――マウント深山商店街 放課後
 授業が終わると、いろんな詮索を振り切り、凛は、一人で通学路となっている坂道を下って商店街に出た。
 当然、ホワイトデー対策を立てるためである。もう時間がないし、数も多い――結局30人以上にお返しが必要となっていた。凛は、手間を省くならなんだっていいという気分になっている。ただ、昼のことがあったので、士郎を誘う気にはなれなかった。
「リン、どうしたのですか、こんなところで?」と商店街に入ろうかというところで、セイバーから声をかけられた。空になっている手さげ袋と、どういうわけ竹刀の持ち運びに使うような、細長い緑色の袋を持っている。
「あなたこそ、何をしているのよ? セイバー」つい、言葉にとげが入る。
「私は、サクラに頼まれて、晩ご飯のための材料を買いに来ました。これくらいなら、私でもシロウの役に立てますから」と、手さげ袋をひらひらと振る。
「その袋、獅子竹刀?」大河が、自分の竹刀の鍔{つば}に虎のマスコットを付けて、虎竹刀≠ニ呼んでいるのに対抗してか、セイバーも、獅子のマスコットを付けて獅子竹刀≠ニ称しだしたというのは、凛もロンドンにいる時から聞いていた。
「はい、商店街で何があってもいいように」セイバーは、緑色の袋をずらして獅子のマスコットを覗かせた。
「セイバー、あなた、竹刀が必要な事態が起きると、思ってるの?」
「はい」と素のままでセイバーは大きくうなずいた。「リンの帰ってくる何日か前から、イリヤが、魔術師の存在を感じると言っていました。サクラは、学校の方でなにもないので、気にしていないようでしたが」
 凛は、気持ちを切り替えると、けわしい表情で周囲を見回した。「……わたしも感じないわね。今のところは{傍点今のところは}」
「さすが、リン」
「おだてても木には登らないわよ――なるほど、それで獅子竹刀≠ネわけね」
「はい、暗示をかけた人間を使ってくる可能性が、高いと思われますので」
「まあいいわ、わたしはホワイトデーのお返しを買いに来たのよ。一緒に行きましょう」
「わかりました」

 数分後、凛は洋菓子店のホワイトデーコーナーの前で頭を抱えていた。「たっ……高い」
「そうなのですか?」と高い安いについてはよく解っていないセイバーが、きれいにラッピングされた包みを手にとって、首をかしげる。
「一個として見れば、そんなに高くないわよ。でも、お返ししようとする人数分だけ数を買うとなると、何十倍にもなってしまうでしょう」ロンドンへの往復で、かなりの金を使ってしまった凛には、この出費は――主に精神的に――きつかった。
「なるほど」
「出来合いのもので済ませるのは無理ね、綾子のやり方を見習うとしましょうか」
 二人で洋菓子店を出ると、セイバーの買い物を片づけながら歩いていく。
 そこで、見覚えのある金髪女性が、向こうから歩いて来るのに出くわした。ダウンジャケットにロングスカートという平凡な服が、どちらかというと清楚な印象の顔に似合っている。
 ――うわ、キャスターだ。
 凛は、彼女に思わず見とれてしまった自分に気が付いて、苦笑した。まあ、今はここで会ったが百年目≠ニいう関係でもない。無視して通り過ぎ、よう、と。
 向こうは、こっちに気が付くと、にこりと笑って会釈して来た。
 凛は思わず会釈を返してしまう。
「魔術師の気配って、まさか、キャスターじゃないわよね」すれちがった後で、セイバーにたずねる。
「それはイリヤと確かめています」
「そこらへんはそつがないか」
「凛」セイバーが、凛に小声で話しかけた。後ろへと目くばせする。
「魔術師自身ではないみたいね」凛は、さり気なく振り返りながら、後ろをうかがった。二人を尾行しているとおぼしき人影が一人いる。「セイバー、魔力の備蓄は?」
「通常の戦闘には不足はありません。宝具{エクスカリバー}を使うと、後が難しいですが」
「頼もしいわね、今のところ魔力を供給する必要はないか」
「イリヤにいろいろ言われながらも、消費を抑えていたかいがありました」ちょっと誇らしげに胸をそらせるセイバー。
 ――そんなにグータラしていたの? と突っ込みたいのをこらえて、苦笑いする凛。「わたしたちの場合、魔力の源が一緒というところに問題はあるわよね。わたしが魔力量を増やすのは、一朝一夕にはできないから、桜や士郎にパスを通して供給してもらうかしか、方法がないもの」
 セイバーが急に真っ赤になった。「り、りりリン、それってまた!」
「あら、セイバーとしちゃ、願ったりかなったりでしょ?」
「そそ、それは否定しませんが、だからといって……」
「したくないの?」にやりと笑う凛。士郎ならあかいあくま≠フ笑いとでも表現するだろう。
 セイバーは、真っ赤な顔をうつむかせて、小さく頭を左右に振った。
「ま、イリヤはスルーしてくれるだろうけど、桜がいるから別の意味で無理でしょうね」
 セイバーは、その言葉に逆に安心したように、胸をなで下ろした。
 その様子を見て、凛は、再びにやりと笑った。「あの子の事だから、先輩とさせるくらいなら、私が≠チて、わたしたちに襲いかかって来かねないわよ」
「そそそ、それって、女同士ということでしゅか?」
「そうなるわね。別に、問題ないでしょ? あなた、マーリンの助けがあったとはいえ、子供を造ることができたということは、ヤったんじゃない――そういえば、イリヤとか、桜から魔力をもらってるライダーからっていう手もあるのか。よりどりみどりじゃない」
「リンの言うことは、正しいと思いますが……」小声で答えるセイバー。「できれば、もう女性同士というのはかんべんしてほしいのですが……」
 凛は、含み笑いをする。「あの森でのセイバー、かわいかったわよ」
 セイバーは首どころか、指まで赤くしてしまっている。足取りも、どことなくふらついてきた。凛も、自分のやった事を思い出して、顔を赤くしているのだが、それを見て反撃を思いつく事もできないらしい。
 目的地が近づいて来たので、凛は、セイバーの意識を引き戻すために言葉をかけた。「わたし、お店に入るわ。入り口近くで見張っていて」
「は、はい」セイバーは気を取り直すと、竹刀の袋を確かめた。いざとなれば、袋に入れたままそれをふるうつもりだろう。
 凛は、ディスカウントの菓子店に入っていった。クッキーの徳用袋を探す――あった、3袋ほど買って、レジに持って行く。洋菓子店で売っていたものの、10分の1程度で買えた。これなら、ラッピング用品代をいれても、たいした金額にはならないだろう。
「お嬢ちゃん、セイバーちゃんの友達かい?」
 話しかけてくるおばちゃんに、適当に返事をしながら、凛は代金を払ってクッキーを入れた袋を受け取った。
「行きましょ」セイバーに声をかける。
 彼女が目くばせして来た。やはり、いるようだ。凛はセイバーにうなずくと、店を出てすぐに駆け出した。
 後ろの方で、誰かも駆け出す気配がする。見れば、だらし無さそうにズボンをたるませて履いていて、個性を主張するくせに、同じ様式でないと安心できないアウトロー気取りの輩だった。新都の繁華街ならともかく、マウント深山ではあまり見ないタイプだ。
「リン、どちらに向かいます?」
「左の裏通りに!」
 二人で最初の角で曲がろうとすると、その路地の奥から、彼女達の後ろにいるのと同じような格好の輩――ジャンバーは色違いで、頭の帽子は全く同じ――が駆けてくる。
「あ、いけない」凛は、とっさにその場でステップを踏んで、進路を商店街に戻した。
「リン、いけない!」と、セイバーは別の判断をしたが、結局、凛に続いて進路を変更した。
「予想外に、向こうは準備がいいわね」次々と、仲間らしいのが集まってくるのを見て、凛が言った。息が上がって来ている。
 連中は、どうやら、携帯電話を使って連絡を取りあっているらしい。
