日向の匂いが香る籠から洗濯物をしまい終え。


 耳に届いた愛の言葉に手持ち無沙汰な身を向ける。半ば以上に乱れ肌蹴て絡まりくねる恋人たちを、ブラウン管を通して眺め。
 いつもの自分の指定の席に腰を下ろして視線を上げて。


 ―――瞬きを忘れ、息を呑む。


 硝子を越して覗く空。茜の色に淡く輝き、そこから落ちる薄紅が居間の畳と彼女の半身を恐る恐ると染め上げる。
 愛でる様に撫で擦り捧げ持つは、陶磁にも似た肌理の五指。紙を纏った硝子の壜を、呆れるくらい慎重に―――愉しむかの様な歩みで傾けていく。
 内を伝う無色透明の小さな蛇。亀の歩みで零れるそれを、砂色の器が受け止める。
 最後の一滴。輝き落ちるその一雫を、潤んだ瞳と漏れる吐息で受け止める。
 白磁の指先が添えられた器は、可愛らしいほど小さくて。
 その淵に波と揺れる淡やかな光を湛えた、柔らかな砂の色は。
 それを陶然と見つめる彼女の瞳、涙を湛えたその双眸の様にも似て。
 ……名残惜しげに、視線を細め。
 僅かに傾くその淵に、静かに口が当てられる。
 傾き続ける器から、薔薇の唇を滑るかの様に、虹が静かに落ちていく―――

「…………」

 内腑に沁みた熱にも劣らないだろう、熱い吐息。……釣られる様に、一拍遅れて息を吐く。
 わたしが思わず洩らしたそれは、彼女とは違って微塵の艶めきも含まれてはいなかった。ただ、単純に―――必要だったからこその、動作。
 思わず呼吸を忘れるほどにそれに見惚れた、その代償。

「―――ねえ、ライダー」

 返る彼女の濡れた瞳に覚える、理由のつかない気恥ずかしさを堪え。

「……それって、そんなに美味しいの?」

 愛しげに、壜を抱えて余韻に浸る。
 ……酒精を愉しむ向かいの彼女に、間桐桜は呟いた。













『千鳥を踏んで』


作:うづきじん














「サクラはお酒を飲んだことがないのですか?」

 卓を挟んだわたしの問いに、むしろ意外そうな色をその声とかおとに浮かべ、ライダーが尋ねてくる。
 ……言われてみれば。確かにわたしは、お酒というものを殆ど飲んだことがない。
 衛宮の家には、お酒は絶えずあったけど。それは例えば煮物の為の日本酒とか、そうでなければ姉さんが置きっ放しにしていった中華料理用のお酒とかで。
 わたしにしてみればお酒とは、飲み物という以前に調味料の一種という印象がある。だからだろうか、それ単体で頂こうとは思い付きもしなかった。
 今は買い物に出かけている、先輩も藤村先生も。少なくともわたしが通う様になってからのこの家では、晩酌という習慣はなく。先輩はもともと、その手の娯楽には関心の薄い人だし―――先生は、お酒自体は好きだと聞いたけれど。先輩曰く『名は体を表す』とかで、衛宮家内では禁酒令を出しているとかいないとか。
 そもそもの話、既に解禁は間近とは言え―――わたしも先輩も、まだ未成年だ。幾らなんでも先生の前で、堂々と飲酒する訳にはいかないし。

「うん。あんまり」

 せいぜいが、お正月に御神酒を舐めるくらいだ。……周りにライダーみたいな人も居なかったし。
「―――おかしいですね。サクラは酒好きだと聞いたのですが」
「え?」
 こぼれた言葉に、視線を上げる。なんか今、本人も初耳の噂を聞いた様な。
「いえ。以前アヤコに、サクラはお酒が大好きだと」
 あんまり好きだから滅多に飲まないらしいとか、などと身に覚えの無いことをライダーは並べてくる。
「……美綴主将が?」
 卒業してからそろそろ一年。もう随分見ていない、皮肉気に微笑う彼女の顔を思い出す。―――ああ。彼女はとても良い人なんだけど、時折真顔で悪戯を仕掛けるって悪癖があったっけ。
 確かに弓道部の歓迎会とかで、最初の一杯くらいは口を付けた記憶があるけれど。
 ……あんまり覚えが無いが、少なくとも美味しいとは感じなかった気がする。わたしの味覚が子供なのかもしれないが、当時も今もお酒という飲み物に対しわたしが抱く感想は、単に苦いだけ―――という程度で。

 それよりも。
 ご飯やパンや麺類の方が、ずっと美味しいと思うのだ。

「……なに、ライダー。そのかおは」
 真正直に告げた彼女の微妙な顔に、思わず声に棘が生える。ライダーには珍しい、呆れ混じりの優越感を含んだかお。僅かに下がった目尻を見るに、少し酔っているのかもしれない。
 細めた視線で、やや大仰に肩を竦めて。

「サクラは、子供ですね」

 ……呟く彼女を、射竦める。
「子供で結構ですっ。昼間からお酒飲んでる様な駄目な人よりましでしょう!?」
「サクラ、今日は土曜日でお休みです。まだ陽の高い内から、のんびりと杯を傾ける。これが休日の醍醐味というものでしょう」
 緩んだ笑顔で飄々と返す年中有休の同居人。いつの間にやら用意したのか、その前には塩を添えられた茹で玉子の小山が供えられていた。
「……もう」
 器用に卓の角を利用し、楽しそうに殻を剥くその姿に毒気が抜かれる。苦笑を一つ投げ、思わず浮かせてしまった腰を下ろした。
 既にライダーの抱えた壜は空の様だ。つまめるほどの小さな器に半分ほど残ったお酒を、それこそ舐める様に口に運ぶ姿はいっそ可愛らしい。
 ……知らない間に専用のぐい呑みまで用意していたライダーは、衛宮家でただ一人晩酌の習慣を持つ住人だ。もともと出自が蛇に由来あるせいか、どうにもお酒には目がない性質だったらしい。一緒に暮らし始めて暫くの後、まだ相変わらず堅い雰囲気を保っていた彼女が最初にねだった我侭が、晩酌の為のお小遣いで。
 赤く染まったその顔と微妙に視線を逸らした様は、望みの額と相まって二重の意味で微笑ましく。
 ―――まあ。

 嬉しそうに、そのぐい呑みを使う度。
 微妙に赤面する人に、気付かないでいてあげるくらいには。

 少しばかり湧いた黒々とした想いを黙殺しつつ自分に置き換えてみる。……確かに、箸とお茶碗をプレゼントされるというのも、どうだろうかとは思うけど。
 それでもやっぱり貰えば嬉しくない訳もなく、貰っていないからこそ羨ましい訳で。
 ……小さく鳴った涼やかな音に意識を戻す。何とはなしに点けていたテレビ、画面に映るのはウイスキーのコマーシャル。
 褐色に淡く輝く綺麗な液体の中で、まるで宝石の様に蒼い氷が煌いている。

「―――そういえば、姉さんはどうなんだろ」

「はい?」
 思わずこぼれた呟きに、怪訝の声が跳ね返る。……振り向き僅かに身を退いてから、何とか気を取り直し。
「いえ、姉さんはお酒って飲むのかなあ、って。……あとライダー、ゆで玉子を丸呑みするのは止めて。なんか怖いから」
「ふむ。確かリンは、一通りは嗜む筈ですが」
 アヤコ曰く、随分と『イケルクチ』らしいです、と続ける。
「ただ、ワインだけは嫌いではないけど飲みたくないとか。何でも嫌な思い出があるそうで」
「ふうん。姉さんらしいといえば、らしいわね」
 つまり、万事に付けてそつなくこなし、弱点がないと言うことだけど。ワインについては……何となく理由が分かる様な。
 今は遠く、倫敦に在る姉さん。あっちの料理は酷く雑だと聞くけれど、お酒に関してはどうしてるんだろう。
 それこそ柳洞先輩みたいに、一滴も飲まない気もするし―――毎日水みたいに飲んでいる気もする。自分の限界というのをきっちり弁えた人なので、間違っても酒に呑まれたりはしないだろうから。
 ……べろべろに酔っ払って正体をなくした姉さんというのも、一度見てみたい気はするけど。

「……今度、試してみようかしら」
 目薬とか。

「サクラ?」
「ううん、なんでもない。……ねえライダー。なんかおつまみ作ろうか?」
 上げた視線のその先に、殻の小山を捉えて尋ねる。……一ダースは有った様な気がしたけど。
「ありがとうございます、サクラ。お願いします」
「はいはい」
 いつになく遠慮しない応えに、苦笑しながら席を立つ。どうもライダーは、お酒が入ると素直になると言うか。日頃纏っている近寄り難さとか緊張感とか、その手の諸々を脱ぎ捨ててしまう傾向がある。その事自体は微笑ましいというか、むしろ可愛らしいとも思うんだけど。

「……もしかして酔ってるのかなあ」

 台所の奥、冷蔵庫の中身を物色しながら、何とはなしに首を捻る。もしかしても何も、傍目には酔ってる風にしか見えない。見えないのだけど、

「サーヴァントって酔っ払うのかな」

 昼食の残り、鳥の砂肝と白髪葱とを刻みながら思う。確かにライダーはごはんの味も分かるみたいだし、沢山食べればお腹一杯とは言う。もともとが霊体の身とは言え受肉を果たしている以上、切れば血を流すし度が過ぎれば酔いもするし風邪だって引くのだろう―――あの格好で一冬過ごしても、全然堪えてなかったみたいだけど。

