「遠坂 凛、ホワイトデーに奮戦す」

作:いーの






始めに
 本作品は、Fate/stay night≠ノ全女性キャラクターと士郎が生存するようなエンドがあったものとしています。
 各ルートの主要エピソードは、一部を除いて、取り入れられている事にしておいて下さい。実際にはかなり無理があるのは承知の上ですが、よろしくお願いいたします。




プロローグ

――冬木市深山町 衛宮邸 深夜
 ゆっくりと、静かに、座敷のふすまが開いた。廊下の薄明かりが部屋の中に入り込み、二つのふとんが並べられているのを浮かび上がらせる。
「ただいま」と、小声で言うと、穂群原学園の制服を着た遠坂 凛は、同じく学校指定のコートを腕にかけて、疲れた表情で座敷に入ってきた。「桜、もう寝てる?」
「お帰りなさい、姉さん」と、間を空けずに二つ並んだふとんの片方から、間桐 桜が凛を迎えた。「どうでした?」
 凛は、聖杯戦争の終結を受けて、ロンドンにある魔術師協会本部――通称、時計塔――から派遣されてきた魔術師と、事後処理の件で、打ち合わせをしていたのだ。
「ん、今度来た奴も神父で聖刻教会とのふたまただけど、大丈夫みたい。事後処理も引き継いで、いっしょにやってくれるって」凛は、身体を伸ばして天井から下がった電灯の豆球を点けると、部屋の隅に置いてあったバッグに入れてあった寝巻きに着替え始める。薄暗い中で、凛の細い裸身がほの白く浮かび上がった。「う、寒い」
「そうですか、良かったですね」と、桜は凛の裸身から目をそらして、ほうと息をつく。
「正直言って、助かったわ」凛が着ていた制服は、しわにならないように伸ばしてはいるものの、行儀悪い事にポイポイと部屋の隅に放り出される。下着はくしゃくしゃと丸めて、バッグに突っ込まれる。「教会方のつては、わたしも手探りだったし」頭の両側のリボンをほどくと、二房の髪がパサリと落ちた。
 パジャマに着替えた凛は、桜の隣のふとんに脚を入れた。「冷たいっ」
「それで、私たちの事は?」
「ん、出先まで細かい話は伝わって来てないみたいだけど、魔術師協会本部{とけいとう}としては、わたしたちマスターの聖杯戦争中の行為については、おとがめなしじゃないかしら」
「それで……いいんですか?」
「桜、勘違いしてない? 魔術師協会の考える罪は、世間一般の考えるものとは違うわ」
「それは……そうですけどっ」
 凛は、桜が入っている隣のふとんを見た。暖かそうである。
「桜、あっためて」と、桜のふとんに身体を滑り込ませた。
「ね、姉さん?――ひゃっ!」冷たい感触に、桜は身を引く。
「ん、あったか〜〜〜〜い」凛は、桜の標準より大きな胸に手を押しつけた。
「む、逃げるな、暖房器具!」凛は、逃げようとする桜の身体に腕を回す。
「つ、冷たいですっ」
「だから、あっためてって言ったじゃない」
「あう……」凛に抱きすくめられてしまう、桜。
「それで、神父が引き継いでくれるってことだし、士郎にも言ったんだけど、わたしは明日から学校に行くことにしたわ」
「え? もうですか?」
「しょうがないじゃない。今頃は、わたしのメモが、神父を通じて魔術師協会本部{とけいとう}に着いているころだわ。神父との話の感触からすると、報告のためにあっちに召喚されるのは避けられないでしょうし、穂群原学園一の優等生としては、すこしでも出席を稼いでおかないとね」
「せ、先輩はどうするんです?」
「さあ? 士郎がどうするかなんて、わたしが学校に行く行かないには関係ないもの。もっとも、藤村先生は復帰しているらしいし、わたしが学校に行くんだから、あいつが学校に行っても不思議はないでしょうね」
 桜は、その顔に迷いを浮かべた。「わたし……」
「桜は、気にしなくてもいいわよ。慎二の世話だってあるんでしょ?」凛は、桜に回していた腕を解いた。
「それはそうですけど……」と、桜の迷いは深い。「兄さんは、まだ意識を取り戻しそうにないですし」
「これは、あなたが決めなさい。士郎もわたしも、何もしてあげないから」
「はい……」桜は内心の葛藤を表すかのように、消え入りそうな声で答えた。
「で、どうするの、桜?」
「……はい、わたしも学校に行きます」ようやく、桜は凛に答えた。
「そう……じゃあ、みんなして10日ぶりに学校に行く事になるのね」
「そう、そうですね――ああっ!」と、ガバッと桜がふとんをはねのけて身体を起こす。
「どうしたの?」凛は、桜がはねのけたふとんを、自分の方に引き寄せてくるまった。せっかく暖まっていた空気が逃げてしまっている。
「明日は、19日ですよね?」
「ええと……そうなるわね?」それがいったい何?≠ニでも言いたげな表情で、凛は桜を見返した。
「バレンタインデーです! 5日も過ぎちゃってます!」桜は、もどかしげに立ち上がって、座敷を出ようとする。
「待ちなさいって」凛は、弱いガンドを桜の脚めがけて放った。
「きゃ!」脚をもつれさせた桜が、床に顔から落ちる。大きな音が衛宮邸を揺るがせた。
「――!」怒りをあらわにして、桜は凛の方を振り返った。だが、鼻が真っ赤になっている滑稽な姿では、あまり凛に与えるプレッシャーは大きくない。
「落ち着きなさいって、今からチョコなんて買いに行けると思ってるの?」
「……はい」納得したのか、桜は、よつんばいで自分のふとんに戻ってきた。
「大丈夫よ、落ち着いて、明日にでもチョコをあげれば大丈夫だって」ふとんの片側をめくりあげて、桜を中に迎え入れる。
「そうでしょうか?」
「ちょうど、あの時はどたばたしていたからね。士郎の事だから、バレンタインデーなんて存在自体忘れてるわよ。賭けたっていいわ」凛は笑いをもらした。「ホント、士郎については、あなた分かりやすいんだから」
 桜は真っ赤になった。
「ま、桜は、いいことを思い出させてくれたわ。わたしも士郎にチョコをあげる事にしよっと」
「はうっ」
「どうしたの? 桜が言い出したことでしょ?」ふふん、と鼻を鳴らす凛。「わたしだって、忘れていたんだから。騒いで思い出させたあなたが悪いのよ」
「姉さん、いじわるです。先輩が言っていた通り、あくま≠ンたい」
「ちょっと、あくま≠チてどういうこと?」