「最初にはち合わせした時に、逃げずに強行突破してしまえば良かったんです。相手は一人だったんですから」走りながらセイバーが言う。さすがサーヴァントと言うべきか、呼吸に乱れはない。平然としたものである。
 凛は、がくっと首を折った。「ああ、そういうこと……。しょうがないわね、一度は向こうの手に乗るしかないか」
「そういうことですね」
 裏通りにある、解体中の店舗の跡に二人は駆け込んだ。陽が長くなって来たとはいえ、周りは薄暗くなっている。
「リン、敵の目的はなんだと思います?」既に、敵≠ニして捉えているセイバーが、凛に問う。
 呼吸を整えようと、上半身を下げていた凛が、身体を起こした。「とりあえずは、あいつらをわたし達にぶつけて、情報収集しようとしてるんじゃないかしら。わたしの査問会で、明らかになった事情の上っ面だけ見て、おいしいとこ取りを企んでいるとか」
「おいしいとこ取り?」
「わたしや桜の令呪を奪えば、ロハで優秀かつ従順な英霊を使い魔にできるとか」
 セイバーは首をかしげた。「令呪を奪っても、私達が、言うことを素直に聞くと思っているんですか? あっという間に使いつくしてしまいますよ」そうなった時に、サーヴァントが素直に消えてくれればいいが、キャスターが葛木の前の契約者{マスター}にやったように、殺されることさえあり得るのだ。
「だから、上っ面よ! サーヴァントの維持には膨大な魔力が必要だし、セイバーもライダーも――キャスターもか――マスターとの個人的な繋がりから、自分の意思で現界し続けてくれてるじゃない。端から見ていてそこらへんが解らずに従順≠ナ取り扱いやすい≠ニ思ってるんでしょうよ」
「はあ……」まだ、要領を得ない感じで、セイバーはあいまいにうなずいた。
 敷地に、十数人の少年達が入ってきた。いずれも、同じように腰の下で引っ掛けただぶだぶのズボン、おそろいの毛糸の帽子、同じようによれよれになっているジャンバーの、色だけは違っていた。多分、何かのチームを構成しているのだろう。
「よぉ、子猫ちゃんたちよう、てこずらせてくれるじゃねぇか」リーダーらしい少年が、凛達に声をかけて来た。どういう暗示をかけられているのか判らないが、性欲丸出しの、いやらしい笑いを浮かべている。「もう、かんべんならねえ、ひん剥いてヒイヒイ言わせてやっからな」
 周りの少年が、彼に追従して笑った。
 ――これは! 凛は、周りを見回した。魔術関係者にしか判らない、何かが周囲を覆っている。
「リン!」
「人払いの結界のようね。良かった、一応、理性は期待できるわけね」
「聞いてんのか!」期待した反応を返さない二人に、焦れたリーダーが叫ぶ。
「リン、これを」セイバーは手にさげていた袋を託すと、竹刀を取り出して軽く振る。それだけで、少年達を威嚇するかのように、重い、風を切る音が鳴った。
 少年達が、正眼の構えを取るセイバーに気圧されたように接近をやめた。代わりに、左右へと広がって、彼女たちを包囲しようとする。
 凛は、自分の心臓にナイフを突き刺すイメージを想い浮かべ、魔術回路を起動した。それに反応して魔術刻印が発した光が、薄暗い中、制服のブラウスの左袖を浮かび上がらせる。
「さっさとすませてしまいましょう。先手必勝よ! 行って、セイバー!」
「はいっ!」セイバーは、少年達の厚いところをめがけて、地面を蹴った。
 距離にして5メートル以上の距離を、ひと息で詰めると、無言のまま――こんな程度、気合いは不要だ――上段に振りかぶった竹刀を、目の前の少年の脳天へと叩きつけた。竹刀が小気味いい打撃音をたてると、叩かれた少年が、ぐらりと倒れかかった。
 周囲の少年達に緊張が走った。おのおの、ナイフ、伸縮警棒といった得物を取り出す。
 セイバーは、倒れかかる少年にはかまわず、別の少年へと間合いを詰めた。その少年は、取り出したばかりで伸ばしてもいない警棒で、防御の構えを取ろうとする。セイバーは、竹刀を再び上段に振りかぶって、その防御を上へと誘うと、それを避けるように大回りしながら振り下ろして、がら空きになった胴へ、横から竹刀を叩き込んだ。
 ――ふむ、鍛えているだけあって、シロウの方がまだ素早いですね。
 今度は、3人の少年が同時に近づいて来た。だが、セイバーの背後を突く等といった連携をせずに、一緒に襲いかかるだけでは、サーヴァントに対して、なんの対策にもなっていない。セイバーは自分から踏み込んで、ナイフを持った少年の膝を突いた。勢いを殺されて倒れる少年には眼もくれず、続いて、下からすくい上げるように竹刀を振り上げ、二人めの少年のあごを打ち上げる。
 そこで身体を回して、3人目の少年が振り下ろして来た警棒を受け止めた。つばぜり合いで押し切ろうと考えたのか、警棒の少年は体格差を利用し、かさにかかってさらに力を込めた。
 動きが停止したところで、他の少年達が殺到しようと動き始める。
 この程度の力なら押し返すこともできたが、セイバーに律義に付き合う義理はない。身体を大きく開いて、押し込んで来た少年にたららを踏ませると、後頭部に竹刀を叩き込んだ。
 すぐに向き直ると、竹刀の間合いを利用して、顔を、喉を、みぞおちや膝に竹刀を突き込んで、接近してきた少年達を次々と戦闘不能に追い込んで行く。
 舞うように竹刀をふるい、仲間を倒して行く金髪の美少女の背後で、リーダーはナイフを取り出した。それは、両刃で先端が鋭くとがっており、円筒形をした握りにはボタンが一つ飛び出している。
 旧ソ連の特殊部隊で使用された、いわゆるスペツナズ・ナイフだ。当然、非合法の代物である。
 リーダーは、右手を伸ばして、スペツナズ・ナイフを彼女に向けると、セイバーの動きが止まった一瞬にボタンを押した。強力なばね仕掛けで、刃の部分がセイバーに向けて一直線に飛び出す。
 ――! だが、セイバーの卓越した直感力は、その殺気を見逃さなかった。ナイフが到達する直前、彼女は振り向き、竹刀で薙ぎ払って刃を弾き飛ばす!
 ナイフの刃は、きりきりと回転しながら一人の少年の袖を切り裂くと、均しコンクリートの残る地面に落ちて、乾いた金属音を立てた。一人を除いて少年達は、そのすざまじさに息をのんだ。
 だが、その動作で生じた隙に、セイバーが対峙していた少年だけが動きを止めることなく、背中を向けていた彼女の右肩に警棒を振り下ろした。
「あっ!」衝撃にセイバーがよろめく。だが、彼女は痛みに耐えて踏みとどまった。生前に幾多の戦場で戦って来たアーサー王にとって、この程度の事はいつものこと。ブリテンの王としての矜持が、彼女を支える。そして、その矜持を、今の一撃は傷つけていた。
 彼女にダメージを与えた殊勲者は、振り返った彼女の眼光に射すくめられて、動きを止めた。その、乏しい理解力でも、自分が文字通り龍の逆鱗に触れた――アーサー王の父、ウーサー・ペンドラゴンは、竜と人の間に生まれたと言われている――というのを悟る。後ずさって逃げようとして、ずり下げていたズボンが引っかかり、ぶざまに転げる。
「待……」
 両手を上げて降参しようとした彼に、セイバーは左手で、竹刀を振り下ろした。
「次は、誰ですか?」セイバーは、左手で竹刀を空振りする。その勢いは、最初に両手で振ったのと変わらず、切り裂かれた空気が重々しいうなりを起こした。彼女が少年達を見回すと。既に、全員が逃げ腰になっている。

 セイバーが、少年達に突撃していったことで、均衡が崩れた。凛に向かって少年達が迫ってくる。もっとも、その人数は、セイバーに比べるとはるかに少ない。
 こいつらは何らかの凶器を持っているだろうと、凛は考えていたが、負ける気はしていない。彼女自身、言峰に手ほどきを受けた八極拳がある。喧嘩慣れしているかもしれないが、この程度の連中なら、十分に対抗できる。
 もっとも、今は、魔術師としてふさわしい物を使うべき時だ。
 凛は、手近の少年を指差すと、ガンド≠放った。
 呪いなどといった生易しいものとは違う、高密度な魔力が物理的な衝撃≠もって襲いかかる!