「……ずるい」

 中華鍋に薄く胡麻油を敷く。ライダーの『酒癖』は今回が初めてではない。盗み食いこそしないけれど、毎日の様に波を湛えるぐい呑みの傍らには、常に何かが備えてあった。

「…………」

 それは漬物だったりスナック菓子だったり先輩やわたしの作るおつまみだったり自分で作った茹で玉子だったり、種類は多彩だったけど。共通しているのは、たまにならともかく―――毎日毎晩つまむには、些かならず量が過ぎている、という事で。
 普段は割と少食な癖に、お酒があると箸が進むらしく。いつだったか、半日掛かりで拵えた渾身の出来の肉じゃがを、大鍋一杯に『つままれた』時は、前例に倣って禁酒令を出そうかと思ったほどだった。……今回も買い置きの玉子が全滅してるし……。

「……いいなあ」

 弾ける油に砂肝を落とす。薄々分かってはいたけれど、どうもライダーにとっては体重計は敵でないらしい。摂った栄養は恐らく魔力に変換され、それでも足りない大部分をわたしから供給されているんだろう。食事程度で必要な魔力を全て補える筈もないから、事実上ライダーは際限なくご飯を食べられる。それどころか間食夜食、甘いお菓子に高カロリーの油物。時間も量も思いのままだ。

「……ずるい」

 色が変わった砂肝の上に、葱をかぶせて酒と醤油を振り掛ける。上がる煙は香ばしく、弾ける音も心地良い。火力を弱め、蓋を落として暫し蒸す。
 でもまあ、それは良いのだ。それはもともとこの世界に在る理が違うだけの話。羨ましいとは思うけど、替わりにわたしには満腹という、怖いながらも心地良い枷がある。
 ……まあライダーも、なんか極々たまにお腹一杯になってるみたいではある。隠れて何を食べてるのか知らないけど。

「……卑怯だよなあ」

 お皿にタレごと砂肝と葱とを移しながら、居間の彼女に聞こえないように一人ごちる。実際、あれは卑怯だと思う。
 今までは良く見たことがなかったから、気付かなかったけど。
 ……多分先輩はとっくに知っているんだろう。わたしのお風呂は正直、長い。ぽかぽか茹だって出てくる度に、そう言えば先輩はよくライダーの晩酌に付き合っていた。
 先生の目があるせいかお酒は飲んではいなかったけど―――否、だからこそ。一人素面の先輩が、意識してない筈がない。


 桜に火照る、肌理細やかな陶磁の肌と。
 濡れて艶めく、花の唇。
 そして何より、薄い硝子越しに覗くその瞳は。
 凄絶なまでに美しく、けれど酒精に煌き揺れて―――


「……卑怯だ」

 今なら分かる。わたしの姉さん、遠坂凛と言う女性が―――暖かな芯を持ちながらも、どこか冷たい猫を被って過ごしてきた彼女が。
 それでも何故、あんなにも魅力に溢れ。男女を問わず焦がれ、憧れ―――卒業して一年が経った今も、半ば伝説の様に学園で語られているのか、その訳が。

「はい?」

 待っている間に、更に廻ったのか。一層蕩けた双眸で、ぼんやりライダーがこちらを見上げる。  いつものそれこそ凛とした面持ち、刃物の様な鋭く冷たい雰囲気は跡形もなく、どこか童女めいた印象すら浮かべた彼女。
 怜悧な色は蕩けて乱れて。全身これ隙ありとでも言いたくなる様な、けれどそれでも隠し切れない魅力を纏う、日向にまどろむ仔猫の様な彼女に。

「なんでもありません」

 意識し素っ気無く答え、淡い醤油に染まったそれをことりと卓の上に置く。添えられた箸は二膳。ライダーの分と、わたしの分だ。
 つまらない事を考えて、折角の休日を潰してしまうのも勿体無い。こういう時は美味しいものを食べるのが一番だ―――先輩の夕食が待っているから、食べ過ぎないようにしないといけないけど。
 いただきますと声を揃えて、遅めのおやつを二人啄ばむ。傍らの湯呑みに波打つのは、こちらは未成年らしく健全に烏龍茶。お酒に合わせて濃い目の味に、冷えた渋味が心地良い。
 暫く無言で皿を突付く。と、
「……おいしいです、サクラ」
 ぽつり、と。出し抜けに上がった声に、視線を上げる。
「うん。ありがと」
「……私は幸せものですね。サクラも士郎も、毎日素晴らしいものを食べさせてくれます」
「そんな大袈裟な」
 やけにしみじみとした声に、思わず箸を止めて苦笑を返す。実際、大した料理ではない―――と言うか、殆ど手慰みに近い。
「単に醤油で炒めただけだよ?ライダーだって出来るよ、これくらい」
 藤村先生はどうかなー、と、胸中言葉に出さずに続け。
「いえ」
 器に口付け一口舐めて、至極真顔で首を振り。
「得てしてこういう単純なものに、ものの極意があるのです。この味付けも火の通し方も、容易に真似出来るものではない」
「―――そ、そう?」
 妙な迫力に、少し引きながらも相槌を打つ。
 まあ何であれ、褒められて悪い気はしない。特に料理は、得難い競争相手が間近と彼方に居てくれる。その中でも在り合わせの材料でこう、ぱっと作る―――その。
 所謂『良妻賢母』のスキルを褒められるのは、正直嬉しかったりもして。
「ええ。ありがとうございます」
「―――うん。あ、でも、食べ過ぎちゃ駄目だからね?今夜は先輩が美味しい鍋に腕を振るってくれるんだから」
 何でも今朝方藤村組に、どういう伝手だか海の幸が山と届いたらしい。お裾分けにと貰った量は、それこそライダーが羨ましく思えるくらいに沢山で。
「なべですかー」
 幸せそうに弛緩したその呟きは、いよいよ呂律が怪しくなってきている。見れば手に持つぐい呑みの内は、既に底が覗いていた。

「……ライダー。みっともないから止めなさい」

 未練がましく壜を傾け雫を掬う英霊に、頭痛を覚え制止を投げる。お酒が入って御機嫌な彼女は、度々見掛けはするけれど。
 ここまで前後不覚と言うか。良い意味でも悪い意味でも人間らしい彼女の姿は、ちょっと記憶に浮かばない。
 それでも何とか数滴を、壜の口から器に落とし。さも大事そうに左の掌に捧げ持ちながらも、焦らすかの様に箸を躍らせる彼女の姿に。
「ねえ、ライダー」
 浮かんだ疑問は、好奇心にも似て。
 今まで覚えたことも無い、淵から僅かに漏れて零れた。


「……お酒って、そんなに美味しいの?」
 深く思案も通していない、ただ浮かんだだけの疑問の言葉だったのだ、けど。


「……サクラはお酒を飲んだことがないのですか?」
 酔ってる。やっぱりライダー、酔ってる。
「うん。あんまり」
 脱力感に囚われながら、先に返した答えを返す。……あー、そう言えば藤村先生のお爺さんの時もこんな感じだったなあ。
 とても良い人なんだけど。善意に溢れた朗らかな口調で、結納の時期を尋ねられ続けたあの時は。
 先輩の全快祝いの宴の最中。勢揃いした藤村組の皆さんの、温か過ぎる視線を存分に浴びて。  その後暫く、先輩と顔を合わせるその度に思い出し―――二人揃って真っ赤に熟し、ろくに会話も出来なかった。
 ……姉さんや藤村先生、美綴先輩は。半ば以上にわたしと先輩をからかって遊んでいるのが丸分かりなので、何とか対処出来るんだけど。あんな風にまったくの善意で面と向かって祝福されると、こちらも意識が過ぎてしまう。
 ―――まあ。
 悪気がない人の勧めを断るのは、案外難しいなんてことは。
 あのひとと付き合っていく内で、とてもとても身に染みていたことではあったのだけど―――

「サクラ?」
「え?」

 投げられる声に意識を返す。回想に耽るその内に、いつの間にか席を立っていたのか。安定感のある千鳥足という、器用な足取りでライダーが台所から戻ってくる。
 その手につまんでいるものは、黒く小さな平たい杯。衛宮の家では専ら神前に供えられるだけの、新品同様に輝くお猪口。
 滑り込む様に腰を下ろして、こちらへと差し出される真白の指先。視線の先へと残された、空の器を眺めやり。

「―――どうですかサクラ。二人が留守の内に、少し試してみるというのは」

 悪戯っぽい猫の笑いは、それこそ美綴先輩の。
 事ある毎に俯きがちな後輩を、朴念仁の想い人へと嗾ける。
 久方振りの、見慣れた顔にとても似ていて―――
「……そうね」
 まあ、たまには。
 健全過ぎるあのひとに、飽きた訳では勿論ないけど。


