3/

「……これで、僕の話は終わりだ。君の言う
通り、僕は、自分の意志で鮮花を抱いた」

 私に命を握られたまま、身体の中身を入れ
替えるような深い息をついて、幹也は言葉を
収めた。
 緩やかに部屋を浸す静寂が、私からもすべ
ての言葉を奪ってしまう。
 渦巻く感情の正体を、自分で理解できない。

「……わからないよ」

 声が震える。心に呼応して、壊れそうに揺
らぐ。――ああ。寒気が止まらない。
 
 ――幹也は、確かに鮮花を抱いた。
 やっと、自分の口でそれを認めた。
 ただ、その意味は、私の予想とあまりに食
い違っていた。

「そんなの、わかるもんか。オレと鮮花が本
当は仲良しで、それがいがみ合ってるのが嫌
で――それで、どうして鮮花を抱くんだよ。
 そんなの、全然解決じゃない」
「そうだね。これじゃ、まだ半分だ。僕はま
だ、式を僕のものにしてないから」
「――え?」
 
 私を――なに?

「話したとおりだよ、式。僕の出した答えは、
どちらも離さない、ってことだから」
「な、そんな、こと――」

 なんだ。幹也は、なにを言ってるんだ?
 いつも一般論ばっかりかと思ったら、今度
は突飛すぎてついていけない。

「どっちかが笑って、どっちかは泣き顔なん
てガマンできない。だから、両方を選ぶ」
「ちょっと、待てって……! 自分がなに言
ってるか、わかってるのか?」

 堪らず、喚くように幹也を制止する。
 ああもう、観念したかと思ったら、なんて
ムチャクチャを言い出すんだ――こいつは。

「わかってる。僕なりに考えた結果だよ」
「……考えて、これかよ。浮気の言い訳にし
ても、もう少しマシなこと言えってんだ」
「浮気――か。そう思ってくれるんだ、式は」

 この部屋に来て初めて、幹也は緊張のほど
けた顔ではにかんだ。どうして、この状況で
笑えるのか。でも、理由はすぐに分かった。

「――あ」

 これまで言えなかったコトバの欠片を、私
は知らず口にしていた。幹也を前にして、私
達の関係の話をするのは、きっとこれが初め
てだ。それも、浮気――だなんて。
 浮気なんていうのは、そう、既に出来上が
った連中でなければ成り立たない言葉なのに。
 私と幹也は、まだ触れ合ってもいない。
 互いがわかる距離で、なんとなくそれを気
に入って、並んで歩いていたから。
 そうだ。これまでは急ごうとはしなかった。
 なのに今、気持ちだけが先走って、未来
(ノゾミ)を口に紡がせた。
 それとも私は、とっくにその気だったんだ
ろうか。
 ……だったら。何故、よりによってこんな
瀬戸際に、ようやく口を開くんだ。
 胸に凝る嫌な空気。無性にイライラする。
 原因は、幹也なのか、それとも。

「……たまたま口に出ただけ。それより、聞
いていい?」
「今更、口は噤まないよ。なに?」
「つまり、コクトーはオレも鮮花も泣かせた
くない。だから、二人一緒にものにしちゃお
うってこと?」

 口にすると、改めて呆れた野望だ。
 堂々と二股をかけるって公言してるみたい
なものじゃないか。

「うん……そういうことになるね」
「は――」

 笑おうとして、思わず顔が引き攣る。
 すごい傲慢。妙齢の女を二人、片手ずつで
鷲掴みに出来るつもりなんだ。
 百歩譲って、黒桐幹也という男にそれが可
能だとしても――

「オレと鮮花が、それを許すって思う?」

 睨みつけるつもりで鋭く詰問する。
 幹也はいかにも困った顔で眉を顰めて、け
れど真っ直ぐに私を見返す。

「難しいだろうね。でも、許してほしいって
思うし、そうなるようにするつもりだよ」
「そんなの、それこそ魔法でも使わなきゃム
リだね。浮気に寛容な女なんて、いないぞ」

