六時三十二分の恋人

作:秋月 修二

            


 1  私室で椅子に寄りかかり、本のページを手繰っている。  昼間は何もすることが無い。なのでいつからか、私には読書をする癖がついた。遠坂邸 には本が溢れていたし、凛本人も魔術的なものとはいえ、読書量は多かった。そんな訳で、 ここで生活をしていると、本に慣れ親しむことは容易だった。  凛やシロウが学校に行っている間、部屋でじっと本を読む。そうして夢中になっている と、あっという間に数時間が過ぎている。  日々は穏やかで、こうしているとその温かさを実感出来る。凛の帰宅を待ったり、時に は散歩に出かけたりもする。そして日によって、シロウの家で食事をご馳走になったりす る。  何事も無い。私は笑えている。  だからそう……幸せなのだろう。 「ふぅ」  本と睨めっこを続けていると、目が疲れてくる。軽く眉間を揉んだ。もう少しで読み終 わりそうなので、ここで閉じたりせず、またすぐに活字へと飛び込む。ぼんやりしながら 読んでいると、内容が頭に入ってこないことが多い。集中しないと、私にはまだ読解が難 しい。  今読んでいる本は、つい最近ベストセラーになったらしい恋愛小説である。書店でたま たま目立つ所に置いてあったので、気紛れに買ってみたものだ。なかなか読みやすい文体 で書かれていて、私には丁度良い。  内容を大雑把に抜き出すと、最初は顔見知り程度だった男女が、衝突しながらも段々と 惹かれ合っていく、という流れのようだ。恋愛を取り上げる場合、こういった展開がスタ ンダードなものらしい。まだ途中なので判断は出来ないが、これから山あり谷ありで、ど んどん盛り上がっていくのだろう。  場所が学校だからか……何となく、凛とシロウを思わせる内容だ。  先を気にして、目と手を早める。最初は必要最低限の付き合いだったのに、彼らは段々 と自分の感情を、素直に伝えられるようになっていく。ますますあの二人にイメージを被 せてしまい、自然と頬が緩んだ。  薄紙を一枚一枚捲る。話が進んでいく。気が付けば、残るは数十ページという所まで来 ていた。 「――はて」  が、そこで手が止まった。本の内容についてあれこれと考えていたら、どうにもある言 葉が思い出せず、引っ掛かってしまったのだ。友人や恋人といった、親しい間柄を表す日 本語で、仲良きことは――どうだったろう。親しき仲にも礼儀あり、は無関係だし。  一度意識してしまったからか、すっきりしないのが気に入らない。強いもどかしさを覚 える。  本を読みかけで放って置くのは嫌いなのだが、気になってしまったのだから仕方が無い。 辞書を探そうと本棚に目をやる。いつもの場所に、分厚い一冊が並べられている。 「仲良きことは……仲良きことは……」  途中までを何度か口ずさんで、辞書に手をかける。と、下からドアの音が鳴り響いた。 中腰のまま時計を確認すると、六時半前を指している。凛が帰ってきたようだ。 「……中断、ですね」  半端な気分は否めないが、家の主が帰ってきたなら、居候は出迎えるのが当然である。 小説に栞を挟んで、静かに閉じた。  取り敢えず、言葉の続きは凛に聞いてみることにしよう。  /  居間のドアを開こうとして、一瞬違和感に足を止めた。いまいち正体が掴めず、私は首 を傾げる。何だろう、ピリピリするというか、空気が強張っているというか。  厭な予感……というものに似ている。  解らない。さておき、居間に入る。 「凛? 帰っています……か?」  踏み出した先に目を向けて、思わず言い澱んでしまった。 「ただいま」  やさぐれている。凛が、かなりやさぐれている。  ソファにだらしなく身を預けている。肩が明らかに怒っている。眉が吊り上がっていて、 目も何だか尖っている。そして、物凄い勢いで紅茶を啜っている。首筋に赤い斑点がつい ている、のは関係無いか。  この時間帯に帰ってきたということは、ついさっきまでシロウと一緒にいたはずだ。特 に部活に入っていない二人は、放課後一緒に行動することが多い。夕食の関係から、帰っ て来る時間は六時半前、と相場が決まっている。  この調子からすると、喧嘩でもしたのだろうか。  率直に聞いて良いものか迷う。ともあれ、私は自分のカップを取りに台所に行った。滑 らかな陶器を手に収めて、凛の向かいに座る。 「私にもいただけますか」 「ん」  カップに紅茶がなみなみと注がれ、白い湯気がすっと立つ。少し和んでしまうが、多分 そんな場合ではない。  