わたしがもっとも罪深いのです。


機 戒 式




「誰が彼の墓を掘るの?」
「それはわしが」と梟が言った。
「わしの鋤とこてで墓を掘ろう」







 今日も坂を上ってここに来ました。
 閉ざされた門の向こうに見えるお屋敷はお城のようと例える人がいるかしれません。でもわたしにとってそこは牢獄にしか見えませんでした。
 薄暗い情念によって閉ざされた永遠の獄。それは白い墓標でした。うち捨てられ、風雨にさらされて白くなった髑髏のよう。

 その獄を、その墓をそっと覗き込むのが、わたしの日課なのです。それは「ワタシ」自身を覗き込む、とても愚かな、そしてとても神聖な儀式なのです。









 姉さんはいつもそうでした。
 わたしのためだといって、いつも自分を犠牲にしていました。
 いつもいつも、わたしが望む望まないにかかわらず、ずっとそうでした。
 わたしがシキ様とシキさまとアキハさまと楽しく遊んでいた時、姉さんはその体でわたしをかばっていたのです。なんでもない顔をして、獣欲に虐げられ、犯され続けたのです。
 そのことを知ったとき、わたしは吐きました。この世の中すべてが穢れた汚れにみちた汚泥に思えたのです。吸う酸素も、飲む水も、食べる物も、なにもかも穢れにみちていたのです。そして姉さんを、オンナを犯すという汚らしい男という生物たち。
 内臓がこんなにもねじ曲がるものだとはしりませんでした。口からすべての内臓がでてしまいそうなほど、臓物が勝手によじれていき、ねじれて、蠢くのです。
 なのに姉さんは笑うのです。こんなことなんでもないのよ、と
 なのに姉さんは云うのです。笑ってねヒスイちゃん、と。
 そんなこと言われても笑えるわけないのに。姉さんが苦しんでいることを知って、その身を呈してかばってくれたのを知って、笑うことなんてできませんでした。
 なのに、云うのです。
 ヒスイちゃん、笑って――――って。





 屋敷からシキさまが現れました。すこやかに育っているようで、ほっとしています。アキハさまそっくり。可愛らしく、愛らしく、それはとても楽しそうに微笑んでおられました。








「誰が牧師につとめるの?」
「それは妾が」と烏が鳴いた。
「小さな本をもって、妾が牧師をつとめましょう」







 シキさまはスキップを踏みつつ、顔を真っ赤に赤らめ、お屋敷の前にいる姉さんへと向かっています。
 姉さんが浮かべるやさしそうな笑み。あの笑みではなく、静かな口元にそっと浮かべるだけの微笑に、わたしは安堵しました。感情をワザと見せることによって本心をひたすら隠していたあの笑みではないことだけが救いなのです。そしてあの笑みを浮かべていないことを確認するのが、わたしの日課なのです。








 わたしたちは双子でした。同じ血が流れ、同じオンナで、同じ感応の力を持っています。違うのは目の色だけなのです。ただそれだけの違いなのです。
 なのに姉さんは、ただ『ネエサン』だからという理由でわたしをかばい続けたのです。
 まったく同じなのに、双子だというのに、たったそれだけの理由で。
 その胸の内はどうだったでしょうか?
 狂おしいものが渦巻いていたのでしょうか? あの内臓が捩れるような、猛々しく体をバラバラにしてしまうような、あの衝動が体中を巡っていたのでしょうか?
 それとも――――静寂だったのでしょうか? 静謐な凍りついた世界。なんの感情もなんの暖かさもない、凍てついたものだったのでしょうか?
 世界でもっとも近い双子どうしであっても、それはわかりませんでした。そんなわたしにも理解できるのがひとつだけあったのです。
 姉さんならするだろうと、してしまうだろうと予感めいた確信だけが、わたしの中のざわめきとともにあったのです。







