その選択の果て

作:権兵衛党

            





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 クー……とやけに可愛らしい音を立ててお腹が鳴った。

「はぁ、お腹空いたよぅ」

 二月とも思えぬ寒気の欠片も無い衛宮家の居間で、藤村大河は心底情けなさ
そうな声で口にした。
 ついでにおせんべも一枚口にした。
 バリバリとせんべいを咀嚼していくが、お腹が膨れる気配は微塵も無い。き
っと、この通算十八枚目のせんべいを平らげてからもう二十枚ほど食べた所で
彼女は美味しくご飯を頂ける事だろう。
 ただ、それも美味いご飯を作ってくれる人が居ればの話である。つまるとこ
ろ、彼女は台所に立たせてはいけないタイプの人間だった。
 美味しいご飯を要求するお腹を宥める様にさすりつつ、自分で淹れたお茶を
ズズズと啜る。
 その緑茶ですらお茶葉の量を間違えたのか、それとも注ぐタイミングを間違
えたのか、いつもより微妙に渋かった。その違いが、ただ一人居間に座る大河
には現状を突きつけられている様で、また面白くないのだけれど。

「ううう、士郎ったら薄情なんだから……」

 今ここには居ない、いつもお茶を淹れてくれる少年に対して悪態をつく。も
っとも彼女が弟分扱いしている衛宮士郎であれば、彼女にとって最高の緑茶を
淹れてくれると同時に「……藤ねぇ、お茶を不味く淹れるのは一種の才能だぞ?」
などと言うかもしれないが。

「はぁ……どこ行っちゃったのよ、士郎ぅぅ……」

 もう一度力なく呟いて、大河は新たなおせんべいに手を伸ばした。
 それもバリバリと軽快に咀嚼、消化して、何事も無かったかのようにお腹を
鳴らす。湯呑から渋いお茶を一口飲んで、それも机に置いてしまった。
 そのうちやり場の無い怒りでも込み上げてきたのか、彼女はひとしきりあー
うーと唸ったり手をバタバタさせたあげくコテンと居間に寝転る。
 そのまましばらくボーっと天井を見ていたのだが、やがて瞼がトロトロとし
てきたらしい。寝ていれば空腹も気にならないと考えたのか、それとも単に自
堕落な虎の習性なのか、大の字になって目を閉じた。

「……今頃、何してるのかなぁ。……バカ……」

 そんな呟きを最後に、衛宮家の居間に聞こえるのはスウスウという小さな寝
息だけになっていた。
 少なくともこの時、大河は不安と言う程のものは感じていなかった。





 そもそも今日、彼女がかなり遅い朝を迎えた時には屋敷には誰もいなかった。

「……あれ?」

 空腹によって目が覚め、とっくに美味しい朝ご飯が用意されているだろうこ
とを期待して居間にやってきた大河は、自分の予想が外れた事にまず首をかし
げた。そして屋敷を探し回って、彼女に美味しい朝ご飯を用意してくれる人間
が誰も居ない事を理解した。
 ついでのように、朝が遅かった理由が誰も起こさなかった為である事も気が
ついた。

「はてな?」

 しばし寝起きの頭で事態を解決しようと試みる。
 衛宮邸関係者で、まず桜ちゃんは泊まっていなかったし今日も来ないのよね、
と除外する。つまり朝ご飯を作っているはずの士郎が居なくて、セイバーちゃ
んがいないのよね、と一応認識。
 はて、昨夜は他にも何か居たような? などと考えた瞬間、昨夜の衛宮家ゲ
スト遠坂凛が名前そのものよりも先に『赤いあくま』という単語とイコールの
関係で結ばれる存在として大河の脳裏に浮かんでいた。

「そっか。遠坂さんがいたんだっけ」

 そう感づいて改めて状況証拠を拾っていく。
 すると。

 (1)遠坂凛の荷物は客室に残っている。
 (2)作りかけの朝食と見られるものが台所にある。
 (3)食パン一斤とその他サンドイッチの具になりそうな物が消えている。

 という事実が浮かび上がる。
 ちなみにこの家の家事に疎い大河が冷蔵庫の中から消えたものを瞬時に判断
できたのは、空き腹を抱えて昨日夜遅くにこっそり冷蔵庫を漁ったからに他な
らないのだが、それはこの際関係ない。
 そして、大河の脳みその中で全てが一つに繋がった。

「ふっふっふ、謎は全て解けたっ。まず、荷物があるので士郎が帰る遠坂さん
を送っていった訳ではないのが分かる。次に、士郎にとってその外出が予期せ
ぬ物だった事を作りかけの朝食が物語っているわ。士郎は非常に慌てていた。
几帳面なあの子が片付けもせずに居なくなったんだから。そして、一人だけそ
の外出を予期、いいえ、画策した人物が居た。可愛い子ぶりっこにお手製サン
ドイッチなんて作った人物、それは……」

 絞られた声から一転、ズビシっと大河の指が鋭く指し示される。

「遠坂さん、あなたですっ!」

 ―― シーン……
 無論、凛がココにいるはずも無く、大河の指は空しく虚空を指していた。
 一人遊びの最後には、ただ腹ペコの藤村大河が残っただけという事である。

「……はぁ、お腹すいたよぅ」

 大まかな行きがかりは理解したものの、それで朝ご飯がでてくる訳で無し。
 空腹を抱えて彼女はよろよろと居間へと戻っていったのであった。





 クー。
 大河が目覚めた時、お昼はとっくに過ぎていた。
 目覚めさせたのもやっぱりお腹の虫で、非常に燃費の悪い彼女はすでに限界
に近かったりした。

「士郎、まだ帰ってないのね」

 情けなさそうに呟いて、無人の居間を見回す。
 居間から見える台所、その流しのゴミ捨てに正体不明の物体が押し込まれて
おり、またシンクには黒焦げになった鍋とフライパンが漬けてあったりするの
は、一応、大河なりの努力の現われであったと言えよう。

「うう。お姉ちゃんを飢えさせるなんて、弟分失格だぞ……」

 未だ帰らぬ少年にブチブチと文句を言いつつ、ゴロゴロと居間を転がってみ
る。
 無論、彼女は藤村家に帰れば食事にありつける身である。空腹に耐えかねて、
それも考えなくもなかった。士郎はいつ帰るとも知れないのだし。
 けれど。
 彼女が弟分と目する純情な少年は、二年でアイドルと目されている遠坂凛と
いっしょにお出かけである。たぶん、金髪ですっごく美人なセイバーだって一
緒にいる。
 今、士郎が直面しているのは、2vs1ではあるが、これは、ひょっとして、
その……デ、デートという奴ではあるまいか?
 朝それに思い至った瞬間、大河は吼えた。

