TRIP



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この時は本当にビビッてたんだ・・・
関空にて





















1月8日 にちようび  はれ のち くもり    

すばらしい!! 
本当にすばらしいと思った。
アフリカ旅行から帰ってきて
今日でちょうどひと月、
旅日記を読み返してみたが、
自分で言うのもなんだけど、
よくあんな素晴らしい旅が
出来たもんだと心から思う。
月日が経つにつれ、ふと
『アフリカに行ったのは
 夢だったんじゃないだろうか・・・』
そう思ったこともあったが、
この日記の中にあの日の俺がちゃんといる。
アフリカに行く前は、毎日が不安で不安で、
アフリカにいる自分の姿なんて想像できなかったし、
アフリカから帰ってきた後、
日本で生きていく自分のことも
まったく想像できなかった。
でも、今こうして日本にいる。
あの時想像できなかったところに、
今こうしていることさえ不思議に思えてくる。













アフリカに行くまでは、
毎日が“当たり前”だった。
当たり前のように千秋がいつもそばにいて、
毎日仕事に行くのも当たり前で、
通勤電車も当たり前のように定刻に来て、
その電車に乗れば快適な室温に設定されていて、
目的地にも時間通りに着くのが当たり前で・・・
お風呂に入ればいつでも温かいお湯が出てくるし、
蛇口をひねればいつでもきれいな水が出る。
お風呂から上がれば冷たいビールは当たり前・・・
車に乗ればCDを聞くか
ラジオを聞くか選択することができ、
エンジン音はとても静かで、
バック・ミラーがあるとか、
窓があるとか、内装があるとか、
疑う余地も無いほど当たり前で、
全てそれが当たり前なことが当たり前だったし、
毎日があることさえ当たり前だった。














バックミラーも内装も無いのには驚いた!
出迎えてくれた運転手

















元気にしてるかな〜?
名ガイドのソーリー











でも、本当にそうだろうか?
アフリカ旅行から帰ってきて、
その“当たり前だ”と思ってきた全てが、
とても不思議なことのように思える。
セネガル最終日に
『旅も終わるんだな〜。
 なんだか今から日本に帰るということが
 信じられなかった。
 またいつもの日々に戻る。
 でもそれ自体今は考えられない。』
と、記してある。
でも、“いつもの日々”っていうもの自体が
何だったのか今ではよく解らない。
もちろん、仕事の内容や日々の暮らしは、
大きくは変わっていない。
でも、それをしている自分の中の
根本的な何かが大きく変わった気がしている。














それは何なんだろう?
俺は旅の途中に、ソーリーに何度も聞いたことがある。
『マリの風景は俺にとって、
 すごく珍しくて不思議なんだけど、
 ソーリーにとっては普通なんだよね?』
そう聞くと、ソーリーは
『もちろんそうだよ!
 だけど俺が日本に行ったら、
 同じことをトムに言うだろうな!』
そう答えてくれた。
自分にとって当たり前なことが、
人にとっては当たり前じゃなくなる。
ってことは、“当たり前”なんてものは
本当は無いんじゃないだろうか?
今こうしてこの日記を書いているときでも
寒ければストーブをつけ、
暗くなれば電気をつける。
そのこと自体、“当たり前”なんじゃなくて
“有り難い”ことなんじゃないだろうか?
そして、とっても
“素晴らしい”ことなんじゃないだろうか?














アニウラ!
ソーリーの親類の子























後日この人から手紙が届きました!
モプティのマスター











電気の無いドゴンの人にとってみれば、
日本人が楽しむTVも、ビデオも、ゲームも無く、
電気なんていらない最も原始的な楽器
“太鼓”を打ち鳴らし、踊り、歌うことが
楽しいのは当たり前なんじゃないだろうか?
でも、“当たり前なこと”なんて無いんだから、
太鼓を叩き、踊り、歌うことは楽しいだけじゃなく、
きっと“有り難く”“素晴らしい”ものなんだ。
だって、ドゴンのような環境だったからこそ、
太鼓を叩き、歌うことが楽しいと思えるからだ。














日本のような環境ではそうはいかない。
もちろん、日本人でも歌うことや
踊ることは楽しいけれど、
アフリカ人のそれとは意味合いは違うと思う。
日本人にとっては単に楽しそうに見える太鼓や歌も、
実はアフリカの人にとってみれば、
生きている人の為に演奏しているわけではなく、
音楽はこの世にはいないご先祖様や、
自然の神様への捧げものなんだと聞いたことがある。
太鼓を叩き、歌い、踊り、自分たちが楽しく
過ごしている姿を先祖様に見てもらうことが
アフリカ人にとって“お墓参り”や“神楽”の
意味合いがあるのかもしれない。
運良く見ることができたドゴンの仮面ダンスも、
井戸を恵んでくださった大自然の神様に
自分たちの喜ぶ姿を見てもらうことによって
感謝の意を表しているのかもしれない。
現地の人にとってみれば、
歌や太鼓は生活の一部なのであって、
その叩き方やフレーズ、
そんな格好だけを俺が真似してみたところで、
薄っぺらな単なる“まねごと”にしかならない。














