蛍光灯、揺れて

作:しにを

            




 とにかく暇だった。
 特に何かするでもなく午後の時間は過ぎていた。
 陽が落ちかけ、室内にいるとやや暗く感じる頃合。
 部屋でごろごろしているのにも飽き、屋敷の中をぶらぶらと歩いてみる。
 下に誰かいたら話し相手にでもなってもらおうと思っていたのだが、あいに
く誰の気配もない。

「今時分だと琥珀さんが夕食の支度しててもよさそうなもんだけどなあ」

 いたとしても琥珀さんには暇人の相手をする時間はなかっただろう。
 だったら、野菜の皮剥きとか莢エンドウの筋取りとかのお手伝いを申し出る
なんてのも決して悪くは無かったのに……、残念だった。
 今から外に出掛けるのも、あまりに中途半端な時間だし。

 宿題でもするかな。
 夜にでもやればいいやと思っていたが、これほど暇ならいい時間潰しになる
かもしれない。
 普段なら考えもしないような選択が頭に浮かんだ。
 じゃあ、部屋に戻るか。

 階段を上がり、部屋のある方の廊下へ行きかけて立ち止まる。
 廊下の進行方向正面に脚立が立てられている。
 そしてその上に翡翠の姿。
 見ると背伸びして手を伸ばし天井に何かしている。
 ?

 ああ、そう言えば明りが少し切れかかって点滅していたっけ。
 まだいいやと、特に気にしていなかったが、翡翠には看過出来ない事だった
のだろう。
 だが、細長い蛍光燈を片手に何度も背伸びをしながら手を動かすというのを
繰り返している。どうにもうまくいかず、高い天井相手で苦労しているようだ
った。
 一生懸命なその姿に感心すると共に、妙な微笑ましさを感じる。
 だいたいこの屋敷は天井が高すぎるんだよな。
 手伝ってやろうかな。
 いきなり声を掛けるとびっくりさせてしまうな。
 脚立を回り込んで翡翠の正面側に出てから、ゆっくりと翡翠に声を掛けた。

「翡翠、大変だろ、代わるよ……」

 だが、仕事に没頭していた翡翠にとっては俺の声は唐突のようだった。

「え?」

 驚き顔で下を向く。
 だが、唐突なその動きで、不安定な足場で均衡を保っていた翡翠の体がぐら
りと傾く。

「危ない」

 反射的に俺は動いていた。
 手を差し伸べ、翡翠の落ちかけた処をとっさに手で支える。
 間に合った。
 少し動きを殺してから、腕の中に抱き留める。
 小さな軽い体がぽすんと収まる。
 よしと安堵しつつ、足でぐらつく脚立を止めた。

「ああ、よかった。ごめん、翡翠。びっくりさせちゃって……」
 
 翡翠の反応が無い。
 まだ動転しているのか。
 そのまま腕の中で数秒翡翠は凍りついていて、ぱっと弾かれたように飛び退
いた。

「翡翠……?」 

 翡翠は凍りついた表情。
 とっさに翡翠を追いかけた俺の手が、行き場を失ってちょっと間抜けな状態。
 だが、翡翠は俺の手に怯えた顔をして、そして来ないでとでも言うように自
分の手を横に振った。
 別に俺をどうこうしようという訳ではなく、反射的な行動だったろう。
 ただ、翡翠は手にしていたものがあった。
 交換しようとしていた蛍光灯。
 ずっと握り締めていたそれがを何の予備動作もなく持ちあげられ、ぶんと弧
を描いた。
 あまりにも思いがけぬ動き。
 それ故に反応が遅れ、俺は避ける事も受ける事も出来なかった。
 蛍光灯が勢い良く頭に当って破裂して、俺は……、倒れ伏した。 



               ◇   ◇   ◇



「何とか言ったらどうなの。兄さんにもしもの事があったら……」

 部屋の外からも秋葉の叫び声が聞こえた。
 怒りでびりびりするような声。
 慌てて扉を開けた。
 見た事のないような険しい顔をした秋葉。
 まさに怒髪天を衝くといった雰囲気。
 そしてそれを前にして叱責を受けている翡翠。
 涙を湛えながらも、下を向く事無く真正面から目を合わせている。
 その二人の姿が目に入る。