「どう考えてもキケンが危なすぎるじゃないのよぅっ!!」

 無論、士郎の貞操が。
 実のところ大河は想像力を駆使してありとあらゆる可能性を考えてみたのだ
が、遠坂凛に手篭めにされる衛宮士郎はあってもその逆は有り得ない、と結論
がでていたりした。
 それはともかく、彼女はこのままでは気になって仕方ないのだ。
 家に帰っている暇はない。
 士郎が帰ってくるなり一切合財聞き出した挙句、彼の作ったご飯を全て一人
で食べつくさないと治まらない。
 気持ちと胃袋の両方が。

「ふんだ。お姉ちゃんを仲間はずれにした罪は重いんだからね」

 拗ねたように口を尖らせて、お腹をさする。
 その為であれば、朝ご飯と昼ご飯をせんべいで紛らわすくらいはどうという
こともない。
 これで士郎が凛をエスコートして夜遅くに帰ってきた挙句「悪い藤ねぇ。晩
飯もデートに相応しいナイスにゴージャスなステキレストランで食ってきたか
ら」などと言おうものなら、きっと泣きながらおねーちゃんぱんちが乱れ飛ぶ
事だろう。
 でも。ぷりぷりと怒っていたけれどそれも長くは続かなかった。
 ごろりと居間に横になる。
 一度転がって反転。
 更に反転。
 ものすごく行儀が悪いが、それを叱る者はない。
 だって、この家には今、一人しか居ない。
 赤毛の少年がいないから。

「はぁぁ……」

 ため息。
 しばらくの時間の後で、思わず漏れていた。
 この広い家に一人で居るとやっぱり寂しくなってくるのだ。特に、このとこ
ろは騒がしかった事だし。

 ―― 切嗣さんが死んだすぐ後なんて、こんなモノだったはずなんだけどね。

 もう一度ため息をついた大河はゴロリと身を転がし、うつ伏せに畳に寝そべ
った。自分の腕に顔を埋めて視界を暗く遮断する。
 思い出す。
 この家で最初に会った時、少年は包帯だらけだった。
 そして、身体以上に心に深く傷を負っていた。
 その少年と最初はぶつかり、和解し、かけがえのない家族となった。切嗣が
死んでからは、それこそ本当の姉弟のようにしてきた。
 少年はめきめきと回復し、人並み以上に活発になった。
 いつも公園の平和を守りに行っては傷だらけになっていたものだ。
 けれど、時に思う。
 あの、10年前におった士郎の傷は、本当に癒えたのだろうか。
 傷口が塞がっただけで、内には未だに癒されぬ痛みがあるのではないだろう
か、と。
 いいえ、それを疑問とするのはすでに欺瞞だ、とさえ思う。
 他にも心配は尽きない。
 聞きはしなかったけれど、特に最近は何かを隠しているようでもある。
 そう、セイバーが来たあの時から。
 それを聞くか聞くまいかと散々悩み、結局士郎が自分から話さない以上、ど
う聞いても話さないだろうとそのままになっている。
 けれど、それは大河にとって一つの不安ではあったのだ。彼女の知っている
士郎は、危険を返り見なさ過ぎるから。

 では、自分はどうなのか。自分にとっての、この10年は。

 放って置けなかった。
 最初はただそれだけだったはず、なのだけれど。
 10年間姉として接してきた。
 それでいいと思っていた。
 桜ちゃんが家に来るようになって、周りに女の子が居るようになって、士郎
に眼をつけるなんて見る眼のある娘もいるよぅとそれはそれで誇らしかった。
 けれど、士郎が離れて行くのは淋しかった。

「お姉ちゃんってのも、複雑なんだよねぇ……」

 いっそ士郎の周りにいるのが良くない娘ばかりなら、問題は簡単だった、と
も考える。間桐桜も含めて、セイバーといい遠坂凛といい、大河の目から見て
も応援したくなるようないい娘ばかりだから、事実は余計に胸が締め付けられ
る。
 思えば切嗣は好きでいたつもりで、逆に愛されていた。女としてでは無く。
 大河にとって、愛しているというなら衛宮士郎以上に愛情を注いだ存在も無
い。

「はぁ……お姉ちゃんは淋しいよぅ」

 切なげにそう呟いた時。
 どこかでカランと何かが鳴り、そしてそれきり音が消える。
 何がどうという訳ではない。あるいは屋敷の外でした音だったのかもしれな
い。
 だというのに、空気が変わった。少なくとも、大河には何か今まであったも
のが喪われたように思われた。

「士郎? ……じゃ、ないわよね」

 不安そうに呟きつつ誰も居ない周りを見回す。
 後から考えれば、であるが。
 その時失われたのは、あるいは大河の暖かな日常だったのかもしれなかった。










 /

 意識が戻った時、俺は何処とも知れない場所で寝かされていた。
 視界に入る天井から、どこか室内であろうという事だけはかろうじて分かる。
 前後の記憶がはっきりせず、ぼんやりと周りを見回し――

「う……?」

 身体が動かなかった。小指の先から手首、肘、肩、首、腰から足のつま先に
至るまで、全身意のままに動かせる場所が少しも無い。
 重症を負っている訳ではない。手足が千切れている訳でもない。拘束されて
いるという事でもない。麻痺しているのでも感覚を失ったのでも無い様だ。現
に敷かれた布に触れている感触が分かる。
 ただ、自分の身体が意のままにならなかった。
 辛うじて口を動かす事と見る事だけは出来る様だが、手足を動かす事はまる
で出来ない。

 ―― ああ、そうだった。

 唐突に思い出した。
 遠坂に無理矢理デートとやらに連れ出され、雨が降りそうになって帰ってき
て。
 そこで見たものは破られた結界と、そしてキャスターに囚われた藤ねぇ。
 キャスターは俺に仲間になることを要求し、藤ねぇを人質に取られた俺は藤
ねぇを助ける事と遠坂を見逃す事を条件に。

「キャスターの軍門に降ったんだった、な……」

 その事を思い出した。
 ならばこの身体は、すでにいつかの夜の様にキャスターの意の下にあるとい
う事だろう。キャスターが俺に、遠坂としていた様な協力関係を求めるはずは
無いのだから。
 ひとつ思い出すと、更に思い出した。
 俺の目的。
 この聖杯戦争を止める。無益な犠牲者を出さない為にそうすると決め、その
ために俺は戦ってきた。セイバーに、遠坂に助けられて必死でやってきた。
 けれど、それももう終り。聖杯戦争はキャスターの勝利に終わるだろうし、
キャスターが俺に意志を残すはずもない。俺は自由を奪われ、キャスターの道
具として使われるだけだ。