「……一杯だけ、もらえます?」
 悪い先輩に唆されるのも、悪くはないと思えた訳で。


「それでこそ私のマスターです」
 差し出した応えに破顔して、いそいそと壜を包む紙を剥ぎに掛かるライダー。
 そう言えば、さっきの壜は空になってたっけ……。 
「……サーヴァントはマスターの命令には逆らえませんから」
 向けられるかおに、目敏く険を見て取ったのか。紙を剥く手は止めないままに、こちらから視線を逸らし彼女が呟く。
「サクラが望むことならば、私は全力を尽くすまでです」
「―――呆れた」
 随分朱に染まったなあと、溜息混じりに未だにどこか幼さの残る彼女の姿を思い浮かべる。明後日を向くこの友人が、夜中に冷蔵庫の開錠に励む姿なんて、ついさっきまで想像すらも出来なかったけど。
 曲がりなりにもマスターをだしにして、新たな壜を開ける彼女を半眼で見やる。確かにライダーは、魔術なんかに縁のない藤村先生とも仲が良い。そのこと自体は、意外に思えながらも嬉しくはあったんだけど。
 ……友人に悪影響を及ぼすのを、生徒に心配されると言うのはどうなんでしょう。先生。

「一杯だけだからね」

 聞こえる様に溜息を吐き、笑顔の彼女に念を押す。姉さんじゃないけど、確かにこれがワインでなくて良かった。開けてしまったらしょうがない、と、喜々としながら一壜空ける彼女の姿が容易に浮かぶ。
「お注ぎします、サクラ」
 どこかわざとらしい笑顔で壜を捧げる彼女に、頷きながら胸に太字で刻み込む。……間違っても、見える所にシャンパンなんか置いとかないようにしないと。
 浅い杯に泉を満たし、当然の様に自分のぐい呑みにも壜を傾ける。真剣そのものといった顔で、淵で小さく震えるほどに静かに静かに湖を満たし。
「では、サクラ」
 それでも一滴たりとも零さず、器用に器を捧げ持ち。
 促す彼女に釣られ微笑み、こちらもお猪口をつまみ上げ。


『―――乾杯』


 軽く口付け、そのまま淵に口寄せた。
 ほんの少しだけ傾けたお猪口から、冷たい熱が落ちてくる。唇と舌を浸す雫は、腑へと転がる刹那の間に鼻へと抜ける鮮烈な香気と、呼気すら侵す涼やかな熱さを確と残して喉を滑っていく。
 極上のゼラチンにも似た、柔らかな滑らかさがおなかの内に落ちる。一拍置いて、じんわりと―――今度は熱いと言うより暖かな熱の感触。
 予想に反して甘く優しい後味に、知らず目尻がとろんと下がる。果実の香りの吐息を洩らし、何とはなしに視線を上げて。
「―――ふふ」
 間近に見据えた、ライダーのかお。絡む視線の出所が、鏡の様に垂れている。
「―――く」
 あちらも思いは似通っていたのか、緩やかな笑みを互いに溢す。受け止め投げる苦笑と失笑、無言の内に隙間に潜む向こうの問いに、無言のままに諸手を上げた。
 ……なんか悔しいけど。
 うん―――でも、これは。

「……おいしい」

 素直に揚げた白旗に、ライダーの浮かべる笑みが深くなる。それこそワインやウイスキーならいざ知らず、日本酒は毎日の様に使っているお酒だ。味見に際し、舐めてみるくらいは試したことがあるけれど。
 つまんだ杯に半ばを揺らす、今もライダーのぐい呑みに注がれているこのお酒は―――そんなものとは、別格だった。

 ……それとも、わたしが知らなかっただけで。
 こんなにおいしいお酒が沢山、世の中には溢れているんだろうか?

「でしょう?」
 それ見たことかと自慢げな声に、飛んだ思考をこちらに戻す。食わず嫌いはいけませんねと瞬きの間に杯を乾し、砂肝と葱を一緒につまむ。
 楽しげに語るその姿は、見る影もなく子供っぽくて、それでもとても幸せそうで。
「うん。まいりました」
 素直に兜を脱ぎ捨てる。残り半分を舌の上で転がしながら、先輩に倣い箸を踊らせ。
 ―――うん。こんなのも。

「……たまには、悪くないかも」

 淡やかな熱に浮かされながら、堕落の綱を踏み外す。……目の前のひとみたいに、度が過ぎないくらいなら良いですよね?
 ―――それに。
 乾したお猪口を卓に預けて、ぼんやり瞼を静かに閉じる。

 ―――例えば、月夜の縁側で。
 例えば、花を浴びながら。
 ……例えば、閨の布団の中で。


 彼と一緒に傾ける。
 その一杯は、とてもおいしいに違いない。


「……サクラは、私のマスターですから」
 一転変わって染み入る声に、閉じた瞼をぼんやり開く。
 波々と揺れるぐい呑みと、再び満ちたお猪口を挟み、何故だかどこか自慢げに。
「聖杯から呼ばれるサーヴァントは、そのマスターに似るんですよ?」
 知らなかったんですか?と、皮肉に微笑う酔っ払い。
 ……胸がじんわり温かい。照れを隠して浮かべた笑みを、黒く塗られた泉に浮かべ。
 再び、お猪口をつまみ上げ。
「ライダー」
 促す彼女は笑顔のままに、乾した器を雫で満たし。

『―――かんぱい』

 もう一回。
 何故か浮かんだ感謝の言葉を、美味しい熱で胸に落とした。



『……かんぱーい』
 …………。

















「一杯だけだぞ?」

 溜息混じりに答えた声に、隣で大きな花が咲く。
 弾む歩みで街を行く、その両手には大振りの籠。葱や白菜、味醂の壜に味噌や醤油のパックの群れが、歩みに応えて頭を揺らす。

「うんうん、わかってるわよー」

 くるくる回って往きながら、満開の笑顔で答える藤ねえ。こちらのものには劣るとは言え、それでも決して軽くはない筈の『戦利品』は、藤ねえの手にあるとまるで祭りの水ヨーヨーの様だった。……玉子を渡さなくて正解だった、と、一人ごちながら後を追う。
 ついさっきまで茜に染まっていた空は、既にうっすら黒い帳が降りている。冬と春との狭間のこの時期、陽が暮れるのは早いにしても、バイトでもなしに買い物から帰る時間としては、珍しいほど遅かった。二人とも待っているだろうなと、存外に食い意地の張った彼女たちの事を考える。
「まあ、その分収穫は大きかったけどさ」
 歩を進めながらぼやく言葉は、半ば以上に本音ではあった。野菜に豆腐に切らしたままだった調味料。不相応に豪華な鍋を控え、些か大規模な買出しの成果は、歩道と車道の段差に躓き、軽くつんのめる藤ねえの手に握られている。
 実際のところ、あのとらが偶々買い物に同行していなかったとしたら。浮かぶ仮定に眉を顰めて、痺れ始めた腕を振る。唯でさえ坂の多い深山の道を、二往復する羽目になりかねなかったところだ。
 確かにそれだけでも、藤ねえには感謝するべきなのだろう、けど―――

「しろー!早く早くー!」
「わかってるって」

 声を返して、吐息を一つ。手にした戦果に罪はないけど、それでも重いものは重い。
 右手に二十キロ、左手に十五キロ。殆ど子供を運ぶに等しい、それこそ鍛錬の最中の様な錯覚を覚えながら両の手に握る袋を見やる。

「……よりによって米を当てなくても良いだろうに」

 昔からそうだったなあと、達観めいた思いが過ぎる。藤村大河というとらは、妙なところで運が良い。その癖幸運を発揮する時は、手放しで喜べない状況な事が殆どで。

 ……例えば。
 米を買い出したその後に、商店街の福引で三等を引いたりとか。

「今日は覚悟しとく、か」
 それでも本人は鼻高々と言うか。無邪気なくらい誇っているので、中々水を差し辛い。……とは言え最近の衛宮家の、高く大きく翼を広げるエンゲル係数を思ってみれば、ありがたいのも確かではあった。
 まあ、その。

「……一杯だけだからな」
 普段は固く禁じておいた、衛宮の家での晩酌を許してしまうくらいには。

「うんうん」
 馬耳東風の笑顔で頷く藤ねえ。……このとらもなあ。
 あれだけ日頃タイガー呼ばわりされるのを嫌いながら、仕草も習性もそのままなのはどうだろうかと思う。切嗣がうちに居た頃は、猫科繋がりでそれなりに色々かぶっていたみたいだったけど。
 ……多分、桜も見た事がない。藤村大河という人物は、素面でいれば単なるとらだが酒が入ると大トラと化す。藤ねえ率いるうちの弓道部が割合アルコール関係に寛大だったのは、美綴を初めとする上級生たちが酒の怖さを身に染みて理解し、心掛けていたからだった。

 ―――酒を飲んでも、ああはなるまい。

 絵に描いた様な反面教師。桜が入学してくるちょっと前、その年の卒業生を救急車で送り出して以来は、流石に思うところがあったかアルコールから離れていたみたいだったけど―――