 連続した衝撃に、少年はついには吹き飛ばされた。
 続いて凛は、呪文を唱えながら、左手をぐるりと巡らせて周囲の少年達にガンドをまきちらした。凛のガンドは、発動に詠唱を必要としない。魔術回路へ魔力を通すだけ{ワンアクション}の、きわめて短いインターバルで行われる。士郎が呼ぶところのガトリング・ガンド≠セ。
 その二つ名に違わず、機関銃のような勢いで放たれたガンドが、一人に数発づつ命中し、セイバーとは別の意味で、近づけない事を悟らされた少年達が逃げ腰となる。
「まずはてめぇからだ!」と横合いから叫び声がして、先程セイバーにスペツナズ・ナイフを放ったリーダー格の少年が凛に襲いかかって来た。凛の方が与しやすいと見たらしい。
 凛は、無言で、彼にガンドを打ち込んだ。が、リーダーの勢いは止まらない。
 両手を伸ばし、凛を捕まえようと――その姿が視界からかき消えた。踏み出そうとしていた脚が地面を捉えそこね、彼はヘッド・スライディングするかのように倒れ込んだ。
 身体を沈みこませ、脚を刈り払った凛が、トンっと立ち上がった。右手には、手さげ袋を二つ持ったままだ。 「リン、大丈夫ですか!」セイバーが凛の所に駆け戻って来た。
「この程度じゃ、わたしをなんとかするのには足りないわよ」
「……夕食の材料も無事ですね」
「あなたね……」凛は苦笑いする。食いしん坊にも程がある。
「いえっ! それはっ、大事な仕事ですから」慌てて言いつくろうセイバー。
「まだ終わったわけじゃないわよ――まだやりたい人はいるかしら!?」凛が自信たっぷりに言い放ち、竹刀を構えたセイバーが、あたりを睥睨する。
 まだ動ける少年達は、暗示よりも恐怖が勝ったらしい。背中を向け、逃げ出し始めた。動けなくなっていたりする仲間はほったらかしだ。
「っくそう……」と、リーダー格の少年が立ち上がる。
「残ってるのは、あんただけみたいだけど、どうするの?」
「ヂグヂョウ!」と、リーダーが再び凛に向けて飛び掛かってきた。
 凛は、一瞬、ガンドを使うかそれとも拳法であしらうか、どっちがいいだろうか≠ニ考えてしまった。
 それが良くなかった。
「なめるなあ!」凛が迷っている間に、リーダーは凛を捉え、彼女を引きずり倒すと上にのしかかった。
「リン!」
 リーダーは凛の左腕を押え込んで、彼女の顔に新たに取り出したナイフを突きつけると、セイバーに叫ぶ。「動くな!」
 凛は、自由になった右手の袋を顔に叩きつけ、膝で相手の股間を蹴り上げるが、リーダーは怯みもしない。
「こいつ、いつの間にか強化≠ウれているわ!」
「へへへぇ、とうとう捕まえたぜ、だがその前に――」リーダーがセイバーの方を見る。
 凛は、魔力がすぐ近くで練られているのを感知した。
「セイバー、危ない!」敵の意図を悟った凛が叫ぶ。
 凛が叫ぶと同時に、セイバーに魔術による攻撃が叩きつけられた。視界が光に満たされる。
 だが、光が消えた後には、甲冑姿へと武装化したセイバーが立っていた。
「セ、イバー……」さすがに、心配そうな声で凛が言う。
「大丈夫です、リン。魔力の方はかなりいただいてしまいましたが」
「そうみたいね」組み敷かれたままで、凛が苦笑いする。英霊の中で、飛び抜けた抗魔力を持つセイバー。そのおかげで聖杯戦争中も助けられた。それを思えば、心配する必要などなかったに違いない。ただ、セイバーの武装化に伴って、魔力がごっそりと抜かれているのを感じている。まあ、魔力はまた集めればいい。
「こっちはいいから、あっちをやっちゃって、魔術師なんだから手加減無用よ」右手をひらひらと振る。
「はい」と、セイバーが攻撃されたビルの方へ駆け出そうとする。
「何を手間取っているんですか?」という言葉とともに、新たな魔術攻撃の閃光が走った。凛達にではなく、先程、彼女たちを攻撃してきた方向へ向けてだ。「あっちは私が引き受けますから、自分のマスターを助けなさい」
「わかりました」セイバーは、再び、凛の方へと向き直った。獅子竹刀を左手に下げて、軽く眼をつぶる。「リン、じっとしていてください」
「てめぇ! こっちに来てみやがれ、こいつの顔に傷が入るぜ!」情勢の変化を感じとったのか、リーダーはセイバーにヒステリックな声を挙げる。
 ふっと、セイバーの姿がかき消すようにいなくなった。
「おわっ!」次の瞬間、ナイフを握っている右手が、あり得ない方向へと曲がっているのに気がついて、彼は驚きの声を上げた。持っていたはずのナイフが、はるかかなたで、乾いた音を立てて転がる。
 痛みが後からやって来て、悲鳴が上がる。
「いつまで、乗ってるのよ!」凛は、再び膝を股間に叩き込む。まだ、強化が有効なのか、ダメージは受けなかったようだが、衝撃で身体がずれ、凛はリーダーの下から抜け出した。
「わたしに乗ってもいいのは、士郎だけよ!」十二分に、体重を乗せた蹴りが顔面に決まって、リーダーはようやく倒れた。
「リン、大丈夫ですか?」
「ん、なんとかね」身体を回して、自分の背中に視線を向ける。「まったく、ぶざまったらないわね」汚れてしまった背中をはたく。
 セイバーもそれを手伝い始める。「リン、ストッキングも」
「ええ、分かってる。ま、こんなのはバーゲンで買った安物だから、問題はないわ。どーせいつかは破れるものだし」  新たな人影が、敷地の中に入って来た。
「大丈夫? アーチ……遠坂さん」
「ありがとう、助かったわ、キャスター」
「感謝を、キャスター」
 セイバーには、厳しい眼を向けるキャスター。「サーヴァントなのに、マスターを危険にさらすのは感心しないわね、セイバー」
 下唇を噛んで、その非難を受け止めるセイバー。「……おっしゃる通りです」
「それはそれとして、そちらはどうだった?」と、二人の間を仲裁するように割り込む、凛。
「思ったよりもあっけなかったですね」平然と答えを返すキャスター。
「場所を教えてちょうだい。事後処理がいるから」凛は、携帯電話を取り出す。
「あ、はい……お手数をおかけします」
 キャスターの言う場所を聞いて、教会の神父を含め、3、4本電話をかけた。
「さてと、セイバー、こいつを抑えてくれない」手配を終えた凛は、その間に意識を回復し、腕を押さえてのたうっているリーダーを指差した。
「いったい、何があったんです?」
「多分、あなたたちサーヴァントを横からかっさらって、自分のものにしようという図々しい連中がいるってことだと思う」凛は、セイバーにした説明を繰り返した。「ということで、こいつの記憶を探るのよ。誰が暗示とか強化をかけたのか調べてみないと」ため息をつく、凛。あまりやりたい作業ではないのだろう。
「さっきの魔術師は、死んでますよ?」
「冬木に来ている魔術師が、一人しかいないなんて、誰が決めたの?」
 はっと、気がつくキャスターとセイバー。「冬木の管理を、任されるだけのことはありますね」
「聖杯戦争でもそうだったじゃない。7人と思っていたら、規格外の8人目がいたし」
 凛は、セイバーが抑えているリーダーの頭に手をあてて眼を閉じた。その肩に、キャスターの手が置かれる。
「一緒にやった方が時間の節約ですわ」
「魔力は大丈夫?」
「はい。それに、これでまた、宗一郎様に……」と顔を赤くするキャスター。
「あーはいはい、ごちそうさまっ」そう言うと、凛は目の前の男の記憶に入り込んだ。

「――違うみたいね」と、記憶の走査を終えて、凛がキャスターに確認した。気絶してしまったリーダーを、放り出す。
「はい、違いますね」
「どうだったんですか?」探索を共有できなかったセイバーが問う。
「さっき、あなたを攻撃した魔術師は、こいつらをけしかけて来た魔術師とは、別だったって事よ。結界を張ったのは、あなたを攻撃した方。最初から漁夫の利を狙っていたみたい――考えて見れば当然よね。暗示をかけた人間だけなら、わざわざ人払いの結界は必要ないもの」
「ということは、少なくとも、一人の魔術師が冬木にいて、私達に敵対する可能性がある、と」
「協会とかに話を通しておく必要があるわね」凛は、いまいましげに唇を噛んだ。
「あのう、遠坂さん、私の魔力なんですが……」
「いいわよ、冬木の管理人として、今は緊急避難として許可する」
「なっ……リン!」凛の言葉の意味を悟ったセイバーが、非難めいた声を上げる。
「ただし、派手なことはしないでね。広く浅くでお願いするわ――ああ、そっか、一件くらいは噂になる程度に派手にやってちょうだい。神父にも話を通しておくから」
 キャスターもセイバーもあっけに取られた。「いいん……ですか?」
「どういうつもりですか、リン! 目立たせないならまだしも、聖杯戦争中は、その種のことを嫌っていたのではなかったんですか?」
「セイバーの言う通りよ。でも、今はそれが必要だと思う。キャスターが魔力を集めているというのは、魔術師連中に対して十分に威嚇になるはず」
「なんてことを……」
「おあいにくさま、セイバー。わたしはいざとなったら、どんな手段だって取れるんだから」凛は、キャスターの方に視線を戻した。「でも、キャスター、あなたには強調する必要はないと思うけど、死なせるほど取っちゃだめよ、きちんとコントロールしてやりなさい」