 ―― 不様、だな。

 自嘲する。
 無関係な犠牲者の山の上に勝利を築こうとするキャスターを止められず、あ
げくにまだ生きているのに新たな犠牲者を食い止めるために動く事もできない。
 降れというキャスターの提案に頷いた時に、今まで生きて積み重ねてきた誇
りと理想を失った。
 ヤツに、アーチャーに『理想を抱いて溺死しろ』と言われた事を思い出す。
俺はその抱いた理想と共に死ぬことすら出来なかった。
 自らの理想を投げ捨ててしまった。
 ヤツならば言うだろう。
 キャスターの犠牲になった人間、これから犠牲になる人間の数を考えるなら、
一人を犠牲にすることなど取るに足らない事だ、と。
 それは悔しい事だが、頭の隅では理解している。
 俺は誰一人として死なせたくない。
 けれど、現実に全てを救う事が出来ないのなら。どうしても犠牲を避けられ
ないのなら。
 一人を犠牲にして、他の全てを救う事が正しい事に違いない。
 まして一人を助けるために自分が死ぬのは、これから先に救い得たであろう
命までも全て見捨てるという自己満足でしかないのだ。
 その上俺にはキャスターが本当に口約束を守って藤ねぇを助け、遠坂を見逃
したのかを知る術も無いときては我ながら呆れ果てるより他はない。
 たしかに遠坂には俺を笑い飛ばす資格があるという物だ。
 それでも。

 ―― それでも、俺はこの結果を選んだ。

 それが全てだった。
 俺は、キャスターのやっていることを容認できない自己の理念と聖杯戦争を
終わらせるという理想、俺をマスターと認めてくれたセイバーの信頼、それに
共闘してくれた遠坂の好意。その全てを裏切ってまでこの誰も救うことが出来
ない結末を選んだ。
 それ以外の選択なんて、思いつかなかった。
 俺にとって、藤ねぇの存在はそれ以上に重かったんだ。
 キャスターに囚われた藤ねぇを見た瞬間、俺の中のもっとも大切な何かが失
われそうな気さえした。
 藤ねぇが喪われると壊れてしまう、俺の中の人間として在る為に必要な何か。
 だって衛宮士郎が衛宮切嗣によって助けられ、その生きる道を示されたのな
ら。
 俺をここまで人として生かしてくれたのは藤ねぇなんだから。
 藤ねぇが居なければ、俺はそもそも人の身に戻れはしなかったろう。
 今でも炎の中を彷徨い歩く亡霊だったんだ。
 だから。
 否、それを置いても。
 例えこの先、幾百幾千幾万の人を助けられるとしても。例え引き換えに幾十、
幾百、幾千の人々を見捨て、生贄に捧げていくのだとしても。
 藤ねぇを見捨てる事だけは、俺には出来なかった。

 ―― 無事で、いるだろうか?

 藤ねぇも、遠坂もセイバーも。
 だが、俺に出来る事はすでに無い。ただ動けない身体でこうして祈ることし
か――

 けれど。

 一つ、その瞬間に理解した事があった。
 視覚と言語だけでなく、聴覚も生きているのだという事。
 そいつを実地で感じ取れる。
 この意のままにならない状態には以前に陥った事があるし、その時も聴覚は
生きていたけれど。
 けど、知ってはいても今耳に入ってきた振動は、今までが無音だっただけに、
初めてこの世界に俺以外の人間が存在することを思い出させたようだった。
 やがてその微かな音が足音だと気付いた頃、俺の視界にはキャスターのロー
ブに覆われた顔が映っていた。やはり陰になって見えないのだけれど、その顎
や唇の形がすごく良い事にはその時気付いた。
 キャスターが横たわる俺を覗き込む。

「お目覚めかしら?」
「そんな事どこにいても分かるんだろ」

 そっけなく返答する。
 俺の身体の何処かにキャスターから伸びる魔力の糸が刺さっている事は分か
っていた。俺の状態くらい、この女くらいの腕であれば分からない筈は無い。
 キャスターが唇を僅かに歪めたのは魔術師としての優越感によるものか、そ
れとも単に俺の返答が可笑しかったからなのか。まあ、どっちでもいい。

「あら、そっけない。私達は協力者になったのではなくて?」

 クスリと笑いながら覗き込んだキャスターが言う。
 それが本気でない事は誰でも分かる。協力者とは対等でなければならないの
だから。
 少なくとも俺はこんな一方的なものを協力とは言わない。

「……協力者なのなら、この扱いはなんだよ」

 魔術に縛められた身体で不機嫌に言い捨てた。
 聞いたキャスターは口の端に形の良い指先を当て、コロコロとさも可笑しそ
うに笑う。
 ひとしきり笑ってから、まだ可笑しそうに言った。

「ええ、協力者ね。あなたは私が聖杯を手に入れる手伝いをする。私は聖杯を
得たらその力であなたの望むものを与えてあげる」

 キャスターは一旦言葉を切り、そして冷たい声色で付け加えた。

「でも勘違いしないでね、あなたと私は対等じゃない。あなたは私の道具とし
て役に立ってもらうだけよ」
「ああ、分かってる。意思の無い道具にするんだろ」

 そんな事は分かっている。
 俺が、衛宮士郎がもう終わりなんだって事は。
 そんな事はこいつの提案に頷いた時から分かっていた。
 キャスターの勧誘を鵜呑みにするほど俺は甘くは無い。脱出の機会も、助け
が来ることも有り得ないと承知の上で、俺は自分でも馬鹿だと分かりきってい
る選択をした。
 キャスターはそんな俺に一瞬(見えないけれど)眉を顰めるかのような仕種
をしてから、表情を消して言った。

「そうよ。あなたは今もセイバーのマスターなんだし、あなたが私の行いに心
から賛同するはずが無い」
「当然だ」

 返事は短く、端的に。
 ただ、事実だけを告げる。
 沈黙の時間は数秒ほど。
 それだけの間を置いて、キャスターは再び口を開く。

「セイバーは聖杯を欲しているとはいえ、心情的にはあなたと同じ。あなたが
その最後の令呪を使えば、すぐに私を切り伏せに来るでしょう」
「そうだ。どうせ何か細工してるんだろうが」

 肯定する。
 そして、キャスターも肯定した。

「ええ。一時的にだけれど、今あなたは令呪を使えない」
「だろうな」

 それが魔眼か暗示の類なのか、それとも俺の知らない魔術によるものなのか
は知らないけれど、幾つか仮説は思いつく。どのみち俺に破ることは出来ない
ものだろう。
 破れるものであれば、キャスターは俺を目覚めさせたりはしない。
 一応左手に意識を集中させてみるが、なにかがあるような感じが無い。ひょ
っとすると令呪を認識できないように暗示でも掛けてあるのかもしれなかった。
 やけに淡々とした俺の返答に肩透かしでも覚えたのか、キャスターは更に問
う。

