明滅する未来1











「越前〜〜迎えに来たぞぉ」
 門の前、玄関チャイムを鳴らす事なく、桃城武は相変わらずの声でリョーマを呼んでいた。
 出会いは最悪の筈だった。けれど今では耳に馴染んでしまった声だった。馴染んでしまった髪を掻き回す仕草。重ねる肌の熱さに逸る鼓動。すべてが今では当然のように自分の何処かしこにも馴染んでいる事が、リョーマには可笑しかったし、不思議だった。
「相変わらず、彼氏の迎えか。お前もいい身分だな。先輩アッシーに使うか普通?」
 トントンと、軽い足音を響かせ階段から降りて来た息子を掴まえて、南次郎は相変わらず底の知れない飄々とした笑みを見せている。
「別に、桃先輩、十分普通じゃないから」
 何を好き好んで自分なのだろうかと、近頃は考える事も些かの億劫さがあった。
 何を好き好んでと言う言葉は、何も桃城だけに当て嵌まる言葉ではなかったから尚更だ。それを考えるなら、何故桃城なのか?自分でも考えない訳にはいかなくなるから、リョーマにしてみれば、考えたくない項目と言えるのだろう。
 アメリカに在る当時。些か趣味を疑ってしまう思考回路を持つ男達に言い寄られ、いい加減鬱陶しくなっていたから、自分が下した鉄槌は『自分よりテニスで強い奴』と言う事だった。それを考えれば、何故桃城なのかと考えれば、認めたくない想いに到達してしまう。
 好きだとか、まして愛だの恋だのは得体のしれない厄介な感情の一部にすぎないと、リョーマは認識していた。そんな訳の判らない感情に振り回される面倒は、御免被りたい類いのものだったから、何故桃城と言う男と、何を好き好んで肌を重ね、快楽に興じているのか?考えると、吐き気のする想いに行き着いてしまう。できるなら、視線を逸らしていたかった。ダレかを所有して、ダレかに所有されるなど、殺人行為に等しいと思ってきた。得体が知れない底に沈み込んで行くようで恐ろしくなると思っていた。
 息が詰まるような想いの淵を、未々気付きたくはない。肌を重ねるのは気持ちいい。自分よりテニスが強い奴と言うなら、現時点での該当者は、恐らく先日対戦した手塚だろう。
けれど手塚と快楽を分け合いたいかと考えれば、絶対嫌だと言う強固な否定も身の裡で湧くから、益々身動きがとれなくなる。 こんな時、気付くのだ。快楽に溺れる事と、苦痛を味わう事は、同じ事なのかもしれないと。深い快楽を味わう為には、一度は苦痛を通り抜けなくてはならないのかもしれない。
「お前も本当、可愛くねぇな」
「いいんじゃない?可愛い俺になんて、別に興味ないと思うよ、桃先輩」
 小生意気だといつも苦笑されている。けれどその言葉に被せられる言外の響きは、決して嫌味ではない事が判るから、きっと可愛い自分など、気持ち悪いだろうとリョーマは思う。可愛い自分も、想像はできない。
「お前の可愛くないは、素直じゃねぇって事だ」
「素直だよ俺」
 少なくとも、自分の感情には。幾らでも素直な筈だ。
欲しい時には欲しいと言うし、キスをしたい時には先手必勝でキスをする。むしろ肝心な時、些か呆れてしまう程奥手に徹してしまう臆病なのは、桃城の方だ。
 何を怖がっているのかと思えば、判らない。ただ以前一度だけ、言われた言葉が在る。

『大切だからなぁ〜〜』
 嘯く言葉に、けれど垣間見えた本音。
『……説得力ないっスね』
 欲しいという快楽も、キスの心地好さも、何も知らなかった自分に教え込んだのは桃城だと言うのに、何をバカな事をと時々思う。
 肝心な時に臆病なんて、卑怯と同義語だとリョーマは思う。悪党でタラシで、そしてどうしようもなくバカみたいに優しい男。そしてその分狡い男。
 

