「ねぇ、コハクおばさま」

 庭を掃き掃除していると、可愛らしいシキ様がやってこられた。

「なんですか、シキ様?」

 可愛らしい笑顔に思わず微笑み返してしまいました。陽の光の中で、まるで天使のように微笑む。

「お母様もわたしと同じく紅い髪だったの?」







機械式







 よくよく考えれば、わたしはからっぽでした。
 何にもない。ほんとうのからっぽ。
 人の形をした虚ろ。
 わたしの心臓は歯車でできていて、血管に流れるのは紅い血潮なんかじゃなくて、オイル。バネとゼンマイと歯車でできている、機械式。
 きぃきぃと軋んでいるのが胸の奥から聞こえてきます。






 わたしは人間ではないと。
 機械仕掛けなのだ。






 わたしの中は空っぽ。
 目的なんか、どこにもありません。ゼンマイ仕掛けの人形。
 わたしにあるのは「手段」だけ。
 目的も価値もなにも見いだせず、ただ手段だけ。
 それが――「コハク」。
 人は何かを得たいから何かをするというのに、わたしには得たい物なんて何もありませんでした。






 キィキィと軋む。
 カチカチと鳴る。
 カラカラといくつかの部品が空回りしている。





 キィキィ
 カチカチ
 カラカラ






 シキ様がきょとんとした顔を見ていられる。ああ早く返事をしないと。

「……えぇ……ほんとうにそっくりですよ、アキハ様に」

 そしてほんの一言を付け加えます。

「ほんとうに綺麗な御方でしたよ」

 そういうとシキ様は満面の笑みを浮かべました。
 わたしにはけっして浮かべることが出来ない、心からの笑み。たとえわたしがいくら取り繕って、ヒスイちゃんの顔を真似たとしてもできない、心のからの笑み。
 そしてその笑みは確かに母であられるアキハ様にそっくりでした。幼いころのアキハ様に見事なまでにそっくり。
 でも二階の窓から見下ろしているときはなんとか一生懸命ついていく泣き虫さんでしたけど、このシキ様は違われているようです。屈託もなく笑われて、まるでシキ様のようでした。






 ……ああ、いけない。思い出してしまう。

 わたしの中にあった「手段」が囁いた時のことを。






 シキ様はシキさんの手によって亡くなられました。
 でも、ほんとうは違います。ほんとうに殺したのは、使い捨ての駒のように、飽きてしまった玩具を無慈悲にほおる子供のような真似をしたのは、この「ワタシ」なのですから。
 自分が、この手であの人を殺したのです。
 幽閉されて、世間をしらない殿方にいろんなことをお教えするのは「手段」でした。そして男と女の間、睦言について教えるのも。
 熱い吐息。怯えたような、夢中になっていくような、あのキラキラとした瞳。 入っていく感じ。出される感じ。粘膜がからみあうような、やらしい感じ。

 共感能力。

 それは狂癇。それは兇喚。それは供姦。
 それは狂うような癇癪。
 それは兇を喚ぶもの。
 それは姦を供物する。

 それが「コハク」。

 座敷牢の中で嘆いていた、あの人。わたしは食事をそこへお持ちし、彼に色々教えました。そしてワザと鍵をあけ、外を教えたのです。
 何も知らない無邪気にそのことを喜び、わたしのことを「仲間」だと呼びました。コハクだけが俺の仲間だと。






 ナカマ?
 わたしはただ仮面をつけて笑うだけ。
 それは「手段」。






 わたしの目的はいったいなんだったのでしょうか?
 いつからわたしは日記をつけなくなったのでしょうか?
 あの四文字の言葉を、心の内を吐露する日記をつけなくなったのは。






「ねぇコハクおばさま」
「なんですか、シキ様」

 わたしはシキ様の呼びかけで我に返りました。いけません、時折、過去に心がとられてしまって。

「わたしって美人になるかな?」

 まぁ。
 その瞳はキラキラとして、あの人のような輝き。
 学校で好きな男の子でもできたのでしょうか? 最近の子供はおませと言いますけど、よくよく考えればアキハ様やヒスイちゃんがシキさんと出会われたのはこの年頃でしたから、おませ、というのは違うかも知れません。
 歳なんて関係ないのは、見ていたから知っています。真実の相手に出会うのに年齢なんて関係ありませんものね。

