関係の形成が不得手な部分も、確かに存在するのだろうし、元々他人との関係形成が希薄だ。それでも、水が高い場所から低い場所に流れて行く自然の法則のように、その場に在るだけで、他人の眼を集めてしまう人間というものは、確かに存在するのだ。 リョーマはその部類に当て嵌まる。態度が一歩も二歩も引いている訳ではないが、淡々としている。きっとリョーマと同年齢の子供達よりは、外見は子供で時にはどうしようもなくムキになってつっ掛かってくる年相応の子供の部分は存在しても、他の子供達に比べれば、明らかに大人びている。 同年齢の子供達や、自分達より優れて技術を誇っている他しかなテニスの実力は、それだけでカリスマを集める事は容易い。それをして桃紙に言わせれば『天性のヒトタラシ』と言う事になる。本人に1%の自覚は皆無だとしても。カリスマと言うものは存在するし、淡々黙々と立っているだけで、他人の注目を自分に集める事のできる存在は在るのだ。 元より、リョーマはテニスの技術もさる事ながら、その容貌からも注目を集める。 端整な面差し。どれ程の日差しを浴びても、焼ける事のない白い肌は、同じ時間部活でテニスをしている桃城と比べれば、リョーマの肌は雪肌のようだと桃城は思う。 情事では簡単に色付く白い肌。綺麗な桜に染まる白絹の肌は、薄く汗ばみしっとり慣れた感触で指先に吸い付いてくる。 そして何よりリョーマを印象的に見せているのは、一揃えの蒼味がかった双眸の強さとその眼差しの深さだろう。リョーマの小生意気な性格を綺麗に反映しているその双眸を、桃城はいたく気に入っていた。 私服を着ていれば、ボーイッシュな女の子に間違われる事も珍しくないリョーマだったが、当然本人に自覚は皆無だ。 「時には、臆病だし」 残酷な程。 「お前なぁ……」 やっぱお前、俺の事先輩だって思ってないだろ、桃城は笑いながら、クシャクシャと頭を掻き回す。 「大切だからって言ったら、お前大笑いするだろ?」 「……寒いっス……そういう台詞は、何処かの頭悪そうな女、ひっかけた時に使って下さい」 大切だから、大事にしたい。大笑いだ。そんな台詞は、そういう台詞で勘違いしてしまう、頭の悪い女にでも使う台詞だろうと、リョーマは呆れた。 「本当、お前口悪いな…」 「だから、そういうのが、釣り合いとれてるでしょ?」 「第一、引っ掛けるってなんだよ」 「つまみ食い、得意じゃないんスか?」 リョーマの意味深な笑みに、過去の自分の性癖を振り返り、半ばバレている事実に、恐る恐るリョーマを覗き視る。 「お前ってさ、時折そう見透かすよな」 深い眼差し。切れ長に整った眼差しの深さ。空の蒼とも夜の藍とも言える不可思議な光彩を浮かべている双眸の光。 「別に、桃先輩の事だから、そう考えるのが妥当」 別に数式なんて必要とはしなう。単純に考えられる可能性の一つだ。けれど今自分とどういう経緯を辿ろうと、そういう関係になっている自分を気遣い、他に声を掛ける事のない狡い男なのだと、リョーマは内心苦笑している。 狡くて卑怯で、此処一番。肝心な時には臆病だ。 『大切にしたい』大笑いな言葉を吐けてしまう程、狡い男で悪党だ。タラシの要素なんて探す事なく、自然と目の前に提示されている。 「桃先輩」 リョーマは片手の指先にファンタの缶を器用に挟んで、スルリと桃城の首に両腕を回す。当然身長差の有る桃城の首に腕を回すから。爪先立ちになっている。 「スヘゲは嫌なんじゃないのか?」 半袖のテニスウェアから覗く、剥き出しの白く細い長い腕。それでも細い骨格に綺麗に筋肉が付いている事を知っている。 爪先だちになっている小さい背。中学一年の全国平均値から比較しても、リョーマの身長は低いし体格も華奢だ。それでも脆弱に映らないのは、やはり怜悧に瞬く双眸の強さ、なのだろう。 「別に俺嫌なんて、一言でも言いました?」 「さっきの台詞じゃ、そう聞こえるな」 「欲情しないんじゃ、ないのか?」 仕方ない奴、笑うと、細腰を片手で支えてやる。 「挑発するのは、俺なんでしょ?」 「どした?」 こうして挑発ではなく甘えてくるのは珍しい。どんなに挑発に見せかけても、今のリョーマの仕草に、挑発を孕む色はない。ないから、甘えなのだと、桃城は察した。 素直に甘える事のできない性格だから、こういうシグナルを見落とさない事も、付き合う上で、相手を知る上でのポイントだと、桃城は判っていた。だから細すぎる腰を支える腕に、情欲はない。 「気にならない?」 背伸びして、視線を合わせ、覗き込む。 漆黒の闇を閉じ込めたかのような眼差しが、苦笑している事がリョーマには見て取れた。 こんな所が大人で、たった一年の年齢差が適わないとリョーマが思う一面だった。 何も訊かない深慮。尋ねられれば鬱陶しいばかりなのに、訊かれないと、理不尽な八つ当たりもしたくなる。 「お前が話さない事、俺が訊く必要ないだろ?」 リョーマが言う『気にならない』の意味を、桃城が読み違える事はないから、リョーマの質問の意図を察し、肩を竦めるだけだった。 「……腹立つ……」 端然とし苦笑に、ますます腹がたった。 「大人って、言ってくれ」 フフンと、桃城は先刻のお返しとばかりに、顔を突き出し笑った。 