◇3日目朝・学生個室◇ 「朝よ、蒼香。起きなさいってば」  何度目になるだろうか。  まだ眠りの国にいる同室の少女に、秋葉は声をかけ、また同じ結果にうんざ りとした顔になる。  こんなに寝起きが悪かったかしら、とまだ自宅通学に変わる前の事を思い出 してみるがあまり秋葉の記憶には無い。  もう少し早く起きていた筈。  羽居がうるさかったしね、と秋葉は内心で呟く。  さっさと寝てしまった自分と違って蒼香は起きて何やらやっていたようだし、 それで寝坊しているのかもしれない。  それに結構疲れているのかな。  普段、あのように次々と知らない人と会って挨拶を交わしなんて事を、あま りし慣れていない人間は、意外と知らないうちに神経を使ってしまうのは確か だ。  面白がって同行したのは確かだけど、幾分かは自分の事を心配して一緒に来 てくれたのだと秋葉にはわかっていた。それが蒼香のめったに表に見せない優 しさだ、とも。 秋葉は本人に対しては口にはしないが、内心では感謝していた。 「でもいい加減に、起こさないと……」  時計をちらりと眺めて、実力行使に出る事を決意。  秋葉はベッドの横まで近づくと、蒼香の体に手を伸ばした。 「蒼香、もう起きなさい。寝過ごして遅刻なんて許さないわよ」  ゆさゆさと腕と肩にあてた手を動かす。  始めはそっと揺らす程度だったが、効果なしと判断し、手荒く揺さぶる。  がくがくと動かされる蒼香の体。   「起きなさいってば」  それでは、と秋葉が手を妖しく動かそうとすると、蒼香の手が秋葉の手首を 掴む。  その強さに驚き、秋葉は引き離そうとするが、蒼香は離さない。 「ちょっと、蒼香起きてるの? 放しなさい」 「うん……、もう少し寝かせてくれ。羽居」 「誰が。羽居よ……」 「いいから……」 「ちょ、ちょっと何、や……」  突然、均衡状態を保っていた二人の手が動く。 蒼香の手がぎゅっと強く秋葉の手を引っ張った。自分の体の方へ。  もともと覆い被さるようにしていた秋葉は、つんのめる形で上半身を倒して しまう。 「きやっ、蒼香、寝ぼけてるの、何を……」  蒼香の空いていた手が背中に回る。  手に力が入る。  秋葉を抱き締める形。 「何するのよ、蒼香、やめなさいってば」 「なんだ、今日はうるさいぞ、羽居。それじゃ今朝はしてあげな……」    蒼香の目が開く。  とろんとした目。  ぼんやりとした顔ですぐ傍の秋葉を見るが、認識してはいない。  くっつかんばかりの至近距離の、蒼香と秋葉の顔。  ゆっくりと蒼香の顔に目覚めの色が宿る。 「……。  …………。  ………………うわあっ」  突如、蒼香は目を見開き、自分に体を重ねていた秋葉の体を突き放す。  倒れそうになりつつも、なんとか堪える秋葉。 「痛いわね、何するのよ、羽居」 「何するじゃないだろ、遠野、おまえ何の真似だよ」  驚愕の目の羽居に対し、秋葉は軽く憤慨したような顔。 そしてしばしの対峙の後、秋葉は僅かに笑顔になる。秋葉より立場が下の者 が見れば寒気を感じるような笑顔。 「蒼香に、ベッドに、引き込まれそうになったんだけどなあ、私」 「え……」 「随分と慣れた様子だったわね」 「……」  ベッドに、と強い口調。  さらににこやかな笑み。  それに反比例するように、蒼香の顔がどんよりとしていく。 「……羽居」 「な、何だよ」 「羽居と随分親密になったようね、私がいない間に。ね、蒼香?」 「く……」  余裕ある秋葉の態度と、蒼香の追い詰められた表情。  ヘビとカエルの対峙をどこか髣髴とさせる。  嬉しそうに秋葉は言葉を続ける。 「どうしたの、蒼香。黙ってしまって。もしかして目覚めの口づ……」 「兄さん……」  ぽつりと蒼香が呟く。  唐突な言葉。  そして表情のない目で秋葉のそれを捉える。  秋葉のからかうような言葉が止まる。 「兄さんが、そんなだから私は……」 「ちょっと蒼香何を言っているの」  その蒼香の口調。  秋葉は知っていた。  遠野秋葉を真似た口調だと。    さっきまでの絶対者の態度は微塵も無く、狼狽した様子で秋葉は蒼香にすが りつく。  蒼香は先程の様子と一変して、ニヤリと笑いを浮かべる。 「うん? いや夜起きてたらさ、何処かで誰かがぽそぽそと寝言を洩らしてて さ。  何を言ってるのかなあって耳を澄ましたんだ。  それだけなんだけど……、どうした遠野、顔色悪いぞ」 「……」 「あたしは何も聞かなかったし、遠野、おまえさんも何も見聞きしていない、 どう?」 「わたしは今朝、何も聞かなかったけど」 「OK」    蒼香も起き上がり身支度を始める。 「言っとくけど、羽居とは何もないぞ。