「あらら、シキ様。もしかして好きな男の子でもできたのですか?」

 とたん真っ赤になる。まるでトマトのよう。ふっくらとした頬が綺麗に真っ赤っか。可愛いですね。







 そしてアキハ様に血を吸わせました。
 遠野寄りにするために。呪われた血を呼び起こすため。そうしてシキさんと対峙させて、わたしを縛り付け蹂躙した遠野家に復讐するため。
 そう復讐。
 それが「目的」。人間らしい目的。でもほんとうにわたしは復讐したかったのでしょうか?
 ふと思うのです。
 復讐したかったわけではなくて、手段をふるいたかっただけではないか、と。
 「コハク」はただ、ふるいたかっただけなのではないか、と――。






 人の心は胡乱でわからないもの。
 心の中の闇とかいいますけど、闇も光があたっているところも何もなく、心すべてがわからないのです。あえて例えるのならば藪の中。自分だってわからないものなのに、他人がわかるわけありませんとも。他人にそう言われてそんな気になるのが、せいぜい。
 なのに、人はそれをたやすく信じてしまうのです、自分のことなのに、他人の言葉を信じてしまうのです。アキハ様も、シキ様も、そしてシキさんも。






 わたしは気がついて、日記を書くのをやめました。
 誰かに頼って泣くのは愚かなことだと気づいたのです。
 わたしはたしかに子供でした。泣いているからといって救ってくれる人なんて、誰もいないのです。物語にででくるヒーローなんていうものは、この世界にはいないのです。
 窓の下で遊んでいるシキ様も、急いで駆けているアキハ様も、ヒスイちゃんも、そして手を伸ばして遊ぼうよといってくれたあの子も。誰もわたしを救ってなんてくれないのです。



 だから自分で何かしなければならない。



 そう決意したのです。なんて当たり前のことなんだろうと思います。誰も助けてくれないのに泣いていたわたしは、やっぱり罵迦だったんです。






 わたしにあるのは「手段」。
 「囁く」という「手段」。
 それは決して目的ではないのに、わたしは「手段」のために目的を見ていた気がします。


 まるで機械のよう。


 そう思ったときから、わたしの心臓は脈打つことなく、歯車がカチカチと鳴るようになったのです。血管にはオイルが流れる、ゼンマイと歯車とバネでできた虚ろな人形になったのです。






 真っ赤になったシキ様は口の中でもじもじしています。
 なんて可愛らしい仕草。
 でもわたしはじぃっと待っています。シキ様は恥ずかしそうに照れながら、わたしに近寄ってきたのです。
 わたしは屈んで耳を差し出しました。







 計画は頓挫しました。シキ様とアキハ様による刺し違いを狙っていましたのに。シキさんという予定外の駒。それもうまく動かそうと思いましたが、時間が足りず失敗したのです。
 見たこともありませんし、触れたこともありませんけど、神様はいるのだと、その時は思いました。こんなことはいけないといわれた気がしたのです。






わたしは機械?
それとも人間?
どっち?






 思い出すのは買い物帰りに通りかかった公園でみた光景。
 誰もいない公園。からっぽな公園。
 子供や母親がいるべきところには、だぁれもいない。
 砂場には泥でできた山があり、崩れかけていました。
 ブランコは誰もいないのに、軋みながら揺れていたのです。

 きぃきぃ、と。
 きぃきぃ、と。
 きぃきぃきぃきぃきぃきぃ。

 わたしはその光景に囚われました。
 必要とされていない光景。ただそこにあるだけ。
   遊ぶため、憩いの場として作られたそこなのに、まるでうち捨てられてるかのようでした。
 ガランとしていて、生命の気配が全く感じられません。
 ただ、きぃきぃ、と軋み、泥山がその重みに耐えきれずべちゃりと崩れるだけなのです。

 ぺちゃり。
 きぃきぃ。
 べちゃり。
 きぃきぃ。

 まるでわたしのよう、「コハク」のようだと、思ったのです。
 半分壊れかけた、ネジがゆるみ、ただバタバタと足掻いている、惨めな道具。
 ブリキの人形。ゼンマイ仕掛けで軋みながら、動いていくその姿は、わたしにほんとうにそっくり。
 ただ「モクテキ」もなく、ただアシを動かすだけ。
 ウゴクというシュダンがモクテキと成り果てた玩具。

 ダカラ、ウゴキ ツヅケナイ ト イケナイ

 倒れても、そのブリキのゼンマイ式の玩具のように、足をバタバタと、キィキィと、動かし続けるような――存在。
 ゼンマイがきれるまで、きぃきぃと。



 怖くなって、そこから逃げ出しました。
 「コハク」を見せつけられたようで、そこにある息の詰まっていく恐ろしい錯覚に捕らわれて、ひきずられて、ほんとうにそうなってしまいそうで。






 チガウ、チガウ、ソウジャナイ、ワタシ ハ チガウ

 しかし「コハク」はいうのです。







「ノゾンダ ノハ ナァニ?」







 何かに背後から追いかけられているようです。振り返ってはいけません。振り返れば、もう二度とは戻れないのだと、わたしの心は叫んでいました。
 ただただ、恐ろしくて逃げ出すしかなかったのです。






 「ワタシ」を追いかけてきたのは、なんだったのでしょうか?