「誰が司祭になるの?」
「それは、わたしが」と雲雀が言った。
「闇の中で『アーメン(まさに然り)』と、
 わたしが司祭として唱えましょう」









 姉さんの部屋はいつもゴチャゴチャでした。箪笥に、机の上に、床の上に、物が散乱していました。姉さんが片づけられないのは知っています。わたしがどうしても味覚的に通常の方々からずれていたように、姉さんはその感覚がずれていたのです。

 そう、わたしたちフタリはズレていたのです。二人でようやく一人なのです。他のヒトたちとは違い「コハク」と「ヒスイ」のフタリでようやくヒトリになれるのです。

 姉さんの部屋はいつも電気がつけっぱなしでした。テレビもつけっぱなし。消えているのを見たことはありません。テレビの横には触ったことがないテレビゲームが転がっています。コントローラーはケーブル同士が絡み合って、まるで放り投げられたようでした。
 まるでそこは匣でした。何もかもぎゅうぎゅうにいっぱいなるまで押し込められた匣。物をしまうためではなく、物を入れることが目的になってしまった匣。中に入れる物がぐちゃぐちゃでも、折れても、割れてもかまわない。ただ入れてないといけない。でないと空っぽだということがわかってしまうから。
 その匣の中はいつも騒がしいのです。電灯は昼も夜もなく煌めき、テレビは人の声をがなりたてて、ゲームは小気味よい電子音を奏で続けているのです。まるでパレードのよう。騒ぎ続けなければならない虚ろなお祭りが、時が果てるまで行われているかのよう。
 わたしはテレビを消そうとしたことは、電気を消そうともしたことはありません。このお祭りを終わらせるのはいけないことだと知っていたのです。姉さんはけっして消すことができないのですから。姉さんは静謐で物音一つしない世界に耐えられないのです。
 もし、わたしがここで掃除と称して消したらどうなるでしょうか?
 テレビを消し、片づけして、そして消灯する。ただそれだけのこと。時の果てを待つまでもなく、この虚ろなパレードを終わらせることが出来るのです。
 煌々と照らし何かを映しだしている画面。誰かしらない人が笑いながら大声でしゃべっているのです。まるで遠い世界のような光景。ほんとうにわたしのいるこの世界と同じなのでしょうか?
 もしそうなら、わたしが今いる場所が虚像なのかもしれません。幻灯機によって銀幕に映された影のように実体がない世界にいるかもしれません。この小さな匣の中が本当の正しい世界であって、今いるこの世界が偽物。幻影。うたかたの夢。こんな閉鎖的で、トオノというものしか存在しない世界。血で血を贖う怨嗟の世界。トオノの血とカンノウの血が渦巻くおどろおどろしい世界。なにもかも赤黒い血がこびりついたおぞましい世界。あってはいけない世界。なくなってしまえばいい世界。
 もしこの世界が夢まぼろしであれば、ネエサンは幸せだったのでしょうか?
 かばうこともなく?
 耐えることもなく?
 あんな笑みをうかべることもなく?
 痛みをかんじないふりをすることもなく?
 わたしにはわかりません。何もわかりませんでした。

 テレビがわめきちらし、電灯が煌々と照らしている狭い匣。
 匣の中の宇宙。匣の中の世界。
 そこは――――幸せなのでしょうか?
 みっちりとぎっしりと詰まった匣の中。
 なのに、こんなにもいっぱい詰まっているというのに、そこはとても寒々としていてからっぽで、何もなく、ただ虚ろなのです。
 もしわたしがここでテレビを消したらどうなるでしょうか? 電灯を消したら? この虚しい影絵のような虚ろな匣の中をからっぽなのだと証明したら――姉さんを止めることができるのでしょうか? シキさまとアキハさまのことを考えて、姉さんを止めた方がよいのでしょうか?
 この歪んだ現実の中で唯一幻想の世界とつながっているものを止めたら、姉さんは止まるのでしょうか? 外の世界に憧れることなく、「ジユウ」というものに憧れることなく?