「……仲間が、出来ちゃったからなあ」

 こちらは混じり気なしの苦笑。勿論彼女を責める気はない。とらと違って暴れはしないし、これは今のところはほぼ唯一と言って良いライダーの趣味なのだから。
 俺も桜も藤ねえも、何気に寡黙な彼女には甘い。衛宮の家では殆ど御法度になっていたアルコールも、切嗣があの縁側で眠って以来、実に六年振りに解禁と相成った。
 今に思えば、ライダーは相当我慢していたのだと思う。一日と欠かさず杯を傾けるその様は、それまで滅多に見れなかったほどに嬉しそうで。
 どこかの誰かと違って、静かで上品な嗜みかただし。むしろいつもの固さが抜けた彼女との形ばかりの晩酌は、最近の衛宮士郎の密かな楽しみでもあった。
 ふと思い付き贈った器に、返る笑顔を思い出す。決して安くはなかったけれど、あそこまで喜んでくれるとその甲斐があったと素直に思えた。
 ……まあ、最近は。かつてないほど衛宮の家に、酒の類が充実している事もあり。
 英霊に休肝日など必要なのかと悩みながらも、先日軽く窘めたくらいに浴びているのが気になるけれど。
 それに―――気になっているのは、自分だけではなく。
 毎日毎晩それは美味しそうに杯を傾けるライダーの傍らに、唾を飲み込むとらも一匹、よく見受けられる様になった。それでも流石に大トラの自覚と職業意識みたいなものは一応備えている様で、桜の居る前では要求してはこない。
 居る前では。

「恨むからな、爺さん」

 そらを眺めて苦言を洩らす。藤村雷画と言う爺さんは、気に入った人間、特に女性に対して非常に気前が良い。それに加えて今夜の鍋の材料の様に、妙に手広く脈絡のない伝手を持っている。
 その結果。一週間ほど前、偶々藤村組を訪れていたライダーに贈られたのは。

 俺ですら名を知ってるほどの、見た事もない地酒の山で。

 ……居間に飾られた硝子の壜が、地味にどんどん数を減じていく様を。文字通り指を咥えて眺めるとらは、最近妙に『良い子』になった。食事の度に言われる前に食器を出すし、洗濯や風呂も積極的に手伝おうとする。昨日に至っては桜が何とか取り成したとは言え、夕食なるものを作ろうとすらしたらしい。
 ライダーが礼を言い、桜が褒めるその横で。ごほうびごほうびと無言の内に輝く瞳を、気付かぬ振りで受け流し。
「―――はあ」
 いつもの様に出掛けた買い物、その手伝いに励む最中。
 その凶運で挙げた戦果は、叩き続けた堤防に穴を穿ったと言う顛末で。
 ……それにしたって。振り返り、輝く笑顔と向かい合う。
 別に藤ねえはうちに四六時中居る訳じゃないんだし。

「藤ねえ。別に俺は、金輪際一切酒を飲むな、なんて言ってる訳じゃないんだぞ?」

 それはまあ、酒癖が壊滅的に悪いというのは困った話ではある。深山の町の飲み屋だと、このとらの悪評を聞き及んでいて門前払い、ということも決して有り得ない話ではない。
 しかし新都にも飲み屋はあるし、それこそ自宅―――藤村組の屋敷の中なら、別に俺が止め立てする様なことでもない。雷画爺さんを始めとした幹部複数人掛かりなら、この大トラを止める事も不可能ではないだろう。
 慣れない胡麻を摺ってまで、拝み臥す様なことじゃないと思うんだけど―――
「んー。わかってないわね、士郎は」
 ふらふらぐるぐる、足元周りを無意味に回る藤ねえが、こちらの足に歩みを並べる。片目を瞑って指を振り、にやりと笑いを口に刻んで。

「士郎のおうちで、士郎たちと一緒に、士郎の料理で、お酒を飲みたいのよ。わたしは」

「―――ふん。なら今まで通り我慢しとけ。今日は特別だからな?」
 意識してかおに平静を浮かべながら、愛想のない答えを返す。何故だか得意満面に言い放ったとらは、再び歩みを早くした。
「……それにさー。うちのご飯って、ちょっと雑なのよねー」
「雑?」
 漏れた呟きに、背中を見ながら首を傾げる。確か藤村組の食事は、専門の賄いさんが作っていた筈だ。
「そうか?俺も食べた事あるけど……」
 美味極まるとは言わないが、どちらかと言えば美味しい部類に入ると思えたけど。
「ま、美味しくない訳じゃないんだけどさ。うちはほら、みんなの分をがーっと作っちゃうから」
「ああ」
 頷きを返す。確かに藤村組の食事は、毎回毎回大所帯だ。雑というのは少々酷だが、衛宮家の食事―――桜や遠坂の作る様な複雑玄妙な味というのは、発揮し難い環境だろう。
「それはそれで美味いんだけどな」
 ご飯は一度に沢山炊いた方が間違いなく美味しいし、カレーなんかは大鍋で大量に作ると不思議に味が深くなる。
 ……それを藤村組のみならず、衛宮家でも実感させてくれた原因が、目の前のとらなんだけど。


「―――んー。でもわたしは、士郎のおうちのごはんが良いよぅ」


 にっこり笑ってくるくる回る。話している内に帰路は終わりが見えていた。既に目の前の角を曲れば、衛宮の門が見て取れる。
「士郎はわたしの嫌いなもの出さないし。気兼ねなくお代わり出来るしねー」
「……明日はセロリとブロッコリーのサラダな」
「なんでよー!」
 この思いは間違いだったと不覚にも緩みかけた涙腺を引き締める。食生活が人格形成に与える影響というのをしみじみ感じながら、藤ねえの後を追って角を曲った。

「何よー。桜ちゃんには優しい癖に。言われもしないのに冷凍みかんなんて作っちゃってさー」
「……あれは藤ねえが悪いだろ。好き嫌いとかの問題じゃなくて」

 二年越しの失態に知らん顔するとらへとぼやく。いくら旬だと言ったって、いい加減俺も蜜柑は食い飽きた。バターになるのは俺の役じゃないと言うのに、冬が来る度黄色くなるのは誰のせいだと思ってるのか。

「ふん。士郎が悪いんだからね。昔からわたしの好きなものばっかり作ってくれるから」
「そうか、悪かった。んじゃ明日からは嫌いなものばっかり作る事にしよう」

 わたしをこうした責任とって貰うからねー、と、ガードレールに腰掛け喚く自称保護者を背に進む。今更ながら投げた許しに胸中後悔を噛み締めながら、感覚の失い右手を擦った。
 時間は既に夜の七時を回っている。周りの家も夕食時なのか、醤油の焦げる芳香がほのかに辺りに漂っていた。
 古風な門をくぐる藤ねえを胡乱な思いで見届けてから、溜息と共に後へと続く。どうも切嗣は藤ねえには寛大らしい。曇った眼の結界を言葉には出さず愚痴りつつ、玄関の戸を引き開けた。

「……う」

 途端に香りが鼻を突く。辛い様な甘い様な、どこか嗅ぎ慣れた、薄荷にも似た透明感のある芳香。
「―――む?」
 藤ねえが怪訝なかおで、鼻をひくつかせながら匂いを辿る。良い香りではあるのだけれど、ここまで濃いとむしろ圧倒される。口と鼻とを掌で押さえ、藤ねえに付いて芳香の海を掻き分ける、と。
「な」
 居間の襖を開けた藤ねえが、軽く仰け反り絶句した。珍しいものを見たなあと、妙なところに感心しながら遅れて焦げ茶の頭を越して、中の様子を窺ってみる。
「―――ぐ」
 ……眼下に広がる惨状に、不本意ながら―――姉貴分に倣わざるを得なかった。
 赤い荒野を思い出す。剣の墓標を炎が悼む、冷たく貴い孤高の世界。
 今も時々夢に見る。左腕から触る呪いは、衛宮士郎を喰らい尽くした。
 奴の世界は今となっては遥か遠くの風景だけど。その光景は痛みと共に、永くこころの奥に在る。
 ……赤い荒野を思い出す。


 無限に広がる酒壜は、まるで二人の墓標の様に―――


「―――って、おい!桜、ライダー!」
 我に返って中へと駆け込む。力なく伸びる家族二人は、共にうつ伏せて顔が見えない。我に返った藤ねえが、何故か酒壜を抱き締めたままのライダーを揺すり呼び掛けている。

「桜、さくらー!」

 それを横目に収めながらも、とにかく彼女に呼び掛ける。日夜晩酌に励んでいた上にサーヴァントのライダーはともかく、桜は酒なんてろくに飲んだことがなかった筈だ。半分以上はライダーの仕業だろうけど、それでもこの空き壜の数は尋常じゃない。それに一般におんなのこは男よりもアルコール耐性が低いって言うし、食卓に並んだ海鮮料理も割と洒落にならないくらいの量だし、なんか開いた目は虚ろだし肌はそれこそ桜色だし大体俺達が出て行ってから精々二三時間の間にこれだけの量を飲んだのか急性アルコール中毒って怖いって言うし念の為に救急車を呼んだ方が良いんじゃ桜先輩いいんですよじゃなくてちょっと待ってくれ桜お前の右手は何を掴んでいる

「―――おはようございます、士郎」
「おはようライダー!元気そうで何よりだ!」

 殆ど脳を通さずに、脊椎反射で答えを返す。痺れた発条を必死で捻り、振り向く先には火照った顔で彼女が瞼を擦っていた。
「……すみません士郎。勝手に食材を使ってしまった」
「気にするなライダー!食材の貯蔵は充分だ!」
 自分でも何を言っているか分からない。意識が絡む桜の右手と、優しく添える左手に縛られた様に外れない。