 あたりまえだ。誰だって、隣を歩いてる奴
がそっぽを向いてたらいい気はしない。自分
の反対側で誰かと手を繋いでたら、尚更だ。
 私は、幹也にいつしか目を奪われていて。
 だから、同じだけ自分を見てほしいと願う
のは、浅ましいことだろうか。
 鮮花だって――いや、兄妹という私にはな
い距離を持つアイツだからこそ、そういう独
占欲は一際強いんじゃないか。
 ……ほら、私達は互いに一歩も譲らない。
 独り占めしたがってる二人を、どうやって
一気に手に入れるっていうんだ。
 幹也(オマエ)の身体は、一つだけなのに。

「ほら、どうするんだよ。二股かけるってい
うなら――今ここで、オレに鮮花のこと、納
得させてよ」

 無性に腹が立って、困らせてやろうって気
になって、しつこく幹也を問い詰める。
 だっていうのに、幹也はまた仰向けのまま
で頬を緩ませる。
 首には、まだ私のナイフが当たっている。

「……なんで、笑うの?」
「いやさ、式、怒らないんだなって」
「え、っ……」

 幹也の言葉に、一瞬、頭が真っ白になる。
 擦り切れそうなほど緊張しきっていた四肢
が、ふわりと軽くなる。
 そんな、雲になったような時間の中で。
 ふと気づけば、意識を何重にも覆っていた
あの刺々しい闇が、薄れていた。

「――どう、して」

 ナイフを握った手が、震える。
 私は、幹也を乱暴に押し倒して、首に刃を
押し当てて。ひょっとしたら、殺すつもりだ
った。
 そんな尖っていた私が、盲(メシイ)て走
っていた私が、こうして自分を見直している。
 言えなかったことを、口にしている。
 どうして。
 私は、刺々しい気持ちをどこかに忘れてし
まったのか。あの黒い津波に呑まれて、幹也
を責めることができなかったのか――

「……式?」

 幹也の声が聞こえる。
 眼は開いているのに。一瞬、私は幹也を、
世界を見失っていた。

「――幹也」

 意識を外に戻して、幹也を見る。
 途端に、光が閃いた。
 
 ――ああ、そうか。こいつのせいだ。

 幹也の話を聞くうちに、一つだけ理解でき
たことがある。
 幹也は、誰もが呆れるような不貞の野望を
私に語った。私だって、正直固まった。
 だって、そんなのできるわけがない。
 許すはずがない。だっていうのに。
 こいつは馬鹿みたいに真剣で、形振り構わ
ず絶対やる気だ。
 その、理由。誰のために必死に尽くすのか。
 答えを、幹也は一つに絞れなかったんだ。
 私を見ながら、鮮花を裏切れずに。
 鮮花を見ながら、私を裏切れずに。
 不器用に悩んで、悩んで、結局どっちも捨
てられなかった。
 だから、一番厄介な方法で解決しようと決
めたんだ。
 幹也は、ずっと私を見ていた。
 私を忘れて、鮮花に溺れたんじゃなかった。
 それがわかったから、その一部分だけでも
私は救われた。
 あいつの目が、私をまだ見てる。
 たったそれだけの理由で、安心できた。
 ――なんか、バカみたいだ。

「そうだ。全部おまえのせいだ」
「え……式?」

 裏切られてなんか、いなかった。
 幹也は、頭に来るほど幹也のまま。
 だから、誰より自分自身を裏切れなくて、
こんなデタラメな方法で私も鮮花も手に入れ
ようとしてる。
 それも、どっちも欲しいって自分勝手な欲
望じゃない。
 どっちも泣かせたくないなんて、子供じみ
た優しい我侭だ。

「誰も泣かせたくない? それって、綺麗事
だよ。コクトーの好きな、一般論」
「……そう、だね」

 誰もが礎にできる、無機質であるが故に硬
く強い方向性。一般論で救われる奴だって、
少なからずいるはずだ。
 でも。私と幹也がこんなに縺れた時、振り
かざしてほしくない。
 私だけを、見ていてほしかった。

「――でも、知ってた」

 おまえが、それをできない奴だって。
 そんなコト、私が一番知っていた。
 ……知って、いたのに。
 
「ああ、なんだ、結局」

 私は、幹也に裏切られたと思っていた。
 でも、幹也のしたことを、裏切りと呼ぶの
なら――
 私もまた、幹也を裏切ったんだ。
 鮮花の気持ちを受け容れ、抱き締めた幹也
を見た時、私はなにも考えられなくなった。
 ただ、やるせなさと絶望に浮かされて、寂
しくて、辿り着いたのはいびつな復讐。
 あの時、なにがあっても幹也を最後まで信
じていたなら、今ここで責められた。
 でも、私は疑った。幹也が変わったと思い
込んで、私も自分を塗り変えた。
 ――だから、お互い様だ。
 私だけが、腹の傷を癒すわけにはいかない。