「テニス程素直なら、アレも少しは手ぇ焼かないんだろうがな」
 それでも、この素直じゃない息子を相当気にいっているだろう桃城を、南次郎は知っていた。
 何を好き好んでいるのだろう。小生意気で性格はネコ。中学に入って益々生意気に拍車の掛かった息子に、けれど桃城はいつも臨機応変な鷹揚さで付き合っている様子だった。
 幼稚園入園までくらいは、見た目と中身は比例して、恐ろしく素直で可愛い子供だった筈なのに、小学校に入ったあたりから、ふてぶてしくなっていった。
「お前にとって、テニスはコミュニケーション手段だからな」
 コミュニケーションの手段は色々在る。言葉だけではないし、言葉も媒介が必要だ。世間話しですら、話す為に必要な媒介は存在する。会話が成立する為に必要な話題がソレだ。
 話題を会話する事によって成立するコミュニケーション。会話をする事で、コミュニケーションが成立するわけではない。其処には常に成立する為の要素が必要不可欠だから、リョーマが雄弁に語るコミュニケーション手段は、言葉ではなくテニスだろう。
「煩いよ親父」
 言われなくても自分が個人主義で、人との接点が極端に低い事など判っている。
 元々話す事は苦手だった。何が好きだのどの歌手が好きだの、好みのタイプなど、知って何をどうするのだろうかと思えるからだ。
 けれど、それでも桃城と話す事は好きだし、知らない話題も楽しき聴ける。たぶん桃城の話術は巧みなのだろうと思うあたり、リョーマは未々恋愛発展途上なのかもしれない。
「クワセ者って、嘘じゃないよな」
 誰の身の裡にも溶け込めてしまうのは、才能だろう。それは話術であったり、その場その時に合わせ、状況に応じて気配を変えられたりと、そういう事なのだろうと思う。
 それでも、笑っていて笑っていない時がある気がする。眼が、そうだ。笑っていても、眼が冷静だったりする時もある。青学テニス部一のクワセ者と囁かれるのも頷ける気がした。
 冷静な眼。ひどく怖くなる時があって、無自覚に肌身が竦む。情事の最中、気遣うように理性的な冷静さに、堪らなくなる。たった1歳の年齢差、こだわっているのは自分だと知ってるいる。
「そいやお前、何処行くんだ?」
「知らない」
「ヘッ?」
 息子の淡如な即答に、些か拍子抜けする南次郎だった。
アメリカに居た当時のリョーマなら、目的もない場所に、行く場所も知らされず、誰かと出かける事など一切なかった。父親の自分が心配してしまう程度には、リョーマは人間関係の形成が巧くはなかった。けれど日本に帰国して、本人の意思は無視して青学に入学させて、どうやら多少の進歩はあったらしい。それは何より雄弁にテニスのプレイに顕れている。
「見せたいものあるって言うから」
「なんだそりゃ?」
「万華鏡だって」
「万華鏡?」
 そりゃまたけったいな比喩だと、南次郎は笑う。
三角柱状の鏡の光彩。見せたいものが万華鏡と言うならまだ判る。確かに女は好むだろう。綺麗なのは確かだ。けれど見せたい場所が万華鏡となると、話しはまったく変わって来る。
 会った時から見た目の笑顔と何処か軽さを装う仕草は感じれたものの、中身は反比例しているだろうと気付いていたから、桃城がリョーマを誘った意味を考えて、感慨深げに一人納得していた。
「ソレなに?」
「お前知らねぇか?前に買ってやった事あるぞ」
「いつ?」
「お前がこのくらいの時」
 この位と、南次郎が自分の腰の辺りに水平に手を置いた。
「そんなガキの時の事、覚えてない」
 それは多分幼稚園くらいの時だろう。そんな過去の事、覚えていられないのは当然だ。
「3歳くらいか?」
「覚えてる筈ないだろ」
 父親の飄々とした台詞に、リョーマは憮然となった。
「今だって十分クソガキだろうが」
「クソオヤジ」
 憮然として、リョーマは父親の脇を通り過ぎ、スタスタと玄関に向かって靴を履く。そんなリョーマの後ろ姿を凝視し、南次郎は不意に酷薄な口唇に悪戯めいた笑みを浮かべた。
 大概小生意気な性格になったもんだと、南次郎はリョーマの背を眺めた。
 未々華奢で、細い骨格。それでも此処数日で鋭くなった打球。対峙すれば、研ぎ澄まされた冷ややかな双眸が、切っ先のように切り付けて来る。その反面、反比例して、こうした何気ない日常の中。確実に色を付け始めた気配が有る事に、きっと本人に自覚はないのだろう。だろうと、南次郎は内心苦笑する。ましてその意味する場所になど、当分気付かないのだろう。
「リョーマ、お父さんから忠告だ」
「なんだよ親父」
 どうせこういう言い方をする時の南次郎は、ロクな事は言わない。彼の息子を10年以上していれば、そんな事は考える事も必要とはされない。だからリョーマには、言葉の背後に哄笑が滲んでいるのが見て取れた。
「街で変なのに声かけられても、ホイホイ付いてくんじゃねぇぞ」
「バカ親父」
「声掛けられる方に1000円かけてやる」
「……」
 右指一本を突き出し笑う父親に、呆れるリョーマに罪はないだろう。けれど南次郎が言うのも尤もなものだと言う自覚は、けれどリョーマに在る筈もない。
 姿形、格好をみれば、ボーイッシュな女の子に映るだろう自覚など、当然リョーマにはないから、南次郎が内心苦笑している事など、きっと知らのないだろう。     
「彼氏にしっかり守ってもらえ」
 近頃は可笑しい所か、可笑しすぎる奴は多いからなと、南次郎は笑う。           「ついでに、ちゃんとエスコートの仕方も、教えてもらってこい。お父さんは情けなかったぞ」
 女の子と会話が成立しない。そんな生易しいものではなかった、アノ時のリョーマの対応の悪さなど。
 桜乃が必死に会話を繋ごうとしていたのが気の毒な程、端から言葉を切って行く息子の姿に、流石に父親として心配してしまう南次郎だった。
 桃城と知り合い、それが元々リョーマの気の於ける先輩で、薄々縦より関係だけではないと感づいていてから、南次郎はこう言ったのだ。桃城に向かって。
              