楽しかったな〜・・・
ジェンネの月曜市























訛ったリズムがたまらない!
ドゴンのドラマー














だからといって、
ドゴンの人をうらやましく思うのは、
それもまた違うと思う。
マリの人達は、日本はハイテクノロジーで、
賢い人が多いと思っているけど、
うらやましいとは思っていないのと同じように、
マリのドゴンというところに、
素晴らしい歌や、踊りや、
太鼓のアンサンブルをしている人がいると知っている、
それだけでいいのだと思う。
帰りの飛行機の中で思ったように、
俺はドラマーでもなく、ミュージシャンでもない。
ましてや、旅の達人でもない。
ただの単なる太鼓好きの、旅好きの、
ひとりの人間であればいいのだと思う。














そして、旅のいたるところで感じた
“人種差別”について・・・
今までは『差別をしてはいけない!』
というその言葉を、
ただ単に丸暗記していただけだったんじゃ
ないだろうかとさえ思えてくる。
学生時代に道徳の授業で奴隷貿易に限らず、
いろんな『差別』について学び、
理解しているつもりでいたが、
今回の旅を通して、
今まで自分が理解していたことは、
表面的なことでしかなかったんだと
初めて気がついた。














リズミックにやるのがコツだ!
杵つきに挑戦












カカシ〜!
一緒に遊んだ子供たち


















そんな様々な思いや経験が、
俺の旅を素晴らしいものにしてくれたんだと思う。
確かに幸運にも恵まれた。
旅に出る前に自分が体験したいと思っていたことは、
ほとんど叶った。
アフリカの民家に泊まって、
原住民のシンプルな生活を垣間見ることが出来たし、
電気やガスの無い暮らしも体験できた。
ジェンネでは泥の町を歩き、
月曜市も見ることができた。
ドゴンでは屋上に泊まり、
美しい星を眺めながら、
太鼓の音を子守唄に眠ったし、
アフリカ人と太鼓でセッションもすることが出来た。
そして、見ることはできないだろうと思っていた
仮面ダンスを見ることができ、
その夜に子供たちと踊ったことは、
かけがえのない体験だったと思う。
セネガルではアフリカの大地を感じながら
歩いたことを思い出すと、
今でも涙が出そうになる。














しかし、もし、こういった幸運に出会うことなく、
何ひとつ自分の望みが叶わなかったとしたら、
素晴らしい旅行になっていなかったのだろうか?
いいや、そうは思わない。
何ひとつ自分の望みが叶ってなかったとしても、
それはそれで素晴らしい旅に
なってたんじゃないかと思う。
それは、旅の間中その場その場で
出くわしたことに対して
真剣に考えて行動したからこそ、
素晴らしい旅になったんだと思うからだ。
あっちに行くべきか、こっちに行くべきか?
これを買うべきか、あれを買うべきか?
これを食べても大丈夫だろうか?
便の色は大丈夫か?
ひとつひとつ自分で考えて行動した結果が
あの旅だったんだと思う。
つまり旅の間中、俺はとっても
“生きていた”んだと思う。














ほんとにラッキーだった!
仮面ダンスの風景




















♪グン・カラカ グン・カラカ♪
セッションの風景















日本での生活は何をするにも
大して深く考えもせずに行動している。
食べ物があれば、なにげなく口に入れ、
大して味わいもせず、
一日も経てば昨日の晩ご飯に
自分が何を食べたのかさえ忘れている。
何か行動するにしても何の緊張感も無く、
ほとんど考えることも無く、
『ああなればこう、こうなればこう』と
機械的に処理しているし、
道を歩くときも安心しきって歩いている。
日々の生活で何か困ったことにぶつかれば
すぐ他人に相談し、意見を求め、
自分で決めることさえ出来ない。














でも、アフリカに限らず、
海外を一人旅しているときはそうはいかない。
一歩外に出るだけで何が起きるか解らない。
ホテルの中にいるときでさえ、安心できない。
もちろん頼る人なんていないから、
全て自分で判断し、
その行動に自分で責任を持たなくちゃならない。
“一寸先は闇”という諺があるが、
本当にそんな感じだ。
悲しいことが待っているかもしれないけど、
素晴らしいことが待っているかもしれない。
でも、“うれしいこと”も“悲しいこと”も、
自分にとって大切なことなのだから、
しっかり受け止めながら歩いてゆきたい。
旅は特別な時間かもしれないけど、
人生だって特別なものだ。
そして、ご飯食べてるときも、
道を歩いているときも、仕事をしているときも、
通勤しているときも、寝てるときも、
シッコしてるときも、ウンコしてるときも、
全て自分の人生なんだから、
それをいい加減にしてて
素晴らしい人生になるわけがないと思う。
一寸先はどうなるかわからない・・・
何てステキなことなのだろう。
一寸先はどうなるかわからない・・・ 
だからこそ、その時その時を
大切に生きてゆきたい。














いろんなことを学んだ!
“奴隷の家”の前で




























オー、マイブラザー!
親友のソーリーと



やりたいことをやり、
言いたいことをいい、
食べたいものを食べ、
いつも自由でいたい。
そして、その自由に自分で責任を持つ、
それが生きるってことだと思う。
よかれ悪しかれ、今の自分が
今まで生きてきた結果だ。
毎日は“当たり前”じゃない。
毎日、毎分、毎秒が新しい人生のスタートだ!
だからこそ、毎日、毎分、毎秒を大切に
生きてゆきたい。
そして、もっともっと大きくなってゆきたいと
心から思う。


                            おわり





あとがき


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