 わたしはテレビの前で固まってしまいました。ただこの指を伸ばしスイッチに触れるだけで、ほんのちょっと力を込めるだけで消えてしまうのです。蟻さえもころせない力で押すだけで消してしまえるのです、姉さんを――――。





 シキさまと姉さんは楽しそうに会話しています。ほんとうに楽しそう。
 シキさまは手をぶんぶんふるって、まるでわんぱくな男の子のように振る舞って、そんな様子を姉さんはほんとうに愛おしそうに眺めて笑っているのです。

 それはとても酷く――――酷く、儚くて綺麗な世界でした。








 けれども、わたしは消すことはできませんでした。
 どうなるのかわかっているのに、結末が予想できるというのに、わたしはスイッチを消さなかったのです。姉さんを消さなかったのです。

 その時からです。胸の中がざわめいたのは。軋む音。歪む音。フタリでヒトリなワタシタチ。わかれたもうひとりの「ワタシ」たち。
 わたしたちはそのことに気づきながらも、ずっと目をそらし続けました。それを見るということは深淵の覗き込むということ。冥い虚ろな深淵。

 深淵を覗き込むものは、またその深淵からも覗きこまれているのだと言います。
 では、そこで見ているのは?
 覗きこまれているのは、だぁれ?

 胸の軋みが、奥のザワメキがそう囁くのです。わかっているのに、そう尋ねてくるのです。

 くすくすとからかうように笑っているのです。ワタシにできない笑みを浮かべて、からかっているのです。
 ワタシを嘲け笑っているのです。

 くすくす、くすくす、くすくす

 それはだぁれ?

 くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす

 ダァレ ガ ワラッテイルノ?








 シキさまが戻られて姉さんの杜撰な計画はすすみました。
 姉さんはただ「囁く」だけ。
 シキ様に、アキハさまに、シキさまに、ただ毒を盛るだけ。絡み合うようにまとわりつくように言うだけ。あんなに矛盾があり、綻びがあり、綱渡りのような企みなのに、まるで操り人形のようにみなさんは姉さんの意にそって動いたのです。手足に糸がくくりつけられていて、そうするしかないかのように。

 それはほんとうに「フクシュウ」なんですか?

 何度、この言葉を姉さんに言おうと思ったのでしょうか。でもイザ言おうとすると、口は強張り、喉は震えてしまい、声にならないのです。そんな強張っている「ワタシ」に対してもう一人の「ワタシ」はいうのです、笑って、と。
 「ワタシ」はとてもずるい卑怯者でした。「ワタシ」を外して行おうというのです。まだ「ワタシ」をかばおうとしているなんて――――なんてずるいんでしょう。
 外れているからこそ、「ワタシ」には「ワタシ」が何をしようとしているのかわかりました。そして同じ「ワタシ」なのですから、何をしようとしているのか手に取るようにわかるのです。

 ――そしてわかっているのに止めなかったのが、「ワタシ」の罪なのです。
 この穢れた世界において姉さんはあがき苦しみもがいているのに、「ワタシ」だけのけ者なんて、そんなことは許されるわけありません。
 だから「ワタシ」がもう一人の「ワタシ」を後押ししたのです。背を押してそちらに進めてしまったのです。気づかないというフリをすることで、止められたのに止めないということで。
 傍観――――それがわたしが犯した罪なのです。





 姉さんがこちらに近づいてきます。
 シキさまと一緒に微笑みながら、楽しそうに。
 わたしは隠れもせず、ただふたりを見続けたのです。








「誰が喪主になるの?」
「それは、わたくしが」と鳩がいった。
「愛のために嘆くわたくしが喪主になりましょう」









 姉さんの企ては失敗しました。
 シキ様はシキさまによって殺されましたが、アキハ様は生き残り、シキさまと結ばれたのです。
 姉さんはなにか安心したかのようでした。まるで怯えた子供のよう。自分のしでかした罪に叱られはしないかとただ無闇に怯えた子供でした。それを押し殺していつものように笑うのです。
 まるで仮面舞踏会のよう。誰も本当の顔をみせることはなく、ただ踊るだけ。本心を押し殺して狂ったかのように、この戯れの儚い夜が終わるまで踊り続けているよう。幻灯機によって映し出される幻。朝の眩しい光に消えてしまう儚い世界。
 そして――――その外で、「ワタシ」はただ見守るだけ。
 ただの――――孤独。
 わたしはノケモノなのです。