「解ってます」
「それから、葛木にも話を通しておいてね。後で睨まれるの、嫌でしょう?」
「心配をかけたくはなかったんですが……だめですか」
「よしてよ! 何かあったら、その時に睨まれるのはわたし達なんだから」朝に、担任である葛木の所へ行った時の事を思い出して、凛は体を震わせた。「大体、魔力を消費したこと、どうやって説明するのよ」
 キャスターは、また顔を赤くして、考え込んだ。「え……それは……別に魔力補給を理由にしなくても……生徒にこの話をしていいのかしら……」
 凛も、話の展開を悟ると、顔を赤くして遮った。「だーっ! わかった、わかりましたっ、わたしが悪かった! もういいわっ!」
 キャスターがほっと息をつく。
 凛は、地面に落ちていた袋を拾いあげた。飛び出していた中身を拾い集める。
「リン、これからどうするのです?」獅子竹刀を袋にしまいながら、セイバーが質問して来た。
「まだ、ラッピングの材料を買ってないから、ファンシーショップに行くわよ?」
「リン、私が聞きたいのはホワイトデーの話ではありません……」
「そんな眼で見ないでよ……士郎じゃないけど、試験が終わるまでは、使い魔で警戒網を敷いて、できるだけ本拠地に固まって受け身でいくわ。幸い、大義名分はあるし。
 あと、学校はいいとして、外に出る時は、士郎にはわたしかあなた。桜にはライダー。慎二にはイリヤのお付き、藤村先生達はイリヤ。葛木と柳洞寺は当然――」
 キャスターは、凛の視線に応えてうなずいた。
「遠坂、マキリ、アインツベルンのエース3人に、魔法使い級一人を含むサーヴァントが3人、加えてイリヤのお付きが二人。常識で考えて、こっちの戦力が圧倒的に有利だわ。油断して、隙を見せないようにしないとね」
「わかりました」
「ところで、遠坂さんも、ホワイトデーの買い物は衛宮さんの代理ですか?」
 唐突な質問に、凛はうろたえる。「なっ? なんでそういうことになるのよ?」
「私は、宗一郎様と一成さんに頼まれて、買い物にきたんです。明日、お菓子をプレゼントするのは、男性なんでしょう? だから、てっきり……」
「……女の子から女の子にチョコを贈る場合もあるのっ!」
「同性の間でも、愛情の表現とかあるんですか?」
「あなたが生きていた℃梠繧ネら、珍しくなかったんじゃないの?」
「……そういえば、そうですわね」と、キャスターはうなずいた。
「まったく……バレンタインはわかってたけどホワイトデー≠チてこんなに絡んで来るものだったのかしら?」  手さげ袋を受け取ろうとして、凛に視線を向けられたセイバーは、首を振った。「私達に聞かないでください、リン」
「遠坂さん、この時代にはホワイトデーは3倍返し≠ニいう格言もあるそうじゃないですか、それだけ大変ということなのでは?」
「ずいぶん詳しいじゃない、キャスター」格言というのには、違和感を感じる凛。
「TV番組で言ってました」
「ああ、そういえば、言葉自体は私も聞いたことがあります」セイバーまでそれに同調する。「意味はよく解りませんでしたが」
「えっと……」なんとなく頭痛を感じて、凛はこめかみを指圧する。「昼間、あなたたちが何で時間をつぶしていてもいいけどね――ところでセイバー、いいかげん武装を解きなさいよ」
 八つ当たりされているようにも思ったが、凛の言う通り、人目がある場所で着ていていい姿ではないのは確かだ。だが、「申し訳ありません、リン、急な武装化で服は……」変換の過程で、吹き飛ばしてしまって元の服装に戻れないらしい。
「しょうがないわね、鎧だけ不可視にしておきなさい。下の服だけなら、なんとか通るでしょ」また、服を買わないとね、と軽くため息をつく凛。
「わかりました」セイバーは、籠手や胸当て等の鎧を隠す。凛の言う通り、これなら、ドレスを着ているように見えなくもない。人目は引くだろうが、鎧姿よりはましだろう。セイバーは、キャスターの熱っぽい視線を感じて、そちらに顔を向ける。「何か?」
「……え? それはそれで似合ってるな、と思って」
 悪寒を感じて、一歩退くセイバー。キャスターの虜となっていた時に、いろいろと着せ替えて遊ばれた事を思い出してしまう。「え、ええと」助けを求めるように凛を見る。
 ニヤリと笑う、凛。「キャスター、セイバーに服を着せるだけなら、わたしは止めないわよ」
「ホントですか?」と嬉しそうな、キャスター。
「リン!」
「全部でなくてもいいけど、服をプレゼントしてくれるならいいわよ、目の前ってのは無理かもしれないけど、一回は絶対着せて写真撮っといてあげる。いざとなれば……」と、令呪をちらつかせる。
「リンっ! そんなことに令呪を使わないでくださいっ!」
「ああ、聖杯戦争に生き残ると、こういうメリットがあるんですね」なぜか夢見る乙女≠フ表情になって、キャスターが言う。
「いいじゃない、いろいろ着て、士郎にも見せてあげれば。きっと、喜ぶわよ」
「リンっ!」真っ赤になって抗議するセイバー。
「あんまり騒がない方がいいわよ、ただでさえ目立つのに」
 凛に言われて、周囲を見回すセイバー。もう、商店街の表通りに出てきてしまっている。
「じゃあ、キャスター――」
「あの、遠坂さん、勝手なお願いですが、和菓子を選ぶのを手伝っていただけないでしょうか? 頼まれたものの、自信がなくて」
「うん? うん、いいわよ。さっき、助けてもらったし」
「いいんですか? リン」
「まあね。この程度の事、安いものよ――セイバー、先に帰っておいてくれない? つきあってもらってたら、晩ご飯が遅くなっちゃうわ」
「あ、はい、わかりました。私が先に帰るとすると、さっきの件は、私から?」
「その格好じゃごまかせないわよね……頼める? わたしが帰ったら改めて説明するけど。
 それから、リズとセラにも、手が空いていたら藤村家から来るように伝えておいてくれない?」
「わかりました。気をつけてください」
 セイバーと別れると、キャスターは凛を伴って和菓子屋の方へと歩きだす。「これなんですけど」キャスターは凛に2枚のメモを見せた。
 片方は、葛木の板書とまったく同じ、きちょうめんな筆跡だった。予想どおりすぎて、笑いが誘われる。もう一つは、消去法で柳洞のものと判る。こちらも、気を使っているのだろうか、きちんと楷書で書かれている。柳洞は10人分、葛木は、あろうことか教師の分も含めて、凛の人数より多かった。
「その……宗一郎様に人気があるのはうれしいのですが、やはり、相手が女性の方と考えると複雑です」リストを見て眼を見開いた凛に、キャスターは憂い顔で言った。
 ――人気あるのね、葛木の奴。キャスターの気持ちも解らなくはないわね。
 葛木のリストの中に大河の名前を発見して、士郎ではないが、凛は頭を抱えたくなった。彼女のことだから、へたをすると一個10円のチョコを贈っている可能性があった。
 気を取り直して、もう一度リストを眺める。
「同僚の先生方に返すのは生菓子で、値段も高めのものがいいんじゃないかな。甘さも控えめだし。生徒の方は、大きめのおまんじゅうでどう? 葛木先生がどういうふうに渡すつもりなのか判らないんで、あれだけど。
 柳洞君は、下駄箱に入れると言ってたから、日もちがするし、匂いの付きにくい飴でどうかしら」
 キャスターは凛の意見にうなずくと、条件に合致する品物を選び始めた。さすがに、味がどうこうというのまでは凛にも判らないし、商品の数にも限りがあるので、細かいところは、金髪美女の襲来で緊張している店員にも聞いて決める。
 買う品を決めたのはいいが、50近い品全てを小分けに包むという、あまり例のない要望のため、店先で包みができあがるのを待つ事になった。
「楽しそうね」
「そうですね、何がどうあれ、宗一郎様のお役にたてているのですから」にっこりと笑うキャスターは、いい顔をしていた。
 彼女についての伝説は、いい印象を与えるものではないが、そういったエピソードの多くは、野心を持つ恋人に尽くそうとするあまりの行動だったというのを、凛は思い出した。葛木がこれからどうなるのかは判らないが、こういう平凡な男女関係が、彼女には似合っているのかも知れない。
 自分と士郎ならと、ふと考えて、凛の顔には急速に血がのぼって来た。だが、しばらく考えて、少し冷却される。
 ――わたしと士郎だと、絶対平凡にはならないわね。波瀾万丈という言葉が似合っている。ん、でも、それはそれで楽しいに決まっている。というか、楽しいものにしてやるんだ。人生、がんばったらがんばっただけ楽しめなくちゃウソなんだから。強引だろうがなんだろうが、楽しめるようにしてやる。覚悟しときなさいよ、士郎。
 となりで、キャスターが笑った。
「何?」と、凛は横目でにらむ。
「遠坂さん、赤くなったり、落ち込んだり、ニヤニヤ笑いしたり、百面相してましたから」
「なっ……」さらに赤くなる凛。表情に全部出ていたらしい。
 ちょうど、包むのが終わった店員に呼ばれて、キャスターは店の中へ戻って行った。
 大きな紙袋を二つさげて「ありがとうございました!」という声に送られて、キャスターが戻って来る。
「どうもありがとうございました。おかげで、助かりました」頭を下げるキャスター。「それと、これを」