「……おまえのこと、言えない。オレも、馬
鹿みたいなやり方、してたんだ」

 答えに気づいて、身体の中ですべての糸が
切れる。私が脱け殻になってしまう前に、幹
也の首に当てたナイフを退ける。
 それで限界。風に吹かれるみたいに、ふら
つく足を止められないまま、畳に尻餅をつく。
 ……なにも、頭に浮かんでこない。

「式――」
「……ごめん。なんか、言いたい。言いたい
けど、コトバ――出てこないんだ」

 痛ましい顔でこちらを見る幹也を、手を伸
ばして制止する。今は、なにもしてほしくな
い。触れられて、声をかけられても、なにを
返していいのか考えられない。
 ただ、ぐるぐる回っている問いは。

 結局のところ、私の方法は間違っていたの
か。だとしたら、なにが正しかったのか。
 私たちは、互いを取り戻そうとして、逆に
手を離しただけなのか。
 抗いと過ちを繰り返した果て、今、ここで。
 私と幹也は、どこへ歩いていけばいいんだ
ろう。

「――最悪だ。たった一月で、なんでこんな
になっちゃったんだ、オレたちは」

 ついに恋人なんて言葉は口にしなかったけ
ど、私と幹也は長い時間を共有してきた。
 出会ってから今日までの長さに比べたら、
あまりにも一瞬の一ヶ月。短すぎる刹那に、
私たちはこんなにも壊れてしまった。
 かみさま、なんてのがいるかはわからない
けど、どこかで見てるなら教えてほしい。

 ――何故、私たちは今、こんなに遠いのか。

 目に見える場所にいるのに。
 手を伸ばせば、きっと触れられるのに。
 今の私たちには、無限の距離がある。
 遠くて、淡くて、吹いてくる隙間風が肌に
染みる。その凍えが、寂しかった。
 ……でも、嬉しかったこともある。
 幹也は、ずっと私を忘れていなかった。 
 二つの目で、ちゃんと見ていてくれた。
 それを確かめられただけで、救いがあると
思える。
 たとえ、これからどんな終わりが来ても。

「……もう、駄目かな? オレたち」

 胸に詰まった虚無と不安を抱えきれなくな
って、恐る恐る口にした。
 もう、一緒に歩けない。
 別々の道へ自分の歩幅で歩いていって、き
っと、もう振り返らない。
 一番寂しい結末。それも、私は覚悟してい
たはずだ。
 でも、今、こんなに怖い。
 離れたくない。
 変わりたくない。
 ……終わり、たくなんか、ない。
 私は、幹也のそばがいい。
 歩くなら、一緒に歩いていきたい。
 変わるなら、一緒に変わっていきたい。
 独りぼっちは、嫌だ。
 だって、私は幹也と出会ってしまった。
 一緒のものを食べたり、目覚めた時に誰か
がいたり、ふと顔を見たくなったり――
 それは全部、嬉しいことなんだって知って
しまった。
 忘れられない。なかったことになんて、絶
対にできない。
 また二人で、ハーゲンダッツを食べたい。
 でも、それは全部私の我侭で。
 私にできるのは、もう幹也の答えを待つこ
とだけだ。
 また、静寂が降りる。
 さっきよりずっと重くて、心臓に絡みつく。
 無音の声で、私は問う。

 ――ねえ、幹也。
 貴方は今、なにを思ってる――?

「僕は――」

 耳にはっきりと響く、幹也の声。
 身構えずに聞くのは、随分久しぶりだ。
 目は、勝手に前を向く。幹也の顔を探す。
 どんな答えでも、ちゃんと聞けるように。

「僕は、最初から式に許してもらうしかない
んだ。鮮花と式、二人を離さないっていう試
みも、君にそっぽを向かれたら終わる」
「……私が、許す――? コクトー、なに、
言って……」

 それは、予想もしない言葉。
 私たちは同じ過ちを犯した。けれど、その
動機は真逆だ。
 幹也は、私を想いながら罪を犯した。
 ……私は、幹也を信じられずに罪を犯した。
 だから、私たちは互いに咎を背負っている
けれど、許しを乞わなければならないのは私
のほうだ。
 だっていうのに、何故――