「そうよね。……そんな危険な相手を私がそのまま信用するはずがない。それ
は分かっていたはずね?」
「ああ」

 それも肯定。
 間違っても俺たちの間には信用も信頼も無い。
 出来うるならば、今この瞬間にでも倒してしまえればと思う。

「それが分かっていて、この提案を飲んだの?」
「それは人質を取ったやつが言う事じゃない」

 例えどんなに甘言を弄されたとしても、俺とキャスターは相容れない。俺が
キャスターを信用しないように、キャスターが俺を信用しないことは自明の理。
 この会話がどれだけ続こうとも、明確になるのはただそれだけだ。
 だから淡々と。
 キャスターは感情の無い言葉を紡ぎ、俺は短く事実だけを告げる。
 それだけのやり取り。
 それでいいはずだった。
 けれど。
 ふとキリという微かな音に目をやると、それはキャスターが僅かに爪を噛ん
だ音の様だった。
 恐らくは無意識なのだろうその僅かな仕種は、俺には不可解に思える。

 ―― 分からない。何故、キャスターが苛立っているのか。

 だがそれも一瞬。
 自分の行為に気づいたらしいキャスターは不愉快そうに手を下ろし、動けも
しない俺をローブの下から冷たい眼で見下ろしている。何の情も含まない、そ
の視線。
 やがて、ポツリと口を開く。

「そう、そんなにあの娘が大事なのね?」

 そう囁いたキャスターは微笑んでいた。薄く、冷たく。細くて鋭い刃の様に。
 そして、暗く嬉しそうに。
 ゾクリとした。
 首筋に凍らせた鋼の剣を当てられたかのような錯覚に捕らわれる。直感が危
険を告げている。
 その声には不安を掻き立てる全てがあった。
 その声で、キャスターは藤ねぇについて触れた。
 悪寒が背筋を駆け抜ける。言い知れぬ焦燥に駆り立てられる。暴れだしたい
衝動に襲われる。
 そう、もしこの身体が俺のものであるのなら今すぐキャスターに掴み掛かっ
ているくらいに。

「キャスター、藤ねぇは無事なんだろうな?」

 でも俺は動けやしない。だから可能な限り理性を保とうと抑えた声で言った。
 言った、つもりだったが。それはどこまでも剣呑さを含んだ声になっていた。
 その声を聞くキャスターは微笑んでいる。
 否、そうじゃない。形だけは微笑んでいながら、それは口元を歪めていると
しか言えない。
 あれほど形の良くて整った輪郭を、顎を、口元を、鼻筋をしているというの
に、その微笑は美しさよりも前にほの暗い永久凍土をイメージさせる。

「藤ねぇは、無事なんだろうな?」
「あら、心配なの?」

 そしてその紡がれる言葉はいかにも楽しげで、そして俺をからかっているの
だとでも言いたげな口ぶり。
 けれど、それは例えば遠坂がやるような代物じゃない。
 冷たい微笑と偽りの戯言の下には、黒い灼熱が渦巻いていた。

「それはそうよね。あなたは聖杯を欲していない。私に自分を売り渡したのは、
あの娘の為なんですものね」
「藤ねぇは、無事なんだろうな」

 キャスターの嘲りなど聞こえなかったかのように、繰り返す。
 それ以外の事に関心は無い。
 確かに俺はこいつの言うとおり藤ねぇを救う為に、その為に自分の正義も理
想も信条も生命も、そして寄せられたほのかな信頼も捨ててしまったのだから。
 俺は正義の味方になるなんて言っていながら、それを貫き通せなかった。自
分の命はともかく、周りの人間が巻き込まれる事への覚悟が足りなかった。あ
らゆる意味で俺は失格だ。
 ならばせめて、藤ねぇを。
 藤ねぇだけは。
 ただ、それだけは。
 身勝手な願いだとは分かっている。けど、それでも、それだけは。
 そう祈る俺を見下ろし、キャスターは嘲笑う。
 そして運命であるかの様に、告げた。

「あらあら、そんなに心配? 愛されてるわねぇ、あなた」
「――――え?」

 一時、呼吸を忘れた。
 それは明らかに俺に対する言葉ではなかった。……それなら誰に?
 頭が上手く回らない。キャスターの言葉だけが脳みその中をグルグルと回り
続ける。 
 わからない。本当はすぐ判るはずのことが、すぐに結論が出るはずのことが。
 理解できない。
 理解できない。
 理解したくない。
 けれど、理解してしまった。
 微笑を浮かべたキャスターが後ろへと振り返り、そのまま身体を横にずらす。
 そのローブの向こう側には闇が広がっていた。
 黒い闇。
 どこまでも黒く塗り潰された暗がりの中、ただ一つ浮かび上がるモノがある。
その輪郭は明らかに人の物。
 いや、もっと詳しく見て取れる。あれは鎖に縛められた哀れな女のカタチ。
 まるで怪物に捧げられる王女アンドロメダの様に儚いそれは――

「藤ねぇ――」

 冷たい鎖を纏わりつかせ、まるで十字架に掛けられたかのような藤ねぇだっ
た。
 食い入るようにその姿へと目を走らせる。
 その身を鎖に絡まれている以外はあの時の姿のまま、外見上何もされた様子
は無い。
 ただ、床から見上げるその顔の、虚ろに開かれた目に光が無かった。
 コロコロと彩りを変えながら、けれどいつもそこにあったその瞳の輝きのみ
が失われている。まるで生無き人形であるかのように。
 凍りつく。
 藤ねぇの瞳に、俺が映っていなかった。

「可愛いわよね、この娘。もう少し若い方が好みだけど、フフ、十分に可憐だ
わ」

 絶句する俺の目の前で、歩み寄ったキャスターが後ろから藤ねぇに手を回し
た。
 そのどこかいやらしい手先が胸の辺りに触れ、藤ねぇがかすかな喘ぐ様な吐
息を漏らす。
 カチャリ、と鎖が僅かに軋んだ。

 ―― 生きてる。

 そう思った瞬間、我に返った。
 そうだ、藤ねぇはまだ生きている。

「キャスター! 貴様っ!」

 激昂した。
 瞬時に、頭が熱くなった。
 熱くて熱くて、かえって冷たく感じられるほど。
 ギリと噛み締めた奥歯が音を立てる。
 悔しい。悔しくてたまらない。無力な自分に憤る。
 それから、ものすごく腹が立つ。
 どこかで藤ねぇはとっくに解放されて家に帰っていると思っていた甘い自分
に。
 そして、どこか別の場所でこれを予測していながら目を背け続けていた愚か
な自分に。
 そう、予測していた。
 何故なら。