どう切り出そうかと考えながら、私も紅茶に口をつける。口内を熱しながら、じっと様 子を窺ってみても、凛は自分から話をしそうな気配は無かった。やはり、私から歩み寄る べきか。 「凛、シロウと何かあったのですか?」 「どうして?」 「いえ、何だか不機嫌そうですから」  言うや否や、凛は厳しい目でこちらを睨みつける。直接的過ぎたのかもしれないが、こ ういうことに慣れていないので、巧く言葉を選べない。  多少気圧されながらも、私は凛の回答を待った。空気がどんどん刺々しくなっていき、 どうしたものかと思案し始めた頃――凛は、ふっと私から目を逸らした。 「……大したことじゃないわよっ」 「大したことじゃないなら、怒らなくても良いではありませんか」  思わず素で返してしまう。逆効果だ、と思った時にはもう遅かった。  いきなりソファから身を乗り出すと、凛は私の頬を両手で抑えた。少し上から見下ろさ れる格好。顔を背けられなくなる。表面上笑ってはいるが、顔がそうなっているだけで、 内心は絶対笑っていない。  反射的に、後ろに下がりそうになる。 「じゃあ、大したことにしておいてちょうだい。あと、今わたしは苛々してるから、この 件に関しては触れないでいてほしいんだけど。オッケー?」 「触れないでいてほしいなら、私は構いませんけれど……それで凛は良いのですか?」  問題が大きいかどうかは解らない。でも、こんなに心を動かされるくらい、自分にとっ てシロウの存在が大きいのだと、凛は自覚しているのだろうか。この意地の張り方は、私 には怒っているというより、拗ねているようにしか映らないのだけれど。 「どういう意味よ」 「いえ、別に深い意味はありませんが」  こればかりは、自分で気付かなければどうにもならない。どうにも、深入りしにくい話 になってきたようだ。色々訊きたいことはあるのだが、今のままでは訊けば訊いただけ、 凛は不機嫌になっていくに違いない。とにかく、落ち着くのを待った方が良さそうである。 「でも、一つだけ良いですか?」 「何よ」 「私は今まで通り、あちらにお邪魔しても良いのですか? あまり習慣は変えたくないの ですが」  これまで私は、二日に一回くらいのペースでシロウの所に通っていた。剣の稽古の場合 もあれば、食事をご馳走になる場合もあるのだが、それはもう私の楽しみの一つになって いる。凛はあまり良い気分はしないのだろうが、私にも私の都合がある。  事情がはっきり知れていて、私があちらに行くのに難があるのなら、慎むことも出来る だろう。けれど、今回は何も知らされていないのだし、私も我を通して良いはずである。 こちらとしては、こんなピリピリした日々が続くのは、どうにも耐え難い。  早く解決するために、私に出来ることもあるはずだ。 「……好きにすれば良いわ。ただ、あんまり遅くならないこと」 「ありがとうございます。ああ、心配しなくても、私とシロウの間に疚しいことなどあり ませんから」 「そういう意味じゃないわよ! それに……士郎が、そんな簡単になびく訳ないじゃない の」  ある意味で妬まれるくらいの覚悟はあったのだが。まあ、こんな状況でもちゃんと信頼 しているのだということだけは、私にもしっかり理解出来た。  これなら案外早くに、事は解決するかもしれない。 「あ、セイバー。何笑ってるのかしら?」  目の前の雰囲気が、また険悪さを増している。知らずに笑みが漏れてしまっていたよう だ。  油断していた、危ない危ない。この辺で、話を一度切り上げた方が無難らしい。 「いえいえ。話もまとまりましたし、夕食にしませんか?」  取り繕った言い分に、凛は一つ唸ってから、大人しく頷いた。私の頬から手を離し、ソ ファへとまた倒れ込む。そのままの体勢で、床にまとめてあるチラシを拾って寄越した。 「作るの面倒だから、好きなの適当に頼んで」 「解りました。凛はどうします?」  苛々してもいるのに、その裏では気力が無くなってもいる。らしくない、アンバランス な凛。だいぶ堪えているのだろうと、今頃になって気付く。  少し、苛めてしまったのかもしれない。 「んー……何頼むつもり?」  物憂げな問いが飛んでくる。手にしていたチラシがピザのものだったので、私はこれも 巡り合わせと、そのまま決めてしまう。 「ピザでも取ろうかと思っていますが」 「重いの厭だから、シーフード系で。あと、適当にお酒」 「明日も学校があるのでは?」  一応尋ねておく。