 凛の眼が、暗がりの中で何か光っているような気がして、引いてしまう桜。「え? いや、別に、なんでもないデスよ、姉さんの聞き間違いじゃないですか」
「い〜や、確かに言った!」
「ね、姉さん!」桜はさらに身を引こうとして、背中に当たる冷気から、ふとんから出そうになっている事に気がついた。
「ふふふふ、おとなしく認めた方が身のためよ〜〜〜」手をわきわきとさせながら、桜ににじり寄る凛。 「あううう……」進退きわまって、身を縮める桜。
「それっ!」
「きゃっ!」
 遠坂は桜の抵抗を物ともせず、体のあちこちをくすぐった。
「それぇそれそれ! 白状しなさい、士郎がわたしのことをなんと言ったって?」
「助けて! ……先輩、先輩っ!」
「士郎は土蔵で鍛錬中よ、声なんて聞こえないわ。おとなしく自白なさい」
「やっ! 姉さん、く、くすぐったい、いやっ!」
 凛は、くすぐるのをやめて、桜を後ろから抱きすくめた。「ほうら、士郎が、わたしの事をなんと言ったって?」
「ううう」
「もう一度、くすぐって欲しい?」と、桜の胸の弾力を楽しむように、そのあたりをまさぐる凛。
「うううう――先輩ごめんなさい――聖杯戦争が始まった頃に、どんな人ですかって聞いた時に、あかいあくま≠チて言いかけたことが……」
「ふ〜ん、士郎がそんなことをねえ……」にやりと笑う凛。「士郎のくせにな〜まいき」
「お願い、姉さん、あんまり先輩にひどいことをしないで……」背後の不穏な気配を感じたのか、桜は姉に頼む。
「大丈夫よ。今までだって、別にけがをさせるとかそんな事はしてないわよ。ちょっと、つついてあげるだけ。心配いらない。誓ってもいいわよ」と、当人が聞いたら、反論の一つも出そうなことを、凛は言う。
 桜は、そこまでは解らないので、ほっと息をつく。彼女は、凛の腕から逃れようと身じろぎをした。「あの、姉さん、そろそろ離して……」
「ん〜、桜って、わたしより肉づきがよくて柔らかいのよね……」と凛は、桜のうなじに顔をうずめた。「きれいな肌だし、うらやましいわ」
「!」と凛の腕の中で、桜の身体が跳ねるのがわかった。「……あ、あの、姉さん?」声に恐怖が混じる。
「ごめん」桜の恐怖を感じ取った凛は、桜の身体を解放した。
 思わず、桜は凛から身体を離した。凛に向き直った眼には、涙がにじんでいる。
「ごめん、桜。ふざけすぎたわね」凛は、冷たいままの自分のふとんの方へと帰って行った。桜とのもみ合いの余波で乱れてしまったふとんを、足を使って整える。
「姉さん……」
「ほら、一緒に寝るって、ものすごく久しぶりじゃない? だから嬉しくって、ついはしゃいじゃった。昔は、お互いの部屋に行っていっしょのベッドで寝たりしていたのよ。おぼえてない?」
 桜の眼から、涙があふれ出してきた。
「ちょっ……どうしたの桜?」
「すみません、姉さん。遠坂のお屋敷にいた時のことは、ほとんどおぼえていないんです。間桐にいる間に、薄れてしまって……」
「いいのよ」凛は再び桜のふとんに入ると、彼女を正面から抱きしめた。今度は、やさしく包むように。
「いいのよ、そんなこと気にしないで。思い出なんて、これから作っていけばいいんだから」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」桜は、凛の胸に顔をうずめた。涙の暖かい感触が、パジャマにしみ込んでくる。
「あ〜あ、こんな顔、士郎には見せられないわね」桜がひとしきり泣いたところで、涙だけでなく、鼻水でもぐちゃぐちゃになった顔を、見て笑う。
「せ、先輩っ!?」しゃくり上げながらも、桜は顔をふこうとして、パジャマの袖を――。
「やめなさいって」凛がその手をおしとどめた。周囲を探してティッシュペーパーの箱を見つけた。こういう所には、士郎はそつがない。ふと、アーチャーもそうだった事を思い出す。
 ティッシュを数枚引き抜いて、桜に渡す。
 桜が、音を立てて鼻をかんだ。凛は追加のティッシュとして、桜の手の届くところに箱を置いた。
「どんなに泣いていても、士郎には見せたくないものがあるって、桜も恋する乙女ね」
 また、桜が涙を浮かべる。「わたし……乙女なんかじゃないです……穢れてしまってますから」
「士郎は、そんなこと気にしてなかったじゃない。知っていて、それでもあなたを助けたんだから」
「あ……?」
「いい? 恋する女は乙女」魔術の法則を士郎に告げるのと同じ口調で、凛は断言した。
 桜を抱き締める腕に、ぎゅっと力を込める。柔らかい弾力が、少し悔しい。
「まあ、桜が自分からリタイヤしてくれるって言うなら、わたしとしてはありがたいんだけど?」
「わたし……わたし……」
「士郎はわたしに憧れていたらしいし、桜が棄権なら、わたしが一馬身リードってところかな? 見てなさい、アーチャーとの約束だし、士郎はわたしが幸せにしてやるんだから」
「だめ!」という声は、桜自身が驚くような大声になっていた。「わたしだって先輩が好きなんです。だから先輩を幸せにするんです。それが私の幸せなんです。姉さんのように先輩をいじめるような人は、先輩を幸せにできません!」
「言い切ったわねぇ……」
 桜は、凛の声で自分が何を言ったのか意識すると、真っ赤になってうつむいた。
「だったら、めそめそ泣いてないで、前向きにがんばんなさい。大体、そんなことで引いてたら、士郎を侮辱する事になるんだから。
 もっとも、この件に関して、わたしは譲るつもりはないわよ。それはイリヤもセイバーも同じでしょうけど」
「は、はい……」
 凛は、桜をもう一度抱き締めると、自分のふとんに戻った。「ん、やっぱり、士郎に頼んでふとんを並べてもらったのは正解だったわね」士郎を土蔵に閉じ込めて、女の子だけでふとんを並べて、パジャマパーティーをするのもいいかもしれないなどと、凛は思っている。
「……ありがとうございます、姉さん」桜は、新しいティッシュで目元をぬぐった。
「おだてても、何もでないわよ」凛は、身体の向きを天井の方に向けた。
「明日は早いし、そろそろ寝ましょうか」
「はい、おやすみなさい、姉さん」
「おやすみ、桜」
 二人は2度目の挨拶を交わし、今度は眠りに落ちていった。
 ――わたしたちがチョコを渡したら、イリヤもセイバーも、きっとだまっちゃいないわね。覚悟しときなさいよ、士郎。チョコで溺死させてあげるから。