 紙袋から、キャスターは小さい包みを取り出した。
「なにこれ?」
「お礼、です。助けていただいたので」
「気を使わなくてもいいのに……、それに余分を買うなんて」
「もしかしたら、怒られてしまうかも知れません。さっきの事もありますし、宗一郎様には、正直にお話しますから、大丈夫ですわ」その顔には揺るぎない自信が現れていた。
「わかったわ。これはもらっとく」結局、凛はその包みを受け取った。
「じゃあ、衛宮家の皆さんによろしくお伝えください。また週末にお料理を教えてもらいにうかがいますので、と」
「はい?」一瞬、凛は、キャスターの言うことが理解できていなかった。
「それでは、失礼します」キャスターは、凛のとまどいにはかまわず、もう一度頭を下げると、きびすを返して歩いて行ってしまった。
「どういうことよ?」






――深山町 衛宮邸 夜
 結局、凛が衛宮邸に帰りいたのは、夜になってからだった。
「ただいま〜」
 扉を開けた凛を、居間からの笑い声が出迎えた。
「遅かったですね、姉さん」エプロン姿の桜が廊下に顔をのぞかせ、玄関で彼女を出迎える。「大丈夫でした?」
「まあね」と、靴を乱暴に脱ぎ散らかして、凛は上がり込んだ。
 桜がすかさず、かがみこんで靴を揃える。
 また、居間の方で笑い声が弾けた。
「何の騒ぎ?」
「先輩が、クッキーを造り始めたら、イリヤちゃんが手伝わせろって言い出して……」
「クッキーねぇ……、士郎はみんなとお友達でいましょう≠ニいう意思表示のつもりかしら?」
「そうなんですか?」桜が、驚いたように言う。
「クッキーがお友達=Aホワイトチョコが愛を受け入れる=Aキャンデーがごめんなさい=Aお返しの品目に意味があるって話。聞いたことない?」
「私の聞いていたのとは、全然、違うんですけど?」
「あれ? まあ、士郎の事だから特に意識はしていないんでしょうね」
「……そうですね」苦笑いを返す桜。
「ところで、士郎は知らないの?」声をひそめて、聞く。
「今日は、美綴主将に捕まって弓道部に行っていたので、帰って来たのはセイバーさんの後だったんです。遅くなっていたので、セイバーさんに迎えに行ってもらいましたけど、話はしていないみたいです」
「藤村先生もまだよね?」凛は、玄関の靴を一瞥して言った。
「ライダーに学校へ見に行ってもらいました。無事にお家の方に帰られてます。電話があって、試験問題を作ってるから、ご飯は食べてしまっていいって」
「とりあえず、こっちは大丈夫か」ふう、と息をついた。
 古風にも、玄関脇に置かれている電話が鳴った。
「ああ、多分わたしにだわ」桜を制すると、凛は電話を取る。「もしもし、と――衛宮です」
[柳洞寺のメディアです]キャスターだった。[遠坂さんを、お願いします]
 凛は、自分が電話を取っていることを告げた。
[宗一郎様も、一成さんも無事に帰って来られています]
「分かった、今のところはこっちに分があるわね。お互い気をつけて行きましょう。連絡は密に取るようにしてね」
[はい、分かりました]
 凛は、受話器を置いた。
「姉さん、まだ、戦わなきゃならないんですか?」桜は、エプロンの裾を握り締めていた。
「わからないわ、協会には一報を入れた。でも、それが効いてくるまでには時間がかかるし、それに唯々諾々と従うようじゃ、魔術師とは言えないし……」凛は手を伸ばして、桜の右側の髪をくしけずる。「降りかかる火の粉ははらわないと。あなたには辛いだろうけど、何もしないのは、今度はセイバーやライダーを裏切る事になってしまうもの」
「はい……それは解ってます」
「ま、わたしたちが油断せずに備えていれば、そうそう戦う必要なんてないはずよ。魔法使いの後継者ナンバーワンと、聖杯から無尽蔵に魔力を引き出せる魔術師が二人もいるんだから、そこらへんの魔術師{れんちゅう}なら、まず諦めるって」
「でも、私、聖杯からの魔力をうまくコントロールできていないんです……」
「その時になったら、桜は後ろで、切り札≠チて顔をしておいて」
 そして、にたりと、あかいあくま¥ホいを浮かべる凛。「いざとなったら、ライダーやセイバーにパスを通す事も必要かもね」
 瞬時に赤くなる桜。「それって……女の子同士で……」
「理解が早くて助かるわ。そういうことよ」
「そんな……」
「アーサー王{セイバー}は、マーリンの助力があったとはいえ、子供を作ってるわけだから、女の子の扱いは分かってると思うしぃ」
「あううう」首筋まで赤くして、桜は身体をふらつかせた。
「桜、かわいいんだから」と、凛はクスクスと、笑いを洩らした。
 うつむいていた桜が、うらめしそうな眼で凛の方を見た。「じゃあ、姉さんはどうなんですか?」
「え……?」
「姉さんだって、セイバーさんに魔力を供給しているんですから、魔力は不足気味ですよね? 私とするんですか?」
 桜の反撃に、凛も顔を赤くした。「いや、ほら……わたしは……あ、そうそう、士郎に言ってやらなきゃならない事があったんだった」と居間へと逃げ出す。
「姉さん!」
 居間では、テーブルの所に士郎とイリヤとセイバーがかがみこんで、なにやら作業中だった。
 ライダーは、テーブルについているものの、彼らと違って、TVのほうに興味をひかれているようだ。クッキーをつまみながら、そちらの方に視線を向けている。
「できました、シロウ」凛に気がついていないセイバーが、ちょうど、顔を上げた。満足げな表情を浮かべている。
「セイバー、それやっぱり変」イリヤが、笑い声を上げた。
 セイバーの顔に、朱がさす。「どっ、どういう事ですか、イリヤスフィール!」
「だって、ねえ?」イリヤは、士郎の方を見る。
「む……」視線をセイバーの手元からそらせる士郎。口に手をあてて表情をごまかしている。
「シロウ?」上目づかいに士郎を睨みつけるセイバー。
「い、いや、いいんじゃないかな、個性的で」
「セイバー、自分の造形センスがプライドとつりあっていないという事実は、直視するべきではありませんか」にやにや笑いを浮かべたライダーも言う。
「何、やってるのよ?」と、凛は、セイバー達の肩ごしにのぞき込む。
「リン! 遅かったですね」
「お帰り、遠坂」
「お帰りなさい、リン」
「見てよ、リン。セイバーったら、これがライオンだって言うのよ!」
 セイバーの前には、クッキーの生地が、何かいびつな四角形と丸が組み合わさったような形になって置かれていた。
「ライオン? 前方後円墳じゃないの?」笑いながら、凛はそれから連想されたものを口にした。
「――っリン!」
「ほうら」すまし顔で、イリヤが言う。「そんなクッキー、タイガ以外、だれも食べたいなんて思わないわよ」
「まあ、せっかく作ったんだし、焼いてみようか?」
「シロウ、タイガしか食べないと言われては、私も意地があります。もう一度、挑戦させてください」そういって、セイバーは生地をこね始める。おそらく、こねすぎで、あまりおいしいものにはならないだろう。
「藤村先生のこと、なにげにすごくけなしてるわね、あんたたち」
「今までの分で焼いてくるよ」軽くため息をつくと、士郎は立ち上がった。ポンポンと、セイバーの頭を叩く。
 セイバーが、くすぐったそうに、肩をすくめる。
 イリヤは、セイバーに剣呑な視線を向けるが、セイバーは気がついていない。
 凛は、シロウの後を追って、台所に入った。
「ずいぶんと余裕じゃない、衛宮クン?」凛のとげとげしい声がかけられる。
 オーブンを操作していた士郎の顔に緊張が走った。「く、クッキーを造るのは、昨日から言ってあっただろ?」
 すすっと、凛は士郎に近寄って、彼の襟を締め上げた。
「ちょっ、遠坂?」凛の顔を間近に見て、士郎の顔が赤くなる。
「聞いていないかもしれないけど、セイバーとライダーを狙って、冬木に魔術師が入り込んでるんですけどね」
「そっ、それなら、セイバーから聞いたぞっ」ぎりぎりと締め上げられて、別の意味で士郎の顔が真っ赤になる。
「あれ?」凛は、意外な言葉に力をゆるめた。「なんだ、聞いていたの?」
「何をしてるんですかっ、姉さん?」台所に戻って来た桜が、凛の腕を振りほどく。
「ああ、帰り道でセイバーに会った時に聞いた」士郎は、よじれてしまった服の襟を、元に戻す。
「聞いてたんですか? 先輩」
「じゃあ、クッキーを焼くなんてのんびりしていられると思ってるの?」
 士郎は、口ごもっていたが、意を決したように口を開いた。「なんでさ、俺一人ならともかく、遠坂達がいてくれるんだから、負けることはないだろ?」
「う……」士郎の言葉が、つぼに入ったのか、凛は顔を赤くして絶句した。「……そう、任せなさい! あんたがクッキーを焼いている間くらいは、守ってあげるから」
 これを理由にしてプレゼントをしなかったら、許してくれたのか?≠ニ言いかけていた士郎は、内心で胸をなで下ろした。たまには、学習効果を発揮する時もあるのだ。
 チーンと、オーブンのチャイムが鳴った。
 士郎は、またオーブンにかがみ込むと、扉を開けて焼き上がったクッキーを取り出し、大きなボウルに放り込んでゆく。台所に、甘い匂いがたちこめた。