「僕は、鮮花を抱いた。でも――こんなにな
っても、僕は鮮花の兄なんだ。だから――辛
いのを我慢させて、僕の願いを押しつけられ
ない。頼もうとしても、きっとぼろが出ると
思う。やっぱり、兄妹っていうのは特別でさ。
 頼られる側から逆には回りたくないんだ」

 心底参ったという崩れた表情で、幹也は苦
笑を浮かべる。演技じゃなく、裸の感情を曝
け出した貌。
 心底情けなくて、でも、微笑ましい。
 本当に困ってるんだ――こいつは。

「鮮花に、こんな風に頼む勇気がない。正直、
頼みたくない。だから、こうやって式を頼っ
てしまうんだ。……ずるい、話だけど」
「ちょっと――待って。もし、ここでオレが
いいって言っても、結局鮮花にオレのこと話
さなきゃいけないんだぞ。それじゃ、変わら
ない」

 幹也が私と鮮花を手に入れようとするなら、
遅かれ早かれ、鮮花にも今日のような日が来
ることは避けられない。
 幹也は、先送りにしようとしてるだけじゃ
ないのか。
 それは、鮮花にも良くないことだと、思う。
 顔が緊張するのを自覚しながら、鋭く幹也
を見据える。
 幹也は目を逸らさず、真剣な面持ちで頷き
を返す。

「うん、有耶無耶のままにはしない。鮮花も
含めて、僕たちはきちんと形にしないとね。
 でも……できれば、もう少しだけ鮮花と過
ごす時間が欲しい。だから、今までどおりに
なんて言えないけど――このまま僕の我侭に、
つきあってくれないか」

 幹也の声に迷いはない。
 私も鮮花も幸せにするっていう大それた企
みは、全然諦めてないみたいだ。
 だったら、鮮花のことだって誤魔化すつも
りはないんだろう。
 険しい、とても険しい旅を、幹也は望んで
いる。どこまでやれるのか、試してもいいか
もしれない。
 ――でも、

「幹也。おまえは、それでいいの?」
「……いいの、って? 僕は、それ以外を望
むべくもないよ」

 確かに、幹也が望みを果たすには私の協力
が必要だ。幹也は、鮮花だけじゃなく私もち
ゃんと求めてくれる。
 だからこそ、確かめないといけないこと。

「オレだって――兄貴としちゃった。おまえ
のこと、信じられなかったんだ。それでも、
鮮花と一緒にオレを選ぶの?」

 ……ちゃんと幹也を信頼できなかった。
 幹也は、本当に見ていてくれたのに。
 そのギャップに、押し潰されそうになる。
 いつか自分で口にした、裏切りという言葉
が重く突き刺さる。
 どうしようもなく、考えてしまう。
 この目に見ていてもらえる資格が、私には
まだ残っているのだろうか。

「あたりまえだろ。式がいないと、意味がな
い」

 私が身構える暇も与えず、幹也は一息に言
い切った。
 それはひょっとしたら、私と鮮花のどちら
が欠けても成り立たないという意味だったの
かもしれない、けど。
 ――おまえが必要だ、って言葉が、ただ暖
かかった。
 ちょっと、鼻がちくちくする。

「……僕だって、式のことは真剣だから。君
がした全部を冷静には受け止められてない。
 でもね、式がしたことの半分は、僕が起こ
したことでもあるんだ」
「……どういう、こと?」
「僕たちは、お互いをずっと意識していた。
 でも気持ちはずっと自分の中に閉じ込めて、
それをはっきり形にしようとしなかった」

 ああ、幹也の言っていること、よくわかる。
 多分、私は随分前から幹也を気にしていて
――それは好きっていうことで。でも、幹也
の前で絶対に口にはしなかった。

「――怖かったからだ。今より近くに行ける
って期待と同じだけ、離れていきそうな不安
が消えなかった」

 私が言葉を継ぐと、幹也は深く頷いた後で
私の傍に寄ってきた。

「そうだね。来るかもしれない、来ないかも
しれない明日が怖くて、僕達はずっと今日を
続けようとしてたんだと思う」

 歩いてきた日々を思い返すのか、幹也はど
こか浮遊した表情で呟く。
 こうしてると、名前だけじゃなく本当に詩
人じみて見える。
 でも、詩的でありながら、言葉は現実その
ものだ。
 不安定な未来の嫌な部分だけを恐れて、私
たちはずっと“今”に逃げ込んでいた。
 見えないゴールから目を逸らして、
 ありもしないゴールの先を恐れて、
 道の途中で、立ち止まって俯いていた。

