〜第一章 『その背中を見つめて』〜 第五節
わたしは、何者かにつけられていた。 面白い。こうなったら、わたしが犯人を捕まえてあげようじゃない。 わたしとて女の子、内心この手のドキドキは苦手なのだが、負けん気でそれを 押さえ込む。 意思一つ決めれば、もう不安や緊張を感じなくなっていた。 誘拐犯だろうと、変質者だろうと、例え偏執と偏食なんかのオマケがついた魔 術師であったとしても、最近の女子高校生が一筋縄ではいかないことをその身で もって後悔させてあげようではないか。 ――――戦力を確認する。 五元素を封した魔石が、ポケットにワンセット。わたしの持っている宝石の中 では、Bランクに相当する魔力が充填されている目下育成中の可愛い子達。 わたし自身の魔力も充分。士郎相手に鍛えたガンド撃ちも冴えている。今宵の 魔術刻印は、血に飢えていなくもない。 言峰直伝のエセ中国拳法も錆つかせていない。これまた士郎相手に鍛えてクン フーもバッチリ。呼気を整え全身に気を巡らせて、即座に動けるように暖気する。 ただの誘拐犯や変質者なら、オーバーキルしてしまいそうな戦力。 けれど、魔術師相手となると不確定要素が多すぎて心許ないところ。 虎の子Aランク相当の魔力を封した魔石が手元にないのは悔やまれるところだけ ど、学校には勉強に行くのであって魔術戦をする必要がないから仕方がない。 いざとなったら、わたしの切り札であるセイバーを呼んで到着するくらいの時 間は稼げると踏んでいる。 次に、想像できるうる相手と状況を想定する。 そして、実際の戦闘状態になった時の作戦を組み立て、体を動かすイメージを構 築していく。 わたしを追う靴音は、仕掛けてくるのか次第に速度を上げて間合いを詰めてく る。 後は、タイミング。 気配と靴音から距離を見計らい、わたしの間合いに入るのをぐっと堪える。 ……でも、ヘンだ。 この靴音からすると、パタパタと軽やかで、まるで女の子のようで、……わた しと同じ靴音? それに、どこかで聞いたような靴音のような気がして――。 「――遠坂先輩?」 その声に振り返る。聞き間違いようのないその声は、ほぼ毎日聞いている。 「――さ、桜?」 視界が利かない暗闇の中、街灯というスポットライトの中に入ってきたのは桜 だった。 夜の帳の中、薄ぼんやりとした明かりに浮かび上がる桜は、綺麗だった。 髪は濡れたようにしっとりとしていて、女性らしい柔らかな体つきはその明か りの陰影で強調され、湛える微笑は艶やか。 ――――その様は、女であるわたしでさえぞっとするほどに妖艶。 それが、何よりナニか善(よ)くないモノに感じられて――。 「――!」 桜が息を飲んで後退る。 わたしは慌てて、鳩尾と顎を破壊粉砕しようとしていた肘から拳に繋げる連携 技のイメージを頭から消し、放てばアスファルトに大穴を穿ちかねない風の魔石 トパーズを引っ込める。 「な、何だ、桜だったの? 驚かせないでよ」 「ご、ごめんなさい」 桜は申し訳なさそうに謝ってくる。 そこには、さっき感じた得体の知れないナニかは感じられない。 おろおろとして上目遣いにわたしをうかがう桜は、いじらしくて心和ませるい つもの桜だ。 「別に驚かせるつもりはなかったんです。暗かったので、ねえ……遠坂先輩か、 少し自信なくて……」 ああ、と納得する。 基本的に人見知りする桜は、人違いを警戒してなかなか声をかけ辛かったワケ か……。内気な桜は、さぞ葛藤した時間だったに違いない。 ……どうかしている。 桜にヘンな感覚を抱き、あまつさえわたしは、桜と悟りながら殺気を見せてし まったことが本当にどうかしている。 神父のところで物騒な話を聞いていたし、夜ということもあって、心理作用で 嫌な感覚に捉われてしまったみたいだ。 「ああ、いいのよ。勝手に勘違いしてたの、わたしなんだし。謝らないといけな いのは、こっちだわ」 危うく病院送りにしようとしました、とはさすがに言えない。 「ごめん、桜」 「すいません、遠坂先輩」 「本当にごめんね」 「こちらこそ、本当にすいません」 お互い謝り合っていて、はたと気づいた。 「……何やってるんだろ、わたし達?」 「……ええと、何でしょうね?」 可笑しくなった。 それは、桜も同じだったらしく吹き出していた。 こんな寒空の下、勘違いと些細なことで謝り合って譲らないのは、酷く滑稽な ことだ。 「帰ろっか」 「はい」 誘うと桜は隣に並んで、わたしといっしょに歩き出す。 「ど、どうされたんですか?」 少し嬉しくて、それが顔に出てしまったらしい。 「あー、うん。桜とこうして二人きりで帰るの、初めてだなぁ……と思って」 「……そう言えば、そうですね」 桜は赤くなり、それを見たわたしも恥ずかしくなってしまった。 情けない。言った本人が照れてどうするんだろう。 「ああっ! ちょっと桜、今笑ったでしょ!?」 「先輩、可愛いですね」 桜は、くすりと笑う。 「……ショック。