 この時はまだ、凛にとってのバレンタイン・デーは「あげる」ものだった。






 300年ほど昔に、遠坂、間桐{マキリ}、アインツベルンの当時有力だった3つの門派が、その持てる魔術を結集して、霊的条件の揃った冬木の地に設置した聖杯――ゴルゴダの丘で磔刑に処せられたというキリストの血を受けた杯であるが、冬木の地にあるのはレプリカという位置づけになる――所有者の願望をかなえる事ができるという願望機の利権を巡って行われてきた闘争、聖杯戦争。
 その聖杯戦争は、今回、冬木の地下深くに設置されていた大聖杯を封印することで、永遠に終結したが、聖杯戦争のために呼び出され、生き残った使い魔{サーヴァント}達は、この世界に留まることを選択したのだった。

――衛宮邸 朝
 衛宮士郎、凛、桜の3人は、玄関を出て、見送りに出てきた二人の少女達の方へ振り返った。
「リンもサクラもずるいんだから。わたしも学校行きたいっ!」と、留守番を仰せつかった、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが、何度目かの不満の声を上げた。士郎のズボンをつかんで引き止めようとする。
「そういうわけに行かないよ、イリヤ」と、士郎は、顔をしかめつつしゃがむと目線をイリヤに合わせてなだめる。「学校は、生徒が魔術とは関係ない勉強をする場所だから、イリヤを連れて行くわけにはいかないんだ。それに、誰か魔術師がこの家に残っててくれないと、いろいろと、後片付けにさしつかえが出ないとも限らないし」
「むーっ、それは解ってるけど……」


「勉強と関係のない時に、連れていってやるから、それまで待っててくれよな」
「イリヤ、あまりシロウを困らせる物ではありません」もう一人の見送り組、凛のサーヴァント、セイバーがイリヤの肩に手をかけた。
「はぁい」イリヤは、しぶしぶ士郎のズボンから手を放した。「早く帰ってきてね、シロウ」
「ありがとう、イリヤ」と、士郎は立ち上がるとイリヤの頭をなでた。「留守番を頼むよ」
「もうっ! レディの頭を気軽になでないでっ」
「ごめんごめん――セイバー、後はたのむ。お昼は、セラさんたちに頼んであるから」
「シロウ、くれぐれも、気をつけてください」セイバーは心配そうな顔で、元々、彼女を召喚した魔術師{マスター}である士郎を見る。
「大丈夫だよ、聖杯戦争は終ったんだし」と士郎は、軽く手を振って彼女の心配を笑い飛ばした。
「何よセイバー、マスターたるわたしのことは、心配じゃないってわけ?」凛が、セイバーにつっこんだ。いろいろあって、現在のセイバーの召喚主{マスター}は凛ということになっている。
「い、いえ、そういうわけではありませんが……いえ、おっしゃる通り、リンなら安心していられます。マスターとして繋がっていますし、魔術師として一人前ですから」
「ふふ、うまくごまかしたわね――まあ、クラスは違うけど、ちゃんと士郎の事は、気にしといてあげるわよ」
「何かあれば、サクラが私を呼ぶでしょう。私が駆けつけますから、あなたやイリヤの到着まで、事態をもたせることくらいはできます」桜のサーヴァントであるライダーも、見送りに出てきてしまった。石化の魔眼封じとして、宝具で眼を覆っているという異様な姿なので、外に出るのは避けるように桜が言い聞かせていたのだが。
「あなたは、私の能力を疑われますか?」
「……いえ、そのようなことはないです」わずかにためらってから、セイバーはサーヴァント中で最も速度性能が大きい、ライダーの言葉を認めた。
「ならば、もう、桜達を出発させてあげるべきでしょう。学校は時間制限があるのでは?」
「そうですね」セイバーは、上目使いでライダーの方を睨みながらも、一歩引き下がった。
「いってらっしゃい、サクラ、シロウ」
「いってきます、ライダー」
「ありがとう、ライダー」
 3人の見送りを受けて、士郎たちは門を出た。イリヤが角を曲がるまでの間、表で手を振ってくれていた。

――穂群原学園 校門
 穂群原学園への坂道を、他の生徒に混じって登りきった。
「さすがに、きついな」と、士郎が珍しく弱音を吐いた。
「別に、士郎は休んでても良かったのに」


「それはそうかもしれないけどさ、遠坂が学校に行っているのに、自分だけ休んでいる気になれなくて」


「あら、そんなにわたしと学校に行きたかった?」凛は士郎に、するりと腕を絡めた。
「おわっ!?」と、士郎は大げさなリアクションを起こして、飛びのいた。急な運動に筋肉が悲鳴を上げたため、動きを止めて痛みをやり過ごそうとする。
「と、遠坂先輩!」桜が、二人の間に入り込むように進み出た。うつむき加減に凛をにらみつける。
 周囲の視線が3人に集まり始めた。
 凛は、自分達の学校におけるポジションについて、すぐに思い至った。ここで、そのポジションを放棄してしまうのは、ちょっとまずいかもしれない。
「はいはい、先輩ををいじめないでって言うんでしょ? ちょっとからかっただけじゃない」そういって、校舎の昇降口の方へ先に歩いてゆく。
「あ」と、それを眼で追っていた桜が、昇降口の方を指差している。
「どうしたの、桜?」凛は、桜の声に振り返ると、彼女の指差す方に眼を向けた。「げ、葛木……」と絶句する。
 校舎の玄関で、士郎の友人である柳洞一成が、生き残ったサーヴァントの最後の一人、キャスターのマスターである葛木宗一郎と会話している。いや、会話していること自体は、生徒会長と生徒会顧問の関係だから不思議でもなんでもないのだが。
「あれだけボロボロにして、リタイヤさせたのに平気な顔して出てきてるなんて、あいつ化け物?」と、いうわけだ。
「キャスターの治癒じゃないのか?」
 あの眼光に射すくめられた事を思い出したのか、桜は、凛の後ろに隠れるようにしている。
「何をしておる、衛宮!」葛木との会話を終えた柳洞が、士郎達の方を見て、すっとんきょうな声をあげる。「しばらく登校して来ないと思ったら、事もあろうに、そのような女狐と登校するとは何事か!」
「あら、柳洞君、ごあいさつですわね。間桐さんと一緒に歩いていたら、間桐さんの先輩である衛宮君と下の交差点でお会いしたのでお誘いしたのですけど、何か問題がありまして?」遠坂邸と間桐邸が同じ道に面していることはよく知られていた。深山にある他の洋館とは違って、公開はしていないが、観光コースに含まれるほどで、凛の説明には説得力があった。
「ぐ……いや、そのような言葉にはごまかされんぞ! 貴様の事だ、衛宮を奸計に欠けようとしているのではないか?」
「いいかげんにしていただけませんか? じゃあ、衛宮君にお聞きになったらいかが?」
 柳洞は士郎の方を見た。
 話を振られた士郎は首を振る。「いや、別に世間話だけで、特に何もなかったぞ」
「おわかりかしら?」
 凛は、柳洞を黙らせると、上履きを取り出そうと下駄箱の蓋を開け、そのとたんに中からあふれ出てきた色とりどりの包みの山に、固まった。
「姉さん、これって……」
「どういうこと? 何かの嫌がらせ――まさか! あんたじゃないでしょうね?」一瞬、本性をむき出しにして凛は柳洞をにらみつける。
 その表情にたじろぎながらも、柳洞は反撃の機会を逃さなかった。「ふふん、2月14日の意味も解らぬとは、女として失格なのではないか、遠坂」
「ああ、バレンタインデーがあったのか」と、士郎は柳洞の言葉に、聖杯戦争中に通り過ぎていたイベントのことを思い出していた。
「先輩っ、ごめんなさい!」桜は、慌てて士郎に頭を下げた。「今年は、忘れていたわけじゃないんですっ!」
「気にしなくていいよ、桜。お互い、ちょうどその時に大変だったんだから」
「それじゃあ、わたしの気がすみません、遅れた分、気合いを入れて作らせてもらいますから、受取ってくださいね!」
「まさか、バレンタインデーのチョコを、わたしがもらうことになるとはね」原因に思い当たって、凛の言葉から感情が消えていた。彼女は、下駄箱の中に残っていたチョコとおぼしき包みをかき出しながら、後ろで士郎に対してポイントを稼ごうとしている妹に、敵愾心を燃やしていた。