 とりあえず、秋葉を宥めようとした。
 その声だけで、俺まで萎縮しそうだった。
 それを真正面から、翡翠の事を思うと止めずにおれなかった。

「秋葉、それくらいでいいよ。翡翠だって悪気があった訳じゃないんだし」
「悪気があろうとなかろうと、主人の頭を蛍光燈で殴り付ける使用人をほうっ
ておける訳ないでしょう。下手すれば目が潰れたり、大きな傷になったりして
いたかもしれないんですよ」
「志貴さま。秋葉さまを止めないで下さい……。私が悪いのですから」

 でもなあ。
 俺は二人の言葉を制するように、両手を開いて前に突き出した。
 二人とも頭に包帯をした怪我人に対してそれ以上反論せず、とりあえず口を
噤んだ。

「幸い何とも無かったんだから。それに秋葉、翡翠もよくわかっているよ」

 翡翠が俯く事無く、正面から秋葉の叱責を受けているのもその現れだろう。
 痛々しいまでの悔恨の表情。
 秋葉は不満そうにしながらも、異を挟もうとはしない。

 とりあえずよしと一安心すると、ほっとした為か、頭のずきずきとする痛み
が甦った。

 あの時、翡翠の一撃を受け昏倒したものの、物理的に大ダメージを負った訳
でもなく、俺はすぐに起き上がった。
 だが、翡翠は普段からは考えられない悲鳴をあげ、琥珀さんの名をを半狂乱
になりながら何度も呼んだ。
 その叫び声に、琥珀さんばかりか秋葉も駆けつけて来た。
 二人の眼に映ったのは、側頭部から血を流した俺と、砕けた蛍光灯の片割れ
を握ったまま、ぼろぼろと涙をこぼしている翡翠。
 この殺伐とした光景を秋葉も琥珀さんも共に冷静に状況を判断する事は出来
なかった。
 ちょっとした……、いやかなりの大騒動になった。
 数々の言葉が交錯して混迷し、比較的まともな判断能力が残っていた琥珀さ
んが何とか事態を掌握してくれるまで、けっこうな時間が経ってしまった。
 翡翠を宥めつつ、俺の説明に頷くと、その場をてきぱきと仕切ってくれた。
 片づけは後にしましょうと言って皆を下に降ろし、ガラスの破片を水で流し
てから傷の治療をしますと、俺によりも秋葉と翡翠に説明。そのまま洗面所へ
向かう。
 そんな指示と行動とでやっと混乱の場が収拾に向ったのだった。

 真剣な顔で俺の診察を行い、琥珀さんはふぅと溜息をついて微笑んだ。
  こめかみの辺りがざっくりと切れたのと、ガラスの破片による幾つもの細
かい裂傷、怪我はそれぐらいであって、見た目のインパクトほどの重傷はなか
った。
 手際よく俺に包帯を巻いていく琥珀さんと、俺はさっきの出来事について言
葉を交わした。

「そうですか。志貴さんの体に触れて……、すみません、志貴さん。
 でも翡翠ちゃんは……」
「ああ、わかってるよ。大事はなかったんだし気にしないから。
 それより、秋葉と二人なんだろ、心配だな。早く二人に顔を見せないと」
「はい、もういいですよ」
「ありがとう、琥珀さん」

 ずきずきとする頭に、そろそろと歩きながら居間へと向かうと、思った通り
秋葉の叱責の声が聞こえて来たのだった。 

「すみません、すみません、志貴さま。ごめんなさい……」

 俺の顔を見て、翡翠の瞳から涙がこぼれた。
 ぼろぼろと涙が頬を伝っている。

「いいって。仕方なかったんだから」

 翡翠をなだめながら、秋葉の方を見る。

「秋葉も知っているだろ、翡翠が男性に触れられるのを極度に嫌がるのを。
 事故とは言っても、体を抱き締めた形になったんだからさ、反射的に頬っぺ
たを叩かれるくらいは仕方ないだろう。たまたま手に持ってたものがまずかっ
たけど」

 それに男性恐怖症になったのも遠野の家が……、そこまでは口に出さなかっ
たが、秋葉は言外の言葉を感じ取ったようだった。
 文句はありそうだったが、飲み込んだ気配。

「……兄さんがそうおっしゃるのなら」
「うん。怪我ったって大した事はないから。
 秋葉が心配してくれるのは嬉しいけど、そんなに大事じゃないんだからさ。
 翡翠もそんなに深刻になったりしないでくれ。
 二人とも、怪我人に気を遣わせてる様じゃ駄目だぞ……」