桜にまで、からかわれた」 近頃、わたしはみんなにからかわれることが多くなった。 絶対、士郎のせいだ。 周囲を気にしない嬉し恥ずかしい言動をしやがってくれちゃってるから、みん ながわたしを格好の餌食にしようとする。 からかうのは好きだけど、からかわれるのは好きじゃない。 最期の砦である桜にまで、その牙城を崩されたショックは大きかった。 「せ、先輩、そこまで落ち込むんですか?」 「信じてたのに、桜。そんな子じゃないと思ってたのに、あぁ!」 やや芝居がかって呻いてよろめく、わたし。 「ご、ごめんなさい! あの、調子に乗ってしまって……。最近の先輩は、何だ か話しやすいというか、とっつきやすいというか……」 必死にフォローしてくる桜は、面白かった。 「ふーん。そう感じてくれるのなら、わたしも嬉しいかな」 「……先輩?」 突然復帰したわたしに、目を丸くする桜。 やがて、からかわれたことに気がついたのか、桜は呆れながらも穏やかに微笑 する。 「……おあいこですね」 「そうね」 わたし達は、お互い笑いあう。 ――――寒い夜道が、少しだけ温かく感じられた。 道中、桜とこんな時間に出会ったことが気になった。 「……桜、帰り遅くない?」 「はい、部活で遅くなっちゃいまして」 肯定する桜は、わたしと同じく制服姿。 「遠坂先輩の方は、お菓子屋さんに寄られてたんですか?」 桜が少し羨ましそうに、わたしの持つケーキの箱を見つめる。 「まぁね」 本当は教会に寄ってきたんだけど、似たようなものだったので肯定しておく。 桜はしげしげと観察し、はっ、とわたしに憧憬の眼差しを向ける。 「“ヘンゼルとグレーテル”、ですか? ……ゆ、勇気ありますね」 「……ま、まぁね」 その反応は、何だろうか桜。 そんな戦地から帰ってきた兵士を迎えるような目はしないで欲しい。 ――――“ヘンゼルとグレーテル”。 それは、とある兵(ツワモノ)どもの夢の跡に爆誕した洋菓子店の真名。 その兵さんは、たった一人のお得意様を失ったために経営が立ち行かなくなっ たとわたしは確信している。ここにも、別の意味の聖杯戦争の被害者がいる……。 それはさて置き、このお店、すでに甘党神父が常連となっているようだけれど、 フランス出身のパテシィエによる本格スイートが楽しめるという触れ込みで絶賛 営業中らしい。 ――――別名、“お菓子の家”。 その別名だけで、どういう店かわかろうというものだ。 だいたい店のネーミングからして、アレだ。きっと、店主はお客を幸せ太りさ せる気に違いない。 士郎曰く、魔境だという。まるで、甘い蜜の匂いのする結界、と。 ……何か聞くだけで理性が溶かされそう。 わたしは、まだ行ったことはない。……理由は、怖いから。 行ったら最期、その日の晩の体重計には乗れないという偉大なる蒔寺女史の恐 怖の体験談がある。 この反応からすると、桜もその体験者のようだ。いや、被害者……かな? 「セイバーに頼まれたのよ」 「ああ、なるほど」 「……」 わたしはささやかな名誉を護るために、とっさに嘘をついてしまった。 嘘をついたわたしが悪いのは認めるけれど、桜に一言で納得させてしまうよう な言動をしているセイバーも悪いんだからと思いつつも、江戸前屋のどら焼きで 赦して欲しい。ごめん、セイバー。 とにかく、この方向性の会話は危険と判断して、ふと目にしたものに話題をす りかえる。 「……桜は、商店街に寄ってきたの? 買出しなら、士郎が今日行ってきたのに」 桜の手には食材が入った買い物袋が提げられていた。 どうでもいいことだけど、桜はお店でくれるビニール袋じゃなくてマイ買い物 袋をきっちり利用している。さすがは桜。地球に優しい主婦の鑑と言うべきか。 ちなみに、あの買い物袋は士郎のお手製で、桜のお気に入り。 桜の名前に合わせて、桜の花びらが舞い散る様子の刺繍が施されたピンク色の 買い物袋の出来映えは、春を思わせて見事と言う他に言葉がみつからない。 むしろ、士郎が主夫の鑑と言うべきか、悩む。 いやそれにしたって、その家事能力の高さは何なんだろうか、士郎。セイバー と藤村先生が喜ぶだけで、実質誰が困るというわけじゃないんだけど……。 桜がそれに危機感を覚えて血道を上げるのも無理はない。 無論、わたしは助かっている。 ……人間は得手による分業で発達してきたんだから、それでいいんだと思う。 「これですか? 今日は、兄さんと食事しようと思って」 桜は、えへへと笑って買い物袋を示す。 入っている食材は盛りだくさんで、なにやらメニューは鍋っぽいセレクション である。寒いので、丁度いいかもしれない。 慎二の退院後、桜は彼と夕飯を共にすることが多くなっていた。 士郎や桜は、慎二を食事に誘っているけど、その当人は照れちゃって来ないら しい。それで必然的に、桜が意地っ張りな兄のために手料理を振舞うことになる。 