 予想通り、魔術師協会本部{とけいとう}に召喚された凛は、魔術師の求めてやまない根源の渦を封印してしまったことと、隠蔽困難な魔術的現象を生じさせたという冬木の管理人としての責任を問うために、査問会にかけられる事となった。幸い、度重なる聖杯戦争でのルール違反を種として、今もなお有力門派であるアインツベルンを味方に付けたことと、思いがけなくも査問会場に現れた遠坂の大師父、魔法使い≠アとキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの口添えにより、からくもそれを切り抜けることができた。
 査問会は凛にとっては非常に重いものだったが、事が大きくなったおかげで、日本にいる蒼崎とわたりが付き、ライダーの魔眼を封じることのできる眼鏡を入手できたのは、物事には、表裏一体の事象があるという好例だろう。

――衛宮邸 ほぼ3週間後
 魔術師協会本部{とけいとう}で、とりあえずの事後処理を終えて凛が帰国したのは、3月も中旬になろうかという時期だった。
「ああっ! ほんとにこの役たたずがっ!」と衛宮邸の居間に凛の罵声が轟く。
「……面目ない」と士郎は、凛に頭を下げた。
「いい? 授業のノートってのは、板書を書き写すだけじゃ駄目なのよ! こんなのじゃ何の役にも立たないじゃない」居間のテーブルを叩き、うがーっ! と士郎に噛みつきかねない勢いで詰め寄る凛。  凛の顔が間近に迫って来たので、士郎は、顔を赤くして後じさる。
「逃げるな! あんた、わたしを留年させたいわけ?」凜は士郎を壁際に追い詰めた。
「リン、私の記憶が正しければ、あなたはシロウにノートの取り方については何も指示していませんでした。今になって、それをとやかく言うのは公正さを欠いているのではないですか?」見かねたセイバーが、口をはさんだ。
「う……」と、言葉に詰まる凛。どうやら思い当たる節があったらしい。床にぺたんと座り込んで、うつむいてしまっている。
 士郎は、凛から距離を取ると、胸をなで下ろすようなしぐさをした。それが、彼女の嗜虐心を呼び起こす。彼女はにっこりと笑うと「いいわエミヤ君、それなら、わたくしの試験勉強に付き合ってくださるわよね。授業には出ていたんだから、先生の講義の一部くらい、わたくしに教えることはできるのではなくって? これから、試験が終わるまで、みっちりやらせていただきますから」
「ええっ!」と声を上げたのは、士郎だけではなかった。セイバー、桜、イリヤも声を上げている。ライダーだけは、片方の眉を上げる事に留めていたが。
「そんな、毎晩の剣術は……」
「リン、シロウを独り占めするなんてズルイ!」
「あ……」
 桜が何かを言おうとした時に、行儀悪く、寝っ転がってテレビを見ていた大河が口をはさんだ。「ちょうどいいじゃない、士郎、遠坂さんが勉強見てくれるなら、お姉ちゃん安心だわ」
 名目上、この家の監督役である大人の意見に、凛は勝ち誇った笑みを浮かべる。
 士郎の頭の中に、試験前に大河にさんざ引っかき回された記憶がよみがえる。「ばっ――そんなこと言うなら、なんで今まで何もしなかったんだよ!」
「う〜〜〜〜っ、あたしだって、こんなこと言いたかないけど、士郎の成績、あんまり良くないんだもん。さすがにこのままだと、お姉ちゃんいけないかなあって思うんだわ。でも、試験前にあたしが士郎の勉強見るのは不公平だし〜」
 言葉に詰まってしまった士郎を、セイバーとイリヤは冷ややかな眼で見る。士郎の自業自得と言えなくもないからだ。冷たい視線の十字砲火に、士郎は恐縮して縮こまった。
「まあ、夕食の時間プラス1時間くらいは、勉強以外の事をやらせてあげてもいいわよ」と、凛は優越感につつまれながら、その場にいるライバル達を見渡した。
「せ、先輩! その勉強会に私も参加させてください!」と、桜が勢い込んで手を挙げる。
「さ、桜?……そうだな、慎二の看病もあったし、桜も成績が心配だものな」
 ちっ、と展開が読めた凛が舌打ちする。
「遠坂、桜が参加してもかまわないよな」
 抵抗は無駄と、凛はあっさりと桜の参加を認めた。「ああ、わかったわよ、桜の分も面倒みようじゃない」
 してやったりと、桜が暗い笑みを浮かべる。
「あたしも参加するうっ!」とイリヤが大声を上げる。
「イリヤは学校に行ってないじゃない。こっちの勉強には邪魔にしかならないでしょ」と、凛が突っ込みを入れた。
「むーっ!」と、イリヤは頬を膨らませた。「シロウ、あたしも参加していいよねっ!!」
 士郎は、それには答えなかった、いつの間にかカレンダーを見ていたのだ。
「シロウ!」
「あ、ごめんイリヤ。ちょっと考え事をしていた――遠坂、勉強会はあさってからでいいかな?」
「どういうつもり? 試験は週明けからでしょう。あさってって……木曜? こっちは一日でも惜しいのよ」
「え〜と……」士郎は言いよどんだが、意を決して口を開いた。「明日はホワイトデーの準備をしなきゃいけないんだ」
 凛は虚を突かれて、ぽかんと口を開けたままで固まった。他の女性たちは、ピクリと反応する。大河でさえ、テレビから視線を外して、士郎達の方を見た。
「そっか……そうよね」
「去年までは、藤ねえと桜だけだったけど、今年はセイバー、イリヤ、ライダー、リズさんやセラさんからも、もらえたから」
 桜が、遅ればせながらとチョコを渡すのを見た彼女達は、後れを取るまいと士郎の前にチョコを積み上げたのだ。イリヤのお付きの――イリヤと一緒に藤村家に住み込み、今やお手伝いと化している――リズことリーズリットやセラは、どちらかというとお付き合いに近かったようだが。
「シロウ、ありがとう!」反応良く、イリヤは士郎の首にしがみついてくる。
「シロウは何をくださるのか――いえ、それは当日になれば解ることでしょうから、聞かないでおきましょう」聞きたいけどがまんしています、という顔でセイバーも言った。
「……」しばらく、士郎を見ていた凛の表情が、だんだんと険しくなってきた。
 その表情に気づいた士郎は、イリヤを引きずったまま、彼女から遠ざかろうと再びあとじさる。
「ちょっと衛宮クン? わたしのはないのかしら?」冷ややかに凛が自分の分を主張する。
「姉さん! いくらなんでも虫がよすぎます」桜が膝立ちになって、凛を非難する。
「サクラの言う通りです」ライダーが口をはさんで来た。「ホワイトデーは、バレンタインデーのお返し≠セそうですから、送っていない方がもらおうとするのは、出過ぎた事ではありませんか?」
 凛は、桜とライダー主従に敵意のこもった視線を送った。「いいわ、そこまで言うんだったら、わたしにも考えがある」本当は、二人だけの時に士郎の反応を見たかったのだが、しょうがない。楽しみよりもプライド優先。
 凛は、居間の隅に置いてあった自分のバッグを取り出した。その中から、茶色の包みを取り出す。「はい、テリーズのオレンジチョコよ。ロンドンに行く前に言っておいたでしょ、ちゃんとあげるって」