 冗談めかして言葉をまとめたが、秋葉も翡翠も真顔で頷くだけだった。

「夕食はパスして部屋で寝ているよ。ちょっとだけ疲れたから」

 翡翠が黙って俺の後に付き従う。
 秋葉は何か言いかけたがいったん口を閉じた。
 そして改めて「ゆっくり休んで下さい」とだけ言葉にした。
 めったにないほどの優しい口調で。



               ◇   ◇   ◇



 俺がベッドに横になると、そっと翡翠は毛布をかけてくれた。

「あ、ありがとう」
 
 いえ、といつも以上に小さく答える翡翠。
 そしてじっとこちらを見つめたまま動かない。

「ごめんなさい……」

 何度目になるか分からない謝罪の言葉。
 やっと落ち着いてきたようだが、まだ痛々しいほど消沈している。
 一眠りしようかと思っていたのだが、こんな状態の翡翠をそのまま放ってお
く事はできなかった。
 何か話でもして落ち着かせようか。
 そう思って、少し身を起こした。
 
「でも、大変だなあ」
「……」
「翡翠だって、いつか好きな男性ぐらいできるだろう?」

 まあ、いちじるしく出会いの機会に乏しい環境だけれども。

「…………はい」

 微妙な間。唐突な俺の言葉に戸惑ったのか、別の理由だろうか。

「その時、好きな人の手も握れないんじゃ困るよね。それにその後も……」

 慌てて口を噤む。何かまずい方向に話が行きそうだと思った。
 何とはなく琥珀さんの「駄目ですよう」というポーズと声が脳裏に浮かぶ。
 翡翠もやや固まっているように見えた。

「ええと。あ、でも不特定の男じゃ駄目だけど、好きな人に触れられるのなら、
大丈夫かもしれないね」
「そんな事は無いです」

 ほぼ即答。
 おまけに微塵も迷いが無い。

「そう? やっぱり特別な人だったら翡翠の反応も違うと思うよ」

 翡翠は心外な事を言われているといった顔をして黙ってしまう。
 どうにも予想した態度とは違うな。
 随分とはっきりとした……。
 なんでそう確信出来るんだろう。

「せめて普段顔を合わせている俺とだけでも慣れてくれると、そのうち大丈夫
になるかもしれないね。というか俺は翡翠に慣れて欲しいなあ」
「はい……」

 ちょっとはにかんだような僅かな微笑み。

 可愛い。
 もったいないなあ、こんな表情も出来るのに。
 無意識のうちに手が伸びて翡翠の頭に触れていた。
 体も起き上がって、ベッドの端に座っている格好。
 猫でも可愛がるように軽くぽんぽんと叩いて撫でてやる。
 ……って、何とんでもない事やってるんだ、俺は。

「あ、翡翠、ごめん」

 すぐさま身を離されるか、また翡翠に叩かれるかと思ったが、意外にもじっ
としている。
 また、固まっちゃったかな。
 でも、ちょっと様子が違う。
 翡翠は何か不思議なものを見ているかのように、俺の顔を見つめている。
 手を引っ込めようとすると口を開く。

「志貴さま、もう少し今のをしていただけないでしょうか?」
「え、ああ、いいけど。大丈夫なの」

 コクリと頷く。
 なら……。
 少し浮かせた手をまた翡翠の頭に乗せる。
 恐る恐るなでなでしてみる。

「大丈夫なんだ……」
「なんだか懐かしいです」

 呟くようにぽつりと翡翠が言う。

「ずっとずっと前に誰かに、こうしてもらった事があるような気がします。大
きな暖かい手で……」

 翡翠の目から涙の雫がつっと流れ落ちた。

「あれ、私、どうしたんだろう」

 頭から手を離してその雫を指先で拭う。
 その俺の手を、翡翠の両手がそっと包むように触れた。
 柔らかい小さい手の感触。

「志貴さまの手……」

 な、何だか凄くドキドキする。
 ほんの二、三秒の事だったろう。
 翡翠もはっとしたように、手を引っ込めて慌てて離れてしまう。
 幾分、怯えが見える。

「申し訳ございません」
「いや、いいよ」

 行ってしまうかなと思ったけど翡翠はじっとしている。
 自分の手と、俺の手と、そして俺の顔を見つめる。
 
 どうしたのと問えない雰囲気。
 ただ、翡翠が何をするのかを見守るだけ。

「志貴さま……」

 いつもの翡翠の声ではない。
 さっきの怯えをそのままにした声。

「な、何?」

 翡翠の体が、顔が近づく。
 普段なら間違ってもありえない至近距離に翡翠を感じる。
 何故?
 硬直して動けない。

 そして翡翠の体が俺の胸に触れた。
 さっきも腕に抱きとめたけど、それに比べたらほんの少し触れているだけだ
けど。
 パニックすら起こりそうになる。
 翡翠は何をしているのか。
 それでいっぱいで他の事は考えられなくなっている。