でも多分、凛の中では、もう学校など関係無いのだ。夜が長くなりそ うな予感。 「付き合えるでしょ」 「はぁ、まあ」 「女同士の飲みだって、たまには良いじゃない」  少しだけ悩んだが、結局私は誘いに乗った。  私じゃなくて、凛に良くないとは思ったが……この際深く考えない。憂さが溜まってい るのなら、晴らすのが当然な訳で。回り道ではあるけれど、彼女も彼女なりに素直になろ うとしている訳で。  だったらそれに付き合うのも、悪くないはずだ。 「先に潰れないでくださいね」 「そっちこそ」  私も早く、自分が食べたいものを決めてしまおう。ついでだし、四枚くらい頼んでみる のも面白いかもしれない。重いのは厭だと言われたが、頼んでしまえば凛だって食べるだ ろう。何故って、今夜はせいぜい、派手にやるくらいで丁度良いのだから。  やれやれ、妙なことになったものである。  長い夜のお供は何にしようか。そんな迷いを急かすように、時計の音がチクタクと響き 続けていた。  2  一夜明けた。飲み会はなかなかに楽しいものだった。  飲むと宣言した以上覚悟は出来ていたのか、顔を青褪めさせたまま、凛は学校へと向か っていった。恐らく、喧嘩云々よりも体調の関係で、一人で真っ直ぐ帰って来ることだろ う。  私はというと、今日は早速シロウの所にお邪魔すると決めていた。昨晩の飲み会で、凛 が零した愚痴を確かめてみたかったからである。  曰く、 『拘らないのなら、最初からあんなこと言わなくたって良いじゃない』 『わたしだって、心の準備ってものは必要なのに』 『ああもう、士郎の馬鹿っ』  ということだった。触れるなと言いつつも、ある程度は喋らないと、気が済まなかった のかもしれない。  詳細はよく解らないが、単純に考えるならば、凛はシロウのことが気になって仕方が無 いのだろう。口ぶりは怒っていたが、それもどこまで本気かは疑わしい。どちらかという と、焦っているだけのようにも見えた。  とはいえ、凛が意地っ張りなのは、関係者なら誰でも知ってることでもある。放って置 いたら、いつ爆発するとも知れない。実際どういうことになっているのかは、私も把握し ておきたかった。 「そろそろ、帰っているはずですよね……」  夕陽に染まる道を歩き、衛宮家の門を潜る。この時間帯なら、シロウはもう家に帰って 来ているはずだ。お世話になっていた時がそうだったし、シロウは規則正しい生活を当た り前としていた。 「シロウ、いますか?」 「ん、セイバー? いるよ?」  すっかり慣れた廊下を、ひたひたと進んでいく。居間に入ると、だらけた姿勢のシロウ がお茶を啜っていた。何となく昨日の展開と被ったが、こちらは別に気が立ってはいない。  手近な座布団を引き寄せ、シロウの隣に腰を下ろす。お尻がつく前に、もうお茶を淹れ てくれていた。簡単な気配りが嬉しい。羊羹をお茶請けに、気の抜けた一時が流れる。 「なあ、セイバー。今日はちょっと、稽古は勘弁してくれないか? そういう気分じゃな くてさ」 「構いませんよ。私も、今日こちらに来たのは別件ですので」  シロウも、凛のことを気にしているのだろうか。私としても、ゆったりした空気を楽し みたい所ではあるが、本来の目的を忘れてもいられない。この場を崩してしまうのは惜し いにせよ、訊くことは訊いておきたかった。  正座で向き合う。強い西日が差し込んで、シロウの顔がよく見える。  怪訝そうな顔ではあったが、質問ということでシロウも居住まいを正した。事が事だし、 こちらも少しの緊張を孕んでしまう。息を飲んで、ついでにお茶を含み、ようやく切り出 した。 「シロウ、凛と喧嘩しているのですか?」  どう回り道をするべきかは、判断出来なかった。なので私は、迷わず真っ直ぐに行くこ とにした。湯呑みを傾けていたシロウが、危うくお茶を吹きそうになっている。 「そう来たか……」 「はい、こう行ってみました」  気難しそうな顔で、シロウは腕を組む。答えをどう告げるべきなのか、考えているのだ ろう。 「遠坂は……そう言ったのか?」 「いえ。ただ、苛々しているから、この件には触れるなと」  凛の様子を思い出しながら、慎重に言葉を選んだ。相手を怒らせたことが、そのまま喧 嘩になるのかは、今思ってみれば結構疑わしい。いつも通りではないことは確かだが、こ れが回りくどいじゃれあいだったら、私には立つ瀬が無い。  静かに目を閉じて、微かに唸りながら、シロウは顔を歪める。思い当たりはやはりある、 か。 