「あ、あれ、そういうことだったのか? てっきり、おみやげのつもりだと……」
 皆の視線が集まる中、凛は士郎に、包みを手渡した。さすがに妨害までしようとする者はいない。
「あっ!」と、大河が驚いたような声をあげた。「それ、ネコが買ってきてくれたことがある! 確か、18世紀創業とかっていうお菓子屋さんだよね! あれおいしかったんだ〜〜〜〜」
「すまん、遠坂。遠坂にもお返しさせてもらうよ」
 よろしい、と凛は大きくうなずいた。
「ねね、士郎、士郎」大河が、士郎のところへと這い寄って来た。「おねえちゃんに、そのチョコちょっと分けてくれない?」それはもう、よだれをたらさんばかりの顔。
 困った顔で、士郎は凛の方を見た。
 凛は、おおげさなジェスチャーで肩をすくめる。「わたしはいいわよ。最初の一個を士郎が食べてくれればね」そう言って、再び余裕の表情で大河以外の女性陣を見渡した。周囲からつきささる、敵意のこもった視線を、跳ね返す。
 別の、大きな紙包みを凛は取り出した。「おみやげはこっちのクッキー、これはみんなで食べましょう」
 セイバーが、期待を込めた眼で紙包みをみつめる。
 士郎は、チョコをひとかけらつまんで口の中にいれた、オレンジの甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。「じゃあ、クッキーとチョコをみんなで食べよう。お茶を――紅茶の方がいいかな」
「紅茶なら、わたしがやるわ。せっかくのロンドン土産なんだもの、士郎の紅茶じゃもったいないわよ」凛が、士郎を制しながら立ち上がって、台所の方に入って行った。
 くやしいが、凛が下した評価のとおりなので、士郎は座ったままで遠坂を見送る。
「あ、だったらお皿がいりますね」桜も立ち上がって、台所に入って行った。
 勝手知ったる他人の家、というわけで、こうなると士郎にはやることがない。
「しろ〜〜〜〜」大河はあおむけに寝転がって、口を大きく開けてチョコをねだる。
「わかった、わかった」大河の口にチョコを放り込む。もきゅもきゅと食べているのを見ていると、この姉貴分は虎ではなく、鯉のように思えてしまう。
「うう、おいしいよう」感涙にむせぶ大河。
「シロウ」背中にもたれかかったままだった、イリヤがあ〜ん≠ニ口を開けてチョコをねだる。
 士郎は肩ごしにチョコをひとつ、イリヤの口に入れてやった。
 テーブルの所に残った二人が、一瞬、けわしい表情を見せる。
 イリヤは、口の中でチョコを転がした。「なかなか、悪くないわね」
 テーブルの方に見下したような視線を向けて、そちらにいた二人を煽る。
 桜が、大皿を持って戻って来た。
 士郎は、「もう一個〜」と、再び口をぱくぱくさせている大河のそれに、チョコを放り込む。「それくらいにしておけよな、藤ねぇ。みんなで食べるんだから」
 イリヤの腕をほどくと士郎はテーブルのところに戻り、その上に散乱している授業のノートを片づけて、桜が皿を置くための場所を開ける。
「そういえば桜、士郎のお菓子の腕ってどれくらいなの?」凛が、カップを乗せたトレイをもって来た。「去年とか、もらったんでしょ?」
「はい……ええと、去年はチョコで、一昨年はクッキーでしたけど……正直、あまり……」と、桜は言葉を濁した。その反応に、ライダーが片方の眉を上げる。
「そうなのですか?」士郎の持っているチョコを睨んでいたセイバーが、残念そうな顔で、視線を士郎の方に移した。
「しょうがないじゃないか、お菓子なんて造る必要がなかったんだからな」
「しろ〜はね、桜ちゃんにチョコをもらうようになってから<zワイトデーのお返しを手造りし始めたんだよね〜」と、一足先にチョコを堪能した虎あらため鯉が、身体を起こして口をはさむ。
「なっ……」桜の顔に朱がさす。
「私しか、士郎にあげてなかった時は、ホワイトデーのお返しが、ペロペロキャンディーだったこともあるんだよ〜〜。あの変わりようはねえ……」と、目を閉じてわざとらしくため息をつく。「お姉ちゃん、ちょっと悲しかったなあ」
「やるに事欠いて、スーパーで売ってるプレッツェルにチョコをかけた駄菓子{ポッキー}を、バレンタインデーによこすような手合いに、手をかける必要を認めなかっただけだ」
 ふ〜んと、凛はにやにや笑いを士郎に印象づけると、台所に戻った。
「正直言いまして、サクラにあそこまで言わせるとは、少し意外です」とライダー。
「それは言えるわね、サクラって、シロウのことなら全肯定なのに」行儀悪く、テーブルにひじをついてそこんとこ、どうよ?≠ニいう表情で、桜を見るイリヤ。
 桜は耳まで赤くして、ちぢこまる。
「俺は、マンガに出てくるような天才料理人じゃない。練習もせずにおいしいものは作れないよ。それに、お菓子と料理は、ちょっとテクニックが違うんだ」
「じゃあ、今年のホワイトデーは、士郎にとって2回目の大変革になるわけだ」凛は、残りのティーポットその他をトレイに載せて戻ってきた。
「まあな、みんなからチョコをもらったんで、家庭科部とかで研究はさせてもらったから、今年はもう少しましなものが造れると思うぞ」
 皿への盛り付けは、手つきがぎこちないが桜に任せ、士郎はテーブルの上をふきんでふく。
「それは、楽しみです」と一転して、顔を輝かせるセイバー。
「チョコを渡したわたしがいうのもなんだけどさ、大変ねぇ」ティーカップやポットに、予熱のためのお湯を注ぎながら、凛が笑う。
「遠坂みたいに、準備万端整えてるわけじゃないからな」
「どういう事?」と、凛は小首を傾げた。士郎の言い方だと、どう考えても、自分もホワイトデーの準備をしていなければならない事になる。
 士郎と桜が、びっくりして顔を見あわせた。
「あの、姉さん、まさか何も準備していないんですか」
 士郎と桜以外は、話の流れがつかめずに、けげんな表情をしている。
「だから、なんでわたしがホワイトデーの準備しなくちゃいけないのよ?」
「姉さん、忘れたんですか?」桜の口調に非難めいたものが混じった。「学校の下駄箱と机の引き出しいっぱいにチョコがつまっていたじゃないですか!」
 ティーポットからお湯があふれた。
「あっちゃちゃちゃちゃ!」あふれた湯が、凛の形のいい足にふりかかる。
「リン!」「遠坂」「姉さん!」
 士郎が手近のふきんを投げ、桜は救急箱を取りに立ち上がり、ライダーはタオルを取りに走りだし、セイバーは凛を引っ張ってテーブルから引き離した。
「藤ねぇ! ぞうきんもたのむ!」
「ああ……忘れてたわ」幸い、ふりかかった湯の量はたいしたことはなく、凛は紅茶の準備を再開した。ポットの中でお茶を蒸らす段階に至ったところで、状況を分析し、対策を考える。
「士郎、試験勉強の前にこっちをかたづけましょう。協力してくれるわよね!」
 有無を言わさぬ口調で、凛は士郎に宣言した。