 しばらく沈黙。
 翡翠も俺の胸に顔を埋めるようにして、それ以上は何もしない。

 ようやくパニックから戻ったから気づいたのか。
 それとも気づいたからこそ常態を取り戻したのか。

 翡翠が小さく震えている。
 不規則に。
 わかった。
 我慢している。
 その状態から逃れたいのに、必死に耐えている。

 何に?
 俺の、男の体に触れている事に。

「翡翠……。何をやっているんだ」
「志貴さま……、わたしを抱いて下さいませんか」
「え?」

 また混乱しそうになる。
 抱く。
 翡翠を抱く。
 それって……。
 いや、いやいや。

 文字通りの意味であろうと理解する。
 そうだと解釈して、他の選択を無理やり排除した。

「なんで、そんな事」
「だいて…くだ…さい……」

 小さい声。
 歯を食いしばった声。

「わかった」

 腕を翡翠の背に回した。
 小さな震える体に手が触れる。
 背中に手が触れると、びくんと翡翠の体が動いた。
 でも、少し身を捩りながらも、離れようとはしない。
 そのまま必死に留まろうとしているのがわかる。

 痛々しい。
 もう充分だからと言ってこちらから軽い抱擁を解きたくなるが、泣きそうな
顔がそれを許してくれない。
 目だけが、俺に訴えている。
 このままでいてくれと。
 だから、俺はそのままでいた。
 か細く悲鳴を押し殺した声を洩らす翡翠の、小さい体を腕の中に抱いていた。

 こんな状況でありながら、翡翠の様子に俺までおたおたしていながら、それ
でも頭の片隅に翡翠の体を感じている自分がいた。
 柔らかい感触、小さな翡翠の体。
 何だか鼻を甘い匂いが擽っている。
 軽い自己嫌悪が芽生える。
 何を俺は……。
 でも、これは翡翠が望んで……、でもこんなに泣きそうになって……。
 何て言われようと、身を離すべきでは……。
 ああ、そうだ。
 そこまで考えて思い出した。
 さっきをの事を思い出し、頭にそっと手を乗せてみた。

「志貴さま……」

 俯いていた翡翠が顔を上げる。
 やはり怯えた顔。
 でも、体に伝わる震えが少し……、弱まっているような気がした。

 そのまま、軽く頭を撫でてやる。
 宥めるようにというほどの積極的な意図でなく、何となく。
 でも、翡翠は小さくあっと声に出し、確かにおとなしくなった。
 しばらく、そんな風に、片手で翡翠の体を抱いたまま、手では猫でも撫でる
みたいに優しく手を動かした。

「なんで、こんな事を?」

 あえて、訊ねてみる。
 翡翠はまっすく俺を見て、答えた。

「志貴さまにあんな真似を……、
 いえ、わたしは志貴さまに怯えたくありません」

 俺の表情を読み取ったのか、翡翠は途中で言い方を変えた。
 少し恥ずかしそうな表情。
 
「志貴さまにあたりまえに接する事が出来るようになりたいのです」
「そうか……、そうだね。
 俺もそうなったら、嬉しいよ」

 翡翠が自分の意志としてそう言うのなら、こう答えるしかない。
 それに、決して嘘偽りの言葉では無い。
 
「すぐには無理でも、そうなると…ううん、そうろう、翡翠。
 俺も協力するから」
「ありがとうございます」

 ふと、協力すると言う事は、今みたいに翡翠の体に触れたり、腕に抱いたり
する事なんじゃないかと気がつく。
 それって……。
 まあ、翡翠が嬉しそうにして、やっと笑顔を見せてくれたんだし、いいか。
 いいのか?
 ……。
 いいと思おう、うん。

「わたし、頑張ります」
「いいよ、無理しなくても。ゆっくりでね」

 とは言え、こんな事をちょくちょくやる訳にもいかないだろうけど。
 琥珀さんや秋葉に見られたらどんな事になるか……。
 蒼褪め震えている翡翠を、抱き締めている俺。
 悲鳴を押し殺している翡翠が救いを求めるように、顔を背ける。
 すると……。
 ああ、背筋がぞっとした。

「あの、志貴さま……」
「え?」

 翡翠がまた、少し辛そうな顔をしている。
 そわそわとして、困った様子……?