「……そっか。まだ機嫌悪いのか」 「いえ、今はどうか解りません。直ったかもしれないし、直っていないかもしれません。 凛も、そう根に持つタイプではないでしょうが」  今悪いのは、機嫌というよりむしろ気分だろう。吐きそうな顔で、家を出て行った朝を 振り返る。  とまれ、掴みかねているのは、シロウも私も同じだった。 「やっぱり、失敗だったのかな」 「さて。一応言っておきますが、私は何も聞いていませんよ。むしろ聞きに来たのですか ら」  そんな縋るような目をされても、解らないことには答えようがない。シロウはすっかり 情けない顔になってしまった。一体、何をしたというのだろうか。  凛もあれで、短気な所がある。シロウとしては何でもないことだったのに、それが彼女 を怒らせてしまった可能性は否めない。 「そんな変なことをしたんですか?」 「いや、してないよ。俺がしたんじゃ意味無いし、流石に気持ち悪い。ただ、遠坂にして もらおうとしたら、ダメだったという訳で……」 「ふむ?」  段々言葉遊びじみてきた。返答はいつだって掴み所が無くて、ふわふわしている。頭の 中でまとまらないもどかしさは、まるで、思い出せない慣用句。  仲良きことは――原因は?  まだ判然としない。 「言いにくいことですか」 「言いにくいことです、ハイ」  畏まった態度に、直感が閃く。脳裏に浮かんだのは赤い斑。そういえば、昨日凛の首筋 にはキスマークがついていたような気がする。ということは、いわゆるそういう方面の行 為があったのは、事実として見て良いだろう。そして、私には言えないのなら、それに関 連する問題なのではなかろうか。  頬が熱くなるのを自覚したが、この際だから踏み込んでみる。 「それはつまり、性的なことでしょうか?」  ……うん、言えた。  シロウは耳を真っ赤にして、机に突っ伏している。それは、どう取れば良いものなのか。 こちらとしても、相当恥ずかしいのだけれど。  変な沈黙が流れて、手に汗を握る。 「……ええと、シロウ、何か言ってくれないと困ります」 「そんなこと言われても……」 「はいか、いいえで結構ですから」  項垂れたまま、視線だけがこちらを窺っている。そのまま、またしばらく口を噤む。私 は視線を受け止めたまま、負けじと会話の再開を待つ。  やがて、シロウは私が諦めないと悟ったのか、観念したように、 「……はい……」  とだけ漏らした。  予想は当たっていたらしい。しかし、付き合っている人間が、セックスに関して怒ると いうのも、いまいち私には解らない。そういうことは普通、ある程度許せるものではない かと思っていた。  ということは、 「あの、シロウ。そんなに――」  ――いや、言うまい。プライベートに干渉しすぎだ。たとえ、シロウがどれだけ逸脱し た行為をせがんだとしても、恋人同士ならおかしくはないのかもしれない。或いは、凛と シロウでは知識差があっただけなのかもしれない。  どれだけ変態的なことを頼んだのかなんて、シロウに白状させるのは酷だろう。 「セイバー、そんな半端な所で言葉を切らないでくれないかな……。何か、自己嫌悪に陥 る」 「突っ込んで聞いて良いものかと、迷ってしまいまして」  ちょっと気を抜くと、自分でもとんでもないことを口走りそうで、困ってしまう。  さておき、どうしたものだろうか。シロウはかなり参っているようだ。一応、私見は述 べておくべきなのか。本当は、シロウから内実を教えてもらいたかったのだが、むしろフ ォローをすべき気がしてきた。 「自分では、酷いことをしたと思っているのですか?」 「いや、そうは思ってないよ。ああでも、どうなんだろう。初めての時に、やらないって 言われてるんだよな」 「今は大丈夫だと思った、ということですか」  シロウは黙って頷く。ならば、シロウの頼みを、凛も知識としては理解しているという ことだろう。加えて、昨日の口ぶりでは、絶対にやりたくないという訳でもなさそうだっ た。  だいぶ中身が透けてきただろうか。取り敢えず、ある程度で良しとしておこう。この際、 シロウには顔を上げてもらわないといけない。 「どんなことを頼んだのかは聞きません。けれど、凛は怒ったというよりも、戸惑ってい るんじゃないかと思います。これはシロウに話して良いか、実は判断しかねるのですが……」  目に見えて、シロウが身構えた。真面目に聞こうという姿勢に、私も一つ瞬きをして応 える。 「昨日、凛と一緒にお酒を飲んだのです」 「――自棄酒?」 