 ――――でも、姉さん。

 もう一人の「ワタシ」が心の中で囁くのです。

――――「フクシュウ」は終わったの? それとも……。





 シキさまは穏やかな方で、この陰鬱な陰を帯びた遠野家に涼しげな風をもたらしたのです。

 シキさまの言葉を思い出します。
 ヒスイはトオノに雇われているのだろうって。
 でもわたしは否定するのです。
 たしかにトオノに雇われていますけど、ワタシのご主人様はシキさまです、と。

 シキさま。ワタシのご主人様。幼少の頃からお慕いしていた殿方。
 胸の奥をほんのりと温かくさせてくれる方。
 でも――ワタシはけっして触れることは出来ませんでした。
 こんなにお慕いしているのに、再会する時を待ちわびていたのに、胸が震えるほど涙してしまうほど、そして思って自慰ができるほど愛しているというのに。
 それでもシキさまは穢れた男なのです。唾棄すべき女を犯し貪る獣なのです。
 たとえどんなに凛々しく清々しい方であられても、いやらしい男なのです。

 アア、オシタイ シテ オリマス、シキサマ。









 シキさまは体が弱く、よくお倒れになります。なのにそのことに構わずよく出歩き、まるで年頃の男性というより、わんぱくな男の子のようでした。

 あの日もそうでした。アキハさまと痴話喧嘩ともノロケともいえる戯れのあと、倒れてしまったのです。アキハさまは心配そうでしたが、姉さんが診察した様態が安定しているとわかると安心されたようでした。
 そんなシキさまの様子を遠巻きに見るしかできませんでした。穢れた男性に触れることが出来ないわたしはシキさまのメイドだというのに見守ることしかできないのです。アキハさまと姉さんが部屋まで運び、姉さんが様態をみて、アキハさまが看病する。

 わたしはのけ者でした。

 できることといったら、姉さんの指示するとおりにお湯を沸かし、氷を砕き、いろんな物を運ぶぐらい。わたしはシキさまの側に寄ることさえ出来ない、役立たずのメイドなのです。






「誰が松明を持つの?」
「小生が」と鶸が言った。
「はせ参じ、松明を持とう」







 姉さんは贄でした。罪深いものから目を背けるための祭壇に捧げられる仔羊。今からふりかかろうとしている残酷な運命を知ることのない、メェメェと人懐っこく鳴き続ける、無邪気で哀れな仔羊。
 その贖うべき血の上に立つのはトオノではなく「ワタシ」なのです。このヒスイというカメンを被っている何かが立っているのです。
 何もかも姉さんが背負ってしまう。そんなことは望んでいないのに。
 でも心の中で何かが笑っているのです。

  くすくす、と。

 胸の奥のざわめきはますます強くなっていき、わたしを胡乱に、そしてゆっくりと蝕んでいくのです。

 いやらしいワライコエ。
 なんて、イヤラシイ。
 アザケワラウ コエ。

 くすくすくす。

 でもそれは笑い続けるのです。けっして笑うことができない「ワタシ」に向かって、「ワタシ」が望むようにずっとワラい続けるのです。
 もうひとりの「ワタシ」が贄になることによって目をふさいでいるのではないの? 耳を閉ざしているだけでないの? 