二人部屋になったから、あいつの攻撃 が全部あたしに向けられてるだけで」 「秋葉ちゃんいなくて寂しいって真顔で言われたわよ。そっか、蒼香が慰めて るんだ」 「うるさい。おまえこそ兄さんの為に家に戻って、何か進展は無いのか?」 「ほっといてよ」  そして二人は部屋を出た。 ◇3日目午後・カフェ◇    「しかし、いつ授業に出てるんだ、杏里は」 「ボクかい。はて? 確か今日は何か出ていた筈だけど。うーん。古生物学だ ったか、ロシア語講座だったか?」 「全然違うじゃない。意識の全てが女の子に向けられているんじゃないの?」 「さすがに全てではないよ」 「へえっ、そう?」 「美味しいものを食べたり、お風呂にゆっくりと浸かったり、そういう事も大 事だからね」 「とんだ快楽主義だわ」 「エピクロスは、本当はつましく生活してたそうだよ」  のんびりと杏里はお茶を啜る。  午後の空き時間をウインドゥショッピングで過ごしていた秋葉と蒼香は、い つの間にか杏里と同じテーブルについて話に花を咲かせていた。  発言量からすれば、杏里の独演会の様相であったが、不思議とただ一方的に 杏里が話すのではなくて、会話が成り立っていた。  話題の豊富さと、的確に秋葉と蒼香を退屈させずに興味を引く話を振る話術、 そういった点に関しては杏里は天性の才を有していた。  そもそも、神の恩寵、運命の糸の織り成す図の見事さを語っていた杏里と、 何故こうしているのか、既に秋葉にも蒼香にもわからなくなっていた。  恐らく、紅茶の葉、この船の七不思議、この辺りに棲むサメの不思議な生態、 京都の創業5百年を数える飴屋、図書室の本、金髪も黒髪も良いけど、赤毛や 栗毛も決して悪くは無い、詩の講座で教師を卒倒させた……、等などの話題の 彼方に紛れているのだろう。 「何より年下というのが絶対条件なんだ」 「ふうん。あれ、でもクローエとかって杏里と同学年だろう?」 「ヘレナさんもそうよね」 「うん。でも二人ともボクより年下だよ」  ありがたい事にね、と言いたげな表情の杏里。  ちょっと整理するようにお茶を啜り、秋葉は口を開く。 「学年とかじゃなくて、あなたを基準として少しでも後で生まれればOKって 事かしら?」 「さすが、理解が早いね。その通り、ボクより一秒でも後で生まれれば、ボク の子猫ちゃんになりうるね。逆に、一秒でも早く取り上げられれば、対象外。 ボクとは縁の無い存在で、名前すらボクには憶える事ができない。  まあ、そこまで厳密な定義が必要だった事は、過去に無いけどね」 「ああ、そう。でもなんでなの? 一秒前と一秒後にどれだけの違いがあるん だ?」  蒼香のもっともな疑問に、しかし杏里は常の明快な言葉で答えない。  人類史に残る大命題に想いを寄せるかの如き苦悩の表情すら浮かべる。 「ボク自身にもわからないんだ。そうだね、なんでなんだろう。クローエやヘ レナみたいにボクよりしっかりしていて大人びた年下の娘はいるし、彼女たち のしっかりした処や落ち着いた表情もボクは大好きなんだけど……」 「逆に、外見も中身も子供っぽい女の子がいても、年上である限り受け付けな いのね?」 「その通りだよ。一目見ただけで、その女の子がボクより年下かどうかはすぐ にわかるんだ。アイーシャみたいに、スキップして上級生として現れたのだと しても……」  自分に向ってぶつぶつと呟くが如き口調。  杏里が真剣に考えている様子を、珍しそうに二人は眺める。  恐らくは杏里を良く知る者にとっても、それはめったに見ない杏里であった。 「あれ、でも天京院さんは?」 「そうね。彼女は間違いなく、あなたより年上でしょ?」  思案から覚めて杏里は顔を上げる。 「かなえさん?」 「そう、なんで彼女は年上なのにつきあってるんだい?」 「つきあってるのとは違うけど、かなえさんは別格なんだ。不思議だよね、か なえさんだけは、年上なのに全然苦手じゃないし、大好きだよ。一緒にいて楽 しいし、心も落ち着く。かなえさんの部屋でコーヒーを飲む一時は、ボクの一 番好きな時間の一つなんだ。 年上で無ければなあ、と思う事もあるよ、かなえさんに関してはね」 「そうなんだ」  天京院本人がいたら、いろんな意味で泣きそうな事を杏里は言葉にした。  秋葉と蒼香は、ふうんと頷くのみ。   「まあ、それは置いておいて。だから、君たち二人がここに来たという事は、 ボクにとってどんなに……」 「水を差して悪いんだけど」 「何、蒼香? 愛の告白はされるより、する方が好みと言うなら、ボクは……」 「はいはい。それより、あの子、知り合い? ほら、あそこの角の処からこっ ち見てる子」 「え?」 「あら、可愛い子ね。あれもあなたの子猫ちゃんかしら?」 「ニキだ。ちょっと二人ともごめんね」  そう言い残し、立ち上がる杏里。 