当初は、罰当たりにも桜の用意した料理に手をつけなかったという慎二も、忍 耐強く接している内に頑なな態度を軟化させて食事を摂るようになった、と桜は 嬉しそうに話す。 近い内に、衛宮邸に新たに食客が一人増える可能性が高い。 それは、いいことだと思う。 桜が、当たり前に間桐の家で兄妹の関係になっていくことは本当に喜ばしいこ と。 ――――少し、胸がチクリとした。 「……そっか、今日は寄ってかないんだ」 「はい。藤村先生に伝言を頼んでおきましたから、衛宮先輩はもう知っていると 思いますけど」 「……そう」 少し、冷たい声になってしまったことを自覚する。 たかだか、兄と妹で夕食するだけで、羨ましいやら、盗られてしまったような、 そんな未練がましい気持ちになる。 でも、その気持ちを告げる必要はないし、表情に出すこともしない。 第一、桜にしても迷惑に思うだろう。 今更わたしが桜に言っていい言葉じゃないし、そんな資格はわたしにはない。 ――――父が亡くなる一年ぐらい前、わたしは妹を失った。 失ったと言っても実際には妹は死んでなんかいなくて、元気にやっている。 妹は養子に出された。その時に、わたしは見送ることしかできなくて、妹を失 った――。 ある日唐突に妹が家を出て行くと父から聞かされ、出て行く日はもっと突然の ことだった。 冗談と思っていたら本当のことで、容赦なくその当日になったことを覚えてい る。 わたし達姉妹に、別れを惜しむ時間なんて……なかった。 父と妹は、荷物も少なく玄関に立っていた。 生活に必要なものは先方で全て手配するとのことで、持つものはわずかな着替 えが入った鞄一つ。それを父が持ち、妹は何も持たされていてはいない。 それが、スッパリと遠坂家との関係――思い出も断ち切るためのようだった。 目の前には、不安で不安でしょうがなくて、そんなんで本当に大丈夫かと心配 になるぐらいにオロオロしているクセに、それにじっと耐えようと俯いている妹。 妹は、大人しくて優しいおっとりとした子。 あの頃は、顔見知りしてわたしの後をずっとついて回る甘えん坊だったけど、健 気に泣くまいと我慢強いところもあった。 「……桜」 そんなんだから、元気づけようと思っただけ。 わたしの妹――桜は、この髪留めを欲しがっていた。 今なら、大人気なかったと我が事ながら恥ずかしくて、笑ってしまう。 あの頃のわたしは、子供心にお気に入りのリボンをあげたくなくて、ねだった桜 を泣かしてしまったことがある。 この頃、桜の髪はわたしと同じように黒かったし、艶やかで柔らかく、撫でる とその手触りが気持ち良かった。 きっと、桜によく似合うと思った。 心の中で、お気に入りのリボンに別れを告げて、ささやかな願いを込める。 結わっていたわたしの自慢の髪の一房は、するすると音を立てて広がった。 「はい! これ、あげる。欲しがったんでしょ」 わたしは、桜にリボンを握らせる。 一本しかあげなかったのは、どこかで繋がりを持っていたかったから。 「……おねえちゃん」 思えば、そう呼ばれたのはそれで最期。 桜は涙で滲みかけた目で、とってもびっくりした顔をしていた。 「桜、間桐家の方が待っている」 「……はい」 ぽん、と父が桜の頭に手を置いて出かけるように促した。 お別れの言葉は、さっきので終わり。 「元気でね」、なんて言えるワケがない。 家を出て行かなくてはならなくなった妹に掛ける言葉なんて、あるはずがない。 ――――その時、わたしは何を考えていたんだろう? 卑怯にも、わたしでなくて良かった、と安堵していただろうか。 醜くも、わたしは父に選ばれた、と喜んでいただろうか。 偽善にも、わたしは桜に同情して、悲しんでいたのだろうか。 その時の記憶は、わたしの中で棘となっている。 何を考えていたのか、よく覚えていないのは、多分……そういうコトだと思う。 人間、自分の汚い部分からは目を背けたくなるものだ。これは、直視したくな いわたしのエゴである闇の部分――。 桜は父に連れられて、玄関を出て行った。 ドアが閉まるその瞬間まで、桜はわたしの方を振り返っていた。 ……やめて、欲しい。 そんな目で見られたって、わたしには何もできないのに。 ――――それは、嘘。 わたしが妹の代わりに行くと言えば、桜はこの家に居られるんだから、桜のこ とを思っているならそうするべきだったのに。 わたしは、ただ我が身可愛さに、文句一つ言わず黙ってすがるような目でわた しを見つめる桜を、見捨てたんだ! ……バタン。 わたしの目の前で閉まったドアは、わたしの大切な何かを断ち切ってしまった。 正体不明の衝動に、自然と胸が詰った。 それが、わたしが初めて寂しいと思った初めてのこと。 ……わたしには、母の記憶がない。 だからって、寂しいと感じたことはない。その母がいないのが普通で、その母 を思って寂しいとは感じることはなかった。 でも、桜は別。わたしの中で、いるのが当たり前になっていた妹。 それがずっと失われると、閉じたドアで本当に実感できたんだと思う。 