「……しろう、さくらちゃんだいじょうぶ?」
「全然大丈夫だ」

 這いよる様に進む右手に、恐ろしいほど醒めた意識で答えを返す。何故だか半分魂の抜けた様なかおで、へたり込む藤ねえを一瞥し。
 ……さくらサクラと声にならない声を上げながら、無言で少女を抱え上げ。
「桜を上に運んでくる」
 自分が採るべき行動だけを、ただ厳かに言い放つ。
「藤ねえはライダーを頼む」
「……わかった。ふとん、しいとくね」
 あまりに虚ろに応える声に、上半身を捻って見やる。ちょっと涙目で見つめる先を、視線を辿って眺めやり。

「……今度、買ってやるから」
「……うん」

 見つめる先には、空壜の山。
 骸の山に膝突く彼女は、あまりに哀れで慰めをかける他は無く。
 桜を抱え、中腰のまま足を擦る。開いたままの襖をくぐり、もう一度だけ視線を投げた。

「すみませんタイガ。つい、度が過ぎてしまった」
「……へいきへいき。ほららいだーさん、ふとんしいたから」
「―――申し訳ないのですが、タイガ。まだお酒が残っている様で、腰が……」
「……ああ、はいはい。よいしょ、っと」

 何とか藤ねえも立ち直ったようで、ちゃんとライダーを介抱している。一息吐いて、襖を閉めて―――

「あ……」
「……どしたの?」
「いえ。―――私が、持ち上げられている」
「ん。ライダーさん、軽いねー。ちゃんと食べてる……食べてるのよねえ。なんで?」
「私が……」
「はい、とーちゃーく。後で枕元に水差し置いとくから、寝る前に飲んどいた方が良いよー。明日地獄を見るからね?」
「―――タイガ、お願いがあるのですが」
「ん?なに?」
「人恋しいのです」
「―――はい?」
「お酒を戴いた夜は、一人寝は寂しいのです。慰めて下さい」
「……えーと……」
「さあタイガ。―――ああ、ご安心を。殿方のみならず、御婦人を悦ばす術は心得ておりますので」
「……しろうー!ライダーさんまだ酔っ払ってるー!?助けてー!」

「………………。」
 曰く。
 十を救う為に一を切り捨てるのが、正義の味方と言う者だと云う。
 無言のままに、襖を閉じる。最後に映った光景は。


 神代の英雄の、その身に纏った騎乗スキルをいざ揮わんとする背中。


「……優しくしてくれると、助かります」

 茹だった頭で、訳の分からぬ願いを落とす。……すまん藤ねえ。でも俺ももう、色んな意味で限界なんだ。
 中腰のまま、上がる悲鳴と閉じた襖に背を向ける。

 小さく重い音を立て、弄る指が窓を開いた。













 機械仕掛けの脚を運んで、桜をベッドの上へと下ろす。儚いくらいに弱い腕力と、抗い難い磁力を剥がし、漸く一つ息を吐き。

 ……何とはなしに視線を巡らす。
 ここに彼女が暮らして一年。既に客間と言う呼称すら有名無実となっているこの部屋は、実のところはその殆どが、衛宮士郎の身勝手さの産物と言って良かった。
 ……以前何度か目にした、間桐家の桜の部屋。文字通り、形ばかりの部屋であったそこと或る意味では似通っている。
 殆どいつも居間と台所で、夜は大抵自分の部屋で始終を共に過ごす少女にとって、実のところこの部屋はさして必要なものではない。
 自分が言えた義理ではないが、料理を除けばさしたる趣味がある訳でなし―――下着を初めとした衣類にしてみても、実際は衛宮士郎の部屋と襖続きの畳の間。そちらに備えた箪笥の方が、使う機会も収納量も遥かに多い。
 それでも部屋を宛がったのは、ただ単純に。
 この家に暮らす三人で、桜ただ一人だけが部屋がないと言うのが、気に食わなかっただけなのだけど。
「…………」
 磁力を剥がして薄暗がりの部屋の中へと視線を投げる。
 さっきから溢れるほどに香るのは、広く大きな窓に面して慎ましやかに開く花々。観葉植物とも思えないその濃密な香りの因は、詳しくは分からないが桜自身の魔術に拠るらしい。
 ベッドと机と箪笥くらいの最小限の家具を飾るのは、大小無数のぬいぐるみに脈絡のない小物類。
 竹で編まれた小船に揺れる、金と銀との枠で微笑むあかいあくまをぼんやり見やる。

「…………」

 毎日一緒に暮らしているのだから、必要ないと言われればその通りなのだけど。
 写真の中の少女に微妙な敗北感を覚えながら、それでも微笑って息を吐く。

 ―――喜んで貰えてる、みたいだよな。

 必要ないですと言い続け、実際大して利用もしていない桜の部屋。
 それでも一目で見て取れる。花の香りにぬいぐるみ、日向の布団に姉の写真。年頃の女の子の部屋なんて、遠坂を除けば精々美綴のくらいしか見た事が無かったから、これが普通かどうかなんて分からないけど。
 部屋をあげたのは正解だったと、半ば以上に自己満足の思いが過ぎる。共に暮らしていく中で、実感してはいたけれど。
 実際こうして目にしてみると、やはり安堵の思いがあった。


 間桐桜の箱庭は、とてもきれいで温かい。


「―――先輩」
 微かな声に視線を落とす。寝台に横たわった彼女、すみれの頭を見せる桜が、瞼も薄く潤む瞳を覗かせていた。
「桜……起きてたのか」
「今、起きました」
 つまんだ布団をたくし上げ、顔半分を隠して答え。
「……あの。ごめんなさい、先輩」
「―――なにが?」
 微妙に強張る応えを返す。覚醒したのが今だとしても、夢うつつの中での記憶も残ってないとは断言出来ない。
 ……閉まった窓を思わず隠す。

 怒ってなんていないけど、謝られても対処に困る。

「……お鍋の材料。全部、使っちゃいました」
 ……何だそんな事か、と、胸中安堵の吐息を洩らす。確かに少し残念ではあるけど、他に食べるものが無いでもなし。
 ―――あ、でも。
「それは良いんだけどな。桜」
 意識して強い口調を作る。藤ねえはまあ運が悪かったとしても、これはライダーにも後で言っておかなければなるまい。
「……はい」
 ぴくりと軽く身を震わせて、縮こまる声にもここは心を鬼にして。

「飲み過ぎだ、ばか」
「……ごめんなさい」

 桜にも自覚は有ったのだろう。間髪入れずに素直な色で、消え入りそうな答えが返った。
「……ライダーに誘われたのか?」
 声を和らげ苦笑混じりに続けた問いに、再び素直な頷きが返る。……さっきじゃないけど、あれでライダーは結構な寂しがり屋なのかもしれない。晩酌の相手を、俺と桜は藤ねえに、藤ねえは俺に止められて。
 それでもめげず、麦茶片手に自分を誘う彼女のかおは。
「なかなか断れないんだよなあ」
 思わず洩らし、共に苦笑し頷き合う。

「あ、でも……ライダーが悪い訳じゃ」
「分かってる」

 慌てて正す桜の声に、ほのぼのしながら布団を直す。手の甲を触れさせたその額は、軽く湿って熱っぽい。
「今日は風呂、我慢な」
「う……はい」
 無念に満ちた答えが返る。風呂好きな桜には一日でもそれを欠かすのは、残念なことなのだろう。とは言えこんな状態で入浴させる訳にもいかない。あっという間にのぼせてへばるのが目に見えている。

「―――ん。じゃ、ちょっと待ってろ。水持ってきてやるから」

 二日酔いとは言ってしまえばアルコールによる脱水症状である。潰れる前に水分を採っておけば、ある程度は症状を抑えられると知っていた。
 ちなみにそれを教えてくれたのは一応教師だが、そのとらの為にしか役に立った事はない。
「その間に着替えとくんだぞ」
 胸中苦笑し言い付ける。眼下で小さく縮こまる、赤く火照ったすみれの少女。
 彼女がこのまま眠るとなると、折角咲いた花の香りが麹の香りに替わられかねない。
 頭を撫でて踵を返し、静かに扉を押し開ける、と。


「―――先輩」


「ん?」
 声に応えて振り返る。視線の先に映るのは、いつの間に起き上がったのか。
 半身に布団を被ったままに寝台の端に腰掛ける、少女を怪訝に眺めやる。
「着替えが無いのか?―――ちょっと待ってろ、藤ねえに取って来て貰うから」
 流石に桜の下着なんかを俺が手に取るのはどうかと思う。今頃酔っ払い相手に難航している筈のとらに、何とか頼んで―――
「いえ、そうじゃなくてですね。……先輩?」
「?」
 ちょっとこっちへ来て下さいと、手招く桜に歩み寄る。灯かりを点ける手を阻み、上目遣いにこちらを見上げ―――
「桜?」
 あーまだ顔が赤いなー、と、首を捻って言葉を投げる。ぼんやり薄闇に透ける少女は、それでも分かる程度には、その名の通り色付いていた。

「―――えーと。その、お酒って美味しいんですね」

 妙に大きな間を空けて、下から桜が呟いてくる。
「あー。それはそうだろうなー」
 悪い遊びを教えたなあと彼女に対し吐息を洩らし、呟いた。爺さんからライダーに贈られた酒は、それこそ一つ一つのものに幻の冠が付いてもおかしくはないくらいの一品揃いだった。俺だって本音を言えば、皆の目を盗んで舐めるくらいはしてみたかったのだ。

「でも、桜。もうちょっとだけ我慢だからな」

 かつての同級生たちを思い返してみても、そこまで真面目に守っていたのは一成くらいだったけど。藤ねえのことも勿論あるが、正直なところこれも俺の我侭に近い。
 出来れば桜にはいつまでも。衛宮士郎の可愛い後輩、理想の良い子でいて欲しかった。


 ―――桜は衛宮くんの宝物だもんねー?