「多分そうなのでしょう」  シロウが崩れかける。が、まだ話は終わっていない。 「そこで凛が、心の準備が必要だと言っていました。だから多分、隙を突かれた、という のが適切なのではないかと」 「そう、なのかな」 「照れたり困ったりした時に、凛が怒って誤魔化すことは、シロウが一番知っているでし ょう」  う、と喉を詰まらせて、シロウは顔を真っ赤にした。そこで恥ずかしがられても、こち らは反応出来ないが。  私は湯呑みを出し、新しくお茶を淹れてもらった。シロウも私に倣い、自分の湯呑みに 追加する。唇を湿らせて、お互いに少し気を落ち着かせた。 「多少ミスをしたくらいで、そう落ち込まなくても良いのだと思いますよ」 「そっか。……そういえば、俺も遠坂も誰かと付き合うのは、初めてだったっけな。色々 間違ったりするのも、仕方が無いのかも」  しかも、事が性行為に絡むとなれば、尚更だろう。 「ええ、人は間違うものですよ。次は注意すれば良いんです」  それは、考えれば考えるほど、当たり前の答え。でも、ありふれているからこそ、当事 者は気付きにくい。  何度か言葉を転がして、それからシロウは顔を上げた。まだ多少翳ってはいるが、普段 にかなり近い表情になった。 「……そっか、そうだよな。ありがとう、セイバー」 「いえ、お気になさらず」  ひとまずシロウの方は大丈夫だろう。収穫もあったし、今日こちらに来て良かった。自 然と頬が緩んだ。  ふと、柔らかく笑んだシロウが腰を上げる。台所を指差して、軽く私に尋ねた。 「羊羹もっと出そうか? 気も楽にしてもらったし、ご馳走するよ」 「じゃあ、お願いします。この羊羹は美味しい」 「了解」  何となく空気が弛緩したので、それからは二人でだらけながら過ごした。特に何をする でもなく、ゆっくりするのも悪くない。あちらに戻ればまたやることがあるのだし、疲れ は取っておきたかった。  休むだけの時間。シロウは座布団を枕に、横になっている。私は私で、黙々とお茶を啜 っている。お互いに喋らないので、聞こえてくるのは秒針の音だけになった。 「静かですね」 「そうだなあ……」  明るい黄昏。部屋に響くのはどこか優しい、堅実なリズム。チクタクと休みもせず、律 儀なものだと思った。  /  あまり長居もしていられないし、まして早く帰って来いとも言われているので、七時前 には衛宮家を出た。実際の所、夕食の支度をしていなかったため、タイガが癇癪を起こし たのが原因なのだが。  とまれ、恐らくは昨日を引き摺ったままの凛を、一人にしておく訳にもいかない。家路 を急いだ。どこか寄る場所も無ければ、その余裕も無い彼女は、もう家に帰っているはず だ。  果たして、遠坂邸には電気が点いていた。 「只今帰りました」 「あ、おかえり、セイバー」  いつも通りの声がかかる。出掛けに見た時よりも、顔色はずっと良くなっていた。しか し、やっぱり気分は晴れていないらしい。浮かない顔つきで、凛は時計と睨めっこをして いる。時間を気にしている――逢えない時間を数えている、そんな風に見えた。  シロウと一緒ではない放課後、帰宅は早かったはずだ。私が戻る前も、こうして時計を 眺めていたのだろう。凛が自分から動きさえすれば、今回のことはあっさり終わりそうな ものなのに。  台所に行き、手を洗う。シロウから聞くことは聞いたものの、それをどう繋げるべきか 解らない。取り敢えず、思いついたことを何でも話し合おうと決めた。  昨日と同様、ソファに腰を下ろして凛と向き合う。横目が私の方をちらと窺っていた。 あくまでも、自分から訊こうとはしない。  意地っ張りはこういう時に厄介だ。溜息を一つ。 「先程、シロウの所に行って来ました」  それだけで肩が揺れる。無言のまま、凛は緊張感だけを増していく。身構えるだけのこ とでもないのに……いや、ある程度の自覚があるからだろうか。反射的な行動が、シロウ と似ている。  真面目な話になりそうなので、凛がこちらを向くまで待った。こちらの要求に気付いた のか、渋々といった調子で向き直る。でも、指先はかすかにそわそわしていた。早く聞き たくて仕方が無いのだろう。 「悩んでいるようでしたよ、凛のこと」  何から言うべきなのか、判断がつかない。だから、解ったことをとにかく伝えようと思 った。そうすることで、公正な立場にもなるはずだ。 「士郎……何に悩んでるって?」 「多分、凛のことなら何でも、といった所でしょう。