――数時間後
「考えて見れば……」と、ふとんの中で凛はつぶやいた。
「何か言いました? 姉さん」それを聞きつけた桜が、となりで寝ている姉の方に顔を向ける。
「……ん? 考えて見ればね、聖杯戦争が終わって最初に登校した日に時計塔≠ヨ召喚されたでしょう。神父と引継について打ち合わせたりしてから、どたばたしながらロンドンに発ったじゃない。あのバレンタインのやつ、居間のテーブルの上に置いて、開けてもいなかったのよね。
 惜しいことをしたわ。数えるくらいはしておいて、ちょっとしたお菓子でも買ってくればよかった。もう、溶けてるか腐ってるか……」
「私……姉さんがロンドンに行っている間に、何度か遠坂のお屋敷に行ってるんです。あの袋の中身は、冷蔵庫の方に入れておきました。
 迷ったんですよ、包みを開けるかどうしようか。でも、姉さんに渡そうとした人のことを考えると、むげにもできなくて」
 凛は、驚きの眼で桜の方を見返した。「……ありがとう、桜。世話をかけたわね」
「なんでもないです、このくらい」と桜は穏やかに笑う。
「でも、おかげで助かったわ。とにかく、明日、家に取りに行きましょう。中を確認しないと始まらないわ」
「姉さん、姉さんは、中学の時とかはバレンタインデーにチョコをもらわなかったんですか?」
「うん、チョコをあげるのも、もらうのも今年が始めて」
「あげるのも……?」
「魔術師でしょう? 周りのみんなとは距離を置くように心がけていたから……。あげる方はね、義理チョコでも、距離を近づけることになるから」
「そうですか……」
「桜は、士郎に本命、一本やりなんでしょ?」
「えっ!?」ふとんがばたつく音がする。「えええ、えとえとえと、せ先輩には確かにあげていましたけど他にもあげる人がいたわけではなくて……」
 慌てる桜を見ていても楽しくない。さっきから気にしていた問題が浮かんでくる。「あ〜〜〜〜、ホントに、まいったわねぇ。ねえ桜、けっこう女の子が、女の子にチョコを送るってあるの?」
「え、えっと……美綴先輩なんか、けっこうチョコをもらっていたみたいですよ。弓道部の1年女子が共同で送った分には、わたしもお金を出してましたし、その他に自分で送った子もいるみたいです」
「綾子か……ちょうどいいわね。明日、どうしてるのか聞いてみる事にしよっか。伝えといてくれない? 朝練の終わり頃に行くから、開けといてって」
「わかりました」
「明日も、早いのよね、そろそろ寝ましょ」
「はい、おやすみなさい、姉さん」
「おやすみ、桜」






――穂群原学園 弓道場 朝
 弓道場脇に呼び出された美綴綾子は、凛からの質問を聞いて大爆笑した。
「そんなにおもしろい、綾子?」内心の感情を押し殺して、凛は綾子に言った。
 笑いを抑え、言葉を発するのに、綾子は苦労した。「いや、遠坂には悪いが、おもしろいねぇ。
 完璧超人、遠坂 凛を困らせることができるというのは大発見だわ。こんなことなら、あたしもチョコを下駄箱に突っ込んでおけばよかったよ」
 にやにや笑いを浮かべる綾子を見る、凛の視線に殺気が混じった。
「睨まないでよ、遠坂。あたしゃ気が弱いんだから」
「みえすいたうそは言わないでいただけないかしら、美綴さん」と、凛の物言いが、慇懃になった。これが士郎だったら、彼は逃げ場を探して視線を泳がせていただろう。
「はいはい」頃合いと見たのか、美綴は顔を引き締めた。「まあ、話を本題に戻すと――」
「本題どころか、始まってもないような気がしますけど?」
 凛の突っ込みを、綾子はさらりと流した。「ホワイトデーだけど、あたしは、クッキーかキャンデーの徳用袋を買って来て、小分けにラッピングしてからお返ししてるよ――最近は、ホワイトデー用とかって、売ってるから便利だよね――特に何も考えず、みんな一緒にね。部の後輩が共同で送ってくれたりした奴は、おっきな袋をそのままかな」
「渡すのはどうしてるの、大変じゃない?」
「朝練が始まる前にげた箱とかに入れとく」
 凛には、その対応がずいぶんといいかげんであるように思えた。「そんなやり方でいいの?」
「20個越えてみなよ、そんなことは言ってられなくなるよ。それとも休み時間に教室を回って、いちいち配って歩く?」
 凛は、今朝、早起きをして取ってきた自分のチョコを思い浮かべた。まだ全部を数えたわけではないが、かなりの数があった。それらに対するお返しを配って歩いている自分に想像がおよんで、悪寒がする。「そういうものか……」
「そういうものよ。それに……」と、美綴にしては珍しく言葉をにごす。
「それに――なんなの?」
「へたに手渡しなんてすると、間違ったメッセージを送ることになるしね」
「?」意味がつかめず、凛はキョトンと綾子を見返した。
「わからないかなあ」焦れたように、美綴は言った。「自分は特別≠ネんて思わせると、好意がエスカレートしかねないって事!」
「ああ……なるほどね」
「日直か何かで、早くに登校してきたそうだったけど、こちらとしてはちょうどいいからって、その場で渡したんだよな。そうしたら、もう舞い上がっちゃって、しばらくストーカーまがいの事をされたよ」
「うわぁ……大変だったみたいね」
 綾子は、苦笑いを返した。「あんなのは、もう、ごめんだね」
「人気者はつらいわね」
「遠坂だって、それは同じだろ?――こんなところだけど、参考になったかい?」
「ええ、これから誰がチョコをくれたのか調べて、対策を考えるわ」
「開けてないんだ?」
「かんべんしてよ、急な呼び出しでイギリスに行って、冬木[こっち]に帰って来たの、ゆうべなんだから」
「ああ、そっか。親戚が、亡くなったんだっけ?」
「これでも、遠坂の本家当主だから。わたしが顔を見せないと、おさまらないこともあるってわけ――なによ?」珍しい動物を見ているかのような表情を浮かべている、綾子に問いかける。
「いや、遠坂が改めてお嬢様なんだなと、実感しているとこ」
「あら、そんなにふだんのわたくしはお嬢様に見えないかしら、美綴さん?」
 綾子は首を振った。「いやいやいや、それはない。本性はともかく、遠坂は見た目はちゃんとお嬢様だよ」
「なんか、つっかかる言い方ね。まあいいわ、ありがとう綾子」
「どういたしまして――あ、そうか」綾子が額をピシャリと叩いた。
「今度は何?」
「例の勝負さ、あんたがチョコをもらうと分かってたら、そっちでも良かったなと思ったのさ」
 凛と綾子は、どちらが先に、お互いがうらやむような恋人を作るかで、勝負をしていた。その決着は、未だについていない。
「よしてよ」即座に、凛はそれを切り捨てる。「女の子からもらったチョコで勝負なんて、自慢にも何にもならないわよ」
「それもそうか。じゃあ、勝負の方はどうする、もう2年も試験と修了式だけだし、引き分けってことにしちまうかい?」
 凛はすばやく思考をめぐらせた。士郎を墜とすことができれば、勝てるのは確かだが、それを3年になるまでにやり遂げられるかというと、さすがにそれは難しいだろうと思わざるを得なかった。「ん〜しかたないわね。とりあえず、そうね……9月の始業式まで延長する?」
「受験だし、ま、その辺りが妥当かね」綾子は、肩をすくめて消極的に賛成した。
「じゃ、そういうことで」
「ああ、がんばれよな」
 2人は手を振って別れた。