「ああ、ごめん」

 依然として翡翠の背中に回っていた手を慌てて外す。
 翡翠は真っ赤な顔で、ぱっと飛び退いた。
 それを機会に、翡翠は一礼して「おやすみなさい」との声を残して退室した。
 俺は、ドキドキしたまま毛布を被った。

 頭を撫でる時の翡翠は違っていたな。
 何か思い出すような……。
 親の記憶でも思い出したのかな。
 そんな事を考えながら、眠りについた。

 頭の痛みはいつの間にか、どこかへ消え去っていた。



               ◇   ◇   ◇



 それから二、三日経った。
 とりあえず包帯はまだ巻いているけど、ほとんど生活に支障は無い。
 良く睡眠だけは取れたので、むしろいつもより調子が良いくらいだった。
 ……のだが、それでも大事を取って寝かされていた。
 幸か不幸か土日に入って、学校はほとんど休まなくてすんでいたし。
 むやみに動き回ると三人がかりでまるで俺が酷い事をしているかのように非
難される事も、俺をおとなしくさせていた。

 主として傷の手当は琥珀さんが受け持った。
 だけど翡翠はも琥珀さんの手伝いをしてあれこれ俺の世話を焼いてくれた。
 体に触れる事もあったが、概ねは恐々とではあってもこなしている。
 琥珀さんは、最初はびっくりしたようにそれを見つめていたが、何も言わず
微笑むだけだった。

 午後のやや夕方に近づいた頃合。。
 お茶でも飲みたいなあと思って部屋から出た。
 いい加減、自分で出歩かないでいるとかえって気が滅入る。
 幸いと言うか、誰も部屋にはいなかった。

 数歩廊下を歩くと、廊下の中央に脚立が置いてあった。
 そしてその上で作業している翡翠が……。
 先日の所とは違う、またどこか具合が悪くなったのだろうか。

 ああ、また苦労している。
 手助けしたいんだけど、どうしたものかな。
 また先日の二の舞になるのも何だし。

 でも、ああ、もどかしい。
 お、上手く嵌め込んだ。よし。
 外した方の蛍光灯を拾おうと身を屈め……、
 って、危ない。
 屈もうとする動きで体が不安定に揺らぎ、反り返る様に重心を移して逆に後
ろに倒れそうになっている。
 後ろ手に支えを探すが何も無い。

  落ちる!

 気がついたら翡翠めがけて走っていた。
 数メートルの距離が一息で詰まる。
 翡翠の体が背中から落ちる。
 走りながらも、妙に冷静にその姿と自分自身の動きとを測っている。
 駄目だ、このままだと僅かに足らない。
 最後は大きく跳ねて翡翠の体を抱くようにして受け止めた。
 強引に体を捻って俺が下敷きになるようにして、精一杯の受け身を取りつつ
床に叩きつけられる。

 ぐっ……。
 一瞬息が止まり、胸の空気を全部吐き出してうめく。

 それでも片手でしっかり抱きかかえた翡翠の体は護りきれた。
 小柄な柔らかい体が俺の上に乗っている。
 胸あたりに翡翠の頭が押し当てられている。
 ぽんぽんと背中を軽く叩いて翡翠に呼びかける。

「だ、大丈夫か、翡翠?」
「志貴さま……」

 翡翠が顔を上げ、至近距離で目と目が合う。

 や、まだ状況がつかめていないかな。

 ぼうっと俺を見る目が、急に見開かれる。
 慌てた様子で翡翠は上半身を起こした。
 ……って、何でまた蛍光灯なんて持ってるんだ。
 あの時の情景がフラッシュバックする。
 そして記憶の姿をなぞる様に翡翠はそれを……、いや、そっと下に置いた。
 思わず安堵の溜息が洩れる。