 シキさんとアキハ様は結ばれましたが、シキさんは体が弱く亡くなりました。アキハ様もヒスイちゃんも悲観に暮れ、泣き暮らしました。
 わたしも少し泣きました。もしかしたら泣いた真似をしたのかもしれません。それも「手段」だったのかもしれません。

 でもアキハ様はお子さまを身ごもっていたのです。
 それがわかった途端、空気が変わりました。シキさんが弱って起きあがれなくなってから包んでいた重い空気が動いたのです。それは明るい希望でした。
 アキハ様もヒスイちゃんも喜び、笑ったのです。笑みが消え、声が絶えた屋敷に希望という火が灯ったのです。
 なのに、わたしの「手段」が囁くのです。






ワタシ カラ ナニモカモ ウバッタ トオノ ガ ワラッテイル






 耳を塞ぎました。でも聞こえてくるのです。
 カチカチと。キチキチと。寝ても覚めても、聞こえてくるのです。軋む音が、崩れる音が、動き出す音が。わたしの中の「手段」が。

 よくよく考えてみれば、それは当たり前なことでした。だって、それはわたしの中から鳴っているのですから、耳を塞ごうが何をしようが、わたしが生きている限り、聞こえてきてしまうものなのです。



 それが「コハク」なのですから。






「ほら……お前は自由だぞ」

 シキ様は真っ赤なお部屋で笑いかけてきたのです。
 手も、顔も、着物も、壁も床も何もかも真っ赤。その中央にはさらに紅いナニカ。
 マキヒサ様だったモノ。
 あんまにも鮮やかな色に、わたしは泣きたくなるほどの感動を覚えました。


 マッカナ、マッカナ、オヘヤ。


 マッカ ナ ジユウ






 ワタシ ハ ジユウ






 ジユウ トイウ ナ ノ アカイ












アカイ ジユウ












 わたしはいつものとおり、笑いました。機械が反応するかのように笑っていたのに、シキ様はクビを傾げ、不思議そうにこちらを見たのです。


 なんで笑わないんだ


 なぜシキ様はそんなことをいうのかわかりません。
 わたしはいつものとおりに笑っているはずなのに。
 機械の調律が狂ったのでしょうか? 
 目的である「ジユウ」を得たというのに。






 胸の中で歯車がギチリと軋む。こんなに油を差しているというのに軋むんです。それは不思議な感覚でした。あまりにも不思議で怖いくらい。歯車のひとつが欠けてしまったかのよう。体の中に広がる空洞。くうどう。クウドウ。カラカラとした歯車の欠片が転がっていく、あやふやな感覚。なにかとても大事な物がないのにそれに気づけなくて、気づけないということが悲しいことなのに、でも気づけないことに安堵しているような、よくわからない気持ち。


 ギシギシと鳴る。
 ギチギチと軋む。
 カラカラと――――。






 見えるのは、公園。
 べちゃりとくずれる泥の山。
 きぃきぃと軋むブランコ。












 「ワタシ」の「モクテキ」はなぁに?












「誰が殺した、コックロビン?」
「それはわたしよ」と雀が言った。
「わたしの弓と矢羽で、殺したのよ」







 マザーグースの有名な詩。そう、マキヒサ様を殺したのは、シキ様。
 でもそれは違う。






「誰が殺した、マキヒサ様を?」
「それはわたしよ」とコハクが言った。
「コハクの駒(シキ様)で、殺したのよ」













 アカイ ジユウ
 マッカ ナ ジユウ

 ジユウ トイウ ナ ニ オボレテ イ ク …………













「手段」が囁くのです。












 そしてアキハ様の破水がはじまり、屋敷で取り上げることにしました。
 苦しく長い出産。息が詰まるようなひりつくような時間。
 初産だから時間がかかるのは当然でした。