 そう笑うです。この笑い声が聞こえるたびに、胸の見えない疵痕から血が流れていくのです。赤い、紅い、朱いものが滴って落ちていくのです。この躯の中にあるものすべてが流れていく喪失感とじりじりと焼けつくような焦燥感に身を焦がしているのです。
 それでも、わたしは止めようとは思いませんでした。
 ただこのチクリとした痛みが感じられるのが嬉しくて、わたしははじめてワラエタのです。なんてあさましいのでしょう。ワラエタことを喜んでいるのです。もうひとりの「ワタシ」がのぞむどおりに嗤えたのです。
 姉さんの流した血の上に立つ「ワタシ」。血の海で苦しみ悶える「ワタシ」の上に傲慢に無慈悲に無感情に立つ「ワタシ」。そして嗤い続ける「ワタシ」。
 くすくす、と、それは楽しそうに、とても嬉しそうに嗤えるのです。
 ネエサンが望んだとおり、もうひとりの「ワタシ」がいったとおりに、「ワタシ」は嗤う。くすくすと、嘲るように、罵るように嗤い続けるのです。

 「ワタシ」の手はもうひとりの「ワタシ」よりも罪で穢れ、濡れていたのです。
 この昏いトオノという深淵の中で、光もなく、手に掲げる松明をもつこともなく、ただワライながら、すべての結末を見ているだけなのです。








「誰が葬送歌を歌うの?」
「それはあたいが」と鶫が囀った。
「藪で囀っているから、あたいが葬送歌を歌うよ」









 夜の見回り。
 わたしにできることといったらそのくらい。メイドといってもシキさまに触れることも出来ない役立たずなのです。着替えの手伝いもできず、鞄を渡すのも手が触れないよう気をつけて渡すようしている。たとえお慕いしていたといえども、男の人に触れることは出来ませんでした。
 だからこうして夜の見回りぐらいきちんとつとめようと努力しておりました。

 そしてシキさまのお部屋。鍵のかかっていない部屋を開け、中を確認いたします。
 そこにはまるで死んだかのように眠るシキさま。とても透明で、とても綺麗で、まるで人形のようでした。こうして寝顔を見ているとほっとします。胸の奥のざわめきが静まるのです。シキさまの凍りついたかのような寝顔は、「ワタシ」のかけがえのない宝物でした。
 なのに、あの時、どうしてしまったのでしょうか?
 あれほど嫌いで触れることができない殿方に触れることが出来たのです。
 「ワタシ」はワラいながら、シキさまの首に両手を回したのです。太い男らしい首。感じるのは温かい血潮と脈動。それは確かに生きていると告げています。その冷たい肌の感触をしばし楽しみました。

 ナニ ヲ シテイルノデショウカ?

 まるで遠い世界をかいま見ているかのようでした。あのテレビに移った光景のよう。まるで現実味のない不思議な光景に思えて仕方がありません。
 ご主人様だというのに、わたしはいったいなにをしているのでしょうか?
 なにをしたいのでしょうか?

 冷たい肌はじんわりと暖まり、ただ生命の熱い鼓動を伝えてきます。

 シキさま。
 再会した幼なじみ。
 わたしのご主人様。
 お慕いしている殿方。
 愛しているたったひとりの男性。
 そして――――。
     ――――「ワタシ」 ノ ジャマ ヲ スル ヒト。





 姉さんはわたしに気づきました。
 シキさまも気づかれたようです。わたしに微笑みかけてきます。
 可愛らしく、楽しそうに、ぺこりと会釈してきました。きちんと躾されているようです。さすがは姉さんです。わたしも会釈しかえしました。








 それは昔みた光景。
 姉さんの躯。
 痣だらけの躯。
 折檻をされたあと。
 青く腫れた節々。
 乱暴された跡。
 痛ましい「ワタシ」
 汚された「ワタシ」

 目がグルグルまわる。

「なんでもないのよー」

 姉さんは笑う。
 もうひとりの「ワタシ」が笑いかけてくる。
 目の前が歪む。

「痛みは感じなければ痛くないのよ」

 ぐにゃりと曲がり、ゆらゆらと揺れる。
 ――――気持ち悪い。

それは凌辱の跡。
女をただ蹂躙していった跡。
汚らしい跡。
獣欲のままに。

 ムカムカする。

「だから、ヒスイちゃんは笑って」

 笑って。嗤って。わらって。ワラって。ワラッテ。
 頭がガンガンする。むかついて、吐き気が。
 ワラッテと強要される。ワラエ、ワラエ、ワラエ、ワラエワラエワラエワラエワラエワラエワラワラワラワラワラワラワラワラワラワワワワワワワワワワワワワワワワワ。
 胃の中がひっくりかえる。