気にならない訳ではなかった。けれど安易に尋ねる事もできないのは、立ち入るべきラインと、その向こうを見誤らないからだ。 話したければ話すだろうし、話せば聴いてやる事はできる。けれど尋ねたら、きっとリョーマは話さない。そう思えたから、桃城は何一つも尋ねる事はなかった。 手塚とリョーマに何があったのか?考えられる可能性は幾つか羅列できる。 桃城が手塚にクワセ者と呼ばれる所以も、そういった他人の機微を、案外飄々と見抜く眼を持っていたり、裏をかいたり、巧みなバランスができる事から由来している。 だから、手塚とリョーマの間に、何があったのか推測は可能だった。 二日間の病欠。『テニスが好き』だと、改めて言ったリョーマに、だから桃城はテニスが好きだと再認識するような事が、リョーマは手塚によってもたらされたのだろうと言う事は、簡単に想像がついた。けれど、それが何をしての起因かと言えば、推測の域はでない。推測はできてもそれが事実かと言えば、それはやはり推測なのだ。 互いの立つラインの向こうに、垣間見る事が可能な領域は、確かに存在はしているのだろう。けれど、立ち入ればリョーマはきっと口を閉ざすだろう。そういう性格だ。そういう性格が、きっと好みなのだ、自分は。 勝ち気で負けず嫌いで、自分のテニスを信じている。自分のテニスが偽りだと認識しているから、足掻く強さ。足掻く事のできる強さ。それは成長しようと伸びる力だからだ。 迷いも苦悩もない場所に、成長はない。成長がなければ、テニスに対しての未来はないだろう。 多分、リョーマが手塚によって、認識させられた一つだ。 『見えた……』 早朝の光。広げた掌中から切り取った蒼い空。指の間から漏れてくる光。 未来が垣間見えた一瞬だった。 アノ早朝に見た空の蒼さと零れ落ちた光を、リョーマは今も鮮明に覚えている。 「なぁ越前、お前さ」 「?」 「今度は俺とデートしろよ」 「…今度は?今度はって何?」 桃城の微妙なニュアンスに、リョーマは半瞬嫌そうに攅眉する。 「部長と浮気してたんなら、今度は俺とデートしようぜ。いい場所連れてってやるから」 「……浮気…誰がっスか?」 「お前」 「……殴っていいっスか?」 誰が浮気で、誰が何だと言うんだと、リョーマは桃城を睥睨する。 「俺達取り敢えず付き合ってるんだし」 桃城の台詞に、リョーマは呆れて盛大に溜め息を吐き、 「何処にっスか?」 「万華鏡、みせてやるよ」 「?何?まんげきょう?」 初めて聴く言葉だった。 「アレ?お前知らない?」 そっか…知らねぇか、桃城は呟いた。 「確か英語だとな〜〜」 半瞬考えて、 「Kaleidoscope」 流暢な発音で、話した。 「?百色メガネ?」 ますます判らないと、小首を傾げ、キョトンと桃城を眺めるリョーマは、桃城は苦笑する程警戒心もなく無防備だ。 「オモチャなんだけどな、スゲー綺麗なんだぜ。三枚の長方形の鏡版を、三角柱状に組み合わせてるもんなんだけどな」 「望遠鏡?」 ジェスチャーで示す桃城に、益々リョーマは首を捻る。 第一なんでいきなりデートで万華鏡なのか?判らない事だらけだ。 「まぁ、いいから、いいから。いい場所、連れてってやるよ」 「桃先輩、スッゲー変」 それでも、自分の言葉に何かしら考えて、答えているのだろう桃城を知っているから、 「日曜日っスね」 リョーマはデートの承諾をOKした。 「んじゃな、取り敢えず」 この態勢を、どうにかしたいと思う桃城だった。 「心配した?」 今更の言葉遊びに、リョーマは笑う。 「だからしねぇって」 引き寄る細腰。爪先立ちで立っていて、疲れないだろうかとフト考える。 「薄情もん」 「好みだろ?薄情なのが」 触れれば逃げていくのはネコと一緒で、扱いが簡単で、反面難しいのもネコと一緒だ。 見誤らないポイントは、発せれるシグナルを見落とさない事だ。 大切で、大切だから大事にしたいと思ったのは、らしくない程初めで、自分の自覚に動揺さえしたのだと、リョーマは知っているのだろうか? 軽口に誤魔化す互いの内心。踏み込む場所と、踏み込めない領域。意思で決めた立ち尽くしている場所。 取り敢えず付き合っている自分達の曖昧な境界線に、きっと戸惑っているのはお互いだろう。 それでも欲しいと告げてくる眼差しに、互いに苦笑する事しかできなくなる。 付き合いだした時間は未々短い。けれど躯を重ねたのは早かった。深まるばかりの想いを隠す術さえ、いつか失ってしまそうで、重ねれば重ねる程怖くなるのに、それでも欲しい衝動が止められないのだから、子供なのだと苦笑しかできない。 「んっ……」 凝視する眼差しに、タイミングを間違う事なく瞳が閉ざされ、口唇が重なる。 蒼い闇に紛れて重なる影。 手の中に有る万華鏡の位置。その在処と可能性。伸ばすも殺すも自分次第。 見る角度によって変わる光彩。立ち位置によって変わる視界。見える景色。その内面。 進む時間は、まるで幾重もの光彩を描く万華鏡と同じ。未来の在処と可能性。それさえ幾重もの万華鏡。手の中に握っている可能性は無限の未来。 見極め垣間見る事の怖さに立ち竦む事なく進んでゆけるなら、手の中の可能性は、未来への光。 |