 産道が大きく広がり、出てきたのは、可愛らしい赤ちゃん。なのに、その首には臍の緒が巻き付いている。窒息しているのです。死産だったのです。


 わたしは急いで臍の緒を外すと、おしりをパンパンと叩きました。
 殺してはいけません。シキさんとアキハ様のお子さまなのですから。
 死んではいけないのです。赤い色の自由なんてないのですから。






「誰がその骸を見つけたの?」
「それはわたしよ」蠅が言った。
「わたしの小さいまなこで、見つけたのよ」







 聞こえるのは、あの時のマザーグースの詩。
 嘲け笑うような、いやらしい「囁き」。






 怖い。恐い。こわい。コワい。コワイ。




 叩きます。




 はやく。はやく声を出して。




 お願い。




 パァンと叩く。




 ピクリとも動かない。





 イヤ。





 神様、お願い。





 この子を、あの赤い自由につれていかないで。





 助けて。





 縋るような思い。早くしないとほんとうに死んでしまう。死んじゃうの。





 とたん、鳴き声。大きな声。生命力あふれる産まれたことを知らせる生命の息吹の声に、わたしはヘナヘナと床にへたりこみました。ひざに力がはいりません。でもその赤ちゃんをそっと抱きしめました。
 大声で泣く赤ん坊の生命の力。温かい、躰一杯、全身を震わせてここにいるよって叫んでいる可愛らしい姿。
 涙で滲んでみえませんでした。生きているのは辛いことばかりではない、と。この胸をふるわせる感動に、わたしも泣いてしまいました。手の中にある小さい命。泣いて叫ぶ姿に感動してコハクになってから、はじめて泣いたのです。
 頬にあふれる温かい涙。オイルではなく、温かい涙がしたたり落ちていくのです。
 目の前が曇り、そのことが嬉しくて、そして赤ちゃんが全身で生きていることを告げるのが嬉しくて、そのことを感じて心が震えていることを感じて。
 わたしは機械式ではないのだと、人間なのだと、「コハク」ではないのだと。
 赤ちゃんと一緒に泣いたのです。


 そして、アキハ様に近づきます。

「……わたしの赤ちゃんは……」

 力みすぎてむくんだ顔のまま、意識朦朧な状態でも尋ねてきました。むくんでいても赤くなっていても、綺麗に見えました。疲れ切っていたも、そこには美しい「ハハ」がいたのです。

 わたしは微笑みかけ、安心させるように、こう言ったのです。












死産でした、と。












 なぜこんなことを言ってしまったのでしょうか?
 今考えてもわかりません。
 ただ、胸の中から響く軋みが、かみ合う音の囁くとおりにしゃべっていたのだと思います。






 アキハ様とシキさんとの間のお子さまはいないんですよ。






 口が勝手に「囁く」






死んじゃいました。






 たたきつけるように。


 打ちのめすように。


 痛めつけるように。


 毒を注ぐように。


 ほんとうに非道いと思います。けれど言っているのはわたし。このわたしなのです。












 そのあとのことははっきりと覚えていません。


 聞こえるのは軋む音。かみ合う音。
 からからと空回りする、わたしの中の部品たち。
 きぃきぃと。





 あまりにも早く動いてしまったため、記憶に残っていないというのが正しいのかも知れません。
 覚えているのは、アキハ様の叫び声。悲痛な叫び声。
 軋む音に同調したかのような、叫び。






 ただ「コハク」が囁くだけ。






「誰がコックロビンの血を受け止めたの?」
「それはわたしよ」と魚が言った。
「わたしの小さなお皿で、受け止めたのよ」







 たった一言。たった一滴の毒。
 それだけでアキハ様は気が違われてしまったのです。
 わたしがウソでしたと謝っても、何の反応も見せなくなったのです。
 赤ちゃんをみせると奪うように抱いてずっと子守歌を歌うのです。
 そしてその子にシキと呼ぶかけ、笑うのです。



 ただ無邪気な母親の顔をみせて。
 愛おしげに話しかけるだけ。
 わたしなんか、見えていません。
 ゆっくりと衰えていきました。
 赤子を取り上げようとすると暴れるので、常にシキ様とご一緒に。
 ほほえみながら、ゆっくりと、衰えていったのです。
 花が萎れるかのように、日が陰るかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと。
 まるで、あのときのシキさんのように。
 アキハさまはシキさんを追いかけていくのだと思うと、とても納得したのです。



 だから、わたしはだだ見ていました。
 お世話し、シキ様に微笑みかけたり、お世話したり、アキハ様にお食事を用意したり――――――ただ、それだけ。
 ただ――――見ているだけでした。