『リョーマの奴が女の子とデートの一つもできないのは、付き合ってる奴が原因かもしれねぇなぁ。やっぱ男も女も、付き合うなら、エスコートできる奴じゃねぇとな』

 大概良い根性をした南次郎の台詞に、桃城は苦笑しただけだったが、心中穏やかである筈がない。


「エスコートは教えてもらってないけど、それ以上の事は教えてもらったからいい」
 シレッと笑うと、リョーマは玄関を出て行った。
リョーマの言う『それ以上』の意味を考えて、少しだけ青褪めた南次郎だった。
「ベッドの中で、手取り足取り腰取り、エスコートされてんじゃないんだろうな……」
 ピシャリと玄関を閉め出て行った息子の背を呆然と見送る南次郎だった。
 アメリカに居た時から、リョーマには何故かその手合いの誘いも多かった。けれど下した鉄槌におとなしく引き下がる人間は殆どなく、本人の意思は無視して強引且つ無理矢理と言うパターンだって、未遂とはい言えゼロでなかった訳ではない。
 だからリョーマが多少その方面に嫌悪を抱いていた事も知っていたが、日本に帰国して青学に放り込み、あっさりそういう男を見つけてしまった息子の性根の逞しさに、ついついうなだれてしまうのは、感傷なのだろうか?南次郎自身にも、判らなかった。