「あら、そんなに予想外だったかしら? この娘を人質にする事が有効な手段
だと証明したのはあなたではなくて?」

 キャスターの言う通りだからだ。
 こいつが欲したのは桁違いの魔力出力を誇るセイバー。
 キャスターは俺の特異能力が欲しいと言ったが、それは優先順位的には数段
以上劣る。むしろセイバーのマスターである俺をセイバーに対する人質として
使うという意味合いのほうが優先的だろう。それでセイバーは従うしかない。
 だが、それにも僅かながら危ういところがある。
 俺はキャスターとは比べ物にならない実力だが魔術師だ。キャスターが他の
強大な敵(現時点で考えられるのは勢力を拡大するキャスター陣営に脅威を感
じたバーサーカーとアーチャーとランサーが手を組む、といったところか。遠
坂ならそのくらいは考えつくだろう)と戦う為に全力を投入すれば俺に対する
拘束が弱まり、肝心の所で戦力の要のセイバーに裏切られる可能性もある。
 もちろんそんな事が可能だとは思っていないが、キャスターにしてみれば保
険としてセイバーの急所である俺の、更に急所を抑えておいて損は無いのだ。
 例えそれが、俺を自分の意のままの道具に作り変えてしまうまでの、掛け捨
ての保険だとしても。
 そして、それが保険として成立してしまう事をキャスターに教えたのは、他
ならぬこの俺だ。
 藤ねぇを聖杯戦争なんてモノに巻き込んでしまったのも、藤ねぇがキャスタ
ーに利用されているのも、全ては俺の責任。
 自分の愚かさに腹が立つ。

「キャスター、藤ねぇを解放しろ」

 ギリリと、奥歯が砕け散るほど噛み締める。
 憎悪を込めてキャスターを睨み付ける。
 無論、キャスターがとりあうはずもない。

「あっははははははははっ、いいわ、その顔、すごくいい! 無駄だと知って
るくせに、そう言うしかない悲壮さが凄くいいわ!」

 それは優越感と、嘲りとが入り混じった笑い。愚か者に与えられる唯一のも
の。
 あえて甘受して治まるのを待つしかない。
 ひとしきり笑い続けた後、キャスターは表情を改めて向き直る。

「あなた、この娘がそんなに大事?」
「ああ」

 俺が藤ねぇを大事に思っている事が知れるほど、キャスターは藤ねぇを手放
さない。それは判っている。
 だが、すでにそれは手遅れだ。こうなった以上、藤ねぇに利用価値が無くな
れば藤ねぇは殺される。
 だから正直に答えた。
 キャスターは再び尋ねる。
 精神をざらつかせる笑いを込めて。

「この娘を愛してるの?」
「なっ」

 息を呑んだ。
 それは――
 ――それは、どうなんだろうか。
 家族としてはもちろん言うを待たない事だ。だがキャスターの言っているの
はそういう事ではないだろう。衛宮士郎が男として、女である藤村大河を愛し
ているのかどうか。聞かれているのはそれだ。
 言葉に詰まる。
 俺の中で藤ねぇは藤ねぇとしてあり、そんな風に意識したことはあまりなか
った。
 否、もちろん身近な年上の女性に対する憧れや好意めいたものはずっと変わ
らず持っている。何気ない仕種にドキドキした事だって数知れない。
 けれど、俺にとって藤ねぇはそれ以上に聖域に近いものがあったのだ。
 泣いて、笑って、暴れて、笑う。そんな藤ねぇを見ていると、本当にこの人
にだけは幸せになってもらいたいとずっと願っていた。
 だって、俺には幸せとかいったものは良く分からなかったから。たぶん一生
理解できないものだから。だから、もし俺の分の幸福なんてモノがあるのなら、
それは全部丸ごと藤ねぇにあげても良いと、ずっとそう思っていた。
 けれど、それがそういうモノなのかどうか。
 それは――

「答えなさい。この娘の事をどう思っているのか」

 キャスターはクスクスと笑いながら両の手でゆっくりと藤ねぇを撫で回す。
それは衛宮の家で対峙したときのように。いつでも藤ねぇを殺せるカタチなの
だが。
 けれど、その藤ねぇの身体を触る手つきのいやらしさが俺を苛立たせる。
 一秒たりとも、あいつを藤ねぇに触れさせたくなんて無いっ。

「キャスター、藤ねぇを離せっ」
「聞いているのはこっちよ。あなたがいらないって言うんなら、この娘はすぐ
に」

 殺す。
 キャスターの眼がそう言っていた。
 思い出す。目撃者だった俺を消そうとしたランサー。キャスターはランサー
以上に殺しに躊躇いを覚えることは無いだろう。
 暴れだしたい程の気持ちを無理やりに静める。答えなければならない。
 キャスターが何故そんな事を聞いたのかは知らない。でも、それだけはさせ
られない。
 無意識に食いしばっていた歯を離し、震えそうな息を整える。

「……愛とかはわからない。藤ねぇは藤ねぇだ。俺にとって、大事な人なんだ」

 自分でもよく分からない葛藤を握りつぶし、結局、押し殺した声でそう答え
ていた。
 キャスターは何が可笑しいのか楽しげな声で笑う。

「残念ね、あなたフラレちゃったわよ」

 両手を回した藤ねぇの耳元でそっと、キャスターはそう囁いていた。
 それだけを見れば二人は仲の良い友人のようにも見える。けれど藤ねぇは反
応なく、ただそこにいるだけ。その何も捉えていない虚ろな目が不安を掻き立
てた。
 そんな藤ねぇを見るのは、辛い。
 こうなったのは俺の責任だというのに、その結果を見届けねばならないのに、
俺は視線をそらしてしまっていた。
 けれど。

「あなたは衛宮士郎を愛している、と言ったのにね。片思いだったみたい」

 耳に入ったのはやはり楽しそうなキャスターのその声。
 意味を理解するのに数秒かかった。

「――な、に?」

 その台詞に思わず顔を上げていた。
 眼に映るのは、やはり藤ねぇにしな垂れかかっている様なキャスターと、虚
ろな目をした藤ねぇ。藤ねぇに意思の光は見られない。
 ……俺は何を動揺している。
 キャスターは言葉の意味を故意に歪めている。きっと藤ねぇは家族としての
愛情か、弟に向ける愛情について言ったんだ。そうでなければ、キャスターの
でっち上げに違いない。
 何故か、恐れるようにそんな否定が湧いて出た。
 そう思ったのだけれど、キャスターの囁きが耳に残って離れてくれない。
 声の残滓が俺に口を開かせる。