 ……脳裏にしつこく木霊する、あくまの声を黙殺し。
「俺も一年、我慢するから。そうしたら二人で一緒に、な」
「―――はい」
 何故だかとても嬉しげに、それこそ桜の花が咲く。気恥ずかしさに顔を背けて、机の横に腰を下ろしたライオンの翠の瞳と見つめ合い。
「―――で、桜?」
 気を取り直し視線を戻し、先の用事を促した。
「……その、ですね」
 こほんと軽く咳払い。特に言葉も続けずに、ただただこちらを上目で見やる。

「……どうでしょうか」
「……どう、って」

 なにが?と視線で問い掛ける。赤く色付き膨れる桜は、最近見せる驚くほどに大人びた仕草とはまた違う、微笑ましさに満ちていた。あの当時には物凄くレアなかおではあったけど、セーラー服にその身を包んだ少女の姿を思い出す。

 ……しかしどうかと聞かれても。

 微妙に据わっていく双眸に眉を寄せ、些かならず不躾に少女に視線を巡らせる。深く澄んだ海色の瞳、青味がかった絹の髪。熱に火照っていつも以上に柔らかそうな肢体の中で、否応無しに視線を惹き寄せるのは。
 華奢な首筋に覗く鎖骨を、少し下った胸元の―――
 ……視線を逸らして首を捻る。何を気にしているのか知らないけど。

 いつもの通り桜は綺麗で、おかしなところは何もない。

 ―――などと。
 そんな歯の浮く本心を、正面切って言える訳も無かったのだけど。
 後で思えば。



 この時それを答えておけば、据わった瞳で睨む少女に瞬きの間に組み伏せられるなんて羽目には、ならなかったんだろうか―――



「……桜?」
 渇いた喉から掠れた声で呼び掛ける。
 くるりと体を入れ替えられて押し付けられた寝台に、冷たく汗ばむ背中が当たる。肩と腕とを綿の海へと圧し付ける、両手と視線が異様に重い。

「……わたしをみてください」
「―――いや、凄い見てる。今」

 意表を強かに突かれ過ぎ、却って澄んだ頭で答える。理想の良い子に押し倒されたその体勢は変わらぬままに、ただぼんやりと酔った少女を眺めやり。

「……どうでしょうか」
「どう、って」


 ……なにが。


 無言で返した応えを受けて、針の如くに瞳が煌く。
 ……それこそ、身体が石化しそうな間を置いて。

「―――やっぱり。先輩は、ライダーの方が好みなんですね」

 ぼそりとかかる麹の吐息は。
 それこそ神話のメドゥーサならぬ、砂漠を統べる大蜥蜴すら彷彿とさせる冷たさで。
 ……と言うか、凄い酒臭い。やっぱり桜、酔っ払ってる?
「―――ってちょっと待て!?何処からそういう結論になる!」
 石に強張る意識を振るい、何とか必死で叫びを返す。桜の告げた結論は、それこそ遠坂の魔術講座にも似た理不尽さを備えていた。途中経過の一切を自分の中で羅列して、ただ結論だけ言われても―――!
「じゃあ、わたしを見て下さい」
 問答無用と告げる言葉に、抵抗敵わず静かに従う。大体見てと言われても、必要以上に桜が近い。無言のままに見つめる内に、脳と体に刻んだ記憶に意識がゆっくり蝕まれ、ついさっきとは違った意味で身体が石になっていく。

「どうでしょうか」

 三度重なる問い掛けに、答えを求めて上目に見やる。……ちょっと怖いぞ桜とか、素直に言うのは拙いだろうし……。
 思考を巡らすその内に、不意に桜が軽くなる。
「……桜?」
 ぽてん、と落ちた少女が近い。支えにしていた両腕を崩し、綿の海へとその身を預けた桜はそのまま、強張る胸へと火照った頬をすり寄せてくる。
 それこそ鎌首をもたげる蛇が、瞬きの間に猫の仔に変わった様に拍子が抜けた。さては酔いが廻ったかと、胸中安堵し身を起こ―――

「……えーと」

 ―――せない。それこそ罠に掛かったなとでも告げるかの様に、首と背中に回された腕が衛宮士郎を固定する。
 焦りとその他の諸々に著しく容量を食われていく頭の中で、ただ柔らかな掌と―――それよりもっと柔らかなものの感触に、からだが剣になっていく。
 殆ど反射が命じるままに、なにやらさっきからぼそぼそと、心の臓へと言葉を洩らす柔らかなものを抱き締めて―――

「―――へ?」

 耳に届いた幾つかの単語に、霧で煙った意識を戻す。首を逸らして視線を逃し、呼吸は細く耳を澄ませて。


「………………」
 ……なあ桜。
 俺、そんなに節操なくやに下がってたか……?


   胸に抱えた少女が駆けるは、酒精で廻る口車。舌の滑りも滑らかに、絶え間なく届く桜の言葉は妙に鋭く衛宮士郎の胸を抉った。いつでも静かに穏やかに、微笑む少女が切れ間も見せず次々撃ち込む斬撃は。
 無限の剣を撃ち砕き、花の盾すらものともしない。
 ライダー、姉さん、美綴主将。藤村先生、ネコさん、柳洞先輩。
 ……その殆どは思い当たらない記憶、妙に歪んだ誤解だったけど。予想もしてない角度から、時折ぐさりと後ろ暗さを思い出させる急所へと鋭く剣が突き立てられる。
 ……なんか変なのが混ざってなかったか?

「―――聞いてるんですか、先輩」
「……はい」

 起きてたのかと口にする気力もなく、ただ諾々と答えを返す。多分、喋ってる内に覚醒したのだろう。顔も向けずに届く言葉が、一際鋭い棘を生やした。
 それが胸に納めていた不満を、駄々に洩らしたことに気付いた照れ隠しだと―――内心気付いてはいたけれど。指摘をすればその棘が、狙い違わず胸を抉るのは恐らく懸念ではないだろう。
 無言のままに、死棘を浴びる。


「……先輩は、わたしのです」
「うん」
 ただ諾々と答えを返す。
「他の人を見るなんて駄目です」
「……はい」
 ただ諾々と答えを返す。
「絶対、離しませんからね」
「うん」
 ただ諾々と答えを返す。
「ライダーにも、姉さんにも、他の誰にも。どきどきなんかしたら駄目です」
「……はい」
 ただ諾々と答えを返す。


「―――でもさ、桜」
 意識し胸の鼓動を収め、抱いた少女に視線を投げる。何故かジト目でこちらを見上げる、桜の視線に冷や汗を隠し。

「そういうのはさ。いつでもその時に、はっきり言ってくれて良いんだぞ?」

 アルコールで思わず洩らすほどに抱え込むことないからな、と。
 年中無休であらゆる人に、散々言われ続けていることではあったけど。衛宮士郎と言う人間は、酷く歪でその上鈍い。言われて初めて気が付くことは、それこそ数え切れなくて。

「俺も、桜には隠し事したくないし。……今更だけど、嫌な思いもさせたくない」

 虫の良い台詞だとは思ったけど、これが紛れもない本心だった。間桐桜を幸せにするのが、彼女を守る正義の味方が生涯掛けて必ず果たす誓いなんだから。
 ……それに、正直言ってしまえば。

「……まとめて言われると、その……堪える」

 妙に体の治りが早い自分でも、心の治療が追い付かない。内側ならぬ外の側から延びて絡み付く茨の棘に、痛みを堪え苦笑を投げた。
「……はい、わかりました」
 深く大きく吐息して、拗ねた目付きで桜が呟く。襟を手繰ってこちらを引き寄せ、俯き流れたすみれの髪で満面の笑みを飾り付け。


「覚悟して下さいね。わたしだって、姉さんの妹なんですから」
 心の臓へと、死棘の牙を突き刺した。


「……お手柔らかにお願いします」
 胸を貫く甘噛みと、説得力に満ちた言葉に、引きつり漏れた苦笑を返す。
 ……随分朱に染まったなあと、溜息混じりににっこり微笑う笑顔のあくまを思い浮かべた。半ば以上に自業自得であるとは言えど、あんなに大人しかった少女が、こんなに綺麗で朗らかな殺気を帯びる事なんて。
 一年前は、全く想像も出来なかったのだけど。