「――でも、それじゃダメなんだ。鮮花が、
教えてくれたよ」
「鮮花、が?」
「鮮花はね、少しも立ち止まらなかった。最
短最速で結果を求めた。……たぶんね、求め
るっていうコトをするなら、誰もがそうしな
きゃいけないんだと思うんだ」

 幹也の手が伸びて、私の肩に触れる。
 目は、さっきから頑なに私を離してくれな
い。

「ゲームなんかで、時間が経つほど中身の劣
化する宝箱っていうのがあるよね。あれ、結
構痛烈な風刺だよ。
 結果は、時間とともに腐敗する最高の生モ
ノなんだ――って。美味しいお刺身を食べた
かったら、だらだら切ったりしないだろ?」
「――ああ」

 変な喩えだけど、この場合は正解だ。
 ようやく、私にも幹也の訴える意味が分か
ってきた。

「最高の結果を求めるなら、時間をかけちゃ
いけない。一秒後にベストがベターになって、
気がつけばワーストになってしまうから」
「……時間が腐らせるって、そういうこと。
 両立できないんだな。悩む時間を求めたら
結果が出ない。結果を求めるなら、悩んでる
時間なんてない――代償関係なんだ」

 求めることは代償関係だ、なんて私に言っ
たヤツがいた。アイツも、たまには正しいこ
と言うんだ。
 何故だか笑ってしまいそうになって、頬が
引き攣る。逆に幹也は真面目な顔で、なにか
を訴えるように深く、長く私を見つめる。

「……それが、答えなんだ。結局、僕は、」

 一瞬、祈りのように幹也の眼が伏せられる。
 ふぅ――、と世界を吸う音がして、
 声が続いた。

「――君のことが好きだ、式。僕はね、もう
少し早く、ちゃんとこう言っちゃえば良かっ
たんだ」

 目を逸らさず、恥じらいもせずに、幹也の
声で言葉は紡がれた。
 この部屋には、ずっと私たちだけ。
 だから、当たり前のコトなのに。
 どうしてそれを、当然のように受け容れら
れないのか。

「……コク、トー」

 言葉がない。必死に頭で理解しようとして
るのに、全然うまくいかない。
 嬉しいって言葉さえ、形にならない。
 初めて、はっきりと言葉にしてくれた。
 すぐ先に二又の岐路が見える途上。終わり
かけた時間の端で、聞けるなんて。
 ……だから、怖がらずに進めば良かった。
 私からも、もっと早く口にできていたなら、
ベターやベストに出会えていたかもしれない
んだから。
 初めからベストだけを見据えて、鮮花は振
り返らずに進んだ。それは、最高の選択。
 だから、迷って未来を腐らせた私が追い抜
かれてしまったのは、当然なんだ。

「ただ、今の僕は鮮花も同じだけ好きだ。
 もっと早く心を決めて、口に出していたな
ら――答えは違っていた。式も、鮮花も、こ
んな風にはならなかった。
 出遅れた時間だけ、二人を追い詰めたんだ。
 僕に、式を責めることなんかできない」
「だったら、オレだって同じだよ。どっちつ
かずを続けたから、コクトーはその状態でオ
レと鮮花に挟まれたんじゃないか。
 ……オレだって、全部納得はできないけど。
 コクトーを、責められない」

 ……不思議だ。
 結局、犯した過ちも生まれた距離も、私た
ちは等しい。守り続けたバランスが粉々にな
ったと思っても、結局は互いが隣にいる。
 劣ることも勝ることもできない、等しく引
き合い弾き合う中庸。
 それはひどく不自由だけど、誰にも真似で
ない特別な関係。
 ああ、こんなにも噛み合うのなら。
 胸に仕舞い込んでいた気持ちも、言葉も、
躊躇わずに託してしまえば良かったのに――

「ずいぶん……回り道しちゃったな。だから
今日、こんなにこんがらがってる」
「こんな形になって、ごめんね。許してくれ
とは言わない。でも、どうしようもなく自分
勝手だってわかっているけど――」