「シロウ、焼けた?」匂いに惹かれたのか、イリヤが台所に顔を出す。
「ああ、焼けたぞ、持っていってくれないか?」
「は〜い」と、ボウルを受け取ると、イリヤは居間の方に戻っていった。
「桜、ごめん、料理の邪魔になってるな」
「いえ、いいです」はにかむように笑うと、桜は、士郎の隣に立って、調理を再開した。
 居間の方では、イリヤとセイバーが、先を争うようにクッキーを口に運んでいた。
「セイバー、ズルい。それは私が型を抜いた奴よ!」
「こねたのは、士郎ではないですか。型を抜くなど、私でもできます」
「あんたたち、ホワイトデーの主旨を勘違いしてない?」凛は、自分もクッキーをつまむ。バターのたっぷり入ったタイプのようだ。味も、危惧していたほどは、ひどくない。
「別に、14日にもらわなきゃならない、なんて規則はないじゃない」
「リンは、ラッピングまで行われていないと、プレゼントとは認めないのでしょう」と、ライダーもクッキーに手を伸ばす。「私たちには、これで十分です」
「プレゼントのイベント性を考えてみなさいよ。
 ホントに桜以外には、容赦ないわね、ライダー」
「サーヴァントですから」
「そんな、固く考えなくてもいいのに」と、桜が夕食を運んで来た。「とりあえず、ごはんにしませんか?」
「手伝いましょう、サクラ」ライダーは、立ち上がる。
「あたし、別にいい。おなかすいてないもの」
「言ったでしょ、イリヤちゃん、先輩≠フクッキー、食べ過ぎるから……」
「だって〜」と、イリヤは行儀悪く、ゴロンと寝転がる。「シロウの焼きたてなんだもん。それに、ほっておいたらセイバーに食べられちゃうじゃない」
 セイバーは、その間もせわしなくクッキーを口に運んでいた。周囲から集まった視線に気がつくと、口を止めて凛の方を見た。「何か?」
 ――これだけは、ねえ……。 思わず苦笑いを浮かべてしまう凛。
「なにか、非難されている気がするのですが、リン?」
「そう? 気のせい――」
 その時、結界に反応するものがあった。

 居間の空気が緊迫した。セイバーは、早くも武装化を行う。
 士郎が居間に駆け込んでくる。「今、結界が――!」
「分かってる! ライダー、屋根へ様子を見に行ってくれない?」
 ライダーは、一瞬、桜の方に視線を向けた。
「ね、姉さん?」鍋を両手で持ったまま、おろおろとしている桜。
「了解です、リン」ライダーも、魔眼封じの眼鏡をアイマスクのような宝具に変えると、霊体化して姿を消した。
「落ち着きなさい、桜。まだ、攻めて来たわけじゃないんだから」
「ほら、サクラ、そんなんじゃ落としちゃうわよ」イリヤが、サクラからなべを取り上げて、テーブルの上に置いた。
「セイバーとライダーに前に立ってもらうわ。わたしたちは、後ろに控えて彼らの援護」
「いや、しかし……」
 凛は、不満を述べようとした士郎に、キツい視線を送って黙らせた。「士郎、あんたの能力を、あまり知られるわけにはいかないのよ。人質になるリスクも犯せないし、お互いに援護できる範囲で行動すること」
「それって、くっついていろって事じゃないか!」士郎が武器として投影できるのは、剣が主体だから、白兵しかできない。
「当然でしょう。悔しかったら、アーチャーみたく弓とか盾とか投影してみせなさい」
 ライダーが、天井を抜けて降りて来た。「特に何もないようです」
 緊張が弛緩した。桜など、大きく息を吐き出している。セイバーもライダーも武装化を解く。ライダーが慌てて、眼鏡に戻した。
「気配は感じないわね、様子を見に来ただけかな、リン?」
「だといいんだけど」
「誤作動かもしれないぞ」
「……あのう、リン」おずおずと、セイバーが口を開いた。「魔力の事なんですが……」 それを聞いて、凛はあちゃあ≠ニ顔を押さえた。「商店街で――」
「はい、あの攻撃に耐えるために、消費してしまいました。通常の戦闘なら、問題はないと思いますが、こころもとないので……」
「リン、何の話をしてるの?」
 凛とセイバーが、士郎の方を見る。
 はっと、気がついた桜が、二人と士郎の間に割り込んだ。「だめですっ! 魔力が不足しているからって、先輩とする≠ネんて、だめですっ!」
「あ……」と、3人の話題をようやく悟った士郎が、真っ赤になった。
「じゃあ、どうしろっていうのよ、桜」
「あ、そういうことなんだ、だったら、私もシロウにパスを通してもらおうかしら?」
「イリヤちゃんっ!」
「別に、この際、サクラも公平にやっちゃえばいいじゃない。そうすれば、お互いに魔力を融通しあえるんだし。リン、私の条件は、それだからね」聖杯戦争では、あたしだけ仲間はずれなんだったんだもん、とつぶやくイリヤ。
「まあ、それは後で交渉ということで」
「お、おれの意志は……?」
「あきらめて下さい、シロウ」と、ライダーが士郎の肩に手を置いた。「それに、全員で公平ということになれば――」
「ライダァ?」背中の方に、黒いものをひらひらさせているような表情で、桜が自分のサーヴァントを睨みつける。
「ナ、なんですか、サクラ?」と、しれっとライダーは、桜の視線を受け流した。「別に、マスターを差し置いて、シロウと――なんて考えていませんよ?」
 四面楚歌の状況に、桜はうつむいてしまった。顔色が赤黒くなっているような印象を周りの人間に与える。
「……わかりました」意を決して、顔を上げた。「私がセイバーさんにパスを通します」開き直ったのか、その顔には、すがすがしい微笑みさえ浮かんでいる。
 セイバーは、桜へ向けて自分を押しだそうとする力が働くのを感じた。振り返ると凛が、彼女の背を押している。「リ、リンっ?!」
「桜が決めちゃった以上、しょうがないわ、あきらめてちょうだい。時間がないから、キスでいいわよ」
「しししし、しかしっ!」
 セイバーが前に視線を戻すと、桜が間近に立っていた。
「サ、サクラっ!? よよよ、よく考えて――」
「魔力が必要なんでしょう?」
「それは確かにそうなんですがっ、できれば、女同士は、もうたくさんというか、かんべんして欲しいと思わなくもないんですがっ!」ライダーも加わって、セイバーの抵抗が封じられる。
「やっちゃえ、やっちゃえ!」とはやしたてるイリヤ。
「イリヤスフィールっ!」
 桜の手が伸びて来て、セイバーの顔を優しく包み込んだ。
「ふふふ、セイバーったら震えてる」
「リンっ!」
「おかしいですね、生前の事を勘定に入れれば、セイバーがもっとも経験豊富なはずですが」
「ライダーっ!」
 桜はうつむいて表情を隠すと、士郎に声をかけた。「先輩、見ないでいただけますか……?」
「あ、ああ、ゴメン」誰に謝っているのか、士郎は、台所へと待避した。
「ああ……シロウ……」見捨てられた子犬のような顔で、セイバーは士郎の背中を見送った。
 それを確かめると、桜は、再び微笑みを浮かべて顔を近づける。「セイバーさん、かわいいですよ」
「あ、あのあのあのあのああああ……」どういうわけか、桜の手は、セイバーの頭をがっちり固定してしまっている。体を動かすことができない。眼だけがせわしなく左右へと動いて、逃げ道を探している。だが、そんなものはどこにもなかった。
 眼を閉じた桜の顔が、セイバーの視界いっぱいに広がった。さらに、二人の距離が小さくなる。
 接触。
 最初は、唇を触れ合わせるだけだった。だが、すぐに桜は、セイバーの唇を包み込むようにして吸い上げた。
「ん〜〜〜〜〜っ!」と、セイバーは叫び声をあげようとしているのだが、ぴったりと密着した桜の唇で、口をふさがれているので、それもかなわない。
 桜の舌がセイバーの唇を割った。きれいに揃っている歯の前面を、ゆっくりと舌が往復する。
「〜〜〜〜!」
 セイバーが言葉を発しようと舌を動かすと、桜は、それを追いかけるように、自分の舌でセイバーの口腔内をなめ回す。表情が陶然としてきている。
「うわあ……」と、イリヤが感心したような声をあげる。凛も、桜の妖艶な表情に、息をのんでいる。
「ふぅ」と、桜が息を継いだ。
 だが、セイバーから、能動的な抵抗は消えていた。再び口づけた桜に、応えようとはしていないが、コクンと喉が鳴って、彼女が桜のものと混じり合った唾液を嚥下したことを知らせた。
「ふうっ……」それを確認すると、大きく息を吐き出しながら、桜の唇がセイバーから離れた。
 5人とも、無言だった。
 と、セイバーの膝が崩れる。
「ちょ……セイバー?」我に返った凛とライダーが、彼女を支える。
「先輩、終わりました……」泣きそうな表情をした桜が、かすかな声を発した。
 呼ばれて居間に入ってきた士郎は、その場の空気の違いを感じたのか、とまっどったように辺りを見回した。
 程度の差こそあれ、皆一様に、その頬を上気させ、呼吸を荒くしている。
「大丈夫なのか、みんな?」
「ええ、ええ、大丈夫よ。少なくとも、身体的にはね」――しばらくは夢に見そうね。と、付け加えたくなるのを、凛は呑み込んだ。
 眼に焼き付いてしまったものを払いのけようとしているのか、ぺたんと座り込んでいたイリヤが、プルプルと首を振っている。
 とても、凛の言う通り、大丈夫には思えなかった。――キスで、なんでこうなるんだ?