昨日は拙い別れ方だったんでしょう し、気掛かりにもなるはずです」  そう、と頷いた凛の頬は、少し赤みを帯びていた。今みたいに素直な反応をすれば良い のに、勢い任せで取り繕おうとしてしまうので、変に話がこじれてしまう。  気付かせない凛と、気付けないシロウ。お似合いなのにアンバランスだ。バランスなん て、二人ならすぐに直せるはずなのに。 「凛も、シロウのことが気になりますか?」 「ん……」  そこでまた、不意に口を噤んでしまう。これが凛の悪い癖。私は焦らずに、彼女が自分 から口にしてくれることを待った。たとえゆっくりした一歩でも、物事を解決していくこ とが今は大事だと判断する。  部屋の沈黙に耐え切れなくなったのか、凛は小さく頷いて見せた。まるで小さな子供の ようで、凛らしくない仕草だった。なのに、ある意味でそれは、本当の彼女に近いのだろ う。その反応に満足する。 「なら、私ではなくシロウにそう言わないと。きっと喜びますよ」 「それは――言わない」 「どうして?」  頑なな態度に、首を傾げる。恥ずかしい、とでも言うつもりだろうか。 「……だって、また頼まれても、自信無いもの」 「自信?」 「こっちにだって、心の準備ってものがあるのよっ」  ああ、それは昨日も言っていたことだ。つまり、一番引っ掛かっているのはその、心の 準備ということになるのだろう。  いつも自信に満ちている凛が、こうして物怖じするのも珍しい。そんなに難しいことを、 シロウは頼んだのだろうか。  しかし――難しくて性的なこと?  何かが噛み合っていない気がする。足りない言葉を探して、私は懸命に手を伸ばす。 「ちょっと待ってください。凛は行動そのものが厭なのですか? それとも、巧くやれそ うにない自分が厭なのですか?」  そうだ、そこがはっきりしていない。シロウと凛の性格からして、前者ならば相手を厭 がらせないように、話が立ち消えになるはずだ。それなのに、受け手である凛はそこまで 厭がっていないし、まだ話を引き摺っている。  つまり、断れば済むだけの話に、凛が一番拘っているのだ。  私の疑問に、凛はむずむずと唇を歪める。もしかして、自分では気付いていないのだろ うか。 「どちらでしょう?」  問いつつも、私の中でもう答えは決まりつつあった。そして、凛はただ首を横に振る。 無回答――解らない。 「じゃあ、私が見た感じの話になりますが、よろしいですか? 正しいか間違っているか は、凛の判断に任せます」  今度は縦に首を振る。本当に、判断に困っているらしい。顔を赤くして、続きをせがん でくる。  当事者だからこそ、余計に見えないのだろう。 「まず最初に。さっきの質問ですが、私は後者ではないかと思っています。凛としては両 方かもしれませんが、どちらかというと後者の方が強いでしょう」 「どうして――そう思ったの?」 「考えてみれば解ることです。恋人が厭だと言うことを、シロウがしつこく強要するとは 思えません。凛なら、シロウの性格は知っているでしょう」 「それは……そう、だけど」  口元に手を当てたまま、凛はしおらしくしている。私は懸命に話を進める。 「たとえば、凛が間違ったことをしようとしたなら、シロウは自他に無理を強いるかもし れません。でも、今回の件を聞いた限りでは、事に正否は無いように感じられます。だか らシロウは、思った通りにしようとはしない」  内容を吟味した後、凛は頷いた。私もその反応に頷く。  続けよう。 「ということは、普通この話はここで終わるはずなのです。にも関わらず、この話が引き 摺られているのは何故なのか」 「どうしてよ」 「シロウがそう拘っていないなら、理由は凛しか無いでしょう。解決しないのは、厭なの にシロウが望むから、ではありません。凛がシロウに応えたいから、終わらないのです。 最初からしなくて良いことに、心の準備は必要ありません。何かしようとするから、準備 が必要なのです。そして、凛が怖がっているのは、自分の行動が巧くいかないかもしれな い、ということではないでしょうか」 「あ――」  凛がはっと息を飲む。落ち込んでいた瞳が、少しだけ見開かれる。ようやく自覚してく れたらしい。  シロウに一番身近だからこそ、もっと相手に近寄りたい。もっと好きになってもらいた い。そのために、自分が出来ることをしようとする。凛が無意識にやろうとして、なのに 見逃していたことは、多分そんな簡単なことだ。  一度意識してしまったからか、凛は折角上げた顔を、また恥ずかしそうに俯かせてしま った。