「相変らず、迎えに来てからこうして出てくるまで、時間かかる奴だなお前は」 
 漸く玄関から姿を表したリョーマに、桃城は笑う。
夏の光彩が強くなった日差しがは、午後になっても翳りを見せない。相変らず空は高く蒼く、微かに吹く風は初夏の匂いを運んで来る。
「桃先輩、何処行くんスか?」
 自転車に跨がって、相変らずの笑顔を見せる桃城に、リョーマは怪訝な顔をしてみせる。
 桃城が、何処かに出掛けようと誘ってくる事は珍しくはない。けれど目的地を告げない誘いは、今までなかった。大抵は近所でテニスと言うのが定番だから、大した気にもならなったが、『万華鏡見せてやる』と告げられては、何が何だか判らない。
「内緒」
「可愛くない」
「俺が可愛くてどうする」
 呆れた顔をして、リョーマを視る桃城は、背後を示した。
「内緒ってのも、楽しいだろ?」
「楽しくないっス」
「お前なぁ〜〜見せたいもん在るって、言っただろ」
「だからソコって、何処なんスか?」
 ゆっくりと走り出した自転車に跨がって、リョーマは桃城の頭を見下ろして、ムースで固めている髪を引っ張った。
「オイ、纏めるの結構苦労してんだぞ」
 セットした髪を引っ張られ、桃城が頭を振る。
「でも俺、乱れてる感じの髪も好きっスよ」
 悪戯気に、リョーマは笑う。笑って、やはり髪を引っ張っている。
 少しだけ野性味を帯びる情後の淫らさ。乱れる髪。嫌いではないし、どちらかと言うと好みだった。
 一つしか違わない年齢で、一体どれだけの女と付き合ってきたのかと思う。エスコートと言うなら、ベッドの中では十分されている。物慣れた仕草に腹が立つ。だからいつだって挑発せずにはいられない。今まで彼が抱いてきた女と同列に扱われるのは、どういう関係で始まっている付き合いでも、面白い訳がない。
 一体どれだけの女が、桃城の情後のそういった淫らに乱れる髪を知っているのかと思えば、やはり考えたくない心根の中核に行き着いてしまう気がして、リョーマは内心下品に舌打ちする。
「乱れてる…ねぇ」
 それはとどのつまり、情事の後と言う事だろう。
「デートなんでしょ?」
「っのつもり」
「だったらさ桃先輩、たまにはデートの時しか見せない顔、見せてみたら?」
「言うなお前も」
「親父に言われた」
「エスコートされてこいってか?」
「って、言われたんスね」
 桜乃のガット張りに付き合って、その夜帰宅したら、既に父親のペースにしっかり巻き込まれている桃城が居た。あの時、自分が居なかった時間に、きっと言われたに違いないのだ。
「息子が女の子一人エスコートできないのは、付き合ってる奴の所為だってな」
「大丈夫っスよ」
「んん?」
「ちゃんと釘さしといたから」
「何だよ……」
 リョーマの釘の部分に、フト嫌な予感のする桃城は、おそるおそる背後を振り返った。
その視線の先には、意味深な笑みを満面に浮かべているリョーマが在た。
「エスコートは教えてもらってないけど、それ以上の事は教えてもらったって、言っといたから」
「……お前…それあん時の意趣返しか?」
 シレッとした台詞に、ガクリと肩を落とす桃城には、完全に罪はないだろう。
「別に」
「あの状況みたら、普通言うだろ」
 桜乃が、リョーマに想いを寄せている事は、端で見ているだけでも十分に判る。
色恋は、確かに第三者の方が冷静に見れると言うなまだしも、普通なら、桜乃の気持ちにも想いを向けれる本人なら、気付いてもいい筈で、それを見事に会話を切断して行くリョーマの無自覚さに、流石の桃城も彼女が気の毒になって、リョーマに桜乃を追いかけるように言ったのだ。けれどリョーマには気に入らなかったらしい。
「だから別に関係ないっスよ」
「関係ないって顔かよ」
 ヤレヤレと、桃城は大仰に溜め息を吐き出した。
「やっぱ桃先輩、可愛くない」
 グシャグシャと、リョーマは手の中の髪を掻き乱す。
「オイコラ」  
「一つしか違わないくせに」
「俺の所為じゃねぇだろソレ」
 甚だ理不尽なリョーマの抗議に、桃城はやはりヤレヤレと笑うだけだった。
 こんな所がガキだと言うのに、気付かないのだろうかと思えば、多分無意識の甘えなのだろうと思うから、それはそれで悪くはない気分だった。桃城が知り得る範囲で、リョーマはこんな事は他人にはしない。
「帰ったら、親父と意気投合してるし」
 桜乃と駅で別れ、自宅に帰り、意気投合している父親と桃城を見た時には眩暈がした程だ。
「クワセ者同氏、意気投合してたんなら、親父誘えばよかったんスよ」
「………お前なぁ、言うに事かいてソレかよ」
 アノ飄々としたリョーマの父親のクワセ者から比べれば、自分のクワセ者など、ガキの演技でしかないだろう。
「取り敢えず付き合ってる相手居て、他人に応えてやる程、人でなしじゃないっスよ」
 だから敢て会話だって切断していたと言うのに、突然現れまくし立てられて、気分の言い筈がない。
「期待持たせる方が、残酷だって知ってる?」
「お前は?」
「何?」
「期待持たせてねぇ?」
「誰に?」
「本気で言ってるか?」
 ガクリとうなだれる桃城だった。何処までリョーマの台詞が本気か嘘か、こんな時境界は曖昧で、判らなくなる。 確かに誤魔化した誘いをしたから、自業自得だと言うものなのだろうけれど…。
「お試し期間で付き合ってるんだから、贅沢言わないで下さいよね」
「……お試し期間…」
「いいじゃないスか、クーリングオフで返却できる期間はとうに過ごしたんだし」
「それはお買い上げされたって事か?」
 口では適わないと痛感するのは、こんな時だ。
「試食してみて美味しかったから」
「試食……」
 物も言い様だと、ゲンナリと毒づく桃城に、きっと罪はないだろう。
「賞味期間がいつまでかは、俺にも判らないスけど」
「……」
 もう何も言うまい…そう言う気分になる。反駁すればするだけ、きっと倍の事を言われるだろう。まぁ尤も、これさえ甘えなのだろうけれど。
 深入りすれば逃げられる気がして、ついつい臆病になってしまう自分の事など、きっとリョーマは知らないのだろう。
 大切にして大切にして、バカみたいにそんな事を願い掛けてしまう相手には、今まで出会った事はなくて、だからどうすれはいいのか、判らなくなる。こんな時、付き合ってきた場数など、何の役にも立たないと痛感する。痛感し、以前従姉妹が銀鈴のような清涼な声で、言っていた台詞が頭を過ぎった。