 ――僕は、式を離したくない。離さない。

 両手で私を捕まえて、幹也は言葉を紡いだ。
 身体の奥、私のシンまで透る言霊。
 一つ一つに、式が震える。
 だって、私の中にも同じコトバがある。

「だったら、オレのことも許すな。それであ
いこだ。――オレもおまえを、離さない」

 どこまでも等価な存在なら。
 鏡に映した遣り方で、一緒に歩み寄ろう。
 もう二度と、離れないように。
 互いを見失わないように。
 幹也の手を押して、身体ごと前に倒れこむ。
 目を伏せると、両手を伸ばして目の前を探
る。

「――つかまえた」

 私が幹也に触れると同時、幹也の両手が私
を包んだ。そのまま、頭から抱え込むように
幹也へ吸い込まれる。
 ……懐かしい、ぬくもり。
 穏やかな鼓動が、押しつけた耳に沁みる。
 あったかくて、気持ち良くて、身体が風船
みたいに軽い。
 意識が危うくなる。
 だからその前に、私も両手を伸ばして幹也
を抱き締めた。
 それで本当に、眠ってしまえそうなくらい
に、心が救われた――


 4/

 どれくらい、抱き合ったままでいたのか。
 頭に覚えられるくらい幹也の鼓動を聴き続
けると、今度は静寂が気だるくなる。
 音を戻すつもりで、顔は上げずに幹也へそ
っと呟く。

「……なあ。鮮花のこと、どうするんだ」
「うん……しばらくは式にしらんぷりをお願
いして、今の関係を続けるよ」
「それで、いいのか?」

 幹也の気持ちは確かめたし、疑うわけじゃ
ないけど、結果は時間が経つほど劣化する。

「僕は鮮花を受け入れたんだ。兄妹じゃなく、
恋人として接する時間は、まだまだ足りない」
「兄として鮮花に嘘はつけない。けど、鮮花
の恋人として過ごすには、私の嘘に頼るしか
ない。――不器用だよな、おまえって」

 ほんと、すごい不器用。
 人より器用にやろうと思えば、多分できる。
 幹也は意識せず、それをしない。
 意識したって、きっとできない。
 結局、選ぶのは一番厄介な脇道。
 黒桐幹也は、そういうヤツだ。

「鮮花は一途だし、あの気性だから、式みた
いに許してくれるとは限らない。だからその
時が来るまで、めいっぱい過ごしておきたい
んだ――恋人として」

 ――む。
 一応、認めたわけだけど。
 やっぱりどこかカチンとくるのは否めない。
 あ、ダメだ。黙ってられない、唇が――

「……オレの前でそれを言うのか、おまえ?」

 睨みがちになって、唇が尖る。
 ああくそ、なんだか前より自制が効かなく
なってる気がする。
 でも、幹也は悪びれもせずに答える。

「多分、逆だったら出来ない。ここにいるの
が式だから、こんな情けないことも頼める。
 罪なんて部分まで踏み込んで任せられるの
は、式だけなんだよ――きっと」

 前言撤回。顔こそ悪びれてないけど、言葉
は透明な悪意に満ち満ちてた。
 真顔でなんてこというんだ、この馬鹿は。

「……ずるい奴だ、コクトーは」
「そうかな?」
「自覚しろ。そういうの、ある意味わざとよ
り卑怯だぞ」

 今度こそ目で威圧してやると、幹也のほう
も本当に申し訳なさそうに頭を下げる。

「ごめん、気をつける」
「……わかれば、いい。それと、こっちもわ
かってるだろうけど。もし鮮花に断られて、
せめてオレだけでも――なんてのは無しだぞ。
 その時は、オレから絶交してやるからな」

 こいつに限って、そんな未来は絶対にない。
 誰よりわかっているけど、釘を刺しておく。
 もしもの時に、私のほうから譲ってしまわ
ないように。――これは、鮮花へのケジメだ。