――穂群原学園 生徒会室 昼休み
 校舎の端にあるせいか、生徒会室に昼休みの喧噪は伝わってこない。
「なっ……なんで、おまえがここにいる、遠坂!」その静かな雰囲気を、柳洞の大声が破った。
 士郎と昼食を取り、手洗いで席を外して帰ってきた彼の城に、不倶戴天の仇敵、遠坂 凛がいたのだから、彼の驚きは当然だろう。
「あまり、人目に付かないように作業できる、それなりに広い場所って、ここしか思いつかなかったんです」凛は、ひざの上に置いていたトートバッグを、会議机の上に移した。
「作業?」
「ええ」と、凛は会議机の上に、トートバッグの中身をぶちまけた。色とりどりの紙包みが山をなす。
「これは……バレンタインの?」
「ご明察。イギリスに行っていたので、時間が取れなくて。今日中に整理しないと、明日に間に合いませんの」
「ホワイトデーか……」柳洞は壁のカレンダーを確認した。誰が書いたものか、そこには14日の所に丸が入れてある。
「そういうことです。何をするにしても、まずは中を確認しないと」
「そういえば一成、お前はどうするんだ? いくつかもらっていたんじゃないのか?」
「うむ、修業中の身ゆえ、今ここで想いを受けるわけにはいかんが、礼を欠いてはそれこそ失礼だから、準備はしている。和菓子の購入をお願いしておいた」
「律義ですね、柳洞君。……お願い≠チて、誰に頼んだのか教えてくださる?」耳ざとく、柳洞の表現に気づいた凛は、そこを追求する。
「プ、プライベートの話だっ!」
「あらそう? 想いを受けるわけにいかない≠ネんて言っておいて、結局、頼む人がいるんじゃない」半眼で、柳洞を見る凛。
「メディアさんは、総一郎の婚約者だっ!」言ってから、しまった≠ニいう顔をする、柳洞。自分からばらしてしまっては、世話がない。
「ああ、婚約者だったんですか」
「なぜ貴様が知っておる!」
「二月の始めだったかに、葛木先生と若い外人女性が歩いている所を見たことがあったんですわ。それこそ、プライベートの話でしたので、黙っていましたけど」
「むう……」
 凛は、視線を士郎に向けた。「さ、衛宮君、お手伝いよろしく」笑顔で命じる。「さっき、言った通り、包みに番号を振ってから中を開けて、中身と誰が送ってくださったのかリストを作ってくださいな」
「あ、ああ」慌てて、士郎は立ち上がった。
「ぶ、部外者が生徒会室で……」
「じゃあ、衛宮君はどうなの?」
 士郎は俺が悪いのっ?≠ニ、凛を見返した。
「今は、生徒会から整備の仕事をお願いしているわけではないんでしょう?」
 凛の論理に、柳洞は負けを認めざるを得なかった。
「わかった、使うがいい」どっかと柳洞は、パイプいすに腰をおろした。
 紙包みの山の両側から、凛と士郎は、手を伸ばした。
 柳洞は、二人の方をにらみつけたり、目をそらしたりしていたが、結局、生徒会の書類に目を通して時間をつぶし始めた。
 しばらく、生徒会室では、包装が解かれるかすれた音だけがしている。
 凛が、ついと顔を上げて、士郎の方を見た。「し……衛宮君、今までにできた分のリスト、渡してくれませんか」
「ああ」
「柳洞君、生徒名簿、見てかまいませんよね?」と、凛は生徒会室に備えつけのパソコンに手をかけている。
「勝手にせい」
 凛は、生徒名簿を検索しながら、チョコの送り主が何組にいるのかについて、リストに書き加えてゆく。
「何をしているんだ?」
「カードに何組の誰それって、きちんと書いていてくれれば、良かったんですけどね」凛は、軽くため息をつく。「書いてないのは調べるしかないでしょう」
「あちっ!」突然、士郎が手を跳ね上げた。
「どうしたのっ!」「どうした!」
 凛は、机を回り込んで、士郎のそばに駆けよった。
 左手を押さえた士郎の指の間から、血が出てくる。「その包みだ、刃物か何かが入っていたら――何やってんだよ!?」指に感じた柔らかい感触に、士郎は驚きの声を上げた。凛が、士郎の指を口に含んでいたのだ。彼女の顔が見る見るうちに、赤くなってゆく。
「何って、応急手当に決まってるじゃない! 柳洞君、救急箱から絆創膏を取ってくださいな」耳まで真っ赤になりながら、凛は、柳洞に言う。
「絆創膏だな?」柳洞は、生徒会室備えつけの救急箱を、キャビネットの中から引っ張り出した。
 士郎に、自分の指の根元を押さえさせると、凛はきつく絆創膏を巻きつけた。
「どう?」
「今になって、痛くなって来たよ」
 凛の目の前に、何かが飛び込んで来た。「きゃっ!」と、士郎の手を放して飛びすさる。
「何?」
「すまん」と、柳洞が、士郎がけがをした原因の紙包みを開いていた。「びっくり箱になっていたらしい」
 士郎が、ばねを仕込んだぬいぐるみを拾い上げる。「ずいぶん、かわいい悲鳴を上げるんだな」
 凛は、恩知らずの朴念仁を睨み付けた。
「なんということだ」箱の中を見た柳洞が、驚きの声を上げる。
「うえ……」と、それを見た凛も、お嬢様らしくない声を上げた。
 士郎も、二人の脇からのぞき込んだ。そこには、カッターの刃や針を埋め込んだチョコが入っていた。
「すごいな……カードがある」士郎は、箱の隅にあるカードを拾い上げた。そこにある文面を読み上げる。
「よくも全校生徒の前で恥をかかせてくれたな、ざまあみろ≠ニ書いてある。差出人の名前は……ないな」
「遠坂、貴様に心当たりはあるか」
「あることはありますけど、全校生徒って事は……あれくらいでしょうね」
「あれか……」
 士郎だけが、話に付いていけてなかった。「あれってなんだ?」
「お前、知らなかったのか。この女狐がだな、前に付き合ってくれと言い寄られた時に、半日、屋上のフェンスの外に、相手を立たせた事があったんだ。全校生徒が注視する中で、それをやり遂げた相手をだな、付き合いを結局断っている。恨みに思うのも当然だな」
「訂正させてくださらない、柳洞君。わたくしも一緒に立っていました。彼だけを立たせていたわけではありません。それに、衛宮君が知らない以上、全校生徒というのは間違いです」
「なんでそんなことしたんだよ、遠坂」
「別に。
 真剣にわたしと付き合いたいみたいだったし、顔は悪くなかったし、慎二みたいないやらしさも感じなかったから、吊り橋効果で恋心が生まれるかもしれないと思ったのよ。だって、それまで一度も会話さえしたことなかったんだもの」凛は肩をすくめる。
「だからって、フェンスの外に半日なんて、危ないと思わなかったのかよ!」
「危ないと感じないと、吊り橋効果の意味がないでしょ。危険による興奮を、恋愛によるものと錯覚するってものなんだから」
「だからって、わざわざ……」
「衛宮、お前、ずいぶん遠坂の事を気にするんだな?」
「まあっ! 衛宮君!」凛は、わざとらしく大声を上げると、カードを持った士郎の手を取った。「血がにじんできてるじゃない! 柳洞君、片づけはあとでやりますから、衛宮君を保健室に連れて行ってきます」
「あ、ああ……そうだな」
「いや、そんなおおげさな――」
 士郎の言葉を凛は遮ると、士郎の手をそのまま引っ張った。「急ぎましょ、士郎。ぐずぐずしてたら、授業が始まっちゃうわ」
「ち、ちょっと痛いって、遠坂」
「痛いっ? それは大変だわ、急ぎましょう」
「いや、それは……」
 あとに残された柳洞は、机の上を見て、ため息をついた。「士郎……?」