『バカみたいに本気な恋なんて、正気じゃなきゃできないのよ』
 気遣いも、所詮自分の為だ。境界が曖昧で、立ち尽くしているのは自分だから、迂闊に手を出し、折角築いた関係が、抹消されてしまう事が怖いのだ。ただそれだけだ。
『ただそれだけ』
 どれ程の理由を用いても、きっとそんな単純な言葉で足りる。自分の想いなど、最初から邪に塗られた想いしかなかったのだから。そのくせ立ち尽くしているラインに戸惑っているのだから、確かに臆病で卑怯なのかもしれない。










「っで、なんでこんな人込みに、それもカップルばっかの場所に、桃先輩と二人で来なきゃなんないんスか」
 新橋からゆりかもめに乗り換えて、その時点で行き先など判っていたリョーマも、流石にカップルの多い現実を見せ付けられれば、文句の一つや二つ、口を付くと言うものだった。
「だから万華鏡見せてやるって」
「だったらさっさと観て、帰る」
 憮然とした表情のまま、歩き出す。
「オイオイ、折角のデートだぞ」
 方角など判らないだろうに、勝手に歩き出した華奢な背中に苦笑し、桃城は細い手首を握り引き寄せた。
「俺。桃先輩と違って、常識人だから」
 確かに自分達の関係を考えればそうだろう。二人で出掛け、テニスの打ち合いでもなく、こうして来ているのだから、デートだろう。けれど衆人環視の中、デートと断言する気力はなかった。
「常識って言ったか?」
 大抵挑発するのはリョーマの方だ。必死の理性を砕くのだって、いつだってリョーマだ。
大切だから気遣う桃城の理性を試すように挑発して、乱れるのはリョーマだった。キスさえ先手必勝とばかりに求めて来るくせに、何が常識なのだろう?
 第一他から見れば、仲の良い先輩後輩が遊びに来ている図式だろうろと桃城は思う。
そうと割り切れないのなら、それはリョーマが意識している証拠に他ならない。そんな事も気付かないのだろうかと思えば、苦笑しか漏れない。
「帰るっスよ」
「コラコラ」
 まったくこんな所がガキなのだと言う事に、気付かないのだから、やはりガキだ。
「ホラホラ、方角反対だぞ」
「ちょっ〜〜〜」
 ズルズルと、引き摺られて行く。華奢な躯はどれ程抗ってみた所で、桃城に適う筈はなかった。







 多少憮然としているものの、リョーマは桃城の隣をおとなしく歩いている。先刻からひどく黙り込んで俯いて歩くリョーマを、桃城は機嫌を損ねたかと危惧をして、時折チラリと気遣う視線を投げている。けれどそれさえ気遣いだと気付かせない程度のものを刻み付けた視線だった。
 けれどどうやらリョーマの不機嫌の理由は、桃城の心配する位置にはない様子で、端整な顔は、憮然としたものよりもっと違うものを滲ませている気がした。