「桜、大丈夫か」士郎は、うつむいてしまった桜の顔をのぞき込む。
「はい……大丈夫です」
 士郎は、桜を元気づけようと手を伸ばすが、士郎の手が触れた瞬間、彼女はビクッと身体を震わせた。
「……すみません、先輩。」
「気にしてないからな、桜――遠坂、セイバーは?」士郎は、桜の気分を察して言った。
「私の方は、大丈夫です、シロウ……」よろよろと、セイバーが立ち上がろうとする。ライダーが、セイバーの両脇に手をかけて支えた。
 全員の注意が、セイバーに集まったその時!
 結界が再び反応し、一秒と開けずに天井が破れ、そこから何かが降って来た。
「危ないっ!」と、士郎は反射的に桜をかばおうと身体を躍らせた。
 降って来たそれは、鋭い刃物のようなものを持っていたらしい。降って来た勢いのままに、士郎のわき腹を切り裂いた。
「ぐわっ!」血が飛び散った。
「せ、先輩っ!」士郎に押し倒されて、しりもちをついた桜が悲鳴を挙げる。
 それは一瞬、床の上で静止する。使い魔の一種らしく、猫のような4本脚の動物に見えた。黒一色でシルエットとしか知覚できない。残像を残しながら、今度は、桜に向かってジャンプする。
 金属同士の触れ合う、澄んだ音が鳴った。
 空中で、動物が軌跡を変え、部屋の隅に着地していた。そのすぐ脇に、鎖付きのダガーが突き立っている。
 かすかな音を立てて、長い爪を生やした黒い脚が1本、遅れて床に落下した。切断面からの血が、じわりと流れ出す。
「ラ、ライダー……?」
「大丈夫ですか、桜?」再び武装化したライダーが、鎖を操ってダガーを引き戻す。
「私は大丈夫、先輩が……」慌てて、桜は士郎の傷を探る。
 床に倒れた士郎が、苦痛をこらえてうめき声を上げる。
「桜!」凛が、近くにあったタオルを後ろ手に投げると、救急箱を取り出そうと走る。
「あ、はいっ!」桜は、タオルで士郎の脇腹を押さえた。
 こすれあうような声で、3本脚となった動物が対峙するライダーを威嚇する。
「あんたなんか、恐くないわよ!」と、ライダーと共に、イリヤが身構える。
 二人の後ろで、セイバーが再び武装化していた。あふれ出す魔力が、風となって渦を巻き、あたりの空気が、チェレンコフ光のような青白い光を発する。
 ライダーとイリヤの列に、セイバーが加わった。宝具{エクスカリバー}ではない、予備の剣を握っている。
 動物は、威嚇をやめ、再び残像を残してジャンプした。今度は窓ガラスが割れる。
「逃がしません!」セイバーが、その後を追って飛び出した。
「セイバーさん!」
「いいわ、任せておきなさい。いざとなったら、呼べばいい」凛は、桜に、血がしみ込んだタオルをのけさせた。
「でも……」
 凛は、士郎が着ているトレーナーの裾をたくし上げた。ぜい肉のない、引き締まった腹が現れる。「そっか、セイバーが近くにいれば、アヴァロンの働きで手当なんかする必要、なかったかもね」
「だったら、セイバーさんを呼んだ方が……」
 凛は、きつくさらしを士郎の腹に巻き付けた。「大丈夫よ、こいつ、聖杯戦争中は身体がまっぷたつになりかけても、生きていたんだから」
「だからって、痛いのは痛いんだぞ」士郎は、痛みをこらえて身体を起こす。
 結界が、また警告の音を鳴らした。
「リン」イリヤが、凛を呼んだ。
「来た?」
「失敗したからかな? あれは囮にしたみたい。獣牙兵の大群だわ」
 イリヤの言うとおり、さっきの動物が飛び出していった窓から、何か、乾いたものが蠢いている気配がする。
「本体は、まだ出てこない?」
「気配はないわ。近くにはいるんだろうけど……隠れてるのかな?」
 庭に面する窓ガラスが、部屋の中に飛び散った。破片が間近に飛んできて、桜が悲鳴を上げた。
 猛獣の骨格標本のようなものが飛び込んできた。猛獣の牙を触媒にして生み出される、使い捨ての使い魔、獣牙兵だ。






――冬木市旧市街
「許しません!」使い魔を追って、セイバーは反射的に飛び出していた。「士郎を傷つけるなどっ!」
 ライダーやランサーのような高速での移動はできないが、セイバーもサーヴァントの一人、神速と言っていいスピードは、使い魔に負けていない。しかも、桜から流れ込んでくる魔力は膨大で、聖杯戦争で召喚されて以来、初めて魔力の心配なしに動けるようになっていた。
 ――桜には悪いですが、備蓄魔力もこの際補給させてもらいましょう。 そう考えた途端、意識が桜とのキスをリピートして、セイバーの頭の中は混乱しかけた。
 ――こんな時に、何を考えているのですわたしは。 ことさらに、前方の使い魔に注意を集中して、その記憶を振り払う。
 と、使い魔が広い場所で動きを止めていた。
 新都へ渡る橋のたもと、海浜公園の広場。セイバーは、熱くなって深追いしすぎたことを認めざるを得なかった。凛からも、すぐに戻ってくるように呼びかけられている。
「凛、従いたいのですが、簡単に返すつもりはないようですね」多数の敵の存在が感じられる。
 わらわらと、セイバーを包囲するように、無数の獣牙兵が地面から現れた。
「竜牙――いえ、獣牙兵ですか。もっとも、数だけのようです」
 包囲が完了すると、周囲には結界が張り巡らされた。そして、凛との交感が遮断される。
「そうでもない」と、どこからともなく声が聞こえてきた。「質も用意してある」
 セイバーはそちらに視線を向けたが、特にそれらしい存在は見あたらない。声を聞かせようとするのだ、それぐらいのことは予想できたことだ。「隠れているだけ、自分の事が解っているようですね、魔術師{メイガス}」
「使い魔≠フ癖に、ずいぶんと不遜な言葉を吐くではないか」ため息の気配。「まあ、マスターとして契約していない者には、そんなものか?」
「聖杯戦争後も、私たちがマスターに忠誠を誓っているのは、表面的な令呪による契約が理由ではないという、当たり前の事が解りませんか?」アーサー王であった彼女にとって、表面的な忠誠を信じたことによって受けた痛手は、苦い教訓となっている。
「英霊といえども、この時代で現界しているというのは魅力的という事だ」この魔術師は、セイバーたちの動機を決定的に誤解しているらしい。「かの英雄王{ギルガメシュ}が留まったことがそれを現しておる。どうじゃ、使い魔≠ニいえども、少なくとも万年金欠の遠坂の小娘よりは贅沢をさせてやれるぞ」
 セイバーは激昂した。「こ、この私をギルガメシュなどと一緒にするとは! 騎士の誓いを、違えることなどあり得ません!」
「義理堅いことだ」言葉に面白がるような気配が混じる。「交渉決裂じゃな」
 再び、地面から獣牙兵が現れる、が、それはセイバーの周りでうごめく他のものより大きかった。セイバーは、じきに、視線を上に向けなければならなくなった。
「特製の獣牙兵だ。おまえの力で勝てるかな?」
 セイバーは、その獣牙兵を見上げた。バーサーカーほどではないが、それなりの威圧感を感じる。甘く見ない方がいいだろう。

――衛宮邸
「桜、後{うしろ}お願いっ!」凛は、ガンドを放った。乾いた音とともに、飛び込んできた獣牙兵が粉々になって飛び散る。
 だが、すぐに次が飛び込んでくる。
 ライダーとイリヤも、加わった。
「ライダー、天井の穴を警戒してっ!」
「はい」トン、と床を蹴って、ライダーは上へと姿を消した。
「んもうっ! 数が多すぎ!」イリヤが、窓の外へ向けて魔力を放った。
 庭にいる獣牙兵が数体、破壊される。
「セイバー、急いで戻って来なさい」凛が口に出して叫ぶ。
 内心の声に耳を傾けながら、ガンドを放って、部屋に飛び込んでこようとする獣牙兵を次々と粉砕する。
「まったく、士郎が傷つけられたからって、深追いするから」凛は、ポケットから宝石を取り出した。「セイバーは、足止めをくってるみたい、戻ってくるにしてもしばらくかかりそうね」
「え〜〜」イリヤは、不満そうな声を上げた。「もうっ! 帰ってきたらお仕置きよ! 晩御飯抜きっ!」
 凛は苦笑いしてしまった。そうなった時のセイバーの顔を思い浮かべたのだ。わめきたてるだろうか、それとも、自分に非があるのを自覚しているだろうから、下唇をかんでうつむくだろうか。
 気を抜いた瞬間を狙ったかのように、台所の方から獣牙兵が飛び込んできた。
 凛が、そちらに対処しようと身体を巡らせようとしたが、目の前からも獣牙兵が迫って来ていて、振り向けない。
 ――あちゃあ、これで終わりかしら。 と、妙に冷静に凛は、心の中で思った。その時!