わたしは、靴も履かないで玄関を飛び出す。 逡巡は、短時間だったみたいで父と桜はまだ家の庭にいた。 「ま、待って!」 まだ間に合うと信じて、わたしは叫ぶ。 「凛、家にいなさい」 追いかけようとした時、父の制止の言葉が突き刺さる。 父の言葉は、絶対だった。 冷たい父の言葉は、わたしの体を、びくん、と止めさせた。 ――――わたしは、何もできなかった。 二人は家を出て、長い坂を下りていく。 わたしは、ふらふらと歩いて家の門にすがりつく。力が入らなくて、立ってな んかいられなった。 父は好きだったけど、あの時は本気でダイッキライと思った。 でも、今は少しだけ大人になって、あの時のことをいろいろ考えることができ るようになった。 正直、父が何を考え、わたしを遠坂家に残したのかわからない。 わたしの資質が遠坂家を継がせるのに相応しいと見たのか、わたしでは他所の 家に行くには無理だと見たのか、父以外に答えを知らない。 案外、父は母の面影を見るのが辛い人間だったのかもしれない。 母を知る手がかりとなる写真や記録なんかは、父が処分して一切残っていなか った。 嫌いだったとか、必要ないからという理由じゃなくて、父は好きだった母の思 い出を見るのが辛かったからという理由であって欲しいと、これは娘としてのさ さやかな願い。 証明できないけれど、わたしは一応父親似だから、桜は母親似なんだと思う。 不器用な人ではあったけど、男手一つで育ててくれた父が情愛の薄い人だった とは思えない。そんな人だから、母に似ている桜を遠ざける愛し方しかできなか ったのかもしれない。 これは、いささか父をロマンチストに考えすぎだろうか。 その父がいないから、本当のところは闇の中。 でも、わたしと桜の間には、そんなことは関係ない。父の思惑がどうであれ、 わたしが妹を失ったことは変えようのない事実なのだし。 桜の姿が見えなくなった後、わたしは自分のベッドで大泣きした。これでもか ってぐらいに大泣きした。 その時に、何十年分ぐらいまとめて泣いたせいだろう。士郎に泣かされるまで、 わたしは泣いたことがない。父が亡くなった時も、堪えることができたのに。 ……士郎が悪い。 わたしを泣かせたから、泣き方を思い出してしまった。それといっしょにわた しの中で眠っていた何かを、たくさん起されてしまった。 ――――桜は、何度も何度も振り返る。 わたしの記憶には、坂を下りていく桜が振り返る姿が焼きついている。 ああ、そうだ。 あの時、何もできず何もしなかったわたしは、姉と名乗る資格と、妹を失った んだ――。 「……遠坂先輩?」 感慨に耽っていた。 桜に呼ばれて我に返るけれど、甦った感情はすぐには消えてくれない。 不思議そうに見つめてくる桜の顔を見ていると、不覚にも込上げてくるものが あった。 感情を制御することなんて、わたしにとって簡単。 簡単なんだから、早々にこの悶々とした気持ちを切り替えて、桜がわたしを先 輩と呼ぶように、わたしは先輩としての立場に戻らなくっちゃいけない。 「じゃ、行きますね」 その気持ちの切り替えが済まない間に、桜に別れの言葉を告げられた。 「……もう交差点なんだ」 いつしかわたし達は、交差点に着いていた。 桜の行き先は、間桐の家がある丘の方。 わたしの行き先は、士郎の家の方。 ――――なら、わたし達はここで別れることになる。 「おやすみなさい、遠坂先輩」 わたしの隣から去っていく、桜。 ただ、それだけで心が冷えていくように感じられてしまう。 「送ってくわ、桜」 気づけば、わたしは桜の後を追っていた。 わたしは心中で、理由を探す。 これは、桜が心配なだけ。決して、わたしが妹との絆を戻そうとするのではな いのだ、と。 だって、桜はすっかり大人びて色香を漂わし、あまつさえ、いじらしく買い物 袋を提げた女子高生。 ……蒔寺から聞いた、オトナの世界。 その世界にも、属性というモノがあるらしい。 ちなみに、わたしは“五大元素”(アベレージワン)だったりする。……関係 ないか。 とにかく、“メイド”とか、“眼鏡”とか、“年上”とか、“ねこ”とか色々 あるそうで、その属性の前では“起源”のように逆らい難い衝動が湧き上がって しまうのよっ! ……と、蒔寺の話を聞いて要約するとこんな感じ。 それによるなら桜は、いろいろコアに属性を兼備えているとわたしは見ている。 わたしにはよくわからない衝動だけれど、きっとその筋には、ぐぐっとクルも のがあるに違いない。 だから、桜をそんな危険に満ちた夜道を歩かせるわけにはいかない。わたし的 に、とっても心配になってしまうのだ! 「いえ、そんなの悪いです」 「却下」 当然のように遠慮する桜に、わたしは即答する。 「自覚なさい! あなたは美人で、可愛いんだから、夜道の一人歩きは危ないの よっ!」 まだ何かを言いかける桜に、わたしは眼前に人差し指を突きつけて強行突破す る。 