『腹立つ……』

 ガキの思考回路でしかない八つ当たり。口を開けば理不尽な八つ当たりが飛び出しそうで、リョーマは些か自分の内心に起こった変化に戸惑いながら、口を閉ざしている。
 元々人込みはどちらかと言うと苦手だった。それ故の個人主義とも言える。とにかく人の多い場所は、昔から苦手だった。 テニスのプレイと容姿。父親が元テニス選手。それも時の人と言われた選手だから、父親を知る人間には『南次郎の息子』と言うレッテルやラベルを貼られてきた。昔から、自分の周囲に他人が集まる時は大抵が大人で、同じ事を繰り言のように繰り返してきた。まるでテニスをしない『南次郎の息子』など、必要とはしないとでも言うように。だから人込みが苦手になった気もする。
 付随する者なのだと言われている気がして、だから父親に反発していた部分も、確かに存在していた。そのくせ父親のテニスを真似てしまう程、父親のプレイに憧れてもいる二律背反。 子供の時から『父親の息子』という世間のラベルを貼られて来て、集う人間も自分にテニスの将来しか期待していない事がありありと見て取れたから、腹が立つ事おびただしい程だ。
それでも、行き着く先が父親のテニスなのだから、やはり救われない気がした。

『お前のテニスは何処に在る?お前のテニスを見せてみろ』

 だからそうと手塚に言われた時、無性に腹が立った。
知り合った時間や距離は、きっとそんな時、何一つの役にも立たないのだと痛感した。
 人間関係の距離や重ねた時間など簡単に飛び越して、手塚はそうと端然と突き付けて来た。それは手塚のもつ真骨頂の部分なのだろう。見透かされる恐怖に脚下が喪失する寒々しさは、元々脆弱な基礎しかなかったからなのかもしれない。気付かされてしまう恐怖と紙一重だ。



 リョーマは其処で溜め息を吐くように吐息を漏らした。一端陥った思考は、中々に浮上はしない。
 隣を歩く、頭一つ以上高い桃城を、チラリと盗み視るように見上げる。
自分が苦手な人込みをこうして歩いているのは、一体誰の所為なのか、再び子供じみた八つ当たりが意識の表層を苛立たせて行く。
 先刻から、擦れ違う女の子が、チラリと自分達を振り返って行く。2人、3人、グループ、数人固まって歩いている女の子連れは、擦れ違いざま振り返り、小さくもない声で『恰好いい』とか言う黄色い声を上げ通り過ぎて行く。それが尚子供じみた苛立ちを募らせる気がして、そんな事で苛立つ自分がバカバカしくなる。