 聞こえるのはワライゴエ。

 くすくすと、嘲るように、罵るように。
 ただくすくすと耳障りな笑み。

 あはーとわらうからっぽな「ワタシ」
 わらえないからっぽな「ワタシ」

 それはだぁれ?
 ワラっているのは、だぁれ?
 ダァレ ガ ワラッテイルノ?

 その瞳の色は――――。

 世界が捩れていく。ねじれていってしまう。
 ゆらゆらと。
 ゆらりゆらりと。
 ぐらりぐらりと。
 そして――――――――。






 わたしは自分がしていることを気づいて急いで逃げだしました。大切な方なのに、なんで首に手をまわしてしまったのでしょうか?
 こんなにも愛おしいと思っている方なのに。
 こんなにも慕っている方だというのに。
 なのに――――なぜ?
 この胸のある何かが騒きたてるのです。

 それからです、シキさまが体調を崩されたのは。
 それはわたしのせいなのです。
 わたしがあんなことさえしなければ、よかったのです。

 「ワタシ」がいなけれぱ、シキさまは幸せに暮らしていけたというのに。トオノという血にしはられているアキハさまを解放されて、愛しい方と結ばれて、幸せに――――。

 なのに「ワタシ」が言うのです。
 シキさまがどこかにイってしまう、と。
 手の届かないところにいってしまうって、お慕いすることもできないところにいってしまうって。








だから、「ワタシ」は姉さんのやることを黙って見守ったのです。






 間もなくシキさまは逝かれてしまいました。
 そうです、わたしのせいなのです。アキハさまも姉さんも泣き暮らしました。
 泣いているアキハさまにお酌する「ワタシ」。
 悲しんでいるアキハさまの言葉にうなずく「ワタシ」。
 泣き疲れて寝るアキハさまを見守る「ワタシ」。

 でもそれはある喜ばしい知らせで吹き飛んだのです。アキハさまはシキさまのお子さまを身ごもられていたのです。
 吉報でした。暗く落ち込んでいたわたしたちはそこに明るい希望を見いだしたのでした。








聞こえるのは、あのワライゴエ。
くすくす、と耳障りに。
わらっているのは、だぁれ?
「ワタシ」の耳元でわらうのは、だぁれ?
ダァレガワラッテイルノ?








 アキハさまが破水された時のことです。
 姉さんは一生懸命にやっていますが、そんなの無茶に決まっています。不安でした。正式な医者ではないのですから何かミスをするとも限りません。

 わたしは急いでジナン先生のところに連絡しようと電話室へと急ぎました。先生には『産婦人科などわからぬわい』といわれそうですが、お医者さまといって思いつくのはジナン先生だけだったのです。
 急いでダイヤルを回して、受話器に耳を押しつけます。電子音が鳴り、コール音が聞こえました。
 いっかい、にかい、さんかい。
 まだ出ません。
 自分の息が受話器から響いて聞こえてきます。
 早く、早く、早く。
 じゅっかい、じゅういっかい、じゅうにかい。
 響く電子音。
 荒い息づかい。
 耳におしあてていると、耳が脂汗で濡れてきました。
 受話器をつかむ手も汗ばんできます。