 わたしはアキハ様が好きでした。
 わたしはシキ様が好きでした。
 わたしはシキさんが好きでした。
 ほんとうに好きでした。
 でも好きと一緒に、なにか昏いモノ、うずくまるいやらしいモノがあるのです。
 こんなに綺麗な感情とともに、そのねっとりとした情が。
 低く、震えるように、凍えるような小さな声で、「囁く」のです。






 こちょこちょと囁きかけてくる。くすぐったくて、ついつい笑ってしまいます。するとシキ様は、笑わないでキチンと聞いて! と怒られるのです。気の短いところはアキハ様そっくりです。
 さてはて、シキ様のお気に入りは誰でしょうかねぇ。授業参観でみた五木くんでしょうか それとも山内くんでしょうか? アキハ様と違われて、面食いのようですからねぇ。



「……あのねぇ……シキはねぇ……ミドリちゃんが好きなの……」



 …………。
 …………。
 …………。
 …………同性とは、やはり最近の子供はススんでますねー。



 わたしは、どうしていいのかわからず、あはーと笑いました。
 笑うなんて、おばさまのいじわるぅ、とシキ様は手をぶんぶんと振って怒りになられています。
 ――なんて、可愛らしい。






 そうしてアキハ様はお亡くなりになられたのです。
 眠るように、微笑みながら、まるで舞い散る桜のように、あっさりと。






「どうして姉さんはこんなことを……」

 ヒスイちゃんは悲しそうな顔をして言いました。
 アキハ様の葬儀の日。喪服に包まれながら、語る、もう一人の「ワタシ」

 しかし『どうして』と聞かれても返答のしようがありませんでした。
 あのとき、たしかにわたしは温かい涙を流したはずです。
 オイルでもなく、血の通った人間が流す涙を。
 なのに、『囁き』が唆すのです。
 …………そんなのは、言い訳にはなりませんね。
 わたしがやったですから。
 手を下したのですから。






ほしかったのは、なぁに?






 ヒスイちゃんが尋ねているのは、この「囁き」と同じ。

 わからない。
 ワカらない。
 ワカラナイ。

   きぃきぃと、ギシギシと、からからと。

 鳴っている。成っていく。為っていく。

 わたしはヒスイちゃんの問いかけにただ首をふって答えました。



 ――――――わからないのよ、ヒスイちゃん、と。



 ヒスイちゃんはとても悲しそうな顔をしました。そんな顔をして欲しくないのに。ヒスイちゃんには常に笑っていて欲しいのに。
 この遠野というものに捕らわれることなく、乙女らしく清らかに笑っていて欲しいのに。
   あの時のように。



 …………あの時のよう?



 胸がガチリと鳴りました。
 いつからヒスイちゃんが笑わなくなったのでしょうか?
 なにかネジがゆるんでいく、コワい気がしました。
 無視して、語りかけました。語りかけないと、誰かにしゃべらないと、あの時のことを考えてはいけないと、「コハク」が囁くのです。そうでないとすべてのネジがゆるんで、バラバラになってしまいそう。
 ただのネジとバネと歯車とオイルだけの、ガラクタになってしまいそう。

「ヒスイちゃんは、もう遠野家にいなくていいのよ」
「……姉さん……」

 「コハク」に成るかもしれなかった、もう一人のワタシに。

「……ヒスイちゃんはね……ジユウなのよ」
「…………………」
「……ジユウ……なのよ……」




 ヒスイちゃんは数日のうちに屋敷から居なくなりました。いつ、いなくなったのか覚えていません。この生きていることを世界に知らせるために、生命の限りいっぱいに泣き叫ぶやんちゃで可愛らしいシキ様の世話にかかりっきりのためで気づかなかったのです。
 ……もしかしたら、いつ居なくなったか、ワザと知らないようにしていた気がします。




 ヒスイちゃんが居なくなったと気づいた夜、一人で泣きました。






 今、思い出しても、ヒスイちゃんの悲しい顔しか思い出せません。
 あんなに笑っていてほしかったのに。
 もうひとりの「ワタシ」ぐらい、笑っていても罰があたらないと思うのに。


 ……あの時のよう?