「なんだ、と?」
「この娘はあなたを女として愛している。そう言ったのよ」

 空白。
 精神に出来た空白。
 そして。

「ウソだっ! だって」
「姉みたいなものだから? それとも母親代わりかしら? でも嘘じゃないわ。
ただの人間が私に嘘をつける訳無いでしょ」

 何がどうなっているのか。
 叫んだ俺自体が分かっていない。
 何故否定の叫びを上げたのかも分からない。
 そんな俺の空白に、キャスターの声が容赦なく入り込む。

「この娘だって唯の女よ。そしてあなたは男。愛してしまっても不思議じゃな
いと思わなくて?」

 ただ呆然とする俺の目の前で、キャスターの指が藤ねぇの頤を滑っていく。
それは何故か女を意識させる仕種だった。
 キャスターは妖しい笑みを浮かべて続けていく。
 今度は、まるでお気に入りの人形にするように藤ねぇへと囁く。

「愛した男が他の女との逢瀬に行くのを見送らなきゃいけないって凄く切ない
わよね。ねえ、それで良いの?」
「ぁ……」

 その言葉にどんな力があったのか。
 今まで何の反応も示さなかった藤ねぇが僅かに身じろぎした。
 カチャリと、鎖が音を立てる。

「あなたは、それで、いいの?」

 囁き。
 キャスターが魔力の拘束を弛めたのか、何も映さなかった藤ねぇの瞳に薄ぼ
んやりとした光が灯る。

「藤ねぇっ」
「……し……ろう?」

 魔力に酔わされているかのようだが、確かに藤ねぇの返事はあった。
 そして、キャスターの指先に光が灯り、一閃されると藤ねぇを縛めていた鎖
がバラバラと千切れて落ちていく。
 支えを失った身体がふわりとキャスターの腕の中に納まる。
 その腕の中の藤ねぇにキャスターが囁く。

「さぁ、何も考えなくて良いわ。あなたのしたい様にしていいのよ」

 キャスターのそれ自体が魔術めいた言葉が場を支配した。
 それはキャスターの魔力の糸につながれた藤ねぇには絶対の命令として聞こ
えただろう。心は未だキャスターに囚われているのだから。
 藤ねぇのしたい様に。
 それがキャスターの命令。
 キャスターが藤ねぇから手を離してその身体が自由になる。
 藤ねぇはぼんやりと辺りを見回し、それから俺を目に止めて。

「……あは……しろう、見つけた」

 嬉しそうにそう言った。





「藤ねぇ……」

 続く言葉が出てこなかった。
 何を言えば良いというのだろう。一瞬後の事も分からないがとにかく今の無
事を喜ぶべきなのか、巻き込んでしまった事を謝るべきなのか、それともこの
境遇を悲しむべきなのか。
 いや、そうじゃない。
 俺は今のキャスターの言葉に混乱しているだけだ。きっと、そうだ。
 そんな俺の僅かな混乱の間に、藤ねぇが足を進める。
 身体が上手く動かせないのかおぼつかない足取りで俺の傍まで来た藤ねぇは、
俺の顔のすぐ脇に両の膝をつく。
 そして、未だキャスターの魔術で動けない俺の頬に、愛しげにそっと両の手
を触れさせる。俺の存在を確かめるようにゆっくりと両の手を何度も頬に這わ
せて、それから。

「士郎だ。士郎、つかまえた」

 と楽しそうに。
 まるで無邪気な童女の様な、ただ手の中にあるのが嬉しいという表情。いつ
もと同じようでいて、けれど初めてみるその表情。
 俺はその初めて見る、姉としての姿とは違う藤ねぇに呆然として。

「藤、ねぇ」

 その人の名を呼ぶことしか出来なかった。
 動揺している。それははっきりと自覚できる。
 藤ねぇはいつも姉貴分として振る舞っていて、俺もそれが当たり前になって
いて。だからそうではない藤ねぇを見た瞬間、藤ねぇが女の人なんだって当然
の事を思い出して動揺した。
 その眼で見た藤ねぇはいつもと違っていて――
 心臓が、ドクドクと鼓動する。
 添えられた手の平から、暖かい体温が伝わってくる。
 こちらをぼんやりと、でも嬉しそうに見ている藤ねぇと交わった視線が外せ
ない。
 キャスターが近くにいる事も、魔力に囚われている事も、もう助からない事
実も、全てが霞んでいくような気さえした。

「藤ねぇ、しっかりして、くれ……」

 それは半ば動揺する自分への言葉。
 辛うじて搾り出した声は掠れていて、届いたのかも分からない。
 でもそれがきっかけになったのか藤ねぇは俺の顔からそっと両手を離し、ゆ
っくりとした動作で俺の上半身を抱き起こした。
 意図が掴めずされるがままになりながら、身体を起こされる。
 一旦離れた藤ねぇの手がもう一度俺の頬に添えられて、首が藤ねぇの方へと
向けられて。
 そして、何か柔らかい物が頬に触れた。
 一瞬の混乱の後、その感触が俺に嬉しそうに頬ずりする藤ねぇだと気づいた。

「――っ」

 とっさに離れようとするが果たせない。
 藤ねぇの片手が俺の身体を抱きとめ、離してくれない。
 頬には藤ねぇの柔らかくて瑞々しい肌の感触がする。後頭部に回された手が、
ゆっくりと俺を撫でてくれている。
 そして、その身体は俺に密着していた。
 服の上からでも分かる、色々なこと。藤ねぇの暖かさ、藤ねぇの柔らかさ。
その身体が意外に細いこと。でも女性として十分に成熟していること。
 元から動けない身体で逃げることも敵わず、それを認識させられてしまう。
 俺がここに居るのを確認するようなその藤ねぇの行動は、俺にとってはすご
く心臓に悪かった。
 そして、擦り付けられる頬と頬の間から伝わる感情。それが俺から言葉を奪
う。
 そんな時間がどれほど続いたのか、頬に摺り寄せられていた藤ねぇの顔が離
れていく気配。
 それにちょっとだけホッとしたのもつかの間。
 俺のすぐ目の前に藤ねぇが居ることに気がつく。

 その距離に息を呑む。
 その表情に息を呑む。

 上目遣いに俺を覗き込むその瞳が潤んでいる。まるでようやく探し人を見つ
けた迷子のように。
 張っていた気が緩み、泣き出す直前の様な瞳に俺が映っている。
 その輝きは未だ鈍いというのに、その感情だけは操られた物では無いと訴え
かけていた。
 それだけじゃない。
 藤ねぇの唇が艶めかしい。
 濡れたように光るそれが、僅かに開く様に心臓が止まる。
 そして、それがほとんど無い距離を詰めてくるのが止まった心臓すら跳ね上
げた。
 やばい。それは、だめだ。