「投影開始{トレース・オン}」
 後ろから聞こえて来た、頼もしい声に、凛は安心して目の前だけに意識を絞って対処する。後ろの方で、乾いた、獣牙兵の倒される音。
「持ってきなさい、このドロボー!」凛は、先ほどから握りしめていた宝石を、庭へと投げた。獣牙兵が密集しているところへ飛んでいった宝石が弾けて、あたりの獣牙兵を一掃した。
「さて……と」とりあえず時間を確保した凛は、にこやかに笑いながら振り返った。「桜、ライダーは?」
「無事です」
 凛は視線を士郎の方へと向けた。干将・莫耶を持った士郎が、思わず身構える。
「ふーん、衛宮クンってば、そういう態度をとるんだぁ」
 士郎は、明らかに狼狽した表情を浮かべると、逃げ場を求めて左右を見た。だが、そんなものがあるはずもない。
 凛は、すたすたと士郎に近寄ると、彼の頭をはたいた。
「ああっ、もう、何のために投影{それ}を使うなっつったのよ!」
「そうは言っても、遠坂が危なかったじゃないか」
「う……」凛は、士郎のまっすぐな物言いに、顔を赤くした。
「桜は魔術師を捜すので忙しかったし、将来{さき}の事を気にして、助けられるのを助けないなんてわけにいくか!」  凛は、ますます顔を赤くした。
「リン、ずるいっ!」イリヤが割り込んできた。
「なにがずるいって言うのよ!」
「なにさ、リンばっかりシロウに助けてもらって」
「そこまで考えていられるわけないじゃない!」
「イリヤ」と、士郎が、珍しく厳しい声をかけた。
「……ごめんなさい」自分が、わがままを言っているのが分かっていたのだろう。イリヤは即座に、士郎へ謝った。
「明日の晩御飯は、イリヤのリクエストにしてやるよ」士郎は、イリヤの頭をくしゃくしゃとなでる。
「もうっ! レディの頭をなでないでって、言ったでしょ!」
「桜、魔術師がどこにいるか、判った?」
「すみません、まだ……」
「何をしているんですかっ? また庭がいっぱいになってますよ」ライダーが、屋根から降りてきた。
「ライダー、今のうちにみんなの靴を取ってきてくれないか」おっかなびっくりで足を踏み出しながら、士郎は外をうかがった。
「いい考えです、シロウ」
 桜はあわててほうきを持ち出すと、畳の上に飛び散っている窓ガラスの破片をはいて、動きやすくする。
 凛やイリヤも、窓から外をうかがう。「また、獣牙兵の大群か」
「竜牙兵を使ってくれてれば、竜の歯は高価だから、数に限界があるんだろうけど」
「そこらへんの猛獣ですむから、安いもんね」ライダーから受け取った靴を履きながら、イリヤが言った。「性能はダメダメだけど、数だけはそろえられるもん」
「戦争は数とは、よく言ったものだわ。このままじゃ、じり貧だわ。魔力はあるけど、体力が保たない」
「せめてあいつらに眼があれば、ライダーの魔眼で一発なのに、庭も石にするつもりじゃなきゃ使えないのよね」
「すみません」
「気にしないで、ライダー」
「圧倒的な戦力差を見せるか、魔術師を見つけだすしかないか……」と、遠坂が熟考モードに入った。
「来るぞ!」
「サクラは、とにかく魔術師を探し出してよっ!」反応が遅れた凛よりも先に、イリヤが士郎の隣に立つ。にこにこと笑って、士郎を見上げる。「これであたしたち、戦友{カメラード}だね、シロウ」
「ああ、頼むぞ、イリヤ」士郎は、剣を持ち替えた。
「だからっ、レディの頭をなでないでっ!」
「ライダー、引き続いて、屋根を頼む」
「了解です、シロウ」

――海浜公園
 セイバーは、両腕を剣のように変化させた特製獣牙兵≠ノ対峙していた。すぐには隙を見いだせない。「さすがに特製≠うたうだけのことはありますね」
 特製∴ネ外の獣牙兵が、大挙してセイバーへと押し寄せてきた。
 ――当然です、時代劇のようにはいかないでしょう。
 セイバーは剣を横薙ぎにして、獣牙兵を蹴散らした。
 その瞬間に、特製≠ェ腕をセイバーに向けて振り下ろしてきた。
 セイバーは身体を開いて片方に空を切らせ、もう片方はぎりぎりで受け止めた。すぐに、そこから身体を引くと、後ろの獣牙兵に剣を突き込んだ。そのまま、剣を振って再び前で構え直し特製≠ヨと備える。
 獣牙兵達には、あのチンピラ達にあったような恐怖という言葉はない。セイバーへの突進を再開し、手を伸ばして彼女の動きを封じようとする。
 セイバーは、周囲の獣牙兵を再び蹴散らす。だが、動作の途中で特製≠ゥらの攻撃を察知。剣を構えようとする、と、その腕が抑えられた。とっさに、地面に自ら転がることで敵の剣を避ける。
 立ち上がろうとするセイバーに、ここを先途とばかりに、獣牙兵が群がって来た。それぞれが、彼女を捕え、殴り、傷つけようと爪を突きたてる。
 ――これではらちが明きません!
 セイバーは、風王結界を自分の周囲に展開した。荒れ狂う風に、獣牙兵は砕かれ、ばらばらに吹き散らされる。そのまま身体を起こすと、セイバーはこの場をとりまく結界の、ある一点へと駆けて行く。
「無駄だ、この結界を破ることはできん」
「やってみなくてはわからないでしょう」獣牙兵の囲みを突破したセイバーは、特製≠含めた獣牙兵達の方へと身体を向けた。
「時間がありません、凛、後始末を押しつけてすみません」そう言うと、セイバーは身体にまといつかせていた風王結界を解除、予備として今まで使っていた剣を手放し、自分が本来持っているべき剣、さっきまで自分が展開していたのと同じく、風王結界をまとわせて不可視としている剣を召喚して、手に取った。
 軽く目を閉じて精神を集中。魔力を、剣に流し込む。それに応えて剣全体が淡い発光を始め、風王結界をものともせず、そのシルエットを浮かび上がらせた。
 ようやく彼女の存在を認識した獣牙兵達が、地響きを立てて迫ってくるが、彼女は特に動こうとせずに剣を大きく上段に構え、剣に流し込む魔力を最高潮に持っていく。そして、内側から放出される魔力に耐え切れず、風王結界が弾け飛び、輝く剣が姿を現した。
「その剣はっ――!」
 特製≠ェ、彼女のイメージする軸線上に達した。射線が公園の木々や施設をできるだけ傷つけず、海へと延びるその一線! セイバーは、宝具の力を顕現させるための言霊をつむいだ。「約束された勝利の剣!!{エクスカリバー}」  振り下ろされた剣から、すさまじいエネルギーが撃ち出された!
 それは、特製∴齡ハの区別なく獣牙兵を飲み込み、地面を抉りながら結界へとぶち当たった。結界は一瞬、その機能を果たそうと抵抗したが、結果的に崩壊しながらエネルギーを通す。
 エネルギーの塊は海の水を巻き上げながら、彼方へと飛んで行き、朝焼けの空に消える星のように見えなくなった。  セイバーの前には、何も残っていなかった。ただ、圧倒的な熱量が解放されたため、地面には大きな傷跡が穿たれ、あちこちから煙が上がっている。
「あ、アーサー王だと! おかしいではないかっ! そのような強力な英霊が、イングランド王がっ、何故、とるに足りない遠坂の小娘に隷従する!?」
「あなたにはわからないのでしょうね」セイバーは、大きくため息をつくと、振り抜いた体勢から身体を起こした。「彼らの行く末を見届けたいという、私の気持ちが。彼らは、その生き方で、私が間違っていることを教えてくれました。だから、彼らの剣となる事を騎士として誓ったのです――では、これで」
 踵を返すと、セイバーは、衛宮邸の方へと駆け出した。





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