『はい、こちらジナンです』

 トキエさんの声。
 わたしはようやく出てくれたと早口にこう告げたのです。

 間違えました、と。

 そして受話器を置くと、「ワタシ」は電話線をプラグから外しました――鳴らないように。
 わたしは姉さんの指示どおりお湯を沸かし、姉さんの行動の邪魔にならないよう、ただ息を潜めたのです。
 ただ『見守った』のです、もう一人の「ワタシ」が行うであろうことを。






「誰が骸垂布を運ぶの?」
「それは我々が」と鷦鷯が言った。
雄鶏と雌鶏が共に鳴いた。
「我々が骸垂布を運びましょう」







 わたしは電話を切ったという意味をはっきりと理解しています。鳴らないようにコードまで外したのですから。そしてもう一人の「ワタシ」が何をするのかもわかっていました。確信に近い予感を感じながら、ずっと息を潜めていたのです。







 そしてアキハさまの絶叫が響いたのです。
 心の底からねじ切れていくような、心が押しつぶされていく、世にも恐ろしいぞっとするような悲鳴。

 わたしはそれを聞くと安堵の溜め息を吐き、そして電話のプラグを元通りにしたのです。
 こうして、すべては終わりを告げたのです。





 テレビがついていて、騒ぎ立てている。
 ガヤガヤと。
 ザワザワと。
 楽しそうに。
 うれしそうに。
 まるで別の世界のこと。
 そんなのはいらない。なのについている。
 テレビは電気がついたまま、ブラウン管に様々な光景を映し出す。
 それだけの匣。それだけの機械仕掛け。
 ザワザワと、ガヤガヤとわめきたてている。
 消せばいいのに、消すことが出来るのに。

 ケセバ ヨカッタノニ。

 匣の中。匣の外。
 それはどぉこ?
 それはなぁに?
 赤、白、閃光、人の笑い、笑顔、爆笑シーン、笑い、わらい、ワライ、わらっている。
 わらって、という。
 ワラワナケレバ、ナラナイ。
 ナノニ、ワラエナイ。
 嗤い続けるもうひとりの「ヒスイ」
 笑うことができないもうひとりの「コハク」
 ジユウなのよ、という。
 ジユウってなに?
 祭壇の仔羊を殺したのはだぁれ?
 シキさまの首に手をかけたのはだぁれ?
 アキハさまを殺したのはだぁれ?

 それは「ワタシ」? それとももうひとりの「ワタシ」?
 それは両方とも「ワタシ」
 「ヒスイ」という名前の「コハク」と「コハク」という名前の「ヒスイ」
 両方とも「ワタシ」なの。
 何をしたいの?
 何をさせたいの?
 ワカラナイ。ワラエナイ。ワカリタクナイ。ワライタクナイ。
 でも聞こえるのは哄笑。
 響きわたる哄笑。嘲笑。勧笑。喜笑。嬌笑。痙笑。嗤笑。顰笑。憫笑。冷笑。失笑。
 くすくすくす
 わらうわらうわらう
 くすくす
 わらえわらえわらえ。

 誰?
 だれ?
 ダレ?
 ダァレ?

 テレビからの声。
 匣からの声? あれはテレビなの? ほんとうにテレビなの? 本当に同じ世界なの? ここは現実? それとも幻? 匣の中が真実? それとも幻影? わからない。ワカラない。ワカラナイ。ここがどこ、ここはどこ?

 くすくすという耳障りな笑い声。
 わらっているのは、だれなの?





「誰が彼の棺を運ぶの?」
「それはわいが」と鳶が言った。
「もし夜に運ぶなら、わいが棺を運ぶだろうよ」









 あれは晴れた日のことでした。
 アキハさまも逝かれてしまい、葬儀の日。
 「ワタシ」は「ワタシ」に尋ねました。

 どうして? と。

 「ワタシ」はちょっと困った顔をしました。
 しばし考え後、ただ首をふって「ワタシ」は答えたのです。


 ――――――わからないのよ、と。


 そしてただこういうのです。


「もう……遠野家にいなくていいのよ……ジユウなのよ……」

 聞こえてくるのは、くすくすという耳障りな笑い声。
 それで「ワタシ」はジユウになれたの?
 まだあの匣の中なの。みっちりとぎっちりと詰まったあの匣の中にいるの?
 くすくす、という嘲笑。狂おしいほどのカン高く耳障りな声。
 そうして「ワタシ」はたった一言、こう付け加えたのです。