「えと……でも、それだと遠坂先輩のお帰りが遅くなって危ないというか」 「平気よ。桜と違ってわたしは狙われることもないし、ヘンなの出ても返り討つ 自信あるもの」 拳をわきわきさせながら、「来るなら、来いってもんよ」と、それに応える。 「……先輩、苦労しますね」 「は? 何でわたしが苦労するの?」 「いえ、衛宮先輩の方が、です。むしろ、遠坂先輩の方が自覚した方がいいと思 います」 桜はなぜか溜息をつく。 ……わからない。 どうしてわたしが自覚をしなくてはならなくて、士郎が苦労しなくちゃいけな いんだろう。 それは、逆のような気がするんだけど? 「……もういいです。何だか馬鹿らしくなってきちゃいましたし」 「諦めた? じゃ、行きましょ♪」 わたしは桜を追い越し、手招きする。 桜はそんなわたしを見て一度大きく溜息をつくと、にっこりと笑った。 「それじゃ、お言葉に甘えますね、遠坂先輩」 わたしと桜の家があるこの丘の坂は、なだらかながらも長い。 自転車で下るとそれはそれは気持良いのだけれど、帰りは大変。そんなわけで、 わたしは自転車を使わない。歩くのは健康にいいんだし。あはは、……閑話休題。 ……考えてみれば、わたしと桜の間で会話を成立させるのは難しかったりする。 桜は、士郎以上に無口。 それに、桜自身わたしに遠慮している節があるし、わたしも桜相手だと臆病に なってしまう。 「桜、部活がんばるのもいいけどね。でも、こんなに遅くなるんだったら、誰か といっしょでないと駄目よ」 そんなんだから、情けないことに思いついた話題と言えばコレだった。 例えうるさいと思われても、一応は釘をさしておかないといけない、と思った のは本音でもある。 「大丈夫ですよ、遠坂先輩。わたしなら」 やっぱり、桜は自覚が足りていなかった。 「……本当に近頃物騒なのよ。気をつけてよね、お願いだから」 近頃物騒な世の中になっているのは間違いないのだし、あの神父の話もある。 これは、冗談では済まされないからどうしても真剣になってしまう。 「……え?」 桜は、本当に酷く驚いた顔をして俯いてしまった。 「さ、桜?」 わたしは、内心パニックになっていた。桜は、今にも泣きそうな雰囲気で、ど うして泣きそうなのかぜんぜんわかんなくて――。 「――はい、わかりました。気をつけますね。それと、遠坂先輩。心配していた だいて、ありがとうございます」 顔を上げた桜は、なぜそうも嬉しそうなのか……。 「と、ととと当然よ。後輩の心配をするのは、先輩として当然なんだから!」 「ねぇ……遠坂先輩」 何だか照れ臭くて、こそばゆい空気になってしまった。 こういう雰囲気は、駄目。 不意打ちだし、唐突だし、よくわかんないし、厳禁なのだ。 この時ばかりは寒いことに感謝する。急激に上がった体温を、寒い風が冷やし てくれて気持ちがいい。 「こ、今後は気をつけなさい。何なら、士郎を呼び出せば……」 士郎を呼び出せばいい、とは続けられなかった。 この雰囲気をごまかしたくて、何気なく口から出てしまった言葉は取り返しが つかなかった。 柔和な表情をしていた桜の顔が一変して、みるみる曇っていくのを目の当たり にしては、余計に言い辛い。 わたしは、大馬鹿だ。……今のは、致命的に失言だった。 士郎のおバカは察していなかっただろうが、傍から見ていれば桜が誰にどれだ け思いを寄せていたかは、毎日のように衛宮邸を訪れて家事なんかを手伝ってき た事実があれば充分。 「……先輩は忙しいですから。それに、先輩は……遠坂先輩の……」 桜は口にすることも辛いのか、言葉の最後の方は濁ってしまっていた。 このことでも、わたしは桜に負い目がある。 結果として、わたしは桜の気持ちを察していながら、それを踏みにじってしま ったのだから。 桜は桜で、わたしにその気持ちを知られていることを知った上で、身を引いて くれている。 でも、桜自身が感情をごまかしきれていないから、こうして二人きりの時気ま ずい雰囲気になる。 「……それに、先輩は誰かの“物”なんかじゃありません。遠坂先輩に、そんな ことを言う権利はないはずです」 桜は、強い目でわたしを見つめる。 それは桜自身の怒りじゃなくて、士郎のために怒っている。 「……そうね、失言だったわ。衛宮くんの行動は、衛宮くんが決めることだもの。 わたしが“士郎の恋人”でも、そこまで干渉する権利はなかった」 「――っ!」 桜が口にすることを避けていることを、わたしははっきり口に乗せる。 そんな桜に、わたしは言いたかったことがある。桜のためにも、怒ってやりた かった。 そんな辛そうな顔するぐらい士郎が好きで、大切に思っているのなら、なおの コト。 ――――どうして、その気持ちを伝えようとしなかったのか、と。 士郎は見ての通りの朴念仁で、はっきり気持ちを言葉にして伝えないと気がつ くのも気がつかないニブチンなのは認める。 それでも、士郎はそうした気持ちを無碍にするような冷血漢じゃない。 