「しないよ。でも、ありがとう」

 予想通りの答えとともに、幹也は一言礼を
言った。でも、なんに対して?
 首を傾げる私に、幹也は一番似合いの気の
抜けた笑顔で続ける。

「式は、僕の背中も押してくれたんだね」
「……甘ったれるな。自分で決めたんだから、
自分で歩け。オレは、なにもしてやらないか
らな」
「うん、それが一番助かる」

 頬が熱くなるのを自覚しながら、隠すよう
に言葉を荒げる。にこにこしてる幹也を見る
と、なんだか余計にくすぐったくなる。
 どうしよう、間が、持たない。

 ――でも、偶然に頭へ閃き。
 迷わずそれを口にする。

「まだだぞ。最後に、もう一つだ」
「うん?」

 とぼけた顔の幹也に、とびきりの爆弾をお
見舞いしてやる。直死の目より、ずっとすご
いやつを。

「おまえ、オレと鮮花を欲張るんだろ? だ
ったら、スタートラインが同じじゃなきゃ、
平等じゃない」
「それは確かに……でも、スタートラインっ
て?」
「――忘れるな、オレはおまえと鮮花のを見
てるんだからな。しらばっくれたら、怒るぞ」

 顔を上げる。すぐ先に、目を丸くした幹也。
 まんまるの目の少し下、開きかけた唇を狙
って、自分の唇を突き出す。

「――ん」

 一瞬、一度だけの触れ合い。
 突っつくように拙いけれど、初めて私から
求めた口づけ。
 幹也の顔を見れば、効果にこっちもにやけ
そうだった。
 でも、固まったままの幹也が次第に回復し
て、やがて穏やかな笑みを顔に戻す。

「――そうだね。平等に、しようか」
「――そうだよ。平等に、して」

 同じ気持ちで、同じ言葉で、私達は語らう。
 幹也は、私を抱く手に力を込めながら小さ
く囁いてくる。

「ここで?」

 問いに、首を左右に振って答える。
 ここじゃ、さすがに秋隆や兄貴の目を誤魔
化しきれない。それに、行きたい場所がある。

「ううん……ここより、あの部屋がいい」
「――僕達の?」

 幹也も、すぐにわかってくれた。
 そうとなれば、善は急げ、だ。
 たくさん暴れて、怒鳴って、緊張して。
 気づけば少しお腹も空いた。

「そうだよ。アイスも買って、あそこに行こ
う。オレが、鍵開けてやるから」

 懐から部屋の鍵を取り出して見せると、幹
也は頷いて静かに立ち上がる。華奢な手が伸
びて、掴んだ私を支えてくれる。

「じゃあ、行こうか」

 幹也の腕を杖にして立ち上がり、横に並ぶ。
 頷きを返しながら、そろりと無音で背中を
取る。振り向かれてしまう前に、私なりの遣
り方で鮮花に先んじてみることにする。

「うん、行こうよ。……でもさ、コクトー。
 あれだけは、本当なんだぞ?」
「あれ、って?」

 背中で声を受けながら、幹也は本当に分か
らないといった調子の返答をする。
 ――いいよ、なら、教えてあげる。

「女は怖い、ってヤツ。オレはどれだけコク
トーがやらしいか見てるんだから、鮮花より
手を抜いたりしたら――」

 両手で幹也の頬を押さえて、こちらを向か
せる。目が合った瞬間、右手に馴染んだナイ
フを幹也の首筋へ添わせ、囁く。

「本当に、殺しちゃうから」

 これが冗談なのか、それとも本気になるか
は幹也次第だ。そんな言葉を篭めて、視線を
交わした。
 幹也は最初強張っていたけど、私に頬を掴
まれたままで、にっこりと頷く。

「――うん。殺されないように、頑張るよ」
「そっか。うん、期待する」

 私も、久しぶりに心から笑う。
 物騒なナイフは懐に戻して、空いた右手を
幹也に差し出す。すぐに、柔らかい温もりが
そこから私を包む。
 気づけば、軽くなった身体で前に踏み出し
て、幹也をぐいぐい引っ張っていた。
 ――さあ、帰ろう。
 手を取り合って、二人の時間が詰まったあ
の部屋へ。新しい時間を動かしに――


                 【了】






【後記】

 仰りたいことは山ほどあるかと思います。
 しかし、語るべきことはもうありません。
 作成に際して協力頂いた某IRCの人々、
 貴様等エロ過ぎ。地獄に落ちr
 ああいや違う、海よりも深い感謝だった。
 最後に、締めとしまして短く。
 
     人を呪わば穴二つ。
   気持ちのいいものじゃない?


             ――――辞世。






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