「―――けどさ、桜」

 渇いた喉を湿らせて、一つ疑問を投げ掛ける。……地雷と言うと聞こえが悪いが、つい先程の一連の遣り取り。そのことについては、聞いておかなければならないことがあった。
 取り敢えずの温情の下、矛を納めて貰ったとは言え。

「……なんで、そこでライダーが出て来るんだ?」

 誘爆の危険を覚悟した上で、恐る恐るに導火線へと手を伸ばす。有耶無耶のままにして、また桜に嫌な思いはさせたくないし―――何よりも。これといった心当たりが、記憶の内に浮かばない。
 ……まさか、眠った後のことまで桜やライダーが知る訳もないだろうし。


「―――ああ、それですか」


 短く重い沈黙を、挟んで返った桜の答えは思いの他に穏やかだった。すみれの頭を通り越し、胸に頬寄せる彼女を見やる。もういいですよとくすくす笑う、桜の声が肌着を通して首の辺りをくすぐった。
「……いやまあ、それなら別にいいんだけどさ」
 獅子の尻尾を踏み付ける覚悟が、行き先を失い霧消する。何がそんなに面白いのか、妙に長引く桜の笑いを受け止めて。
「―――えーと、桜。下を片付けてきたいんだけど」
 告げた言葉に名残惜しげに、桜がゆっくり身を離す。暖かな感触が薄れていくのを些かならず残念には思うけど、出来れば今日の内に居間の惨状―――壜の墓標を片付けておきたい。
 それに、ライダーの様子も見ておきたいし。サーヴァントである彼女が二日酔いなんてするのかどうかは知らないけど、あれだけ飲んだ後なのだから、万が一と言う事もあるだろう。
 ……酔っ払いに絡まれて難儀しただろう、藤ねえも。残った材料で何か作って、機嫌を取らないと明日が怖い。
 最後にゆっくり桜の両腕が肩と腰からこぼれ落ちる。名残の惜しい暖かさと柔らかさが離れ、いつもの顔でこちらを見上げ。
「すいません。……おせわ、かけます」
 申し訳無さそうに呟く桜は。つい先程に取り憑いた、あかいあくまとは似ても似つかず。
 安堵にほのぼの吐息を一つ、聞こえぬ様に薄闇に落とし。
「気にするなって。着替えられるか?」
「はい」
「じゃ、ちょっと待ってろよ。水持ってくるからな」
 くすぐったそうにその目を細める、桜の頭を優しく撫でる。

 ……ああ、和む。

 先の十分余りの時間を忘れさる様にほのぼのと、互いにほころぶ視線を合わせ。
 綿の海から、腰を浮かせて。

「―――先輩」

 声に応えて視線を返す。毛布を被った桜の繭。何をごそごそやっているのか、顔半分を丸まる毛布の端から覗かせ。
「……お酒、美味しかったです」
「……うん。でも、もうちょっと我慢だからな?」
 案外桜も素質があるなあと、いさぎの悪い少女を見やる。……まあ、そんなに気に入ったのなら。
 特別に―――花を見に行く、時くらいなら。
 衛宮士郎と間桐桜の二人にとって、特別な。
 桜の花を、冠に敷く時くらいなら。


「一緒に、な」
 杯を傾けるのも、一杯くらいは良いだろう。


「―――はい」
 一拍置いて、ふわりと微笑う。それは本当に、衛宮士郎が一年前に。
 命を賭けて夢を曲げても、きっと必ず守って見せるとあの夜誓った彼女のかおで―――
「あ、でも」
 そのかおのまま、何気なく。

「……先輩、たまにライダーとお酒飲んでるじゃないですか。ずるいです」
 子供の様に頬を膨らませ、可愛らしく拗ねる桜。

「酒なんて飲んでないぞ。あれ麦茶だし」
 ……それが狙ってのことだったかなんて、確かめる気はないけれど。

「だって先輩、いっつもかお赤くしてるじゃないですか」

 暫く目にしていなかった、その微笑ましい仕草と声が。
「ん―――ああ。でも、酔ってた訳じゃないぞ」
 ……つい、足元を眩ませた。

「そうなんですか?」
 伸びる尻尾はとても細くて、

「うん。あれは」
 燻る炎はささやかで。

「あんまりライダーが色っぽいから、ちょっとぼおっとしてた、だけ……」
 踏み付け火を点け、それでも気付かず言葉を紡ぎ。



「……こういうのは。いつでもその時に、はっきり言っていいんですよね?」
 衛宮士郎の足元が、ものの見事に大きく爆ぜた。



「……あの、桜?」
 闇にほころぶ大輪の花。瞬きの間に色彩を変えたとても綺麗なその笑顔から、瞬きたりとも合わせた視線が外せない。
 ……いつかの言葉を思い出す。いつも少女の傍らで、佇む彼女が誇らしく―――さも嬉しげに、語った言葉。
 大聖杯と呼ばれた魔方陣は、その依り代を理由なく決める訳ではない。それは魔力と触媒と―――そして主に呼応して、七つの器を神秘で満たす。

 宝石の眼の彼女が曰く、サーヴァントはそのマスターに似るのだと―――

 鎌首を上げ、絡み付く蛇。
 射竦めるその双眸は、褪めるくらいに蒼かった。身動ぎ出来ないそのままに、容易く巣へと引き摺られていく。
「……でも先輩は、わたしが言っても聞いてくれないと思います」
「う」
 こちらの声を飲み込んで間近で囁く舌なめずりに、反論不可の呻きを返す。それこそ舌の根も乾かない内にこの様では、抗弁出来る筈も無い。
 三度固まる石の肌へと、這いずる様に熱と殺気が染みて来る。
 ……蛙の気持ちを心底深く理解しながら、倫敦に居る魔法使いは元気かなあと思いを馳せる。そちらはお変わりありませんか?こちらはちょっとピンチです。けどこれは自業自得なので、どうかこの愚者を哀れんでやって下さい。―――ああそれと、次に帰って来るのはいつでしょう?その時もしも叶うのならば、一つ土産を戴きたい。いえ、大したものではないんです。以前も一度戴いた、魔眼殺しをもう一つだけ―――


「はい。だから、考え方を変えました」


 現実逃避を遮って、ただにこやかに微笑う声。声は遥かに私の檻は世界を縮むと言わんばかりの迫を纏って、柔らかな影が石人形を包み込む。
 逃げ場をなくした意識の中で、その感触と届く薫りにただひたすらに剣を鍛つ。籠もった熱と、桜の香り。殆ど視界も開けないままに膚と鼻とを侵したどくに、頭と体が痺れて乱れ、逃げる事など思いもよらず。

「先輩を責めても仕方ない、って」

 ……頭がくらくらする。
 満ちる匂いに中てられたのか、あたまはぼんやりてあしは気怠く。夢見心地の息苦しさに、深く大きく深呼吸。

「……お酒って美味しいですよね」
 吸って。

「……酔っちゃうのも楽しかったです」
 吐いて―――

「……でも先輩は、あっちこっちでつまんでばっかり。一緒に我慢してくれないんです」
 吸って。

「……だから、今夜はいっぱい飲んで貰います」
 吐いて―――



「思う存分―――酔っちゃって下さい」



 ―――吸った吐息と注ぐ唇。飲み下すその一杯で、くらりと意識が裏返る。
 もう一杯と寄せる肢体は、可憐に艶然と微笑んで。
 何時の間にやら脱皮を果たした、麹を纏った白蛇は。



 綺麗な顎を、呑まんばかりに大きく開けて―――
























 ……寝息を背中に、十握剣を鞘へと納め。

 毀れ息吐く剣の主は、扉を閉めて深く大きく吐息した。時刻は既に十一時。窓から落ちる淡い光が、今夜はやけに黄色く見える。
 廊下を歩むその足取りも、未だどこかが夢うつつ。引き摺る様に運ぶ爪先が、床の木目に引っ掛かる。
 目に見えぬほど僅かな段差に、足を取られてからだを崩し。


「…………飲み過ぎた…………」 
 衛宮士郎は呻きと共に、壁と床とにその身を預けた。


 遠く車が嘶く声と、か細く届く虫の音を、ただぼんやりと聞き流す。脈絡もなく下らないたゆたう思考に浮かぶのは、あの日目にした漢の背中。
 衛宮士郎が勝てないのなら、勝てるものを幻想しろと背中で告げた漢の言葉。

「……草薙の剣でも投影すれば良かったんだろーか……」

 色々と台無しな気がする独り言を呟いて、もう一度だけ息を吐く。あたまとからだに深く染み込む、美酒の余韻を夜風に冷まし。
「飲み過ぎだ、馬鹿」
 今度は自分に呟き掛ける。―――いや飲み過ぎと言うか、呑まれ過ぎと言うか。自業自得と自覚はすれど、それで酒精が綺麗に抜ける筈もない。
 窓の隙間からこちらに届く冬の終わりを告げる夜風は、寒いくらいに心地良い。からだの中に燻る炎を冷たく醒めた風で囲って、あたまに伸びる微熱の舌を喰い止める。
「……う」
 醒めた思考を忽ち襲う、一日早い二日酔い。