 ワ、ラ、ッ、テ


 だから、「ワタシ」は「ワタシ」の希望どおり、はじめてワラってさしあげたのです。





 格子越しに「ワタシ」ともう一人の「ワタシ」は向かい合いました。
 向こう側の「ワタシ」はとても幸せそうでした。
 シキさまとともに、微笑んで、やさしそうに、あんなに柔らかく微笑んでいるのです。

 そしてもう一人の「ワタシ」である姉さんは「ワタシ」に向かってこう言ったのです。


























はじめまして、と――――。
























「誰が鐘を鳴らすの?」
「それはおらが」と雄牛が言った。
「引くことができるから、おらが鐘を鳴らそう」






 酷いほど、儚く綺麗な声で、そう言ったのです。切なくて思わず涙ぐみそうになりました。
 わたしはなんとか我慢します。そしてもうひとりの「ワタシ」に向かって、無理矢理微笑みかけました。もうひとりが望んだように、「ワタシ」が「ワタシ」にできることとして。
 そうして同じく、はじめまして、と姉さんに向かって言ったのです。


なにか御用でしょうか?
いいえ、あんまり幸せそうなので、つい見とれてしまったのです。
あのぅ失礼ですけど、何処かでお会いしたことはありませんか?
……いいえ、はじめてです。
そうですか。
……はい、そうです。


 詩希さまは同じ顔をしているわたしたちを見比べて何か言いたそうでした。だから詩希さまが何か言い出す前に、わたしは深々とお辞儀しました。そして、さようなら、と告げたのです。
 姉さんは笑いながら同じく、さようなら、と告げるのです。

 そして心の中で付け加えるのです。
 ――――また会いましょうね、姉さん、と。

 この墓標に向かって、もうわたしを見分けることが出来なくなってしまったもうひとりの「ワタシ」に向かって、わたしの犯した罪に対して、そう付け加えたのです。





 前と同じ。わたしは外にいて、姉さんは中に、遠野に囚われたまま。まったく前のまま。
 姉さんは遠野という匣の中に閉じこめられたまま。あの匣の中に居るのです。わたしはそれを何も出来ず、ただ見守るだけ。
 何も――――変わらなかったのです。
 それとも、何かが変わったのでしょうか?
 ワタシもわからないのです。
 匣の中にいるのが「コハク」なのかそれとも「ヒスイ」なのか?
 ワタシにもワタシがどちらかなのかもうわからないのです。
 だって、ワタシたちは双子なのですから。



 これが「ワタシ」の望んだ「ケツマツ」なの?
 胸の中のザワメキがそう囁くのです。
 煌びやかな映像を幸せそうに映し出す匣の中で。
 「ワラッテ」と囁き続けるのです。





これがワタシの罪。
その罪の重さに哀しみの涙をこぼし続け、
そして生涯、嘲け嗤われ続けるのでしょう。
くすくす、と。




「誰が駒鳥を殺したの?」
「それはわたしよ」と雀が言った。
「わたしの弓と矢羽で、殺したのよ」





「誰が姉さんを殺したの?」
「それは『ワタシ』よ」とヒスイは言った。
「ワタシが殺したのよ」



fin.





あとがきという名の言い訳



 もうひとつの「機戒式」です。この2つの作品はどちらが表とか裏とではなく、両方が相互に補完しあっています。「こちらを最後まで読み終えた後」に、もうひとつの「キカイシキ」の方も再読していただけると、さらに楽しめると思います。

 最後に翡翠そして琥珀ファンの方、ゴメンなさい。

 それでは、また別のSSでお会いしましょうね。

21st. September. 2003. #122


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