「だめだっ! 藤ねぇ、離れっ、っ!?」

 制止の声は、途中で止められた。
 藤ねぇの唇が重ねられる事によって。

「――ッ」
「ン――」

 息が、止まる。思考も止まった。
 俺の中では時間すら止まっていた。
 全てが真っ白になって消え去った様な意識の中で、見えるのは藤ねぇの閉じ
られた目と間近で震える睫毛だけ。ただ、顔に添えられた両手の温もりと唇に
触れる感触だけが強く感じられた。
 それは愛しさに満ちた行為。
 そして俺の思考を焼ききる行為。
 何も考えられなくなる。
 何も言えなくなる。
 決して軽くはないキス。その唇が離されても、そっと腕を背中に回されて抱
きしめられても、それを拒めない。
 俺はただ抱きしめられながら、藤ねぇの柔らかさと暖かさに包まれるだけ。

「ん、士郎、好き……」
「藤ねぇ――」

 その響きには、否定の意思の欠片も込められなかった。
 思い知ったから。知ってしまったから。
 藤ねぇが押し殺していたのだろう想いを。
 そして、俺が気づいていなかった俺の想いを。
 お互いに、こんな事にでもならなければ封印したまま過ぎていたであろう、
ソレに。
 俺の顔のすぐ横に、藤ねぇの顔がある。回された手が、ぴったりと寄せられ
た身体が、その暖かさを伝えてくる。
 まるで、寂しかったんだという様に。二度と離さないというかの様に。
 動かない身体で抱きしめ返すことも敵わず、ただ藤ねぇに抱かれている。
 それは俺に女の身体を意識させながら、焦らせるでなく駆り立てるでなく、
不思議と満ち足りた感覚だった。
 けれど。


「それでおしまい?」


 その声で、心が凍った。

「それじゃあ、その子は腕の中から逃げ出してしまうかもしれないわよ?」
「キャス、ター」

 俺ではなく、藤ねぇに向けられた言葉。
 藤ねぇの腕がわずかに震え、俺を抱く手にギュッと力が込められる。

「これまでだって、その子はずっと他の娘の方ばかり見ていたのではなくて?
 あなたがどんなに切ない思いで待っていても。そう、例えば……」

 どこまでも楽しげで、まるで誘う蛇のような囁き。
 聞くものには甘く聞こえ、その実、堕つる事を願う声。
 その先に、破滅しかない事を予感させる不吉な甘い声。
 予感に突き動かされて声を上げる。

「やめろ……」
「セイバーであるとか……遠坂凛であるとか。覚えがないかしら?」

 でもその声は届かない。
 キャスターが煽る。
 藤ねぇの中にあった、ほんの小さなモノを煽り立てる。
 藤ねぇは動かない。でも、その手には力が込められたままだ。離したくない
と。渡したくない、と。
 分かってしまう。藤ねぇの不安が膨れるのが分かってしまう。
 あきらめていた筈の物を手にしてしまい、そして、もう一度手放すくらいな
ら。
 心を覆って行くのが分かってしまう。
 初めて、動けないこの身体を呪わしく思う。
 せめて抱きしめ返す事が出来たなら、と。

「いつか、その子もあなたを捨てていなくなる。それが嫌なら……」
「やめろキャスター!」

 キャスターは取り合わない。
 俺の制止など、聞こえてもいない様に振舞い、そして、言った。
 どこまでも楽しそうに。そして、囁くように。


「繋ぎ止めておけばいい。溺れさせてしまえばいい。決定的にあなたのモノに
してしまえば、いいのではなくて?」


 それを最後に静寂が降りる。俺も藤ねぇもキャスターも口を開かない。
 けれどその意味する所はバラバラだ。沈黙に何故だか冷たい汗が滲んでいる
ような気がした。
 そのまま、かなりの時間が過ぎたように思う。でも、本当はほんの数秒だっ
たのかもしれない。
 けれど。
 それも藤ねぇが俺の背に回した腕を解いた事で終わりを告げた。

「―― 藤、ねぇ?」

 辛うじてかけた声は、震えている。
 けれど、藤ねぇは無言。予感に、震えが酷くなっていく。
 そっと俺の身体を元のとおりに横たえた藤ねぇは、答えずにそのまま立って
後ろ向きに数歩下がっていく。
 俯けられた顔は隠れてよく見えない。けれど纏った雰囲気が妙に固く思えた。
 声が、出せない。何かを言わなくてはならないのに、その言葉が大事な何か
を壊してしまう気がして。
 そして、馬鹿な俺が躊躇ったその時に藤ねぇの手がギュッと握られて。
 次の瞬間には背中に回された手が、シュルリと服のリボンを解いていた。肩
紐がずらされて緑のジャンパースカートがハラリと床に落ちる。
 その意味するところに息を呑む。息が止まる。
 そして。

「だ――――」

 めだ藤ねぇ、という制止の声は出なかった。
 声帯が意のままにならない。横隔膜が意のままにならない。声が、出せない。
 そこに確かにあるのに、他人の物みたいに動かせない。
 そう、動かせないのだ。身体の他の部分と同じように。
 これは……っ、キャスター!
 制限された視界の端に、紫のローブの裾だけが映っていた。
 激昂の声を上げることも敵わず、睨み付ける事すら出来ない。けれどそうさ
せたキャスターに俺の感情など分からないはずがない。

「ダメよ。女の子がせっかく覚悟を決めてるのに。ちゃんと受け止めてあげな
さいな」

 愉悦に満ちたキャスターの声に、奥歯が砕けるほど噛み締める。
 藤ねぇは明らかに正気じゃない。キャスターに心を操られている。それを、
ただ、見ているしかないというのかっ!
 憤る。
 心が真っ赤に染まる。
 精神世界を狂おしく紅蓮が吹き荒れ、何もかもを削っていく。
 ――だというのに。