『キャ−見た見た?恰好いい』

 視線はいつも自分の上を通り越して行く。隣を歩く男の顔に注がれて、平気で『恰好いい』なんて騒いで行く。それでも、そんな事に慣れているのか、理解していないのか、相変らずクワセ者の顔をして、桃城は飄々と歩いて行く。
「……気に入らない……」
 ボソリと呟いた声。隣に聞こえる程大きい声を出したつもりはなかったソレは、けれど桃城にはどうやらちゃんと聞こえていたらしい。
「何がだ?」
 不意に問われて、リョーマはエッ?と言う顔を向けた。
「だから、何が気に入らないって?」
 きっと聞こえているとは思わなかったのだろう。キョトンとした顔をしている。その顔がどれ程警戒心のない無防備さなのか、自覚はないのだろう。頼むから自分以外の前では、そういう表情はやめてほしいと思う桃城だった。口や態度に直接出す事の少ない桃城でも、人並みの所有意識や執着は持っているのだ。
「何で?」
 小さい声で、自分でも呟いた自覚もない程に小さい声だった筈だ。
「そりゃ何でってお前」
 気を付けて見ていたからで、聞き逃さないと思っていたからだ。不機嫌と言う訳ではないのだろうが、確かに機嫌は悪い。悪いと言う程のものではないのかもしれないが、俯く視線が気になった。だから見ていたし、聞き逃すまいと思った。
 自分から、誰かの腕を求める事の少ないリョーマだから、自分から何かを話す事はない。挑発的な軽口をどれ程叩いてみせても、それで誤魔化して、肝心な事は何一つ話さない。そういう性格だ。だから発せられるサインを見逃すまいと見ていたし、聞き逃すまいと、思っていた。
「別に…」
「そっか?」
 バツの悪そうに逸らされた視線に苦笑すると、けれど言及はしなかった。
 可笑しいくらい慎重だと、苦笑する。
誰かと付き合って、これ程互いの領域を意識した事はない。
元々踏み込まれる趣味も踏み込む趣味もなかったから、相手の反応が気になると言う事はなかった。だから大抵は優しいフリして冷たい奴だと気付いた女は、呆れた顔をして離れていったから、別れるゴタゴタなど経験した事はない。相手の気持ちが自分にない事を、女は適格に、そして素早く見抜く。そこいら辺りは女の足元に及ばないのが男だろう。
「ねぇ桃先輩」
 逸らした視線の先、可愛らしい店先が在った。観光地ではさして珍しくもない店だった。
「んん〜〜?」
 呼ばれてリョーマの視線に合わせると、
「マロンクリームね」
「…………へいへい」
 要求だけを淡如に告げて来る声に、桃城はガクリ肩を落とした。
「お前其処で待ってろよ」
「ガキじゃないっス」
「ガキじゃねぇから、言うんだよ」
「何ソレ」
「ガキじゃねぇんなら、付いてくなよ」
「ハァ?」
 何処で聞いた台詞だと首を捻れば、出掛けに父親に言われた台詞だと思い出す。
「やっぱ、俺より気ぃ合うんじゃないっスか?」
「あんな恐ろしいクワセ者と、気ぃ合わせられるか」
 とって喰われるのがオチだ。
「んじや、待ってろよ」
 ソコでと強調するように示されて、リョーマは少しだけ呆れた顔をして、頷いた。





 ゆっくりと歩いて行く姿。均整のとれた姿態だと思う。
テニスで鍛えた躯は、遊びに来ている年上の人間より余程しっかりしていると思える。外見も大人びているから、とても中学二年には見えないだろう。現に擦れ違い様、何人もの女が振り向いて行く。やはり見ていれば、それは気に入らない。たとえどうしようもない我が儘だとしても。自分は何一つの言葉も返してはいないと言うのに。それでも、
「気に入らない」
 呟いてしまう自分の理不尽さに、リョーマは子供らしくない苦笑を見せた。
 歩いて行く桃城を視ていて、リョーマは或る違和感に気付いた。ソレが何かと少しだけ首を傾げ、それが歩調だと気付いた。
 頭一つ以上違う身長差だから、当然コンパスも違う。桃城が普通に歩いたら、自分の脚では少し早足になるだろう。けれどいつも桃城と歩く時、自分はそんな歩調になった事はない。
「バカ…」
 舌打ちする。腹の立つ程優しい男だと、こんな時思う。
自分に合わせていたら、さぞゆっくりと歩いていた事だろう。
ゆっくりと歩いて、却って疲れなかったのだろうか?きっとこんな風に見送る事がなかったら、考えもしなかっただろう。
 いつもいつも『小生意気』と苦笑し呆れても、肝心な時には優しい男だ。極自然と相手に合わす呼吸、みたいなものを心得ていて、相手にソレを気遣いと気付かせない。きっとこんな事がなかったら、自分も気付かなかった。
「アレで殺生沙汰起きないってのも…」
 性格なのだろうか?桃城に尋ねたら、『人徳』と、愚にもならない事で誤魔化されるのは判りきっているので訊かない。
 タラシで悪党だと思うのに、別れたと言うゴタゴタを思い付かない。
 笑っていない眼。時々笑わない。自分に向けられた事はなかったソレは、けれど気付く事はある。ダレかを見ていて、笑っているのに眼は醒めている。そんな何処か醒めた一面が揉めない要因なんだろうか?レンアイケイケンのない自分には、判らないけれど。
「まぁ、俺を巻き込まないでほしいな」
 傍に居て、きっと今桃城の隣に、腕を伸ばせば伸びる位置に在るのは自分なのだろうと思うのは、自惚れではないだろう。精神的な距離は別にして、物理的距離なら、一番近いだろう。頭の悪い女に、バカな勘違いでもされたら、堪ったものではない。
「精々さ、嘘は旨く付かないとね」
 ダレにでも。




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