ここまで来たらもう動くしかないのだが、まだ躊躇いは残っているのだろう。素直 になれない彼女を後押しするため、私に何が出来るだろう。  行け、とだけ言うのは簡単だ。時計は九時を回ったばかりだし、時間的にも余裕はある。 でも、それでは事が解決しない。  後一押し――もう一押しなのに。 「まだ、自信はありませんか」 「……解ったからって、簡単にどうこう出来ないわよ」 「失敗したって良いではありませんか。シロウは気にしませんよ」  これは間違い無いと思う。でも、凛はそれに対して、噛み付くように言い放った。 「女としての、わたしの問題なの。失敗はしたくないのよ。相手が士郎だったら、尚更じ ゃない」 「だから、そこが今回のミスなのではないですか」 「っ、どこがよ!」 「素直になれないから、取り繕うから、今回のようになったのではないですか。私にはそ うとしか見えません」  知らず、厳しい口調になってしまっている。でも、気付いてくれないと、どうしようも ない。相手の気性は解っているのに、私も止まれなくなってくる。  幾度と無く、凛は浮き沈みを繰り返す。解りやすい情緒不安定。彼女をここまでさせる 相手は、一体どれだけいることだろう。それが異性となると、一人しかいないはずではな いのか。  だから、凛が自分から動かなければならない。でも、どう踏み出したら良いのかという 所で、彼女は躓いている。そして、次第に苛立っていく。金切り声のリフレイン。 「セイバーはあんなこと頼まれたことないから、そんな風に言えるのよ! 経験なんて無 いでしょう!? わたしだって緊張するし、万能って訳じゃないの! なのに、何だって のよ!?」  罵声。奔流。  その言いっぷりと進展の無さに、私の方にも苛々が募ってくる。どこまでぐずれば気が 済むのか――いや、落ち着かないと。  冷静に、冷静に。怒るな、怒るな。何度か唱える。 「だからって、いつまでもこのままではいられないでしょう。一体、何にそんなに躊躇っ ているのですか?」  感情は抑えたまま、切り出せた。凛はうっと気色ばむ。  ここまで来たらもう、原因に遡らないことにはお話にならない。シロウが言えず、凛が 悩むそのきっかけについて、触れなければならない。本来ならば、二人の深い間柄に突っ 込むべきではないのに、それ以外に道は見えなくなってしまっていた。  凛はあからさまに狼狽えて、視線を迷わせる。ここに至っては私も退けず、答えを待つ しかない。ああまで言われたのだ、納得出来る理由が欲しい。  微妙な空気が流れる。重く苦しい、壊したくなるような沈黙。知らず、掌に汗をかいて いて、スカートに両手を擦りつける。間が保たない、紅茶を準備しておくべきだった。凛 から目を離せない。彼女はなかなか動いてくれない。  凛への不満と、停滞への不安。混ぜこぜで落ち着かない。  言葉が無い。だから、秒針の音だけが執拗に追いかけてくる。いや、追い抜かれている のか。解らない。不思議なほどに、耳の奥で反響している音。  焦る。  ――そして、ついに耐え切れなくなったのか、凛はおずおずと語りだす。 「昨日、士郎が……」 「シロウが?」  安堵混じりに吐き出す。オウム返しにも慣れてきた。  ちらちらとこちらを窺う目は、先程を忘れてしまったかのよう。私は頷いて続きを促す。 数度大きく呼吸をしてから、観念したように凛は搾り出した。 「口でしてくれ、って……」 「……はい?」  間の抜けた声が出たなと、発声してから自覚した。知らず、呼吸が乱れている。  何か今、予想よりもかなり下の方で物事が進行した気がする。聞き違いだろうか。いや、 私が緊張してどうする。だが、もう一度訊いて良いものか。  反応に困っている私に、凛は怒ってもう一度叩き付けた。 「だから! その……ふ、フェラチオをしてくれって、言われたの!」 「はあ……口戯、ですか」  聞き間違いではなかったようだ。  反芻する。シロウが苛まれ、凛がぶつかった壁の名前は、フェラチオというらしい。  紅茶を準備していなくて良かったな、と思った。 「そ、そうよ! 悪い!?」 「いえ……」  悪いも何も。  とんでもないことが来るかもしれない、と身構えていたので、気が抜けたと言うか。む しろ、それを聞いて一気に疲れてしまった、と言うか。  私は軽く瞼を下ろし、自分をさっきの状態まで戻そうとした。が、あまり巧くはいかな かった。仕方が無いので、そのまま突っ込む。 