 喉が渇いている。
 何か飲みたい。 
 冷たい水か熱いお茶―――いっそのこと、

「―――藤ねえじゃあるまいし」
 唾を飲み込み頭を振って、愚考を掃い疲労の海に身を浸す。
 ……どうにも今まで知らなかったが、衛宮士郎と言う人間はかなりの酒乱であったらしい。つい先程の酒の席での乱行は、思い出すだに頭が痛く。
 救い難いのは。それでも未だに、少なからず。


 まだまだ全然飲み足りないと、きっちり嵌っている事で。


「……流石桜。あの遠坂と、姉妹なだけのことはある」
 むしろあの場に限っては、遥かに上手と言う気すらする。かなり酔ってはいたけれど、あれはあれで全部が酒のせいでもない―――間桐桜の一面でもあり、普段は秘めた本音でもあるのだろうと思う。
 それを思えば。頭痛はすれど罠と酒とに嵌ったことは、後悔しなくとも良いのかも知れなかった。
「安心しろ、遠坂。桜は元気に成長してる」
 狙った様に妹を避け、夕暮れ時に電話を繋ぐ不器用な姉に苦笑を投げる。

 ……それはもうとても健やかに、二段飛ばしでその階段を駆けているから。

 そう言えばあいつも、言いたいこと言ってる様に見えて本音は溜め込むタイプだよな―――思い、視線を窓へと投げる。眺める銀色、遠く月の輪を傘に掲げる似た物通しの魔術師姉妹。それを思えば今日この日まで、すみれの色の少女の中にあかいあくまの片鱗を見出せなかった自分の眼は、曇っていたと言う他はない。
「……まあ、どっちにしろ変わらないけどさ」
 うん。
 何も、変わる訳がない。
 曇っていても、晴れ渡るとも。見つめる視線のその先に。
 あくまが出るか蛇が出るか―――そのほか何が出ようとも。


「……俺は、桜が一番好きなんだから」


 閉まった扉に本音を洩らす。これを本人に向かって中々言えないのが、そもそもの原因だった。
 ……正直言って、これから先も。桜の悩みの種と花とを、芽吹かさずにいる自信はない。やっぱりライダーは綺麗だし、遠坂凛は憧れなのだ。身勝手な思いだとは思うが、衛宮士郎はやっぱり男で。爪先を踏まれるくらいは甘受するとしても、はなから意識するなと言うのは無理だと思う。
 加えて桜の掛けた眼鏡は、どうにもこうにも色が濃い。因を思えば嬉しくも、光栄だとも思うけど。衛宮の家に暮らす以上は、時折桜に斬られることは覚悟しておくべきだろう。
 ……でもなんか変なのが混ざってた様な気がするんだよなあ。

「と言うか、桜……覚えてるのかな。今夜のこと」

 酒で洩らした思いなら、酒で流れても不思議はない。酒精が揮う手前勝手な忘却力は、藤ねえと言う前例がしっかり示してくれてはいたし。
「―――うわ。覚えてたらどうすりゃいいんだろ」
 想像しただけで赤面する事この上ない。魔力の補給と言う名目の下、これまで幾度も肌を重ねてはいたけれど。
 それは決して衛宮士郎が、そういうことに慣れた訳ではなくて。
 ましてやあんな風に、その―――桜の方から、襲われた、なんて、ことは。


『―――どうでしょうか』

『わたしをみてください』

『先輩は、わたしのです』

『絶対、離しませんからね』


『―――思う存分―――酔っちゃって下さい』


「……うわあ」
 流石のあくまでもここまでは言えないだろう。言われた側がこれだけ恥ずかしいのだから―――言った桜は、何を言わんかや。翌朝素面を合わせたら、それこそ頭が沸騰するんじゃなかろうか。
 まあ、その横ではきっとこちらも倒れ悶えているのだろうけど―――
 ……でも。

「それも……悪くない、か」

 どうせ明日は日曜日。学校もなく、熱で倒れた生徒相手に部活も何も無いだろう。
 正直、少々どころではなく。それこそ頭から爪の先まで、くすぐったいことこの上ないけど。
 いつも賑やかな日々の中。二人揃って、深酒の―――味と香りを、反芻しながら。
 たまにはそうして枕を並べ、熱に茹だってごろごろするのも、悪くはないと思うのだ。
 ―――それとも。


「……こんなのも、悪くない、かな」


 脳裏に閃く天啓に、知らずにんまり口の端が歪む。
 浮かぶ言葉は藤ねえの、布団の上から呼ぶ言葉。酔って倒れて頭痛に呻き、それでもしつこく俺を呼び。
 こともあろうに玉子酒など作って来いとほざく言葉を、聞こえぬ振りで柳と流し。
 粥と薬を運ぶ生徒に、無意味に大きく胸を張り。
 自信満々に告げた言葉は、確か―――

「―――うん」

 ……湧き出る笑みが止まらない。
 ―――うん。
 これは是非とも、桜には味わって貰わないと。
 何しろ大トラ公認の、二日酔いの特効薬だ。頭痛と羞恥に身を捩る、その枕元で絶え間なく。
 桜が散々飲ませてくれた、美酒の答えを繰り返す。
 ……と言うよりも、今度はこっちが御返杯といこう。考えてみれば今までは、圧倒的に桜の方が俺に注いでくれてたんだから。
 桜にはもっと飲む権利と、じっくり味わう義務がある。まずは明日の丸一日を、麹の香りで満たしてくれよう。

「―――ああ。酔うのって楽しいよな」

 眠る少女に答えを返す。今の自分は多分まだ、いつもの様に酔っている。
 ただひと時も醒めず冷まさず。虚ろに空いた伽藍の洞は、絶えず注がれ溢れ出る、暖かな熱で満ちている。
 そう。


 衛宮士郎のからだは、きっと―――


「―――よし。そうと決まれば」

 重い身体を奮って上げる。半ばは壁にもたれながらも、ゆっくりゆっくり廊下を歩む。
 まずはさっさと後始末。居間の酒壜、食器の群を跡形もなく片付けて。
 ライダーは横の和室で眠っているだろうから、起こさない様気を付けて。万一風邪など引かない様に、布団をしっかり直してやろう。
 藤ねえももう帰っただろう。俺も流石に疲れてるから、軽く何かをつまむだけで良い。
 それから部屋で、少し眠って。いつも通りの朝食を、いつも通りに差し出して。
 寝ぼけ眼の少女がいつか、何かの拍子に頭痛を思い出してから。



 お腹一杯、迎えの酒を力の限り振舞おう。



 ……本当に久し振りの感覚。懐かしい様な、こそばゆい様な。
 一年前の戦の時を思い出す。未熟で半端な魔術使いの、知らない回路を灼熱の痛みが巡る感触にも似た。
 使わず錆びたこころの内を、暖かなものが巡る感触。

 衛宮士郎はこんなにも、明日の休みが待ち遠しい。

「―――また、増えたな」
 階段を恐る恐るに下りながら、柔らかな戦慄に身を浸す。少女に注ぐ酒壜は、こうも容易く背に並ぶ数を増やしていく。
 この調子なら、本当に。幻視や戯言、冗談抜きで。
 内に抱える結界が、昨夜の姿に変わるのも―――遠くはないし、悪くもない。
 ……えらく風刺が効いてるなあと、ふと思い付き苦笑を洩らす。
 以前遠坂が言っていた。固有結界、無限の剣製。それは心が象る世界が、外の世界を喰らう術だと。
 一度制御を誤れば、自身が逆に侵される。差し詰め俺の場合なら、それこそ内から剣襖になるだろう、と。

「……ああ。分かってる、気を付けるさ」

 彼方の師匠に頷きを。俺だって、針鼠になるのは御免だ。
 ただ―――あと数年も経ってしまえば。恐らく自分はその死に方は選べない。
 その時俺が選べる最期は、きっと剣に射抜かれることなく。


 無限に広がる酒壜の中、無限に広がる酒精の海に、呑まれ溺れて眠る道だろう。


「そんなつもりも、ないけどさ」
 飲みはすれども呑まれる気はない。……今夜のことはともかくとして。大体俺が眠ったら、桜は一体どうすると言うのか。
「桜に酒を注いでやるのは、俺の役目なんだから」
 ―――うん。そうだ。
 階段を降り、廊下へと。
 衛宮士郎が進む道、間桐桜の正義の味方。
 一年前から遥かに続く道程は、今も確かに自分の足の下に在る。
 しっかり足で踏み締めて、絶えず杯を交わしながら。
 揃って千鳥を踏みながら、ゆっくりのんびり歩んでいこう。
 刺されず眠らず、溺れず呑まれず。二人揃って幕が下りるまで、ほのかな酔いを愉しみながら。

「約束、したもんな」

 どんなことになっても、俺が桜を守る。
 俺は、桜だけの正義の味方になるのだと。


 その道標が在る限り、この先迷うことはない。


「―――んじゃ、まずは」
 腕を捲って、笑みをこぼして。居間の襖に手を掛ける。
 まずは足元の掃除から。永く楽しい道のりの、千里の道も一歩から。
 何よりもまず、とても楽しい明日の為に。

 飲まれたものの、後片付けと行きますか―――

 大きく深い吐息を零し、明日へ続く居間の襖を力一杯引き開ける。





















 虎が、呑まれていた。

                    <了>



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