「また、殴られるかと思った」
「志貴さまなら平気です。もう……」

 あ、翡翠の顔が真赤になった。

「それよりも……、志貴さま、ありがとうございます。怪我をなさっているの
にまた助けて頂いて……」
「いいよ。でもあんなに無理しちゃ駄目だぞ。
 ああいう時くらい、手伝うから俺を呼んでくれ」
「はい」

 何か良い雰囲気だった。 
 翡翠は、俺を下敷きにしているのに気づき、慌てて立ち上がろうとした。
 立ち上がろうとしたのだが……、少し体を浮かすとぐらりとよろけてしまう。
 
「きゃあ」
「おっと」

 ぽすんと、背中から落ちた翡翠を受け止める。
 
「す、すみません、志貴さま。
 その、体が……」
「もしかして、腰が抜けた?」
「……」

 恥ずかしそうに、こくりと頷く。
 顔が真っ赤だった。

「そうか、でもびっくりしてなっただけだから、少し待てば直るよ」
「はい」

 ふぅと翡翠は溜息混じりに答え、ふいに体を硬直させる。
 その緊張に、俺までびくりとつられて反応してしまう。

「な、何、どうした、翡翠?」
「わ、わたし、その……、志貴さまに」
「え、俺?」
「こんな格好で、わたし……」
「ああ」
 
 確かにこれは……。
 完全に俺に背中を預け、俺は翡翠を後ろから抱いている形。
 かなり凄い格好な気がする。

「困った事にさ、翡翠」
「はい?」
「俺もちょっと腰打って、立てなくは無いけど、ちょっと辛い」
「う、志貴さ…」
「ああ、翡翠のせいじゃないし、そんなに痛いとかじゃないから。
 だから、少しだけこのまま休ませてくれない?」

 至近距離の翡翠の顔が、驚きと困惑の表情を浮かべる。
 ちらと俺の言葉が正しいのか、と見つめられたりもする。
 嘘じゃないよ、大袈裟に言っているけど。
 返事の代わりに、翡翠は俺に寄りかかった。

「翡翠は軽いから、体預けていいからね」
「……はい」

 ああ、首筋が少しピンク色に染まっている。
 不思議だった。
 ほんの数日前には、同じシチュエーションで蛍光灯で殴られたのに。
 今は、こんな格好で触れ合っている。
 翡翠の柔らかい体と、ほのかな良い匂い。
 それに体の重みと、温かさ。
 本当に不思議だ。

 でも下手な事を言うとこの状態が壊れてしまいそうで、黙っていた。
 翡翠もどう意識に折り合いをつけているのか、言葉は発しない。

 不思議な、でも心地よい空気。
 ただ、翡翠の存在のみが俺をいっぱいにする。
 翡翠は、どうなのだろうか?
 やっぱり怖がってはいるのだろうか。
 我慢しているのだろうか。

「志貴さま……」

 柔らかい声。
 震えていない。
 強張ってもいない。
 うん、と小さく相槌を打つ。
 翡翠の小さな声が続く。

「温かいです、志貴さまの体」
「翡翠の方こそ……」

 それだけの会話で、また黙り込む。
 でも、より交感の度合いが深まったように想う。
 俺だけでなく、翡翠も、そう思ってくれるといいのだけど……。

 静かな廊下。
 ちょっぴり変だったけど、離れがたく。
 俺はもう平気だと立ち上がらなかったし、
 翡翠もまた、身を離そうとしなかった。

 二人、停止したまま。
 その空気に浸っていた。
 ただ、陽のみが傾き、午後から夕暮れへと移って行った。
 ゆっくりと……。


  FIN

 

 

 

―――あとがき

 こちらの作品はサイトの50万ヒットの企画作品で、過去作品の改変といっ
たテーマでリクエスト頂いて書いたものの一つになります。
 出題者は、がんさん。
 リク内容は、「『接触拒絶』をらぶらぶ路線で,可憐な翡翠を強調」(一部
意訳)でした。
 
 と言う事で、琥珀さんとのくだりやドタバタを除いてストレートにしてみま
した。どうでしょうね?
 
 しかし、サイト開設して最初のSSですよ。
 思えば遠くへ来たものです……。が、読み返して「見るに耐えないほど稚拙
で頭を抱える」にならないのですが、これは進歩していないと解釈するのがや
はり正しいのでしょうか……、ふぅ。

 ※元作品は、こちら。 併せて御読みになるのも一興かと。


  by しにを(2003/6/19)


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