「ええと、それが今回の騒動の発端ですか? 良かったらもう少し詳しく教えてくれると、 助かるのですが」  思考の整理が覚束無い。きっと、もっとこう、劇的な展開があるのではないかと。  まあ待て。まだ最後まで聞いていない。結論には早いはずだ。  色々と頭の中で算段を立てながら、私は続きをせがむ。顔を羞恥に染めて、それでも凛 は教えてくれた。 「詳しくって……、ええと、その。シロウが口でしてくれないか、って言って」 「ふむふむ」 「で、わたしが厭だって言ったら、解ったよゴメン、って。士郎はそこで、あっさり引き 下がったの。でもそんなの、最初から期待されてないみたいじゃない。だから……」 「もしかして、それで怒ったんですか?」  目の前で首肯一つ。  ――眩暈がする。絶息しそうだ。  別に何も悪いことをしていないシロウが、とても不憫になった。彼には逃げ場など用意 されていなかった。なのに、凛にはいきなり怒られて、私には喧嘩がどうこうと詰め寄ら れたのだ、さぞや困惑したことだろう。事情を知らなかったとはいえ、悪いことをした。 後で謝らなければならない。  でも、今はそれ以上に、凛に言わなければならないことがある。  流石に私としても、こればかりは。 「……凛」  ああ。ああ、もう。  もう。 「な、何よ」 「――馬鹿ですか貴女は! 馬鹿ですね!?」  もう容赦しない。いや出来ない。出来ようか。  だいぶ無理。  あれだけ人を罵倒しておいて、オチがそれでは私だって怒りもする。肝心な所でミスを することは知っていたが、幾らなんでも限度がある。普通に断れば済むものを、何故怒る のか。まるっきり馬鹿げた騒動ではないか。  しかし、凛は非を認めずに、すぐさま沸騰した。 「な……言ったわね、セイバー!」 「言いますよ流石に!」 「だったら、アンタはフェラチオ出来るって言うの!?」 「やり方くらい知ってます! 知ってたらどうだって言うんですか!」  空気が凍る。凛がどのように推察していたかは解らないが、私とて殿方の喜ばせ方くら いは知っている。そうした状況になったのなら、私なりに色々出来たりはするのだ。  予定は無いけれど。 「な、何で知ってるの?」 「さて。時代が時代だった、と言えばそれまでですが。私が女であることを認めるかとは 別に、知識というものはありますし」  因みに、今は女だということを否定してはいない。だからそう、知識が無いよりは良か ったかな、くらいに捉えている。  さておき。目に見えて怖気づいた凛に、私はどんどん踏み込んでいく。 「どんな凄いことを頼まれたのかと思えば、口戯ですか。経験の有無を問うておいてこれ ですか。そうですかそうですか」  凛が小さくなっていく。今更遅い。  ソファに埋もれるように、凛は後ろに下がっている。私は腰を浮かせて、その腕を掴ん だ。無理矢理に引き立てる。 「いいですか、凛」 「は、はい」 「口戯の基本は、吸う、舐める、転がす。それだけです。困ったら全部いっぺんにやって みなさい。はい、忘れないうちに三唱する」  戸惑う凛をドアへと引っ張っていく。そのまま居間から出て、玄関へと向かう。今なら まだシロウは寝ていない。歩いたって間に合う。  背中を押してダメなら、もう蹴っ飛ばすしかない。これ以上、引き伸ばしてなどいられ ない。 「え、え」 「早く。吸う、舐める、転がす」 「は、はいっ。吸う、舐める、転がす。吸う、舐める、転がす……」 「やっぱり馬鹿ですね」  普通は言わない。  玄関の扉を開く。同時、発言にかっとなった凛が、手を振り解こうとする。私は素直に 手を引き、すっと凛を外へ押し出した。  すぐさま扉を閉め、鍵をかける。 「ちょ、何するのよセイバー! 開けなさい!」 「まだまだ夜は長い。でも、私は寝ます。おやすみなさい、凛」  これで行ける所は衛宮家くらいだろう。  聞くに堪えない喚きが聞こえたが、耳は貸さなかった。居間に戻り、優雅に紅茶を啜る ことにする。  時計で朝までの余裕を確認する。睡眠に六時間充てるとしても、二人の時間は充分にあ る。  ティーポットにはいつものように、紅茶が入っていた。少し冷めたそれを味わいながら、 つらつらと祈る。  あの二人が、せいぜいいちゃいちゃしてきますように。                                    つづく


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