桜がその気持ちを告白していたらどうなっていたか考えたくはないけど、きっ と、士郎は誠実に向き合ってくれてたと思う。 桜なら、士郎のそんなところを誰よりもわかっていたはずなのに。 多分、士郎には桜のような女性といっしょになるのが、普通じゃない魔術師の 道を行くわたしなんかといっしょになるより幸せになれるんだと思う。 でも、今は仕方ないじゃない。 わたしは士郎が好きなのだし、士郎もわたしを好きだと言ってくれている。 桜が勇気を出せば違う現在(いま)になっていたかもしれないけれど、もう過 去には戻らない。 諦めていた幸せを得て、知ってしまってからは手放すことができないんだ、わ たしは。 認めたくないけど、わたしは自分で思っていたより嫉妬深くて独占欲が強かっ たらしい。 抑えたくても、抑えきれないこの感情だけは、はっきりしている。 ――――士郎は、桜であろうと譲れない。 寒させいか、それとも悔しさのせいか、桜は身を震わせている。 俯き加減の桜の表情は、垂れ下がった髪でよくわからない。けれど、強く結ば れた口元で、推して知ることができる。 それを目の前にして、わたしは桜との間に埋まらない溝があるのだと知ってし まった……。 暗くて寒い夜の道の終着点。 衛宮邸から明かりが漏れているのを確認すると、心底ほっとした。 明かりのついた家というものが、こんなにありがたく思えるのはこんな寒い時 だったりする。 ――――誰かが待ってくれている家は、それだけで嬉しい。 父がいなくなった家は、わりと寂しくて、本当の意味での父と娘の交流も薄か ったこともあって、独りきりの家はわたしには当たり前になっていた。 それが、どんなに空しくて寂しいことだったのか、今は良くわかる。 本当なら、知らなかった方が幸せだったかもしれない。 永遠なものは、この世界にはないんだから、いつか失われてしまう時が絶対に くる。一度、それを経験しているからこそわかる。 その失うことになる怖さや空しさは、知らなかった時の比じゃないと思う。 覚悟している。 この幸福を得てしまった時から、これが失ってしまうものだと覚悟している。 こんなにも、失ってしまうことを覚悟できてしまうわたしの性格が恨めしい。 もちろん、あっさりとは手放すつもりはないけれど、それでも手からこぼれる ように失ってしまうものだと、理解している。 それでも、知らなかった方が良かったとは思えない。 知らないでいた時の方が、より不幸だと思うから。 空っぽのままなら、ずっと空っぽのまま。 一度満たされたのなら、その満たされたことはわたしの中で残る。 この先失って、また空っぽになってしまっても、わたしの中には残ったその幸 福の温かさがある。 ――――それがあれば、わたしは耐えていける。 そんな大事なわたしの家の前で、うろうろしている不審者を見つけて、プチン ときた。 追跡者が桜だったということもあって未遂に終わってしまったが、その時の破 壊衝動――振り上げた拳の行き所を見つけたとも言う。 お昼から続けての不発だったこともあって、わたしのテンションは爆発寸前で 上がり調子なのだ。 「ちょっと、そこのアンタ、何してるの!」 わたしの誰何(すいか)の声に、その不審者は、結構大きい……大きな影が、 ずんかずんかと近づいて……、と言うより走って近づいてくる!? 「遠坂っ!」 「はいっ!」 呼ばれて、思わず返事をしてしまう。 「馬鹿、遠坂遅いぞ! 今、何時だと思ってんだ? 遅くなるなら、連絡ぐらい 入れろってんだ!」 「し、士郎?」 大きな影の正体は、士郎だった。 その士郎は見るからに怒っていた。 滅多に怒ることのない士郎は、怒ると眼光が鋭くて怖かった。 わたしの肩を抱き寄せる手が、少し痛い。 ちなみにわたしの腕時計の針は、二十時ニ十分を指している。 確かに遅い時間だけど、そんなに目くじらを立てられる時間ではない。基本的 に、夜型のわたしに対しては。 だから、カチンときた。それで、馬鹿となじられるのは納得がいかない。わた しはそんなに子供じゃないんだから。 「……心配したんだぞ」 と、いろいろ反論してやりたいところだったけど、士郎のものすごく心配そう な顔を見たら、何も言えなくなってしまった。 その顔は、狡い。そんな優しい顔をされてしまっては、怒るに怒れなくなって しまうじゃない。 「……ごめん」 わたしは素直に謝る。 士郎に触れられているところが温かい。 それ以上に、心が温かい。怒られてしまったのに、なぜか嬉しくて、じーんと きてしまった。 「……こんなに、冷えてる? 遠坂、上着忘れてきたのか?」 「あー、うん。うっかりしてて」 「ほら、これ着てろ」 士郎は自分の上着を脱いでわたしに着せる。 士郎の体温とにおいが残る上着は、わたしを包んでくれる感じがして本当に温 かい。 「……なぁ、家に入らないのか?」 「や。