「ほら、ちゃんと彼女を見てあげなさい」

 それがキャスターの魔力によるものなのか、それとも俺の意思によるものな
のか。
 藤ねぇから眼を離すことが出来なかった。
 スカートを落とした藤ねぇの引き締まったその両脚が露わになっている。
 上着をも脱ぎ捨てているので、その身体には下着しか身にまとっていない藤
ねぇがいる。
 その俯いたままの顔が赤くなっているのが俺にも判った。
 見るべきではない、とは思った。
 けれど眼が離せない。離せるはずが無い。
 その今まで意識してこなかった、否、あえて意識しないようにしていた藤ね
ぇの肢体に眼が離せない。
 猫科の野生動物のようにしなやかな四肢、無駄な肉の無いスレンダーな肢体、
弾力に満ちた滑らかな肌。
 そして、そこに立っているのが藤ねぇであるという事実が俺の視線を外させ
なかった。
 そして金縛りの様に凝視する俺の前で、藤ねぇがその胸を覆うブラに手をか
ける。
 口を少しだけ開きかけて、再び閉じる。どうせ何も言わせてはもらえないが、
そもそも何を言うつもりだったのか自分でも分からなかった。
 内側からこぼれる様に、ブラジャーに納められていた藤ねぇの胸が露わにな
る。その形の良い膨らみの先端に、薄い桜色が僅かに見えた。
 自分の顔が見る見る赤くなっていくのが自分でも分かる。さっき密着したと
きの感触を思い出す。あれは服の上からだったけど……。
 もし自由な身であれば、何か喚きながら走り去っていたかもしれないくらい
刺激が強かった。
 露わになった胸をその手で隠すように押さえる藤ねぇ。
 俯いたまま、それでもちらりと上目遣いにこちらを伺っているその顔が薄く
赤い。何より藤ねぇ自体が恥らっていて、それでも踏みとどまっているその風
情が致命的だ。
 けれどそれもつかの間。
 拳を握った藤ねぇは胸を覆っていた腕を降ろし、その手を腰に張り付いてい
たショーツに掛けた。
 何かを堪える様に唇を噛みながら、藤ねぇがその手で自らのショーツを下ろ
していく。

「――――」

 俺は真っ白になった様な頭でそれをただ呆然と見つめていた。
 目の前に、何も纏っていない藤ねぇがいる。
 胸の膨らみも、秘すべき淡い翳りも、全てを外気に晒して消えてしまいそう
なその姿。
 この十年間ずっと姉の様に思い、慕ってきた藤ねぇ。
 その人の、女としての姿が今、目の前にある。
 その裸身が俺の理性を焼いていく。
 俺の全てを奪っていく。
 藤ねぇで染め上げていく。

「士郎……」

 藤ねぇの声に僅かに視線を上げると、やはり酔ったような輝きの目と視線が
絡む。
 けれどその表情が先ほどとは違う。頼りなげで泣きそうな顔の藤ねぇ。

 ―― ああ、そうか。

 なんとなく判る。
 藤ねぇがどのくらいキャスターに思考を奪われているのかは知らない。
 でも藤ねぇが不安がっているのは判る。心細くもあるんだろうけれどそれだ
けじゃない。
 原因は俺だ。
 俺に受け入れてもらえるかどうか、拒まれるんじゃないかと怖がっている。
 藤ねぇと暮らしてきた時間は俺と藤ねぇの間に色々な想いをもたらしてきた
けれど、同時に姉と弟というスタンスも作り上げていた。それは強固な境界線
となって藤ねぇを縛るのだ。そして、拒絶される自分を思い描かせる。
 ――口惜しい。
 そこまで追い詰めたこの身が恨めしい。
 動けもせず、言葉も掛けられない壊れた人形のようなこの身体が口惜しい。
 何を言うべきかが判らないが、今は何かを言わなければならないのにっ――

「あら、応えてあげないの?」

 キャスターの声。
 俺の自由を奪った張本人が、そう問いかける。
 奥歯を噛み砕く自由も、血が出るほど拳を握る自由も、ただそれだけのもの
すら俺には無い。
 ましてや、藤ねぇを抱きとめる事など。
 そうした上で、この女は。

「ですって。その程度じゃダメみたいよ?」

 キャスターを殺したい。
 呪えるのなら、呪い殺してやりたかった。
 視界の隅に映るローブを睨み付ける。
 が、その反対から俺の身体に影が落ちた。

 ―― 藤ねぇ?

 そう思い当たって視線を戻そうと――

 ―― ペチャリ
 うっ?

 何か暖かくて濡れた物が頬に触れた。
 思わず目を見開く。
 そこで見えた物は間近にある藤ねぇの顔。

「あは」

 目が合うと藤ねぇは涙を滲ませながら、泣きそうな顔で微笑んで。
 それからその綺麗な裸身で俺の上に覆いかぶさってくる。
 俺の両横に両手と両の膝を突き、俺の視界を藤ねぇだけで埋めていく。
 それから目を閉じて顔を近づける。
 ギョッとする俺の前でゆっくりとその唇が開き……

 ―― ペチャリ

 その隙間から伸ばされた赤い舌が俺の頬を舐めていた。
 驚きに呆然とする。

「な――」

 それから慌てて身を離そうとするが、壊れた人形の様なこの身体は動かせや
しない。
 けれど藤ねぇはそれを感じ取ったのか俺の顔を片手で抑え、それから改めて
舌を伸ばす。
 まるで仔犬がするように、藤ねぇの舌が俺の頬を舐め続ける。それは、俺を
繋ぎ止めようとする必死の行為なのだろう。
 藤ねぇはいつか俺が離れて行く事に、いつも怯えていたのかもしれない。
 だから、キャスターに精神の隙を突かれて支配された。
 ピチャリ。
 ピチャリ。
 ピチャリ。
 泣き笑いのような顔で、一心不乱に舐め続ける。
 藤ねぇの舌が俺の頬を伝う。
 その感触はくすぐったい。
 けれど、それ以上に艶めかしかった。
 頬を這う藤ねぇの濡れた舌の感触が。そして突き出された舌が動くその光景
が。
 何よりも、潤んだその表情と藤ねぇ自体が。
 潤んでいた藤ねぇの目から、とうとうツウと涙が一筋溢れ出た。
 それに応じるように、俺の中に激しい感情が溢れ出る。俺の中でいつしか大
きくなっていたモノ。
 戸惑う。
 それは俺が藤ねぇの弟分であるのならば認めてはいけない衝動だ。
 この十年間ずっとそうであったように。
 けれど。
 もしそれを、その関係を振り捨ててでも藤ねぇが欲しいと思うのなら。
 ―― もし、じゃないな。
 心の中で苦笑する。
 俺は何を求めて理想をかなぐり捨てたのか。
 何度、この手で抱きしめたいと思ったのか。
 何故それができない身体がもどかしいのか。

 ―― 俺が、とっくの昔に藤ねぇに心を奪われていたからじゃないか。

 認める。
 俺は藤ねぇが好きだ。
 他の誰より大好きだ。
 狂おしい程に愛している。
 だから。

 藤ねぇ

 と、声にならぬ言葉で呼びかけた。
 届かない事を、伝えられない事を承知で。

 愛してる。

 と。
 俺と藤ねぇの視線が至近距離で絡みあい、もつれ合う。
 俺の目には藤ねぇだけが、藤ねぇの瞳には俺だけが映っている。
 そっと唇が触れ合った。
 なのに。

 なんで、伝えられないのだろう。
 ただそれだけの事が。



                                                     つづく

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