 生徒会室から、かなり離れた所で凛は士郎を引っ張る力をゆるめた。
「遠坂、痛いのは引っ張るからだぞ」
「まったく、士郎はわかってないわね。あまり、親しげにしないでいこうって言ったじゃない」
「あ、ああ、そうだったっけ」士郎はだったら、チョコの整理をたのむのはいいのか≠ニ思ってしまったが、それは口にはしない。
「でも、うれしかったな」凛が、はにかんだ顔で士郎を見る。「心配してくれたんでしょ? 士郎」
「ばっ――!」士郎は、真っ赤になった。
「ありがとう、士郎」凛は、保健室の扉を開いた。「先生、おられますか?」
 なぜか、保健室は無人だった。
「珍しいこともあるわね。まあいいわ、士郎、そこに座って」凛は、キャビネットを開けて薬等を取り出した。
「手を出して」まず、血に染まった絆創膏をはがす。
「つ……」士郎が、痛みに、歯を食いしばる。
「ごめん、士郎……ごめんなさい」
 顔をしかめて、指の傷口を見ていた士郎は、凛の方に眼を向けた。
 凛は、悲しそうな顔で、士郎の傷口を見ていた。「わたしの事で、士郎に迷惑をかけちゃったわね」
「気にすることはないさ、遠坂のせいじゃない。その先輩が悪いのさ――それより、もう、そんな危ないことはするなよな」
「ん……そうする」と凛は、うなずいた。「今は、士郎もいるしね」
「ええっ?」
「なによ、あんなことをしておいて、知らんふり決め込むつもり?」うなじまで赤くして、凛は士郎を睨み付ける。
「い、いや、それは……」士郎の頭の中を、セイバーや桜やイリヤの顔がかけめぐる。
「ふふ、士郎のことだから、はっきり返事してくれないとは思ったけどね」
 凛は、乾いてしまった血を、消毒液を含ませた脱脂綿でふき取る。「あら……」
 傷が、最初に見た時と比べて浅くなっているようだった。血のにじみ出してくる速さも、遅くなっているようだ。「傷が治り始めてる」
「そうか、アヴァロン≠フ影響だ」
 前回の聖杯戦争の余波で起こった大火災。のちに士郎の養父となる、衛宮切嗣は、火災現場から士郎を助け出したとき、その火傷を治癒させるため、彼にアーサー王{セイバー}の使用していた宝具約束された勝利の剣{エクスカリバー}≠フ鞘である永遠の理想郷{アヴァロン}≠埋めこんだのだ。この宝具の、所有者を守るという作用により、今回の聖杯戦争でも、士郎は死の淵で踏みとどまることができたのだった。
「セイバーが、いてくれたら、もっと早く治ったかもな」約束された勝利の剣{エクスカリバー}≠フ所有者が近くにいることで、アヴァロンの作用は、より高まるのだ。
「そう、それは良かったわね」凛は、傷薬をしみ込ませたガーゼをあてると、テープでそれを固定しようと、士郎の指をぐるぐる巻きにする。
「いてっ!」最後に、傷の上で、きつくテープを巻いた。「何するんだよ、遠坂」
「心配して、損したわ」凛は、立ち上がると、引っ張り出していた道具を手早くキャビネットの中に戻した。
「わたしは、生徒会室に戻るけど、衛宮君はここにいていいわよ。その代わり、先生に説明しておいてねっ!」乱暴に扉を閉めて、凛は行ってしまった。
「なんでさ……?」と、士郎はつぶやく。
「はい、つきましたよ〜」騒々しい声が、廊下から聞こえて来た。
「すみません、藤村先生、手伝ってもらって」凛と入れ替わりに、大河と養護教諭が大声を上げながら、保健室に入って来た。
「あれ、しろー、どうしたの?」





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