 ……いえ、シキさんは虚弱だったから亡くなられただけ。



 ソウ テ ナンカ ダシテ イナイ



 なにかが追いかけてくる。目に見えない何かが、後ろから。怖くて堪らない。なのに振り返られない。振り返ると終わってしまう。見てはいけない。見てはならない。じゃないと――――。息がつまっていく。見えるのはブランゴ。きぃきぃと。崩れるのは泥の山。べちゃりと。ギシギシと軋む。軋む。軋む。軋んでいく。揺れていく。カタカタと、きぃきぃと。怖い。恐い。こわい。コワイ。追いかけてくる。なにがくるの? くるわけない。「ワタシ」は「ジユウ」。「ジユウ」なのだから。マキヒサ様も、シキ様も、シキさんも、アキハ様も、いない。ヒスイちゃんもいない。みぃんないない。「ワタシ」は「ヒトリボッチ」。だからわたしにはなんにもない。なんにもないからきしむわけない。そうこれはウソ。ナニモナイノダカラ、キシムワケナイ。「ワタシ」は「ジユウ」。アカイアカイアカイジユウ。キレイナジユウ。コレデヨウヤクワタシハ「ジユウ」ニナレタノダトワラウ。わらう。笑う。嗤う。嘲け笑うのはダレ? 追いかけてくるのはダレ? ダレダレダレダレダレダレダレダレダレダダダレレ、ダレ?。責めるような翠色の瞳。柔らかい黒縁眼鏡の奥の瞳。冷たくでもやさしく笑う瞳。ナカマだという瞳。ナニ。ナニ。ナニナニナニナニナニナニナニナニナニナニ。なぁに?













 ―――――――――ああ、シキ様が泣いている。はやくお世話をしないと。
 ほらあ、泣きやんで。「コハク」はここにいますよ。ほぉら笑って笑って。ぺろぺろぱぁ。よちよちよち、可愛いですねー、あはー。












「誰がコックロビンの経帷子を縫うの?」
「それはわたしよ」と甲虫が言った。
「わたしの針と糸で、経帷子を縫うのよ」







 そう。わたしは自分の経帷子を縫っているのです。
 死に装束を縫って暮らしているのです、シキ様とともに。
 ゆっくりとゆっくりと、朽ちるように。まるでシキさんのように、アキハ様のように。



 わたしの中はからっぽ。あるのは「手段」だけ。
 フクシューとジユウというものを求めるだけの手段しかない存在。それがコハクなのです。
 でも、もうその「手段」をふるうこともなく。
 ジユウを求める必要もなく。
 トオノから逃れることもなく。
 ただ、この空虚な屋敷の中、シキ様をお育てして朽ちるだけ。





 これがわたしの手に入れたジユウ。
 あんなに求めていたジユウ。





 だから、遠野の屋敷を見上げて――



 マキヒサ様、シキ様、シキさん、アキハ様、と――。



 毎日つぶやくのです。この心の中のからっぽなところが埋まるように、祈りながら。




「ん? どうしたの、琥珀おばさま?」
「いいえ、なんでもないですよー、詩希様」

 また見上げる。
 わたしを縛り続けている遠野という血。それとも縛っているのは「コハク」かしら? 







 アカイ アカイ ジユウ






 アカイ アカイ ジユウ トイウ ナ ノ ソクバク












 わたしの手に入れたかったモノはなんだったのか、それさえもわからない、愚かな機械仕掛けの人形なのです。






 「ワタシ」の欲しかったものはなぁに?












「囁き」が、軋む音が聞こえないふりをして、わたしと同じからっぽな遠野の屋敷に向かって、「ワタシ」に向かって、云うのです。





 そのうちお会いしましょうね。それまではおやすみなさいませ、と。





 そうして遠野の最後の一人であられる詩希様と一緒に、この屋敷へと、遠野という屋敷へと、笑いながら入っていったのです。












ああ、お可哀想に
皆が溜め息、皆で泣く。
鐘の音、鳴り響く中。
哀れな「コハク」のために。




fin.




あ と が き

 この作品は鰯丸様の書かれた天抜きがベースにあります。
 それをみた時、いつか書くでしょうね、と予感めいたものがありましたが、まさにそのとおりでした。
 また前後してしにを様から当サイトへと「Children」という作品を頂き、それにも触発されたのは確かです。
 その結果、これは西奏亭にあった方がよい作品であると考え、寄贈させていただきました。

 原作とは違い、少女ではなくコハクをメインにおいてかかせていただきました。

 またもやマザーグースのこの詩を用いてしまいました。どうしてもマッチした詩がなく、これを採用いたしました。

 最後に、作品をベースにSSを書くことに対して快く許可してくださいました鰯丸様に感謝を。

6th. August. 2003. #115


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