もう少し、このまま」 家に入るように促す士郎に、わたしはすり寄って引き止める。 「いや、しかし、……寒いだろ?」 「士郎が温かいから、いい」 士郎の胸に顔を預けているからその表情は見れないけれど、面白いぐらいに士 郎の動悸は激しくなっているのは感じられる。 この寒い中帰ってきたのだから、これぐらい罰は当たんないと思う。 それに、いろいろ感傷的になってしまったんだから、もうしばらく甘えたい気 分。 「……遠坂」 「士郎。こういう時は、凛って言ったでしょ」 「……う、恥ずかしいな……凛」 「なに?」 わたし達は見つめあう。 ――――そうしないと不自然で、そうなるのは自然の流れ。 士郎の体は大きくて、寄れば頼れる大きな木のようで安心できる。 わたしは士郎の胸に手を這わせて、そのまま首に腕を回し、「はぁ」とアツい 息を漏らす。 触れ合っているところが、熱い。 どくんどくん、と脈打つ鼓動はわたしと士郎のもの。 わたしの体ぐらい簡単に持ち上げられそうな士郎の腕が、わたしの腰と頭に回 される。 それだけで、もう逃げられない。逃げようとも、思わないけど。 「凛」 「士郎」 もう一度、お互い名前を確認するように呼び合う。 近づいてくる士郎の唇と、その息遣い。 わたしと士郎は、ゆくっりと目を閉じて……。 「うんうん、ラブラブねー」 「うん。ラブラブなのー……、は!?」 甘い一時をブチ壊すのは、この家では概ね三人ぐらいいる。 「そのままキスしちゃいなさい、キスを。お姉ちゃんがじっくり見守ってあげる から」 さぁさぁ、と煽るのはそれこそ一人しかいない。 わたし達は、カクカクと固い首を曲げてその声の主の方に振り返る。 虎、が見えた。 否、玄関の前で仁王立つ藤村大河、彼氏いない歴二十○年!!! ――――しかし、この程度のドッキリに戸惑うわたし達ではない。 わたしと士郎は素早く離れて、爽やかに弓の射法とバッティング練習を始める。 すでに条件反射の域にまで高められた、所謂『何でもないですよポーズ』とい うヤツである。 さすが、わたし達。息もぴったりだ。 「――ねぇ、遠坂さん。それ、弓を持つ手が逆よ」 完璧と思われた偽装も、藤村先生の冷静なツッコミの前に打倒されてしまった。 「はっ!?」 「馬鹿、遠坂! そもそも俺が弓で、そっちはバッティングする方って決めただ ろ!?」 「何よ、士郎だって間違ってたじゃない!」 息はぴったりだったけど、致命的にわたし達はどこかで呪われていた。 「愉快よ、夫婦漫才」 わたし達の混乱をぜんぜん愉快そうじゃなく評す、藤村先生。 正直、夫婦漫才と呼ばれるのは納得いかないけれど、ゴゴゴと唸る背景を背負 う今の藤村先生に物申すには危険な感じがする。 「ああ、切嗣さん。士郎は学校のアイドル遠坂さんと、玄関の前でイチャイチャ、 夫婦漫才でイチャイチャするぐらいに立派になりましたよ〜!」 遂には、お空に向かって士郎の父親へ涙ながらに報告している。恥ずかしいの で、そんなことは報告しないで欲しい、断じて。 それにしても一体これはどうしたコトか、藤村先生は暴走しているみたいで手 がつけられない。 「……済まん、遠坂。藤ねぇ、夕飯が遅くなってご機嫌斜めなんだ」 「……なるほどね」 謎が氷解した気分。 「――藤村先生。わたしと士郎は、後でゆっくり仲良くしますから先に食事にし ましょう」 不毛なので、わたしはさりげなく爆弾を投下する。 「え!?」 「ええっ!?」 これには藤村先生だけでなく、士郎にも効果があったみたい。 「し、しし士郎、責任をとりなさい、今すぐ! ああ、切嗣さんになんて申し開 きすれば」 「……お、落ち着け、藤ねぇ!」 次の瞬間には、首を絞められている士郎。朝方もこんなようなことをしていた 気がする。 「責任なら、すでにとってもらっています。それに、士郎には大切にしてもらっ ていますから、安心してください」 わたしは飛び切りの笑顔で、更に絨毯爆撃する。 それで藤村先生は二の句が告げれず、口をパクパクさせている。 その煽りを喰って士郎も撃沈しているみたいだけど、この際だ。いつもわたし が恥ずかしい思いをしている気分でも味わえばいい。 「……むぅ、今日の遠坂さんは強いわね。そこまで開き直られちゃうと、からか いがいないというか、やってられんというか」 藤村先生は、ぶつぶつと呟いている。 「いろいろあったんです、今日は」 「そう? その心境の変化は、ライバルでもできて、昨日の友は今日の敵みたい な宣言しちゃったのかニャ?」 「……」 鋭い。概ね合っているその鋭さが怖いです、藤村先生。 「図星?」 「……ゴホン。藤村先生、食事なら先に始めていただいて結構でしたのに」 藤村先生は、ムフフと笑って訊いてくるので話題転換する。正直、これ以上は 突っ込まれたくない。 「何言ってるの? みんなが揃わないと食事は美味しくないじゃない」 藤村先生は、当たり前のことのように言う。 「――」 少し驚く。それに、嬉しかったりする。 ……でも、そうは言っても食欲に勝ててないところが藤村先生らしくて可笑し いんだけど。 「そうですね、みんなが揃わないと美味しくないですよね。 うーん、お腹空いた。士郎、そんなところでボーっとしてないで、お給仕お給 仕!」 「……お、おう」 わたしは硬直している士郎の腕をぐいぐいと引っ張る。 「――ただいまぁ!」 わたしはそう言って家に入る。 「お帰り、遠坂」 「お帰りなさい、遠坂さん」 士郎と藤村先生にそう言われて、ようやく家に帰って来られた気がした。 ――――ここは、わたしの家なんだ。 藤村先生は、ご機嫌を回復させて……というより待ちきれずに、居間に行って しまった。 「……そう言えば、セイバーは?」 いつもなら出迎えてくれるのに姿が見えない。 「セイバーなら、道場にいると思う。ずいぶん待たせてしまったなぁ。 ……呼んでくるから、遠坂は居間に行って藤ねぇの監視を頼む」 この場合、どちらが危険か疑問である。 「……いいわ、わたしが呼んでくるから。士郎こそ、食事の準備よろしく」 「いいのか? 危ないぞ」 士郎、その発言は大いに問題だ。 「……平気よ、多分」 お腹を空かしたセイバーを呼んでくるのには少し抵抗があるけど、夕飯を遅く した原因がわたしならこのくらいの責任はとらなくてはならないだろう。 ……それに、切り札のケーキもある。 「セイバー?」 わたしは道場の入り口からセイバーに呼びかける。 セイバーは背を伸ばし、ただ静かに正座していた。 それだけで、道場はピンと張り詰めた空気に支配されている。 ――――それは見惚れるくらいに、澄んだ美しさ。 セイバーは白のワンピースから、わたしのあげた制服っぽい服に着替えていて いた。 確かに、あの服はセイバーにはよく似合っていた。そのシンプルさは、彼女の 美しさをそのまま引き立たせているみたい。 そのセイバーは、息を長く静かに吐き出した後、ゆっくりと目を開けた。 「……凛、お帰りなさい」 セイバーはわたしがいるのを認め、音もなく立ち上がる。その動作は流れるよ うに淀みなく、隙がない。 忘れそうになるけれど、セイバーは“戦う者”で、その極みにいるんだと気づ かされる一瞬だった。 「凛?」 セイバーに呼ばれて、我に返る。 士郎じゃあるまいし、セイバーに見惚れるのはどうかと思う。 「ただいま、セイバー」 「はい、お帰りなさい」 セイバーは穏やかな微笑を浮かべる。それが、嵐の前の静けさでなければいい、 と思う。 「……セイバー、ごめんね。怒ってない?」 「?」 わたしの恐る恐るした問いかけに、セイバーは小首を傾げる。 「私は至って平静ですが。あの、シロウが何か言いましたか?」 不機嫌になっていないのは幸いだけど、それに少し違和感を覚えた。 「ううん、別に。怒ってないなら、いいの。それよりセイバー、食事よ」 「む。急ぎましょう、凛」 違和感――元気がないように見えたけど、それは杞憂だったみたい。 「では、参りましょう」 ……わたしの視界から突如として消えた瞬間、セイバーはわたしの隣に立って いた。 「……素早いわね。見えなかったわ」 「凛、見くびらないで欲しい。私は、シロウとあなたのためならばいつでも全力 で戦えます」 えへん、とセイバーは胸を張る。 士郎が先なのね、とか。そこでも全力を出すのね、とか。……敢えて、言わな いでおく。 そこがセイバーらしくて、頼もしかったり、可愛かったりするんだし。 さて、用件を済まそう。 セイバーに、用があったからこうして来たんだし。 「セイバー、食事が済んだら部屋に来て。話したいことがあるの」 「……はい」 セイバーはわたしの表情から察して、真剣な面持ちで頷く。 「教会での用件、ですね?」 「そうよ、貴女の力を借りるかもしれないわ。本当に、厄介なコトになりそう」 やれやれ、とわたしは首を振る。 「苦労しますね、凛――」 セイバーは苦笑する。 「――でも、笑っていますね。何だか……楽しそうでもありますが」 そう。セイバーに指摘される通り、わたしは今、不敵に笑っている。 ――――この程度の苦労は、わたしにとって何でもない。 この程度の苦労に負けてたら、この先やってなんかいられない。 士郎とつきあっていくと決めた以上、苦労するのは目に見えていたんだから。 これは、その内の一つ。 士郎が守りたいものは、わたしも守りたいものなのだ。そのための苦労なら、 わたしは逃げるワケにはいかない。 「教えてあげるわ。楽しく過ごすことの秘訣はね、苦労から目をそらさないこと よ。 心配事があったら、心の底から楽しめないでしょ?」 わたしは、片目を瞑ってセイバーに同意を求める。 「ああ、あなたは本当に強い」 セイバーからの賛辞は、アイツがわたしを認めてくれた響きに似ていて、何よ りわたしを力づけてくれた。 次頁へ
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