「ニキ!」 大きな声で少女の名前を呼ぶ。 そしてゆっくりと歩き始める。 駆け寄るのではなく、ゆっくりとした足取りで少女に近づく。 「ニキ」  もう一度呼びかけながら近づく杏里、その少女もためらいがちに一歩、二歩 と前に歩む。  少女の目は杏里だけを見つめている。  杏里も少女の瞳を見つめたまま体を屈め、視線の高さを小柄な少女に合わせ る。 「自然の動物でも相手にしているみたいね」 「ああ。女の子と見るや、駆け寄って二人でパ・ドゥ・トゥ踊りだすのかと思 ってたら、そうでもないんだな」  秋葉と蒼香は少し興味深そうに、杏里と少女のやり取りを眺めていた。  もちろん、二人のいるテーブルからは遠く、話し声などは欠片も聞こえない。  少女が身振り手振りで何か杏里に伝えているのと、それを杏里が何度も頷く 様が見て取れるだけ。  でも、それでも、杏里と少女との独特な会話の様子が感じられる。 「こっち見てるね」 「そうね」  杏里が何事か話したのか、少女の目は秋葉たちに向いている。  またやり取りをしてから、二人がテーブルに近づいてくる。  可愛い少女だった。  やや、無造作に流れている髪をもっと整えてやれば、もっと綺麗に見えるだ ろう。  どこか乱れた着かたの制服もきちんとすれば、もっとぴたりと似合うだろう。 そして異様なまでの、怯えとも見える緊張感が無ければ。 「ニキ・バルトレッティ。ニキも二人と同じファーストクラスなんだ」  ニキは、じっと秋葉と蒼香を見つめている。  強い視線ではないが、どこか見られる者を落ち着かせない視線。  より、秋葉の方を長く見つめ、それから二人に向かってぺこりと頭を下げる。  それに倣う様に秋葉と蒼香も、握手や気の利いたジョークを交えた自己紹介 では無く、日本式とも言える挨拶をする。  名前などはあらかじめ杏里から聞いていたのだろう。  長々とした紹介は省略された。  どうしたらいいの、という様にニキは傍らの杏里の方を向く。 「それでいいよ、ニキ。じゃあ、買い物の途中だったんだろう。ボクも……、 え、一人で行くって?」    言葉を介さぬニキのパントマイムめいた動きに、杏里には驚いた顔をする。  心配そうな杏里に、ニキは強く頷いて見せる。 「邪魔したら悪いからって? そうか、それじゃ、またね、ボクの可愛いニキ」  くるっと踵を返し、ニキはとてとてと去っていった。 「可愛いだろ、ニキ」 「彼女もあなたの子猫ちゃんな訳ね」 「ああ。時には子供の狼みたいだけどね」 「あの……、あの子、口が利けない訳じゃないわよね?」  多少、聞きずらそうに蒼香が尋ねる。  もごもごと口を動かしてはいたが、意味のある言葉を二人とも聞いていない。 「話せるよ。可愛い声をしている」  そう言って、杏里は言葉を選ぶように数秒黙り込んだ。 「ニキは、ボクや君たちと少しだけ、ほんの少しだけ違う世界に住んでいる。 良くはボクにもわからないけど、そこでは音も光も匂いも凄く激しく強いんだ。  ボクには単なる風の音でも、ニキには何十何百の轟音の如く響いて聞こえる。  だから、ニキには普通に皆の声を受け止めるだけでも大変なんだ。  でも待っていればきちんとニキは言葉を返してくれるのに、心無い事を言う 人が子供の頃のニキの周りに多くてね。それでニキには言葉を口にするのがさ らに困難になってしまったんだ……」  多少の憤りと哀しみ、そして溢れるような優しさに満ちた杏里の声。   「でも、感情表現が下手なだけで、ニキの中には想像もつかない激情も眠って いる。  彼女のピアノを聴けば、それがよくわかるんだけどね。  あまり、部屋から出たり授業を受けたりしないけど、本当にとても良い子だ から、ニキの事を誤解しないでくれると、嬉しいよ」 「わかったわ」 「同じく。……で、行ってやった方がよさそうだと思うけど」 「えっ? ああっ、ニキ、無茶だよ。あんなに荷物抱えちゃ前も見えない。あ ーあ。  ニキを手伝ってくるよ。一緒にお茶を飲めて楽しかった。また、誘ってもい いかな?」 「ああ、空いてれば」 「そうね、喜んで」 「ああ、なんだか二人の頑なに愛を拒む心が、ボクの真実の愛で少しは……、 ああっ、ニキ、いいから。 二人とも、またね。支払いはボクのツケにしておいてくれればいいから」  盛大に紙袋の中身を甲板にばら撒いて、呆然としているニキに杏里は走り寄 る。 「思ったより、なんだか……」 「そうだな、あれだけ子猫ちゃんとやらがいるのが頷ける」  幾分か杏里への好感度を上げた二人であった。    つづく


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